結城氏朝は室町中期の武将。鎌倉公方遺児を擁立し幕府に反旗を翻す。結城合戦で敗れるも、その忠義と抵抗は後世に語り継がれ、一族再興の礎となった。
室町時代中期、関東の地に咲き、そして壮絶に散った一人の武将がいた。下総結城氏第11代当主、結城氏朝。彼の名は、多くの場合、永享の乱後に主君・鎌倉公方足利持氏の遺児を奉じて幕府に反旗を翻し、敗れ去った「反逆者」あるいは「悲劇の敗将」として語られる 1 。しかし、その簡潔な評伝の裏には、室町幕府という中央権力と、鎌倉以来の独自の気風を誇る関東武士社会との間に生じた、深刻な亀裂と相克の歴史が凝縮されている。
本報告書は、単に「敗者」として歴史の片隅に追いやられがちな結城氏朝の生涯を、彼が生きた時代の複雑な政治的文脈の中に再配置し、その行動原理、決断の真意、そして歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。彼はなぜ、勝ち目の薄いとさえ思われる戦いにその身を投じたのか。その行動は、単なる主君への「忠義」という情念のみに突き動かされたものだったのか。それとも、失われゆく関東の自立性を守ろうとする、より大きな政治的意図の表れだったのか。
これらの問いを道標に、本報告は結城氏朝という一人の武将の実像に迫る。彼の敗北が、皮肉にも一族の存続と、関東における次なる大乱の序曲となった歴史の連環を読み解き、その生涯が持つ重層的な意味を明らかにしていく。
結城氏朝の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「結城氏」という家の歴史と、彼が生きた時代の関東の特殊な政治状況を把握する必要がある。
下総結城氏は、平安時代に平将門の乱を鎮圧したことで知られる鎮守府将軍・藤原秀郷を遠祖とする 3 。その末裔である下野国の名族・小山氏の初代、小山政光の三男・朝光が、治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵に従って功を挙げ、下総国結城の地を与えられたことに始まる 3 。これにより結城氏は、鎌倉幕府の有力御家人として確固たる地位を築いた。
本来、結城氏は小山氏の分家という位置づけであったが、南北朝時代から室町時代初期にかけて、両家の力関係は劇的に変化する。下総結城氏が一貫して足利氏(北朝)を支持し勢力を維持したのに対し、本家筋の小山氏は「小山義政の乱」(1380年-1382年)で鎌倉府に反抗して敗れ、大きく衰退した 3 。この乱の後、鎌倉府の命により、氏朝の祖父にあたる結城基光の次男・泰朝が小山氏の名跡を継承した 3 。これは事実上、分家であった結城氏が本家・小山氏をその影響下に置くという「下剋上」であり、結城氏の権勢を飛躍的に高める契機となった。
結城氏朝は、応永9年(1402年)、この小山氏を継いだ小山泰朝の次男として生を受けた 1 。そして、実子に恵まれなかった伯父の下総結城氏10代当主・結城満広の養嗣子(猶子)となり、結城宗家の家督を継承したのである 7 。
この出自は、氏朝の生涯を考察する上で極めて重要な意味を持つ。彼の祖父・基光の時代、結城氏は宇都宮氏や佐竹氏などと並び「関東八屋形」という特別な家格を許され、鎌倉府の政庁には「結城の間」と呼ばれる一族専用の部屋が設けられるほどの栄誉を誇っていた 6 。氏朝は、この結城・小山両氏を束ねる連合体の頂点に立ち、一族の威光が最高潮に達した時代の当主であった。彼にとって、後に挙兵する際の動機となった主君・足利持氏への忠義は無論のこと、祖父たちが築き上げた「関東随一の名門」としての地位と誇りを、中央(幕府)やその代弁者である上杉氏の介入から守り抜くことは、自らの存在意義そのものであったと考えられる。彼の最後の戦いは、個人的な忠誠心に加え、一族の栄光を一身に背負った当主としての、強い使命感に根差していたのである。
氏朝が生きた15世紀前半の関東は、二つの権力が鋭く対立する緊張状態にあった。一つは京都に君臨する室町幕府(足利将軍家)、もう一つは関東8カ国と伊豆・甲斐を統治するために鎌倉に置かれた出先機関「鎌倉府」である 10 。
鎌倉府の長官は「鎌倉公方」と呼ばれ、初代将軍・足利尊氏の子・基氏以来、足利氏の一族が世襲した。しかし、広大な領域と強大な軍事力を有する鎌倉公方は、次第に幕府から半ば独立した勢力となり、両者の間には潜在的な対立関係が常に存在した 10 。この鎌倉公方を補佐し、同時に関東における幕府の監視役でもあったのが、代々上杉氏が世襲した「関東管領」である。幕府は管領を通じて公方を牽制しようとし、公方は管領を抑えて関東における自らの権力を絶対的なものにしようとした。この結果、関東の武士社会は、鎌倉公方を支持する勢力と、関東管領・幕府を支持する勢力とに分裂していく素地が形成された 6 。
この対立構造を決定的なものにしたのが、氏朝の主君である第4代鎌倉公方・足利持氏と、第6代将軍・足利義教の存在であった。持氏は歴代公方の中でも特に幕府への対抗意識が強く、一方の義教は「万人恐怖」と恐れられたほどの専制的な将軍であり、鎌倉府の独立志向を断じて許さなかった 11 。そして、両者の間にあって幕府との協調を重視した関東管領・上杉憲実と持氏の関係は険悪化の一途をたどる 2 。この「持氏 対 義教・憲実」という対立軸こそが、関東を揺るがす大乱、すなわち永享の乱と結城合戦の直接的な背景となるのである。
関東に渦巻く不穏な空気は、やがて氏朝自身をも巻き込み、彼の運命を大きく左右していく。
氏朝は応永23年(1416年)頃に家督を継承し、祖父・基光が没した永享2年(1430年)以降、当主としての活動を本格化させた 2 。主君である鎌倉公方・足利持氏から「氏」の一字(偏諱)を与えられ、「氏朝」と名乗ったことは、彼が公方の信頼厚い重臣であったことを示している 8 。
しかし、彼の初期の動向については、一つの謎が存在する。応永29年(1422年)に常陸国で発生した「小栗満重の乱」における氏朝の立場について、史料に矛盾が見られるのである。ある記録では、氏朝はこの乱の首謀者である小栗満重に加担したため、関東管領・上杉憲実の討伐を受け、以後、憲実と対立関係になったとされている 3 。これは、後の永享の乱で持氏方として戦う彼の立場と整合性が取れる。ところが、結城市に現存する古文書には、鎌倉公方が氏朝の兄である小山満泰に対し、小栗満重の追討を命じたという、全く逆の内容が記されている 12 。
この一見した矛盾は、単なる記録の誤りではなく、当時の関東における氏朝の苦しい立場を反映していると解釈できる。小栗氏は、結城氏と同じく反上杉の気風を持つ豪族であった。氏朝は心情的に小栗氏に同調していた可能性が高い。しかし、主君である足利持氏は、この時点ではまだ上杉氏との全面対決を望まず、関東の秩序維持を優先して小栗氏の討伐を決定した。主命は絶対であり、氏朝(および兄の小山満泰)は、本意ならずも主君の命令に従い、討伐軍に加わらざるを得なかったのではないか。
この「本来味方とすべき相手を、宿敵である上杉氏と共に討つ」という屈辱的な経験は、氏朝の中に上杉氏が主導する関東の秩序に対する強い不満と反感を植え付けたに違いない。この時の苦渋の選択こそが、彼の反骨精神をより強固なものにし、後の永享の乱において、迷うことなく持氏に与する決定的な動機の一つになったと推察される。
永享10年(1438年)、ついに足利持氏と上杉憲実の対立は武力衝突へと発展した(永享の乱)。将軍・足利義教はこれを好機と捉え、憲実を全面的に支援し、幕府軍を関東へ派遣した 11 。
氏朝は、これまでの経緯から迷わず持氏方として参戦する 2 。しかし、幕府の大軍の前に持氏方はなすすべもなく敗北。持氏は鎌倉で出家し恭順の意を示したが、将軍・義教はこれを許さず、永享11年(1439年)2月、持氏は鎌倉の永安寺で自害に追い込まれた 11 。
主君の非業の死、そして幕府と上杉氏による一方的な関東支配体制の確立を目の当たりにした氏朝は、関東武士の誇りと、亡き主君への忠義を胸に、幕府への徹底抗戦を決意する。彼の胸中には、もはや降伏という選択肢はなかった。
主君・持氏の死から一年、関東の地は再び戦火に包まれる。その中心にいたのが結城氏朝であった。
永享の乱を生き延びた持氏の二人の遺児、春王丸と安王丸が、持氏の旧臣らに擁立されて常陸国で挙兵すると、氏朝は永享12年(1440年)3月、彼らを本拠地である下総・結城城に迎え入れた 1 。これは、室町幕府に対する公然たる反旗であった。
氏朝の挙兵は、複数の動機が複雑に絡み合ったものであった。第一に、非業の死を遂げた主君・持氏への忠義と、その遺児を守るという武士としての道義。第二に、上杉氏が実権を握る関東の新たな秩序への反発と、幕府の直接介入への抵抗 14 。そして第三に、関東各地に燻る反幕府・反上杉勢力を結集させるための、政治的盟主としての役割である。氏朝は、持氏の遺児という「錦の御旗」を掲げることで、この戦いを結城氏の私闘ではなく、鎌倉府再興を目指す公戦としての大義名分を確立しようとした 16 。
この結城合戦は、単に「結城氏 対 幕府」の戦いではない。それは、鎌倉公方の権威回復を望む旧持氏方勢力と、幕府の権威を背景に関東支配を確立しようとする上杉氏及びそれに従う勢力との間の「代理戦争」というべき様相を呈していた。氏朝は、その反幕府連合の象徴的なリーダーとなったのである。しかし、その連合は下野、常陸、上野といった関東周辺の豪族に限られていた。対する幕府軍は、上杉軍を中核としながらも、信濃の小笠原氏、甲斐の武田氏、越後の長尾氏といった、関東以外の広範な地域の兵力を動員することが可能であった 14 。この動員力の圧倒的な差は、合戦の帰趨を当初から決定づけていたとも言える。氏朝ほどの戦略家が、この兵力差を認識していなかったとは考えにくい。とすれば、彼の戦いは、現実的な軍事的勝利を掴むためのものというよりは、幕府の支配に一矢報い、関東武士の意地と誇りを歴史に刻むための、壮大な「抵抗の儀式」であったという側面が浮かび上がってくる。
永享12年(1440年)4月、上杉清方を総大将とする数万の幕府軍が結城城を包囲し、壮絶な籠城戦が開始された 14 。
結城方は、氏朝と嫡男・持朝父子を中心に、一族の山川氏、家臣の多賀谷氏、水谷氏、そして運命共同体である小山氏らが結束し、奮戦した 17 。この戦いには、宇都宮氏や岩松氏、里見氏といった関東の反上杉勢力も加わり、関東全域を巻き込む大規模な紛争となった。以下の表は、この合戦における主要な参戦武将とその立場を示したものである。
陣営 |
主要氏族・武将 |
本拠地(国) |
参戦の意義・背景 |
結城方 |
結城氏朝、結城持朝 |
下総 |
合戦の主導者。鎌倉公方への忠義と反上杉の旗頭。 |
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小山氏 |
下野 |
結城氏の本家筋であり、運命共同体として参戦。 |
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宇都宮氏、岩松氏、里見氏、那須氏、千葉氏、小田氏一族(筑波氏など) |
下野、上野、安房、常陸など |
旧鎌倉公方派、あるいは反上杉の立場から結城方に与した関東の諸豪族 16 。 |
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山川氏、多賀谷氏、水谷氏 |
下総 |
結城氏の庶流・重臣として参戦。 |
幕府方 |
上杉憲実、上杉清方 |
上野、武蔵 |
関東管領。幕府の権威を背景に関東支配の確立を目指す。 |
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千葉氏、小田氏など |
下総、常陸 |
関東の豪族の中でも、幕府・上杉方に与した勢力。 |
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小笠原政康 |
信濃 |
幕府の命令により、関東外から動員された有力守護大名 14 。 |
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武田信重 |
甲斐 |
同上 14 。 |
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長尾景仲 |
越後 |
同上 14 。 |
結城方の奮戦により、籠城は約1年にも及んだ 10 。これは、結城城の堅固さと、氏朝の卓越した統率力、そして籠城軍の士気の高さを物語っている。
長期にわたる攻防も、ついに終焉の時を迎える。嘉吉元年(1441年)4月16日、兵糧も尽き果てた結城城は、幕府軍の総攻撃の前に陥落した 1 。
氏朝は、もはやこれまでと覚悟を決め、嫡男の持朝(当時21歳)と共に城中で自刃して果てた。享年40であった 2 。氏朝自身の辞世の句は伝わっていないが、その壮絶な最期は、後に制作された『結城合戦絵詞』に生々しく描かれている 21 。
氏朝が命を懸けて守ろうとした二人の若君の運命もまた、悲劇的であった。捕らえられた春王丸(当時13歳)と安王丸(当時11歳)は、京都へ護送される途中、将軍・足利義教の非情な命令により、美濃国垂井(現在の岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺において斬首された 14 。春王丸が残したとされる「夏草や青野が原に咲くはなの身の行衛こそ聞かまほしけれ」(夏草の茂る野原に咲く花のような、儚い我が身の行く末を知りたいものだ)という句は、その短い生涯の無念を今に伝えている 25 。
結城氏朝の死は、一つの時代の終わりを告げると共に、新たな時代の始まりを予感させるものであった。
結城合戦の敗北により、当主と嫡男を同時に失った下総結城氏は、事実上、一時的な滅亡状態に陥った 9 。しかし、氏朝の血脈は途絶えていなかった。四男の七郎(後の重朝、成朝)が、家臣の多賀谷氏に保護されて密かに生き延びていたのである 26 。
ここに、歴史の皮肉、あるいは逆説とでも言うべき事態が展開する。結城合戦後も関東の混乱は収まらず、幕府は関東統治に窮し、妥協策として、奇しくも持氏のもう一人の遺児である永寿王丸を新たな鎌倉公方として認めることを決定した。これが後の足利成氏である 16 。そして宝徳2年(1450年)、この新公方・足利成氏の計らいによって、氏朝の子・重朝は結城家の再興を正式に許された。彼は成氏から「成」の一字を賜り、「結城成朝」と名乗った 17 。
氏朝は持氏の遺児を守るために戦い、自らの命と嫡男、そして守るべき若君たちの命までも失った。彼の視点から見れば、その戦いは完全な敗北と悲劇であった。しかし、歴史の大きな流れで見れば、彼の起こした「結城合戦」という大規模な抵抗が関東の反幕府感情を顕在化させ、結果的に幕府をして新たな公方(持氏の子)を認めざるを得ない状況を作り出したのである。そして、その新公方によって、氏朝の血を引く末子が家名を再興させることになった。氏朝の「失敗」が、意図せずして「一族の再興」という未来に繋がったのである。彼の行動は、個人の運命を超えて関東の政治構造そのものに影響を与え、歴史を動かす一つの要因となったと言えよう。
伝わる行動の数々から、結城氏朝は主君への忠義に厚く、一度決断したことは最後まで貫き通す、極めて剛直な性格の武将であったことがうかがえる。同時に、一年もの籠城戦を指導しきった卓越した統率力、そして関東の諸豪族を反幕府の旗の下に糾合した政治力も高く評価されるべきである 10 。
歴史的に見れば、彼は室町幕府による中央集権化の波に抗った、最後の「古き良き関東武士」の象徴として位置づけられる。滅びを覚悟の上で大義に殉じたその生き様は、後世の人々に強い感銘を与え、一種の「滅びの美学」として語り継がれてきた 10 。彼は敗者ではあったが、その敗北は関東の歴史に深く刻まれ、決して忘れ去られることはなかった。
結城氏朝の戦いを今に伝える最も重要な文化遺産が、15世紀末頃に制作されたとされる軍記絵巻『結城合戦絵詞』(重要文化財)である 29 。この絵巻は、詞書と絵で構成され、合戦の凄惨な様子を視覚的に伝えている。背景を簡素化し、人物を大きく描く手法と、太く力強い描線は、室町時代のやまと絵の特色を示しており、美術史的にも極めて価値が高い 21 。
また、この結城合戦は後世の文学にも影響を与えた。例えば、江戸時代後期の長編読本として名高い曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、結城合戦で敗れた安房の武将・里見義実が落ち延びるところから物語が始まる設定になっており、この合戦が人々の記憶に長く留まっていたことを示している 29 。
結城氏朝の悲劇の生涯を偲ぶことができる史跡が、今も各地に残されている。