日本の戦国時代は、数多の英雄豪傑が覇を競った華々しい時代として語られる一方、その背後では、巨大な権力のうねりに翻弄されながらも、一族の存続をかけて必死に生き抜いた無数の地方領主たちのドラマがあった。伊勢国亀山城主、関盛信(せき もりのぶ)もまた、そうした激動の時代を生きた一人である。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく脚光を浴びることは少ない。しかし、その生涯を丹念に追うとき、我々は戦国末期から近世へと移行する時代の転換点において、地方の国人領主が直面した過酷な現実と、彼らが見せた驚くべき生存戦略を目の当たりにすることになる。
生年こそ不明なれど、文禄2年(1593年)にその生涯を閉じるまで 1 、盛信は伊勢の土豪から織田信長の配下へ、そして豊臣秀吉の家臣、最後は蒲生氏郷の与力大名として、目まぐるしく変わる主君と立場に適応し続けた。彼の人生は、伊勢という交通の要衝を舞台に、伝統的な在地領主としての誇りと、新たな時代の覇者の下で生き残るための現実的な選択との間で揺れ動いた軌跡そのものであった。
本報告書は、この関盛信という一人の武将に焦点を当て、その出自から、織田・豊臣政権下での動向、そして彼が後世に残した遺産に至るまでを、現存する史料に基づき徹底的に調査・分析するものである。特に、これまで断片的にしか語られてこなかった、織田信長の子・神戸信孝との確執の真相、蒲生氏郷との極めて密接な関係、そして彼を取り巻く文化的背景にまで踏み込み、一人の地方領主の実像を立体的に描き出すことを目的とする。
西暦 |
元号 |
関盛信の動向 |
関連人物・勢力の動向 |
日本全体の主要な出来事 |
不明 |
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関盛光の子として誕生 2 。 |
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1560年 |
永禄3年 |
菩提寺として瑞光寺を再興 3 。 |
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桶狭間の戦い |
1567年頃 |
永禄10年頃 |
織田信長の伊勢侵攻に対し抵抗するも、降伏 1 。 |
織田信長、北伊勢侵攻を開始。 |
- |
1568年頃 |
永禄11年頃 |
信長の三男・神戸信孝の与力となる 6 。 |
神戸信孝、神戸氏の養子となる。 |
信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
1573年 |
元亀4年/天正元年 |
信孝との不和により信長の怒りを買い、亀山城を追放される。蒲生賢秀に預けられ、近江日野城に幽閉 2 。 |
- |
室町幕府滅亡。 |
1574年 |
天正2年 |
幽閉中、越前から逃亡した樋口直房を討ち取り、信長に賞賛される(関文書) 2 。 |
- |
第三次長島一向一揆。 |
1582年 |
天正10年 |
信孝の四国征伐に際し、赦免され亀山城に復帰。本能寺の変後、秀吉に属する 2 。 |
織田信長、本能寺の変で自刃。 |
本能寺の変。 |
1583年 |
天正11年 |
賤ヶ岳の戦いに参陣。滝川一益に亀山城を奪われるが、後に奪還。蒲生氏郷の与力となる 2 。 |
秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。 |
賤ヶ岳の戦い。 |
1584年 |
天正12年 |
小牧・長久手の戦いに参戦。亀山城を信雄軍から守り抜く 2 。 |
秀吉と家康・信雄連合軍が対峙。 |
小牧・長久手の戦い。 |
1590年 |
天正18年 |
家督を子の一政に譲り、氏郷の会津転封に従う。 |
秀吉、天下を統一。蒲生氏郷、会津へ転封。 |
小田原征伐。 |
1593年 |
文禄2年 |
陸奥国白河にて死去。享年不明。墓所は瑞光寺 1 。 |
- |
文禄の役。 |
関盛信という一個人を理解するためには、まず彼が背負っていた「伊勢関氏」という一族の歴史と、彼が活動の舞台とした戦国期北伊勢の複雑な政治状況を深く理解する必要がある。本章では、その出自と時代背景を掘り下げていく。
伊勢関氏は、単なる地方の土豪ではなく、桓武平氏の流れを汲むとされる由緒ある家柄であった 10 。その出自は、平家一門の栄華と没落、そして鎌倉幕府成立という時代の大きな転換点と深く結びついている。
関氏の祖として最も有力視されているのは、鎌倉時代の御家人・関実忠(せき さねただ)である 11 。伝承によれば、実忠の祖父は平清盛の嫡男・重盛の子である平資盛(たいらの すけもり)とされ、資盛が伊勢国鈴鹿郡久我荘に配流された際に土地の娘との間にもうけた子が盛国、その子が実忠であるという 11 。
この系譜が史実であるか否かは慎重な検討を要するものの、関氏が平家後裔を自認していたことは、彼らの誇りとアイデンティティの源泉であったことは間違いない。実忠が歴史の表舞台に登場するのは、元久元年(1204年)に伊勢・伊賀で起こった平家残党の反乱、いわゆる「三日平氏の乱」である 7 。この時、実忠は鎌倉幕府方として乱の鎮圧に大きな功績を挙げた。その恩賞として、鈴鹿郡関谷二十四郷の地頭職に補任され、この地に拠点を構えて「関」を名乗ったのが、伊勢関氏の始まりとされる 7 。
その後、実忠は文永2年(1265年)に若山の地に亀山城(現在では亀山古城と呼ばれる)を築城し、以後、この城は安土桃山時代に至るまで、約300年間にわたり関氏16代の居城となった 12 。
関氏が本拠とした鈴鹿郡関谷は、古代三関の一つとして名高い「伊勢鈴鹿関」が置かれた場所であり、畿内と東国を結ぶ東海道の交通の要衝であった 17 。古代の関所は軍事的な意味合いが強かったが、中世になると、通行人から関銭(通行税)を徴収する経済的な拠点としての性格を強めていった 20 。
伊勢神宮への参詣者(道者)が増加する室町時代から戦国時代にかけて、伊勢国内には無数の関所が設けられ、大きな利権を生んでいた 20 。関氏が支配した鈴鹿関も例外ではなく、ここを通過する人や物資から得られる経済的利益は、関氏の勢力基盤を支える重要な柱であったと考えられる。この地理的優位性と、それに伴う経済的自立性が、関氏が北伊勢において他の国人衆とは一線を画す存在となり、「関五家」と称される広域な一族連合を維持する原動力となった。そして、この「平家後裔」という名門意識と「経済的自立性」こそが、後に織田信長という巨大権力に対しても容易に屈しない、頑なな抵抗精神の源泉となった可能性は極めて高い。
関盛信が生きた16世紀の北伊勢は、一人の強力な大名が支配する地ではなく、多数の国人領主が互いに勢力を争う群雄割拠の状態にあった。その中で関氏は、一族の結束を武器に、周辺勢力と巧みに関係を築きながら、その地位を保っていた。
南北朝時代の14世紀中頃、関氏6代当主とされる関盛政は、伊勢守護・仁木氏討伐の功により鈴鹿・河曲の二郡に勢力を拡大した 7 。盛政は、この広大な領地を統治するため、5人の子をそれぞれ主要な城に配置した。長男・盛澄を神戸城(かんべじょう)に、次男・盛門を国府城(こうじょう)に、四男・盛宗を鹿伏兎城(かぶとじょう)に、五男・政実を峯城(みねじょう)に置き、三男の盛繁が本家として亀山城を継いだ 7 。
この「関五家」と呼ばれる一族連合体制により、関氏は北伊勢において盤石な支配を確立し、戦国時代に至るまで随一の豪族として君臨したのである 5 。
関氏を取り巻く環境は、決して安穏なものではなかった。南には伊勢国司として絶大な権威を誇る北畠氏、中勢には同じく有力国人の長野工藤氏、そして西の近江からは六角氏が、常に伊勢への影響力を及ぼそうと機会を窺っていた。
この蒲生氏との婚姻は、単に六角氏への従属を示す以上の、二重の戦略的意味を持っていた。当時、関氏から分かれ、時には本家と対立することもあった神戸城主・神戸友盛もまた、同じく蒲生定秀の娘を娶っていたのである 22 。これは、関本家と神戸分家が、蒲生氏という共通の姻戚関係を介して再び結束を固め、六角氏の傘下で「関一党」としての連携を再構築する狙いがあったと推察される。つまり、この婚姻は、対外的には六角氏への忠誠を示し、対内的には一族の結束を強化するという、極めて高度な外交政策であった。この蒲生氏との深い縁が、後に盛信の運命を大きく左右することになるのである。
Mermaidによる関係図
注:上図は永禄年間初期の勢力関係を簡略化したものである。
永禄10年(1567年)、尾張の織田信長による伊勢侵攻は、北伊勢の国人領主たちにとって、これまでの勢力均衡を根底から覆す未曾有の危機であった。関盛信の生涯における最大の試練の時が、ここに始まる。
信長が伊勢に狙いを定めたのは、上洛への道を確保し、背後の安全を固めるという戦略的必然性からであった 28 。永禄10年(1567年)に開始された第一次侵攻に続き、翌11年(1568年)、信長は四万ともいわれる大軍を率いて本格的な制圧に乗り出した 5 。
当初、関盛信は主君である六角氏の一員として、織田軍に抵抗する姿勢を鮮明にした。永禄11年9月、信長が六角氏の本拠・観音寺城へ進撃すると、盛信は叔父の盛重と共に兵を率い、姻戚関係にある蒲生氏を助け、主君・六角氏の救援に駆けつけている 5 。
信長の伊勢侵攻が本格化すると、関氏の分家である神戸氏や、北伊勢の他の国人衆が次々と織田の軍門に降っていった 5 。その中で、関氏宗家の当主である盛信は、最後まで独立を保とうと抵抗を続けた 2 。これは、平家以来の名門としての誇りと、交通の要衝を抑える経済的自立性が、彼の気概を支えていたからに他ならない。
しかし、織田軍の猛攻は凄まじく、先鋒の滝川一益が率いる部隊との合戦で、味方武将は次々と降伏し、城も陥落していった 5 。衆寡敵せず、これ以上の抵抗は一族の滅亡を意味すると悟った盛信は、ついに信長に降伏することを決断する 1 。
降伏後、盛信は伊勢の他の国人衆と同様に、信長の支配体制に組み込まれることになった。具体的には、信長の三男であり、神戸氏の養子として北伊勢の新領主となった神戸信孝(織田信孝)の与力、すなわち指揮下の武将という立場に置かれたのである 2 。
信孝の与力となったことは、関氏存続のための苦渋の決断であったが、それは盛信にとって新たな苦難の始まりであった。
関氏は、そもそも神戸氏の本家筋にあたる名門である 6 。その宗家当主である盛信にとって、分家の家督を継いだばかりの年若い信孝の指図を受けることは、耐え難い屈辱であった 30 。彼は信孝を軽んじ、従順な態度を示さなかったとされる 6 。
この不和は、単なる個人的な感情のもつれではなかった。それは、伊勢という地域に根差した旧来の権力秩序(本家である関氏が上位)と、信長が中央から強引に持ち込んだ新たな権力秩序(信長の息子である信孝が絶対的な上位)との間の、構造的な衝突であった。信長の天下布武とは、単なる軍事征服ではなく、既存の地域社会の秩序や価値観を根底から破壊するプロセスでもあった。盛信の抵抗は、この破壊に対する在地領主の最後の抵抗であったとも言える。
しかし、信長がこのような反抗を許すはずもなかった。元亀4年(1573年)春、ついに信長の怒りが爆発し、盛信は勘当を申し渡され、先祖代々の居城であった亀山城を没収されてしまう 6 。
追放された盛信の身柄は、彼の舅である蒲生定秀の子、蒲生賢秀に預けられ、近江国日野城での幽閉生活が始まった 2 。約9年間に及ぶ雌伏の時である。
しかし、この幽閉は、彼の武将としての牙を完全に抜くものではなかった。天正2年(1574年)8月、幽閉中の盛信に好機が訪れる。織田軍の武将であった樋口直房が越前から逃亡し、甲賀郡に潜入しようとした際、信長は盛信にその捕縛を命じた。盛信はこの命令に応え、見事に直房を討ち取るという功績を挙げる。この功績は信長からも賞賛され、その旨を記した書状(『関文書』)が現存している 2 。これは、彼が逆境の中にあっても武将としての能力を失わず、赦免の機会を虎視眈々と窺っていたことを示す貴重な記録である。
樋口直房討伐の功績をもってしても、盛信はすぐには許されなかった。彼が再び歴史の表舞台に姿を現すのは、天正10年(1582年)のことである。
この年、信孝が四国征伐軍の総大将に任じられ、大坂へ出征するにあたり、盛信はようやく赦免され、約9年ぶりに故郷の亀山城へ帰還することを許された 2 。長きにわたる幽閉生活の末、ついに彼は旧領主としての地位を回復したのである。
この幽閉生活は、盛信にとって最大の苦難であったに違いない。しかし、結果として、この経験は彼の将来を救う逆説的な効果をもたらした。彼を預かったのは、姻戚関係にある蒲生賢秀であった 2 。9年間、単なる監視下にあったのではなく、蒲生氏の庇護下で過ごしたことで、両家の絆は単なる政略結婚を超えた、より強固で個人的な信頼関係へと深化していったと考えられる。この苦難の時期に培われた蒲生家との絶対的な信頼関係こそが、彼の政治的再起の重要な礎となったのである。
天正10年6月2日、京都・本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという、日本史を揺るがす大事件が勃発する。信長の死により、織田政権は後継者争いを巡って激しく動揺した。
この時、盛信は重大な政治的決断を下す。旧主である神戸信孝を見限り、信長の弔い合戦に勝利して一躍天下人の最有力候補に躍り出た羽柴秀吉(豊臣秀吉)にいち早く帰属したのである 2 。彼が迷いなくこの決断を下せた背景には、幽閉中に築かれた蒲生家との強い絆があった。蒲生氏郷(賢秀の子)は、本能寺の変の直後から秀吉に協力し、その信頼を得ていた。盛信は、この蒲生氏との関係を頼りに、新たな時代の覇者である秀吉の陣営に加わる道を選んだ。それは、彼の先見の明と、時勢を的確に読む政治家としての能力の高さを示すものであった。
本能寺の変後の激動を乗り越え、羽柴秀吉の家臣として再起を果たした関盛信。本章では、彼が豊臣政権下でいかにしてその地位を確立し、特にその生涯で最も重要なパートナーとなる蒲生氏郷といかなる関係を築いたのかを検証する。
秀吉の家臣となった盛信は、すぐさまその天下統一事業の戦いに身を投じることとなる。
天正11年(1583年)、秀吉と織田家の筆頭家老であった柴田勝家との間で、織田家の後継者の座を巡る決戦「賤ヶ岳の戦い」が勃発した。この戦いで盛信は秀吉方に与して参陣する。
戦いの最中、勝家方に付いた旧織田家臣・滝川一益が北伊勢で蜂起し、その謀略によって盛信は一時的に居城・亀山城を奪われるという苦杯を喫した 2 。しかし、秀吉が本戦で勝利を収めると、盛信は速やかに亀山城を奪還し、城主としての地位を回復した 2 。
翌天正12年(1584年)、今度は秀吉と、信長の次男・織田信雄、そして徳川家康の連合軍との間で「小牧・長久手の戦い」が起こる。この戦役の緒戦は、信雄の領国である伊勢で繰り広げられた。
秀吉にとって、敵主力の信雄の本拠・長島城を牽制し、伊勢から尾張へ圧力をかける上で、亀山城は最前線基地としての極めて重要な戦略的価値を持っていた。案の定、信雄軍は佐久間正勝や神戸正武らを差し向け、亀山城に攻撃を仕掛けてきた 9 。
この時、蒲生氏郷らの援軍が到着するまで、亀山城の守備は手薄であったと伝えられる 9 。しかし、盛信と、この頃には還俗して父を助けていた嫡男の一政は、寡兵ながらも果敢に防戦した。『勢州軍記』などの軍記物には、この時の様子が次のように描かれている。関父子は自ら城下の町家に火を放ち、その黒煙が敵の視界を遮っている隙に城から打って出て、混乱する信雄軍を撃退したというのである 9 。この逸話は、軍記物特有の脚色が含まれている可能性を考慮する必要があるものの、盛信の武将としての智勇と決断力を物語るものとして興味深い。
この亀山城防衛の成功は、秀吉の伊勢方面戦略を支える上で決定的な意味を持った。もし亀山城が早期に陥落していれば、秀吉軍は背後を脅かされ、尾張での家康との対峙に集中できなかった可能性が高い。盛信の奮戦は、局地的な戦闘でありながら、戦役全体の趨勢に影響を与えうる重要な功績であった。
賤ヶ岳の戦いの後、盛信の立場は大きく変わる。彼は独立した領主ではなく、豊臣政権の組織に組み込まれ、蒲生氏郷の「与力大名」となったのである 2 。
与力大名とは、豊臣秀吉が全国の有力大名を統制するために用いた制度で、ある大名の指揮下に、より小規模な大名や国人領主を軍事的に配属させるものであった 35 。関氏が蒲生氏郷の与力となったことは、彼らが独立した国人領主としての地位を完全に失い、豊臣政権という巨大な封建ピラミッドの一角に組み込まれたことを意味する 37 。
これは、信長に追放された経験を持つ盛信にとって、単なる地位の低下ではなかった。傑出した能力を持ち、かつ深い姻戚関係にある氏郷の配下に入ることは、激動の時代を生き抜くための最も確実な「生存戦略」であった。独立性を犠牲にする代わりに、一族の安泰と発展の道を選んだのである。
この主従関係を、単なる軍事的な上下関係に留まらせなかったのが、二代にわたる両家の深い姻戚関係であった。盛信自身が蒲生定秀(氏郷の祖父)の娘を娶っていたことに加え、家督を継いだ嫡男の一政が、蒲生賢秀(氏郷の父)の娘、すなわち氏郷の姉妹を正室に迎えたのである 38 。これにより、関氏と蒲生氏は単なる主従を超えた、運命共同体ともいえる極めて強固な結びつきを持つに至った。
蒲生家 |
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関家 |
蒲生定秀 |
―娘― |
関盛信 |
│ |
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蒲生賢秀 |
―娘― |
関一政 |
│ |
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蒲生氏郷 |
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この関係により、盛信は氏郷の「叔父婿」、一政は氏郷の「義兄弟」という、極めて近しい間柄となった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下を統一すると、蒲生氏郷はその功績と能力を高く評価され、伊達政宗や徳川家康といった東国の雄を牽制する役割を担い、陸奥国会津に42万石(後に加増され92万石)という破格の大領を与えられて転封となった 39 。
この時、既に家督を嫡男の一政に譲っていた盛信も、一族を率いて氏郷に従った。与力大名である関一政は、氏郷の会津支配の拠点の一つとして、陸奥国白河に5万石を与えられた 14 。盛信は、この息子が治める白河の地で穏やかな晩年を過ごしたとみられ、文禄2年(1593年)6月28日、波乱に満ちた生涯の幕を閉じた 1 。故郷の伊勢を遠く離れた、奥州の地での客死であった。
関盛信の生涯は、戦国時代を生き抜いた一人の国人領主の典型的な姿を示すと同時に、彼ならではの個性と戦略を浮き彫りにする。本章では、彼の人物像を多角的に分析し、彼が後世に残した遺産と、一族のその後の運命を追う。
関盛信は、その生涯を通じて、いくつかの異なる顔を見せている。それらを総合することで、彼の人物像がより鮮明になる。
武将としての側面だけでなく、関氏が育んだ文化的な土壌や、盛信が晩年に身を置いた環境も、彼を理解する上で重要である。
関氏には、武辺一辺倒ではない、風雅を解する文化的な素養が流れていた。盛信の数代前の当主である関盛貞は、永正2年(1505年)に正法寺を創建し、連歌師の宗長や公家の飛鳥井雅康といった当代一流の文化人を亀山に招いて、たびたび連歌会を催すなど、深い交流を持っていた 14 。宗長の日記『宗長手記』には、亀山の繁栄ぶりや正法寺山荘での連歌会の様子が記されている 14 。
盛信自身が和歌や茶の湯に親しんだという直接的な記録は見当たらない。しかし、こうした一族の文化的伝統は、彼の教養や人格形成に少なからず影響を与えたと考えられる。彼が単なる地方の武人ではなく、複雑な政治状況を乗り切るためのバランス感覚を持っていた背景には、こうした文化的な素地があったのかもしれない。
盛信の晩年は、キリシタン大名として名高い蒲生氏郷の庇護下で過ぎていった。氏郷は、洗礼名「レオン」を持つ熱心なキリシタンであっただけでなく、茶人としても千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられる当代随一の文化人でもあった 39 。
盛信自身や息子の一政がキリスト教の洗礼を受けたという直接的な証拠はない 38 。しかし、天正13年(1586年)に発生した天正大地震で、盛信の居城であった亀山城が倒壊したという被害が、イエズス会の宣教師による書簡で詳細に報告されている 44 。これは、城主(の主君)である氏郷がキリシタンであったため、宣教師たちがその動向に高い関心を寄せていたことを示している。主君である氏郷と、運命共同体ともいえる深い関係にあった盛信が、その思想や文化に全く触れなかったとは考えにくい。直接的な信仰には至らなかったとしても、氏郷を通じて西洋の文化やキリスト教の教えに触れ、何らかの影響を受けた可能性は十分に考えられる。
盛信の死後、彼が守り抜いた関家は、嫡男・一政の代にさらなる波乱を経験し、その子孫たちは多様な道を歩むことになる。
家督を継いだ関一政は、主君・氏郷の死後、豊臣政権下で独立した大名として認められた 37 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張犬山城を守備するという難しい立場に置かれたが、戦いの途中で東軍に寝返り、本戦では井伊直政隊に属して功を挙げた 38 。
この功績が徳川家康に認められ、一政は戦後、一族の故地である伊勢亀山への復帰を許された 38 。しかし、その後の慶長16年(1611年)には伯耆国黒坂(鳥取県)5万石へ移封され、さらに元和4年(1618年)、家中の内紛を理由に幕府から改易(領地没収)を命じられてしまう 38 。大名としての関家は、ここで一旦終焉を迎えた。
一政は改易されたものの、関家の家名は断絶しなかった。盛信の孫にあたる一政の養子・氏盛が、近江国蒲生郡に5,000石を与えられ、将軍直属の家臣である旗本として家名の存続を許されたのである 10 。この旗本関家は、江戸時代を通じて幕府に仕え、明治維新まで続いた。
一方で、盛信の別の子である重信の系統は、全く異なる道を歩んだ。彼の子孫は備中国(岡山県)に土着し、江戸時代には武士の身分を離れて医師となった。代々医術を伝え、文庵、春仙といった名を襲名し、地域の医療を支える重鎮として名声を得たという 2 。
盛信が築いた遺産は、大名としての領地だけではなかった。彼の死後、嫡流は幕府の官僚機構に組み込まれる旗本となり、庶流は専門職能集団である医師へと転身した。この一族の多様な「その後」の姿は、戦国乱世の終焉が、武士階級に多様な生き方を強いたことを象徴している。全ての武士が武士として生き残れたわけではなく、官僚化するか、あるいは全く別の専門職に転身することで、新たな近世社会に適応していったのである。関一族の軌跡は、まさに日本の近世化の過程における武士階級の変容を映す鏡と言えるだろう。
関盛信が眠るのは、三重県亀山市関町木崎にある瑞光寺である 2 。この寺は、もともと別の場所にあったが、戦乱で荒廃していたものを、永禄3年(1560年)に盛信が現在地に移して再興し、関家の菩提寺としたと伝えられている 3 。関氏代々の菩提寺として唯一現存するこの寺院に、彼の墓は静かに佇んでいる。
伊勢亀山城主・関盛信の生涯は、戦国時代から安土桃山時代という、日本史上最も激しい変革期を生きた地方国人領主の縮図である。彼は、織田信長、豊臣秀吉という巨大な中央権力の奔流に飲み込まれながらも、巧みな生存戦略を駆使して、見事に一族を次代へと繋いだ。
彼の行動原理を分析する時、二つの重要な柱が浮かび上がる。一つは「姻戚関係の多重化」である。特に、主君であった六角氏の重臣・蒲生氏と結んだ二代にわたる婚姻関係は、単なる政略を超えた強固な運命共同体を形成した。この絆は、信長の勘気を被り追放された最大の危機において、彼を保護するセーフティネットとして機能し、後の再起への道を拓いた。
もう一つは、「時勢を読んだ的確な主君選び」である。本能寺の変という権力構造の激変期に、旧主・信孝ではなく、将来の覇者である秀吉を選んだ迅速な決断は、彼の政治家としての非凡な資質を示している。名門としての誇りを胸に秘めつつも、現実を冷静に見据え、一族の存続という至上命題のために最善の選択を下す。この柔軟性こそが、彼を単なる頑固な地方領主に終わらせなかった要因であろう。
関盛信は、歴史の主役として名を残すことはなかったかもしれない。しかし、彼の生涯は、戦国乱世の終焉と近世封建社会の成立という大きな時代のうねりの中で、地方の国人領主がどのように自己のアイデンティティを保ち、あるいは変容させながら生き残りを図ったのかを示す、極めて示唆に富んだ歴史的ケーススタディとして、我々に多くのことを語りかけてくれるのである。