最終更新日 2025-06-10

臼杵鑑速

「臼杵鑑速」の画像

豊後の柱石、臼杵鑑速 ―その生涯と大友氏における役割―

はじめに

戦国時代の九州地方は、数多の武将たちが覇を競う動乱の時代であった。その中で、豊後国(現在の大分県)を拠点として勢力を拡大した大友氏は、最盛期には九州六ヶ国を支配下に置くほどの強大な戦国大名へと成長した。本報告書は、この大友氏の興隆から斜陽に至る時期に、宿老として主家を支え続けた武将、臼杵鑑速(うすき あきすみ、または「あきはや」とも読まれる 1 )の生涯と、大友氏におけるその多岐にわたる役割を、現存する史料に基づいて詳細に検討するものである。

臼杵鑑速は、大友義鑑(おおとも よしあき)、そしてその子である義鎮(よししげ、後の宗麟 そうりん)の二代にわたり、大友氏の中枢で活躍した。彼の名は、系図においては「あきすみ」と記されることが多いが 3 、本報告では、史料に見られる読みを尊重しつつ、一般的に知られる「鑑速」の表記を用いる。鑑速の生年は詳らかではないが、その没年は天正3年(1575年)5月8日とされている 3 。本報告書では、まず鑑速の出自と家督相続の経緯を明らかにし、次いで大友氏の重臣としての彼の職責、戦場での武功、外交官としての手腕、そして領国経営における役割について具体的に論じる。さらに、彼を取り巻く人々との関係や人物像、逸話にも触れ、最後にその歴史的意義と総合的評価を試みる。

第一章:臼杵鑑速の出自と家督相続

一.臼杵氏の系譜と大友氏との関係

臼杵鑑速が属した臼杵氏は、その淵源を古代豊後の有力豪族であった大神氏(おおがし)の一族に持つ 5 。大神惟盛(おおが これもり)が豊後国臼杵荘(現在の臼杵市周辺)に入り、その地名を姓としたのが臼杵氏の始まりとされる 1

鎌倉時代に入ると、臼杵氏の歴史に大きな転機が訪れる。当時の臼杵氏当主であった臼杵惟直(これなお)には男子がおらず、家名断絶の危機に瀕した。この時、既に豊後守護として入国し、近隣で強大な勢力を築きつつあった大友氏の一族であり、かつては臼杵氏の庶家でもあった戸次氏(べっきし)から、戸次貞直(さだなお)の子である直時(なおとき)を婿養子として迎えたのである 1 。この養子縁組により、臼杵氏の嫡流は古来の大神姓から大友氏の系統へと変わり、名実ともに大友氏の傘下に入り、その支配体制に組み込まれることとなった。この出来事は、単に一つの家の系譜が変わったというだけでなく、九州における中世から戦国期にかけての武家社会の流動性と、大友氏のような新興勢力による在地土豪の再編・統合という大きな歴史的文脈の中に位置づけられる。大友氏にとって、在地に深く根を張る旧来の豪族を武力で完全に制圧するよりも、婚姻や養子縁組といった手段を通じて懐柔し、自らの支配基盤に取り込むことは、領国支配を安定させる上で極めて有効な戦略であったと考えられる。一方、臼杵氏側にも、大友氏という強大な権力の庇護下に入ることで家名を存続させ、新たな支配体制の中で一定の地位を確保するという利点があった。このような縁戚関係を基盤とした主従関係の形成は、戦国大名が領国支配を確立していく過程でしばしば見られるパターンであり、後の臼杵鑑速の活躍の前提となる重要な背景を形成したと言えよう。

二.鑑速の誕生と家督相続に至る経緯

臼杵鑑速の父は臼杵長景(ながかげ)である。長景は、豊後国海部郡臼杵庄(現在の臼杵市)に水ケ城(みずがじょう)を構え、主君である大友義鑑を補佐する最上位の重臣、いわゆる「加判衆(かはんしゅう)」の一人に名を連ねるなど、大友家中において重きをなした武将であった 1 。長景の代に、臼杵氏は大友家中で確固たる地位を築き上げたと言える。

長景の死後、家督は長男の臼杵鑑続(あきつぐ)が継承した。鑑続もまた父同様に有能な人物であり、20年という長期間にわたり加判衆を務め、室町幕府や朝廷との外交交渉を一手に担うなど、大友氏の外交政策において中心的な役割を果たした 1 。さらに、筑前国志摩郡(現在の福岡市西区から糸島市一帯)の郡代としても活動し、大友氏による北部九州統治の安定化に大きく貢献した 5

鑑続には男子がいたものの、その子がまだ幼少であったため、16世紀半ば以降、弟である臼杵鑑速が兄の跡を継いで臼杵家の家督を相続し、兄と同様に加判衆の重責を担うこととなった 1 。鑑速は、初め大友義鑑に仕え、元服に際しては義鑑から「鑑」の一字を賜り、父・長景からも一字を取って鑑景(あきかげ)と名乗ったが、後に鑑速と改名したと伝えられている 3

兄・鑑続が外交や北部九州の統治といった分野で既に顕著な実績を上げていたことは、鑑速が家督を継承した際に、これらの重要な職務を遂行する上での素地が臼杵家に既に形成されていたことを意味する。鑑速がこれらの分野で目覚ましい活躍を見せることができた背景には、単に彼個人の才能だけでなく、兄・鑑続が築き上げた外交ルートや統治ノウハウ、そして臼杵家が大友氏家中で代々担ってきた役割の継続性といった「家」としての蓄積が大きく影響していたと考えられる。臼杵家自体が、大友家中で外交や特定地域の統治といった専門性の高い職能を、ある種世襲的に担う家柄としての地位を確立していた可能性も否定できない。鑑速は、そうした家の格と実績を背景に、その才覚を遺憾なく発揮し、大友氏の重臣として重用されていったのであろう。

表1:臼杵鑑速 略年表

年代

出来事

主要関連史料

生年不詳

臼杵長景の子として誕生。初名、鑑景。

3

天文19年(1550年)

肥後国菊池義武に対する竹迫・宇土・下陣・片志多攻略戦に参戦。

3

弘治年間(1555-1558年)

兄・臼杵鑑続の後を受けて加判衆に就任。豊前方分、筑前方分などの役職を継承。

3

弘治3年(1557年)

秋月文種討伐戦に参加。

3

永禄3年(1560年)以降

筑前の豪族宗像氏貞に対し、許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城などへ数度の侵攻に参加。

3

永禄4年(1561年)

門司城争奪戦に参加。吉岡長増と共に大友軍を指揮。

3

永禄10年(1567年)

高橋鑑種・秋月種実討伐戦に参加。

3

永禄11年(1568年)

立花鑑載らの謀反鎮圧に参加。戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理らと共に立花城を攻略。

3

永禄12年(1569年)

多々良浜の戦いに参加。

3

時期不詳

島津氏との間でカンボジア派遣船の難破と積み荷返還を巡る外交交渉を担当。

5

天正3年(1575年)5月8日

死去。

3

第二章:大友氏重臣としての鑑速

一.加判衆としての職責

臼杵鑑速は、父・長景、兄・鑑続の跡を継ぎ、大友氏の政権運営における最高意思決定機関の一つである「加判衆」の一員として重責を担った 1 。加判衆とは、主君である大友氏当主が発給する命令書や裁許状などの公式文書に連署し、判を加えることからその名があり、実質的には家老職に相当する最上位の重臣集団であった 5 。彼らは、大友氏の領国統治に関わる重要政務の審議・決定に参画し、外交交渉や軍事指揮においても中心的な役割を果たした。

鑑速が加判衆として連署した文書の一例として、元亀元年(永禄13年、1570年)2月27日付で発給された「禁制 水田村」と題する制札が確認されている 12 。この制札は、軍勢による地域住民への乱暴狼藉や、竹木の無許可伐採を厳しく禁じる内容であり、戦時下における治安維持と民政の安定を図ろうとする大友氏の政策を示すものである。このような文書に鑑速が名を連ねていることは、彼が単に軍事面だけでなく、領国統治の細部に至るまで関与していたことを物語っている。

加判衆という制度は、大友氏のような広大な領国を支配し、複雑化する内外の情勢に的確に対応していく必要に迫られた戦国大名にとって、権力の集中と、それを補佐する有力家臣団による合議制的な要素とのバランスを取るための重要な統治機構であったと言える。大名一人の能力や判断には限界があり、有力な家臣たちの知恵と経験、そして支持を結集することで、より安定した領国経営と的確な政策決定が可能となる。また、有力家臣に責任と権限を分担させることは、彼らの不満を抑制し、主家への忠誠心を高める効果も期待できたであろう。臼杵鑑速がこの加判衆の一員として長年にわたり活動したという事実は、彼が単なる一武将ではなく、大友氏の統治機構における枢要な地位を占め、その政策決定プロセスに深く関与していたキーパーソンであったことを明確に示している。

二.「豊後三老」及び「豊州二老」としての評価と役割

臼杵鑑速は、その卓越した能力と主家への貢献により、同僚の吉岡長増(よしおか ながます、後の宗歓 そうかん)や吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)と共に「豊後三老(ぶんごさんろう)」と称揚された 1 。これは、大友義鎮(宗麟)の治世において、この三名が軍事・政務の両面にわたり、他の家臣たちを指導する最高の宿老として重きをなしたことを示す称号である。

さらに、鑑速は吉岡長増と共に「豊州二老(ほうしゅうにろう)」とも呼ばれている 15 。ある史料によれば、この呼称の下では、臼杵鑑速が軍事・政務の両面を、吉岡長増が主に政務を担当したとされ、両者の間で一定の役割分担があったことが示唆されている 15 。吉岡長増は豊前、筑前、肥前といった広範囲の政務を担当し、臼杵鑑速もまた、兄・鑑続の職責を引き継ぐ形で豊前方分(ぶぜんほうぶん)や筑前方分(ちくぜんほうぶん)といった役職を担ったとされる 3 。この「方分」という役職は、大友氏の本国である豊後以外の分国(支配地域)において、単なる行政権の代行に留まらず、軍事指揮権をも含む極めて重要な地位であった 18

「豊後三老」と「豊州二老」という二つの呼称は、その構成メンバーから見て密接に関連しており、おそらく対象とする職務の範囲や時期、あるいは重要度によって使い分けられたか、あるいは同様の重臣グループを指す別称であった可能性が考えられる。「三老」が軍事・政務全般を統括する最高幹部会議のような存在であったとすれば、「二老」は特に政務や外交といった分野において中核的な役割を担ったコンビを指したのかもしれない。そして「方分」は、これらの老臣たちが具体的に担当する地域統治の責任範囲を示していたと解釈できる。

これらの呼称の存在は、臼杵鑑速が大友氏の政権運営において、特定の同僚たちと共に集団指導体制の一翼を担い、あるいは専門分野に応じた責任分担体制の中で中枢的な役割を果たしていたことを明確に示している。大友宗麟が、広大化する領国と複雑化する内外情勢に対応するために、特定の信頼できる重臣たちに各方面の統括を委任し、彼らの専門性と連携を通じて領国を統治しようとした戦国大名特有の権力構造の現れであり、鑑速がその中心人物の一人であったことの証左と言えよう。

第三章:戦場における鑑速

臼杵鑑速は、政務や外交のみならず、戦場においてもその勇名をとどろかせた武将であった。大友氏が関わった主要な合戦の多くにその名を連ね、数々の武功を挙げたと記録されている 3

表2:臼杵鑑速が関与した主要合戦・外交案件一覧

年月

種別

対象/相手方

概要

鑑速の役割・結果

主要関連史料

天文19年(1550年)

合戦

肥後 菊池義武

竹迫・宇土・下陣・片志多攻略

参戦、武功を挙げる

3

弘治3年(1557年)

合戦

筑前 秋月文種

古処山城攻略、秋月文種自害

別働隊指揮官の一人として討伐軍に参加、勝利に貢献

3

永禄3年(1560年)以降

合戦

筑前 宗像氏貞

許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城などへの侵攻

数度にわたり侵攻に参加

3

永禄4年(1561年)

合戦

豊前 門司城(毛利方)

大友軍による門司城総攻撃、鉄砲隊・弓隊連携

吉岡長増と共に大友軍を指揮、毛利軍に損害を与えるも落城には至らず

3

永禄4年頃(1561年)

外交

島津氏、伊東氏

日向の伊東義祐と島津豊州家の和睦仲介

吉岡長増と共に仲介役として機能した可能性

17

永禄10年(1567年)

合戦

高橋鑑種、秋月種実

討伐戦

参加

3

永禄11年(1568年)

合戦

立花鑑載

立花城攻略、鑑載敗死

戸次道雪、吉弘鑑理らと共に攻略に参加

3

永禄12年(1569年)

合戦

毛利軍

多々良浜の戦い

参加

3

時期不詳

外交

島津氏

カンボジア派遣船の難破と積み荷返還交渉

大友氏筆頭家老として初期交渉を担当、結果的に大友・島津関係悪化の一因となる

5

随時

外交

室町幕府、諸大名

大友宗麟の一字拝領、守護職継承、毛利氏等との交渉

吉岡長増と共に担当、長増没後は島津氏と単独交渉も行う

3

一.主要な参戦記録

(一)門司城争奪戦(永禄4年/1561年など)

永禄4年(1561年)、大友義鎮は、北九州における宿敵毛利氏の勢力を削ぐため、豊前国の要衝である門司城の攻略を再度試みた。この際、義鎮は吉岡長増と臼杵鑑速の二人の宿老に対し、1万5千と号する大軍の指揮を委ね、門司城へと進軍させた 3 。同年10月26日に行われた門司城への総攻撃では、臼杵鑑速、田原親賢(たはら ちかかた)、そして戸次鑑連(べっき あきつら、後の立花道雪)といった大友軍の主力武将が総動員された。記録によれば、鑑速や田原親賢が率いる数百挺の鉄砲隊と、戸次鑑連が率いる8百の弓隊が巧みに連携し、城を守る小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の軍勢に大きな損害を与えたとされる 3 。しかし、毛利方の堅い守りを打ち破ることはできず、日没と共に大友軍は撤退を余儀なくされた。この門司城を巡る攻防は、大友氏と毛利氏との間で繰り広げられた北部九州の覇権を賭けた争いの中でも、特に激しい戦いの一つとして記憶されている。

(二)秋月氏討伐(弘治3年/1557年など)

弘治3年(1557年)7月、筑前国の有力国人であった秋月文種(あきづき ふみたね)が大友氏からの離反と独立を画策した。これを察知した大友義鎮は、戸次鑑連、臼杵鑑速、高橋鑑種(たかはし あきたね)らに2万余と称される大軍を率いさせ、秋月氏の討伐を命じた 3 。臼杵鑑速は、この討伐軍において別働隊の指揮官の一人として重要な役割を担った 7 。大友軍は秋月氏の本拠地である古処山城(こしょさんじょう)に猛攻を加え、激戦の末、秋月文種を自害に追い込み、城を陥落させた 7 。この勝利により、大友氏は筑前における支配力を一層強固なものとした。

(三)その他の軍事活動

上記の主要な合戦以外にも、臼杵鑑速は数多くの軍事行動に参加している。天文19年(1550年)には、肥後国(現在の熊本県)の菊池義武(きくち よしたけ)に対する攻撃に加わり、竹迫城、宇土城などの攻略戦に参戦した 3 。永禄3年(1560年)以降は、筑前の豪族である宗像氏貞(むなかた うじさだ)の討伐のため、許斐山城(このみやまじょう)や白山城などへ数度にわたり侵攻した 3 。さらに、永禄10年(1567年)には高橋鑑種と秋月種実(たねざね)の討伐、永禄11年(1568年)には立花鑑載(たちばな あきとし)らの謀反鎮圧にも参加し、戸次道雪や吉弘鑑理らと共に立花城を攻略している 3 。また、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)や筑紫広門(つくし ひろかど)といった諸国人との戦い、そして永禄12年(1569年)の毛利軍との多々良浜(たたらはま)の戦いなど、大友氏の存亡に関わる重要な局面で常にその姿を見せている 3

二.武将としての器量

臼杵鑑速の武将としての能力は、同時代及び後世の史料において高く評価されている。特に『高橋記』という書物では、「才徳勇猛の良将」と賞賛されており 3 、これは彼が単に戦場での勇ましさだけでなく、知略や徳性をも兼ね備えた優れた指揮官であったことを示唆している。

彼が数々の主要な合戦において、戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理といった大友家中屈指の名将たちと共に軍の中核を担い、方面軍の指揮を任されることが多かったという事実は、その軍事指揮官としての能力と主君からの信頼がいかに高かったかを物語っている。鑑速の軍事における役割は、個人の武勇で戦局を打開するタイプの猛将というよりは、他の有力武将と巧みに連携し、大友軍全体の戦略構想の中で与えられた重要な戦線を確実に担当する、総合力の高い指揮官であったと推察される。特に門司城の戦いにおける鉄砲隊の運用に見られるように 3 、新しい戦術や兵器に対する理解と活用能力も有していた点は注目に値する。これは、彼が単に伝統的な戦い方にとらわれず、時代の変化に対応できる柔軟な思考を持っていたことを示している。彼の武将としての際立った特徴は、個人の武勇伝として語られることよりも、組織的な軍事行動における計画性、統率力、そして同僚との高度な連携能力にあったと言えるだろう。これらの資質は、大友氏のような大勢力にとって、方面軍司令官クラスの武将に求められるものであり、鑑速はそれに応えうる、いわば近代的な指揮官像に近い武将であった可能性を秘めている。

第四章:外交官としての鑑速

臼杵鑑速の活躍の場は戦場だけに留まらなかった。彼はまた、大友氏の外交政策を担う重臣としても、その卓越した手腕を発揮した。

一.島津氏との交渉 ―カンボジア派遣船問題をめぐって―

16世紀半ば以降、大友義鎮(宗麟)がカンボジアへ派遣したとされる貿易船が、航海の途中で嵐に遭遇し、島津氏の領内である大隅国(現在の鹿児島県東部)に漂着するという事件が発生した 5 。この船の安否確認と、船に積まれていた貴重な積み荷の返還を巡り、大友氏と島津氏の間で外交交渉が開始された。

この重要な交渉において、臼杵鑑速は大友氏側の筆頭家老として矢面に立ち、最初に島津家の筆頭家老であった伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)に対して書状を送るなど、初期交渉の中心的な役割を担った 5 。交渉は難航し、最終的には大友家の重臣4名と島津家の重臣6名による連署書状という形で、船と積み荷の返還が正式に要求される事態に至った。しかし、このカンボジア派遣船を巡る一連の騒動は、両家の間に深刻な不信感を生み、それまで比較的安定していた大友・島津両家の関係を急激に悪化させる結果を招いた。この事件は、後の天正6年(1578年)に勃発する耳川の戦いという全面戦争へと繋がる伏線の一つとなったとも言われている 5 。また、別の史料では、大友氏の南蛮貿易船が島津氏に拿捕された際に、鑑速がその返還交渉を行ったという記録も存在し 11 、彼が対島津外交においていかに重要な存在であったかがうかがえる。

二.幕府及び諸大名との折衝

臼杵鑑速の兄・鑑続は、室町幕府への使者として、あるいは周防・長門国(現在の山口県)を支配する大内氏との和睦交渉において大きな功績を挙げたが 2 、鑑速もまた、兄と共に、あるいは兄の跡を継いで、大友氏の外交面で大いに活躍した 3

具体的には、主君・大友義鎮が元服する際に室町幕府将軍であった足利義晴(あしかが よしはる)から「晴」の一字を拝領する交渉や、豊前国・筑前国といった重要地域の守護職を大友氏が継承するにあたっての幕府との折衝など、大友氏の権威と支配の正当性を確立する上で不可欠な外交活動を、同僚の吉岡長増と共に担当した 3 。さらに、西国の雄である安芸国(現在の広島県西部)の毛利氏や、大友氏の影響下にある九州各地の国人衆との間の複雑な交渉事にも、その手腕を発揮した。吉岡長増の没後は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の島津氏との単独交渉も担っており、その外交における責任の重さが増していたことがわかる 3 。また、永禄4年(1561年)頃には、日向国(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)と、同じく日向に勢力を持つ島津氏の一族(豊州家)との間の和睦を、吉岡長増と共に仲介した可能性も示唆されている 17

三.対外貿易への関与

大友宗麟は、当時としては先進的な視野を持ち、ポルトガルなどとの南蛮貿易を積極的に推進したことで知られている 19 。その重臣であった臼杵鑑速もまた、明(当時の中国王朝)や李氏朝鮮といった東アジア諸国との対外貿易に深く関与していたとされる 1

鑑速の兄・鑑続が筑前国の柑子岳城(かんこだけじょう)主であった際には、大友氏の貿易全般を統括していたと考えられており 6 、鑑速もこの兄の路線を継承し、貿易事業に関わっていた可能性が高い。先に触れたカンボジア派遣船の一件 5 も、大友氏が東南アジア方面にまで交易の触手を伸ばしていたことを示唆しており、鑑速がその事後処理という困難な外交交渉に深く関与したという事実は、彼の外交能力と、大友氏の交易活動における彼の役割の重要性を示している。

臼杵鑑速の外交活動は、単に隣接する大名との間の利害調整に留まるものではなかった。中央政権である室町幕府との関係維持、九州各地の多様な勢力との折衝、さらには海外諸国との貿易管理という、戦国大名がその勢力を維持・拡大していく上で不可欠な、極めて多岐にわたる分野に及んでいた。これは、彼が高度な政治感覚と情報収集能力、卓越した交渉術、そして国際的な視野を兼ね備えた人物であったことを強く示唆している。相手の力関係や内情、そして利害を正確に把握し、主君・大友宗麟の意向を的確に反映しつつ、大友氏の国益を最大限に高めるという困難な任務を遂行するためには、これらの能力が不可欠であった。兄・鑑続の代から培われてきた外交ルートや交渉のノウハウといった臼杵家の蓄積も、鑑速の活躍を支える大きな力となったであろう。彼の活動は、戦国時代の大名が、単に軍事力によってのみその存亡を左右されたのではなく、高度な外交戦略とそれを実行しうる有能な家臣の存在によっても大きく支えられていたことを如実に物語っている。

第五章:領国経営と内政手腕

臼杵鑑速は、戦場や外交の舞台で活躍する一方で、大友氏の領国経営と内政においても重要な役割を担った。特に、戦略的要衝である筑前国の統治や、経済的基盤となる博多の管理、さらには領内の寺社政策などを通じて、その内政手腕を発揮した。

一.筑前国志摩郡代としての統治

鑑速の兄・臼杵鑑続は、筑前国志摩郡(現在の福岡市西区から糸島市一帯)の郡代として、大友氏による北部九州支配の安定化に大きく貢献したことが知られている 5 。鑑速もまた、弘治年間(1555年~1558年)より兄の後を継いで加判衆を務めるとともに、兄が担っていた豊前方分や筑前方分といった役職を引き継いだとされる 3 。これらの「方分」は、特定地域の統治責任者としての広範な権限を有していた。

志摩郡代の職務は多岐にわたり、郡内における訴訟の処理、所領の給付や没収といった土地に関する問題の裁定、そして寺社の保護などが含まれていた 20 。さらに、当時国際貿易港として繁栄していた博多の支配への関与も、志摩郡代の極めて重要な職務の一つであった。博多津内(港湾地区)で発生する訴訟の解決、朝鮮半島との貿易の管理、そして荒廃した寺社の再興などを司り、大友氏の命令を博多の町に伝達し、その統治を実質的に担う役割も果たしていた 20

臼杵鑑速が具体的に志摩郡代としてどのような活動を行ったかを示す直接的な記録は、現存する史料の中では限られている。しかし、兄・鑑続が担っていた職務内容や、鑑速自身が「筑前方分」として筑前国全体の統治に責任を負っていたという事実から、彼がこれらの広範な統治業務に深く関与し、大友氏の筑前支配の安定と発展に尽力したことは想像に難くない。

二.寺社政策への関与

大友氏は、領国支配の一環として寺社政策にも積極的に取り組んでいた。例えば、大友義鑑の時代である天文5年(1536年)に発給された「大友義鑑屋山禁制寫」という文書には、屋山長安寺という寺院に対して、堂社の修理や管理に関する詳細な規定が示されており、仏事祭礼への専念、料田(寺社領)の保全、修理費用の確実な調達、山林の保護などが厳しく命じられている 12 。これは、鑑速の父・長景や兄・鑑続の時代から、大友氏が寺社に対する統制を重視していたことを示している。

臼杵鑑速自身が、寺社の修理や管理に関して直接的に発給した制札などの具体的な史料は、現在のところ明確にはなっていない。しかし、彼が加判衆として大友氏の最高政策決定に関与し、また方面の統治責任者(方分)として広範な権限を有していたことを考慮すれば、領内の寺社の保護や統制、あるいは寺社を通じた民衆掌握といった政策に深く関与していた可能性は極めて高いと言える。事実、志摩郡代の職務内容にも「寺社の保護」が含まれている 20

鑑速が寺社関連の問題解決に直接関与した事例としては、永禄4年(1561年)に起きた、奈多鑑基(なた あきもと)という人物による宇佐八幡宮(豊前国一宮)の神領横領問題が挙げられる。この時、宇佐八幡宮の宮司たちは、臼杵鑑速と吉岡長増の二人の宿老に窮状を訴え出た。これを受けて鑑速らは、鑑基の行為を厳しく叱責し、横領された領地を元に戻させるなど、事態の収拾に尽力したと伝えられている 17 。この一件は、鑑速が単に主命を奉じるだけでなく、在地社会の秩序維持や宗教的権威との調整においても重要な役割を果たしていたことを示している。

鑑速の内政における役割は、特に筑前国という大友氏にとって戦略的にも経済的にも極めて重要な地域における支配を安定させ、博多のような国際交易都市の管理を通じて経済的利益を確保することに重点が置かれていたと考えられる。寺社政策への関与も、単に宗教的な側面からだけでなく、在地社会の秩序維持、領民の掌握、そして時には寺社勢力を通じた情報収集や国人層への影響力行使といった、より広範な統治上の課題として捉えられていたのであろう。彼の活動は、戦国大名が軍事力だけでなく、実務的な統治能力と、それを支える有能な家臣団によって領国を維持・発展させていたことを示す好例と言える。

第六章:鑑速をめぐる人々

臼杵鑑速の生涯と業績を理解する上で、彼を取り巻く人々との関係性を抜きにして語ることはできない。主君である大友宗麟、そして立花道雪や吉岡長増といった同僚たちとの間に築かれた信頼と連携、さらには家族との関わりが、彼の行動と思想に大きな影響を与えたと考えられる。

一.主君・大友宗麟との関係

臼杵鑑速は、大友義鑑とその子である義鎮(宗麟)の二代にわたって大友氏に仕えた宿将である 3 。特に宗麟の治世においては、その主要な家臣団の中核を成す存在として重用され、宗麟政権の安定と発展に大きく貢献した。

宗麟が元服する際に室町幕府将軍から「偏諱(へんき)」(名前の一字)を賜る交渉や、豊前・筑前両国の守護職を大友氏が継承するにあたっての幕府との折衝など、宗麟の権威を確立し、その支配の正当性を内外に示す上で極めて重要な外交任務を、鑑速は吉岡長増らと共に担った 3 。これらの成功は、宗麟の初期の治世を安定させる上で大きな意味を持った。

宗麟から鑑速への個人的な信頼の厚さを示す逸話として、名物茶入として名高い「大内瓢箪(おおうちひょうたん)」(後に「大友瓢箪」とも呼ばれる)に関するものがある。この茶入は、元々大内氏が所持していたが、大内氏滅亡の際に毛利元就の手に渡り、その後、何らかの経緯で大友宗麟が入手したものである。宗麟はこの貴重な茶入を、一時的にではあるが臼杵鑑速に下賜し、鑑速がこれを所持していたという記録が残っている 3 。後にこの茶入は豊臣秀吉に献上され、さらに上杉家へと伝わったとされるが、宗麟がこのような天下の名物を一時的にせよ鑑速に預けたという事実は、両者の間に単なる主従関係を超えた深い信頼関係が存在したことを物語っている。また、別の史料によれば、大友宗麟は亡くなった夫人を弔うために、臼杵氏の本拠地である臼杵の城下に宝岸寺という寺院を建立しており 21 、臼杵の地が宗麟にとっても所縁の深い場所であったことがうかがえる。

二.立花道雪、吉岡長増ら同僚との連携

臼杵鑑速は、大友氏の政権運営において、他の有力な重臣たちと緊密に連携し、それぞれの専門性を活かしながら主家を支えた。

  • 立花道雪(戸次鑑連)との関係:
    立花道雪(戸次鑑連)は、吉弘鑑理と共に、臼杵鑑速と並んで「豊後三老」と称された、大友家中随一の勇将であった 1。鑑速と道雪は、秋月氏討伐 7、門司城争奪戦 3、立花鑑載の謀反鎮圧 10 など、数多くの重要な軍事行動を共にした。戦場における両者の連携は、大友軍の強さの源泉の一つであったと言える。
    さらに、両家の間には姻戚関係も存在した。道雪の継母(父・戸次親家の後妻)は、臼杵鑑速の姉にあたる養孝院(ようこういん)であった 6。このような血縁関係が、両者の個人的な信頼関係をより強固なものにした可能性は十分に考えられる。
    鑑速の死後、立花道雪は「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と深く嘆いたと伝えられており 3、これは道雪がいかに鑑速の存在と能力を高く評価し、その死を惜しんでいたかを如実に示している。
  • 吉岡長増(宗歓)との関係:
    吉岡長増(宗歓)もまた、「豊後三老」の一人であり、臼杵鑑速と共に「豊州二老」とも称された、大友氏の政務・外交を担う中心人物であった 1。両者は特に政務・外交面において緊密に連携し、大友氏の国政を運営した。
    室町幕府や諸大名との交渉 3、島津氏との和睦仲介 17、宇佐八幡宮領問題の解決 17 など、多くの重要案件を共同で処理し、その知略と交渉力によって大友氏の国益を守り、拡大した。吉岡長増の死後、鑑速は島津氏との交渉を単独で行う場面も見られ 3、長増が担っていた役割の一部を鑑速が引き継いだことがうかがえる。

臼杵鑑速は、立花道雪のような武勇に優れた同僚とは戦場でその力を合わせ、吉岡長増のような知略に長けた同僚とは政務・外交の場で知恵を絞り合うという形で、それぞれの能力を最大限に活かしつつ効果的に連携することで、大友氏の国政を多角的に支えていた。これらの重臣間の強固な信頼関係と、それぞれの専門性を尊重した協力体制こそが、大友宗麟時代の初期から中期にかけての大友氏の隆盛を支えた重要な要因であったと言えるだろう。宗麟は、これらの有能な家臣たちに大幅な権限を委任することで、広大な領国と複雑な内外の情勢に的確に対応することができた。一方で、これらの重臣たちの発言力は相当なものであり、宗麟の意思決定にも大きな影響を与えたことは想像に難くない。彼らの死が、立花道雪によって「大友の政治は無道」とまで評されるほどの影響力を持っていたという事実は、彼らがいかに大友氏の屋台骨を支える存在であったかを物語っている。

三.嫡男・臼杵統景と臼杵家の行く末

臼杵鑑速の嫡男は臼杵統景(むねかげ)と言い、将来を嘱望された若武者であった。しかし、天正6年(1578年)、日向国で起こった耳川の戦いにおいて、大友軍は島津軍に歴史的な大敗を喫する。この戦いで、統景はわずか18歳(史料によっては15、6歳とも 22 )という若さで討死してしまった 1

統景の死は、敵将であった島津家久(いえひさ)でさえ涙を流してその死を惜しんだと伝えられるほど、多くの人々に衝撃を与えた 11 。彼は文武両道に優れ、特に能楽に長けていたという 22 。その才能と将来性が期待されていただけに、その早すぎる死は臼杵家にとって計り知れない損失であった。

統景の戦死により、臼杵家の嫡流は断絶の危機に瀕し、統景の従兄弟にあたる臼杵鎮尚(しげなお)が家督を継ぐことになった 1 。鎮尚はその後も大友氏に仕え、侵攻してくる島津氏に対して臼杵城で抵抗するなど奮戦したが、大友氏の勢力は次第に衰退していく。そして、宗麟の子である大友義統(よしむね)の代に、文禄・慶長の役における失態を理由に豊臣秀吉によって改易されると、戦国武将としての臼杵氏もまた、その歴史に実質的な終止符を打つこととなった 1

臼杵鑑速の死(天正3年/1575年)と、そのわずか3年後の嫡男・統景の戦死は、臼杵家にとってまさに壊滅的な打撃であったと言える。それだけでなく、大友氏全体にとっても、これは極めて大きな損失であった。鑑速が長年にわたり築き上げてきた政治的・軍事的な影響力と、その全てを継承することが期待されたであろう統景の将来が一挙に失われたことは、大友氏の弱体化を一層加速させる一因となった可能性が高い。鑑速が担っていた外交、内政、軍事における重責を、統景が順調に継承していれば、大友氏の歴史もまた異なる展開を見せたかもしれない。耳川の戦いでの大敗と、統景のような有力な若手武将の死は、大友氏内部の士気低下や求心力の低下を招き、その後の衰退を決定づける大きな出来事であったと評価できよう。

第七章:人物像と逸話

臼杵鑑速がどのような人物であったかを知る手がかりは、同時代や後世の史料に残された評価や、彼にまつわる逸話の中に見出すことができる。

一.史料に見る鑑速の人物評

鑑速の人物像を端的に示す評価として、軍記物である『高橋記』の中に見られる「才徳勇猛の良将」という言葉が挙げられる 3 。これは、彼が単に戦場で武勇を誇るだけでなく、知略(才)に優れ、人としての徳性(徳)も兼ね備えた、バランスの取れた優れた武将であったことを意味している。

また、第六章でも触れたように、立花道雪が鑑速らの死後に「大友の政治は無道でしかない」と嘆いたことや 3 、江戸時代の豊後の賢人として知られる三浦梅園(みうら ばいえん)が「臼杵鑑速、吉岡宗歓がいれば(耳川の戦いのような)こんな戦いはなかったであろうに」と評したとされること 3 は、鑑速がいかに同時代及び後世の人々から高く評価され、その死が惜しまれたかを示している。これらの言葉は、彼が大友氏の安定と繁栄にとって不可欠な存在であったと認識されていたことの証左である。

外交交渉における粘り強さや、豊前方分、筑前方分といった複数の方面統治責任者を兼任し、複雑な領国経営をこなしたことからも、鑑速が実務能力に長け、大局を見据えたバランス感覚に優れた人物であったことが推察される 3

二.鑑速にまつわる逸話

臼杵鑑速自身に直接関わる逸話として特筆すべきは、主君・大友宗麟が毛利元就から譲り受けたとされる天下の名物茶入「大内瓢箪(大友瓢箪)」を、一時的にではあるが鑑速が拝領し、所持していたという記録である 3 。茶道が武将の嗜みとして重視された戦国時代において、このような貴重な名物を下賜されるということは、鑑速が単に武勇や政務に長けていただけではなく、文化的な素養も持ち合わせていたか、あるいは宗麟からそれほどまでに深い個人的な信頼と寵愛を受けていたことを示すものと言えよう。

また、直接的には鑑速本人ではなく、その嫡男・統景に関するものではあるが、統景の死後にまつわる不思議な伝説も興味深い。耳川の戦いで若くして命を落とした統景が、その戦場跡を通りかかった修験者の夢枕に立ち、故郷の臼杵にいる縁者に宛てた短冊を託したという話が伝えられている 11 。この短冊が実際に臼杵の縁者の元に届けられ、それが統景の筆跡であったことから、人々はその霊験に涙したという。このような伝説が生まれる背景には、統景がいかに非凡な人物として周囲から期待され、その夭折が深く悼まれたかという事情がある。これらの伝説は、鑑速の家庭における教育や家風、そして統景という息子への想いを間接的に反映している可能性も否定できない。

これらの評価や逸話から浮かび上がる臼杵鑑速の人物像は、単に武勇一点張りの武将ではなく、政治・外交・軍事の各方面で高い能力を発揮し、かつ人としての徳や文化的素養も備えた、戦国時代の理想的な家臣像に近いものであったと考えられる。彼の死が多くの人々によって惜しまれたのは、その多才さと、大友氏にとってまさにかけがえのない存在であったからに他ならない。彼の能力だけでなく、その「徳」によって人望を集め、大友家中の調和や安定に貢献していたのではないだろうか。彼の死は、単に一人の有能な家臣を失ったというだけでなく、大友氏の権力構造や家臣団のバランスを崩すほどの大きな出来事であった可能性が高い。

おわりに

本報告書では、戦国時代の豊後大名・大友氏の重臣であった臼杵鑑速の生涯と、彼が主家において果たした多岐にわたる役割について、現存する史料に基づいて詳細に検討してきた。

臼杵鑑速は、大友氏がその勢力を最も拡大した全盛期から、次第に衰退へと向かう過渡期において、政治、軍事、そして外交のあらゆる分野にわたり、まさに大友氏の中枢を支える柱石として活躍した。加判衆として国政の重要決定に関与し、「豊後三老」及び「豊州二老」の一人として他の宿老たちと連携しながら、主君・大友宗麟を補佐した。戦場においては数々の主要な合戦に参加して武功を挙げ、特に門司城争奪戦や秋月氏討伐などではその将才を発揮した。外交面では、隣国である島津氏との困難な交渉や、室町幕府、諸大名との折衝、さらには海外貿易に至るまで、その手腕を振るった。内政においては、筑前国志摩郡代や筑前方分として、戦略的要衝の統治と安定に貢献し、博多という国際交易都市の管理を通じて大友氏の経済的基盤を支えた。

しかし、天正3年(1575年)の鑑速の死、そしてそのわずか3年後の天正6年(1578年)の耳川の戦いにおける嫡男・統景の戦死は、臼杵家にとって計り知れない打撃であったばかりでなく、大友氏のその後の運命にも大きな影を落とした。鑑速という経験豊富で有能な指導者と、将来を嘱望されたその後継者を相次いで失ったことは、大友氏の人的資源の枯渇を招き、その後の急速な衰退の一因となったと言っても過言ではないだろう。

『高橋記』が評するように「才徳勇猛の良将」であった臼杵鑑速は、武勇のみならず、知略、政治力、交渉力、そして人徳と文化的素養をも兼ね備えた、戦国時代における稀有な武将であった。その総合力とバランス感覚こそが、大友宗麟政権にとって不可欠なものであり、彼の死が同時代及び後世の人々によって深く惜しまれた理由もそこにある。

臼杵鑑速に関する研究は、今後も新たな史料の発見や解釈によって、さらに深められていくことが期待される。特に、彼個人の発給文書や、より詳細な活動記録が明らかになれば、その実像は一層鮮明になるであろう。また、同時代の他の戦国大名家臣たちとの比較研究を通じて、戦国期における家臣の役割や大名権力との関係性について、より普遍的な知見を得ることも可能になるかもしれない。臼杵鑑速という一人の武将の生涯を追うことは、戦国時代という激動の時代を生きた人々の姿と、当時の社会構造を理解する上で、依然として多くの示唆を与えてくれると言えよう。

引用文献

  1. 臼杵氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E6%B0%8F
  2. 大友の外交官 臼杵 鑑続(うすき あきつぐ)|ひでさん - note https://note.com/hido/n/n550540b806ad
  3. 臼杵鑑速 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E9%91%91%E9%80%9F
  4. 戦国人物・生没日一覧 http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/date/date001.htm
  5. 臼杵鑑速~筆頭家老として島津氏と交渉 - 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/media/230224.pdf
  6. 臼杵鑑続 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E9%91%91%E7%B6%9A
  7. 毛利元就32「大友・毛利氏の攻防①」 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page111.html
  8. 【永禄四年の門司城争奪戦】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2031604010
  9. 戦国九州三国志(我輩は豆である) - 【第一章】門司城攻防戦(二) | 小説投稿サイトノベルアップ+ https://novelup.plus/story/619944002/670539773
  10. 人物紹介・系図 - 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 http://www.muneshige.com/dousetsu.html
  11. 臼杵鑑速が生きていたら、大友氏の凋落はなかったかもしれない - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Bz3Ie1ZF9TA
  12. 大 友 氏 の 制 札 の 研 究 - 高崎経済大学機関リポジトリ https://tcue.repo.nii.ac.jp/record/688/files/KJ00008479119.pdf
  13. 立花道雪 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%81%93%E9%9B%AA
  14. 立花道雪の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/250
  15. 人物紹介④(127話~272話) - 『転生したら弱小領主の嫡男でした!!元アラフィフの戦国サバイバル~時代・技術考証や設定などは完全無視です!~』(姜維信繁) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330655393577399/episodes/16817330657055039761
  16. 豊後 千歳城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bungo/senzai-jyo/
  17. 吉岡長増 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
  18. 戦国期大友氏の軍事編成について : 「同心」感状 の分析を通じて - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/223197996.pdf
  19. 大海原の王 「大友宗麟」 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o029/bunkasports/citypromotion/documents/5147ff54002.pdf
  20. No.314 戦国時代の博多展7-大友氏と柑子岳城- | アーカイブズ ... https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/314/index.html
  21. 戦国大名城下町の移転と大名権力 https://our.repo.nii.ac.jp/record/2008814/files/yagi34-1.pdf
  22. 日向国 謎の事件簿-臼杵統景 亡霊 詠歌の事 - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/nazo/usukimunekage.htm