蜂須賀家政は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、阿波徳島藩の藩祖としてその名を歴史に刻んでいます。彼の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三英傑の時代を生き抜き、激動の社会変革の中で巧みに立ち回り、近世大名としての地位を確立した過程そのものであり、この時代の武将の生き様を理解する上で極めて重要な事例と言えます。特に、阿波国という新たな領地を得て、その統治基盤を築き上げた手腕は、近世日本の地方支配体制の形成を考察する上で多くの示唆を与えてくれます。
本報告書は、現存する多様な史料に基づき、蜂須賀家政の出自から晩年に至るまでの全生涯を俯瞰し、その武功、阿波国主としての統治、関ヶ原の戦いにおける動向、そして人物像や後世に与えた影響について、多角的かつ詳細に明らかにすることを目的とします。具体的には、以下の構成で論を進めてまいります。
第一部では、家政の出自と初期の経歴、豊臣政権下での黄母衣衆としての活躍や主要な戦役における役割と戦功を検証します。第二部では、阿波国主としての家政に焦点を当て、徳島城の築城と城下町の形成、領国統治初期の課題であった抵抗勢力の平定、そして検地の実施や法度の制定、産業振興といった藩政の確立過程を詳述します。第三部では、日本史の大きな転換点である関ヶ原の戦いにおける蜂須賀家の戦略と家政の動向、そして徳川幕府との関係構築と藩体制の安定化、隠居後の藩政後見に至るまでを追います。第四部では、家政の人物像を「阿波の古狸」という評価や信仰、文化活動といった側面から掘り下げ、家族や主要家臣、さらには阿波踊りをはじめとする文化・伝統への貢献、関連する史跡や文化財についても言及します。終章では、これらの分析を踏まえ、蜂須賀家政の総合的な歴史的評価を試みるとともに、今後の研究における展望を示します。
蜂須賀家政は、永禄元年(1558年)、尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)において、蜂須賀小六正勝の嫡男として生を受けました 1 。幼名は父と同じく小六、後に彦右衛門と称しました 1 。母は三輪吉高の娘である「まつ」(大匠院)と伝えられています 3 。父・正勝は、美濃の斎藤道三、次いで織田信長に仕え、最終的には豊臣秀吉の股肱の臣となった人物であり、尾張の土豪勢力「蜂須賀党」を率いた実力者でした 5 。家政の幼少期は、母の在所であった宮後村(現在の愛知県江南市)で過ごし、地元の曼荼羅寺山内にあった本誓院(旧梅陽軒)で手習いを受けたとされ、同寺には今日まで家政の位牌や当時使用したと伝わる手習い机が大切に保管されています 3 。
家政の武将としてのキャリアは、父・正勝の動向と密接に連動して始まります。正勝が秀吉の信頼を得ていく過程で、家政もまた秀吉の側近として頭角を現す機会を得たのです。これは、当時の武家社会における家督相続と、親子一体となって主君に奉公するという慣習を色濃く反映しています。元亀元年(1570年)、家政は13歳という若さで父に従い姉川の戦いに初陣を飾り、勝利に貢献しました 1 。その後、天正3年(1575年)頃からは、父と共に本格的に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることとなります 1 。天正8年(1580年)には、播磨国の長水山城攻略において軍功を挙げ、その武才の片鱗を見せ始めました 1 。家政の初期のキャリア形成において、父・正勝が秀吉との間に築いた強固な信頼関係が、家政自身の地位向上に大きく寄与したことは疑いありません。正勝の「知恵と度胸」 6 が秀吉に高く評価されたことが、息子である家政が活躍するための土壌を整えたと言えるでしょう。
豊臣秀吉に仕えた蜂須賀家政は、その才能と忠勤を認められ、秀吉子飼いの精鋭部隊である「黄母衣衆(きぼろしゅう)」の一員に抜擢されます 1 。黄母衣衆は、織田信長が組織した黒母衣衆・赤母衣衆に倣って設けられた秀吉の馬廻りの中でも特に武勇に優れた者だけが選ばれる名誉ある部隊であり、戦場では秀吉の親衛隊として、時には先陣を切って戦う重要な役割を担いました 9 。母衣を着用することは、武勇に優れた武将であることの証とされていました 9 。一説には、天正10年(1582年)の毛利氏攻めの際に黄母衣衆となったとされています 1 。この黄母衣衆としての経験は、家政の武将としての能力を飛躍的に高めただけでなく、豊臣政権中枢との強固な結びつきを形成する上で大きな意味を持ちました。この経験と信頼関係が、後の阿波一国拝領という破格の恩賞へと繋がったと考えられます。また、秀吉直属の部隊で培われた高度な戦術眼、規律、そして指揮能力は、後に阿波国を統治する上で直面するであろう様々な困難を乗り越えるための不可欠な素養となったことでしょう。
家政は、豊臣秀吉の主要な戦役のほとんどに参加し、輝かしい戦功を積み重ねていきました。
戦役名 |
年月 |
家政の役職・立場 |
主な戦功・特筆すべき行動 |
賤ヶ岳の戦い |
天正11年(1583年) |
秀吉軍の一武将 |
参陣 1 。 |
根来・雑賀一揆討伐 |
天正12年(1584年) |
秀吉軍の一武将 |
播磨佐用郡で3000石を与えられる 1 。 |
四国征伐 |
天正13年(1585年) |
秀吉軍の主要武将 |
父・正勝と共に軍功。阿波国17万石余を拝領し徳島城主となる 1 。天正14年(1586年)に従五位下阿波守に叙任 1 。 |
九州征伐 |
天正15年(1587年) |
阿波国主として参陣 |
軍功を挙げる 10 。 |
小田原征伐 |
天正18年(1590年) |
阿波国主として参陣 |
韮山城包囲などに参加 10 。 |
文禄・慶長の役 |
文禄元年(1592年)~慶長3年(1598年) |
阿波国主として朝鮮へ渡海 |
第五軍に属し7200人を率いる(文禄の役) 14 。蔚山城の戦いで浅野幸長らを救援する武功を挙げるも、追撃を行わなかったことや戦線縮小案上申が秀吉の怒りを買い、一時蟄居・所領一部没収。徳川家康の取り成しで許される 1 。 |
表1:蜂須賀家政 主要参戦記録
特に天正13年(1585年)の四国征伐では、父・正勝と共に大きな軍功を挙げました 1 。戦後、秀吉は当初、父・正勝に阿波一国を与えようとしましたが、正勝は老齢を理由にこれを辞退したとも、あるいは秀吉との事前の談合により家政に譲る意向であったとも伝えられています 16 。結果として、家政が阿波一国(石高については17万5千石から18万6千石まで諸説あり)を拝領し、徳島城主となるという、破格の出世を遂げました 1 。翌天正14年(1586年)には、従五位下阿波守に叙任されています 1 。
その後の九州征伐(天正15年/1587年) 10 、小田原征伐(天正18年/1590年)にも阿波国主として参陣し 10 、小田原征伐では韮山城の包囲を担当するなど 13 、豊臣政権の天下統一事業に貢献しました。
文禄・慶長の役(1592年~1598年)においては、二度の朝鮮出兵いずれにも大名として渡海し、兵を率いて戦いました 1 。文禄の役では第五軍に属し、7200人の兵を率いたと記録されています 14 。また、秀吉から毛利輝元らと共に、釜山から漢城(現在のソウル)に至る街道沿いに天皇の御座所(宿泊施設)を普請するよう命じられるなど、兵站面でも重要な役割を担いました 25 。慶長の役における蔚山城の戦いでは、加藤清正や浅野幸長らが明・朝鮮連合軍に包囲された際に救援軍の一翼を担い、彼らを救出するという大きな武功を挙げました。しかし、その後の追撃が十分でなかったことや、黒田長政ら他の大名と連名で本土へ戦線縮小を具申したことが秀吉の逆鱗に触れ、一時領国での蟄居と蔵入地(直轄領)の一部没収という厳しい処罰を受けました 2 。この窮地を救ったのが徳川家康の取り成しであったとされ、この一件が家康との関係を深める一因となったと考えられます 2 。朝鮮出兵におけるこの失態とそれに伴う処罰は、家政にとって大きな試練であったと同時に、中央政権のトップである秀吉の意向を正確に読み、慎重に行動することの重要性を痛感させる出来事だったと言えるでしょう。この経験が、後の関ヶ原の戦いという未曽有の危機に際して、より慎重かつ老獪な立ち回りを可能にした伏線となった可能性も否定できません。
天正13年(1585年)、四国征伐の功により阿波一国を与えられた蜂須賀家政は、当初、阿波国の既存の城である一宮城に入りましたが 26 、間もなく豊臣秀吉の指示に基づき、新たな拠点城として徳島城の築城に着手します 2 。城地として選ばれたのは、吉野川河口部に位置する猪山(いのやま、現在の城山)でした。この選定には秀吉自身が関与したとされ、水運の利便性と防御に適した地形が重視されたと考えられます 2 。徳島城は、北に助任川、南に寺島川(現在は一部埋め立て)を天然の堀として取り込んだ平山城で 26 、その築城には伊予の小早川隆景、土佐の長宗我部元親といった四国の大名、さらには比叡山の僧侶らが協力したと伝えられています 26 。比叡山の僧侶の参加は、石垣普請に長けた「穴太衆(あのうしゅう)」などの石工集団が動員されたことを示唆しており、実際、徳島城の石垣には、自然石を巧みに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」が多く用いられ、一部には阿波特産の青石(緑色片岩)も使用されています 26 。築城は迅速に進められ、翌天正14年(1586年)には概ね完成したとされています 26 。創建当時の天守については、元和年間(1615年~1624年)に取り壊されたといわれ、その後、城山中腹の東二の丸に三階櫓が建てられ、これが天守の代用とされました 26 。
徳島城の立地選定と迅速な築城は、家政が阿波国支配の拠点を早期に確立し、吉野川河口部という水運の要衝を押さえることで、軍事的・経済的中心地を形成しようとした明確な戦略的意図の表れです。これは単に家政個人の判断に留まらず、豊臣政権全体の四国統治戦略の一環であった可能性も考えられます。水運の利は、物資輸送や有事の際の軍事展開に不可欠であり、特に四方を海や川に囲まれた阿波国にとっては生命線とも言える要素でした。
徳島城の完成と並行して、家政は城下町の建設も積極的に進めました 23 。阿波国内に広く触れを出し、城下での商売を希望する者には屋敷地を与えるといった優遇策を講じ、領内外からの人口流入を促しました。さらに、先進的な商業都市であった堺や、蜂須賀家の旧領であった播磨国、そして家政自身の出身地である尾張国からも積極的に商人を招き入れ、城下の経済的活性化を図りました 2 。また、城下の一角には寺町が形成され、旧守護所であった勝瑞(現在の藍住町)などから多くの寺院が集められました。これは、各宗派の寺院を大名統制下に置き一元的に管理するとともに、人々の信仰の拠り所である寺院を保護することで人心の収攬を図るという、近世城下町建設に共通して見られる政策でした 31 。こうした積極的な都市計画は、徳島が阿波国の政治・経済・文化の中心として発展するための強固な基盤となりました。なお、徳島の夏の風物詩である阿波踊りの起源の一つとして、この徳島城の完成を祝し、家政が城下の民衆に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という旨の触れを出したことによるとする説も広く知られています 2 。
蜂須賀家政が阿波国に入封した当時、領内は決して平穏ではありませんでした。長年にわたり阿波を支配してきた三好氏の旧臣や、それに続く長宗我部氏の勢力、そして各地に割拠する在地土豪たちは、新たな領主である蜂須賀氏の支配に対し、しばしば抵抗の姿勢を見せました 1 。特に、険しい山々に囲まれた祖谷山(いややま)や仁宇谷(にうだに)といった山間部では、その抵抗は激しさを極めました 2 。例えば、仁宇谷を支配していた湯浅対馬守は家政の臣従命令に従わず、派遣された使者を殺害するという事件を起こしています。また、祖谷山の勢力も同様に使者を殺害するなど、家政の統治は当初から困難に直面しました 17 。
これらの抵抗に対し、家政は単なる武力による制圧だけでなく、在地勢力の複雑な利害関係を巧みに利用した「飴と鞭」の戦略で臨みました。強硬な抵抗を示した湯浅対馬守に対しては、家臣の山田宗重らを派遣して武力で鎮圧する一方 17 、広大で地形が複雑な祖谷山に対しては、力攻めが難しいと判断し、在地勢力である小野寺一族を用いて「諸役免除」などを条件に粘り強く説得工作を進め、従わない勢力は討伐するという形で、抵抗勢力の切り崩しを図りました 17 。このような「毒は毒を以て制す」とも評される戦略や、在地勢力の既得権益をある程度認めることで懐柔しようとする政策(例えば、「山士、兵衆、百姓の三品に分ち、山士には世々持てる所の山邑を賜て安堵せしむ」といった記録 17 )は、家政の父・正勝が国衆出身であったこととも無縁ではなく、在地勢力の扱いに長けていたことを示唆しています。こうした巧みな統治術により、家政は約5年から6年の歳月をかけて領内の抵抗勢力を平定し、阿波国における支配体制を確立していきました 2 。この抵抗の背景には、土佐へ退いた長宗我部氏による失地回復の動きも影響していたと指摘されています 17 。
領内支配と防衛体制を強化するため、家政は徳島城を本城としつつ、阿波国内の要所に9つの支城(いわゆる「阿波九城」)を整備し、それぞれに信頼の置ける重臣を城番として配置しました 2 。例えば、一宮城には益田一正 34 、阿北の要衝である脇城には家老格の稲田植元が配されています 34 。この阿波九城体制は、在地勢力の監視と、他領からの侵攻や一揆といった有事の際に迅速に対応するための拠点確保を目的としたものであり、軍事的な圧力と行政的な支配を両立させるための巧みな策でした。この体制は、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃止されるまで機能し、徳島藩初期の領内安定に大きく貢献しました 35 。
蜂須賀家政による阿波統治は、抵抗勢力の平定と並行して、近世的な支配体制を確立するための諸政策が精力的に進められました。その長期的な視点に立った藩政運営は、後の徳島藩の発展の礎となりました。
検地の実施とその影響
家政は、天正17年(1589年)、豊臣秀吉の全国統一政策の一環として、阿波国内で太閤検地を実施しました 1 。これにより、領内の村々の石高(米の生産高)が統一基準で把握され、それに基づく年貢徴収体制(石高制)が導入されるとともに、武士と農民の身分を明確に区分する兵農分離が推進されました。これは、中世的な荘園制や在地土豪の支配から脱却し、大名による一元的な領国支配を実現するための画期的な政策でした。しかし、この検地は在地土豪の既得権益を脅かすものであったため、祖谷山一揆のような抵抗を引き起こす一因ともなりました 2 。家政はこれらの抵抗に直面しつつも検地を断行し、近世大名としての支配基盤を固めました。隠居後の慶長17年(1612年)にも、長年抵抗が続いた祖谷山で検地を実施した記録が残っており 2 、粘り強い統治努力が続けられたことがうかがえます。ただし、検地帳の作成にあたっては、旧来の名主百姓の権利を「分付主」としてある程度認めるなど、現実に即した妥協的な側面も見られました 39 。
法度・触書の制定と統治体制の整備
家政は、領国統治の基本となる法制度の整備にも力を注ぎました。慶長9年(1604年)以降には、戦乱で荒廃した市場村(現在の徳島市の一部)の復興のため、年貢の免除や諸役の免除、市場開設といった内容の制札(高札)を発布し、耕作者の誘致や商人の転入を促しました 2 。また、村々で発生した用水を巡る争いを裁定する制札も発行しており 2 、領内の秩序維持と民生の安定に積極的に関与していたことがわかります。
そして、徳島藩の統治の根幹となる基本法として、元和4年(1618年)に「御壁書二十三箇条」(「表書」「壁書」とも呼ばれる。子の至鎮が制定したとの説もあるが、家政の関与は確実視されている)が制定されました 2 。さらに寛永4年(1627年)には、この御壁書を補完する「裏書七箇条」が制定され、徳島藩の法体系の基礎が確立されました 2 。これらの法度は、家政が孫である2代藩主・忠英の後見役として藩政を実質的に指導していた時期に整備されたものであり、彼の長年の統治経験が集約されたものと言えるでしょう。
家臣団の編成と在地支配
蜂須賀家の家臣団は、家政の父・正勝以来の家臣、すなわち蜂須賀氏の旧領であった尾張国出身者や、その後の拠点であった播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)時代の家臣が中核を成していました。播州龍野出身者の中には「志方七人衆」(原氏、石坂氏、蔭山氏、平瀬氏、船橋氏、岡田氏など)と呼ばれる有力な家臣グループも存在しました 35 。これに対し、阿波国にもともといた国人領主や武士の登用は比較的少なく、召し抱えられたとしても多くは下級武士の扱いであったとされています 35 。
家臣団の筆頭格としては、稲田氏が挙げられます。特に稲田植元(通称:太郎右衛門尉、後の稲田示植の父)は、正勝の義兄弟とも称されるほどの信頼を得ており、客将格として厚遇されました。植元は阿波九城の一つである脇城の城代を務めたほか、後には淡路国や阿波北部の統治も任されるなど、家政の阿波統治において極めて重要な役割を果たしました 2 ]。
藩の組織としては、家老を頂点に、中老、組士(与士)、物頭といった階級が設けられ、軍事を担当する番方と行政を担当する役方に大別されていました 35 。藩政の最高意思決定機関である「仕置」は、家老や中老の中から選ばれた年寄が担当し、その下に国奉行や目付といった役職が置かれ、藩政の中枢を担いました 35 。
産業振興(藍作、製紙業、その他)と交通・治水事業
家政は、阿波国の経済的基盤を確立するため、産業の振興にも積極的に取り組みました。
これらの多岐にわたる政策は、家政が単に武力で領国を支配するだけでなく、経済的・社会的な安定と発展を目指した経世家としての側面も持ち合わせていたことを示しています。特に藍作の奨励は、その後の徳島藩の経済的繁栄を決定づけるものであり、家政の先見の明を示すものと言えるでしょう。
政策分野 |
具体的な政策名や内容 |
実施年など |
目的 |
主な成果や影響 |
検地 |
太閤検地の実施、石高制導入、兵農分離推進 |
天正17年(1589年)~ |
領内生産力の把握、年貢徴収体制の確立、武士と農民の身分区分 |
近世的支配体制の基礎確立、在地土豪の抵抗誘発の一因 |
|
祖谷山などでの藩独自の検地 |
慶長17年(1612年)など |
山間部の支配強化 |
抵抗勢力の懐柔と支配浸透 |
法度・触書 |
市場村復興のための制札発布(年貢免除、転入者誘致など) |
慶長9年(1604年)~ |
荒廃地域の経済再建、人口増加 |
市場の再活性化 |
|
用水争い裁定の制札発布 |
慶長11年(1606年) |
領内秩序維持、紛争解決 |
民生の安定 |
|
「御壁書二十三箇条」制定 |
元和4年(1618年) |
藩法の基本原則確立 |
徳島藩統治体制の根幹形成 |
|
「裏書七箇条」制定 |
寛永4年(1627年) |
御壁書の補完 |
法体系の整備 |
産業振興 |
藍作の保護・奨励 |
阿波入国後~ |
藩財政の基盤確立、特産品育成 |
阿波藍の全国的ブランド化、藩経済の飛躍的発展 |
|
製紙業の奨励(楮を産業の四木の一つに) |
阿波入国後~ |
藩内産業の多角化 |
阿波和紙の生産振興 |
|
養蚕業、塩業、タバコ栽培などの奨励 |
阿波入国後~ |
藩経済の多角化 |
各種産業の発展 |
交通・治水 |
蓬庵堤の築堤(鮎喰川) |
天正14年(1586年) |
洪水防止、城下防衛、農業用水確保 |
城下町の安定、農業生産の向上 |
|
岡崎十人衆の整備(淡路との渡海) |
天正13年(1585年)~ |
海上交通の安定化 |
淡路との往来円滑化 |
|
駅路寺制度の設置 |
慶長3年(1598年) |
陸上交通の便宜供与、治安維持 |
旅人の保護、情報収集体制の整備 |
城下町整備 |
徳島城下町の建設、商人誘致、寺町形成 |
天正13年(1585年)~ |
政治・経済・文化の中心地形成 |
徳島の都市基盤確立、人口増加、文化集積 |
表2:徳島藩初期の主要政策一覧
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いは、蜂須賀家にとってもその存亡を賭けた極めて重要な局面でした。この時、大坂に滞在していた蜂須賀家政は、西軍に与することを余儀なくされ、大坂久太郎町橋の警固といった任務を命じられました 1 。しかし、これは家政の本意ではなく、西軍の総大将となった毛利輝元らの強い圧力によるものであったとも言われています 5 。実際、家政は輝元に対し、西軍への参加を諌める内容の書状を送ったとの記録も残っています 2 。豊臣恩顧の大名としての立場と、急速に台頭する徳川家康との関係、そして何よりも蜂須賀家の安泰という至上命題の間で、家政は極めて難しい判断を迫られたのです。
このような状況下で、家政は巧妙な戦略を展開します。表向きは西軍の指示に従いつつも、病気を理由に自身は直接戦場へ赴かず、家臣団の一部(あるいは家老の青木方斎を代理として)を西軍に派遣するに留めました 1 。その一方で、嫡男である蜂須賀至鎮は、徳川家康の養女(小笠原秀政の娘・氏姫、後の敬台院)を正室に迎えており 2 、家康が会津の上杉景勝討伐へ向かう際にはこれに従軍していました。そして、石田三成らが挙兵すると、至鎮はそのまま東軍に加わり、関ヶ原の本戦において武功を挙げました 1 。
家政自身は、関ヶ原の合戦が始まる前に阿波国を豊臣家に返上する手続きを取り、剃髪して蓬庵と号し、高野山に登ったとも伝えられています 1 。これは、万が一西軍が敗れた場合に、豊臣家への忠誠を示しつつも、直接的な責任を回避するための深慮遠謀であったと考えられます。戦況が東軍優位に進むと、家政は西軍に派遣していた家臣を処分(あるいは至鎮のもとへ合流するよう指示)し、自らも至鎮の陣に加わったとされています 1 。
この一連の蜂須賀家の行動は、単なる日和見主義と片付けることはできません。それは、豊臣恩顧の大名としての立場を維持しつつも、新たな時代の覇者となり得る徳川家との関係も考慮し、何よりも蜂須賀家の存続を最優先するという、極めて計算された戦略でした。嫡男・至鎮を東軍に参陣させることで万全の保険をかけ、自身は西軍からの圧力を巧みにかわすという離れ業は、後に「阿波の古狸」と評される家政の面目躍如たるものであったと言えるでしょう。この周到な立ち回りの結果、関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的な勝利に終わった後も、蜂須賀家は徳川家康から咎められることなく、所領である阿波国を安堵されることに成功したのです 1 。この背景には、豊臣政権下で朝鮮出兵の際に一度失脚しかけた経験から学んだ、権力者の意向を慎重に見極めることの重要性があったのかもしれません。
関ヶ原の戦いにおける巧みな立ち回りによって家名を存続させた蜂須賀家は、その後、徳川幕府との関係を強化し、藩体制の安定化を推進していきます。
戦後処理において、東軍に属して戦功のあった蜂須賀至鎮に対し、徳川家康は改めて阿波一国を与えることを決定しました。これにより、実質的に徳島藩が成立し、家政は「藩祖」、至鎮は「初代藩主」として位置づけられることになります 1 。慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開くと、家政は江戸へ赴き、家康から阿波一国の領知権を改めて確認されました 2 。これは、蜂須賀家が徳川体制下の大名として正式に承認されたことを意味します。
その後、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて起こった大坂の陣は、豊臣氏を滅亡させ、徳川氏による天下泰平を確固たるものにした戦いでした。この戦いにおいて、蜂須賀家は明確に徳川方として参陣します。家政は豊臣方からの誘いを断固として拒絶し、「自分は無二の関東方(徳川方)である」と表明して駿府城の家康を訪ね、豊臣方からの密書を提出したと伝えられています 2 。そして、自らを人質として江戸へ向かい、終戦まで恭順の意を示しました。一方、藩主である至鎮は大坂夏の陣に出陣し、木津川口の戦いや博労淵の戦いなどで目覚ましい武功を挙げ、徳川秀忠から感状(感謝状)を与えられるほどの活躍を見せました 20 。
大坂の陣におけるこの忠勤と戦功が評価され、蜂須賀家は元和元年(1615年)または元和3年(1617年)に、淡路国7万石(後に淡路全島)を加増されました。これにより、徳島藩は阿波・淡路の二国を領有する、約25万7千石の大藩へと発展を遂げました 18 。
年月 |
契機 |
石高 |
出典(例) |
天正12年(1584年) |
根来・雑賀一揆討伐の功 |
播磨佐用郡 3,000石 |
1 |
天正13年(1585年) |
四国征伐の功 |
阿波国 約17万石~18万6千石 |
1 |
元和元年(1615年)または元和3年(1617年) |
大坂の陣の功 |
淡路国加増により合計 約25万7千石 |
20 |
表3:蜂須賀家 石高変遷表
さらに、初代藩主・至鎮の正室である敬台院(氏姫)が徳川家康の養女(実際には曾孫にあたる)であったことは、蜂須賀家と徳川将軍家との間に強固な姻戚関係を築く上で非常に重要な意味を持ちました 20。この婚姻政策は、外様大名である蜂須賀家が徳川幕府の信頼を得て、藩体制を早期に安定させる上で決定的な役割を果たしました。家政自身も、関ヶ原の戦いを生き抜いた戦国以来の長老として、後には3代将軍・徳川家光の御伽衆(話し相手や相談役)として江戸城に出仕することもあったと伝えられており 2、幕府との良好な関係維持に努めていたことがうかがえます。
家政の的確な政治的嗅覚と、時代の変化に対応した柔軟な行動力が、徳島藩の長期的な安泰へと繋がったと言えるでしょう。
関ヶ原の戦いが終結し、徳川の世が確実になると、蜂須賀家政は速やかに家督を嫡男の至鎮に譲り、自身は剃髪して出家し、「蓬庵(ほうあん)」と号して隠居の身となりました 1 。しかし、これは名目上の隠居であり、家政の影響力は依然として藩内に強く残っていました。隠居後も阿波国の統治に積極的に関与し続け、例えば、荒廃した市場村の復興事業を指揮したり、村々の用水を巡る争いの裁定を下したり、長年抵抗が続いていた祖谷山で検地を実施したりするなど、藩政の細部にまで目を配っていました 2 。
家政が再び藩政の表舞台に立つことになるのは、元和6年(1620年)、初代藩主であった至鎮が35歳という若さで早世したことによります。跡を継いだ孫の蜂須賀忠英(ただてる、幼名は千松丸)はまだ幼少であったため、幕府は家政に対し、忠英の後見役として藩政を執り行うよう命じました 1 。これにより家政は、徳島城の西の丸にあって、忠英が成人する寛永6年(1629年)までの約9年間、実質的に徳島藩の最高権力者として采配を振るいました。この、いわば「院政」とも呼べる期間に、家政は徳島藩の統治体制を最終的に完成させるための重要な施策を断行します。前述の藩の基本法度である「御壁書二十三箇条」及びそれを補完する「裏書七箇条」の制定は、まさにこの後見役時代に行われたものであり 2 、徳島藩の永続的な基盤を築こうとした家政の強い意志の表れと言えます。
晩年の家政は、政治的な活動に加え、文化的・宗教的な活動にも関心を示しています。寛永9年(1632年)、75歳の時には、幼少期に学んだ縁のある尾張の曼荼羅寺の正堂を、京都御所の紫宸殿の古式に則って修復し寄進するという大規模な事業を行っています 4 。
蜂須賀家政は、寛永15年12月30日(西暦1639年2月2日)、81歳という長寿を全うしてこの世を去りました 1 。その法名は瑞雲院殿蓬庵常僊大居士(または蓬庵仙居士)と伝えられています 2 。家政の長寿と豊富な経験は、草創期の徳島藩が直面したであろう様々な課題に対処し、安定した藩運営のレールを敷く上で、極めて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
蜂須賀家政を語る上でしばしば引用されるのが、伊達政宗による「阿波の古狸(ふるだぬき)」という評価です。これは『名将言行録』に記されており 2 、家政の老獪さ、抜け目のなさ、そして一筋縄ではいかないしたたかさを象徴する言葉として広く知られています。この評価は、単に狡猾であるという否定的な意味合いだけでなく、戦国乱世を生き抜き、大名家を存続させるために必要とされた高度な政治的判断力、危機管理能力、そして時には非情ともなりうる現実主義的な側面を包括的に示していると解釈できます。
実際に家政の生涯を辿ると、その知略と外交手腕が随所に見て取れます。若い頃には、父・正勝や黒田孝高と共に毛利氏との領土協定(中国国分)の交渉に当たるなど、外交の舞台で活躍しています 2 。朝鮮出兵における失態とそれに続く秀吉の勘気という危機的状況も、徳川家康の取り成しによって乗り切ったとされ 2 、有力者との関係構築の重要性を早くから認識していたことがうかがえます。そして、その極めつけが関ヶ原の戦いにおける絶妙な立ち回りであり、これは彼の知略と外交感覚の真骨頂と言えるでしょう。
一方で、家政は単に謀略に長けた人物であったわけではありません。黄母衣衆としての勇猛な活躍や、数々の戦役で示した戦功は、彼が優れた武将としての基本的な能力も十分に備えていたことを物語っています 9 。また、その性格には激しい一面もありました。朝鮮出兵の際、石田三成ら文治派の官僚によって自身の戦功が正当に評価されなかったとして三成に深い恨みを抱き、後に加藤清正ら七将と共に三成襲撃事件に関与するなど、感情の起伏の大きさを感じさせる逸話も残っています 2 。しかし同時に、後述するキリスト教信仰に見られるような知的好奇心や、信仰を公にしない用心深さといった、冷静沈着な側面も持ち合わせていました 2 。
家政の行動原理は、個人の武勇や特定の主君への絶対的な忠誠心だけでは生き残ることが困難であった戦国末期から江戸初期への移行期における、現実的な大名の姿を典型的に示していると言えます。彼の生涯は、常に状況を冷静に分析し、情報収集を怠らず、時には非情な決断も辞さないことで、自らの家と領民を守り抜こうとした為政者の姿を浮き彫りにしています。
蜂須賀家政の人物像を語る上で興味深いのは、その信仰と文化活動に見られる多面性です。
キリスト教信仰の可能性
慶長元年(1596年)にイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記録した年報には、家政が丹後田辺城主であった京極高知(同じくキリシタン大名)の影響を受けてキリスト教の洗礼を受けたと記されています 2 。この記録によれば、家政は地動説などの当時の最先端の天文学や、神と仏の問題といった宗教的・哲学的な議論に強い好奇心を示し、時には領地や生命を失うことになっても信仰を捨てないという決意を表明したとされています。しかしその一方で、自身がキリシタンであることを公には表明しないという用心深さも持ち合わせていたと伝えられています 2 。さらに、隠居後の慶長13年(1608年)のイエズス会年報では、ディオゴ結城という日本人修道士が神父と共に阿波を訪れた際、家政は彼らを厚遇し、阿波国内のキリシタン領民に引き合わせたり、自身の屋敷に招いて説教を聞いて賞賛したりするなど、息子の至鎮や家臣共々キリスト教に理解を示したことが記録されています 2 。豊臣秀吉による禁教令発布後は棄教したとされていますが、一部には密かに信仰を続けていたのではないかとの見方も存在します 61 。
家政のキリスト教への関心は、単なる個人的な信仰に留まらず、当時の国際情勢や最先端の文化・情報に触れ、キリシタン大名をはじめとする新たな人脈を形成する手段としての側面も持っていたと考えられます。特に豊臣政権下においては、有力なキリシタン大名との交流が、情報収集や政治的立場を有利にする上で有効であった可能性も否定できません。しかし、禁教令という厳しい政治的現実の中で、最終的には家の安泰を優先し、信仰と政治との間で巧みにバランスを取っていた様子がうかがえます。
仏教への帰依
一方で、家政は伝統的な仏教にも深く帰依していました。幼少期に尾張の曼荼羅寺で学んだという縁は深く 3 、後年、寛永9年(1632年)には75歳にして同寺の正堂を京都御所の紫宸殿の古式に倣って修復寄進するという大事業を行っています 4 。また、元和5年(1619年)には、法華宗の名刹である京都要法寺の第22代住職・大雄院日恩の教化を受け、京都東山に隠居のための庵を建てたとされています 2 。
茶の湯への傾倒
家政はまた、当代一流の文化人でもあり、特に茶の湯に深い関心と造詣を持っていました。伊達政宗や堺の豪商・津田宗及といった著名な茶人との茶会に参加した記録が残っており 2 、茶の湯の天下三宗匠の一人である千利休とは特に親密な関係を築き、利休から度々茶道具を譲り受けたと伝えられています 2 。
阿波入国後は、利休の甥である渡辺道通や、利休の弟子であった塩屋宗喜、そして堺の豪商・三木正通といった茶人を召し抱え、彼らと茶の湯を通じて交流を深めました 2 。また、武将茶人として名高い上田宗箇(重安)を一時期、賓客として厚遇し、彼が作庭したと伝わる旧徳島城表御殿庭園(千秋閣庭園)は、現在も徳島中央公園内にその美しい姿をとどめています 2 。
家政は茶道具の収集にも熱心で、昭和8年(1933年)に蜂須賀家が所蔵品を売りに出した際の品目録には、千利休ゆかりの茶道具類が多数確認されています。また、徳島市内の丈六寺には、家政が寄進したと伝わる瀬戸茶壷と台子飾りの皆具一式が大切に保存されています 2 。これらの文化活動は、家政が武人としての側面だけでなく、洗練された審美眼と豊かな教養を兼ね備えた人物であったことを示しています。茶の湯を通じた様々な階層の人々との交流は、彼の政治的ネットワークを広げ、情報収集にも役立ったことでしょう。
蜂須賀家政の生涯を支え、また彼の死後も徳島藩の歴史を紡いでいく上で重要な役割を果たしたのが、その家族と主要な家臣たちでした。
家族
関係 |
氏名(敬称略) |
続柄・備考 |
父 |
蜂須賀正勝(小六) |
|
母 |
大匠院(まつ) |
三輪吉高または益田持正の娘 |
異父兄 |
長存 |
|
姉妹 |
奈良姫 |
賀島長昌室 |
姉妹 |
糸姫 |
黒田長政室 |
正室 |
慈光院(ヒメ) |
生駒家長の娘 |
長男 |
蜂須賀至鎮 |
母は慈光院。徳島藩初代藩主。妻は徳川家康養女・敬台院 |
長女 |
即心院(万姫) |
池田由之室 |
次女 |
阿喜姫 |
井伊直孝室 |
三女 |
実相院(辰姫) |
松平忠光室 |
表4:蜂須賀家政 家族構成
主要家臣
蜂須賀家の家臣団は、その出自によっていくつかのグループに分けられます。中核を成したのは、家政の父・正勝が尾張国で活動していた時代からの譜代の家臣や、その後の拠点であった播磨国龍野時代の家臣たちでした 35 。阿波国に入国してからは、現地の国人領主や武士も一部登用されましたが、藩政の中枢を担ったのは主に旧来の家臣たちであったとされています 35 。
蜂須賀家が旧来の信頼できる家臣を中核としつつ、稲田氏のような在地に影響力を持つ有力者を客将格として厚遇し、領国支配の重要拠点(脇城や淡路島)の統治を委ねたことは、広大な新領地を効率的に治め、藩政を早期に安定させる上で非常に効果的な戦略であったと言えます。一方で、阿波土着の国人の登用が比較的少なかったことは、初期の抵抗の一因となった可能性も否定できませんが、長期的には中央集権的な藩体制の確立を円滑に進める上で有利に働いた側面もあると考えられます。
蜂須賀家政が阿波国に入り、徳島藩の基礎を築いたことは、その後の阿波・淡路地方の文化や伝統の形成に大きな影響を与えました。
このように、蜂須賀家政の阿波統治は、政治・経済的な側面に留まらず、地域の文化や伝統の形成にも深く関わっていました。彼が蒔いた種が、数世紀の時を経て、今日の徳島の豊かな文化として花開いていると言えるでしょう。
蜂須賀家政の生涯と業績を今に伝える史跡や文化財は、徳島県内を中心に数多く残されています。これらは、家政が単なる武将ではなく、築城家、統治者、文化人、そして信仰心を持つ複雑な人物であったことを物語っており、文献史料を補完し、家政の実像に迫る上で不可欠なものです。
主要な史跡
主要な文化財
これらの史跡や文化財は、徳島市立徳島城博物館 22 、徳島県立文書館 42 、徳島大学附属図書館(蜂須賀家文書デジタルアーカイブを公開) 78 などで調査・研究が進められており、家政の実像をより深く理解するための貴重な手がかりを提供しています。
蜂須賀家政の生涯は、戦国乱世の終焉から江戸幕藩体制の確立という、日本史における一大転換期を背景としています。尾張の小土豪の子として生まれながら、父・正勝と共に豊臣秀吉に仕え、数々の戦功を重ねて阿波一国の大名へと駆け上がり、最終的には25万石余を領する徳島藩の藩祖としてその名を不動のものとしました。
家政の業績を総括するならば、第一に挙げられるのは、阿波・淡路二国にまたがる広大な領地を獲得し、徳島藩の強固な統治基盤を築き上げた点です。徳島城の築城と城下町の整備、太閤検地の実施と石高制の導入、藩法の制定、そして藍作を中心とする産業振興策は、その後の徳島藩の長期的な安定と経済的繁栄の礎となりました。特に、抵抗勢力が存在した入国初期の阿波国において、武力と懐柔を巧みに使い分け、領内を平定した手腕は高く評価されるべきでしょう。
第二に、関ヶ原の戦いという未曽有の国難において、嫡男・至鎮を東軍に、自身は西軍に与するという巧みな戦略によって蜂須賀家の存続を全うした点は、彼の政治的判断力と危機管理能力の高さを示すものです。「阿波の古狸」と評されたその知略は、単なる狡猾さではなく、激動の時代を生き抜くための現実的な処世術であり、大名としての家と領民を守るという強い責任感の表れであったと解釈できます。
第三に、家政は武人・政治家としてだけでなく、文化・信仰の面でも注目すべき側面を持っていました。キリスト教への関心や茶の湯への傾倒は、当時の知識人・文化人としての教養の深さを示しており、彼の人間的な奥行きを感じさせます。
今後の蜂須賀家政研究においては、未公開史料のさらなる発掘と分析、特に彼の信仰の実態や、藩政初期における具体的な政策決定過程、さらには個性豊かな家臣団との関係性などについて、より詳細な解明が期待されます。また、阿波踊りをはじめとする徳島の文化・伝統の形成における家政の役割についても、民俗学的な視点を取り入れた学際的な研究が進むことで、新たな知見が得られる可能性があります。
蜂須賀家政は、戦国武将の勇猛さと近世大名の統治能力を兼ね備え、激動の時代を生き抜いた稀有な人物であったと言えます。彼が遺した足跡は、徳島の地に深く刻まれ、今日に至るまでその影響を色濃く残しています。本報告書が、蜂須賀家政という歴史的人物への理解を深める一助となれば幸いです。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
出来事 |
関連史料(例) |
永禄元年 |
1558年 |
1歳 |
尾張国海東郡蜂須賀村に蜂須賀正勝の嫡男として生まれる。幼名小六。 |
1 |
元亀元年 |
1570年 |
13歳 |
姉川の戦いに父・正勝と共に初陣。 |
1 |
天正3年 |
1575年 |
18歳 |
父と共に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。 |
1 |
天正8年 |
1580年 |
23歳 |
播磨長水山城攻略で軍功。 |
1 |
天正10年 |
1582年 |
25歳 |
毛利征伐の際に黄母衣衆となる(一説)。 |
1 |
天正11年 |
1583年 |
26歳 |
賤ヶ岳の戦いに参陣。 |
1 |
天正12年 |
1584年 |
27歳 |
根来・雑賀一揆討伐の功により播磨佐用郡で3000石を与えられる。 |
1 |
天正13年 |
1585年 |
28歳 |
四国征伐で軍功。阿波国17万石余を拝領し徳島城主となる。徳島城築城開始。 |
1 |
天正14年 |
1586年 |
29歳 |
従五位下阿波守に叙任。徳島城完成。 |
1 |
天正15年 |
1587年 |
30歳 |
九州征伐に参陣。 |
11 |
天正17年 |
1589年 |
32歳 |
阿波国で太閤検地を実施。 |
1 |
天正18年 |
1590年 |
33歳 |
小田原征伐に参陣。韮山城包囲などを担当。 |
11 |
文禄元年 |
1592年 |
35歳 |
文禄の役に従軍。朝鮮へ渡海。 |
1 |
慶長元年 |
1596年 |
39歳 |
イエズス会年報に受洗の記録(フロイス)。 |
2 |
慶長2年~3年 |
1597年~1598年 |
40~41歳 |
慶長の役に従軍。蔚山城の戦いで救援軍として武功。後に秀吉の勘気を被る。 |
2 |
慶長3年 |
1598年 |
41歳 |
駅路寺制度を設ける。 |
50 |
慶長4年 |
1599年 |
42歳 |
石田三成襲撃事件(七将襲撃事件)に関与。 |
2 |
慶長5年 |
1600年 |
43歳 |
関ヶ原の戦い。家政は西軍に属するも出陣せず。嫡男・至鎮は東軍に参加。戦後、所領安堵。剃髪し蓬庵と号す。 |
1 |
慶長8年 |
1603年 |
46歳 |
徳川家康の征夷大将軍宣下に際し江戸へ赴き、阿波一円の領知権を改めて確認される。 |
2 |
元和元年 |
1615年 |
58歳 |
大坂夏の陣。至鎮が徳川方として武功。淡路国を加増される。 |
21 |
元和4年 |
1618年 |
61歳 |
藩法「御壁書二十三箇条」制定(至鎮制定説あり)。 |
2 |
元和6年 |
1620年 |
63歳 |
嫡男・至鎮が死去。孫・忠英の後見役となる。 |
1 |
寛永4年 |
1627年 |
70歳 |
藩法「裏書七箇条」制定。 |
2 |
寛永6年 |
1629年 |
72歳 |
忠英が成人し後見役を終える。 |
5 |
寛永9年 |
1632年 |
75歳 |
尾張の曼荼羅寺正堂を修復寄進。 |
4 |
寛永15年12月30日 |
1639年2月2日 |
81歳 |
死去。 |
1 |