最終更新日 2025-06-05

跡部勝資

「跡部勝資」の画像

甲斐武田氏家臣・跡部勝資の実像:『甲陽軍鑑』の評価と現代的研究の視点から

1. 序論

本報告の主題である跡部勝資(あとべ かつすけ)は、戦国時代の甲斐武田氏に仕えた武将であり、特に武田信玄後期から勝頼期にかけて、当主側近として重要な役割を担った人物である。しかし、その評価は『甲陽軍鑑』における奸臣としての記述と、近年の研究による実務官僚としての再評価など、多岐にわたる。

本報告では、提供された資料に基づき、跡部勝資の出自、武田家における事績、関与した主要な出来事、そして彼に対する多角的な評価を詳細に検討し、その実像に迫ることを目的とする。特に、『甲陽軍鑑』の記述と他の史料、現代の研究成果を比較検討することで、跡部勝資という人物の歴史的意義を明らかにする。

2. 出自と家系

2.1. 跡部氏の淵源と甲斐武田氏への臣従

跡部氏は、その発祥を信濃国佐久郡跡部郷(現在の長野県佐久市跡部)に持つ一族であり、清和源氏小笠原氏の庶流とされている 1 。室町時代、甲斐守護であった武田信満が上杉禅秀の乱に荷担して滅亡した後、室町幕府は信濃守護の小笠原政康に対し、武田信元(後に信重)の甲斐への帰国支援を命じた。この際、政康は守護代として跡部氏を甲斐へ派遣し、これが跡部氏が甲斐の地に土着する契機となった 1

しかし、その後の甲斐国内の政情は安定せず、寛正6年(1465年)には甲斐守護武田信昌によって跡部景家が滅ぼされ、跡部氏は甲斐国内において一時的に排斥されるという経験もしている 1 。それでもなお、戦国期に至ると武田家の家臣団の中に再びその名が見られるようになり、譜代の重臣層には跡部信秋・勝資父子の系統が確かに存在していた 3

一度甲斐で排斥された家系が、戦国期に譜代重臣として再興を遂げたという事実は、注目に値する。武田氏の家臣団編成において、単に旧来の家格のみならず、その時々の政治的判断や当主の意向、そして個人の能力が登用に影響した可能性を示唆している。跡部氏がかつて甲斐守護代を務めた名家であったという事実 4 は、その再興に際して何らかの有利に働いたかもしれない。一方で、武田信玄の時代には「跡部氏のように割と新参の家臣たちも能力などに応じて登用したりするなどの変化がある」との指摘もあり 5 、信秋・勝資父祖の具体的な功績や能力が、家格とは別に評価された結果としての再興であった可能性も考えられる。この点は、武田氏の領国拡大に伴う人材登用策の柔軟性と、旧勢力と新興勢力のバランスを考慮した家臣団統制の一端を垣間見せる。

2.2. 父・跡部信秋(祖慶)

跡部勝資の父は、跡部信秋(あとべ のぶあき)である 2 。信秋は出家後、攀桂斎祖慶(はんけいさい そけい)と号したことが知られている 4

信秋は、武田信虎及びその子である晴信(信玄)の二代にわたって仕えた重臣であった。官位は伊賀守、従五位下尾張守を称し、甲斐国内に9ヶ村の所領を有するなど、武田家中において確固たる地位を築いていた 7 。特に信玄の時代にはその側近として活動し、諸役免許を与える文書の奏者(ほうじゃ、奉者とも。朱印状の取り次ぎ発行を担当する役職)として、信玄側近中の側近であった駒井高白斎に次ぐ頻度でその名が確認されている 7 。これは、信秋が信玄政権下で単なる武将としてだけでなく、行政面においても極めて重要な役割を担っていたことを明確に示している。

史料上では、『高白斎記』の天文22年(1553年)8月28日条にその名が見えるほか、高野山成慶院所蔵の『武田家過去帳』によれば弘治3年(1557年)時点での活動も確認できる 7 。永禄10年(1567年)頃からは「攀桂斎」という号が見られるようになり、時を同じくして嫡男である勝資(当時は大炊助)が武田家の文書に登場し始める。そして、元亀元年(1570年)4月を最後に信秋が奏者として活動した記録が見られなくなることから、この頃に隠居したか、あるいは死去したと考えられている 7 。信秋には、勝資の他に良保(又五郎)という男子と、二人の女子がいたことが記録されている 2

信秋が奏者として高い頻度で歴史の表舞台に登場するという事実は、彼が武田氏の政務、特に意思決定の伝達や公的文書の発給という国家運営の根幹に関わる部分で中心的な役割を担っていたことを強く示唆している。このような父親の姿や家での立場は、息子である勝資が後に同じく奉者として活躍し、武田勝頼の側近としての地位を確立する上で、少なからぬ影響を与えたと考えられる。跡部家は、武勇のみならず、吏僚としての高度な専門性や実務能力によって武田家中で評価され、その役割をある程度世襲的に担っていた家系であった可能性がうかがえる。

2.3. 跡部勝資の生年と家族

跡部勝資の生年については、諸説が存在する。1547年(天文16年)生まれとする資料 6 がある一方で、生年不詳、あるいは「?」として明確な年を示していない資料も見られる 2 。このため、正確な生年は確定していないのが現状である。しかし、没年に関しては1582年(天正10年)とする点で、多くの資料が概ね一致している 2

出身地についても、信濃国とする説 9 と甲斐国とする説 4 がある。跡部氏の本貫地(発祥の地)が信濃国佐久郡であること 1 を考慮すると、信濃出身である可能性も十分に考えられる。

実父は前述の跡部信秋であるが、実母に関する具体的な記述は、提供された資料の中には見当たらない 6 。兄弟としては、良保(りょうほ、または「よしやす」とも読める)という名の弟と、二人の姉妹がいたことが確認できる 2 。子には、上野国の国衆である和田氏を継承した和田信業(わだ のぶなり)、同じく武田家に仕えた跡部昌勝(あとべ まさかつ、大炊助を名乗る)、そして朝比奈信良の室(妻)となった娘、依田信蕃の室となった娘などがいたとされる 2

勝資の子である信業が、上野の国衆である和田氏の名跡を継いでいるという事実は、単なる個人的な縁組に留まらず、武田氏の領国外交戦略、あるいは支配領域拡大戦略の一環として理解することができる。戦国大名は、有力な家臣の子弟を周辺国衆の養子や婿として送り込むことにより、その国衆を自らの勢力圏に取り込んだり、影響力を強化したりする政策をしばしば用いた。この和田信業の事例は、武田氏が上野方面に対して行っていた具体的な国衆統制策、あるいは勢力浸透策の一端を示すものとして注目される。勝資自身が勝頼の側近として外交にも深く関与していたことを踏まえれば、彼の子がこのような戦略的な縁組の当事者となることは自然な流れであり、跡部氏が武田家の対外政策においても重要な役割を担っていたことを示唆している。

3. 武田信玄・勝頼への奉仕

3.1. 武田信玄時代の活動

跡部勝資は、甲斐武田氏の譜代家臣として、武田信玄とその子・勝頼の二代にわたって忠勤に励んだ人物である 4

信玄の治世下における勝資の活動は、当初「又八郎」という仮名(通称)で見られる。史料上の初見と考えられるのは、天文18年(1549年)5月、武田氏が信濃国への侵攻を進める中で、大井氏の名代として大井信常を任命する際の使者として、駒井高白斎と共に「跡又」なる人物が派遣されたという記録であり、この「跡又」が若き日の勝資に比定されている 2

その後、永禄9年(1566年)頃から、勝資は武田家の取次(とりつぎ、主君と家臣または他勢力との間を仲介する役)や奉者(ほうじゃ、主君の命令を奉じて文書を発給する役)としての活動が顕著になってくる 4 。同年閏8月からは「大炊助(おおいのすけ)」という官途名を名乗り始め、武田氏が発給する数多くの朱印状に奉者としてその名を連ねるようになる 2 。これは、勝資が信玄の側近としての地位を確立し始めたことを示す重要な変化点と言えるだろう。

信玄の側近としては、山県昌景、土屋昌続、原昌胤といった錚々たる面々と共にその名が見られ、武田氏の領国が拡大し、有力な家臣が城代などとして各地に赴任する中で、当主の周辺に常駐する家臣の数が相対的に少なくなるという状況下において、譜代家老の子弟が側近として当主に近侍するという、当時の武田家中の傾向の一例であった 2

勝資が「又八郎」から「大炊助」へと官途名を変え、奉者としての活動を本格化させる時期は、興味深いことに、彼の父である信秋が「攀桂斎」と号して隠居、あるいは活動が徐々に見られなくなる時期(永禄10年(1567年)頃から元亀元年(1570年)頃)と重なっている 2 。このタイミングの一致は、単なる偶然ではなく、信秋から勝資への家督相続、あるいは少なくとも奉者としての職務上の役割継承が円滑に行われたことを強く示唆している。これは、跡部家が武田家中において、奉書発行業務といったある種の専門的な職務を、世襲的に担っていた可能性を補強する材料となる。武田氏の官僚機構が、世襲的な要素と能力主義的な要素を併せ持ちながら運営されていた一端がここからもうかがえる。

3.2. 武田勝頼時代の活動

武田信玄が元亀4年(天正元年、1573年)4月に没し、その子・勝頼が家督を継ぐと、跡部勝資は父の代にも増して重用されることとなった。「出頭人(しゅっとうにん)」として、武田家中に極めて大きな影響力を持つに至ったのである 2 。官途名も、信玄時代からの「大炊助」に加えて、後には「尾張守」を称するようになった 2

勝頼政権下における勝資の具体的な職務の中心は、引き続き領国各地の国衆との取次役 2 、そして武田氏の公印である竜の形を刻んだ印判(竜朱印)を用いた朱印状の奉者としての役割であった 2 。特筆すべきは、勝資が奉者として関与した朱印状の数であり、現在確認されているものだけで200通を超える。これは武田家臣団の中で群を抜いて最多であり、2位である土屋昌続が約150通であることからも、勝資の職務の重要性と彼への権限集中がうかがえる 8

また、勝資は単なる文官としての役割に留まらず、譜代家老衆の一員として三百騎を率いる侍大将でもあった 2 。この三百騎という動員兵力は、武田家中において、勇将として名高い山県昌景や高坂昌信に匹敵する最大級のものであり 2 、彼の政治的影響力を軍事面からも裏付けていた。知行地(所領)としては、甲斐国の山宮千塚(現在の甲府市千塚周辺)および信濃国内に与えられていた 4 。父・祖慶の菩提寺である攀桂寺(はんけいじ)が甲府市千塚に現存することからも、この地域が跡部氏の拠点の一つであったことが推察される 8

勝頼の時代に、跡部勝資が奉者として発給した朱印状の数が突出して多いという事実は、彼が勝頼政権の意思決定と命令伝達のまさに中枢(ハブ)として機能し、その結果として権力が彼に集中していたことを明確に示している。しかしながら、このような権力集中は、他の重臣層との意思疎通の不足を招いたり、勝頼の意向が勝資というフィルターを通じて一方的に伝達される「密室政治」であるとの批判 15 に繋がる素地となった可能性も否定できない。また、三百騎持ちという相当な軍事力を有していたことは、勝資が単なる事務方の吏僚ではなく、場合によっては武断派の宿老とも対峙しうる政治的・軍事的な実力者であったことを物語っている。この軍事力が、彼の政治的発言力を物理的にも補強していたと考えることができるだろう。

表1:跡部勝資 略年譜

年号(西暦、和暦)

出来事

関連史料

天文16年(1547年)?

生誕?(異説あり)

6

天文18年(1549年)

「跡又」(勝資の初見か)として、信濃大井氏の名代任命の使者を務める(仮名:又八郎)

2

永禄9年(1566年)

この頃より取次・奉者としての活動が活発化。閏8月より「大炊助」を名乗る。

2

永禄10年(1567年)

父・信秋が「攀桂斎」を名乗り始める。勝資の奉者活動が本格化。

2

元亀元年(1570年)

父・信秋の奏者活動が見られなくなる。勝資、引き続き奉者として活動。

7

元亀2年(1571年)

内藤昌秀(昌豊)と共に、越後上杉氏からの同盟申し入れを協議し、退ける。

27

元亀4年/天正元年(1573年)

4月、武田信玄死去。武田勝頼が家督相続。勝資、勝頼側近として重用される。

4

天正2年(1574年)

朱印状奉者として「跡部大炊」の名が見られる。

2

天正3年(1575年)

5月、長篠の戦い。軍議で長坂光堅と共に主戦論を主張。武田軍大敗。

4

天正4年(1576年)

4月、武田信玄の葬儀で高坂昌信・跡部勝忠と共に奉行を務める。

4

天正6年(1578年)

御館の乱。長坂光堅と共に上杉景勝との和睦の取次を務め、甲越同盟成立に関与。景勝方からの賄賂疑惑が『甲陽軍鑑』などで記される。

17

天正7年(1579年)頃

甲相同盟破綻後、武田信豊と共に常陸佐竹氏との甲佐同盟の取次を担当。

2

天正8年(1580年)

4月付の跡部勝忠・長坂光堅文書で、上杉方へ黄金未進を催促(結納金か)。

17

天正10年(1582年)

2月、織田・徳川連合軍による甲州征伐開始。3月、勝頼に小山田信茂領への撤退を進言するも、小山田氏の裏切りに遭う。3月11日、武田氏滅亡。勝資も殉死または討死(異説あり)。

2

4. 主要な関与事件と外交活動

4.1. 長篠の戦い(天正3年/1575年)

天正3年(1575年)5月、三河国長篠城をめぐる織田・徳川連合軍との決戦に際し、武田家中では軍議が開かれた。この席で、積極的な攻撃を主張する意見と、慎重な撤退を是とする意見が対立した。この重要な局面において、跡部勝資は長坂光堅(釣閑斎とも)と共に、主君である武田勝頼の意向を汲み、連合軍との決戦を強く進言したとされている 4

この進言の結果、武田軍は織田・徳川連合軍の巧妙な陣城と鉄砲隊の前に大敗を喫し、多くの有力武将を失うこととなった。後世に成立した軍記物である『甲陽軍鑑』では、この主戦論が武田軍壊滅の大きな原因の一つとして厳しく批判されており、跡部勝資は長坂光堅と共に「戦犯扱い」されるに至っている 6

しかし、皮肉なことに、この長篠での大敗によって武田信玄以来の譜代宿老の多くが戦死したため、結果として跡部勝資のような勝頼側近の吏僚層が、その後の武田家の政務において、奏者としての活動をより一層活発化させることになった 4 。これは、武田家内部の権力構造に大きな変化が生じたことを示唆している。つまり、経験豊富な譜代宿老層の戦死という権力の空白を、勝頼が信頼を寄せる勝資ら側近層が埋める形で、政権運営がなされるようになったのである。この変化は、武田勝頼政権が、より一層側近に依存する体制へと移行したことを意味する。ただし、こうした体制の変化が、結果的に生き残った古参家臣層のさらなる不満や疎外感を生み出し、武田家の結束力を長期的に弱めた可能性も否定できない。長篠の敗戦は、単に軍事的な打撃に留まらず、武田家の内政や家臣団の力関係にも深刻な影響を及ぼしたと言えるだろう。

4.2. 御館の乱(天正6年/1578年)と甲越同盟

天正6年(1578年)、越後の雄・上杉謙信が急死すると、その後継をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の実弟、または従弟)の間で激しい家督争い、いわゆる御館の乱が勃発した。当初、武田勝頼は景虎の実家である相模北条氏からの要請を受け、景虎を支援するために越後へ出兵した 17

しかし、戦局の推移や、上杉景勝方からの和睦交渉の申し入れなど、諸般の状況変化を踏まえ、武田氏は外交方針を転換することになる。この重要な局面で、跡部勝資は長坂光堅と共に上杉景勝との和睦交渉における取次役を務め、結果として武田氏と上杉景勝との間で甲越同盟が成立するに至った 2

この外交方針の転換に関して、『甲陽軍鑑』や『甲乱記』といった軍記物では、跡部勝資と長坂光堅が上杉景勝方から多額の賄賂(黄金)を受け取り、その影響で武田勝頼を説得し、景勝支持へと舵を切らせたと記されている 2 。これが事実であれば、勝頼側近による私利私欲に基づいた国家の意思決定への介入であり、極めて重大な背信行為と言える。

しかしながら、この賄賂説については、近年の研究で異なる見解も提示されている。例えば、天正8年(1580年)4月付で、跡部勝忠(勝資とは別系統か、あるいは同族の人物。勘定奉行であったとされる 17 )と長坂光堅が連署した文書が存在し、その中で上杉方に対して黄金の未進(未納)を催促していることが確認できる。この時期には、武田勝頼の妹である菊姫と上杉景勝との婚姻が既に成立していることから、この黄金は不正な賄賂ではなく、両家の同盟を強固にするための正式な結納金、あるいはそれに類する贈答品であった可能性が高いと研究者によって指摘されている 17

賄賂説の真偽はさておき、御館の乱における武田家の外交方針転換、すなわち上杉景虎支援から上杉景勝支持への変更は、結果として武田家にとって極めて大きな影響をもたらした。この決定が、長年にわたる同盟関係にあった北条氏との甲相同盟を破綻させ 15 、武田氏は東に北条、南に徳川、そして西に織田という三方に敵を抱えるという、戦略的に極めて不利な状況に追い込まれる直接的な原因となったことは否定できない。跡部勝資が、この武田家の運命を左右する重要な外交交渉の最前線にいたという事実は、彼の政治的影響力の大きさを物語ると同時に、その下した(あるいは関与した)判断が、武田家の将来にどれほど重大な結果をもたらしたかを示している。この一件は、目先の利益(例えば黄金や一時的な同盟関係の構築)と、長期的な戦略的損失(信頼できる同盟国の喪失や敵対勢力の増加)との間で、為政者がいかに困難な判断を迫られるかという、外交の厳しさを浮き彫りにしている。

4.3. 甲佐同盟(天正7年/1579年頃~)

御館の乱への介入の結果、長年の同盟国であった相模北条氏との甲相同盟が破綻し、外交的に苦境に立たされた武田勝頼は、新たな同盟相手を模索する必要に迫られた。その中で、常陸国(現在の茨城県)の有力大名である佐竹氏との間で、甲佐同盟と呼ばれる同盟関係の交渉が進められた 2

この甲佐同盟締結に向けた交渉においても、武田家の一門衆である武田信豊と共に、跡部勝資が取次役を担当した 2 。この武田信豊と跡部勝資という組み合わせは、前述の甲越同盟締結の際の取次体制と同様のパターンであり、勝頼政権下における対外的な重要交渉を担当する、ある種の定型的な体制であった可能性が研究者によって指摘されている 18

さらに、武田氏は佐竹義重を介して、当時急速に勢力を拡大していた織田信長との和睦交渉(甲江和与とも呼ばれる)も試みた。しかし、織田信長側の対応は極めて冷淡であり、武田側が期待したような具体的な成果は得られなかった。この交渉の失敗に関して、佐竹義重が武田側の意向を十分に汲まずに人質を織田方に返還してしまったことなどに対し、取次を担当していた跡部勝資は強い不満を抱き、主君である武田勝頼もまた佐竹義重の行動に激怒したとされる逸話が残っている 19 。信長から勝頼に宛てられた書状が、儀礼を無視した極めて尊大な形式で書かれていたことも、織田方に和睦の意思が乏しかったことを物語っている 19

甲佐同盟の締結や甲江和与の試みは、甲相同盟の破綻によって外交的に孤立し、四囲に敵を抱えることになった武田氏が、必死に活路を見出そうともがいていた当時の厳しい状況を如実に反映している。跡部勝資がこれらの困難な外交交渉の取次という重責を担ったことは、彼が武田勝頼から外交手腕を信頼されていた(あるいは、他にこの難局を任せられる適当な人材がいなかった)ことを示す一方で、結果として大きな成果を上げることができなかったという事実は、武田氏が置かれていた外交的劣勢を覆すことの極めて大きな困難さを物語っている。これは、跡部勝資個人の外交手腕の問題というよりも、武田氏の国力そのものの相対的な低下と、織田信長を中心とする新たな政治秩序が形成されつつあったという、より大きな構造的要因による部分が大きかったと考えられる。この一連の外交努力とその限定的な成果は、有力な後ろ盾を失った戦国大名が、いかに急速に窮地に陥っていくかを示す典型的な事例と言えるだろう。

4.4. 武田信玄の葬儀(天正4年/1576年)

武田信玄の死から3年後、天正4年(1576年)4月に執り行われた信玄の正式な葬儀において、跡部勝資は、武田家の譜代重鎮である高坂昌信(春日虎綱)、そして同じ跡部一族(ただし、勝資とは系統が異なる可能性もある)の跡部勝忠と共に、葬儀の奉行という重要な役目を務めた 4

武田信玄という偉大な当主の葬儀は、武田家にとって極めて重要な儀式であり、その奉行を務めるということは、単に事務的な能力だけでなく、家中における高い地位と信頼がなければ任されない役割である。高坂昌信のような信玄時代からの宿老や、同じ一族とはいえ別系統の重臣である跡部勝忠と名を連ねてこの大役を担ったという事実は、跡部勝資が武田勝頼政権下において、公式に高い地位にあることを内外に明確に示した出来事と言える。

これは、勝資が単に勝頼個人の寵臣(お気に入りの家臣)であったというだけでなく、武田家の公式な体制においても、重臣の一人として認められていたことを意味する。特に、信玄以来の重臣である高坂昌信と共同で奉行を務めたという点は、勝頼政権が新旧の勢力のバランスに配慮した人事を行った結果なのか、あるいは過渡期における権力構造の一端を示しているのか、様々な解釈が可能である。いずれにせよ、この事実は、『甲陽軍鑑』などで描かれる「勝頼個人の寵臣」という一面的なイメージだけでは捉えきれない、跡部勝資の公式な立場と家中における一定の認知度を反映していると言えるだろう。

5. 人物評価:『甲陽軍鑑』と現代の研究

5.1. 『甲陽軍鑑』における跡部勝資像

江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』は、跡部勝資の人物像形成に極めて大きな影響を与えた史料である。同書において、跡部勝資は、武田勝頼期のもう一人の側近である長坂光堅(釣閑斎)と共に、武田家を没落に導いた元凶たる「奸臣(かんしん)」として、終始一貫して否定的に描かれている 2

具体的に『甲陽軍鑑』が指摘する勝資の「悪行」としては、まず、武田勝頼が家督を相続して以降、長坂光堅と共に権力をほしいままにし、私腹を肥やしたとされる点である 6 。さらに、譜代の宿老たちの忠言や真っ当な意見には耳を貸さず、勝頼の判断を誤らせ、結果として武田家の屋台骨を揺るがしたと厳しく断罪されている 15

個別の事件における勝資の役割についても、『甲陽軍鑑』は批判的である。例えば、天正3年(1575年)の長篠の戦いに際しては、多くの宿老が反対する中、主戦論を強硬に唱えて無謀な決戦に勝頼を導き、武田軍に壊滅的な大敗北をもたらした張本人として描かれる 6 。また、天正6年(1578年)の越後御館の乱においては、上杉景勝方から多額の賄賂を受け取り、武田家の外交方針を歪めたと非難されている 2 。そして、武田家滅亡という最後の局面においては、主君勝頼を見捨てて逃亡した不忠の臣として描かれている 16

『甲陽軍鑑』自体が、武田信玄・勝頼期の事績を記しつつも、特に勝頼やその側近たちに対する「諫言の書」としての体裁を取っていること 21 、そして武田家滅亡という悲劇的な結果を背景に、その責任を特定の個人に帰する傾向が強いことを考慮する必要がある。

『甲陽軍鑑』における跡部勝資のこのような極端な悪評は、いくつかの要因が複合的に作用した結果である可能性が高い。一つには、武田家滅亡という衝撃的な出来事に対して、その原因を分かりやすい形で求めようとする後世の人々の意識が働いたこと。二つ目には、滅亡を実際に経験した武田家の旧臣たちの中に存在したであろう特定の視点、例えば、信玄以来の古参の譜代宿老層が抱いていた勝頼政権や新興側近への不満、あるいは勝頼自身のリーダーシップへの批判を、直接的にではなく側近の責任に転嫁しようとする意図などが反映された可能性である。さらに、この書物が江戸時代初期に成立し、武士の倫理観や主君への忠誠を重んじる教訓としての側面も持っていたことを考慮すると、跡部勝資は「君主を諫めることなく、かえってその判断を誤らせる佞臣」の典型的なモデルとして、物語的に描かれたという側面も否定できない。このような『甲陽軍鑑』の記述は、その後の跡部勝資の人物像に決定的な影響を与え、長く「奸臣」というレッテルを貼られる原因となった。

5.2. 他の史料からの評価と異説

『甲陽軍鑑』が描く跡部勝資像は強烈な印象を与えるが、他の同時代史料や後代の編纂物には、異なる記述や評価も見られる。

まず、勝資の最期について、『甲陽軍鑑』が勝頼を見捨てて逃亡したと記すのに対し、織田信長側の記録である『信長公記』では、天正10年(1582年)の武田氏滅亡の際、勝資は主君勝頼と共に自害したと明確に記されている 2 。これは、『甲陽軍鑑』の記述とは正反対の内容である。

一方で、徳川家康に仕えた大久保彦左衛門の著作とされる『三河物語』には、勝資が勝頼を見捨てて逃亡したという逸話が記されており 2 、こちらは『甲陽軍鑑』の記述と軌を一にする部分がある。

江戸時代中期に編纂された甲斐国の地誌である『甲斐国志』には、甲州崩れ(武田氏滅亡)の際に、諏訪の地で跡部大炊介が死亡したとの記述が見られる 2 。この「跡部大炊介」が勝資本人を指すのか、あるいは同じく大炊助を名乗った子の跡部昌勝を指すのかについては議論がある。しかし、昌勝は後に徳川氏の旗本として存続していることから、この記述は勝資本人に関するものである可能性が高いとされている 2 。これが事実であれば、勝資の最期の場所は天目山麓の田野ではなく諏訪となり、その状況も殉死とは異なる可能性が出てくる。

また、武田氏の滅亡を経験した遺臣たちの中には、主家滅亡の直接的な要因を、上杉景勝との甲越同盟締結に伴う北条氏政との甲相同盟の破綻と、その結果として成立した北条・織田・徳川による対武田包囲網の形成に求める声があった。そして、このような外交的失敗の原因を、勝頼自身の判断ミスに加えて、跡部勝資や長坂光堅といった側近たちによる「密室政治」の産物とみなす評価が存在した 15 。武田一門でありながら最終的に織田・徳川方に寝返った穴山信君(梅雪)も、離反直後に「勝頼が家督を担った十年間は讒言する者を登用し、親族の諫言には耳を貸さなかったため、政治は大いに乱れた」と、勝頼とその側近政治を厳しく批判している 15 。この「讒言する者」には、当然、跡部勝資が含まれていたと考えられる。

これらの史料間の記述の相違や、同時代人からの批判は、跡部勝資という人物の生涯や評価が、単純な善悪二元論では割り切れない複雑なものであったことを示している。特に「密室政治」という批判は、勝頼政権が抱えていた構造的な問題点を鋭く指摘しており、勝資個人の資質や能力の問題だけでなく、彼が置かれていた武田家の政治システムそのものにも、末期的な症状が現れていた可能性を示唆している。勝頼の意思決定プロセスにおける透明性の欠如や、一部の側近への過度な権力集中が、他の家臣団からの信頼を損ね、組織全体の結束力を弱体化させたという見方は、武田氏滅亡の要因を多角的に考察する上で重要な視点となる。

5.3. 近現代の歴史研究における再評価

『甲陽軍鑑』によって長らく「奸臣」のイメージが強かった跡部勝資であるが、近現代の歴史研究、特に一次史料に基づいた実証的な研究が進むにつれて、その人物像は大きく見直される傾向にある。単なる私利私欲に走った奸臣というよりも、武田信玄・勝頼期の武田氏において、行政・外交面で重要な役割を担った有能な実務官僚として再評価する動きが顕著である。

この再評価の流れにおいて、特に重要な業績を残した研究者として、服部治則氏、平山優氏、丸島和洋氏らが挙げられる。

服部治則氏の研究 は、『武田氏家臣団の系譜』といった著作にまとめられており、跡部信秋・勝資父子に関する基礎的な研究を深めた 11 。服部氏は、関連する古文書を丹念に収集・分析することを通じて、勝資の具体的な事績や受領名(官途名)の変遷、その時期などを明らかにした。特筆すべきは、『甲斐国志』が跡部伊賀守(信秋)と勝資の関係を父子ではないとしていた記述に対し、史料に基づいて勝資が伊賀守信秋の嫡子であることを明確に示した点である 12 。また、勝資の長子が上野国の国衆である和田氏を継承して和田信業と名乗ったことにも言及し、武田氏の対外政策との関連を示唆している 11 。服部氏は、勝資を武田氏の財政を実質的に掌握し、内政や外交においても多大な貢献をした有能な実務家として評価する一方、『甲陽軍鑑』の記述に対しては、その史料的性格を考慮した批判的な検討の重要性を説いている 12

平山優氏の研究 は、『新編武田信玄のすべて』 2 、『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』 23 、『徳川家康と武田勝頼』 24 など、数多くの著作を通じて武田氏研究の深化に貢献している。跡部勝資に関しては、信玄・勝頼の二代にわたって主君の側近として仕え、外交・内政のあらゆる分野に関与した官僚であり、武田家臣団の中で最も多くの朱印状を奉じた(取り次ぎ発行した)人物として、その政権内での重要性を強調している 8 。また、武田氏滅亡の要因として、長篠の戦いでの敗北や、その後の領国の動揺、そして勝頼側近(跡部勝資・長坂光堅ら)と信玄以来の家老衆との間に生じた軋轢などについて、多角的に論じている 22

丸島和洋氏の研究 は、『戦国大名武田氏の権力と支配』 2 、『戦国大名の「外交」』 25 、そして論文「武田氏の領域支配と取次-奉書式朱印状の奉者をめぐって-」 2 などで、武田氏の支配構造や外交政策を詳細に分析している。丸島氏は、跡部勝資のような朱印状奉者を独占的に務める「出頭人」が、武田氏の領国が拡大し、統治機構が複雑化する中で、当主の近辺にあって各方面への取次業務を寡占化する存在として出現したと指摘している 2 。これは、勝頼政権の構造的特徴を理解する上で非常に重要な視点であり、勝資のような人物が台頭した歴史的背景を明らかにしている。

これらの研究によって、跡部勝資は、武田氏の官僚機構の中で中核的な役割を果たし、特に膨大な量の文書行政や取次業務において、組織の運営に不可欠な存在であったことが明らかにされてきた。

現代の研究者によるこのような再評価は、『甲陽軍鑑』の物語的、あるいは教訓的な記述に囚われることなく、跡部勝資が実際に奉じた多数の朱印状といった一次史料の客観的な分析に基づいて行われている。これにより、長年彼に貼られてきた「奸臣」という一方的なレッテルが剥がされ、戦国大名という巨大な権力機構の下で、高度な専門技能を駆使して実務を担ったテクノクラート(専門技能を持つ官僚)としての一面が鮮明に浮かび上がってくる。これは、戦国時代の統治システムが、単に武勇に優れた武将だけでなく、複雑な行政事務を処理する能力に長けた人材によっても支えられていたことを示す好例と言えるだろう。勝資の再評価は、戦国期における「吏僚」の役割の重要性を再認識させるものである。

5.4. 他の武田家臣との関係性

跡部勝資の人物像や武田家における立場を理解する上で、他の主要な家臣たちとの関係性を見ていくことは不可欠である。彼の活動は、家臣団内部の複雑な力学の中で展開された。

  • 長坂光堅(釣閑斎): 『甲陽軍鑑』をはじめとする多くの記録で、跡部勝資と共に武田勝頼を惑わせ、専横を極めた側近として常に一対で語られる人物である 2 。両者は、勝頼政権における「出頭人」の代表格と見なされており、その評価もまた軌を一にすることが多い。
  • 高坂昌信(春日虎綱): 武田信玄の葬儀においては、跡部勝資と共に奉行を務めている記録がある 4 。これは、両者が一定の協力関係にあった、あるいは公式な場では共に重責を担う立場にあったことを示している。しかしながら、『甲陽軍鑑』は、その口述者とされる高坂昌信の視点から、勝頼やその側近である跡部勝資らを厳しく批判する体裁を取っている 20 。例えば、「長坂跡部がさゝへにより忠言も言上給はず」といった記述は 20 、信玄以来の譜代宿老である高坂と、勝頼期に急速に台頭した勝資ら新興の側近との間に、深刻な確執や路線対立があった可能性を強く示唆している。
  • 内藤昌豊(昌秀): 信玄存命中の元亀2年(1571年)、越後の上杉氏から同盟の申し入れがあった際、重臣の内藤昌秀(昌豊)は、信玄側近であった跡部勝資と協議の上、これを退けている 27 。この事実は、勝資が信玄期においても、外交という国家の重要案件の協議に関与する立場にあったことを示している。また、時代は下って天正年間には、武田勝頼による上野国(現在の群馬県)支配において、跡部勝資、内藤昌月(昌豊の養子)、土屋昌恒らが奉行として共に名が見られる 28 。これは、勝資が特定の派閥に属するだけでなく、政策遂行のためには他の重臣とも連携して実務をこなしていたことをうかがわせる。
  • 山県昌景: 跡部勝資は三百騎持の侍大将であったとされ、これは武田二十四将の一人で勇将の誉れ高い山県昌景と同等の動員兵力であったと指摘されている 2 。この事実は、勝資が単なる文官ではなく、武田家中において軍事的にも高い格を有していたことを示している。
  • 穴山信君(梅雪): 武田氏滅亡の直前、主君勝頼からの離反に際して、武田一門の重鎮であった穴山信君は、「勝頼が讒言する者を登用し、親族の諫言には耳を貸さなかった」と、勝頼の政治姿勢を厳しく批判したと伝えられている 15 。この「讒言する者」の中には、勝頼の最側近であった跡部勝資が含まれていたと考えるのが自然であり、両者の間には深刻な緊張関係、あるいは対立があった可能性が高い。

これらの主要家臣との関係性は、跡部勝資が武田家臣団内部の複雑な人間関係と権力構造の中で活動していたことを示している。高坂昌信や穴山信君との間に見られる対立や緊張関係は、信玄以来の旧臣や親族衆といった勢力と、武田勝頼の時代に新たに台頭した新興の側近層との間の、政策路線をめぐる対立や、家中における主導権争いの現れであったと考えられる。一方で、内藤昌豊との連携に見られるように、勝資は単に勝頼個人の寵臣として孤立していたわけではなく、政策決定の場や実務遂行においては、他の重臣とも協力・協議する立場にあったことも確認できる。これらの多面的な関係性は、武田家が一枚岩ではなく、内部に複数の派閥や利害関係が存在したこと、そしてそれが武田家滅亡の要因を理解する上で重要な視点を提供してくれる。勝資の立場は、単なる「奸臣」や「有能な官僚」という一面的な評価では捉えきれず、こうした家臣団内部の力学の中で理解する必要がある。

表2:跡部勝資に関する主要史料の記述比較

評価軸

『甲陽軍鑑』の記述

『信長公記』の記述

『三河物語』の記述

『甲斐国志』の記述

現代の研究者の見解(代表例)

長篠の戦いでの役割

主戦論を主張し大敗を招いた戦犯 6

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

勝頼の意を汲んで主戦論を主張した可能性。敗戦責任を負わされた側面も 4

御館の乱での行動

上杉景勝から賄賂を受け取り、勝頼を誘導 17

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

賄賂ではなく正式な結納金の可能性。外交の取次として関与 17

武田家滅亡への関与

長坂光堅と共に専横を極め、譜代宿老と対立し、滅亡の原因を作った奸臣 2

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

(直接的な言及少ない)

出頭人として権力集中。古参家臣との対立は滅亡の一因の可能性。構造的問題も 2

最期

勝頼を見捨てて逃亡 16

勝頼と共に自害(殉死) 2

勝頼を見捨てて逃亡 2

諏訪で死亡 2

殉死説が比較的有力視されるが、諸説あり確定には至らず 2

総合的評価

極めて否定的な奸臣 2

(人物評価は少ない)

(否定的評価を示唆)

(客観的記述が主)

有能な実務官僚。武田氏の統治に不可欠な存在。ただし、権力集中と対立も 2

6. 最期

6.1. 武田氏滅亡と勝資の動向

天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍による本格的な武田領侵攻、いわゆる甲州征伐が開始されると、かつて戦国最強を謳われた武田軍も有効な抵抗を示すことができず、武田勝頼は急速に窮地に追い込まれていった 4

この絶体絶命の状況下において、跡部勝資は主君勝頼に対し、一門衆であり郡内領主であった小山田信茂の領地である都留郡(甲斐国東部の郡内地方)へ退避し、再起を図ることを進言したと伝えられている 4 。小山田領は山深く、守りに適した地勢であったため、一時的な避難場所としては妥当な選択肢と考えられたのかもしれない。

しかし、武田家中からの離反が相次ぐ中、頼みとした小山田信茂までもが織田方に寝返り、勝頼一行の郡内への入国を拒否するという裏切りに遭った。これにより万策尽きた武田勝頼主従は、天目山(現在の山梨県甲州市)の麓、田野において壮絶な最期を遂げることとなる 4

跡部勝資が小山田信茂の領地への退避を進言したという記録は、彼が武田氏滅亡の最後の瞬間まで勝頼の側近として、戦略的な判断に関与し続けていたことを示している。しかし、その進言が結果として、頼みとした家臣の裏切りという最悪の事態に繋がったことは、武田家末期における情報収集能力の著しい欠如や、家臣団の離反状況に対する認識の甘さ、あるいはもはや誰を信じて良いのか分からないほどの混乱状況を示している可能性がある。特に、有力な親族衆であった穴山信君(梅雪)の離反が既に武田軍の将兵に大きな衝撃と人間不信をもたらしていた状況 15 で、同じく国衆である小山田信茂の動向を楽観視したとすれば、それは勝頼政権の危機管理能力の限界を露呈していたと言わざるを得ない。勝資の進言が、意図せずして勝頼を死地に追いやる形になったとすれば、それは彼の生涯の悲劇性を一層深めるものとなる。

6.2. 最期に関する諸説

跡部勝資が武田氏滅亡の際にどのような最期を遂げたかについては、史料によって記述が異なり、いくつかの説が存在する。

  • 殉死説: 最も多くの史料で見られるのは、主君勝頼と運命を共にしたという説である。織田信長側の記録である『信長公記』には、天正10年(1582年)3月11日、跡部勝資は勝頼と共に自害したと記されている 2 。また、他の複数の資料 4 も、勝頼に最後まで付き従い、甲斐国田野(天目山麓)で討死した、あるいは殉死したと伝えている。生年を1547年とする説 6 に従えば、享年36歳であったことになる。
  • 逃亡説: 一方で、勝資は勝頼を見捨てて戦場から逃亡したとする説も存在する。徳川方の史料である『三河物語』や、物語性の強い『甲陽軍鑑』では、このように不名誉な最期が記されている 2
  • 追討説(異説): さらに特異な説として、勝頼自身の命令で追討されたというものもある。ある記録 29 によれば、「跡部大炊助勝資も逃亡したようである。怒った勝頼は、土屋惣蔵昌恒、安西平左衛門に追討を命じている。跡部大炊助は、闇夜に提灯を持って騎馬で逃げていたが、土屋惣蔵に追いつかれて弓矢で射殺された」と記されている。この説の史料的根拠や信憑性については、更なる詳細な検討が必要とされる。
  • 『甲斐国志』の記述(諏訪死亡説): 江戸時代中期に編纂された甲斐国の地誌『甲斐国志』には、武田氏滅亡(甲州崩れ)の際に、信濃国諏訪で跡部大炊介が死亡したとの記述がある 2 。この「跡部大炊介」が勝資本人を指すのか、あるいは同じく大炊助を名乗った子の跡部昌勝を指すのかについては議論があった。しかし、昌勝は後に徳川氏の旗本として存続していることから、この記述は勝資本人に関するものである可能性が高いとされている 2 。これが事実であれば、勝資の最期の場所は甲斐田野ではなく信濃諏訪となり、その状況もまた異なるものであった可能性が出てくる。

これらの説の信憑性については、慎重な検討が求められる。殉死説は、比較的信頼性が高いとされる一次史料に近い『信長公記』に見られる記述である。一方で、逃亡説は、勝資を否定的に描く傾向のある『甲陽軍鑑』や、敵対勢力であった徳川方の史料に見られる。追討説や諏訪での死亡説は、他の主要な記録とは異なる特異な記述であり、その史料的背景を十分に吟味する必要がある。

跡部勝資の最期に関する記述のこのような相違は、彼に対する歴史的評価の対立(忠臣であったのか、それとも奸臣であったのか)と密接に関連している可能性が高い。『甲陽軍鑑』のように彼を奸臣として描く史料は、その人物像に合致するような「逃亡」という不名誉な最期を記す傾向があるのかもしれない。逆に、比較的客観的な記録とされる『信長公記』が殉死を伝えている点は、勝資の最期を考える上で重要な手がかりとなる。これらの情報からは、跡部勝資の正確な最期は依然として確定的なものとは言えず、それぞれの史料の性格や成立背景を十分に考慮した上で、多角的な検討を続ける必要があることがわかる。この最期に関する不確かさ自体が、歴史上の人物を評価する際の史料的限界と、解釈の多様性を示していると言えるだろう。

7. 結論

跡部勝資は、武田信玄・勝頼の二代にわたって仕え、特に武田勝頼政権下においては、奉者として武田家臣団中最多の朱印状を発給するなど、当主の最側近として絶大な影響力を行使した人物であった。その活動は内政・外交の多岐にわたり、武田氏の統治機構において重要な実務を担った有能な官僚であった側面が、近年の実証的な研究によって明らかにされている。彼の行政手腕や、複雑な領国支配を支えた吏僚としての能力は、再評価されるべき点であろう。

一方で、『甲陽軍鑑』を中心とする後代の軍記物においては、長坂光堅と共に勝頼を惑わせ、譜代の宿老たちと対立し、長篠の戦いでの主戦論や御館の乱における対応など、数々の失策を重ねて武田家を滅亡に導いた元凶たる「奸臣」としての評価もまた根強く存在する。この否定的な評価は、武田家滅亡という悲劇的な結果から遡ってその責任を特定の個人に求めようとする心理や、滅亡を経験した旧臣たちの特定の立場からの視点、あるいは江戸時代の武士道徳観などが反映されたものである可能性も考慮に入れる必要がある。

その最期についても、主君勝頼と運命を共にしたとする殉死説から、戦場を離脱したとする逃亡説、さらには異説も存在し、確定的なものとは言えない。このことは、彼の生涯が単純な善悪二元論では割り切れない、多面的で複雑なものであったことを示唆している。

跡部勝資という人物の研究は、単に一個人の功罪を論じるに留まらず、戦国大名権力の構造、家臣団内部の力学、そして歴史記述におけるバイアスや物語性の問題を考察する上で、極めて示唆に富む事例と言えるだろう。彼の存在は、甲斐武田氏の栄光と、その後の急速な衰亡を語る上で、避けては通れない重要な鍵の一つであり、今後の研究によってさらにその実像が明らかにされていくことが期待される。

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