黒田官兵衛(孝高・如水)と長政の親子二代に仕え、筑前福岡藩の礎を築いた功臣たち。その中でも特に功績のあった家臣を顕彰した「黒田二十四騎」は、後藤又兵衛や母里太兵衛といった勇将を筆頭に、後世にその名を轟かせている 1 。この綺羅星のごとき家臣団の中にあって、菅正利(かん まさとし)は「武勇抜群」の猛将として、ひときわ異彩を放つ存在である。慶長の役における虎退治、そして関ヶ原の戦いにおける石田三成の懐刀・島左近の討ち取りという二大武勇伝は、彼の勇猛さを象徴するものとして広く知られている 1 。
しかし、彼の真価は、そうした華々しい逸話に留まるものではない。本報告書は、利用者諸賢が既に把握されている情報の範疇を超え、福岡藩の公式記録である『黒田家譜』や、菅家自身が後世に編纂した家史『菅氏家譜』などの史料を丹念に読み解き、その出自、生涯にわたる戦歴、藩政における統治者としての一面、そして多面的な人物像を徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする 4 。戦国乱世の終焉と江戸という新たな時代の幕開け、その激動の転換点を駆け抜けた一人の武将の生涯を、ここに詳述する。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
事項 |
永禄10年 |
1567年 |
1歳 |
9月19日、播磨国揖東郡越部村にて生まれる 6 。 |
天正9年 |
1581年 |
15歳 |
黒田孝高に小姓として出仕。「六之助」の名を賜る 1 。 |
天正11年 |
1583年 |
17歳 |
4月、賤ヶ岳の戦いで初陣。首級二つを挙げる 6 。 |
天正12年 |
1584年 |
18歳 |
3月、第二次紀州征伐・岸和田城攻めで一番槍の功名を挙げる 1 。 |
天正15年 |
1587年 |
21歳 |
九州平定に従軍。根白坂の戦いで島津軍の戦術を看破する 1 。城井鎮房との戦功により朱具足と貞宗の脇差を拝領、豊前で200石を知行 1 。 |
文禄元年 |
1592年 |
26歳 |
文禄の役に従軍。平壌、海州などで活躍 1 。 |
文禄3年 |
1594年 |
28歳 |
朝鮮にて虎を斬り伏せる 1 。 |
慶長2年 |
1597年 |
31歳 |
慶長の役に従軍。明軍の弓の名手を討ち取るも、右頬に毒矢による傷を負う 1 。 |
慶長3年 |
1598年 |
32歳 |
300石を加増され、500石となる 1 。 |
慶長5年 |
1600年 |
34歳 |
9月、関ヶ原の戦いに従軍。島左近を鉄砲隊で狙撃し、小早川秀秋への使者を務めるなど多大な功を挙げる 1 。 |
慶長6年 |
1601年 |
35歳 |
筑前国にて3000石を拝領し、大組頭、怡土・志摩両郡の代官に任命される 1 。御前試合で剣術の名人に三戦三勝する 1 。 |
慶長10年 |
1605年 |
39歳 |
将軍・徳川秀忠の諱を憚り、「忠利」から「正利」に改名 1 。 |
元和4年 |
1618年 |
52歳 |
長政の命により、糸島郡の新田開発、早良川の干拓工事を指揮する 1 。 |
元和7年 |
1621年 |
55歳 |
嫡子・重利に家督を譲り隠居。福岡城南二の丸城番となる 1 。 |
元和9年 |
1623年 |
57歳 |
主君・黒田長政の死に伴い出家。「松隠宗泉」と号する 1 。 |
寛永2年 |
1625年 |
59歳 |
6月29日、死去 1 。 |
菅正利の武勇と功績の根源を探る上で、彼の出自は看過できない。菅家は、学問の神として知られる菅原道真の末裔を称している 1 。戦国武将が自らの家格を高めるために名門の血筋を引くことは珍しくないが、菅家の場合、その出自は「美作菅氏(有元氏)」という、歴史的に実在した武士団に具体的に結びついている 1 。
美作菅氏は「菅家党」とも呼ばれ、平安時代に菅原道真の子孫・知頼が美作守として下向したことに始まるとされる、由緒ある一族であった 10 。彼らは美作国北東部を拠点とし、有元氏を惣領家として、広戸氏、福光氏、原田氏など複数の支流を抱える同族的武士団を形成していた 11 。特に南北朝の動乱期には、後醍醐天皇に味方する南朝方として奮戦し、その活躍は軍記物語『太平記』にも記されている 1 。この事実は、菅家が単なる地方の土豪ではなく、中央の政争にも関与した歴史を持つ、格式高い武門の家柄であったことを示している。
しかし、栄枯盛衰は世の常であり、戦国時代の度重なる戦乱の中で菅家党の勢力は衰微した。『菅氏家譜』によれば、正利の祖父・公直の代に、一族は故郷の美作を離れ、播磨国揖東郡越部邑へと移り住んだとされる 1 。これは、戦乱によって領地を失い、再起を期しての移住であった可能性が高い 14 。この播磨の地で、父・菅七郎兵衛正元を経て、永禄10年(1567年)9月19日、菅正利は生誕する 6 。そして天正9年(1581年)、15歳の正利は、当時播磨で勢力を拡大していた黒田孝高(官兵衛)に小姓として出仕し、新たな時代の武士としてその第一歩を踏み出すのである 1 。
黒田家に仕官した正利の才能は、早くから主君・孝高の目に留まった。孝高は、黒田家中の勇将として名高い吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるようにと、正利の通称を「孫次」から「六之助」へと改めさせた 1 。これは、若き家臣に対する大きな期待の表れであり、彼の武士としてのキャリアにおける重要な画期となった。
その期待に応えるかのように、正利は戦場で目覚ましい活躍を見せる。天正11年(1583年)、17歳で迎えた賤ヶ岳の戦いでは、初陣の緊張をものともせず、敵の首を二つ挙げるという鮮烈な武功を立て、賞賛を浴びた 1 。翌天正12年(1584年)には、羽柴秀吉による第二次紀州征伐に従軍し、中村一氏が籠る岸和田城の攻防戦において、黒田長政と共に一番槍の功名を挙げた 1 。
彼の能力は、単なる猪武者としての勇猛さに留まらなかった。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定戦では、その戦術眼が光る。日向国根白坂の戦いにおいて、島津軍が得意とする「釣り野伏せ」(偽りの敗走で敵を誘い込み、伏兵で包囲殲滅する戦術)をいち早く看破。深追いしようとする味方を制止し、黒田軍を壊滅の危機から救ったのである 1 。この功績は、彼が血気にはやるだけの若武者ではなく、戦況を冷静に読み解く知勇兼備の将器を備えていたことを示す、初期のキャリアにおける重要な逸話である。
時期 |
名称・官位 |
備考 |
幼名 |
菅 孫次 |
|
天正9年(1581年)頃 |
菅 六之助 |
黒田孝高の命により改名 1 。 |
慶長5年(1600年)頃 |
菅 忠利 |
諱。主君・黒田長政、その子・忠之の「忠」の字を拝領したか。 |
慶長6年(1601年)頃 |
菅 和泉守 忠利 |
官位「和泉守」を称す 1 。 |
慶長10年(1605年) |
菅 和泉守 正利 |
2代将軍・徳川秀忠の諱「忠」を避け、改名 1 。 |
元和9年(1623年) |
松隠宗泉 |
長政の死後、出家して得た号 1 。 |
九州平定後、黒田家は豊臣秀吉から豊前国六郡を与えられ、中津城を拠点とする大名となった。しかし、この国替えに不満を抱く旧領主・城井鎮房が反旗を翻し、黒田家は入国早々、困難な戦いに直面する 1 。この城井谷での戦いにおいて、菅正利の忠誠心と武勇は一層輝きを増した。黒田長政が城井方の待ち伏せにあって敗走を余儀なくされた際、正利は自らの馬を差し出して主君の脱出を助け、その窮地を救ったのである 16 。
この一連の戦いにおける功績は絶大であり、戦後、長政は正利の武勇を讃え、特別な褒賞を与えた。それは、戦場で猛将の証とされる「朱具足(しゅぐそく)」と、名工・貞宗作の脇差であった 1 。朱塗りの甲冑は、戦場で極めて目立つため、敵を威圧し味方を鼓舞する効果がある一方、敵の攻撃目標にもなりやすい。それゆえ、着用を許されるのは、それに足る武勇と覚悟を持つ、選ばれた者のみであった。この朱具足の拝領は、菅正利が黒田家中で並ぶ者のない勇将として、主君長政から公に認められたことを意味するものであった。
豊臣秀吉による天下統一事業の一環として行われた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、菅正利の武名は海を越えて轟くこととなる。文禄元年(1592年)の平壌の戦いでは敵兵と大男を斬り伏せ、海州城の戦いでは鎖分銅の達人に苦戦する味方を救援、翌年の白川城の戦いでは物見に来た敵の騎士を討ち取って重要な敵情を得るなど、数々の具体的な戦功が記録されている 1 。
中でも彼の武勇伝として最も有名なのが、文禄3年(1594年)の「虎退治」である。主君・長政が催した虎狩りの最中、突如現れた猛虎が足軽に襲いかかった。その時、傍らにいた正利は臆することなく、一刀のもとに虎を斬り伏せ、その首を刎ねたという 1 。この逸話は、単なる武勇伝に留まらず、後世、文化的な権威付けがなされていく。彼が虎退治に用いた刀は、備前国の刀工・義次の作とされ、後に当代随一の碩学である林羅山によって、中国・晋代の勇者である周処が南山の虎を退治した故事にちなみ「南山刀」と命名された 1 。さらに、禅僧・春屋宗園からは「秦は虎狼の国なり」という中国の古語に基づき、「斃秦(へいしん)」という銘も与えられている 1 。これらの命名は、正利の武勇が、儒教的・禅的な教養に裏打ちされた「徳のある武」として、当代の知識人たちによって公認・昇華されたことを示している。
彼の武勇は敵国にも知れ渡った。慶長2年(1597年)の稷山の戦いでは、明軍の弓の名手が放つ矢に味方が苦戦する中、正利は馬で突撃してこれを一刀のもとに斬り捨てた。その際、右頬に毒矢を受け、後々まで痣が残るほどの深手を負ったが、その勇猛果敢な戦いぶりは、三国志の英雄で、泣く子も黙ると言われた魏の猛将・張遼に喩えられたという 1 。この「日本の張遼」という異名は、彼の武名が国境を越えて敵味方から畏敬されていたことの証左である。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この大一番において、菅正利は黒田長政の腹心として、戦闘のみならず多岐にわたる重要な役割を担った。彼は、戦いの鍵を握るとされた小早川秀秋との人質交換の護衛役を務め、さらには秀秋の東軍への寝返りを促すための使者としても奔走した 1 。また、本戦の最中には、石田三成方の鉄砲隊から主君・長政を守る盾となるなど、調略と護衛の両面で活躍した 1 。
合戦当日、黒田長政隊は東軍の主力として、石田三成の本陣が置かれた笹尾山の麓に布陣した西軍最強の部隊、島左近隊と激突した 21 。島左近の巧みな指揮のもと、石田隊は柵と空堀を駆使した野戦陣地で奮戦し、戦況は膠着状態に陥った。この状況を打開したのが、菅正利率いる鉄砲隊であった。『黒田家譜』をはじめとする複数の記録によれば、正利は精鋭の鉄砲隊を率いて戦場を迂回し、高所から島左近隊の側面を狙って猛烈な一斉射撃を加えた 25 。この奇襲攻撃によって島左近は致命的な傷を負い、西軍の士気は大きく低下したとされる 22 。これは、関ヶ原の戦いの趨勢を決定づけた重要な局面の一つであった。
島左近の最期については、この時の銃撃が元で死亡したとする説が、黒田側の史料を中心に広く伝えられている。しかし、異説も存在する。特に、備中早島を領した戸川氏の家史『戸川記』には、宇喜多家の旧臣で、関ヶ原では東軍に属した戸川達安(みちやす)が、再出陣してきた島左近を討ち取ったとの伝承が記されている 22 。
説 |
主な内容 |
根拠史料・伝承 |
考察 |
菅正利による銃撃説 |
黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊が側面から銃撃。これにより島左近は負傷し、戦線を離脱。この傷が元で死亡したとされる。 |
『黒田家譜』 26 、その他軍記物 25 |
黒田家の公式記録であり、東軍の勝利に貢献した自家の功績を強調する意図はあるものの、戦況の流れと整合性が高く、最も有力な説の一つ。 |
戸川達安による討ち取り説 |
銃撃で負傷した後、再度出陣してきた島左近を、加藤嘉明隊の先鋒であった戸川達安の軍勢が討ち取ったとする。 |
『戸川記』 22 、戸川家伝承 25 |
戸川家の家史に基づく伝承。自家の功績を顕彰する目的で記された可能性があり、他の史料との比較検討が必要。 |
生存・逃亡説 |
致命傷を負った後、戦場から離脱し、京都の寺で僧として余生を送った、あるいは農民になったなどの伝説が残る。遺体が見つかっていないことが根拠。 |
各地の伝承、立本寺の墓など 25 |
遺体が見つからなかった英雄に付随しがちな伝説。近年の墓の発掘調査などで新たな展開も見られるが、確証はない。 |
島左近の武勇は凄まじく、対峙した黒田家の将兵が「恐怖のあまり、左近がどのような出で立ちであったか、誰一人として思い出せなかった」と語るほどであった 22 。このような傑出した武将であったからこそ、その最期を巡って複数の討ち取り説や生存伝説が生まれたと考えられる。いずれにせよ、菅正利の鉄砲隊による側面攻撃が、西軍最強の部隊を機能不全に陥らせ、東軍勝利への大きな突破口を開いたことは、歴史的事実として高く評価されるべきであろう。
関ヶ原での大功により、菅正利の黒田家における地位は不動のものとなった。慶長6年(1601年)、黒田長政が筑前国52万石の太守として入国すると、正利は3000石という破格の知行を与えられ、藩の主力部隊を率いる大組頭、そして怡土郡・志摩郡の両郡を管轄する代官に任命された 1 。彼の知行地には飯氏村などが含まれ、一族や家臣を与力として配下に置き、この地域の支配を任された 5 。
戦乱の時代が終わり、藩政の基礎を固めるべき新たな時代が到来すると、正利はその能力を治世の分野で発揮する。長政にとって、新領地における石高の増加は喫緊の課題であった。この重要政策を担うべく、正利は長政の命を受け、藩政初期における最重要事業の一つであった新田開発、特に現在の福岡県糸島市にあたる地域での大規模な干拓事業を指揮した 1 。この事業は、単なる戦闘能力ではなく、土木技術の知識、民を動かす統率力、そして長期的な計画を遂行する行政手腕が求められる、極めて高度な任務であった。
この事業における彼の功績は、単なる記録の中に留まらず、今なお地名として人々の生活の中に息づいている。彼が新田開発のために整備した雷山川の下流域は、彼の官位である「和泉守(いずみのかみ)」にちなんで、敬意を込めて「泉川(いずみがわ)」と呼ばれるようになったのである 32 。これは、彼の治績が地域社会に深く根付き、後世まで語り継がれている何よりの証左と言えよう。菅正利は、戦場での武勇によって主君の信頼を勝ち取り、その信頼を基盤として、平和な時代の礎を築く行政官へと見事な転身を遂げたのであった。
菅正利の人物像は、数々の史料や逸話から、多角的に浮かび上がってくる。まず特筆すべきはその体躯である。『菅氏家譜』や『黒田家譜』は、彼の身長を六尺二寸(約190センチメートル)、あるいはそれを超える大男であったと記す 1 。さらに、金属製の鼎(かなえ)を素手で曲げるほどの剛力の持ち主であったと伝えられており、その体躯と力は戦場で絶大な威圧感を放ったことであろう 1 。
その武勇を支えたのが、卓越した剣術の技量である。正利は、二つの異なる流派の奥義を極めていた。一つは、後に宮本武蔵の父(または養父)として知られることになる新免無二斎から学んだ新当流。もう一つは、「新陰流四天王」の一人に数えられる達人、疋田景兼(文五郎)から学んだ新陰流である 1 。二大流派を修めた彼の剣技は達人の域にあり、「人を斬る際に殺気を全く感じさせなかった」という逸話は、彼の剣が単なる力任せのものではなく、極めて高度な精神性と技術に裏打ちされていたことを示唆している 1 。
その腕前が公に示されたのが、慶長6年(1601年)の御前試合である。黒田家に仕官を求めてきたある剣術の名人と、主君・長政の前で木刀による試合を三度行った際、正利は三度とも完勝した。面目を失ったその剣術者は、恥じてどこかへ立ち去ったという 1 。
一方で、彼は武辺一辺倒の人物ではなかった。自ら茶杓を制作するなど、茶の湯を嗜む文化人としての一面も持ち合わせていた 1 。これは、彼が武人としての強さのみならず、当代の武士に求められた教養をも兼ね備えていたことを物語っている。
これらの逸話を総合すると、「天性勇猛で物に動じず、仁愛の心深く、忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていた」という『黒田家譜』の評価は、決して誇張ではないことがわかる 1 。彼は、強靭な肉体と卓越した武技、冷静な判断力、そして深い教養と忠誠心を併せ持った、まさに智勇兼備の将であった。
武将の威容と武功は、その身を飾る武具や愛用の品々によっても後世に語り継がれる。菅正利を象徴する武具として、まず挙げられるのが「朱具足」である 1 。戦場で一際目を引くこの甲冑は、着用者に武勇と覚悟を求める、選び抜かれた猛将の証であった。
さらに、彼の肖像画には、極めて特異な形状の兜が描かれている。それは法螺貝を模した「法螺貝形兜(ほらがいなりかぶと)」である 1 。法螺貝は、古来より合戦の合図に用いられる重要な道具であり、これを兜のデザインに取り入れることは、自らが戦の先駆けであるという強い自負と、敵を圧倒する気概の現れと解釈できる。この兜は、安土桃山時代に流行した、武将の個性を強く反映した「変わり兜」の一種であり、正利の豪放な性格を物語る。残念ながら、この兜自体は現存していないが、尾形洞霄が描いた肖像画によってその姿を今に伝えている 40 。
彼の武功を物語る刀剣もまた重要である。朝鮮での虎退治で振るわれた刀は、備前国の刀工・義次の作とされ、後に「南山刀」の号を授けられた 20 。また、城井谷での戦功により長政から拝領した相州伝の名工・貞宗作の脇差も、彼の武勲を飾る名品である 1 。
そして、彼の逸話の信憑性を物理的に裏付けるのが、虎退治の際に得たとされる「虎の顎骨と爪」である 40 。これらの驚くべき遺品は、菅家に代々家宝として伝えられ、現在は子孫である菅亨氏より福岡市博物館に寄託されている「菅亨資料」の中に含まれている 40 。これらは、単なる伝説ではない、生々しい武功の物証として、他に類を見ない貴重な歴史遺産と言える。
英雄の家が、その没後も安泰であるとは限らない。菅正利の死後、家督は子の重利が継承したが、孫・正俊の代に家督相続が認められず、菅家は一時断絶の憂き目に遭う 40 。その後、一族の再出仕は許されたものの、知行は300石、幕末には100石まで漸減した 40 。これは、藩政初期にどれほど大きな功績を挙げた家臣であっても、その地位を維持することが容易ではなかった江戸時代の武家社会の厳しさを示している。
しかし、菅家の歴史と正利の功績は、一冊の書物によって後世に確固として伝えられることとなった。それが、明和7年(1770年)に成立した家史『菅氏家譜』である 4 。この家譜編纂の背景には、特筆すべき事情があった。正利の孫にあたる菅貞利が、福岡藩が誇る当代随一の碩学・貝原益軒に師事していたのである 5 。この縁により、『菅氏家譜』は益軒自らが序文を書き、その甥である貝原好古が編纂するという、極めて恵まれた形で成立した 5 。藩の公式史書『黒田家譜』の編纂責任者でもあった益軒の関与は、菅家の私的な記録に、公的な歴史書に匹敵するほどの高い信頼性と権威を与えることになった。
菅正利の武勇伝が、単なる口伝や逸話に留まらず、今日まで確かなものとして認識されている背景には、こうした知の権威による裏書があった。彼自身の並外れた武功という「事実」、それを物的に証明する虎の骨などの「遺品」、そしてその事実を体系的に記録し、権威付けした『菅氏家譜』という「記録」。この三つの要素が相互に作用し合うことで、菅正利の伝説は盤石なものとして形成されたのである。
菅正利は寛永2年(1625年)6月29日、59年の生涯を閉じた 1 。その墓所は、福岡市博多区御供所町の臨済宗寺院・順心寺にあり、同じく黒田二十四騎の一人である原種良の墓と隣接して静かに眠っている 30 。そして、彼が遺した武具や、彼に宛てられた主君からの書状といった貴重な史料は、子孫の菅亨氏によって大切に守り伝えられ、今日では「菅亨資料」として福岡市博物館に寄託され、我々が彼の生涯を研究するための貴重な窓口となっている 40 。
菅正利の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武将の中に、時代の変遷を生き抜くための複数の資質が凝縮されているのを見る。戦場においては、その巨躯と剛力、二大流派を極めた剣技をもって敵を圧倒する比類なき猛将であった。同時に、戦況を冷静に分析する戦術眼を兼ね備え、主君・黒田長政の危機を幾度も救い、天下分け目の関ヶ原では、島左近という強敵を打ち破る決定的な武功を挙げた。
しかし、彼の真価は戦場での活躍に留まらない。戦乱が終わり、統治の時代が訪れると、彼はその卓越した能力を藩政へと振り向けた。筑前福岡藩の草創期において、藩の経済基盤を確立するための最重要課題であった新田開発と干拓事業を指揮し、見事に成功させたのである。その功績が「泉川」という地名として今なお地域に刻まれている事実は、彼が武人としてだけでなく、有能な行政官としても非凡な才覚を持っていたことを雄弁に物語っている。
武人としての「勇」、行政官としての「智」、そして茶の湯を嗜む「教養」。これらを兼ね備えた菅正利は、まさに戦国乱世から近世へと移行する時代が生んだ、理想の武士像の一つであったと言えよう。黒田二十四騎の中でも、後藤又兵衛や母里友信といった猛将たちと並び称されるべき存在でありながら、彼らとはまた異なる資質で福岡藩の礎を築いた、智勇兼備の偉大な功臣として、その功績は後世まで語り継がれるべきである。