最終更新日 2025-06-17

菅達長

菅達長:激動の戦国時代を生き抜いた水軍の将の生涯

はじめに

菅達長は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、通称は平右衛門(尉)、越後守と称されました 1 。彼は淡路国を本拠とした土豪であり、淡路十人衆の一人として淡路島の東の海を掌握する水軍を率いた人物です 1 。その生涯は、毛利輝元、長宗我部元親、豊臣秀吉(秀頼)、そして藤堂高虎と、激動の時代の中で主君を幾度も変えながらも、水軍衆としての卓越した能力を活かし、九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵といった主要な戦役で重要な役割を果たしました 1

本報告書では、菅達長の生没年不詳の出自から、その生涯における主要な転換点、各勢力下での活動、特に水軍衆としての役割、晩年の動向、そして彼が創始したとされる「菅流」水軍術の伝承に至るまで、詳細かつ徹底的に調査し、その人物像と歴史的意義を多角的に考察します。


菅達長 主要経歴年表

年号(西暦)

和暦(元号)

主要な出来事

関連主君/勢力

情報源

不詳

不詳

生年不詳。淡路国の土豪・菅氏に生まれる。

菅氏

1

1576年

天正4年

毛利氏に従属し、岩屋城主となる。

毛利輝元

1

1581年

天正9年

羽柴秀吉による淡路攻めにより岩屋城落城、潜伏。

織田・豊臣勢力

1

1582年

天正10年

本能寺の変後、明智光秀に与し洲本城を奪取するも奪還される。四国へ渡る。

明智光秀、仙石秀久、長宗我部元親

1

1583年

天正11年

豊臣秀吉に対して謀反を起こす(石田三成が鎮圧に関与)。

豊臣秀吉

5

1584年

天正12年

小牧・長久手の戦いで雑賀衆と結び岸和田を攻めるも敗退。

長宗我部元親

1

1585年

天正13年

四国攻めにより長宗我部氏と共に豊臣氏に降伏。所領安堵、伊予国へ転封。

豊臣秀吉

1

不詳

不詳

豊臣水軍衆の一員となる。

豊臣秀吉

7

1587年頃

天正15年頃

九州征伐に参加。

豊臣秀吉

1

1590年

天正18年

小田原征伐に水軍として参加。

豊臣秀吉

8

1592年-1598年

文禄・慶長年間

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に舟奉行として出陣、軍功を挙げる。

豊臣秀吉

1

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦いで西軍に属し、所領を没収される。尼崎に蟄居。

西軍

1

不詳

不詳

藤堂高虎に仕え、今治藩家老となる。

藤堂高虎

1

1614年

慶長19年

死没(一部資料では1614年没)。長男三郎兵衛も大坂冬の陣で自害。

藤堂高虎、豊臣秀頼

1


第一章:出自と淡路国における初期の動向

基本情報と出自

菅達長の生年は不詳ですが、慶長19年12月26日(1615年1月25日)に没したとされています 1 。ただし、一部の資料には1614年没との記述も見られます 11 。彼は平右衛門(尉)を通称とし、越後守の官位を持っていました 1 。墓所は兵庫県洲本市安乎町の真浄寺にあります 1

菅氏は、学問の神として知られる菅原道真を輩出した菅原氏の末裔とされていますが、その血筋を裏付ける確たる証拠は乏しく、淡路国の国衆(土豪)であったと考えるのが妥当です 1 。達長の父は菅遠江守と伝えられていますが、彼の生い立ちに関する詳細はほとんど不明です 1

達長の生年が不詳であり、出自が有力な菅原氏の末裔とされるものの裏付けが乏しい(淡路の土豪と見なされている)点は、当時の淡路国衆の多くがそうであったように、中央の権力構造から見れば地方の小勢力であったことを示しています。地方の土豪出身であるため、詳細な記録が少ないのは当時の一般的な状況でした。しかし、このような曖昧な出自にもかかわらず、彼が水軍を率いる「海賊衆」としての実力を持っていたからこそ、その後の激しい戦乱の中で毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏といった大名に仕える機会を得ることができたと考えられます。彼の出自の曖昧さは、当時の地方豪族が戦乱の中でいかにして頭角を現し、生き残りを図ったかを示す一例であり、血筋よりも実力が重視された戦国時代の特性を反映していると言えるでしょう。

毛利氏への従属と岩屋城主時代

天正年間に入ると、淡路島は中国地方の毛利氏と、近畿を治め勢力を拡大する織田信長との間で、覇権を争う最前線となりました 1 。この戦略的要衝において、淡路の国衆はどちらの勢力に与するか、重大な選択を迫られました。そのような中、菅達長は他の国衆が織田方につくか決めかねる中で、いち早く毛利方につき、独自の判断を示しました 1

達長が淡路国衆の中でいち早く毛利氏に与したことは、彼の戦略的先見性、あるいは毛利氏との間に強い地縁や血縁関係があった可能性を強く示唆しています。淡路島が織田と毛利の勢力圏の境界に位置する戦略的要衝であったことを踏まえると、早期に一方の勢力に身を置くことで、自領の安堵と勢力拡大を図ったと解釈できます。天正4年(1576年)、毛利輝元の軍勢が織田方の安宅信康が守る淡路島岩屋城を落城させると、毛利方に与していた達長が岩屋城主となりました 1 。この事実は、彼が単なる土豪ではなく、一定の軍事力と統治能力を持つ存在として毛利氏に認められた証拠です。以後、彼は石山本願寺攻めでも毛利方に与し、水軍衆として毛利氏の海上戦略を支えたと考えられます 1

織田・豊臣勢力との対立と淡路島平定

天正9年(1581年)11月中旬、織田方の四国攻めの足がかりとして、羽柴秀吉が池田元助と共に淡路島に攻め入ると、達長が守る岩屋城はわずか1日で落城しました 1 。淡路島は織田・羽柴軍によって掃討され、多くの国衆が滅ぼされる中で、達長はこれを逃れて潜伏しました 1

達長が岩屋城を1日で失陥し、潜伏を余儀なくされた事実は、織田・羽柴軍の圧倒的な軍事力と、当時の淡路国衆の脆弱性を示しています。羽柴秀吉による淡路島侵攻の迅速な成功は、織田・豊臣勢力の軍事力の優位性、特に水軍を含む総合的な戦力の高さを物語るものです。地方の土豪が中央集権的な大勢力に抗うことの困難さを示唆していますが、達長が完全に滅ぼされずに潜伏できたのは、彼が水軍の将としての海上での機動力や、淡路の地理に精通していた地の利を活かしたためと推測されます。この生存能力こそが、彼の後の再起に繋がる重要な要因となりました。

本能寺の変後の混乱と洲本城を巡る攻防

天正10年(1582年)6月3日、本能寺の変で織田信長が死去すると、天下は混乱の渦に巻き込まれました。この混乱期に乗じて、達長は明智光秀に与し、当時仙石秀久の支配下にあった洲本城を奪取しました 1 。本能寺の変による権力空白と混乱は、達長にとって失われた淡路の旧領を回復し、再び勢力を拡大する絶好の機会であったと認識されたことでしょう。明智光秀への与力と洲本城奪取は、彼が単なる日和見主義者ではなく、自らの独立性を追求する強い意志を持っていたことを示しています。

しかし、洲本城はすぐに羽柴秀吉方の廣田蔵之丞らに奪還され、達長は四国へ渡り、長宗我部元親の家臣である香宗我部親泰の与力となりました 1 。その後も、天正11年(1583年)1月23日には、淡路国の菅達長が秀吉に対して謀反を起こし、その鎮圧に関して石田三成(当時の実名は三也、幼名は佐吉)が広田蔵丞に書状を出しています 5 。この謀反の具体的な理由や背景、石田三成と達長の具体的な関係性については、提供された資料からは詳細が不明です 5 。しかし、秀吉の迅速な反撃により洲本城を失い、長宗我部氏に身を寄せた後も、再度秀吉に対して謀反を起こしたことは、彼が淡路支配への強い執着と、秀吉への抵抗を粘り強く続けたことを示しています。この謀反の鎮圧に石田三成が関与していたという事実は、淡路島が秀吉の天下統一戦略において極めて重要な拠点であり、その安定支配のために側近を動員するほどの価値があったことを裏付けています。謀反の具体的な理由や背景が資料から不明であることは、当時の地方の動向に関する史料の限界を示すとともに、達長の行動が中央の視点から見ると、その詳細な動機よりも結果としての抵抗が重要視された可能性を示唆しています。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、雑賀衆と結び、3月18日に岸和田へ攻め入りましたが敗退しました 1 。この一連の行動は、彼が単なる従属的な水軍衆ではなく、時勢を見極め、自らの勢力拡大を図る独立志向の強い武将であったことを示しています。

第二章:豊臣政権下での転身と水軍衆としての活躍

四国攻めと豊臣氏への帰属経緯

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国攻めが開始され、達長は主君である長宗我部元親と共に豊臣氏に降伏しました 1 。長宗我部氏の降伏に伴い、達長も豊臣氏に帰属することになったのは、彼が独立した勢力として抗しきれない中央集権化の流れに直面したことを意味します。

降伏後、達長は豊臣政権下で所領を安堵され、1万石ないし1万5,000石を知行されました 1 。この時期に淡路から伊予国へ転封になったとされています 1 。達長が、かつて敵対し、自らの領地を奪った豊臣秀吉に降伏し、しかも所領を安堵された上に転封という形で豊臣政権に組み込まれたことは、彼の水軍としての実力が秀吉に高く評価された結果です。これは、秀吉が旧敵であっても有能な人材を積極的に登用し、全国統一に向けた軍事力を強化する方針を持っていたことを示す好例と言えます。淡路から伊予への転封は、彼の地盤を切り離しつつも、水軍としての役割を継続させるための措置であったと考えられます。過去の敵対関係にもかかわらず、有能な人材を登用する秀吉の柔軟な政策が、達長の生存と再起を可能にしました。

豊臣水軍衆における菅達長の位置づけと役割

豊臣政権下において、菅達長は九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明らと共に豊臣水軍の一翼を担う存在となりました 7 。達長が、九鬼・藤堂・脇坂・加藤といった名だたる水軍の将たちと並んで豊臣水軍に名を連ねていることは、彼が淡路の土豪から、全国規模の軍事作戦に参加する豊臣政権の重要な構成員へと地位を確立したことを意味します。これは、彼の水軍としての経験と能力が、天下統一を目指す豊臣秀吉の広範な軍事戦略において不可欠な要素であったことを明確に示しており、彼の専門能力が戦国時代の武将が生き残り、出世するための重要な要素であったことを裏付けています。

九州征伐における水軍としての貢献

提供された資料には、菅達長が九州征伐において具体的にどのような役割を果たしたかについての詳細な記述は見られません 1 。しかし、豊臣水軍の一員として参戦したことは確実であるため、海上からの兵糧輸送や補給、あるいは沿岸部の制圧などに貢献した可能性は高いと考えられます。九州征伐における達長の具体的な役割が明記されていないことは、彼の活動が個別の武功として特筆されるよりも、豊臣水軍全体の組織的な活動の一部として機能していたことを示唆しています。水軍は陸上部隊の進攻を支える重要な補給線や側面攻撃を担うため、彼の貢献は間接的ではあるものの、戦役の成功に不可欠であったと推測されます。

小田原征伐における水軍としての役割

天正18年(1590年)の小田原征伐において、菅達長は長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治、毛利水軍らと共に、約1万の水軍の一員として参戦しました 8 。小田原征伐は豊臣秀吉による天下統一の総仕上げであり、陸海両面からの大規模な動員が行われました。

豊臣水軍は、2月20日に志摩に集結し、2月27日には駿河国江尻湊へ到着、3月初旬には伊豆長浜城を攻撃・占領するなど、小田原城包囲網の一角を担いました 8 。達長が豊臣水軍の主要な構成員として明確に記述されていることは、彼がこの重要な戦役において、その水軍力を提供する義務と能力を有していたことを示しています。水軍は海上からの城攻め、兵糧・物資の輸送、敵の海上からの補給路遮断など、陸上部隊の進攻を支える上で不可欠な役割を担っており、達長の貢献は小田原征伐の成功に大きく寄与したと考えられます。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での舟奉行としての活動と軍功

『太閤記』によれば、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では舟奉行として250人を率いて出陣し、主に輸送船団の護衛衆を務めました 1 。朝鮮出兵は日本から朝鮮半島への大規模な海上輸送を伴う遠征であり、兵站・補給線の確保が極めて重要でした。達長が「舟奉行」として250人を率い、主に輸送船団の護衛を務めたことは、彼の水軍が単なる戦闘部隊としてだけでなく、この遠征の生命線とも言える兵站・補給を支える専門的な役割を担っていたことを示唆しています。

彼は漆川梁海戦などで軍功を挙げたと記録されており 1 、これは護衛任務を遂行する中で、実戦においてもその能力を発揮し、豊臣軍の作戦遂行に貢献したことを証明しています。秀吉が死去した際には、遺品の長光の太刀を受領したと伝えられており 1 、これは秀吉からの厚い信頼を得ていたことを示唆するものです。

第三章:晩年の動向と子孫、そして「菅流」の伝承

関ヶ原の戦いでの西軍所属と所領没収

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、菅達長は九鬼嘉隆と共に西軍に属して戦いました 1 。関ヶ原の戦いは、豊臣政権の存続をかけた重大な局面であり、多くの大名や武将が東西いずれかに属することを迫られました。達長が九鬼嘉隆と共に西軍に属したことは、彼が豊臣家への忠誠心を持っていたか、あるいは豊臣政権下で得た地位や利権を維持しようとした結果と解釈できます。九鬼嘉隆との連携は、かつての豊臣水軍の主要メンバーが、関ヶ原の戦いにおいてもその連携を維持していたことを示唆しています。戦後、西軍に属したため所領を没収され、尼崎に蟄居を余儀なくされました 1 。これは戦国時代における敗者の典型的な末路であり、彼の波乱に満ちた生涯の最終局面を示しています。

藤堂高虎への仕官と大坂の陣での最期

所領没収後、達長は藤堂高虎に仕え、今治藩の家老となりました 1 。関ヶ原での敗戦と所領没収という逆境にもかかわらず、達長が藤堂高虎という徳川方の有力大名に家老として召し抱えられたことは、彼の持つ水軍衆としての高い専門性と経験が、新たな時代においても価値を認められた証拠です。特に高虎自身も水軍の将として名を馳せた人物であり、達長の能力を正当に評価し、家臣として迎えたと考えられます。

達長は慶長19年12月26日(1615年1月25日)に死去しました 1 。長男の三郎兵衛(和泉守)は長宗我部元親家臣としての活動が見られ、大坂冬の陣で父と共に自害したとされています 1 。この記述は、達長が最晩年まで豊臣方(あるいは反徳川方)として大坂の陣に関与した可能性、または藤堂家臣として参戦した際に、豊臣方についた長男と運命を共にしたという、彼の生涯の複雑な終焉を示唆しています。

達長の子女たちの系譜とそれぞれのその後の動向

達長には、三郎兵衛(和泉守)、長政(仁三郎)、権之佐(右衛門八)、半兵衛義、忠左衛門、正陰(又四郎)の六人の子がいたとされています 1 。達長が関ヶ原で西軍に属し所領を失った後も、彼の子女たちがそれぞれ異なる道を歩み、一部は新たな大名に仕えて家系を存続させたことは、戦国から江戸への過渡期における武士階級の多様な生き残り戦略を示しています。

以下に、達長の子女たちの系譜とそれぞれのその後の動向を示します。

菅達長の子女と系譜

子の名前(通称、別名)

続柄

主要な活動/仕官先

その後の動向/最期

特記事項

情報源

三郎兵衛(和泉守)

長男

長宗我部元親家臣

大坂冬の陣で父と共に自害。

1

長政(仁三郎、若狭守)

次男

小早川秀秋家臣、池田利隆家臣

家は断絶した。

1

権之佐(右衛門八)

三男

池田輝政家臣、池田忠継家臣、淡路洲本藩(忠長)家臣、鳥取藩家老

関ヶ原で失領後、池田家に仕え、鳥取藩家老として3,000石を食む。

「菅流」水軍術の伝承者の一人。鳥取藩の4家老の一人。

1

四男

四男

鳥取藩(権之佐より分知)

家は断絶し、知行は五男に相続された。

権之佐より550石を分知。

1

五男

五男

鳥取藩(権之佐より分知)

子孫は藩士として続いた。

権之佐より450石を分知。

1

正陰(又四郎)

不詳

慶長の役の碧波亭下の水戦で戦死。

系図には名前がないとの注釈あり。

1

特に三男の権之佐が、父と同じく関ヶ原で西軍に属しながらも、池田家に仕え、最終的に鳥取藩の家老として3,000石を食むまでに栄達したことは、彼の才覚と、新時代における水軍衆の需要、あるいは池田家の寛容さを示すものと言えるでしょう。これは、武士の家系が存続するためには、個人の能力や新たな主君への適応能力が不可欠であったことを物語ります。一方で、家が断絶した者や戦死した者もおり、武士の世の厳しさを物語っています。

「菅流」水軍術の創始と後世への伝承

達長が創始した水軍の術「菅流」は、三男の権之佐によって代々伝えられ、『菅流水軍要略』などの書物が残されています 13 。達長が「菅流」という水軍術を創始したという事実は、彼が単なる実戦指揮官に留まらず、水軍に関する深い知識と経験を持ち、それを体系化する能力があったことを示しています。

この「菅流」が三男の権之佐によって後世に伝えられ、『菅流水軍要略』という書物として残されたことは、達長の軍事的な遺産が後世に継承され、彼の水軍専門家としての評価が確立されたことを意味します。これは、彼が日本の水軍史において、単なる一武将以上の、流派の創始者としての重要な位置を占めることを明確にしています。

第四章:人物像と歴史的評価

史料から読み解く菅達長の人物像

提供された資料からは、菅達長の具体的な人物像を直接的に描写する史料は少ないものの、彼の行動からその人物像を間接的に推測することが可能です。

彼は淡路島の地を拠点に、毛利氏、長宗我部氏、そして豊臣氏へと主君を転々としたことから、激動の時代を生き抜くための現実主義的かつ適応能力の高い人物であったと言えます 1 。特定の忠義に固執せず、自らの家と水軍衆としての存続を最優先する現実主義者であったことがうかがえます。

本能寺の変後の混乱期に明智光秀に与し洲本城を奪取、さらには豊臣秀吉に対して謀反を起こすなど 1 、独立志向が強く、自らの勢力や旧領の回復に執着する一面も持ち合わせていました。これらの行動は、彼が淡路の旧領回復と独立を強く志向する地方豪族であったことを裏付けます。

しかし、最終的には豊臣政権に帰属し、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵といった大規模な軍事作戦に水軍衆として参加し、特に朝鮮出兵では「舟奉行」として輸送船団の護衛という重要な役割を担い、軍功を挙げていることから 1 、その水軍指揮官としての実力と組織への順応性は高かったと評価できます。これは、彼が単なる日和見主義者ではなく、その能力と忠誠心(特定の主君ではなく、自身の家と水軍衆としてのアイデンティティに対する)が評価された結果と言えます。秀吉の遺品である長光の太刀を受領したという記述は 1 、秀吉からの厚い信頼を得ていたことを示唆しており、彼の専門能力と忠実な働きが秀吉に高く評価されていたことを物語っています。

関ヶ原の戦いで西軍に属し所領を失うも、その後藤堂高虎に仕え、その子孫が藩の家老となるなど、逆境からの再起を図るしたたかさも持ち合わせていました 1 。これは、彼のしたたかさと、水軍衆の専門性が新時代においても価値を失わなかったことを物語っています。

戦国時代における水軍衆としての歴史的意義

菅達長の歴史的意義は、激動の戦国時代において、水軍という専門能力を武器に、中央の権力闘争に深く関与し、その中で自身の家系を存続させた点にあります。彼は淡路島という戦略的要衝を拠点とした水軍の将として、毛利氏、長宗我部氏、そして豊臣氏といった当時の主要な大名勢力にとって、その海上支配を左右する重要な存在でした 1

特に豊臣政権下での彼の活躍は、九州征伐や小田原征伐における海上からの支援、そして朝鮮出兵における輸送船団の護衛という兵站の要としての役割を通じて、水軍が天下統一事業や大規模遠征において陸上部隊と並ぶ戦略的価値を持っていたことを明確に示しています 1 。彼の水軍が果たした役割は、単なる戦闘支援にとどまらず、豊臣秀吉の天下統一事業における広域的な兵站・補給体制の構築に不可欠であったと言えるでしょう。

さらに、彼が創始したとされる「菅流」水軍術が後世に伝えられ、書物として残されていることは 13 、彼が単なる実戦の指揮官に留まらず、水軍戦術の理論化・体系化にも貢献した、水軍史における重要な専門家であったことを示唆します。これは、彼が日本の水軍史において、単なる一武将以上の、流派の創始者としての重要な位置を占めることを明確にしています。

現代における評価と関連研究の概観

提供された資料からは、菅達長個人に対する現代の一般的な評価や人物像に関する直接的な記述は限定的です 4 。しかし、彼の生涯を研究対象とした論文「菅流水軍の祖菅平右衛門尉道長の生涯とその史料」(田中健夫著)が存在することから 14 、専門の歴史研究分野においては、水軍史や地域史の観点から重要な研究対象とされていることがわかります。

彼の存在は、仙石秀久など他の著名な武将の行動の文脈で語られることが多いですが 4 、これは彼が特定の地域の水軍を率いた専門家であったため、より広範な歴史叙述の中では、その役割が個別の人物像よりも機能として捉えられがちであることを示唆しています。菅達長は、戦国時代の主要な出来事の裏側で、水軍という専門分野を支えた「縁の下の力持ち」的な存在であったため、一般には知名度が低いのかもしれません。しかし、専門の研究者からは、水軍史や地域史の文脈でその重要性が認識され、研究対象となっています。彼の生涯は、戦国大名間の複雑な関係性、水軍の戦略的価値、そして激動の時代を生き抜いた地方豪族の多様な姿を理解するための貴重な事例を提供しています。したがって、彼の歴史的意義は、個人のカリスマ性よりも、水軍という専門集団の代表者として、戦国大名間の複雑な関係性や、激動の時代における地方豪族の多様な生き残り方を理解する上で貴重な事例を提供することにあると言えます。

結論

菅達長は、淡路国の土豪・海賊衆として生まれ、毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏、そして藤堂氏と、めまぐるしく主君を変えながらも、その水軍としての能力を最大限に活かし、戦国時代から江戸時代初期の激動期を生き抜いた稀有な武将です。

彼の生涯は、淡路島という戦略的要衝を巡る争いの中で、地方の小勢力が中央の権力闘争に巻き込まれ、いかにして自らの存続と地位向上を図ったかを示す好例です。特に豊臣政権下では、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵といった主要な戦役において、水軍の将、あるいは舟奉行として重要な役割を担い、天下統一事業や遠征を海上から支える不可欠な存在でした。秀吉から遺品を授かるほどの信頼を得ていたことは、彼の能力と貢献が豊臣政権に高く評価されていた証左と言えるでしょう。

また、彼が創始した「菅流」水軍術が後世に伝えられたことは、単なる武将に留まらず、水軍戦術の発展に寄与した専門家としての彼の歴史的意義を確立しています。関ヶ原の戦いで西軍に属し所領を失うも、最終的には藤堂高虎に仕え、その子孫が藩の重臣として存続したことは、彼の家が持つ水軍としての技術と、乱世を生き抜くしたたかさを物語っています。

菅達長の生涯は、戦国時代における水軍衆の重要性、そして激しい勢力図の変動の中で、個々の武将がいかにして自己のアイデンティティと家系を維持しようと奮闘したかを示す貴重な事例であり、日本史における彼の存在は再評価されるべきです。

引用文献

  1. 菅達長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%81%94%E9%95%B7
  2. 1580年 – 81年 石山本願寺が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1580/
  3. 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い https://sengokumap.net/history/1582-3/
  4. 仙石秀久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46492/
  5. 佐和山城主としての石田三成 https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2018/h2018_02.pdf
  6. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  7. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  8. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  9. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  10. 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1597/
  11. 菅達長(カンミチナガ)|戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=2267&bflag=1
  12. 「小田原征伐」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  13. 地区の歴史・文化 https://sumoto-karuta.awajishimamuseum.com/a_bumon/
  14. 古筆手鑑『筆陣』所収羽柴秀吉書状 https://jissen.repo.nii.ac.jp/record/2179/files/%E5%B9%B4%E5%A0%B139%E5%8F%B7-5.pdf