最終更新日 2025-06-18

肝付兼演

戦国大名島津氏の黎明期における国人領主の動向 ―加治木城主・肝付兼演の生涯―

序論:肝付兼演という存在

日本の戦国時代は、数多の武将が自らの野心と一族の存亡を賭けて、激しい権力闘争を繰り広げた時代である。その中でも、薩摩・大隅・日向の三国統一を成し遂げ、後に九州を席巻することになる島津氏の台頭は、戦国史における特筆すべき事象の一つである。しかし、その輝かしい歴史の陰には、島津氏の支配下に組み込まれていった数多くの国人領主たちの、複雑で苦渋に満ちた選択の物語が存在する。本報告書が主題とする肝付兼演(きもつき かねひろ)は、まさにその象徴的な人物の一人である。

明応7年(1498年)に生を受け、天文21年(1552年)に没した肝付兼演は、大隅国の名族・肝付氏の庶流に生まれながら、島津氏の内紛に乗じてその麾下に入り、要衝・加治木城の主となった 1 。しかし、彼はその立場に安住することなく、やがて主君である島津貴久に反旗を翻し、大隅の国人衆を率いて大規模な合戦に及ぶ。そして敗北の末に再び貴久に降伏し、意外にも所領を安堵されるという、変転著しい生涯を送った 1

彼の生涯を追うことは、単に一地方武将の伝記をなぞることに留まらない。その行動の軌跡は、守護大名が戦国大名へと変貌を遂げる過渡期において、在地領主たちが如何なる戦略的判断を下し、自らの生き残りを図ったかを解明する上で、極めて重要な事例を提供する。兼演の「臣従→反旗→再臣従」という一連の動向を、単なる「裏切り」という言葉で断じることは、歴史の多層的な真実を見誤らせる。本報告書は、彼の出自、彼が生きた時代の政治・軍事的情勢、そして彼を取り巻く人間関係を丹念に分析することで、その行動原理の根源に迫り、戦国期南九州における国人領主の存在様態とその歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

本報告書の構成は以下の通りである。第一章では、兼演の家系が肝付本家から分立した経緯と、彼が加治木城主となるまでの道程を詳述する。第二章では、彼の生涯の核心部分である島津氏への反旗から降伏に至るまでの相克の歴史を、黒川崎の戦いを中心に分析する。第三章では、彼の死後、嫡男・兼盛の代に一族がたどった運命と、近世薩摩藩における「喜入肝付家」としての確立、そして幕末の名家老・小松帯刀へと至る後裔の歴史を追う。第四章では、これらの事実を踏まえ、兼演の人物像を多角的に考察し、結論において、彼の生涯が戦国史、特に島津氏の発展史の中で持つ意義を総括する。

肝付兼演 関連年表

西暦(和暦)

兼演の年齢

出来事

関連人物・勢力

典拠

1498年(明応7年)

1歳

肝付兼固の子として生まれる。

肝付兼固

1

1526年(大永6年)

29歳

島津勝久が貴久に家督を譲る際、越前守に任じられ、貴久に仕える。

島津勝久、島津貴久

1

1527年(大永7年)

30歳

島津忠良が伊地知重貞を討伐。戦功により、島津勝久から加治木を与えられる。

島津忠良、伊地知重貞

2

1534年(天文3年)

37歳

本拠を大隅溝辺から加治木に移す。

島津忠良

2

1537年(天文6年)

40歳

薩州家・島津実久の調略に応じ、島津貴久に敵対する。

島津実久

1

1541年(天文10年)

44歳

本田薫親らと連合し、貴久方の生別府城を攻撃。

本田薫親、樺山善久

2

1542年(天文11年)

45歳

貴久軍の加治木城攻撃を、北原氏の助勢を得て撃退する。

島津貴久、北原兼孝

1

1549年(天文18年)

52歳

5月、貴久が伊集院忠朗らを派遣し加治木を攻撃(黒川崎の戦い)。11月、伊集院忠倉の火計により敗北。

島津貴久、伊集院忠朗、蒲生氏、入来院氏、祁答院氏

1

1550年(天文19年)

53歳

北郷氏の仲介で貴久に降伏。

北郷氏

1

1551年(天文20年)

54歳

貴久より加治木の領有を安堵される。

島津貴久

1

1552年(天文21年)

55歳

7月4日、死去。嫡男・兼盛が家督を相続。

肝付兼盛

1


第一章:加治木肝付家の出自と成立

肝付兼演の複雑な生涯を理解するためには、まず彼が属した「加治木肝付家」が、大隅の名族・肝付氏の中でどのような位置にあったのか、そして如何なる経緯で加治木という地を得たのかを解明する必要がある。彼の行動原理の根源は、この出自と家の成立過程に深く根ざしている。

第一節:肝付一族の系譜と庶流の勃興

大隅国にその名を轟かせた肝付氏は、平安時代に大納言・伴善男の玄孫にあたる伴兼行が薩摩掾として下向したことに始まるとされる、伴氏を本姓とする一族である 7 。その子孫が肝属郡の弁済使となり、郡名を取って「肝付」を称した。島津氏が鎌倉時代に守護として下向する以前から南九州に深く根を張った古豪であり、戦国時代には大隅半島を本拠として、隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げる大名へと成長した 3

兼演の家系は、この肝付氏の嫡流ではなく、本家第12代当主・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流であった 1 。この分家が成立した背景には、文明年間(1469-1487年)に起きた「惣庶の不和」、すなわち本家と庶流の間の深刻な対立があったと記録されている 3 。この事実は極めて重要である。なぜなら、兼演の家系が、その発端からして肝付本家とは一線を画し、独立した行動原理を持つ土壌にあったことを示唆するからである。彼らの忠誠の対象は、必ずしも「肝付一族」全体ではなく、まず第一に自家の存続と発展にあった。この視座を持つことで、後に兼演が肝付本家(当主・兼続)とは異なる政治的選択を下す背景が理解できる。

本家との不和の結果、祖先の兼光は日向国大崎へと移り、その子・兼国は文明18年(1486年)に大隅国溝辺城へ、そして兼国の孫にあたる兼演が加治木へと、一族は安住の地を求めて拠点を転々とさせた 3 。この流転の歴史は、彼らが特定の土地に安住する大領主ではなく、常に自らの武力と政治力によって勢力基盤を切り拓いていかねばならない、独立志向の強い国人領主であったことを物語っている。兼演の父は、この溝辺城主であった肝付兼固(かねかた)である 1

加治木・喜入肝付家 略系図

  • 肝付本家12代 兼忠
    • (三男)兼光【庶流祖】
      • 兼国
        • 兼固
          • 兼演 = 妻:廻久元娘
            • 兼盛 = 妻:にし(島津忠良娘)
              • 兼寛
              • 兼篤
              • (娘)
              • (養子)兼三(伊集院忠棟三男)
                • (喜入肝付家へ)
                  • ...
                    • 兼善
                      • 尚五郎(小松清廉・帯刀)

第二節:加治木城主への道

肝付兼演が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、島津宗家を巡る内紛と、それに伴う大隅の勢力図の再編という、激動の時代背景の中であった。彼は当初、島津宗家第14代当主の座を追われ、その復権を目指していた島津勝久の家老を務めていた 1 。このことは、兼演が自家の浮沈を、肝付本家の動向ではなく、島津氏の権力闘争に直接関与することで切り開こうとしていたことを示している。

彼にとって決定的な転機となったのは、大永7年(1527年)の出来事である。当時、大隅国の要衝である加治木城は、伊地知氏の一族である伊地知重貞が領していた。しかし、重貞は島津氏に反旗を翻したため、島津勝久は、当時分家である伊作家の当主でありながら、その武威によって薩摩半島中部に大きな影響力を持っていた島津忠良(後の日新斎)に、重貞の討伐を命じた 2 。忠良はこの任に応えて加治木城を攻め落とし、重貞を滅ぼした 2

この戦いの論功行賞として、島津勝久は忠良の功績を認めつつも、その与党であった肝付兼演に加治木を与えるという采配を振るった 2 。この事実は、大永7年4月9日付で発行された「肝付兼演宛知行目録」という一次史料によって裏付けられており、兼演がこの時点で正式に加治木の領主となったことが確認できる 12 。この一連の出来事は、島津氏の勢力拡大戦略と、兼演自身の立身出世の野心が合致した結果であった。忠良・貴久父子にとって、信頼の置けない在地領主を排除し、自派の人間を戦略的要衝に配置することは、大隅支配の足掛かりとして不可欠であった。

史料によっては、兼演がそれまでの本拠地であった溝辺から加治木へ完全に拠点を移したのは天文3年(1534年)であるとも記されている 2 。これは、大永7年に領地として与えられた後、数年をかけて現地の地盤を固め、名実ともに加治木城主として腰を据えたのが天文3年であったと解釈するのが最も自然であろう。これにより、兼演は流転の歴史を重ねてきた一族の新たな本拠地を確保し、南九州の政治劇における重要な役者の一人となったのである。

第二章:反旗と従属 ―島津氏との相克

加治木城主となり、島津忠良・貴久父子の与党として大隅に勢力基盤を築いた肝付兼演であったが、その立場は決して安泰ではなかった。戦国時代の南九州は、権力の空白を埋めようとする複数の勢力が複雑に絡み合い、昨日の友が今日の敵となることが常であった。兼演の生涯の核心は、この流動的な情勢の中で、自らの判断で主家を変え、島津氏と激しく対立し、そして再びその軍門に下るという、劇的な相克の歴史にある。

第一節:島津宗家への反旗 ― 勢力図の激変

加治木城主就任から約10年が経過した天文6年(1537年)、兼演は突如として島津貴久に敵対する姿勢を見せ始める。彼は、貴久と島津宗家の家督を巡って激しく争っていた分家・薩州家の当主、島津実久の調略に応じたのである 1 。この変心は、単なる気まぐれや裏切りと断じるべきではない。当時の薩摩・大隅では、貴久と実久のどちらが最終的な覇者となるか全く見通せない状況であり、国人領主たちは常に情勢を分析し、自らの存続にとって最も有利な側に付こうと合従連衡を繰り返していた 4 。兼演の決断は、一時的に実久方が優勢と判断したか、あるいは実久から貴久方にとどまるよりも有利な条件を提示された結果であると推察される。これは、特定の個人への忠誠よりも、一族と所領を守ることを最優先する、戦国期国人領主の現実主義的な生存戦略の典型であった。

兼演の反乱は単独行動ではなかった。彼は反貴久勢力の中核的な存在として活動し、天文10年(1541年)には、同じくかつて島津勝久の老中を務めながら貴久に反旗を翻した本田薫親らと連携し、貴久方の重臣・樺山善久が守る生別府城(現在の鹿児島県霧島市長浜)を攻撃している 2 。この一連の動きに対し、貴久も手をこまねいていたわけではない。天文11年(1542年)、貴久は軍勢を率いて兼演の居城・加治木城へ攻め込んだが、兼演は日向の有力国人である北原氏の援軍を得て、これを撃退することに成功した 1 。この勝利体験は、彼の反島津路線を一時的にせよ、さらに強固なものにした可能性が高い。

第二節:黒川崎の戦い ― 運命の転換点

薩摩半島における実久方の勢力を一掃し、支配基盤を固めた島津貴久は、ついに大隅における反抗勢力の鎮圧に乗り出す。その最大の標的が、加治木城に拠る肝付兼演であった。天文18年(1549年)5月、貴久は伊集院忠朗、樺山善久、北郷忠相といった島津軍の主力を動員し、加治木に対して総攻撃を開始した 1

これに対し、兼演のもとには大隅の蒲生氏、そして薩摩の有力国人一族である渋谷氏(入来院氏、祁答院氏、東郷氏)といった、貴久の急激な台頭を快く思わない国人たちが助勢に駆けつけた 1 。両軍は加治木城下の黒川崎に陣を構え、南九州の覇権を左右する大規模な合戦の火蓋が切られた 5 。この戦いは数ヶ月にわたる長期戦となり、両陣営が数百歩の距離で対峙し、矢や鉄砲が飛び交う激戦であったと記録されている 11 。当時最新兵器であった鉄砲が実戦投入されたことは、この戦いの重要性を示している。

しかし、数に勝る連合軍も、統制の取れた島津軍を打ち破ることはできなかった。戦況が膠着する中、同年11月、天候が嵐となった夜を狙い、島津方の智将・伊集院忠朗の子である忠倉が決死の火計を敢行した 1 。風に煽られた炎は瞬く間に兼演方の陣を焼き、連合軍は混乱状態に陥って大敗を喫した。この黒川崎での決定的な敗北が、肝付兼演の運命を大きく転換させることになったのである。

第三節:降伏と所領安堵 ― 島津氏の統制戦略

黒川崎での惨敗により、兼演を中心とした反貴久連合は瓦解した。敗れた兼演は、日向の有力国人であり、島津氏とも関係の深い北郷氏を仲介役として、翌天文19年(1550年)に貴久へ降伏した 1 。大名家との交渉において、他の有力国人が仲介に入るという形式は、敗者の面目を保ちつつ、円滑な事後処理を行うための知恵であり、当時の武家社会の慣習をよく示している。

ここで注目すべきは、貴久が兼演に下した処遇である。通常、大名に反旗を翻し、大規模な合戦にまで及んだ領主に対しては、領地没収、改易、あるいは一族誅殺といった厳しい処分が下されるのが戦国の常識であった。しかし、貴久は兼演の罪を許し、加治木の領有をそのまま安堵するという、極めて異例の措置を取ったのである 1

この一見寛大すぎる処置は、島津忠良・貴久父子の高度な政治判断の表れであった。その狙いは複数考えられる。第一に、実利の重視である。兼演を粛清して加治木を直轄化するよりも、その武力と大隅における影響力を温存させ、自らの支配体制下に組み込む方が、今後の大隅平定全体にとって有益であると判断した。第二に、他の国人衆に対する懐柔策である。抵抗すれば黒川崎の戦いのように徹底的に叩くが、降伏すれば寛大な処置も有り得るという「飴と鞭」の姿勢を明確に示すことで、他の反抗的な国人衆の戦意を削ぎ、服属を促す効果を狙った。第三に、支配の安定化である。無理な領地替えや粛清は、その土地に新たな不満の火種を生む可能性がある。在地領主である兼演を安堵することで、支配地域の急激な不安定化を避けたのである。

この兼演に対する処遇は、島津氏が単なる武力による征服者ではなく、巧みな政治戦略を駆使して国人衆を統制していく戦国大名へと脱皮していく過程を象徴する出来事であった。兼演の降伏と所領安堵という一件は、その後の島津氏の領土拡大戦略における一つのモデルケース、いわば「加治木モデル」となり、敵対勢力を吸収・再利用しながら支配体制を強化していくという、島津氏の強さの源泉を形作る試金石となったのである。

第三章:兼演の死と加治木肝付家のその後

天文21年(1552年)、島津氏との激しい相克の末にその軍門に下った肝付兼演は、55年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。しかし、彼の死は加治木肝付家の終わりを意味しなかった。むしろ、彼の敗北と再臣従という決断が、結果として一族が新たな時代に適応し、繁栄していくための礎となったのである。父の世代とは全く異なる生き方を選択した嫡男・兼盛の時代から、一族の運命は大きく好転していく。

第一節:嫡男・兼盛の時代 ―忠実なる島津家臣として

父・兼演の跡を継いだ嫡男・肝付兼盛は、父とは対照的に、一貫して島津氏に忠実な家臣としてその生涯を捧げた 16 。彼の代において、加治木肝付家はかつての敵対関係を完全に清算し、島津家臣団の中で確固たる地位を築き上げていく。

その象徴的な出来事が、島津家との血縁関係の強化であった。兼盛は、島津家中興の祖と仰がれる島津忠良の娘・にしを正室として迎えたのである 17 。反逆者の息子が、主君の妹婿となる。これは、島津氏が兼演の降伏を表面的なものとしてではなく、加治木肝付家を完全に自らの陣営に取り込むという強い意志を持っていたことの証左であり、兼盛にとってもこれ以上ない名誉であった。この婚姻により、加治木肝付家は単なる外様家臣ではなく、島津一門に準ずる特別な地位を得ることになった。

兼盛はその期待に応え、島津貴久・義久の二代にわたって、各地の合戦で目覚ましい軍功を挙げ続けた。永禄9年(1566年)の伊東氏三ツ山城攻め、翌年の菱刈氏攻め、さらに大口城攻めなど、島津氏の三州統一事業における重要な戦いの数々で武名を轟かせた 9 。その功績は高く評価され、島津義久から感状と共に新たな所領を与えられている。特に永禄11年(1568年)には、島津忠良から直々に、その軍功を賞された四人の将軍の一人として数えられるという栄誉に浴した 9

父・兼演が、流動的な情勢の中で「自家の独立」を模索し、合従連衡を繰り返した国人領主であったのに対し、息子・兼盛は、島津氏という絶対的な主君の下で「忠実な家臣」として自己の価値を証明し、家の名誉を高めた武将であった。この父子の生き方の劇的な違いは、戦国時代が中期から後期へと移行する中で、在地領主たちの価値観や生存戦略が大きく変化していったことを如実に物語っている。

第二節:喜入肝付家への道程と後裔

兼盛、そしてその子・兼寛の代まで、加治木肝付家は島津氏の重臣として加治木の地を治めた。しかし、文禄4年(1595年)、天下を統一した豊臣秀吉による太閤検地が九州でも実施されると、島津領内でも大規模な所領替え(国替え)が行われた。この政策により、加治木は秀吉の直轄領(蔵入地)となり、加治木肝付家は薩摩半島南部の喜入(きいれ、現在の鹿児島市喜入町)へと移封されることとなった 3

これにより、兼演以来約60年にわたる加治木支配は終わりを告げたが、一族の命脈が絶たれたわけではなかった。喜入に移った一族は、以後「喜入肝付家」として、江戸時代の薩摩藩体制下においても、藩主から直接所領を与えられた上級家臣である「一所持」という高い家格を維持し続けた 3 。これは、兼盛以来の忠勤と功績が、近世的な封建体制下においても正当に評価され、その地位が保証されたことを意味する。

喜入肝付家は、江戸時代を通じて薩摩藩の重臣家として存続し、幾多の人材を輩出した。そして、その血脈は幕末の動乱期において、日本の歴史を大きく動かす一人の傑出した人物の登場へと繋がる。喜入肝付家第10代当主・肝付兼善の四男として生まれた尚五郎が、同じく薩摩藩の重臣である小松家の養子となり、後の名家老・小松帯刀(清廉)となったのである 7

兼演の代における反乱と敗北という一見不名誉な歴史は、その後の息子の忠誠によって完全に払拭された。そして、その決断が遠因となって維持された一族の血脈は、数世紀の時を経て、明治維新という国家的大事業を推進する指導者の一人を輩出するに至った。これは、一人の武将の選択が、長い歴史の連鎖の中でいかに予期せぬ結果をもたらし得るかを示す、興味深い実例と言えよう。

第四章:肝付兼演という人物像の考察

肝付兼演の生涯を俯瞰するとき、我々は彼をどのような人物として評価すべきであろうか。彼の行動は、見る者の立場や時代によって、全く異なる様相を呈する。ここでは、彼の行動原理を分析し、同時代を生きた他の肝付一族と比較することで、その人物像の核心に迫りたい。

第一節:行動原理の分析 ― 裏切り者か、現実主義者か

兼演の主君の変遷(島津勝久→貴久→実久→貴久)は、近世以降の安定した封建社会における「忠誠」という徳目を絶対的な価値基準とするならば、「裏切り」の連続と映るであろう 1 。事実、江戸時代に薩摩藩が編纂した公式の人物史である『本藩人物誌』において、彼は島津氏に敵対した「国賊伝」の項に、島津実久党の一員としてその名を記されている 25 。これは、藩主への絶対的な忠誠を臣下の第一の美徳とする後世の視点から、過去の歴史が再評価された結果である。

しかし、彼が生きた戦国中期の価値観に立脚すれば、その評価は大きく異なる。当時の南九州では、絶対的な支配者はまだ確立しておらず、複数の有力者が覇権を争っていた。国人領主たちにとって、主家の安定は保証されておらず、いつ自らの所領が奪われ、一族が滅ぼされるか分からない、極めて不安定な状況にあった。このような時代において、特定の個人への抽象的な忠誠よりも、自らの一族と所領を守り、存続させるという具体的な「家」への責任感を優先することは、むしろ当然の行動原理であった。兼演の行動は、その時々で最も強い力を持つ者、あるいは自家の利益を最大化できると判断した者に付こうとする、極めて現実主義的な生存戦略の表れと解釈できる。彼の行動は、倫理や信義よりも、冷徹なパワーバランスの計算に基づいた、戦国武将らしいリアリズムに貫かれていたと言えよう。

第二節:同時代の肝付一族との比較

兼演の人物像をより鮮明にするために、同時期に肝付本家を率いた第16代当主・肝付兼続と比較することは有益である。兼続は、大隅の戦国大名として島津氏と真っ向から対立した名将として知られる 26 。彼は島津氏との婚姻関係を結びつつも、領土問題を巡って対立が激化すると、日向の伊東氏と結んで島津氏に徹底抗戦した。永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは、島津貴久の弟である猛将・島津忠将を討ち取るなど、一時は島津氏を大いに苦しめた 7

しかし、兼続の奮戦も空しく、島津氏の圧倒的な物量の前に本拠地・高山城を攻められ、失意のうちに没した。彼の死後、肝付本家は急速に衰退し、最終的には天正8年(1581年)に領地を没収され、島津氏の一家臣へと転落した 7

これに対し、庶流である兼演の家系は、一度の決定的な敗北は経験したものの、最終的には降伏という現実的な選択をすることで、家の存続を勝ち取った。そして息子の兼盛の代には、巧みに島津家臣団の中枢に食い込み、近世を通じて「喜入肝付家」として大いに栄えたのである。本家が「肝付家」としての誇りと独立を賭けて島津氏と最後まで戦い抜いたのに対し、庶流の兼演はより柔軟かつ現実的な路線を選択した。この鮮やかな対比は、同じ一族であっても、その置かれた立場(本家か庶流か)によって、選択しうる戦略が大きく異なっていたことを明確に示している。兼演の行動は、本家とは異なる形で家名を後世に伝え、繁栄させるための、彼なりの最善の選択だったのである。

結論:歴史における肝付兼演の意義

肝付兼演の生涯は、戦国時代の南九州という一地方における、一国人領主の栄光と挫折の物語である。しかし、その歴史的意義は、単なる個人的な伝記に留まるものではない。彼の存在と動向は、後の九州の覇者となる島津氏の発展史、そして戦国という時代の本質を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。

第一に、兼演の反乱と、その後の降伏・安堵という一連の出来事は、島津氏が単なる一守護家から、国人衆を巧みに統制し、強力な家臣団を形成する戦国大名へと脱皮していく過程を象徴する、重要な転換点であった。兼演の反乱は、島津貴久にとって大きな脅威であったと同時に、その支配者としての度量と政治戦略を試す試金石となった。彼を武力で制圧した後、あえて寛大な処置で懐柔するという高度な政治判断は、他の国人衆に対する強力なメッセージとなり、その後の島津氏による大隅平定を円滑に進める上で、計り知れない効果をもたらした。

第二に、兼演の生涯は、強大な勢力の狭間で生き残りを図る、数多の戦国期国人領主の典型的な姿を映し出している。彼の度重なる主君の変更は、後世の価値観からは非難されるべき「裏切り」かもしれない。しかし、それは家の存続という至上命題を背負い、刻一刻と変化する勢力図の中で最善の道を探し続けた、現実主義者としての必死の選択であった。彼の物語は、成功と失敗、栄光と屈辱が常に隣り合わせであった戦国の世の厳しさと、そこで生きる人々のしたたかさを、我々に生々しく伝えている。

最後に、彼の生涯は歴史の連続性と、時に見られる皮肉な展開を示している。彼自身は島津氏に敗れ、その軍門に下るという屈辱を味わった。しかし、その敗北と再臣従という決断が、結果的に息子・兼盛の代での活躍の場を整え、一族の血脈を近世、そして幕末まで繋げる礎となった。特に、彼から始まる家系が、数世紀後に薩摩藩を動かす名家老・小松帯刀を輩出したという事実は、歴史のダイナミズムを象徴する出来事である。一人の武将が下した決断が、意図せざる形で、遠い未来の歴史にまで微かながらも影響を及ぼし得たのである。肝付兼演は、勝者として歴史に名を刻むことはなかったが、彼の存在なくして、その後の島津氏の、そして薩摩の歴史を語ることはできない。彼は、時代の大きな転換点において、重要な触媒の役割を果たした、記憶されるべき武将の一人である。

引用文献

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  4. 第34話「島津 貴久」31(全192回) - 戦国時代の名将・武将の群像(川村一彦) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887172229/episodes/1177354054887388888
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  7. 肝付氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E6%B0%8F
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  9. OT22 肝付兼盛 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/entry299.html
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  22. 喜入肝付家墓所(玉繁寺跡):苦難の戦国期から小松帯刀に続くルーツ - 鹿児島よかもん再発見! https://kagoshimayokamon.com/2016/03/26/kimotsukike/
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  24. 薩摩 喜入肝付家墓所(玉繁寺跡) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/sokuseki/kagoshima/kiire-kimotsuki-bosho/
  25. 薩摩藩家老の系譜 - 鹿児島県 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20161025150435-1.pdf
  26. 肝付兼続 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E5%85%BC%E7%B6%9A
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