織田秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、キリシタン大名としてもその名を歴史に刻んでいます 1 。彼は、天下統一を目前に本能寺の変に散った織田信長の嫡孫であり、信長の長男・織田信忠の長子という、織田宗家の正統な血筋を引く人物でした 1 。幼名を三法師(さんぼうし)といい 1 、父祖の非業の死後、清洲会議において羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に擁立され、わずか3歳で織田家の家督を継承するという、劇的な形で歴史の表舞台に登場しました 1 。
その生涯は、織田家の威光が未だ残照として輝きを放つ一方で、豊臣政権、そして徳川政権へと日本の支配体制が大きく移行する激動の時代の中で、名門の血統であるが故に翻弄されたものでした。関ヶ原の戦いにおける西軍への加担と、その結果としての敗北は、秀信の運命を決定的なものとし、彼は若くして歴史の表舞台から姿を消すことになります。彼の存在は、織田信長の嫡孫という出自がもたらす「名門の重圧と期待」を常に背負い続けることを意味し、その行動の多くがこの立場を意識したものであったと考えられます。同時に、彼の生涯は、織田、豊臣、徳川という巨大な権力の変遷期にあって、一個人の力では抗い難い「時代の転換期における個人の無力感」をも色濃く反映しています。
本報告書では、織田秀信の生涯を、その出自、政治的立場、信仰、そして関ヶ原の戦いにおける決断と行動を中心に、現存する史料や研究に基づいて詳細に検討し、その人物像と歴史的意義を明らかにすることを目的とします。具体的には、織田家における秀信の血統的正統性とそれが彼の生涯に与えた影響、豊臣政権下での彼の地位と役割、キリシタン大名としての信仰の実態、関ヶ原の戦いにおける西軍参加の意思決定過程、岐阜城の戦いの詳細、そして敗戦後の処遇と最期、さらには現代における歴史的評価と彼に関する史跡や伝承について論じます。
織田秀信の生涯を理解する上で、その出自と血縁関係は極めて重要な意味を持ちます。彼は、戦国時代の覇者・織田信長の血を最も色濃く受け継ぐ者の一人であり、そのことが彼の運命を大きく左右しました。
織田秀信は、天正8年(1580年)、織田信忠の長子として生まれました 1 。父・信忠は、言わずと知れた織田信長の長男であり、信長から家督を譲られ、織田家第2代当主となっていた人物です 5 。したがって、秀信は信長の直系の嫡孫にあたり、織田宗家の血統を正しく継ぐ者と見なされていました 1 。その系譜を遡れば、織田良信、信定、信秀、そして信長、信忠へと至り、秀信へと繋がります 1 。曾祖父・信秀の代に尾張で台頭し、祖父・信長の代には天下布武を掲げて日本統一に迫った織田家の、まさに中心的な血脈でした 2 。この血統こそが、本能寺の変という未曾有の事態の後、幼い秀信を織田家後継者の最有力候補へと押し上げる最大の根拠となったのです。
秀信の幼名は三法師(さんぼうし)と伝えられています 1 。この名は、彼が歴史の表舞台に初めて登場する清洲会議の際に頻繁に用いられ、彼の幼少期を象徴する呼称となっています。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発した際、三法師は父・信忠の居城であった美濃岐阜城にいました。当時、彼は数えで3歳という幼さでした。祖父・信長と父・信忠が京都で横死するという報が岐阜にもたらされると、城内は混乱に陥りましたが、家臣の前田玄以や長谷川嘉竹らによって保護され、尾張の清洲城へと無事避難することができました 1 。この迅速な避難がなければ、織田家の嫡流は途絶えていた可能性も否定できません。
秀信の母については、複数の説が存在し、今日においても完全に特定されてはいません。これは、当時の武家の女性に関する記録が限られていることや、側室の子であった可能性などが影響していると考えられます。
最も一般的な説としては、塩川長満の娘・鈴(りん)、あるいは徳寿院と称された女性であるとされています 1 。彼女は父・信忠の側室であったと見られています 6 。しかし、この塩川氏がどのような家柄であったか、詳細は不明な点が多く、秀信の外戚としての影響力は限定的であった可能性があります。
その他にも、森可成(織田家重臣で、武勇に優れた武将)の娘とする説 1 や、甲斐の武田信玄の娘・松姫とする説も存在します 1 。もし母が松姫であれば、秀信は武田信玄の外孫ということになり、その血統はさらに複雑なものとなります。しかし、信忠と松姫の婚約は、織田氏と武田氏の同盟関係が破綻したことにより、事実上解消されたとされており 6 、この説の信憑性は低いと考えられています。
また、『美濃国古蹟考』には和田孫太夫の娘であるという記述があり 1 、高野山悉地院の過去帳には母方の祖母が進藤氏であると記されていることから、進藤氏の娘の可能性も指摘されています 1 。このように、母の出自が複数の説に分かれていることは、秀信の政治的基盤の確立において、有力な外戚の後ろ盾を得にくかった一因となった可能性も考えられます。戦国時代において母方の縁戚関係は、しばしば重要な政治的・軍事的支援をもたらしましたが、秀信の場合、その点が曖昧であったことは否めません。
秀信には、同母弟とされる織田秀則がいました 1 。秀則も兄・秀信と行動を共にし、キリスト教に入信したり、関ヶ原の戦いでは岐阜城に籠城したりするなど、兄を支えました 1 。また、津田左衛門尉忠信という人物が秀信の弟といわれることもありますが、これは庶弟(側室の子で、秀則とは母が異なる弟)か、あるいは族弟(一族の中の年下の男子)の可能性が指摘されています 1 。
妻については、正室として六角氏の庶流である和田氏一族の和田孫太夫の娘を迎えたとされています 1 。また、継室として生地真澄(いくじ ますみ)の娘・町野(まちの)がいたという記録もあります 1 。正室が豊臣秀勝(秀吉の甥で一時岐阜城主)の娘・完子(さだこ)であるという説も存在しますが、年齢的な整合性が取れないとされています。しかし、秀信の経歴や秀吉との関係性を考慮すると、何らかの形で秀勝との婚姻関係があった可能性も捨てきれず、完子の生年に関する通説が誤っているか、あるいは完子の姉にあたる女性が存在した可能性も研究者によって指摘されています 1 。
子女に関しては、『寛政重修諸家譜』などの江戸幕府が編纂した公式な系譜記録では「子女なし」とされています 1 。これは、関ヶ原の戦いで西軍に与し改易された大名の血筋を公式には認めないという、徳川幕府の方針が反映された結果かもしれません。しかし、民間伝承や一部の記録には、庶長子とされる秀朝(母は梅という女性)、嫡男とされる恒直(母は継室の町野)、母不詳で坪井氏の祖となったとされる男子、そして娘の存在が伝えられています 1 。ただし、これらの子女の存在は、信頼性の高い史料では確認されておらず、自称や伝承の域を出ないものとされています 2 。
また、秀信は岐阜に入部した当初、男子がいなかったため、六角義郷の弟にあたる八幡山秀綱を養子とし、三郎と名乗らせたという記録もあります 1 。秀綱の母は信長の娘あるいは孫娘であったとされ、秀信にとっては従兄弟、あるいは従兄弟の子という関係になります。しかし、秀綱は慶長6年(1601年)に早世し、秀信自身も関ヶ原の戦いで敗北し改易されたため、彼が織田宗家の家督を相続することはありませんでした 1 。公式記録で「子女なし」とされながらも複数の子女の伝承が残っている点は、改易された大名家の血筋が公式には断絶したとされつつも、民間レベルや縁故者の間でその存続が語り継がれた可能性を示唆しており、歴史の「公式記録」と「記憶・伝承」の間の興味深い差異を示しています。
表1:織田秀信 血縁関係図(概略)
関係 |
氏名(読み、別名など) |
備考 |
祖父 |
織田信長(おだ のぶなが) |
天下布武を掲げた戦国武将 |
父 |
織田信忠(おだ のぶただ) |
信長の嫡男、織田家第2代当主 |
母 |
塩川長満の娘・鈴(しおかわ ながみつのむすめ・りん、徳寿院) |
一般的な説 1 |
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森可成の娘(もり よしなりのむすめ) |
一説 1 |
|
武田信玄の娘・松姫(たけだ しんげんのむすめ・まつひめ) |
一説、信憑性は低い 1 |
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和田孫太夫の娘(わだ まごだゆうのむすめ) |
『美濃国古蹟考』による説 1 |
|
進藤氏の娘(しんどうしのむすめ) |
高野山悉地院過去帳からの推測 1 |
本人 |
織田秀信(おだ ひでのぶ) |
幼名:三法師(さんぼうし)、通称:三郎、岐阜中納言、洗礼名:ペトロ 1 |
弟 |
織田秀則(おだ ひでのり) |
秀信と行動を共にする 1 |
|
津田左衛門尉忠信(つだ さえもんのじょう ただのぶ) |
庶弟または族弟か 1 |
正室 |
和田孫太夫の娘 |
1 |
継室 |
町野(まちの、生地真澄の娘) |
1 |
養子 |
八幡山秀綱(はちまんやま ひでつな) |
六角義郷の弟、早世 1 |
伝承上の子 |
秀朝(ひでとも、母:梅)、恒直(つねなお、母:町野)、某(坪井氏祖) |
『寛政重修諸家譜』では子女なし 1 |
天正10年(1582年)に勃発した本能寺の変は、織田秀信の運命を、そして日本の歴史を大きく揺るがした画期的な出来事でした。この事件により、秀信は幼くして父祖を失い、織田家の後継者問題の渦中に投げ込まれることになります。
天正10年6月2日、京都本能寺において、祖父である織田信長が家臣・明智光秀の謀反によって討たれました。さらに、信長の後継者と目されていた父・織田信忠も、二条新御所で光秀軍と戦い、自害するという悲劇が続きました 1 。この時、秀信はわずか3歳(数え年)であり、父・信忠の居城であった美濃岐阜城にいました 1 。
父祖の突然の死は、織田政権の根幹を揺るがす大事件であり、秀信の立場も一変しました。岐阜城にあってこの凶報に接した幼い秀信は、家臣の前田玄以や長谷川嘉竹らによって迅速に保護され、混乱を極める美濃を脱出し、尾張の清洲城へと避難しました 1 。この避難行動がなければ、明智光秀の追撃や、混乱に乗じた他の勢力によって、織田家の嫡流は危機に瀕していた可能性が高いと考えられます。
本能寺の変後、明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって山崎の戦いで討伐されましたが、織田家の後継者問題と、信長が築き上げた広大な遺領の配分は喫緊の課題として残されました。これを決定するために、同年6月27日、清洲城において、織田家の宿老である柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興らが集まり、会議が開かれました。これが世に言う「清洲会議」です 1 。
この会議において最大の焦点となったのは、織田家の家督を誰が継承するかという問題でした。ここで羽柴秀吉は、信長の嫡孫であり、信忠の嫡男である三法師(秀信)を後継者として強く推しました 1 。これに対し、織田家筆頭家老であった柴田勝家は、信長の三男である織田信孝(母の身分が低かったため三男とされたが、信雄より出生は早かったとも言われる)を後継者として推し、両者の意見は真っ向から対立しました 8 。
秀吉は、三法師がわずか3歳と幼少であることを理由に反対する意見もあったものの、信長の直系の血筋であるという正統性を前面に押し出し、巧みな政治工作を展開して、最終的に三法師の家督継承を決定させました 10 。この結果、三法師は織田弾正忠家の家督を相続し、近江国坂田郡中郡20万石の領地を与えられました。ただし、幼少のため、実際の政務は後見人である堀秀政が代行することになりました 1 。
清洲会議における三法師擁立は、秀吉にとって極めて重要な戦略的成功でした。これにより、秀吉は信長の後継者の擁立者という立場を得て、織田家家臣団の中での影響力を飛躍的に高めることに成功したのです。三法師は、名目上の織田家当主という立場に据えられましたが、実質的には秀吉の政治的影響下に置かれることとなり、その後の秀吉の天下取りの過程で、ある種、象徴的な存在として利用された側面は否定できません 3 。会議では一時的に、三法師の後見人として信長の次男・織田信雄が尾張を、三男・織田信孝が美濃をそれぞれ分治するという妥協案も成立しましたが 12 、これは長続きせず、やがて秀吉と柴田勝家・織田信孝との間での武力衝突(賤ヶ岳の戦い)へと発展していくことになります。
清洲会議での決定は、秀信のその後の人生を大きく規定しました。わずか3歳で織田家の象徴として祭り上げられた彼は、秀吉の後見という名の統制下に置かれ、自らの意志とは別に、常に秀吉の政治的計算の中で動かざるを得ない立場に立たされたのです。この会議はまた、織田家内部の亀裂を露呈させ、秀吉にそれを利用する隙を与える結果となりました。信長の息子たちである信雄や信孝がそれぞれ野心を抱き、重臣たちがそれに結びつくという構図は、秀吉にとって各個撃破しやすい状況を生み出し、結果として織田家の実権は急速に秀吉へと移行していきました。秀信の立場は、この大きな権力闘争の中で常に不安定なものであり続けました。
本能寺の変と清洲会議を経て、織田家の家督を継承した三法師(織田秀信)は、豊臣秀吉の強力な影響下で成長期を迎えます。秀吉は、織田信長の正統な後継者としての秀信を庇護しつつも、自らの政権基盤を固めるために巧みに彼を統制下に置きました。
清洲会議の後、三法師は叔父である織田信孝によって一時的に岐阜城に留め置かれるなど、その立場は必ずしも安定していませんでした 2 。しかし、秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と織田信孝を破ると、三法師は秀吉の庇護下に入り、丹羽長秀の坂本城などに移り住んだとされています 7 。
天正16年(1588年)、三法師は9歳で岐阜城に入り元服を迎え、「三郎秀信」と名乗るようになります 1 。この名前に含まれる「秀」の一字は、豊臣秀吉から与えられたものと考えられており 14 、秀信が秀吉の従属的な立場にあったことを明確に示しています。元服と同時に、秀信は従四位下行侍従に叙位・任官しました。同年4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、「三郎侍従秀信朝臣」として他の大名たちと共に列席しており、『聚楽亭行幸記』にはその名が記録されています。この時の席次は、侍従・少将の官位を持つ大名の中で5番目であり、前田利家(当時は嫡子の利長か)、豊臣秀勝(秀吉の甥)、結城秀康(徳川家康の次男で秀吉の養子)といった有力大名に次ぐものでした 1 。これは、織田宗家の嫡孫としての秀信の格式が、豊臣政権下においても一定程度認められていたことを示しています。
秀信が美濃岐阜城主となったのは、文禄元年(1592年)秋のことです 1 。これは、豊臣秀吉の甥(または養子)であり、当時「岐阜中納言」として岐阜城主であった豊臣秀勝(小吉、秀吉の姉の子)が、文禄の役の最中に朝鮮で病没したため、その遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信が継承するという形を取りました 1 。『勢州軍記』などの記録によれば、秀信は秀勝の養子としてその所領を継承したとされています 1 。この措置は、かつて信長の次男でありながら小田原征伐後に改易されていた織田信雄とその息子・秀雄ではなく、秀信こそが織田家の正当な後継者であるという秀吉の方針を内外に示すものと考えられています 2 。
文禄元年(1592年)に豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が開始されますが、当初、秀信自身に出陣の予定はありませんでした 1 。
しかし、前述の通り、豊臣秀勝の急死によって美濃国と岐阜城を継承したことに伴い、秀勝が率いていた美濃衆8,000人(九番隊の一部)も秀信の指揮下に入ることになりました 2 。これらの兵は、秀信の家老である百々綱家が急遽率いることとなり、一部は朝鮮へ渡海し、晋州城攻防戦などに参加したと記録されています 2 。文禄2年(1593年)3月6日には、秀信自らも家臣の寺西正勝らを伴い、秀吉が本陣を置いていた肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に陣中見舞いと称して参陣しています 2 。これは、秀吉に対する忠誠を示すと同時に、豊臣政権下の大名としての務めを果たす意思表示であったと考えられます。
豊臣政権下における秀信の官位は、その立場を象徴するように順調に昇進していきました。
この結果、秀信は「岐阜中納言」として史料に登場するようになり、名実ともに豊臣政権下の大名としての地位を確立しました 2 。この時期には、秀吉から羽柴姓も贈られていたと考えられています 2 。慶長3年(1598年)には正三位権中納言に昇ったとされますが、『公卿補任』などの史料では従三位のままであったとする記述も見られます 1 。いずれにしても、これらの官位昇進は、秀吉政権が秀信を織田宗家の嫡流として一定の配慮をもって処遇していたことを示しています 14 。この「岐阜中納言」という高い官位は、彼が他の多くの大名よりも格上の存在として扱われたことを意味しますが、その実態は秀吉の厳格な統制下にあり、かつての織田家のような独立した権力からは程遠いものでした。
秀吉は、清洲会議で三法師(秀信)を擁立して以来 10 、一貫して秀信を織田家の正統な後継者として遇しました。これは、秀吉自身の権力掌握の正当性を補強し、旧織田家臣団の求心力を自らに引き寄せるという政治的計算があったと考えられます。秀信の元服時に「秀」の字を与え 14 、聚楽第行幸での高い席次 2 や順調な官位昇進 1 などは、秀吉による厚遇の現れと言えます。
しかしその一方で、秀信の領地経営や軍事行動は、秀吉の強い影響下に置かれていました。幼少期の秀信の代官(後見人)を務めた堀秀政は、秀吉の意を受けて秀信を監視し、懐柔する役割を担っていたとも考えられています 1 。秀信は、実質的には豊臣政権を構成する一大名としての役割を期待されており、その行動には常に秀吉の意向が反映されていました。文禄4年(1595年)に豊臣秀次(秀吉の甥で関白)が失脚した際には、秀信は秀次ではなく秀吉方に付いていたため、連座を免れたと見られています 2 。これは、秀信が秀吉との関係を慎重に維持し、政権内での自らの立場を的確に認識していたことを示唆しています。秀吉の対織田家戦略において、秀信は信長の血を引く者を完全に排除するのではなく、自らの権威付けに利用しつつ巧みに統制下に置くという、秀吉の巧妙な政治手腕を象徴する存在であったと言えるでしょう。
織田秀信は、豊臣政権下で美濃岐阜13万石の領主となり、約8年間にわたりその統治にあたりました。この期間、彼は祖父・信長の政策を一部踏襲しつつ、自身の信仰であるキリスト教の保護にも努めるなど、特徴的な領国経営を展開しました。
秀信の岐阜統治は、祖父・織田信長や父・信忠の施政方針を意識したものであったと考えられています 1 。特に、信長が推し進めた「楽市楽座」の政策は、秀信もこれを維持し、領内の商業振興を図ったと見られます。その証左として、岐阜市の円徳寺には、信長や後の岐阜城主・池田輝政のものと並んで、秀信が発給した楽市楽座の制札が現存しています 1 。これは、秀信が信長以来の経済政策を継承していたことを具体的に示す貴重な史料です。
また、長良川の鵜飼いについても、信長が保護した伝統を秀信も引き継ぎ、手厚く保護したと伝えられています 1 。秀信の時代には、鵜飼舟が12艘存在したという記録が同地に残っており 1 、地域の重要な産業であり文化でもあった鵜飼いを重視していたことがうかがえます。
さらに、文禄元年(1592年)12月には、木曽川水系の重要な河川港であった鏡島湊を築き、特権を与える免許状を発給して、京都方面へ遡上する荷船の最終的な集積港としての地位を保障しました 1 。これは、水運を重視し、物流の活性化を通じて領国経済の発展を目指した政策であったと考えられます。
史料を見る限り、秀信の統治下で大規模な一揆や深刻な領民騒動が発生したという記録は見当たらず 1 、比較的安定した統治が行われていた可能性が示唆されます。信長の政策を継承しつつも、苛政を敷くことなく、民政や寺社対策にも心を配っていたと評価されています 1 。
織田秀信の統治におけるもう一つの大きな特徴は、彼自身が熱心なキリスト教徒(キリシタン大名)であったことです。彼はキリスト教に対して深い関心と理解を示し、文禄4年(1595年)、弟の秀則と共にイエズス会の宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父から洗礼を受け、正式にキリスト教に入信しました 1 。その際の洗礼名はペトロ(Petro)であったと記録されています 4 。
当時のイエズス会側も、織田信長の嫡孫である秀信の入信に大きな期待を寄せていたようで、宣教師ルイス・フロイスが著した年報(日本報告)には、秀信について「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる人物である」と好意的に報告されています 1 。
慶長元年(1596年)にサン=フェリペ号事件が発生し、豊臣秀吉によるキリスト教禁教令が再び強化されると、秀信も信仰を公然と表明する行動は控えていたようですが 1 、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、他の多くのキリシタン大名と同様に、再び信仰活動を積極的に行うようになりました 1 。
その具体的な現れとして、慶長4年(1599年)には、岐阜城下に教会(聖堂)を建設し、さらに司祭館や養生所(一種の病院)も併設しました 1 。イエズス会日本準管区長であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノの報告によれば、秀信の庇護のもと、尾張・美濃地方ではキリスト教の信者が増加し、秀信の家臣にも多くの信徒が存在したとされています 1 。実際に、秀信の家臣であった橋本太兵衛は父の代からのキリシタンであり、後年、徳川幕府の禁教政策の下で殉教しています 2 。秀信のキリスト教への傾倒は、信長が政治的関心に留めたのとは異なり、彼自身の深い信仰に基づくものであり、その個性が強く表れた部分と言えるでしょう。
秀信は熱心なキリシタン大名でしたが、その一方で、領内に古くから存在する仏教寺院や神社に対しても適切な保護を加えており、キリスト教一辺倒の排他的な政策は取っていませんでした 1 。これは、領内の多様な宗教勢力との融和を図り、安定した統治を目指した現実的な判断であったと考えられます。
例えば、祖父・信長が甲斐国から美濃国に移し、保護を加えたと伝えられる善光寺如来の分身を祀る伊奈波善光寺堂を創建したとされています 1 。また、岐阜城下や領内の円徳寺、法華寺、そして織田家の菩提寺の一つである崇福寺といった寺院に対しても、寺領の寄進や諸役免除の安堵などを行い、その活動を支援しました 1 。特に崇福寺は、信長・信忠及び織田家先祖の位牌所であったため、秀信も重視していた様子が、彼が発給した文書からうかがえます 1 。慶長5年(1600年)には、妙照寺に軍師として名高い竹中重治の屋敷跡地を寄進し、寺地を移転させています 1 。
これらの文書発給の状況から、秀信の岐阜統治が本格化した時期と、彼がキリスト教を信仰しつつも、既存の宗教勢力との間に巧みなバランスを保とうとしていたことが推察されます 1 。特定の宗教に偏ることなく、多様な信仰を持つ領民や家臣に配慮した彼の姿勢は、領国経営の安定に寄与したと考えられます。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展します。この歴史的な大戦において、織田秀信は西軍に与するという重大な決断を下し、その運命を大きく変えることになりました。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を強めていく中で、これに対抗しようとする石田三成らとの間に緊張が高まっていました。慶長5年、家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、三成は家康打倒の兵を挙げます。
この時、美濃岐阜城主であった織田秀信は、当初、家康の会津征伐に従軍する予定であったとされていますが、軍備の遅れなどから出発が遅延していました 1 。その間に、石田三成から西軍への参加を強く勧誘されます。三成が提示した条件は、「西軍が勝利した暁には、秀信の父・織田信忠のかつての所領であった美濃一国(約39万石)と尾張一国(約57万石)の二カ国を与える」という、破格とも言えるものでした 1 。
この提案は、織田宗家の嫡流でありながら13万石の一大名に甘んじていた秀信にとって、かつての織田家の栄光を取り戻し、その勢力を大幅に拡大するまたとない機会と映った可能性があります。旧領回復という魅力的な提案と、織田宗家としてのプライドが、当時20歳であった秀信の心を動かしたことは想像に難くありません。家臣団との評議の結果、秀信は西軍に与することを決断します 2 。慶長5年8月5日付で石田三成が発給したとされる書状「備えの人数書」には、美濃口を守る西軍の将の一人として秀信の名が記されており 1 、この頃には彼の西軍参加が確定していたと考えられます。また、秀信の家老・百々綱家から犬山城主の石川貞清(当時は生駒利豊か)に宛てたとされる書状には、秀信と三成が申し合わせて清洲城(当時は東軍方)を攻撃する計画があったことが記されており 21 、秀信が積極的に西軍の戦略に組み込まれていたことを示唆しています。
関ヶ原の戦いに臨むにあたり、秀信を支えた家臣団は、かつての織田信孝や豊臣秀勝(小吉)の旧臣、美濃の有力国人であった斎藤氏の旧臣、そして土岐氏一族など、美濃にゆかりのある武士たちを再結集した構成であったと見られています 1 。
主要な家臣としては、まず家老職にあった百々綱家(どど つないえ)が挙げられます。彼は2万5千石を知行し、秀信の軍事行動において中心的な役割を担いました 1 。同じく家老であった木造長政(こづくり ながまさ)も、秀信を支えた重臣の一人です 1 。
美濃国内の支城主たちも、秀信の指揮下で西軍として戦いました。池尻城主であった飯沼長実(いいぬま ながざね)は9千石を知行し 1 、その子である飯沼長資(いいぬま ながすけ)と共に「岐阜四天王」の一人に数えられています 1 。この「岐阜四天王」という呼称については、飯沼親子以外に誰が含まれるのか諸説あり、明確ではありませんが、彼らが秀信家臣団の中でも特に武勇に優れた者たちとして認識されていたことを示しています。その他、美濃本郷城主の国枝政森、墨俣城主の斎藤徳元(斎藤道三の曾孫)、鉈尾山城主の佐藤方政(織田信忠の家老・佐藤秀方の子)、竹ヶ鼻城主の杉浦重勝らが、それぞれの城を守り、あるいは野戦に参加しました 1 。これらの家臣の多くは、関ヶ原の戦いにおいて秀信と運命を共にし、その忠誠心を示しました。
表2:織田秀信 主要家臣一覧と関ヶ原の戦いにおける動向
家臣名 |
役職・石高(判明分) |
関ヶ原の戦いでの主な働き |
戦後の消息 |
典拠例 |
百々綱家 |
家老、2万5千石 |
米野の戦いで先鋒、岐阜城籠城戦で御殿・百曲口守備 |
降伏後、京都で蟄居。後に山内一豊に仕える |
1 |
木造長政 |
家老 |
米野の戦いに参加、岐阜城籠城戦で七曲口守備 |
降伏後、福島正則に仕える |
1 |
飯沼長実 |
池尻城主、9千石、「岐阜四天王」 |
米野の戦いで先鋒、岐阜城籠城戦で奮戦 |
岐阜城攻防戦で火薬庫爆発により負傷、討死 |
1 |
飯沼長資 |
大番頭、4千石(8百石説も)、「岐阜四天王」 |
米野の戦いで大塚権太夫を討ち取るも、自身も討死 |
米野の戦いで討死 |
1 |
佐藤方政 |
鉈尾山城主 |
米野の戦いで遊軍、岐阜城籠城戦に参加 |
討死説、大坂の役で大坂城入城説あり |
1 |
杉浦重勝 |
竹ヶ鼻城主 |
竹ヶ鼻城籠城戦で奮戦 |
竹ヶ鼻城落城時に討死 |
1 |
斎藤徳元 |
墨俣城主 |
岐阜城籠城戦に参加 |
降伏後、俳諧師となる |
1 |
関ヶ原の戦いの前哨戦として、美濃国では東西両軍による激しい攻防が繰り広げられました。その中でも、織田秀信が籠る岐阜城をめぐる戦いは、緒戦の行方を左右する重要な戦いとなりました。
米野の戦い(慶長5年8月22日):
東軍の先鋒である福島正則、池田輝政らが木曽川を渡り、美濃国に侵攻を開始しました。これに対し、織田秀信軍は木曽川を防衛線として東軍を迎え撃つ作戦を取りました 1。秀信は総兵力約6,500(一説には9,000とも)を率い、家老の百々綱家、大番頭の飯沼長資らを将とする約2,500の兵を先鋒として米野(現在の岐阜県羽島市、笠松町一帯)に布陣させました。さらに、木造長政が率いる約1,000の兵を中野村に、佐藤方政が率いる約1,000の兵を遊軍として新加納村に配置し、秀信自身も約1,700の兵を率いて上川手村の閻魔堂まで出陣し、全軍の総指揮を執りました 1。
しかし、東軍の兵力は秀信軍を大きく上回る約1万8千であり 25 、戦いは序盤から激戦となりました。秀信軍の飯沼長資が東軍の一柳可遊家家老・大塚権太夫を討ち取るなどの奮戦も見られましたが 1 、圧倒的な兵力差の前に秀信軍は次第に劣勢となり、敗退を余儀なくされました 1 。この戦いで、飯沼長資 1 や武市善兵衛・忠左衛門兄弟 1 など、多くの将兵が討死しました。同日夕刻には、秀信の支城であった竹ヶ鼻城も、城主・杉浦重勝が奮戦の末に討死し、落城しました 1 。
岐阜城籠城戦(慶長5年8月23日):
米野の戦いで大きな損害を被った秀信は、残存兵力を結集して岐阜城に籠城し、東軍の攻撃に備えました 1。城の守備体制は、本丸に秀信と弟の秀則が入り、稲葉山や権現山の砦、各城門には信頼する家臣たちを配置しました。具体的には、総門口に津田藤三郎、七曲口に木造長政父子、御殿・百曲口に百々綱家、水の手口に武藤助十郎らが守りを固めました 1。
翌8月23日、池田輝政を主力とする東軍は岐阜城への総攻撃を開始しました。輝政はかつて岐阜城主であったため、城の構造や弱点を熟知しており 1 、これが攻城戦において東軍に有利に働きました。城方は数で劣りながらも果敢に抵抗し、上格子門での激しい銃撃戦や、二の丸門付近での戦闘では煙硝蔵(火薬庫)が爆発炎上するなど、壮絶な戦いが繰り広げられました 1 。しかし、前日の戦いで兵力の大部分を失っていた秀信軍にとって、東軍の猛攻を防ぎきることは困難でした。木造長政が鉄砲で撃たれて負傷したことも、守備側の士気を低下させる一因となったとされています 27 。
戦いは一日中続きましたが、敗色は濃厚となり、ついに秀信は池田輝政からの降伏勧告を受け入れ、岐阜城を開城しました 1 。この時、秀信と弟の秀則は自刃しようとしましたが、輝政に説得されて思いとどまったとも伝えられています 2 。
敗因の分析:
岐阜城の戦いにおける秀信軍の敗因は、複合的なものであったと考えられます。第一に、東軍との圧倒的な兵力差は決定的でした 1。第二に、前哨戦である米野の戦いでの敗北により、兵力だけでなく士気も大きく削がれてしまったこと 1。第三に、攻城側の池田輝政が岐阜城の地理や構造を熟知していたため、効果的な攻撃を受けることになった点 1 が挙げられます。また、一部の史料では、秀信が木曽川沿いの広範囲に兵力を分散配置したことが、結果的に東軍による各個撃破を許す要因となったのではないかという指摘もなされています 28。
表3:岐阜城の戦い 略記
日付 |
主な戦闘・出来事 |
西軍指揮官(主な人物) |
東軍指揮官(主な人物) |
兵力(推定) |
結果 |
典拠例 |
慶長5年8月22日 |
米野の戦い |
織田秀信、百々綱家、飯沼長資、木造長政、佐藤方政 |
池田輝政、福島正則、一柳直盛 |
西軍:約6,500~9,000、東軍:約18,000 |
東軍勝利、秀信軍は岐阜城へ後退 |
1 |
同日夕刻 |
竹ヶ鼻城落城 |
杉浦重勝 |
東軍諸将 |
- |
東軍勝利、杉浦重勝討死 |
1 |
慶長5年8月23日 |
岐阜城攻城戦 |
織田秀信、百々綱家、木造長政、飯沼長実 |
池田輝政、福島正則、浅野幸長 |
籠城兵:少数 |
東軍勝利、秀信降伏・開城 |
1 |
岐阜城が落城し、自らの運命が風前の灯火となった際、織田秀信が見せた振る舞いについては、特筆すべき逸話が伝えられています。それは、最後まで自分と共に戦った家臣一人ひとりに対し、感謝の言葉を述べ、自ら「感状」(かんじょう)を書き与えたというものです 1 。感状とは、主君が家臣の武功や忠勤を賞して与える感謝状であり、表彰状のようなものです。
この行動は、秀信が自らの死を覚悟した上で、残される家臣たちが他家に再仕官する際に、その忠義や武功を証明する助けとなるようにとの深い配慮から出たものであったとされています 16 。当時まだ20歳という若さであった秀信が、絶望的な状況下で見せたこの堂々とした態度は、敵味方の区別なく多くの人々の心を打ち、涙を誘ったと伝えられています。そして、「さすがは織田信長の孫である」と、その器量を称賛されたといいます 16 。
この感状発行の逸話は、主に後世の編纂物や伝承に見られるものであり 1 、その史実性を裏付ける一次史料は現在のところ明確ではありません 2 。しかし、もしこの逸話が事実であるとすれば、秀信が単に血筋だけの貴公子ではなく、家臣を思いやる情の深さと、危機に際しても冷静さを失わない度量を持った人物であったことを示すものと言えるでしょう。たとえ創作であったとしても、信長の孫である秀信にそのような理想的な武将像を投影したいという、後世の人々の願望が反映されているのかもしれません。
関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いに敗れた織田秀信の運命は、大きく暗転します。織田宗家の嫡流でありながら、彼は戦犯として厳しい処遇を受け、若くしてその生涯を閉じることになりました。
岐阜城を開城し降伏した秀信は、まず城下の上加納(現在の岐阜市内)にある浄泉坊(あるいは円徳寺とも 14 )に入り、そこで剃髪して出家の身となりました 1 。その後、一時的に父方の祖母(織田信長の側室であった生駒氏か)の郷里である尾張国小折村(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷に移り、さらに尾張の知多半島へと送られたとされています 1 。
関ヶ原の本戦が東軍の圧倒的な勝利に終わると、西軍に与した秀信の罪は確定的なものとなり、彼が領有していた美濃岐阜13万石の所領は全て没収されました 1 。徳川家康の命により、秀信は高野山へ送致され、そこで隠棲生活を送ることになりました 1 。高野山への道中の警護は、東軍に属していた浅野家の者が務めたと伝えられています 1 。秀信が死罪を免れた背景には、岐阜城攻防戦で敵将であった福島正則らが、秀信の助命を家康に嘆願したことが影響したとも言われています 1 。
高野山に送られた秀信でしたが、そこでの生活は決して穏やかなものではありませんでした。最大の理由は、彼の祖父である織田信長が、かつて高野山に対して行った焼き討ちを含む厳しい弾圧政策(高野山攻め)でした。この過去の怨恨が影響し、秀信は当初、高野山への入山すら許されず、慶長5年(1600年)10月28日まで待たされた上で、ようやく入山が認められたとされています。しかし、その後も高野山内では迫害に近い扱いを受けたと伝えられています 1 。
『江源武鑑』という、一般的には偽書と評価されている史料によれば、伊達平右衛門や安達中書といった家臣ら30人余り(あるいは小姓14人とも)が秀信に従って高野山に入ったと記されていますが、この記述の信憑性は低いとされています 2 。
そのような不遇の中でも、慶長8年(1603年)には、伯母にあたる三の丸殿(信長の娘で、豊臣秀吉の側室であった女性)が亡くなった際に、その菩提を弔う供養を行っています 1 。これは、彼が困難な状況下でも、一族の者への追悼の念を忘れなかったことを示しています。
後に秀信が高野山から追放されたという説も存在します。その理由については、秀信自身が僧侶を斬るなどの乱行を働いたためであるとする説と、秀信自身は仏教を迫害した事実はなく、あくまで祖父・信長の行いの「とばっちり」を受けた結果であるとする説があり、真相は定かではありません 2 。祖父の負の遺産が、孫である秀信の晩年にまで暗い影を落としていたことは、彼の悲劇性を一層際立たせています。
慶長10年(1605年)5月8日、織田秀信は高野山を下り、山麓の向副村(むかそいむら、現在の和歌山県橋本市の一部)に移り住みました。しかし、そのわずか19日後の同年5月27日、同地でその短い生涯を閉じました 1 。享年は26(満年齢では24歳または25歳)であり、奇しくも父・織田信忠と同じ若さでの死でした 4 。
その死因については、いくつかの説が伝えられており、確定していません。
一つは 病死説 です。高野山を下りたのは、健康状態が悪化し、療養のためであったと考えられており、下山後まもなく病によって亡くなったとする見方です 1 。高野山側の記録では、秀信が山を下りた5月8日を死亡日としているものもあり 2 、これは彼の病状が下山時には既にかなり重かったことを示唆している可能性があります。また、天正20年(1592年)の文禄の役の頃に、豊臣秀吉が秀信の病気治療のために名医として知られた一鴎軒(いちおうけん)を派遣したという記録も存在し 32 、秀信が元々病弱な体質であった可能性も考えられます。
もう一つは 自害説 です。一部の記録や伝承では、秀信は自ら命を絶ったと伝えられています 1 。関ヶ原での敗北、所領没収、そして高野山での不遇な生活といった度重なる苦難と絶望が、彼を自害へと追い込んだという見方です。
秀信の墓所は、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥之院(あるいは光台院境内など 5 )と、終焉の地である和歌山県橋本市向副 3 の双方に存在するとされています。向副には、善福寺跡や向副観音寺といったゆかりの地があり、顕彰碑も建てられています 3 。
享年26というあまりにも早い死は、関ヶ原での敗北とそれに続く過酷な処遇、そして高野山での精神的・肉体的苦痛が複合的に影響した結果である可能性が高いと言えるでしょう。病死であったとしても、その背景には深い失意と絶望があったことは想像に難くありません。死因の曖昧さは、歴史の敗者や記録から遠ざけられた人物の末路に関する史料の限界を示すものであり、歴史研究における史料批判の重要性を改めて認識させられます。
織田秀信は、その短い生涯の中で、様々な側面を見せた人物であり、歴史的な評価も一様ではありません。「織田信長の孫」という強烈な出自は、常に彼の人物像に影響を与え続けました。
伝承によれば、織田秀信の容貌は、祖父である織田信長の若い頃に酷似していたとされています 16 。関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いに臨んだ際には、信長を彷彿とさせるような、当時の流行を取り入れた派手な(かぶいた)甲冑を身にまとって出陣したという逸話も残っています 1 。この若き日の信長に似た姿が、美濃の民衆や旧織田家家臣たちから「信長様が帰ってきた」と熱狂的に歓迎され、多くの者が彼のもとに馳せ参じ、仕官を求めた一因となったとも言われています 16 。
性格については、岐阜城が落城する絶望的な状況下で、最後まで戦った家臣一人ひとりに感状を書き与えたという逸話が示すように 1 、家臣を深く思いやる情の深さと、危機に際しても冷静さを失わない度量の大きさを持っていた可能性がうかがえます。また、窮地に陥っても動じず、堂々とした態度を崩さなかったと評され、その姿は敵味方から「さすがは信長の孫」と称賛されたとも伝えられています 16 。
一方で、彼は熱心なキリスト教徒であり、その信仰は個人的なものに留まらず、岐阜城下に教会や養生所を建設するなど、具体的な行動にも表れています 1 。しかし、その信仰は排他的なものではなく、領内の既存の仏教寺院や神社に対しても保護を加えるなど、他宗教への配慮を忘れないバランス感覚も持ち合わせていたようです 1 。
武将としての織田秀信の力量については、評価が大きく分かれるところです。最大の汚点とされるのは、関ヶ原の戦いの前哨戦において、本拠地である岐阜城をわずか一日で攻め落とされたという事実であり、この点から彼の武将としての能力に疑問を呈する見方が少なくありません 1 。中には、「遊芸にのみ長じた武将であった」といった厳しい酷評も見られます 1 。
しかし、関ヶ原の戦いに至るまでの経緯や、実際の戦闘における彼の行動を詳細に見ると、必ずしも凡庸な指揮官であったとは言い切れない側面も見えてきます。西軍への参加を決断した後、彼は積極的に軍備を整え、米野の戦いでは自ら軍勢を率いて前線近くまで出陣し、木曽川を防衛線とする戦術を展開して東軍を迎え撃ちました 1 。
岐阜城籠城戦においても、兵力で圧倒的に劣勢でありながら、家臣と共に最後まで果敢に戦い、攻城側の東軍に対して少なくない損害を与えました 1 。『武徳安民記』などの記録によれば、福島正則勢が430、池田輝政勢が490、浅野幸長勢が308もの首級をあげたとされており 1 、これは戦いの激しさを如実に物語っています。
また、敵将であった福島正則が、秀信の戦いぶりや降伏時の潔い態度を見て、「さすがは信長の嫡孫である」と称賛したという記述も『改正三河後風土記』などの史料に見られます 1 。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には、まだ若年でありながらも堀秀政の軍に属し、左備(さび、軍の左翼部隊)の大将として鉄砲隊を指揮したとされていますが 7 、この時の具体的な戦功に関する詳細な記録は乏しいのが現状です 15 。
岐阜城主として約8年間(文禄元年から慶長5年まで)にわたって美濃国を統治した秀信ですが、その治世者としての評価は、比較的穏当なものであったと考えられます。現存する史料からは、彼の統治下で大規模な一揆や深刻な領民の騒動が発生したという記録は見当たりません 1 。
彼は、祖父・信長が推進した楽市楽座の政策を継承し、領内経済の自由化と活性化を図ったと見られています 1 。また、長良川の鵜飼いを保護するなど 1 、地域の伝統文化や産業の振興にも意を用いていました。さらに、水運の重要性を認識し、鏡島湊を整備して物流の拠点とするなど、民政にも配慮した政策を行っていたことがうかがえます 1 。
宗教政策においては、自身が熱心なキリシタンでありながら、既存の仏教寺社に対しても寺領の安堵や寄進を行うなど、バランスの取れた対応を心がけていた形跡が見られます 1 。これらの点から、秀信は苛政を敷くことなく、民生の安定や寺社との協調に心を配った、比較的安定した統治を行っていたと評価されています 1 。
秀信の評価は、常に「信長の孫」という強大なレッテルを通して見られがちです。若き日の信長に似た容貌や振る舞いが期待された一方で、岐阜城落城という結果から「期待外れ」と見なされることもありました。しかし、断片的な記録からは、家臣への配慮やバランスの取れた宗教政策など、彼自身の個性や努力も垣間見えます。名門の血を引いて生まれながらも、時代の大きな波に翻弄され、若くして悲劇的な最期を遂げた秀信の生涯は、多くの同情を集める要素を持っています。彼の人物像や業績を完全に客観的に評価することは、史料の制約から難しい面もありますが、多角的な視点からその実像に迫る努力が続けられています。
織田秀信の生涯は、戦国末期から江戸初期という激動の時代を駆け抜けたものであり、その足跡は岐阜県や和歌山県高野山を中心に、今もなお史跡として残されています。また、彼の劇的な生涯は、後世の文学作品や映像作品においても、様々な形で描かれています。
岐阜県:
秀信が若き日を過ごし、そして運命の戦いに臨んだ岐阜県には、彼にゆかりの深い史跡が点在しています。
和歌山県:
関ヶ原の戦いに敗れた後、秀信が配流され、その短い生涯を閉じた和歌山県にも、彼を偲ぶ史跡が残されています。
これらの史跡は、織田秀信という武将が確かに存在し、歴史の大きな転換点において重要な役割を果たしたことを物語っています。文献資料だけでは得られない、歴史の臨場感や重みを私たちに伝えてくれる貴重な遺産と言えるでしょう。
織田秀信の劇的な生涯は、後世の創作家たちの想像力を刺激し、いくつかの文学作品や映像作品で取り上げられています。ただし、彼を単独の主人公とした作品は比較的少なく、多くは本能寺の変後の織田家や、関ヶ原の戦いといった大きな歴史的事件の中で、重要な脇役として描かれる傾向にあります。
これらの創作物は、必ずしも史実を忠実に再現しているわけではなく、作者の解釈や物語の構成上の都合によって脚色されている場合も少なくありません。しかし、そうした作品を通じて、織田秀信という歴史上の人物が一般の人々に広く知られる機会となり、新たな関心を呼び起こすきっかけとなることもまた事実です。
織田秀信の生涯は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという、日本の歴史における大きな転換期を象徴するものでした。彼の存在と運命は、後世の私たちに多くのことを示唆しています。
織田秀信は、天下人・織田信長の嫡孫という、この上ない名門の血筋を引いて生まれながらも、その生涯は本能寺の変という未曾有の悲劇に始まり、時代の激しい潮流に翻弄され続け、若くして悲劇的な結末を迎えました。
幼くして織田家の家督を継承する立場に据えられ、豊臣秀吉の庇護と統制の下で成人し、美濃岐阜城主として一定の治績を残しました。また、熱心なキリシタン大名として信仰に生き、領内に教会を建設するなど、その信仰を実践した側面も持ち合わせています。
しかし、彼の運命を決定づけたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける西軍への加担という重大な決断でした。この決断は、旧領回復と織田家再興という野心的な目標を掲げたものであったかもしれませんが、結果として敗北を喫し、織田宗家が再び日本の政治の中心に立つ道を完全に閉ざすことにつながりました。
秀信の生涯は、一個人の力では抗うことのできない歴史の大きなうねりの中で生きた人間の苦悩と、名門の血筋がもたらす栄光と悲運の両面を色濃く映し出しています。武将としての力量や治世者としての評価については、史料の制約もあり一概には言えませんが、その短い生涯の中で見せた家臣への深い配慮や、篤い信仰心、そして祖父・信長を彷彿とさせると伝えられる逸話の数々は、彼が単に血筋だけの凡庸な君主ではなかったことを示唆しています。彼の存在は、織田政権から豊臣政権、そして徳川政権へと移行する過渡期において、旧勢力の名門がどのように扱われ、そして消えていったかという歴史の一断面を具体的に示していると言えるでしょう。
織田秀信に関する研究は、これまでにも多くの歴史家や研究者によって行われてきましたが、未だ解明されていない謎や、さらなる検討を要する課題も少なくありません。
まず、彼の母の出自については複数の説が存在し、決定的な証拠が見つかっていません。この点の解明は、秀信の初期の政治的基盤を理解する上で重要です。また、公式記録では「子女なし」とされている一方で、複数の子女の伝承が存在することから、その真偽の検証も興味深いテーマです。
高野山へ配流された後の具体的な生活実態や、彼が受けたとされる迫害の内容、そして最期の死因(病死説と自害説)の真相についても、より詳細な史料に基づく検証が求められます。特に、高野山側の一次史料や、秀信自身が発給した可能性のある文書、あるいは彼に近しい人物が残した日記や書簡などが新たに発見されれば、これらの謎を解き明かす手がかりとなる可能性があります。
キリシタン大名としての秀信の活動が、当時の美濃・尾張地方におけるキリスト教の布教や信者の動向に具体的にどのような影響を与えたのか、また、彼の信仰と思想の内容についても、宣教師の記録だけでなく、国内史料との比較検討を通じて、より深い理解が望まれます。
さらに、関ヶ原の戦いにおける西軍参加の意思決定プロセスについて、家臣団内部での意見対立の有無や、石田三成ら西軍首脳との具体的な交渉内容、そして彼が抱いていた戦略や勝算など、その詳細な経緯の解明も今後の重要な研究課題と言えるでしょう。
これらの課題に取り組むことで、織田秀信という一人の武将の生涯をより深く理解するだけでなく、戦国末期から江戸初期にかけての日本の社会や政治、文化の様相を、より多角的に捉え直すことができると期待されます。