最終更新日 2025-06-21

酒井重忠

徳川政権の礎石:酒井重忠の生涯と功績に関する総合的考察

序章:徳川譜代の柱石 ― 酒井氏とその二つの潮流

徳川家康の天下統一と江戸幕府の創設を語る上で、譜代家臣団の存在は不可欠である。その中でも酒井氏は、松平氏(後の徳川氏)の始祖とされる松平親氏の時代から仕えたと伝わる最古参の一族であり、井伊氏、本多氏、榊原氏と並び称される門閥譜代として、最高の家格を誇った 1 。この卓越した地位を背景に、酒井一族は江戸時代を通じて数多の大老や老中を輩出し、幕政の中枢で重きをなし続けたのである 1

徳川家康が三河で勢力を拡大し、天下に覇を唱える過程において、酒井氏は大きく二つの系統が並び立つ形で歴史の表舞台に登場する。一つは、徳川四天王の筆頭として武名を轟かせた 酒井忠次(さかい ただつぐ)を輩出した左衛門尉家(さえもんのじょうけ) 。そしてもう一つが、本報告書の主題である**酒井重忠(さかい しげただ) が属する 雅楽頭家(うたのかみけ)**である 1 。伝承によれば両家は、始祖・酒井広親の長男・氏忠(左衛門尉家祖)と次男・家忠(雅楽頭家祖)から分かれたとされるが、その系譜には不明瞭な点も多く、戦国期にはそれぞれが独立した有力な一族として家康を支えていたと見るのが実情に近い 3

酒井重忠は、家康の青年期からの重臣であり、三河西尾城主であった酒井正親(まさちか)の次男として、雅楽頭家の嫡流に生を受けた 5 。彼の生涯は、左衛門尉家の忠次が持つような、戦場での華々しい武勇伝に彩られているわけではない。むしろ、徳川政権の基盤を固めるための、地味ながらも極めて重要な役割を着実に果たし続けた、堅実な武将であった。

この酒井氏の二大系統の存在は、単なる血筋の違いに留まらず、徳川家臣団という巨大組織内における「機能の分化」を象徴している。左衛門尉家の酒井忠次が、姉川の戦いや長篠の戦いといった主要な合戦で常に軍団の先頭に立ち、前線指揮を執る「軍事の専門家」としての役割を担ったのに対し 7 、雅楽頭家の酒井正親、重忠、そしてその子・忠世らは、領国経営、後方支援、兵站管理、そして後の幕政運営という「行政・統治の専門家」としての道を歩んだ。家康が家臣の能力を適材適所で見極め、軍事力と統治能力という二本柱で天下統一事業を進めていたことが、この酒井二家の役割分担から明確に見て取れる。この傾向は江戸時代に入るとさらに顕著となり、重忠の子孫が幕府の中枢を担う一方で、忠次の一族は外様大名の多い東北地方の抑えとして庄内藩を治めるなど、それぞれの特性に応じた役割を果たし続けた 8

したがって、酒井重忠という人物を正しく理解するためには、彼を「武将」という一面的な枠組みで捉えるのではなく、徳川という国家組織の根幹を支えた有能な「行政官僚」であったという視座が不可欠となる。以下の表は、この二つの家系の特性を比較し、重忠の立ち位置を明確にするための一助となるだろう。

項目

雅楽頭家 (Uta-no-kami)

左衛門尉家 (Saemon-no-jō)

代表的人物

酒井正親、 酒井重忠 、酒井忠世、酒井忠清

酒井忠次、酒井家次

主な役割

幕政中枢(大老・老中)、領国経営、後方支援

軍事司令官(東三河旗頭)、前線での指揮

官位

雅楽頭(うたのかみ)

左衛門督(さえもんのかみ)

著名な逸話

伊賀越えの船での出迎え 「関東の華」 (重忠)、下馬将軍(忠清)

海老すくい 酒井の太鼓 、鳶巣山砦奇襲(忠次)

江戸時代の本拠地

川越→前橋→姫路、小浜など

高崎→高田→庄内(鶴岡)

第一章:誕生と徳川家臣としての黎明期(1549年~1576年)

出自と家系

酒井重忠は、天文18年(1549年)、徳川氏譜代の重臣・酒井正親の次男として、三河国坂井郷に生を受けた 6 。通称を与四郎という 5 。父・正親は、家康の三河統一の過程でその功績を認められ、永禄4年(1561年)頃に三河西尾城主に抜擢された人物である 1 。これは徳川家臣団の中で最初の城持ち大名となる栄誉であり、雅楽頭酒井家が家康から寄せられていた信頼の厚さを物語っている 3 。母は、同じく徳川家の重臣であった石川清兼の娘・妙玄尼であり、重忠は徳川家の中枢を担う家系に生まれ、幼少期から主君・家康に近しい環境で成長した 6

若き日の戦歴とキャリアの方向性

重忠は若い頃から家康に仕え、その覇業の初期段階における主要な合戦の多くに参加し、武功を挙げたと記録されている 6 。具体的に参戦が確認される戦いとしては、永禄12年(1569年)の今川氏真が籠る

遠江掛川城攻め や、元亀元年(1570年)の織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った 姉川の戦い が挙げられる 6 。これらの戦いを通じて、彼は武将としての経験を積んでいった。

しかし、徳川家の歴史において極めて重要な意味を持つ合戦に目を向けると、重忠のキャリアの特性が浮かび上がってくる。例えば、元亀3年(1572年)の 三方ヶ原の戦い は、徳川家が武田信玄に喫した最大の敗戦として知られる。この戦いには父・正親が参戦した記録が残っているものの 11 、重忠自身の具体的な活躍を記した同時代の史料は乏しい。むしろ、この危機において「酒井の太鼓」の逸話で知られるように、その名を歴史に刻んだのは同族の酒井忠次であった 14

同様に、天正3年(1575年)の 長篠の戦い においても、戦局を大きく左右した鳶巣山砦への奇襲作戦を立案し、織田信長から激賞されたのは酒井忠次であり、重忠の活躍に関する記録は見当たらない 15

この記録の非対称性は、重忠の能力が劣っていたことを意味するものではない。むしろ、彼の資質が、忠次のような戦場での一番槍を競う「猛将」としてよりも、父・正親の跡を継ぎ、領地を治め、組織を管理する「統治者・行政官」として早くから期待されていたことを示唆している。父・正親が武勇だけでなく、領国を安定させる統治能力と忠誠心を評価されて最初の城主に選ばれたように、重忠もまた、その「吏才」をもって家康に仕える道を歩み始めていたのである。彼のキャリアは、戦場での華々しい武功よりも、組織の根幹を支える堅実な働きによって築かれていくことになる。

家督相続

天正4年(1576年)、父・正親が死去すると、重忠はその後を継いで雅楽頭酒井家の家督を相続し、 三河西尾城主 となった 6 。これにより彼は、名実ともに行政手腕を期待される徳川家臣団の重鎮として、その後の歴史で重要な役割を担っていくことになる。

第二章:主君の危機を救った一世一代の功績 ― 伊賀越え(1582年)

酒井重忠の生涯における最大の功績として、後世まで語り継がれているのが、天正10年(1582年)の「伊賀越え」における主君・徳川家康の救出である。この一件は、彼の忠誠心のみならず、卓越した危機管理能力と行政手腕を証明するものであった。

本能寺の変と家康の窮地

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都の本能寺において家臣の明智光秀に討たれるという、日本史を揺るがす大事件が発生した。この時、家康は信長の勧めで堺を遊覧中であり、供回りはわずか数十名という寡兵であった 17 。畿内は瞬く間に明智方の支配下となり、家康一行は完全に敵中に孤立。明智軍や、家康の首を狙う落ち武者狩りの土豪たちに追われる絶体絶命の窮地に陥った。

この時、重忠は三河の本国にあって 留守居 という重責を担っていた 10 。これは、主君不在の領国における軍事、行政、治安維持の全権を委ねられる役職であり、家康から寄せられた信頼がいかに厚いものであったかを物語っている。

白子浜での奇跡的な救出

家康一行は、京都を避けて三河へ帰還するため、服部半蔵らの案内で伊賀の険しい山道を踏破する苦難の逃避行を開始した 18 。数々の危機を乗り越え、一行がようやく伊勢国までたどり着き、

白子浜 (現在の三重県鈴鹿市)に到着したその時、奇跡が起こる。本国で留守を預かっていたはずの重忠が、機を逃さず 船団を率いて一行を出迎えた のである 10

この行動は、単なる忠臣の美談として片付けられるべきではない。その背景には、重忠の高度な能力があった。本能寺の変という未曾有の混乱の中、錯綜する情報の中から家康の安否と動向を正確に把握し、その逃走経路を予測。そして、領内の船や船頭といった人的・物的資源を迅速に動員し、追っ手から逃れるための最適な手段である海上ルートを確保した。さらに、家康一行が白子浜に到着するまさにそのタイミングで、その場所に船を配置するという、完璧な兵站活動を成し遂げたのである。これは、平時から領内を完全に掌握し、有事の際にそれを的確に運用できる、卓越した行政官でなければ不可能な離れ業であった。

家康一行はこの船によって海路で無事に三河へ帰還することができ、徳川家は滅亡の危機を免れた。この功績は、重忠の生涯において最大のものと評価されている。

功績の証としての馬印

この絶大な功績に対し、家康は重忠を激賞した。その証として、救出の際に船に掲げられていた 船印(ふなじるし)を、そのまま重忠自身の馬印(うまじるし)として使用することを許可した と伝えられている 10 。『寛政重修諸家譜』によれば、この船印は「金の釣鐘」であったとされ、この釣鐘の馬印は雅楽頭酒井家の栄誉の象徴として後代にまで伝えられた 23 。家康がこの功績を永続的な形で顕彰したことは、その場限りの働きではなく、重忠が持つ危機管理能力と統治者としての本質的な能力を高く評価したことの証左であり、後の関東移封における重用へと直接繋がっていくのである。

第三章:一万石の大名へ ― 武蔵川越藩主時代(1590年~1601年)

伊賀越えの功績で主君・家康から絶大な信頼を得た重忠は、徳川氏の新たな本拠地となった関東において、重要な役割を担うことになる。

関東移封と川越拝領

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が完了すると、家康は長年治めた東海五カ国から、旧北条氏の領地であった関東へ移封された。この徳川家臣団にとっての一大転機において、家康は新たな領国の支配体制を構築するため、戦略的な知行割を行った。

この時、酒井重忠は 武蔵国川越に1万石 の所領を与えられ、初代川越藩主に任じられた 10 。川越は、徳川氏の本拠地となった江戸の北方を固める軍事上の要衝であり、「江戸の大手は小田原城、搦手(からめて、裏門の意)は川越城」と称されるほど、その戦略的価値は高かった 26 。家康がこの重要な地を重忠に任せたのは、伊賀越えで見せた忠誠心と確かな手腕、そして本国の留守居を安心して任せられる人物であるという、彼に対する絶対的な評価の表れであった。

初代藩主としての藩政

初代川越藩主となった重忠の統治は、家康が推し進める関東経営の基本方針を忠実に実行するものであった。それは、軍事防衛網の構築、旧勢力との融和、そして経済基盤の確立という三つの柱からなっていた。

まず、川越城を江戸防衛の支城として整備し、軍事拠点としての性格を強化した 24 。同時に、旧北条氏の支配下にあった領内の人心を安定させるため、旧来の寺社勢力との融和に努めた。具体的には、寺社に領地を寄進するなど、柔軟な姿勢で臨み、新たな支配体制への移行を円滑に進めた 24

さらに、城下町の経済的な発展にも着手した。『川越市史』などの記録によれば、天正19年(1591年)、重忠は「れんじゃく町」の商人たちに対し、諸役を免除する旨の文書を発給している 27 。これは、城下に商工業者を集住させ、町の繁栄を図るための積極的な振興策であり、彼が軍事だけでなく、領国経営にも長けた「開発領主」としての側面を持っていたことを示している 5

文禄の役と江戸城留守居

文禄元年(1592年)から始まる文禄の役(朝鮮出兵)に際し、家康は軍勢を率いて肥前名護屋城(佐賀県唐津市)へ出陣した。この主君不在の期間、重忠は再び 江戸城の留守居役 という重責を担った 10 。徳川領国の首都となった江戸の統治と防衛を完全に委ねられたこの任務は、伊賀越えの際の留守居役と同様、彼の「守り」と「統治」の能力に対する家康の揺るぎない信頼を改めて示すものであった。川越藩主としての領国経営と、江戸城留守居役という二つの任務は、徳川の支配体制の内側を固め、安定させるという点で表裏一体であり、彼のキャリアの本質を浮き彫りにしている。

第四章:関ヶ原の戦いと「関東の華」への道(1600年~1601年)

徳川家康の関東経営が軌道に乗り始めた頃、天下の情勢は豊臣秀吉の死をきっかけに大きく動き出し、酒井重忠もまた、その渦中へと身を投じることとなる。

関ヶ原の戦いへの参陣と戦後の任務

慶長5年(1600年)、家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突する、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。重忠はこの決戦において、家康の本隊に属して 本戦に参加 したと記録されている 10 。一万石の大名として、徳川軍の一翼を担い、主君の勝利に貢献した。

東軍の勝利が確定した後、重忠には新たな任務が与えられた。それは、交通の要衝である 近江国大津城の守備 であった 10 。これは、関ヶ原の前哨戦として知られる「大津城の戦い」で、西軍の猛攻を耐え抜いた京極高次の籠城戦とは区別されるべきものである 30 。重忠の役目は、天下の趨勢が決した後の畿内における重要拠点を確保し、戦後の秩序を維持するという、地味ながらも徳川政権の安定に不可欠なものであった。

「関東の華」への加増転封

関ヶ原での一連の戦功を家康に賞され、重忠は大きな恩賞を得る。慶長6年(1601年)、彼は 上野国厩橋(まやばし、後の前橋)へ3万3千石 で加増転封となった 5 。これにより、川越の一万石から三倍以上の石高を持つ大名となり、徳川政権下における中堅大名としての地位を確固たるものにした。

この厩橋への入封に際して、家康が重忠に**「なんじに関東の華をとらせる」**と語りかけたという逸話が、特に前橋の地では広く知られている 32 。この言葉は、厩橋が北関東における軍事・政治上の要衝であり、その重要な地を信頼する重忠に託すという、家康の深い意図を示すものとして伝えられてきた 33

「関東の華」逸話の史料的検証

しかし、この有名な逸話には史料的な裏付けが乏しい。逸話の典拠としてしばしば言及される『三河物語』や、徳川幕府の公式史書である『徳川実紀』といった、信頼性の高い同時代、あるいは近世初期の史料には、 この「関東の華」という言葉は見出せない 35 。この言葉が文献上に明確に現れるのは、時代が下った明治時代以降の『近世上毛偉人伝』(1893年)などの著作においてである 35

この事実は、この逸話が史実そのものではなく、明治期以降に前橋の地域的アイデンティティを高める目的で形成され、流布した「創られた伝統」である可能性が高いことを示唆している。江戸時代、前橋は利根川の洪水により城が廃され、藩庁が川越に移されるなど衰退期を経験したが、幕末から明治にかけて生糸産業の隆盛により目覚ましい復興を遂げ、県庁所在地となった 34 。この復興の物語の中で、街の起源を徳川家康直々の言葉で権威づける「関東の華」というキャッチフレーズは、市民の誇りを醸成する上で非常に魅力的な物語であったと考えられる。したがって、この逸話は史実としてではなく、酒井重忠と酒井家が前橋の歴史にとっていかに重要な存在であったかを後世の人々が記憶し、語り継いだ「伝説」として捉えるべきであろう。

第五章:厩橋(前橋)藩の礎を築く(1601年~1617年)

上野国厩橋3万3千石の領主となった酒井重忠は、その後の約150年にわたる雅楽頭酒井家による前橋統治の礎を築いた。彼の藩政は、後継者たちが藩を発展させるための物理的・制度的な「土台」を構築することに主眼が置かれていた。

初代藩主としての統治と城郭整備

重忠の厩橋における最大の功績は、戦国時代からの既存の城であった厩橋城を 大規模に改修し、近世城郭へと変貌させた ことである 35 。この大改修によって、城には

三層三階の壮麗な天守 も造営されたと伝えられており 35 、厩橋城は北関東における徳川の権威を象徴する拠点として生まれ変わった。この城は後に、川越城、忍城、宇都宮城と並び「関東の四名城」と称されるほどの規模と威容を誇った 39

また、城の改修と並行して、城下町の 町割り(都市計画)の基礎を築き 、後の前橋の都市構造の原型を形成した 33 。さらに、下総国から龍見寺(後の源英寺)を招聘するなど、寺社の整備も進めた 40 。これらの事業は、藩という組織の存続と発展に不可欠な、最も基礎的で重要な部分を担うものであり、重忠が藩の「創業者」として、その物理的・制度的骨格を確立したことを示している。

後代の藩主との功績の明確な区別

前橋藩の歴史を語る上で、重忠の功績と後代の藩主の功績を明確に区別することが重要である。

  • 利根川の治水: 前橋城は利根川の激流による浸食に長年悩まされたが、大規模な治水工事が行われ、その流れが変えられるのは後の時代のことである 42 。重忠の時代は、むしろ利根川を天然の要害として活用する段階にあった。
  • 産業・文化の振興: 前橋が「生糸のまち」として全国に名を馳せるのは、幕末の松平家時代に生糸生産が奨励されて以降のことである 29 。また、藩校「好古堂」を創設し、文治政治を推し進めたのは、5代藩主・酒井忠挙(ただたか)の治績である 22

これらの後代の発展は、重忠が築いた安定した統治基盤があったからこそ可能になったものであり、世代を超えた役割分担が雅楽頭酒井家の繁栄を支えたと言える。重忠の藩政は、派手さこそないものの、後継者たちがより高度な藩政を展開するための「礎石」を置くという、創業者として最も重要な役割を果たしたのである。

第六章:晩年と後世への遺産

徳川の天下が盤石となり、戦国の世が終わりを告げる中、酒井重忠もまたその生涯を閉じる時を迎える。しかし、彼が築いた遺産は、その子孫を通じて江戸幕府の安定に大きく貢献していくことになる。

大坂の陣と最後の奉公

慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣は、豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を最終的に確定させる総力戦であった。この時、60代半ばを過ぎていた老齢の重忠は、もはや自ら戦陣に立つことはなかった。しかし、彼は三度(みたび) 江戸城の留守居 という重責を担い、将軍不在の江戸の統治と防衛を一手に引き受けた 6

さらに、この最後の奉公において、重忠は 兵糧輸送の責任者 という極めて重要な役目も務めている 6 。数十万の軍勢が動くこの大戦において、兵站線の維持は勝敗を左右する生命線であった。家康がこの重要な任務を重忠に託したことは、彼の生涯を貫く「後方支援と管理の専門家」としての能力に対する、最後まで変わることのなかった絶大な信頼を物語っている。

最期と墓所

徳川の世の完成を見届けた重忠は、大坂の陣から2年後の元和3年(1617年)7月21日、病によりその生涯を閉じた。享年69 10 。戦国の動乱を生き抜き、泰平の世の到来と共に大往生を遂げた。

その亡骸は、菩提寺である 龍海院(りゅうかいいん) (群馬県前橋市紅雲町)に葬られた。墓所には、正室である山田重辰の娘も共に眠っている 10 。龍海院は、元は家康の祖父・松平清康が岡崎に創建し、酒井家にその外護(げご、寺院の保護)を命じたという由緒ある寺院であり、酒井家の転封に伴って川越、そして前橋へと移転し、一族の菩提寺として篤く信仰された 39

子孫の繁栄と雅楽頭家の遺産

重忠が残した最大の遺産は、領地や財産以上に、彼が一代で築き上げた「徳川家からの揺るぎない信頼」であった。この無形の資産は、息子たちの代で大きな花を咲かせることになる。

長男の 酒井忠世(さかい ただよ)は、父とは別に早くから2代将軍・徳川秀忠の側近として頭角を現していたが、重忠の死後に家督と厩橋藩を継ぐと、その政治的手腕を遺憾なく発揮。最終的には幕府の最高職である大老 にまで上り詰めた 2 。重忠が築いた家格と信頼が、息子の代での大飛躍を可能にしたのである。雅楽頭酒井家は、忠世の孫である忠清(「下馬将軍」の異名で知られる)の代にも大老を輩出するなど、幕閣の中枢を占める譜代筆頭の名門としての地位を不動のものとした 4

また、重忠の他の子らも、三男は母方の西尾氏を継いで西尾忠永となり、娘たちは有力大名の本多正純や伊奈忠政に嫁ぐなど、婚姻政策を通じて徳川政権の安定に貢献した 10

酒井重忠の生涯は、個人のカリスマに依存した戦国の世から、制度と家格によって安定する近世の世へと移行する時代の転換点を象徴している。彼が築いた功績と信頼は、息子の忠世が幕府中枢を担うという形で結実し、徳川260年の泰平の礎の一つとなったのである。

終章:酒井重忠という人物像の再評価

酒井重忠は、徳川四天王のような華々しい武勇伝を持つわけではなく、歴史の教科書で大きく取り上げられることも少ない。しかし、その生涯を丹念に追うことで、徳川政権の成立と安定に不可欠な役割を果たした、極めて重要な人物像が浮かび上がってくる。

彼のキャリアは、一貫して「守り」と「統治」の役割に彩られている。主君不在の領国を守り、危機的状況下で兵站を確保して主君を救出し、新たな領地の統治基盤を築き、国家的な大事業の後方支援を管理する。彼は、戦場で敵を打ち破る「攻め」の武将ではなく、組織の根幹を支える、忠実で有能な「守りの武将」であり、卓越した「行政官」であった。

この特性は、同族であり徳川四天王筆頭の酒井忠次と比較することで、より鮮明になる。忠次が、徳川家の武威を天下に示す鋭利な「剣」であったとすれば、重忠は、その武威の基盤となる領国と組織を守り育てる堅固な「盾」であり、揺るぎない「礎石」であった。両者は、酒井一族として、また徳川家臣団の双璧として、異なる機能をもって家康の天下取りを支えたのである。重忠の功績を、忠次のような戦場での武功という物差しだけで測ることは、彼の本質を見誤らせる。

徳川幕府という巨大で長期的な政権の成立は、本多忠勝や井伊直政のような猛将たちの武功のみによって成し遂げられたのではない。酒井重忠のように、後方で着実に統治基盤を固め、組織を円滑に運営する有能な行政官たちの存在が不可欠であった。彼の生涯は、戦国乱世の終焉と近世封建社会の到来という時代の転換点において、武士に求められる能力が純粋な「武勇」から、組織を動かす「統治能力」へと移行していく過程そのものを体現している。

酒井重忠は、決して歴史の主役ではないかもしれない。しかし、彼は徳川の世という巨大な建築物を、その基礎から支え続けた、不可欠の「柱石」として再評価されるべき人物である。

巻末付録:酒井重忠 関連年表

西暦

和暦

年齢

出来事

典拠

1549年

天文18年

1歳

三河国にて酒井正親の次男として誕生。

6

1569年

永禄12年

21歳

徳川軍の一員として遠江掛川城攻めに参加。

6

1570年

元亀元年

22歳

姉川の戦いに参加。

6

1572年

元亀3年

24歳

長男・忠世が誕生。

11

1576年

天正4年

28歳

父・正親の死去に伴い、家督を相続。三河西尾城主となる。

10

1582年

天正10年

34歳

本能寺の変。本国の留守居を務め、伊賀越えで伊勢白子浜に逃れた家康を船で出迎える。

10

1584年

天正12年

36歳

小牧・長久手の戦いに参加。

5

1590年

天正18年

42歳

家康の関東移封に伴い、武蔵川越1万石の初代藩主となる。

10

1592年

文禄元年

44歳

文禄の役で江戸城の留守居役を務める。

10

1600年

慶長5年

52歳

関ヶ原の戦いに本戦で参加。戦後、近江大津城の守備を担う。

10

1601年

慶長6年

53歳

戦功により上野厩橋3万3千石に加増転封。初代厩橋藩主となる。

13

1614年

慶長19年

66歳

大坂冬の陣で江戸城留守居役を務める。

6

1615年

元和元年

67歳

大坂夏の陣で兵糧輸送の責任者を務める。

6

1617年

元和3年

69歳

7月21日、死去。享年69。墓所は前橋の龍海院。

10

引用文献

  1. 酒井氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F
  2. 「安城譜代1 徳川の支柱 酒井氏 - 左衛門尉家と雅楽頭家 - 」 (安城市歴史博物館) https://www.tokyoartbeat.com/events/-/Sakai-Clan-The-Pillar-of-Tokugawa/anjo-city-museum-of-history/2023-07-15
  3. 松平を支えた西三河の譜代大名たち | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/mikawafudaidaimyo.html
  4. 酒井家(酒井雅楽頭家)のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/family/72/
  5. 酒井重忠(さかいしげただ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%87%8D%E5%BF%A0-1077090
  6. 酒井重忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%87%8D%E5%BF%A0
  7. 徳川四天王の家系図/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102951/
  8. 徳川家康が行った江戸時代の大名配置 - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/daimyo-assign-edo/
  9. 酒井家の左近将監恒次/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50075/
  10. 酒井重忠とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%87%8D%E5%BF%A0
  11. 歴史の目的をめぐって 酒井正親 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sakai-masachika.html
  12. さかい - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/sakai.html
  13. 酒井重忠:概要 - 群馬県:歴史・観光・見所 https://www.guntabi.com/bodaiji/sakaisigetada.html
  14. 「どうする家康」左衛門尉/酒井忠次論:その「キャリア上の学び」とは? - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/05/27/7228/
  15. 酒井忠次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1
  16. 長篠の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7124/
  17. 『角屋船の由来』あらすじ - 講談るうむ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/02-28_kadoyafune.htm
  18. 忍東照宮 1-1 徳川家康肖像 掛 - 行田郷土史研究会2012 http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/osinorekisi/moriVOL26.pdf
  19. 徳川家康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
  20. 家康公検定 2023 https://ieyasukou.jp/pdf/ieyasukoukentei_2023mondai-kaitoukaisetsu.pdf
  21. 1582年(前半) 本能寺の変と伊賀越え | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-2/
  22. SK05 酒井重忠 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/sk05.html
  23. 日本丸 (安宅船) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%B8_(%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9)
  24. 川越藩 - DTI http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/han.html
  25. 家臣団の所領配置 - 越谷市デジタルアーカイブ https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/texthtml/d000010/mp000010-100010/ht001500
  26. 埼玉県の城下町・川越(川越市)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/castle-town/kawagoe/
  27. 第 1 章 川越市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.kawagoe.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/672/rekimachi-1.pdf
  28. 川越藩(かわごえはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E8%97%A9-48220
  29. 幻の前橋城めぐり https://www.toshogu.net/maebashi/pdf/sukidesumaebashi_vol29.pdf
  30. 関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす! https://favoriteslibrary-castletour.com/shiga-otsujo/
  31. 大津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  32. 「旅のたね」特集3 前橋の姫伝説 https://www.maebashi-cvb.com/feature/himedennsetu/tabi-no-tane-hime
  33. 酒井雅楽頭家(さかいうたのかみけ) - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/8/19476.html
  34. 計画の策定にあたって - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/59/rekimachi_jyoshou.pdf
  35. 前橋城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%A9%8B%E5%9F%8E
  36. 前橋市立図書館コレクション展 https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/105/booklet2025zenki.pdf
  37. 幻の名城 前橋城|特集 https://www.maebashi-cvb.com/feature/maebashi-jyo/maboroshi
  38. 前橋紀行4 前橋の歴史 近世・近代編 | mixiユーザー(id:250900)の日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978772727&owner_id=250900
  39. 本部長の群馬紀行 第47回 県都前橋の景観と周辺の史跡(その1) https://www.mod.go.jp/pco/gunma/honbucho/gunmakikou/gunmakikou_47.html
  40. 【はしもとランド】群馬の歴史連載:「上州をゆく」バックナンバー03 http://hashimoto-land.com/04contribution_back_03.html
  41. 前橋市における歴史的風致の考え方 https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/59/rekimachi_2shou_1.pdf
  42. 10201-6 群馬県前橋市(前橋) | 地域の歴史秘話を求めて~日本全国探訪記~ http://miyaketomoya.blog.fc2.com/blog-entry-575.html
  43. 前橋藩 - 群馬県:歴史・観光・見所 https://www.guntabi.com/jyouka/maebasi.html
  44. 寛政重修諸家譜 人名検索 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/103-bunkazai-kanseichosyukafu3.html?page=428
  45. 龍海院 前橋藩主酒井氏歴代の墓(前橋市) | 群馬県の観光スポット・旅行・温泉・地域情報[WEB群馬] http://www.webgunma.com/1153/
  46. 酒井忠世 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E4%B8%96
  47. 酒井忠正(第8版) - 『人事興信録』データベース https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-10159
  48. 酒井忠清とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%B8%85