最終更新日 2025-06-14

織田信安

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織田信安:尾張統一の影に消えた、もう一つの織田家当主の生涯

序章:岩倉織田家と織田信安 ― 尾張の旧き権威

戦国時代の尾張国は、複雑な権力構造の下にあった。室町幕府によって任じられた守護・斯波氏の権威は早くに形骸化し、その下で実権を握ったのは守護代の織田氏であった 1 。しかし、その織田氏も一枚岩ではなかった。応仁の乱(1467年-1477年)を契機として、守護代家は尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配する「岩倉織田氏(伊勢守家)」と、下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を支配する「清洲織田氏(大和守家)」に分裂し、長きにわたる対立の時代に入る 2

この二つの織田氏のうち、岩倉織田氏は元来、織田家の嫡流と目されており、清洲織田氏よりも家格は上であった 2 。本報告書で詳述する織田信安(おだ のぶやす)は、この嫡流・岩倉織田氏の当主として、岩倉城(現在の愛知県岩倉市)を本拠に尾張北部に君臨した人物である 4 。彼の生年は不明、あるいは1502年説が存在するが 7 、没年については天正19年(1591年)説 8 と、それより20年以上後の慶長16年(1611年)または慶長19年(1614年)とする説があり 6 、その終焉は謎に包まれている。

信安の出自を見ると、父は織田敏信または敏定、母は澤田武蔵守忠氏の娘と伝えられる 6 。そして彼の立場を複雑かつ重要なものにしたのが、その婚姻関係であった。信安の正室・秋悦院は、織田信長の祖父である織田信定の娘、すなわち信長の父・信秀の妹にあたる 6 。これにより、信安は信長の叔母婿という極めて近い姻戚関係にありながら、後に尾張の覇権を賭けて壮絶な戦いを繰り広げることとなる。彼らの対立は、単なる領土争いではなく、織田一族内部の深刻な亀裂を象徴するものであった。信安には、嫡男・信賢(のぶかた) 6 、次男・信家(のぶいえ) 6 、後に僧となる三男・剛可正仲(ごうか しょうちゅう) 6 、そして津田姓を名乗る四男・正盛(まさもり) 6 らがおり、彼らの存在、特に信賢と信家を巡る家督問題が、信安と岩倉織田家の運命を大きく揺るがすことになる。

一方で、後の天下人となる織田信長が属した「弾正忠家」は、清洲織田氏に仕える三奉行の一つに過ぎず、家格においては信安の伊勢守家に遠く及ばない分家筋であった 1 。しかし、信長の父・信秀は、経済の要衝である津島・熱田の湊を掌握して莫大な富を蓄え、主家を凌駕する実力をつけていた 1 。織田信安の生涯は、まさにこの「伝統的権威(家格)」と「新興の実力(経済力・軍事力)」の逆転と衝突を体現している。彼の物語は、失われゆく旧来の秩序を守るために戦った旧勢力の代表者として、そして時代の転換点に翻弄された一人の武将の悲劇として、我々に多くのことを示唆してくれるのである。

第一章:信長との蜜月と確執 ― 叔父婿から宿敵へ

織田信安と信長の関係は、当初から敵対的だったわけではない。信長の父・信秀が存命中は、両家の間には比較的友好な関係が保たれていた。信安は若き日の信長と猿楽を共に楽しむなど、叔母婿と甥という間柄にふさわしい個人的な交流があったと伝えられている 9 。この蜜月とも言える時期は、後の激しい対立との鮮やかな対比をなし、彼らの関係がいかに政治情勢によって劇的に変化したかを物語っている。

しかし、天文20年(1551年)に信秀が没すると、尾張国内のパワーバランスを支えていた重石が外れ、潜在的な対立が徐々に表面化する。その兆候は、犬山城主であった織田信清(信長の従兄弟)との所領を巡る争いとして現れた。この問題がこじれた結果、信安と信長の関係も疎遠になっていった 9

そして、両者の関係を決定的に決裂させたのが、弘治2年(1556年)に隣国・美濃で勃発した「長良川の戦い」であった。この戦いで、信長は舅である斎藤道三を救援すべく出陣するが、まさにその機を捉え、信安は道三の敵である斎藤義龍に呼応して挙兵し、信長の背後を突く動きを見せた。背後を脅かされた信長は撤退を余儀なくされ、結果として道三は討死し、義龍が勝利を収めた 17 。これは信安が、信長に対して明確に反旗を翻した最初の、そして極めて効果的な軍事行動であった。

信安の反信長活動はこれに留まらない。同年、信長の弟である信勝(信行)が兄に対して謀反を起こした「稲生の戦い」においても、信安は信勝方に加担したとされる 17 。これにより、信安は信長の家督相続問題に公然と介入し、尾張国内における反信長勢力の中核を担う存在となったのである。

これらの行動は、信安が単に旧来の権威に固執し、信長の台頭を座視していただけの人物ではないことを示している。彼は、国内の対抗勢力(犬山織田家、織田信勝)と国外の有力者(斎藤義龍)とを巧みに連携させ、いわば「信長包囲網」を形成しようとした、能動的な戦略家としての一面を持っていた 17 。特に、長良川の戦いにおける挙兵のタイミングは、信長の軍事行動を直接的に妨害する絶妙なものであり、高度な政治的・軍事的判断があったことをうかがわせる。信安は、受動的に滅ぼされた弱者ではなく、一時は信長と互角以上に渡り合おうと知略を巡らせた、手強い敵対者だったのである。彼の最終的な敗因は、戦略の欠如ではなく、自らが招いた内部崩壊にあった。

第二章:内紛、そして追放 ― 一族の崩壊

織田信長という強大な外敵と対峙する一方で、岩倉織田家の内部では、その基盤を根底から揺るがす深刻な亀裂が生じていた。当主である信安自らが、一族を崩壊へと導く家督相続問題の火種を蒔いたのである。信安は、嫡男である織田信賢を何らかの理由で疎んじ、次男の信家を異常なまでに寵愛し、ついには信賢を廃して信家を跡継ぎにしようと画策した 10 。その具体的な動機は史料に明記されていないものの、この判断が岩倉織田家にとって致命的な過ちであったことは、その後の歴史が証明している。

自らの地位が脅かされていることを察知した嫡男・信賢は、父の動きに対して甘んじることなく、先手を打ってクーデターを決行する。彼は家臣を味方につけ、父・信安と弟・信家を本拠地である岩倉城から追放し、実力で家督を奪取したのである 8 。この非情な決断により、岩倉織田氏は、当主が正統性を欠き、一族が父子兄弟に分かれて相争うという、極めて脆弱な状態に陥った。

この一連のお家騒動は、尾張統一の最後の障害として岩倉織田氏を注視していた信長にとって、まさに千載一遇の好機であった。信安が家内の結束を固め、一致団結して信長に当たっていれば、いかに実力をつけた信長といえども、嫡流である岩倉織田家を攻めるには相応の大義名分と覚悟が必要だったであろう。しかし、信安自身の判断ミスが、信長に介入の絶好の口実を与えてしまった 11 。信長は「父を追放した不孝者・信賢を討つ」という大義名分を掲げ、堂々と岩倉への攻撃を開始することができた。

結局のところ、岩倉織田家の滅亡を決定づけたのは、信長の軍事力そのもの以上に、信安が引き起こした内部崩壊であった。外敵との戦いを前に、自らの家を治めることに失敗したのである。信安の個人的な感情に基づくであろう後継者問題への介入が、結果的に一族全体の運命を破滅へと導いた。これは、戦国時代という非情な時代における、一つの家の自滅の悲劇として捉えることができる。

第三章:浮野の戦いと岩倉織田家の終焉

岩倉織田家で内紛が勃発したという報は、好機をうかがっていた織田信長の耳にすぐさま届いた。信長はこれを尾張統一を完成させるための絶好の機会と捉え、信賢が当主となった岩倉城への総攻撃を決意する 11 。信長はただ軍事力に頼るだけでなく、周到な外交的布石を打っていた。かねてより独立勢力化していた犬山城主・織田信清に対し、自身の姉(犬山殿)を嫁がせることで同盟関係を強化し、岩倉攻めにおける強力な味方として引き入れることに成功していたのである 11 。この婚姻同盟は、来るべき決戦の勝敗を分ける極めて重要な一手となった。

永禄元年(1558年)、ついに両軍は尾張国浮野(現在の愛知県一宮市)で激突する。世に言う「浮野の戦い」である。当初の兵力は、信長軍が約2,000であったのに対し、信賢率いる岩倉軍は約3,000と、数的には岩倉方が優位に立っていた 11 。しかし、信長の戦術は巧みであった。彼は居城の清洲から岩倉へ直進するのではなく、北西の浮野へと回り込むように布陣した。これは、北方の犬山城から南下してくる信清の援軍と合流しやすい地点を選ぶという、明確な戦略的意図に基づいていた 22

戦端が開かれると、両軍は一進一退の激戦を繰り広げた。この戦いでは、信長方の鉄砲の名手・橋本一巴と、岩倉方の弓の名手・林弥七郎が一騎打ちの末に相討ちになったという逸話も伝えられている 17 。戦況が膠着する中、信長の事前の計略通り、織田信清が1,000の兵を率いて戦場に到着する。この援軍の出現により、戦局は一気に信長方へと傾いた 11 。側面と背後を突かれる形となった岩倉軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けた。討ち取られた首は1,250にも上ったと記録されており、生き残った兵は命からがら本拠の岩倉城へと敗走した 11

浮野での決戦に勝利した信長は、翌永禄2年(1559年)に大軍を率いて岩倉城を完全に包囲した。数ヶ月にわたる籠城戦の末、兵糧も尽き、援軍の望みも絶たれた信賢はついに降伏し、城を明け渡して追放された 11

この岩倉城の落城をもって、尾張守護代の嫡流・織田伊勢守家は事実上滅亡した。信長は、長年の敵対勢力を一掃し、名実ともに尾張一国をその手中に収めたのである。この尾張統一の達成は、単に国内の平定に留まらず、翌年の永禄3年(1560年)に駿河の今川義元という強大な敵を「桶狭間の戦い」で破るための、揺るぎない国内基盤を確立したという点で、信長の天下取りへの道程における極めて重要な画期であった 14

第四章:流転の後半生 ― 亡命と赦免

嫡男・信賢のクーデターによって本拠地・岩倉城を追われた織田信安の後半生は、流転と雌伏の連続であった。彼はまず、かねてより同盟関係にあった美濃の斎藤義龍を頼って亡命した 7 。岩倉織田家という強力な後ろ盾を失ったとはいえ、信安はなおも反信長の執念を燃やし続けた。義龍の死後もその子・龍興に仕え、信長への抵抗を続けたと伝えられるが、その試みはことごとく失敗に終わった 6

永禄10年(1567年)、信長による美濃侵攻が成功し、斎藤龍興が稲葉山城を追われると、信安は最後の政治的・軍事的地盤を完全に失った。彼は斎藤家と運命を共にすることなく、京の都へと逃れたとされる 6 。かつての尾張上四郡の支配者は、今や一介の亡命者となり、歴史の表舞台からその姿を消したかに見えた。

しかし、信安の物語はここで終わらなかった。驚くべきことに、その後、信安は宿敵であったはずの織田信長から罪を許されたのである。その理由として「同族の誼」によるものと記されており、一説には美濃白銀に所領を与えられたともいう 6 。かつて自らの尾張統一を最後まで阻み、弟の謀反にまで加担した政敵を、信長はなぜ赦免したのか。

この信長の処遇は、単なる温情や気まぐれと見るべきではない。むしろ、高度に政治的な計算に基づいた行動と解釈できる。天下統一事業を推し進め、絶対的な権力者としての地位を確立しつつあった信長にとって、もはや信安は脅威ではなかった。完全に無力化されたかつての敵をあえて許し、庇護下に置くことで、信長は自らの権威と度量の大きさを天下に知らしめることができた。これは、他の敵対勢力に対する懐柔策の一環であり、抵抗を続ける者には峻烈な一方、降伏し恭順の意を示す者には寛大であるという、いわゆる「アメとムチ」の巧みな使い分けであった可能性が高い。また、若き日に交流のあった叔母婿への個人的な情が、一片の役割を果たした可能性も否定はできない。

信安の赦免という出来事は、彼の個人的な物語であると同時に、戦国時代の勝者と敗者の力学を象徴する興味深い事例である。それは、信長の天下統一戦略の一環として位置づけられ、勝者が敗者をどのように「処理」し、自らの権力基盤の安定化に利用していったかを示す、一つの実例なのである。

第五章:終焉の地をめぐる謎 ― 諸説の徹底検証

織田信安の晩年と最期の地については、大きく分けて二つの説が存在し、現在に至るまで明確な結論は出ていない。この二つの説は、没年、終焉の地、そしてその根拠となる史料において大きく異なっており、彼の記憶がどのように伝承されてきたかを考察する上で極めて興味深い対立軸を形成している。

項目

説A:安土・摠見寺住職説

説B:土佐国客死説

没年

天正19年(1591年) 8

慶長16年(1611年)または慶長19年(1614年) 6

晩年の過ごし方

安土・摠見寺の住職として過ごす 6

旧臣・山内一豊の庇護下で土佐にて隠棲 3

墓所

滋賀県近江八幡市・摠見寺、愛知県岩倉市・誓願寺 4

高知県高知市・真如寺 6

主な根拠

寺院の記録、各種人名辞典、三男・剛可正仲との関係性 12

『武功夜話』、『藩翰譜』など後代の編纂物、地方伝承 10

説A:安土・摠見寺住職説の検討

比較的多くの文献で支持されているのが、信長に赦免された後、近江国安土(現在の滋賀県近江八幡市)に移り、安土城の麓に建立された摠見寺(そうけんじ)の住職となってその生涯を終えた、とする説である 3

この説の信憑性を高めている最大の根拠は、信安の三男である剛可正仲が、この摠見寺の開山(初代住職)であるという事実である 12 。信長の死後、その菩提を弔うために建立された寺の住職を息子が務めている以上、父である信安がその寺に身を寄せ、穏やかな晩年を過ごしたと考えるのは極めて自然な流れである。天正19年(1591年)に死去したという没年も、多くの人名辞典で採用されており 8 、一定の信頼性を持つ説と見なされている。愛知県岩倉市にある誓願寺の信安夫妻の墓も、この説を補強する材料の一つである 4

説B:土佐国客死説の検討

もう一方の説は、より物語性に富んだものである。かつての家臣であった山内一豊が関ヶ原の戦いの功績で土佐一国の大名となった後、旧主である信安を土佐に招き、100石の堪忍料を与えて手厚く庇護し、信安はそこで生涯を終えた、というものである 3

この主従の美談は非常に魅力的であるが、その根拠となる史料には注意が必要である。この説の多くは、江戸時代中期以降に新井白石らによって編纂された『藩翰譜』 28 や、地方の伝承に依拠している。そして、この説を語る上でしばしば引用されるのが、『武功夜話』という史料である 10 。信安の嫡男・信賢もまた一豊に招かれて土佐で暮らしたという説と連動しており 10 、岩倉織田家と山内家の強い絆を強調する文脈で語られることが多い。

史料批判:『武功夜話』をどう扱うか

土佐客死説の根拠の一つとなる『武功夜話』は、その史料的価値を巡って専門家の間でも評価が真っ二つに分かれている、極めて問題の多い文献である 30

否定論の立場からは、昭和29年(1954年)の町村合併で初めて誕生した「富加」という合成地名が本文中に登場することや、戦国時代には使われていなかったはずの近現代的な用語が見られること、そして『信長公記』のような信頼性の高い一次史料との間に多数の矛盾点が存在することから、江戸時代後期、あるいは近代に入ってから創作された「偽書」であるという見解が有力視されている 30

一方で肯定論の立場からは、いわゆる「正史」からはこぼれ落ちた、敗者側の視点から書かれた貴重な記録が含まれており、全てを偽書として切り捨てるべきではない、という意見も存在する 30

本報告書としては、土佐客死説、特に『武功夜話』に依拠する部分については、その史料的価値に重大な疑義があることを前提とし、確定的な事実としてではなく、あくまで「そのような伝承が後世に形成された」というレベルで慎重に扱うべきであると考える。

記憶の伝承と構築

織田信安の終焉を巡る二つの説は、単なる事実関係の食い違いというよりも、「誰が、どこで、どのような意図をもって彼の記憶を伝承したか」という、歴史的記憶の構築プロセスの問題として捉えることができる。

「摠見寺説」は、信長の菩提寺という「中央」の文脈と、実の息子である剛可正仲という「血縁」によって支えられた、比較的公式な記録に近い記憶と言える。一方、「土佐説」は、旧臣・山内一豊との主従の絆という「美談」を軸として、土佐という「地方」で育まれた、より情緒的な記憶である。

歴史の表舞台から去った人物の記憶は、一つではない。縁のあった土地や人々によって、それぞれの文脈の中で異なる物語として語り継がれていく。したがって、二つの説のどちらか一方を真実、他方を虚偽と断定することに固執するのではなく、なぜ複数の記憶が生まれ、現代まで伝わったのか、その背景(史料の性質、伝承を担った人々の思いなど)を考察すること自体に、歴史をより深く理解する鍵が隠されている。信安の終焉を巡る謎は、歴史的記憶がいかにして多層的に構築されていくかを示す、格好の事例と言えよう。

終章:織田信安という存在の歴史的意義

織田信安は、織田信長の華々しい天下取りの物語の中では、乗り越えられるべき敵役、あるいは尾張統一の過程における一障害として、ややもすれば平板に描かれがちである。しかし、彼の生涯を多角的に検証することで、その歴史的意義はより深く、立体的に浮かび上がってくる。

第一に、信安は信長が尾張を統一する上で、最後に立ちはだかった「最大の壁」であった。家格において嫡流であり、尾張北部に確固たる勢力圏を築いていた信安の打倒なくして、信長の尾張統一は成し遂げられなかった。信安との一連の抗争、そして浮野の戦いにおける勝利は、信長の尾張統一事業のクライマックスであり、今川義元との決戦に臨むための国内基盤を盤石にしたという点で、彼のその後の飛躍を決定づける重要な出来事であった。

第二に、岩倉織田家そのものは滅亡したが、信安の子孫たちが完全に歴史から姿を消したわけではないという事実は、戦国時代の敗者一族の多様な生き残り戦略を示している。次男・信家は信長の嫡男・信忠に仕え、武士として生きる道を選んだが、武田攻めの際に若くして戦死したと伝えられる 3 。三男・剛可正仲は、父とは異なる仏門の道を選び、信長の菩提寺である摠見寺の開山となって織田家の血脈を仏法の世界で後世に伝えた 6 。そして四男・津田正盛は、津田姓を名乗ることで巧みに織田宗家との直接的な関係を避けつつ、豊臣家、次いで徳川家に仕え、最終的には尾張藩士として家名を存続させることに成功した 13 。彼らのそれぞれの人生は、戦国という激動の時代を生き抜くためには、武力だけでなく、時には改姓や出家といった様々な選択肢があったことを物語っている。

最後に、織田信安という人物の歴史的再評価が挙げられる。彼は、勝者である信長の視点から見れば、時代遅れの旧勢力であったかもしれない。しかし、本報告書で詳述したように、彼は単なる受動的な抵抗者ではなかった。織田家嫡流という旧来の権威を背負い、隣国と同盟を結び、信長の弟と連携するなど、外交・軍事両面で知略を巡らせ、自らの一族と領地を守るために最後まで戦い抜いた、一人の独立した戦国武将であった。彼の生涯を丹念に追うことは、信長の物語をより複雑で深みのあるものとして理解し、「尾張統一」という歴史的事件が、単一の英雄の活躍によるものではなく、様々な勢力の思惑が絡み合った、極めて多層的な出来事であったことを明らかにする上で、不可欠な作業であると結論付けられる。織田信安は、信長の光が強ければ強いほど、その対極で濃い影を落とす、決して忘れてはならない存在なのである。

引用文献

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  4. 織田伊勢守信安や山内一豊がこのまちで生まれ育ったこと、歴史とロマンを感じることができる岩倉市。とってもいいと思います。 https://www.city.iwakura.aichi.jp/brand/0000003070.html
  5. 信長の野望・新生が面白いので、戦国武将について勉強してみることにした https://ncode.syosetu.com/n0081hx/3/
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