江戸時代初期、徳川幕府の体制が磐石へと向かう激動の時代に、一人の大名が歴史の舞台に鮮烈な光芒を放ち、そして忽然と姿を消した。その名は竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)。豊後国府内藩(現在の大分県大分市)の藩主でありながら、幕府の最重要拠点である長崎の奉行に抜擢され、絶大な権勢を振るった人物である。彼の名は、苛烈を極めたキリシタン弾圧と、前代未聞の拷問法の創案者として、また、その権力を濫用した密貿易の罪により、一族もろとも断罪された悲劇の主人公として、歴史に刻まれている。
しかし、竹中重義を単なる「残忍な汚職役人」という一面的な評価で断じることは、彼が生きた時代の複雑な力学を見誤らせる。本報告書は、こうした単純化された人物像から彼を解き放ち、二代将軍徳川秀忠から三代将軍家光への権力移行と、後に「鎖国」と呼ばれる体制が確立されていく日本の近世史における重大な転換点に生きた、極めて多面的で複雑な人物として再評価することを目的とする。彼の栄光と破滅の軌跡を丹念に追うことは、寛永期という時代の政治的・経済的・社会的なダイナミズムを浮き彫りにすることに他ならない。
彼の生涯は、数多の謎に満ちている。なぜ、二万石の外様大名に過ぎなかった彼が、幕府の最重要ポストである長崎奉行に異例の抜擢を受けたのか。彼の苛烈なまでのキリシタン弾圧を突き動かした動機とは、単なる幕府への忠誠心だったのか、それとも別の思惑があったのか。そして、絶対的な権力者として長崎に君臨したはずの彼が、なぜかくも唐突に失脚し、一族断絶という最も過酷な運命を辿らなければならなかったのか。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、これらの問いに対して、多角的な視点から包括的な回答を試みるものである。
竹中重義という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「竹中」という名の重みと、その血統が持つ政治的意味を解き明かす必要がある。彼の栄達と悲劇は、その出自と無関係ではあり得なかった。
竹中重義の正確な生年は不明であるが、その血筋は美濃国の名門に連なる 1 。父は豊後府内藩の初代藩主であった竹中伊豆守重利(たけなかいずのかみしげとし)。母は、戦国時代の美濃で大きな勢力を誇った竹中遠江守重元(たけなかとおとうみのかみしげもと)の娘である 1 。この父と母の血縁関係により、重義は、豊臣秀吉の天下統一を支えた伝説的な軍師、竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の甥という、極めて重要な立場にあった 5 。
この「半兵衛の甥」という出自は、重義の生涯を通じて、計り知れない無形の資産となった。竹中家は、単なる地方の豪族ではない。半兵衛重治が築き上げた知略と忠誠のイメージは、一族全体に輝かしい威光を与えていた。さらに、父の重利もまた、半兵衛の死後に豊臣秀吉に見出され、文禄・慶長の役で軍目付を務めるなど、豊臣政権下で着実に実績を重ねた 4 。関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属しながらも、黒田如水の説得に応じて東軍に寝返り、戦後、徳川家康からその功を認められて豊後高田一万三千石の大名に取り立てられ、後に府内二万石へと加増転封された実力者であった 4 。
このように、竹中家が豊臣政権から徳川政権への移行期を巧みに乗り切り、大名としての地位を確立した背景には、一族が培ってきた幕府への忠誠と実績があった。この「政治的資本」こそが、重義が後に幕政の中枢にアクセスし、異例の抜擢を受けるための強固な基盤となったのである。彼の能力もさることながら、その輝かしい出自が彼の運命を大きく左右したことは、疑いようのない事実であった。
元和元年(1615年)、父・重利の死去に伴い、重義は豊後府内藩二万石の二代目藩主として家督を相続した 2 。藩主としての重義は、父の代から続く府内城の増改築や城下町の整備事業を引き継ぎ、領国経営にあたったとされている 11 。彼の藩主としての治世に関する具体的な記録は乏しいが、その後の彼のキャリアを決定づける重大な任務が、この府内藩主時代に与えられた。
元和9年(1623年)、将軍・徳川秀忠の直々の命令により、不行跡を理由に改易・配流となった越前北庄藩主・松平忠直の身柄を、府内にて預かることになったのである 2 。忠直は、初代将軍・徳川家康の孫であり、秀忠の甥、そして三代将軍・家光の従兄弟にあたる、徳川宗家にとって極めて近しい血縁者であった 14 。そのような重要人物の監視という任務は、単なる配流者の世話とは全く次元の異なる、高度な政治的配慮と忠誠心が求められるものであった。
この任務は、幕府が重義に対して寄せる信頼の厚さを物語ると同時に、彼の能力と忠誠心を試す試金石でもあった。外様大名である重義に、将軍家の血を引く「国事犯」ともいえる大物の監視を委ねたという事実自体が、秀忠が彼をいかに「腹心」に近い存在と見なしていたかを示している。重義がこの極めてデリケートな任務を大きな問題なく遂行したことは、幕閣における彼の評価を決定的に高めたと考えられる。小説『黄金旅風』などでは、この忠直監視の功績が長崎奉行就任に繋がったと描かれているが 15 、この見方は歴史的文脈において極めて強い説得力を持つ。この大役の成功が、彼を次なる栄光の舞台、長崎へと導く重要な布石となったのである。
項目 |
詳細 |
典拠 |
氏名 |
竹中 重義(たけなか しげよし) |
1 |
別名 |
重興、重次、采女正(うねめのしょう) |
1 |
生没年 |
不詳 – 寛永11年2月22日(1634年3月21日) |
1 |
戒名 |
春岩院殿以松宗和大居士 |
2 |
墓所 |
浄安寺(大分県大分市) |
2 |
官位 |
従五位下采女正 |
2 |
藩 |
豊後府内藩(二万石)二代藩主 |
12 |
役職 |
長崎奉行 |
2 |
主君 |
徳川秀忠、徳川家光 |
2 |
父母 |
父:竹中重利、母:竹中重元の娘 |
2 |
著名な親族 |
伯父:竹中半兵衛重治 |
6 |
妻 |
松平康重の娘 |
2 |
子 |
源三郎、娘(西尾忠照正室)、娘(秋之坊安順正室) |
2 |
竹中重義の生涯における最大の転機は、寛永6年(1629年)の長崎奉行就任である。この異例の人事は、当時の長崎が置かれた特殊な状況と、徳川幕府の国家戦略が深く関わっていた。
17世紀初頭の長崎は、日本の他のどの都市とも異なる、特異な貌を持っていた。徳川幕府によって唯一、西欧との交易を公認された港として、ポルトガル、オランダ、そして中国の商船が絶えず来航し、莫大な富が渦巻く国際貿易都市であった 17 。主要な輸入品であった中国産の生糸は日本の経済を潤し、その対価として日本の銀、後には銅が大量に海外へ流出する、世界経済と直結した一大拠点だったのである 19 。
しかし、その繁栄の光の裏には、常に濃い影が付きまとっていた。長崎は、幕府が国策として進めるキリシタン禁教政策の最前線でもあった。海外からの宣教師の潜入を防ぎ、市中に潜伏する信徒を摘発することは、長崎奉行に課せられた最重要任務の一つであり、街は常に密告と摘発の緊張に満ちていた 17 。
さらに、この都市の統治は一筋縄ではいかなかった。長崎代官であった末次平蔵に代表される朱印船貿易家や、貿易によって富を築いた豪商たちが独自の利権網を張り巡らせ、大きな影響力を持っていた 23 。彼らの利害は、時に幕府の統制と激しく衝突し、長崎は富と危険、そして様々な人々の思惑が複雑に交錯する、極めて統治の難しい場所となっていた。この地を治める長崎奉行には、経済、外交、司法、宗教、軍事という多岐にわたる分野で、絶大な権限が与えられていたのである。
分野 |
具体的な権限・役割 |
典拠 |
貿易・経済 |
貿易の監督、輸入品の価格統制、関税徴収、幕府への上納金管理 |
17 |
外交 |
オランダ・ポルトガル商館との交渉、海外情報の収集(オランダ風説書等) |
17 |
司法・警察 |
長崎市中の行政・司法権、刑事裁判の執行(追放刑までは独断裁許可能) |
31 |
宗教・治安 |
キリシタンの摘発、拷問・処刑の指揮、宗門改・踏み絵の実施 |
31 |
軍事・監察 |
異国船の警備、有事における九州諸大名への指揮・監察権 |
17 |
寛永6年(1629年)7月27日、竹中重義は水野守信の後任として、この複雑怪奇な都市の支配者、長崎奉行に就任する 2 。この人事を強力に推進したのは、当時、将軍秀忠の下で老中として幕政を牛耳っていた土井利勝であった 2 。利勝は、確立途上にあった幕府の基盤を盤石にするため、全国の重要拠点に最も信頼できる人材を配置するという明確な政治方針を持っていた 40 。
重義の奉行就任は、あらゆる点で「異例」であった。長崎奉行は、通常、禄高3,000石程度の旗本が任じられるのが慣例であったが、重義は二万石の領地を持つ外様大名である 2 。幕末に至るまでの長崎奉行の歴史を通じても、万石クラスの大名がこの職に就いたのは、重義を含めてわずか2名しかいない 2 。
この異例の人事は、単なる個人の抜擢以上の、幕府の明確な戦略的意図を物語っている。1620年代後半、幕府は禁教政策を一層強化し、貿易統制を厳格化する方向に舵を切っていた 44 。もはや長崎の統治は、一地方都市の行政レベルを遥かに超え、国家の安全保障と経済の根幹を揺るがしかねない重要課題となっていた。このような状況下で、一筋縄ではいかない九州の諸大名や、オランダ・ポルトガルといった海外勢力と対等以上に渡り合い、幕府の意思を断固として貫徹するには、従来の小身の旗本では力不足であった。将軍の威光を直接的な背景に持つ、大名クラスの権威と力量が必要不可欠と判断されたのである。
つまり、重義の任命は、長崎奉行という役職そのものを「大名格」へと格上げし、幕府による直接的かつ強力な支配を長崎に及ぼすための戦略的決定であった。松平忠直の監視という大役を無事に果たし、秀忠の厚い信任を得ていた重義は、この秀忠・土井利勝ラインが描く新たな国家戦略を遂行するための、まさに「切り札」として長崎に送り込まれたのである。
長崎奉行に就任した竹中重義は、幕府、特に彼を抜擢した将軍秀忠の期待に応えるべく、その辣腕を振るい始める。彼が最も精力的に取り組んだのが、キリシタンの根絶であった。その手法は、前任者たちを遥かに凌駕する、徹底的かつ残忍なものであった。
重義の名は、キリシタン弾圧の歴史において、最も過酷な拷問と分かちがたく結びついている 2 。彼の時代、棄教を強要するために、数々の残忍な拷問が考案され、実行に移された。その中でも特に悪名高いのが「穴吊り」である 34 。これは、汚物を入れた穴の中に信者を逆さに吊るすというもので、単に苦痛を与えるだけではない、計算され尽くした陰湿さがあった。頭部に血が鬱血して早期に死に至るのを防ぐため、こめかみに小さな穴を開けて血を抜き、意識を保ったまま長時間にわたって耐え難い苦痛を与え続ける。それでいて、棄教の意思表示は容易にできるようになっていた 47 。
また、重義は、隣接する肥前島原藩の藩主・松倉重政の勧めを受け、雲仙地獄の煮えたぎる熱湯を拷問に利用することを始めた 2 。長崎の牢に捕らえていたキリシタンを、わざわざ小浜経由で雲仙まで連行し、地獄谷の熱泉のほとりで棄教を迫ったのである 48 。拒否した者には、柄杓で熱湯を浴びせかけるという凄惨な拷問が加えられ、多くの信者が命を落とした 34 。
これらの拷問は、単なる感情的な暴力の発露とは一線を画す。そこには、キリシタン共同体を根絶やしにするための「合理的」かつ冷徹な目的意識が透けて見える。信者が信仰のために命を捧げる「殉教」は、かえって残された者たちの信仰心を強固にし、共同体の結束を高めてしまう危険性があった。重義が用いた、死なせずに苦痛を最大化し、精神的に追い詰めて棄教へと誘導する手法は、この殉教による結束を防ぎ、キリシタン共同体を内側から崩壊させることを狙った、計算された心理戦であったと言える。彼の冷徹なまでの職務遂行は、彼が幕府、とりわけ秀忠の期待に全身全霊で応えようとする強い意志の現れであり、その「成果」こそが、彼の権勢を支える最大の基盤となっていたのである。
重義の弾圧は、肉体的な拷問だけに留まらなかった。彼は、信仰を検知し、共同体を管理するためのシステムを構築することにも注力した。その象徴が「踏み絵」である。
踏み絵自体は、重義の前任者である水野守信の時代に始まったとされるが 26 、重義はこれを長崎の住民全体に適用し、制度として徹底させた。寛永8年(1631年)には、雲仙の地で初めて踏み絵が行われたという記録も残っている 2 。これは、キリスト教の聖像を踏ませるという行為を通じて、信者の心に深い葛藤を生じさせ、信仰を内面から破壊しようとするものであった。
さらに重義は、市中のキリシタンの名簿を詳細に作成して将軍家光に提出するなど、住民管理を強化し、組織的な摘発と棄教の強要を行った 35 。一度棄教した「転びキリシタン」に対しても、監視の手を緩めることはなかった。彼らに旦那寺での定期的な説教聴聞や、朝夕二度の墓参を義務付けるなど、再改宗を防ぎ、仏教徒としての生活を強制するための徹底した監視体制を敷いたのである 35 。
こうした物理的・心理的・社会的な弾圧の組み合わせにより、かつて「日本のローマ」とまで呼ばれた長崎のキリシタン共同体は、壊滅的な打撃を受けた。多くの人々が棄教を余儀なくされ、その信仰は潜伏を強いられることになった 35 。重義は、幕府が掲げた「キリシタン根絶」という使命を、恐るべき効率性と冷徹さで遂行したのである。
長崎奉行として、キリシタン弾圧で幕府の期待に応え、絶頂にあった竹中重義。しかし、その権勢は盤石ではなかった。彼の運命を暗転させたのは、彼の最大の庇護者の死と、それに伴う幕府中枢の劇的な政治変動であった。
寛永9年(1632年)1月24日、大御所・徳川秀忠が死去した 2 。この出来事は、江戸幕府の政治に大きな転換をもたらした。これまで大御所として実権を握っていた秀忠に代わり、三代将軍・徳川家光が名実ともに幕府の最高権力者となったのである。
家光の政治思想は、父・秀忠のそれとは大きく異なっていた。秀忠が諸大名をある意味で「同僚」として遇する協調的な姿勢を見せたのに対し、家光は自らを「生まれながらの将軍」であると宣言し、大名、特に豊臣恩顧の外様大名を厳しく統制し、将軍の絶対的権威を確立しようとする「武断政治」を志向した 55 。事実、家光の治世初期には、福島正則や加藤忠広といった大大名が、些細な理由を咎められて次々と改易されており、幕府権力の強化が容赦なく進められていた 56 。
この政治的背景の激変は、重義の立場を根本から揺るがした。秀忠と老中・土井利勝によって異例の抜擢を受け、長崎で強大な権限を握っていた重義は、家光の新政権から見れば、まさしく「秀忠体制の象徴」であり、その存在自体が煙たいものであった可能性が高い。家光が自らの権力基盤を盤石にする過程において、重義のような旧体制の有力者を排除し、自らの息のかかった人物に差し替えることは、極めて合理的な政治行動であった。重義が長年にわたって行ってきた職務上の不正は、この政治的粛清を断行するための、絶好の口実として利用されることになる。彼の失脚は、単なる個人の汚職事件ではなく、秀忠から家光への政権移行という、より大きな政治的文脈の中で捉える必要がある。
重義が失脚する直接的な原因となったのは、密貿易をはじめとする職務上の不正であった。彼は、長崎奉行という立場を悪用し、幕府にしか発行権のない朱印状を勝手に発行して東南アジアとの私的な貿易に関与し、莫大な利益を上げていた 2 。この事実は、当時平戸に商館を置いていたオランダ商館長の手紙にも記録として残されている 2 。
この不正がどのようにして幕府中枢に露見したのか、その経緯については、史料によって二つの異なる物語が伝えられている。
第一の説は、幕府の公式記録に近い『通航一覧』などが伝える、堺の商人・平野屋三郎右衛門による告発である 2 。この説によれば、三郎右衛門は重義に美しい愛妾を奪われた上、長崎から追放されるという理不尽な仕打ちを受けた。その恨みを晴らすため、乞食同然の姿で江戸に流れ着き、町奉行所に重義の悪行の数々を訴え出たという。その訴状には、交易貨物の着服や公金の不正、不正蓄財などが詳細に書き連ねられていたとされる。
第二の説は、オランダの『バタヴィヤ城日誌』に見られる、長崎代官・末次平蔵らによる告発である 2 。こちらでは、長崎の現地支配を担っていた代官の平蔵と数名の町民が、重義による唐人(中国人商人)の貨物着服や、国禁である海外貿易への個人的な関与を幕府に訴え出たことが、事件の発端であったとされている。
これら二つの説は、必ずしも矛盾するものとは言えない。むしろ、事件の表と裏、すなわち「公的な物語」と「政治的な実態」をそれぞれ示している可能性が高い。平野屋の物語は、好色で強欲な権力者が私怨によって破滅するという、勧善懲悪の分かりやすい筋書きであり、重義の処罰を正当化するための「公式見解」として流布されたものかもしれない。一方で、事件の核心には、末次平蔵との政治的・経済的な権力闘争があったと考えられる。長崎の貿易利権を長年掌握してきた代官・平蔵にとって、奉行でありながら自らも貿易に手を染め、その利権を脅かす重義は、排除すべき競争相手であった。秀忠の死という政権交代の好機を捉えた平蔵が、家光の新政権に重義の不正を告発し、それが政権の粛清の意図と見事に合致した。これこそが、事件の真相により近いシナリオであろう。
重義に対する取り調べが進む中、彼の運命を決定づける驚くべき「発見」があった。彼の密貿易や職権濫用の罪は重大であったが、それでも当初は遠島(流罪)が相当と見られていたという 59 。
ところが、闕所(財産没収)となった彼の屋敷を検分したところ、おびただしい金銀財宝と共に、徳川家に祟りをなす「妖刀」として忌避されていた刀工「村正」の作になる刀・脇差が、実に24振りも発見されたのである 59 。
この事実は、重義の罪状を単なる汚職から、国家に対する反逆へと一変させた。『通航一覧』に引用された『寛明日記』という史料は、この発見を極めて深刻に受け止めている。その記述によれば、「そもそも村正は御当家(徳川家)三代にわたって不吉な例がある刀であり、陪臣に至るまで所持を固く禁じられている。それを重義が多数所持していたのは、徳川の世が終われば、今は廃れている上作の村正が高値で売れるだろうと考えたからに違いない。これは極悪非道であり、徳川家への不忠の証である」と断じている 62 。そして、この村正の所持がなければ遠島で済んだであろうところ、悪事が深いゆえに罪一等を加され、切腹を命じられるに至った、と結論づけている。
しかし、この村正所持が真に謀反の証拠であったかには、大きな疑問符が付く。村正は、その優れた切れ味から、徳川家康の出身地である三河の武士たちに広く愛用されており、徳川家臣団の中にも所持者は決して少なくなかった 65 。寛永期においても、村正の刀が市場で普通に取引されていた記録もある 62 。
したがって、この「村正の発見」は、家光政権が重義を単なる汚職役人としてではなく、幕府への反逆者として断罪し、その一族を根絶やしにすることを社会的に正当化するための、極めて効果的な政治的プロパガンダであった可能性が高い。「妖刀村正」という、当時すでに流布し始めていた強力な物語性を巧みに利用し、彼の罪状を「私利私欲のための汚職」から「天下を覆そうとする大逆罪」へと劇的に転換させたのである。これは、家光政権が見せた恐怖支配と情報操作の一端を示す、象徴的な逸話と言えよう。
要因 / 告発内容 |
典拠史料 |
告発者 / 主体 |
分析・考察 |
愛妾強奪・私怨 |
『通航一覧』など |
平野屋三郎右衛門 |
勧善懲悪の物語として分かりやすく、処罰を正当化するための公的な「表向き」の理由として流布された可能性が高い。 |
密貿易・職権濫用 |
『バタヴィヤ城日誌』など |
末次平蔵、長崎町民 |
長崎における貿易利権を巡る、奉行・重義と代官・平蔵との現実的な権力闘争が背景にある。事件の直接的な引き金となった可能性が高い。 |
妖刀村正の所持 |
『寛明日記』(『通航一覧』所収) |
幕府(検分役人) |
罪状を単なる汚職から「徳川家への不忠・謀反」へと格上げし、切腹・家門断絶という最も重い処分を科すための決定的な口実として利用された。 |
政権交代に伴う粛清 |
(状況証拠) |
徳川家光政権 |
秀忠体制の有力者であった重義を排除し、家光の権力基盤を固めるという政治的意図が、事件の根本的な背景にあったと考えられる。 |
幾重にも張り巡らされた告発と、政治的な思惑の中で、竹中重義の運命は決した。彼を待ち受けていたのは、武士として最も不名誉な形での死と、一族の完全な断絶であった。
寛永10年(1633年)2月、重義は長崎奉行の職を罷免され、切腹を命じられた 2 。そして翌年の寛永11年(1634年)2月22日、江戸・浅草の海禅寺において、嫡子である源三郎と共に、その生涯を自ら絶った 2 。
この処刑には、家光政権の冷徹な意思を示す、ある演出が施されていた。切腹の際にその検分を行う検死役を務めたのが、皮肉にも重義の前任の長崎奉行であり、当時は幕府の監察官である大目付の要職にあった水野守信だったのである 2 。
これは単なる偶然の人事ではない。前任者に後任者の非業の最期を見届けさせるというこの措置は、幕府の役人社会全体に対し、いかなる有力者であろうと不正を働けば容赦はしないという、家光政権の揺るぎない意志を見せつけるための、極めて効果的な政治的儀式であった。水野守信自身もまた、自らがかつて務めた役職の後任者が辿った末路を目の当たりにすることで、新政権への絶対的な忠誠を改めて誓わされたに違いない。この一点からも、家光政権の周到かつ非情な統治術が垣間見える。
重義と嫡子・源三郎の死により、関ヶ原の戦功以来続いた豊後府内藩主・竹中家は、改易・廃絶となった 2 。武家社会において、家名が断絶することは死よりも重い罰であった。
そして、その悲劇は残された一族にも及んだ。重義の近親者たちは、罪人の配流地として知られる隠岐国へと流罪に処されたのである 2 。しかし、彼らが隠岐でどのような生活を送り、その後どうなったのかを具体的に伝える直接的な記録は、今回調査した史料群の中から発見することはできなかった 70 。一度改易・流罪となった大名家の一族が、公式な歴史の記録からその姿を消していくのは、この時代の典型的な事例であった。
なお、この事件において、竹中半兵衛重治の直系の子孫であり、美濃岩手五千石を領していた旗本・竹中家は連座を免れ、その家名は幕末まで存続している 8 。これは、江戸幕府の連座制が、罪を犯した当人の家(本家)と、分家とを明確に区別して適用されていたことを示す好例と言えるだろう。重義の一族は歴史の闇に消えたが、「竹中」の名跡そのものは、別の家系によって受け継がれていったのである。
竹中重義の生涯は、名家の威光と将軍秀忠の個人的な信頼を背景に権勢の頂点に上り詰めながらも、政権交代という時代の大きな転換点でその価値観と権力基盤が通用しなくなり、破滅へと追いやられた一人の大名の悲劇として総括できる。
彼は、幕府の禁教政策を冷徹かつ効率的に実行した「忠実な」官僚であったと同時に、その強大な権力を濫用して私腹を肥やした「腐敗した」権力者でもあった。この二面性は、彼の個人的な資質のみに起因するものではなく、長崎奉行という役職が必然的に内包する、国家の重要政策を担うという公的使命と、莫大な富に触れるという私的誘惑の構造的な問題から生じたとも言えるだろう。
歴史的に見れば、竹中重義の失脚と断絶は、単なる一個人の悲劇に留まらない。それは、三代将軍・家光が推し進めた大名統制と中央集権化の象徴的な出来事であった。重義の排除と、彼の事件を契機として長崎奉行が二人制となり相互監視体制が強化されたこと 33 は、幕府が個人の力量や忠誠心に依存する属人的な統治から、制度による組織的な統治へと移行していく過程を示す、重要な一里塚であった。
竹中重義の栄光と失墜の物語は、寛永という時代が、戦国の遺風を完全に断ち切り、盤石な徳川幕藩体制を築き上げるための、過酷な「産みの苦しみ」の時代であったことを我々に生々しく物語っている。彼は、その時代の大きな奔流に乗り、そして最後には呑み込まれていったのである。