本報告は、戦国時代に丹波国で活動した武将、蘆田国住(あしだ くにずみ)に焦点を当て、その出自から滅亡に至るまでの詳細を、現存する史料と近年の研究成果に基づいて明らかにすることを目的とする。丹波国の一地方領主であった蘆田氏の興亡を辿ることは、織田信長による天下統一事業が地方の諸勢力に如何なる影響を及ぼしたのか、その一側面を具体的に理解する上で意義深い。
蘆田国住が生きた戦国時代、丹波国は畿内と山陰・山陽道を結ぶ交通の要衝であり、古来より戦略的に重要な地域であった。室町幕府の権威が失墜し、守護大名や各地の国人領主が群雄割拠する中で、丹波国もまた細川氏や三好氏といった中央の有力勢力、そして後には織田信長による影響を強く受けた。国内に目を向ければ、赤井氏、波多野氏、内藤氏、宇津氏といった国人領主が互いに勢力を競い合い、複雑な離合集散を繰り返していた 1 。このような状況下において、蘆田氏のような中小規模の領主は、有力な国人領主や外部の強大な勢力との関係構築に常に腐心し、その動向に翻弄される運命にあった。蘆田国住の行動原理やその結末を理解するためには、彼が単独で存在していたのではなく、丹波国内の錯綜した勢力図と、織田信長という巨大な外部からの圧力という、二重の歴史的文脈の中で活動していたという視座が不可欠である。彼の抵抗と滅亡は、単なる一地方豪族の局地的な出来事としてではなく、より大きな歴史のうねりの中で捉えられるべきなのである。
表1:蘆田氏関連年表
年代 |
出来事 |
典拠 |
保元3年(1158年)頃 |
井上家光、丹波国芦田庄へ配流の伝承 |
5 |
元弘3年(1333年) |
足利高氏の挙兵に「葦田」氏が参加(『太平記』) |
7 |
15世紀 |
蘆田金猶の活動伝承 |
5 |
永正17年(1520年)頃 |
赤井氏の史料上の出現 |
7 |
弘治元年(1555年) |
香良合戦。蘆田氏が赤井氏に敗北し、その支配下に組み込まれる |
7 |
天正3年(1575年) |
明智光秀による第一次丹波攻め開始 |
11 |
天正7年(1579年)5月 |
織田軍(明智光秀・羽柴秀長軍)の攻撃により、蘆田国住(国重)の居城・小室城および栗住野城が落城、蘆田氏は滅亡(没落) |
5 |
天正7年(1579年)6月1日 |
波多野秀治の八上城落城 |
13 |
天正7年(1579年) |
赤井忠家の黒井城落城 |
9 |
天正年間後半~ |
蘆田時直(赤井直正の弟)が徳川家康に通じるなどの活動 |
9 |
蘆田氏(葦田氏とも表記される)の名字の地は、丹波国氷上郡蘆田村(現在の兵庫県丹波市青垣町芦田周辺)に求められるが 7 、その出自に関しては信濃国からの移住説が古くから伝えられている 5 。中世の系図集である『尊卑分脈』には、信濃源氏井上氏の系統として井上九郎家光から光平、そしてその子として「葦田二郎光遠」の名が見える 14 。
また、『赤井系図』などの記録によれば、清和源氏の流れを汲む源頼季の孫にあたる井上満実の三男、家光(または家満)が、故あって信濃国井上(現在の長野県須坂市井上付近)から丹波国芦田庄に配流され、その地名をとって蘆田(あるいは井上)を称したのが蘆田氏の始まりであるとされる 6 。この家光は「井上判官家光」とも呼ばれ 15 、その配流の時期は保元3年(1158年)頃と記す史料も存在する 5 。これらの記述は、蘆田氏が信濃源氏井上氏という、当時としては権威ある武家の一族に連なるという意識を持っていたことを示唆している 15 。戦国時代の多くの武家が自らの家系の正当性や格を示すために、著名な源平藤橘といった氏族に系譜を繋げようとしたことはよく知られており、蘆田氏の信濃源氏出自説も、そのような背景のもとで形成・強調された可能性が考えられる。
信濃からの移住後、蘆田氏は丹波国氷上郡芦田庄を本拠地として、在地領主としての地位を確立していったとされる。伝承によれば、文治元年(1185年)以降、初代家光の子である道家は丹波半国の押領使に任じられ、以後代々その職を継承したという 14 。この押領使という役職は、広域の治安維持や軍事指揮権を持つものであり、もしこの伝承が事実であれば、蘆田氏は丹波国において早期から広範な影響力を持っていたことになる。
より確実な史料としては、元弘3年(1333年)に足利高氏(後の尊氏)が後醍醐天皇の綸旨を奉じて丹波国篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市)で倒幕の兵を挙げた際、その呼びかけに応じて馳せ参じた丹波の武士たちの中に「葦田」の名が見えることが『太平記』に記されている 7 。これは、少なくとも南北朝時代には、蘆田氏が丹波国において活動する武士団として確固たる存在感を示していたことを裏付けるものである。
さらに時代が下り、室町時代中期、応仁の乱(1467年~1477年)の頃に成立したとされる武家の家紋集『見聞諸家紋』には、蘆田氏の名字と共にその幕紋として「瞿麦(なでしこ)」が収録されている 15 。このことは、当時の蘆田氏が丹波守護であった細川氏の配下にあって、一定の勢力を有する有力な国人領主の一人として認識されていたことを示している。信濃出自の伝承の真偽はともかくとして、これらの史料は蘆田氏が丹波の地で長きにわたり武家として活動してきた歴史的実態を物語っている。
中世を通じて丹波国に根を張った蘆田氏は、戦国時代に入ると周辺の諸勢力との間で複雑な関係を繰り広げることになる。特に、同じ氷上郡を拠点とし、後に丹波有数の勢力へと成長する赤井氏との関係は、蘆田氏の運命を大きく左右するものであった。
系図上では、永正17年(1520年)頃から史料にその名が見え始める赤井氏は、元来蘆田氏の分家であったとされている 6 。事実、赤井氏自身も蘆田姓を名乗っていた時期があったと伝えられており 7 、当初は両氏の間に本家・分家という主従関係に近いものがあった可能性が考えられる。
しかし、戦国時代の常として、こうした関係は固定的なものではなかった。赤井氏は次第に勢力を拡大し、特に「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井(荻野)直正の代になると、丹波国奥三郡(氷上郡・天田郡・何鹿郡)を実質的に支配下に置く一大勢力へと成長した 9 。
この両氏の力関係の転換を決定づけたのが、弘治元年(1555年)に起こった「香良(こうら)合戦」である。この戦いで、蘆田目留(める)は同じ氷上郡の足立権太兵衛らと手を結び、赤井宗家の赤井家清やその弟である荻野直正(後の赤井直正)ら赤井一族と激しく衝突した 7 。合戦の背景には、当時畿内で勢力を二分していた細川晴元方(赤井氏が与力)と、細川氏綱および三好長慶方(蘆田・足立氏が与力)との間の代理戦争という側面があったと見られている 9 。戦いは激戦となったものの、結果は蘆田・足立方の惨敗に終わり、赤井氏はこれを機に氷上郡の大部分をその勢力下に収めることに成功した 9 。この香良合戦の敗北以降、蘆田氏は赤井氏の支配下、あるいは同盟者としての従属的な立場に置かれるようになったと考えられる 5 。本家であったはずの蘆田氏が、分家筋の赤井氏の下風に立つというこの力関係の逆転は、まさに戦国時代の下剋上の一つの典型例と言えよう。後の蘆田国住の代における織田軍への抵抗という選択も、この赤井氏との関係性を抜きにしては理解することは困難である。
蘆田国住が登場する以前の蘆田氏の具体的な活動については、断片的な情報しか残されていない。15世紀には蘆田金猶(かねなお)という人物が善政を布いたという伝承があるが 5 、その実態は定かではない。また、戦国期には隣接する佐治庄(現在の丹波市青垣町佐治)の領主であった足立氏としばしば抗争を繰り返すなど、在地領主として自らの勢力圏の維持・拡大に努めていた様子がうかがえる 15 。
蘆田国住(あしだ くにずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した丹波国の武将であり、氷上郡小室城(こむろじょう)の城主であったことが確認されている 5 。史料によっては「蘆田国重(くにしげ)」という名で記されている場合もあり 5 、これが同一人物を指すのか、あるいは改名や近親者の可能性も考えられるが、本報告では主に「国住」の名で言及する。
残念ながら、蘆田国住個人の具体的な事績や、その人となりを詳細に伝える一次史料は極めて乏しいのが現状である。彼の名は主に、天正7年(1579年)の織田信長による丹波侵攻(天正丹波攻め)において、居城である小室城に籠城し、織田軍に抵抗したものの落城し、結果として蘆田氏が滅亡(没落)した際の最後の城主として歴史に名を留めているに過ぎない(ユーザー情報、 5 )。
丹波市青垣町東芦田の地域伝承には、「芦田(葦田)の少将」あるいは「東芦田の殿様」と呼ばれた武士がいたという話が残されている。この人物は武術に優れ、和歌や横笛も得意であったと伝えられているが 19 、これが蘆田国住本人を指すのか、あるいは蘆田氏の別の当主に関する伝承なのかは判然としない。
国住の行動を考察する上で重要なのは、前述の通り、当時の蘆田氏が赤井氏の支配下、もしくは強い影響下にあったという点である。このため、天正丹波攻めにおける織田軍への抵抗という国住の選択は、彼個人の主体的な判断というよりも、宗主である赤井氏の反織田方針に従った結果である可能性が高いと考えられる。彼の人物像は、所属した蘆田一族の歴史的背景、居城であった小室城の状況、そして滅亡に至るまでの経緯から、間接的に推測するほかないのが実情である。「国住」と「国重」という二つの名で伝えられている点は、史料の錯綜によるものか、あるいは実際に改名が行われたり、同時代に近しい立場の別人が存在した可能性も示唆しており、今後の研究によって解明されるべき課題の一つと言えるだろう。
蘆田国住の居城であった小室城は、別名を東芦田城(ひがしあしだじょう)とも呼ばれ 5 、丹波国氷上郡芦田庄、現在の兵庫県丹波市青垣町東芦田にそびえる吼子尾山(くずおやま、くずおのやま、標高約519メートル)の山頂一帯に築かれた山城であった 8 。吼子尾山は、山麓にある古刹・胎蔵寺(たいぞうじ)の背後に位置しており 8 、城と寺院が密接な関係にあったことがうかがえる。胎蔵寺は蘆田氏の菩提寺であったとも伝えられ 23 、また中世においては僧兵を擁し、周辺の武士たちと連携して一定の軍事力を保持していたともいう 24 。このような城と寺院の一体性は、中世日本の地域支配における一つの特徴的な形態であった。
小室城は氷上郡の北部に位置し、西は但馬国との国境にも近い。周囲の谷を見下ろす天然の要害の地にあり、在地領主である蘆田氏の拠点として長年にわたり機能してきたと考えられる。 8 の記述によれば、「丹波市内でも最も古い時代の城」の一つであり、「城はその後も続き天正7年(1579)まで400年近い歴史を刻みます」とされ、鎌倉時代初期に蘆田氏がこの地に来住した頃から、戦国時代の終焉に至るまで、継続的に使用されてきた城であったことが示唆されている。
城郭の構造としては、戦国時代における典型的な山城の様相を呈しており、山頂に主郭(本丸)を置き、そこから延びる尾根筋に複数の曲輪(くるわ。城内の平坦地)を階段状に配置した、いわゆる連郭式の縄張りであったとされている 8 。主郭の北側に続く尾根には曲輪群が連なり、主郭部とこの北尾根の曲輪群との間は、城内最大の見所とも評される大規模な堀切(ほりきり。尾根を遮断する空堀)によって厳重に分断されていた 15 。また、城内各所には石垣も用いられていたことが確認されており 8 、特に主郭の南斜面下部や、山麓の旧胎蔵寺跡には現在もなお見事な石垣群が残存している 8 。これらの遺構は、当時の土木技術の水準を示すと共に、小室城が単なる砦ではなく、相応の防御能力を備えた本格的な城郭であったことを物語っている。その規模や遺構の保存状態から、氷上郡内でも屈指の山城であったと評価されている 20 。
小室城に関連する史跡としては、前述の胎蔵寺の他に、栗住野城(くりすのじょう)が挙げられる。栗住野城は、蘆田氏の同族である栗住野氏が守った城であり 5 、小室城の南東、現在の丹波市氷上町栗栖野にあったとされる 8 。伝承によれば、蘆田氏が丹波に入部した当初に築いたとも 20 、あるいは蘆田氏五代目の当主であった蘆田持氏が栗住野の地に移り住んで栗住野姓を名乗ったのがその始まりであるともいう 8 。いずれにせよ、栗住野城は小室城の支城としての機能を有し、蘆田氏の領域支配を補完する役割を担っていたと考えられる。そして、天正7年(1579年)5月、小室城が織田軍の攻撃を受けるのと時を同じくして、羽柴秀長軍によって攻め落とされたと伝えられている 5 。
表2:小室城(東芦田城)の概要
項目 |
内容 |
典拠 |
城名 |
小室城(東芦田城) |
5 |
所在地 |
丹波国氷上郡芦田庄(現・兵庫県丹波市青垣町東芦田 吼子尾山) |
5 |
城の種類 |
山城 |
8 |
標高 |
約519メートル |
15 |
主な遺構 |
曲輪、堀切(大堀切)、石垣、土塁 |
8 |
築城・廃城年 |
築城年不明(伝承では鎌倉初期)、天正7年(1579年)5月廃城 |
7 |
主な城主 |
蘆田氏(最後の城主は蘆田国住/国重) |
5 |
関連寺社・城郭 |
胎蔵寺、栗住野城 |
7 |
天正3年(1575年)、天下統一を目前にしていた織田信長は、重臣である明智光秀に対して丹波国の攻略を命じた 11 。この軍事行動は、当時信長と敵対していた室町幕府最後の将軍・足利義昭に与同し、信長包囲網の一角を形成していた丹波国内の反織田勢力、特に赤井氏や波多野氏といった有力国人を制圧し、さらには西国・中国地方への進出路を確保するという、信長の全国統一戦略における重要な一環であった 1 。
明智光秀による丹波攻略は、第一次(天正3年~4年)と第二次(天正5年~7年)の二度にわたって行われた。第一次丹波攻めでは、当初は多くの丹波国衆が光秀に協力的な姿勢を見せたものの、八上城主・波多野秀治の離反などにより、光秀は苦戦を強いられ、一時撤退を余儀なくされた 11 。
天正5年(1577年)から再開された第二次丹波攻めにおいて、光秀は丹波の入り口にあたる亀山城(現在の京都府亀岡市)を築いて拠点とし、そこから丹波各地の城を計画的に攻略していった 11 。そして天正7年(1579年)には、丹波平定戦も最終局面を迎え、明智光秀軍に加えて、但馬方面からは羽柴秀吉の弟である羽柴秀長率いる軍勢も丹波に侵攻し、反織田勢力に対する包囲網を狭めていった 5 。
この織田信長による丹波侵攻が開始された当時、丹波国内の国人領主たちの情勢は複雑であった。永禄13年(元亀元年、1570年)3月には、奥丹波の盟主であった赤井忠家(赤井直正の甥)が上洛して信長に臣従の意を示し、信長から丹波奥三郡(氷上郡・天田郡・何鹿郡)の所領を安堵されている 11 。この時点では、赤井氏は信長政権下において丹波最大の国人領主として公認されていたことになる。
しかし、その後、織田信長と将軍足利義昭との対立が先鋭化すると、赤井直正や波多野秀治といった丹波の有力国人たちは、義昭方に与して反信長の旗幟を鮮明にするに至った 1 。蘆田氏は、前述の通り香良合戦以降、赤井氏の強い影響下に置かれていたため、宗主である赤井氏のこの反織田路線に追随し、織田軍に抵抗する立場をとったものと考えられる 5 。丹波の二大勢力であった赤井氏と波多野氏は連携して織田軍に抵抗したとされ 2 、蘆田氏もこの広範な反織田連合の一翼を、赤井氏の指揮下で間接的に担っていたと推測される。当初は信長に従っていた赤井氏が反旗を翻したという事実は、丹波の国人たちが中央の政局に翻弄されながら、自らの生き残りをかけて苦渋の選択を迫られていた当時の複雑な政治状況を象徴している。
表3:天正丹波攻めにおける主要関連武将
陣営 |
主な武将 |
役職・拠点など |
典拠 |
織田方 |
織田信長 |
天下人、丹波攻略の総指揮 |
|
|
明智光秀 |
織田家重臣、丹波攻略の主将 |
5 |
|
羽柴秀長 |
織田家武将(羽柴秀吉の弟)、但馬方面より丹波へ侵攻 |
5 |
反織田方 |
赤井(荻野)直正 |
黒井城主、丹波奥三郡の雄、「丹波の赤鬼」 |
11 |
|
赤井忠家 |
黒井城主(直正の甥)、当初は信長に服属 |
11 |
|
波多野秀治 |
八上城主、多紀郡の雄 |
3 |
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蘆田国住(国重) |
小室城主、赤井氏の支配下で抵抗 |
5 |
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内藤氏、宇津氏など |
その他、状況に応じて反織田方に与した丹波国衆 |
1 |
天正7年(1579年)5月、明智光秀および羽柴秀長が率いる織田軍の精鋭は、当時赤井氏・荻野氏の支配下にあった蘆田氏の拠点、小室城(東芦田城)及びその支城である栗住野城に対して攻撃を開始した 5 。
この小室城の戦いにおける具体的な戦闘経過や、蘆田国住がどのような防衛戦術を採ったのかを詳細に記した一次史料は、残念ながら現存していない。しかし、複数の記録が一致して伝えるところによれば、織田軍の圧倒的な兵力と巧みな攻城戦術の前に、小室城、そして栗住野城は同日に相次いで落城したとされている 5 。この時期、丹波における反織田勢力の主要な抵抗拠点であった波多野秀治の八上城も、長期にわたる包囲戦の末、同年6月1日に落城しており 13 、また、赤井氏の本城である黒井城も同じく天正7年中に織田軍の手に落ちている 9 。これらの丹波国内の主要な城砦が次々と陥落していく大きな流れの中で、蘆田氏のような中小規模の国人領主の城が個別に持ちこたえることは極めて困難であったと言わざるを得ない。
城主であった蘆田国住(または国重)は、小室城にあって最後まで織田軍の侵攻に抵抗したものと見られる(ユーザー情報、 5 )。しかし、落城後の国住個人の具体的な消息、すなわち討死したのか、自害したのか、あるいは捕虜となったのか、それとも城を脱出して落ち延びたのかといった点については、確実な史料は見当たらないのが現状である。関連史料に見られる「滅亡した」(ユーザー情報)、あるいは「没落した」 7 といった記述は、あくまで戦国武家としての蘆田宗家がその軍事力と政治的地位を失ったことを示すものであり、国住自身の最期を具体的に伝えるものではない。
小室城の落城は、単に一つの城が陥落したというだけでなく、丹波国に長らく根を張ってきた在地領主・蘆田氏の歴史が、戦国武家としては事実上ここで終焉を迎えたことを意味するものであった。国住の最期が詳細不明であることは、戦国時代の地方の小領主の記録が歴史の表舞台にあまり残されなかったという厳しい現実を反映しており、彼は歴史の大きな転換期に翻弄され、その詳細な運命が記録されることなく歴史の闇に葬られた多くの無名の武将の一人であったと言えるかもしれない。
天正7年(1579年)5月における小室城の落城は、丹波国氷上郡に勢力を有した在地領主としての蘆田氏にとって、その軍事力および政治力の完全な終焉を意味する決定的な出来事であった。織田信長が推し進めた強力な天下統一政策は、日本各地に存在した旧来の勢力構造を根底から揺るがし、多くの地方国人領主がその激流の中で淘汰されていった。蘆田氏もまた、この歴史の大きな転換点において、旧体制と共にその役割を終え、消えていった数多の勢力の一つとして位置づけられる。
彼らの抵抗は、織田信長という中央集権化を推し進める巨大な力に対する、地方の伝統的勢力の最後の抵抗の一端を示すものであり、その滅亡は、戦国時代が終焉を迎え、新たな統一政権による支配体制へと移行していく過程を象徴する出来事の一つであったと言えよう。
戦国武家としての蘆田宗家は小室城の落城と共に滅びたが、「蘆田」という姓や、それに関連する家系、あるいは様々な伝承は、その後も丹波の地に残り続けた。これは、武家としての支配権は失われたとしても、その地域社会における血縁的・地縁的な繋がりが完全に途絶えたわけではなかったことを示唆している。
特筆すべき点として、小室城があった現在の兵庫県丹波市青垣町周辺には、現代においても蘆田(芦田)姓を名乗る人々が多く居住していると伝えられている 5 。これは、落城後も蘆田一族の一部やその家臣団の子孫が、何らかの形でその地に留まり、生活を続けてきた可能性を示している。また、丹波市には江戸時代後期に建てられたとされる茅葺き屋根の古民家「蘆田家住宅」が現存しており、国の登録有形文化財に指定されている 25 。この家系が戦国時代の小室城主蘆田氏と直接的な系譜で繋がるかどうかは不明であるが、少なくとも江戸時代を通じて丹波地域に蘆田姓の有力な家が存在し続けたことを示す一つの証左と言えるだろう。
さらに、滅亡した蘆田氏に関連する可能性のある人物の記録も散見される。例えば、赤井直正の弟でありながら蘆田姓を名乗った蘆田時直(ときなお)という人物は、小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年)において徳川家康に通じ、その功績もあってか、後に赤井氏の嫡流や庶流の一部が徳川幕府の旗本として取り立てられ、家名を存続させる道を開いたとされている 9 。この蘆田時直が、小室城で滅亡した蘆田国住の一族とどのような関係にあったのかは明確ではないが、戦国時代の「家」の概念の複雑さや、本家が滅亡した後も分家や縁者が新たな時代の支配者に取り立てられて家名を保つという、武家の生き残り戦略の一端を垣間見せる事例である。
時代は下って江戸時代には、丹波国天田郡土師村(現在の京都府福知山市土師)出身の蘆田為助(ためすけ)という人物が、その並外れた親孝行ぶりで知られ、地域社会から顕彰されて石碑も建てられたという記録がある 26 。この為助も、戦国期の蘆田氏との直接的な系譜関係は不明であるが、丹波地域において「蘆田」姓を持つ人物が、後世においても様々な形で記憶され、語り継がれてきたことを示している。
これらの事実は、戦国武家としての蘆田氏の終焉が、必ずしもその血脈や名の完全な消滅を意味するものではなかったことを物語っている。
蘆田国住は、織田信長による天下統一という、日本の歴史における巨大な変革の奔流の中で、丹波国の一地方領主として自らの立場と信念に基づき抵抗し、そして最終的には滅亡した数多くの戦国武将の一人である。彼の生涯や、彼が属した蘆田一族の興亡の軌跡は、強大な中央権力と地方の伝統的勢力との間に生じた避けられない衝突、そしてその渦中で国人領主たちが直面したであろう苦悩に満ちた選択の様相を、具体的に象徴していると言えよう。
蘆田氏が伝えてきた信濃源氏出自の伝承、かつては本家であった赤井氏との力関係の逆転とそれに伴う従属、そして吼子尾山の小室城を中心として展開されたであろう在地支配の実態は、戦国時代における地方武士団のあり方や、その盛衰のダイナミズムを示す貴重な事例研究の対象となり得る。
蘆田国住個人に関する直接的な記録は極めて乏しいものの、彼が小室城の城主として最後まで織田軍に抵抗したという事実は、彼が丹波における広範な反織田勢力の一翼を、たとえそれが従属的な立場からのものであったとしても、確かに担っていたことの証左である。彼の名は、丹波の戦国史において、信長の覇業に屈した諸勢力の一つとして記憶されるべきであろう。
そして、戦国武家としての蘆田氏が滅亡した後も、その名や子孫、あるいは関連する伝承が丹波の地に残り続けたという事実は、歴史というものが単に勝者によってのみ紡がれるものではなく、敗者や歴史の表舞台から姿を消した無名の存在もまた、それぞれの形で地域の記憶や文化、さらにはアイデンティティの形成に寄与し続けていることを示している。
蘆田国住の物語は、華々しい合戦や著名な武将たちの活躍の陰に隠れがちな、地方の小規模な国人領主の視点から戦国時代という時代を捉え直す機会を与えてくれる。彼らのような存在とその運命を丹念に追うことは、戦国時代の多様性と地域性をより深く、そして多角的に理解するために不可欠な作業であると言えるだろう。