藤原純友は平安中期の貴族で、瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に反乱を起こした。没落貴族の不満を背景に勢力を拡大し、武士台頭のきっかけを作った。朝敵と英雄の二面性を持つ。
平安時代中期、承平・天慶年間(931年-947年)に、日本の東西で国家の根幹を揺るgasu二つの大規模な反乱が勃発した。東国における平将門の乱と、西国における藤原純友の乱である。これらは「承平・天慶の乱」と総称され、律令国家体制の黄昏と、来るべき武士の時代の到来を告げる画期的な事件として歴史に刻まれている 1 。
この西国の動乱の主役こそ、藤原純友(ふじわらのすみとも)である。彼は一般に、伊予国(現在の愛媛県)を拠点に瀬戸内海の海賊を率い、朝廷に反旗を翻した「海賊の首領」として知られている 4 。その生涯は、朝廷への反逆、瀬戸内海の席巻、そして部下の裏切りによる悲劇的な敗死という、劇的な物語として語られてきた。
しかし、この通説的な人物像は、藤原純友という人間の多層的な側面を捉えきれているとは言い難い。彼はなぜ、名門貴族の血を引く者でありながら、反逆の道を選んだのか。彼が率いた「海賊」とは、一体どのような人々だったのか。そして彼の反乱は、当時の社会にどのような衝撃を与え、後世に何を遺したのか。本報告書は、純友の出自、彼が生きた時代の社会的背景、乱の具体的な経緯、そして後世における多様な評価を丹念に追うことで、単なる「反逆者」のレッテルを超えた、藤原純友という人物の実像に多角的に迫ることを目的とする。
藤原純友の行動原理を理解するためには、まず彼が置かれていた特異な境遇、すなわち名門の血脈と裏腹の中央政界における疎外感に目を向ける必要がある。
藤原純友は、平安貴族社会の頂点に君臨した藤原氏、その中でも最も権勢を誇った藤原北家の出身である 6 。さらにその系統を辿ると、摂関政治の礎を築いた藤原冬嗣を祖とし、その子・長良(ながら)を直接の祖とする、紛れもない本流に近い血筋であった 6 。
特筆すべきは、摂関家との血縁的な近さである。純友の祖父・藤原遠経(とおつね)の弟は、人臣として初めて関白の座に就いた藤原基経(もとつね)であった 9 。基経は叔父である藤原良房の養子となって権力の頂点に立ったため、純友の父・藤原良範(よしのり)と、当時の最高権力者であった摂政関白・藤原忠平(基経の子)は、血縁上は従兄弟という極めて近い関係にあった 9 。
これほどの良血に生まれながら、純友の家系は栄達の道から外れていく。祖父・遠経は従四位下、父・良範も大宰少弐(だざいのしょうに)という地方官の地位で早世、あるいは中央政界で大成することなくそのキャリアを終えたとみられる 9 。親の官位が子の出世を大きく左右する「蔭位(おんい)の制」が厳然と存在する貴族社会において、父祖の不運は純友自身の将来に暗い影を落とした 12 。結果として、純友の家は摂関家との近さにもかかわらず政治的影響力を喪失し、彼は中央での出世の道を事実上閉ざされた「没落貴族」の境遇に甘んじることとなったのである 2 。
この「本来あるべきだった地位」と「現実の境遇」との著しい乖離こそが、純友の複雑な心理を形成した根源と考えられる。彼が抱いたのは、単に官位が低いことへの不満ではなく、血筋に見合わぬ不遇を強いられているという「相対的な剥奪感」であった。この屈折した感情が、中央の権威への反感と、自らの実力で名誉を回復しようとする渇望を育み、後の反乱へと向かわせる内的な動因となった可能性は極めて高い。
当時の貴族社会は、厳格な身分階層によって成り立っていた。三位以上の「公卿」、四位・五位の「諸大夫(殿上人)」、そして六位以下の「侍(じげ)」である 12 。特に五位と六位の間には、天皇の日常生活の場である清涼殿への昇殿が許されるか否かという、天と地ほどの隔たりが存在した 14 。着用できる袍(ほう)の色も位階によって厳密に定められ、五位以上が緋色や紫色を許されたのに対し、六位以下は緑や縹(はなだ)色に制限されており、その格差は視覚的にも明らかであった 15 。
純友が乱を起こす前の官職は伊予掾(いよのじょう)であり、その官位は「従七位下」であったと伝えられる 17 。これは貴族とは見なされない下級官人の地位であり、彼の高い血筋とは全く不釣り合いなものであった。日常的に接するであろう摂関家の一族が、生まれながらにして高位を得て宮中を闊歩する姿は、彼の自尊心を深く傷つけただろう。
後に朝廷が懐柔策として提示した「従五位下」という官位は、彼にとってこの「見えない壁」を越え、殿上人、すなわち真の貴族の仲間入りを果たすことを意味した 17 。彼が一度はこの提案を受け入れた背景には、この身分秩序の壁を乗り越えることへの強い執着があったことが窺える。彼の闘争は、経済的・政治的なものに留まらず、自らの価値を認めさせ、身分秩序を実力で覆そうとする象徴的な意味合いを帯びていたのである。
純友の出自については、彼が藤原氏ではなく、伊予の在地豪族である越智氏(おちし)の一族、高橋友久の子であったが、国司として赴任してきた藤原良範の養子になった、という異説が存在する 1 。
この説は、江戸時代に成立した『大村家譜』などが初出であり、同時代の史料には一切見られないことから、現代の歴史学においては「歴史的にはあり得ない」として否定されているのが通説である 1 。
しかし、この説が学術的に正しくないとしても、なぜこのような伝説が在地社会、特に伊予で生まれ、語り継がれたのかを考察することは、純友という人物を理解する上で非常に重要である。この伝説は、純友が中央から派遣された官吏でありながら、いかに深く伊予の在地社会に根を下ろし、土着の勢力と一体化していたかを示す「記憶の表象」と解釈できる。彼の乱は、伊予の土着豪族である越智氏(後の河野氏)の一族が追討に功績を挙げたとも伝えられており、在地社会から見れば、純友の乱は「中央から来た藤原氏」対「在地の越智氏」という単純な構図ではなかった 19 。後世、伊予の人々が純友を「元は自分たちと同じ越智氏の一員だった」と語ることは、彼の反乱を外部者による侵略ではなく、在地社会の「内なるドラマ」として意味づける行為であった。これは、彼が在地社会からある種の共感や英雄視を受けていたことの力強い傍証と言えよう 22 。
中央での将来を絶たれた純友が、その活路を西国に見出し、やがて朝廷を揺るgasu存在へと変貌していく過程は、彼の伊予掾時代に集約される。
承平2年(932年)頃、純友は父の従兄弟にあたる藤原元名が伊予守(または介)に任じられた際、その配下である伊予掾として現地に赴任したとされる 11 。当時、瀬戸内海では海賊行為が頻発しており、その鎮圧が彼の重要な任務の一つであった 2 。
承平6年(936年)、純友はそのキャリアにおいて特筆すべき功績を挙げる。彼は武力に頼るのではなく、海賊たちと直接交渉し、実に2,500名余りを一斉に投降させたのである 2 。この卓越した手腕は朝廷からも高く評価されたと伝えられる 2 。この逸話は、純友が単なる武人ではなく、海賊たちの置かれた窮状や不満を深く理解し、彼らが受け入れ可能な条件を提示できる、優れた交渉能力の持ち主であったことを示している。彼自身も中央から疎外された立場であったため、国司の収奪などに苦しむ海賊たちの境遇に共感する素地があったのかもしれない。
この成功体験を通じて、純友は鎮圧対象であったはずの海賊たちから絶対的な信頼を勝ち得た。彼の役職は「海賊追捕」であったが、その実態は、彼らを自らの影響下に置く「海賊の組織化」へと変質していった。彼は鎮圧者から、彼らの利害を代弁する理解者、そして指導者へとその立場を変化させていったのである。
伊予掾としての任期が終了した後も、純友は京へは帰らなかった。彼は伊予に留まり続け、やがて宇和海に浮かぶ日振島(ひぶりじま)を本拠地として、1,000艘もの船団を擁する紛れもない海賊の首領となった 5 。その勢力は部下600人、大型輸送船4隻、快速中型船20数隻を擁し、広大な耕地も手中に収めるなど、一個の独立した軍事・経済勢力と呼ぶべき規模にまで成長していた 24 。
彼が土着を選んだ理由については、朝廷からの恩賞への不満や、京に戻っても将来性のない生活が待つだけという絶望感、あるいは海賊たちへの同情などが挙げられている 2 。しかし、彼のその後の行動を見る限り、これは単なる自暴自棄の結果ではない。むしろ、中央の価値観(官位序列)から脱却し、地方における実力(武力と経済力)の世界に新たな活路を見出すという、意識的な「戦略的転身」であったと解釈すべきである。
京での出世が絶望的な以上、彼は伊予の地に、京の朝廷とは異なる、彼自身を頂点とする独自の政治・経済秩序を構築しようとした。日振島は彼の「首都」であり、船団は彼の「軍隊」、そして制海権を握った瀬戸内海は彼の「領土」であった。純友の土着は「都落ち」ではなく、新たな権力基盤を築くための「建国」の第一歩だったのである。
藤原純友の乱を正しく理解するためには、彼が率いた「海賊」がどのような存在であったかを知ることが不可欠である。彼らは単なる無法者の集団ではなかった。
9世紀から10世紀にかけて、律令制に基づく国家支配は大きく弛緩し、地方の社会秩序は混乱していた 19 。この時代背景の中で、瀬戸内海に「海賊」が頻出した。当時の「海賊」とは、特定の社会集団を指す言葉ではなく、「海上で盗みを働く」という犯罪行為、およびその担い手を指す概念であった 26 。その構成員は多様であった。
彼らの行動の根底には、国司による搾取や、中央政府の無策に対する強い不満があった 19 。海賊行為は、多くの場合、生きるための最後の手段であり、同時に体制への抵抗という側面を持っていた。純友は、こうした多様な不満分子を「反・中央政府」「反・国司」という共通の旗印の下に束ねる、卓越した組織者としての役割を果たしたのである。
近年の研究では、純友が当初鎮圧した「承平南海賊」と、後に彼が率いて乱を起こした勢力とでは、その中核をなす構成員の性格が異なると指摘されている 17 。
承平年間に活動した海賊は、在地富豪層出身の元舎人たちが中心で、経済的な既得権益の主張が主な目的であった 17 。それに対し、純友が蜂起した際の反乱軍の中核は、海賊鎮圧後も治安維持のために伊予に土着した、純友自身のような武芸に秀でた中下級の官人層であった 17 。彼らは、京の貴族社会から脱落し、武功によって官位を得て名誉を回復しようとしたが、その功績を上級貴族である受領(ずりょう)層に横取りされ、さらには収奪の対象とされるという矛盾した状況に置かれていた 17 。
この分析は極めて重要である。なぜなら、それは純友の反乱軍が、単なる海賊の寄せ集めではなく、東国で平将門が形成した武士団とほぼ同じ性格を持つ、西国における「初期武士団」であったことを示唆するからである 17 。彼らの闘争は、生活のための略奪や抵抗に留まらず、武功に対する正当な評価と、武士としての新たな社会的地位を求める、アイデンティティを賭けたものであった。承平・天慶の乱は、東西で同時発生した「武士の独立戦争」の第一段階と位置づけることができ、藤原純友は「海賊王」であると同時に、西国における「最初の武士団の棟梁」の一人だったのである。
将門の乱に呼応するかのように始まった純友の反乱は、瀬戸内海全域を巻き込み、京の都を震撼させる大動乱へと発展していく。
表1:承平・天慶の乱 主要人物一覧
勢力 |
氏名 |
役職・立場 |
乱における主な動向 |
純友軍 |
藤原 純友 |
伊予掾、反乱軍首謀者 |
瀬戸内海を制圧し、大宰府を攻略するが、博多湾で敗れ、橘遠保に討たれる。 |
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藤原 文元 |
純友の部将 |
備前介・藤原子高を襲撃し、乱の口火を切る。備前・備中を攻撃。 |
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藤原 三辰 |
純友の部将(前山城掾) |
讃岐国府を攻撃するが、後に捕縛され、京で梟首される。 |
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藤原 恒利 |
純友の部将 |
乱の終盤で朝廷側に寝返り、純友軍敗北の要因を作る。 |
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藤原 純乗 |
純友の弟 |
大宰府攻略に参加するが、柳川で橘公頼軍に敗れる。 |
将門軍 |
平 将門 |
鎮守府将軍、反乱軍首謀者 |
関東八カ国を制圧し「新皇」を称するが、平貞盛・藤原秀郷に討たれる。 |
朝廷軍 |
藤原 忠平 |
摂政・関白 |
朝廷の最高権力者として、東西の反乱鎮圧を指揮。 |
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小野 好古 |
純友追討長官 |
追討軍を率いて九州へ下り、博多湾の海戦で純友軍を破る。 |
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源 経基 |
純友追討次官 |
小野好古の副官として純友追討に参加。清和源氏の祖。 |
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橘 遠保 |
伊予警固使 |
伊予に逃げ帰った純友を捕縛・誅殺する。 |
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大蔵 春実 |
追捕使 |
海路から純友軍を攻め、博多湾の海戦で中心的な役割を果たす。 |
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藤原 秀郷 |
下野押領使 |
平貞盛と共に平将門を討伐する。 |
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平 貞盛 |
平国香の子 |
叔父・将門と対立し、藤原秀郷と共に将門を討つ。 |
天慶2年(939年)12月、純友はついに朝廷への反逆の意思を明確にする。部下の藤原文元に命じ、純友の非道を朝廷に訴えようと上洛中であった備前介・藤原子高を、摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市・西宮市周辺)で襲撃させた 2 。子高は耳や鼻を削がれるなどの残虐な仕打ちを受け、妻子も殺害・略奪された 2 。この国司襲撃事件は、もはや私闘や海賊行為の範疇を越え、国家への公然たる挑戦であり、藤原純友の乱の事実上の始まりであった 18 。
この蜂起は、東国で平将門が「新皇」を称したという衝撃的な報が京に届いた時期と、奇しくも重なっていた 2 。『純友追討記』が記すように、将門の決起が純友の背中を押したことは想像に難くない 29 。朝廷は、東西で共謀した反乱ではないかと恐怖に陥った 17 。ただし、後世に語られるような両者の密約伝説は、史実ではなく創作と見るのが妥当である 1 。
東西同時反乱という未曾有の危機に直面した朝廷は、まず兵力を将門討伐に集中させる方針を採った。そして純友に対しては、天慶3年(940年)1月、追討使を任じつつも、従五位下という破格の官位を与えて懐柔しようと試みた 17 。純友はこの提案を一旦は受け入れたが、それは将門の乱の帰趨を見極め、自軍の体制を整えるための時間稼ぎに過ぎず、海賊行為を止めることはなかった 17 。彼の蜂起は、将門の乱という政治的・軍事的状況を最大限に利用した、極めて計算された戦略的行動であった。
懐柔策に応じるふりを見せながらも、純友の勢力は活動をさらに活発化させた。天慶3年(940年)2月には淡路国の兵器庫を襲撃して武装を強化 17 。京の周辺では放火が頻発し、「純友、都に攻め上る」との噂が流れて人心は混乱を極めた 17 。
同年2月に将門討滅の報が届くと、純友は一時日振島へ引き返すが、これを機に朝廷が西国へ目を向けることを見越し、先手を打って本格的な攻勢に転じた。部将の藤原文元が備前・備中、藤原三辰が讃岐の国府をそれぞれ襲撃して焼き払い、瀬戸内海沿岸の国衙機能を次々と麻痺させていった 11 。
純友軍は瀬戸内海の制海権を完全に掌握し、西国諸国から京へ運ばれる官物や私財の輸送ルートを遮断した 18 。これは京の経済を直撃する兵糧攻めであり、彼の乱が単なる暴動ではなく、国家の機能を揺るgasu戦略性を持っていたことを示している 24 。純友軍の戦術は、卓越した機動力を活かしたゲリラ戦と、経済の大動脈を断つという、海賊勢力ならではの「非対称戦争」であった。広大な沿岸地域の全てを守りきれない朝廷は、純友軍の神出鬼没な攻撃に翻弄され続けた。
将門の死により、朝廷が全戦力を西国に振り向けることが可能となった。この危機的状況に対し、純友は守勢に回るのではなく、さらに大胆な行動を選択する。京への上洛ではなく、西方の政治・経済・軍事の中心地である大宰府の攻略を目指したのである 4 。
天慶4年(941年)5月、純友軍は関門海峡を突破して九州に上陸。大宰府を攻撃し、これを焼き討ちにして占領した 33 。大宰権帥の橘公頼らは筑後国へ敗走し、純友は一時的にせよ、古代以来の対外交易と西国防衛の拠点であった大宰府をその手に収めた 35 。これは純友の勢力が頂点に達した瞬間であり、彼の野望が単なる瀬戸内の支配に留まらず、京とは別の「西海王国」の樹立という壮大な構想にまで及んでいた可能性を示唆している。
純友の栄光は長くは続かなかった。小野好古が率いる追討軍本隊が九州に到着すると、戦局は一気に動く 24 。好古は陸路から、大蔵春実は海路から大宰府を攻撃した 33 。純友軍は博多湾で官軍を迎え撃ったが、この「博多湾の海戦」で激戦の末に大敗を喫した 2 。官軍の火計によって純友軍の船は次々と炎上したとも伝えられ、800艘以上の船を失い、その戦力は壊滅的な打撃を受けた 2 。
この敗北の背景には、軍事的な劣勢に加え、内部からの崩壊があった。決戦に先立つ同年2月、純友軍の幹部であった藤原恒利が朝廷側に寝返っていたのである 11 。恒利は官軍を純友の本拠地・日振島へと案内し、その陥落を助けた 17 。この裏切りは、寄せ集めであった反乱軍の結束の脆弱性と、追い詰められた状況下での内部対立を露呈した。
博多湾で敗れた純友は、息子・重太丸らわずかな手勢とともに小舟で伊予へと逃げ延びた 2 。しかし、天慶4年(941年)6月、潜伏していたところを伊予警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)によって捕縛され、誅殺された 3 。その最期については、合戦で討たれた、斬首された、獄中で没したなど諸説あるが 11 、いずれにせよ、西国を震撼させた大乱の首謀者はここに生涯を終えた。純友の首は京に送られ、七条河原で梟首(きょうしゅ)されたと伝えられる 35 。
藤原純友の死によって乱は終結したが、彼の存在が歴史に与えた影響は大きく、その人物像は後世、様々な形で語り継がれていくことになる。
承平・天慶の乱は、鎮圧されたとはいえ、朝廷の権威が絶対的なものではなく、地方の武力が中央を脅かしうる存在であることを天下に示した 23 。そして、この未曾有の国難を鎮圧したのは、朝廷の公卿たちではなく、藤原秀郷、平貞盛、源経基、小野好古、橘遠保といった、地方の武を専門とする貴族や在地豪族たちであった 3 。
この事実は、朝廷に武士の力の重要性を痛感させた。乱後、朝廷は彼らを体制内に積極的に取り込むことで、地方の治安維持を図るようになる。乱で功績を挙げた源経基は清和源氏の、平貞盛は桓武平氏の、それぞれ武家としての確固たる地位を築く礎となり、後の源平の世へと繋がる道を開いた 23 。藤原純友は、旧体制に反逆することで、皮肉にも彼自身がその一員であった「武士」という新たな階級が台頭する歴史的役割を果たしたのである 42 。彼の乱は、平安貴族が夢想した雅な中央集権国家という幻想を打ち砕き、国家の暴力装置が律令軍制から武士団へと実質的に移行していく、時代の大きな転換点となった。
藤原純友の評価は、見る者の立場によって大きく異なる。朝廷側の公式記録に近い『純友追討記』などでは、彼は将門に呼応した「暴悪之類」として一方的に断罪されている 19 。しかし、その記述自体が、朝廷が純友を単なる海賊ではなく、国家転覆を企てた恐るべき大反逆者として認識していたことの証左でもある。
一方で、彼が活動の拠点とした瀬戸内海沿岸地域では、純友は朝廷や国司の圧政から人々を解放しようとした英雄として語り継がれる側面を持つ 22 。岡山県の純友神社や愛媛県の中野神社など、純友を祭神として祀る神社が現代に至るまで存在することは、在地社会における彼の記憶が、朝廷のそれとは全く異なっていたことを示している 2 。
この二面性は、後世の文学や芸能の世界でさらに増幅され、複雑な人物像が形成されていった。
『今昔物語集』では、海賊行為を重ねて天罰を受け討たれる猛々しい人物として描かれる 43。近世になると、歌舞伎や浄瑠璃の「前太平記物」の世界において、平将門と並ぶ反逆者の代表格として頻繁に登場するようになる 47。そこでは、白拍子(美女)の計略にかかって足を斬られ、それが敗因となるという、史実にはない伝奇的なエピソードが付加され、英雄性と人間的弱さを併せ持つ人物として脚色された 35。また、南予地方には純友が隠したという財宝伝説も生まれ、そのミステリアスなイメージを強めている 50。
このように、藤原純友の評価は「朝敵」と「英雄」という正反対の顔を持つ。この両義性は、彼が中央(国家)の論理と地方(在地社会)の論理が激しく衝突した時代の境界線上に生きた人物であったことを象徴している。後世の多様な物語は、人々がこの複雑な人物に、悲劇の英雄、体制への抵抗者、あるいは人間的弱さを持つ男など、様々な願望や教訓を投影してきた結果であり、彼の存在が後世に与えたインパクトの大きさを物語っている。
藤原純友は、単なる「海賊の首領」や「反逆者」という一面的なレッテルでは到底捉えきれない、極めて複合的な人物であった。
彼は、藤原北家という日本最高の名門の血を引きながらも、父祖の不運によって中央政界の階層秩序から疎外された「没落貴族」であった。その鬱屈したエネルギーと、摂関家にも通じるほどの高い教養や組織運営能力を、律令制の崩壊と国司の収奪に喘ぐ地方社会の矛盾と結びつけた。そして、時代の不満を一身に背負い、瀬戸内海に一大勢力を築き上げた、卓越した組織者であり、優れた戦略家であった。
彼の起こした乱は、個人的な野心と、時代の歪みが生んだ民衆の不満が結実したものであった。その戦いは、結果として武士の台頭を決定的に促し、貴族の世から武士の世への歴史的転換を告げる狼煙(のろし)となった。朝廷からは「朝敵」としてその名を汚され、在地では「英雄」として記憶されるその両義的な評価こそ、藤原純友という人物が、古代から中世へと移行する激動の時代を体現した、転換期の象徴的存在であったことを何よりも雄弁に物語っている。彼は旧体制の破壊者であると同時に、皮肉にも新時代の創造を促す触媒となった、時代の矛盾そのものを生きた人物だったのである。
年(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
仁和元年頃 (885) |
仁和元 |
藤原純友、誕生か(推定)。 |
承平2年 (932) |
承平2 |
純友、伊予掾に任官し、伊予国へ赴任か。 |
承平5年 (935) |
承平5 |
【東国】 平将門、叔父・平国香らと争い、これを殺害(将門の乱の端緒)。 |
承平6年 (936) |
承平6 |
純友、交渉により海賊2,500名余りを投降させる。任期後も伊予に土着し、日振島を拠点とする。 |
天慶2年 (939) |
天慶2 |
11月 【東国】将門、常陸国府を攻略。朝廷への反乱となる。 |
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12月 【東国】将門、「新皇」を称し、関東諸国の国司を任命。 |
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12月 【西国】 純友、部下に命じ備前介・藤原子高を摂津国須岐駅で襲撃させる(純友の乱、勃発)。 |
天慶3年 (940) |
天慶3 |
1月 朝廷、将門討伐の征東大将軍を任命。純友には従五位下を授け懐柔を図る。 |
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2月 【西国】純友、淡路国の兵器庫を襲撃。 |
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2月 【東国】 平貞盛・藤原秀郷、将門を討ち取る。将門の乱、終結。 |
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8月 純友、伊予・讃岐を襲撃。 |
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11月 純友、周防国の鋳銭司を焼き討ち。 |
天慶4年 (941) |
天慶4 |
2月 純友の部将・藤原恒利が朝廷側に寝返る。純友の本拠・日振島が陥落。 |
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5月 純友、九州へ渡り大宰府を攻略・焼き討ち。追討軍、九州に到着し、博多湾で海戦。純友軍、大敗。 |
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6月 純友、伊予へ逃亡するが、警固使・橘遠保に捕縛され、誅殺される。享年49歳(または57歳)と伝わる。 |
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7月 純友の首が京に送られ、梟首される。 |
天慶5年 (942) |
天慶5 |
乱の論功行賞が行われ、小野好古、源経基らが昇進する。 |
天慶7年 (944) |
天慶7 |
橘遠保、何者かに斬殺される(純友の残党による報復説あり)。 |