本報告書は、戦国時代の近江国にその名を馳せた浅井氏の家臣、雨森弥兵衛(清貞と伝えられる)について、現存する史料および研究成果に基づき、その人物像、事績、そして歴史的評価を多角的に検討し、可能な限り詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。特に、通称である「弥兵衛」と実名とされる「清貞」との関係性、並びに後世に語り継がれる「海赤雨三将」という呼称の背景と実態に焦点を当てる。
雨森弥兵衛(清貞)に関する一次史料は極めて限定的であり、その生涯や具体的な事績の多くは、後代に編纂された軍記物、とりわけ江戸時代成立の『浅井三代記』などに依拠する部分が大きいことが指摘されている 1 。『浅井三代記』は、寛文年間(1661年~1672年)に成立したとされ、その史料的価値については慎重な吟味が必要とされる 3 。また、「清貞」という実名についても、確実性に欠ける点が研究上の大きな課題として存在する 1 。
このような史料状況を踏まえると、雨森弥兵衛(清貞)の人物像を追求する上では、断片的に残る史実の記録と、後世の物語的な記述とが混在している可能性を常に念頭に置かねばならない。特に「海赤雨三将」のような勇名を冠した呼称は、個々の武将の具体的な功績を正確に反映するというよりは、浅井氏家臣団の勇猛さを象徴的に示すものとして機能し、語り継がれてきた側面が強いと考えられる。それゆえ、本報告書では、同時代史料と後世の編纂物との間にある記述の差異を丹念に比較検討し、史料批判の観点を重視しながら、雨森弥兵衛(清貞)の実像に迫ることを試みる。
雨森弥兵衛(清貞)の理解を深めるためには、まず彼が属した雨森氏の出自と、その本拠地であった近江国伊香郡雨森についての背景を知る必要がある。
雨森氏は、その祖を藤原高藤の末裔である藤原高良の三男、雨森良高に求めるとされる伝統的な氏族である 4 。その本拠は近江国伊香郡雨森村、すなわち現在の滋賀県長浜市高月町雨森周辺に比定される 1 。この地域は琵琶湖の北東岸に位置し、古来より交通の要衝でもあった。雨森氏は、同じく湖北に勢力を持った磯野氏、赤尾氏、井口氏と並び称されて「湖北の四家」の一角を占めたと伝えられる 4 。室町時代初頭には、将軍足利義満の命により後小松天皇の武者所を務めたともされ、その後、近江守護であった京極氏に仕え、戦国時代に入ると浅井氏の麾下に属したとされる 4 。これらの伝承は、雨森氏が単なる一土豪ではなく、近江湖北地域において一定の家格と歴史的背景を有した武家であったことを示唆している。浅井氏が京極氏の被官から戦国大名へと成長する過程で、このような地域に根差した旧来の勢力である雨森氏を重臣として取り立てることは、領国支配の安定化に寄与したと考えられる。雨森氏の家紋は「橘」および「蛇の目」とされている 4 。
雨森弥兵衛は、この雨森の地に築かれた雨森城の城主であったと伝えられている 1 。雨森城は、現在の滋賀県長浜市高月町雨森にその館跡が比定されており 6 、雨森氏の拠点として機能していたと考えられる。ただし、城郭としての具体的な規模や構造に関する詳細な史料は乏しい。現在、同地には江戸時代中期の儒学者で対馬藩に仕えた雨森芳洲を顕彰する東アジア交流ハウス雨森芳洲庵や、高月観音の里歴史民俗資料館が存在し、雨森氏ゆかりの地の歴史的雰囲気を今に伝えている 10 。これらの施設は主に芳洲に関するものであるが、雨森氏全体の故地としての歴史的文脈を提供するものと言えよう。
雨森弥兵衛(清貞)の人物を特定する上で、その呼称は重要な手がかりとなるが、同時に複雑な問題も内包している。
史料において、彼の通称は「弥兵衛」または「弥兵衛尉(やひょうえのじょう)」として記されていることが多い 1 。しかし、「雨森弥兵衛」という名乗りが、必ずしも一人の特定の個人を指すとは限らない点に留意が必要である。例えば、天文4年(1535年)に起きた多賀氏との合戦において、海北善右衛門と共に「雨弥」という名の武将が戦死したという記録が存在する 13 。本報告書の主題である雨森清貞は、生年を永禄7年(1514年)とする説があるため 7 、この「雨弥」とは年代的に別人である可能性が高いが、雨森姓で「弥」の字を含む通称を持つ人物が他にも存在したことを示している。
さらに重要な指摘として、系図資料によれば雨森氏の一族内で広常、広商、そして高宗の三代にわたって「弥兵衛」の通称が用いられ、特にこの三代目の高宗こそが、赤尾氏や海北氏と共に浅井家中で賞賛された「弥兵衛」の実体であるとする説が提示されている 13 。この高宗が、後述する「海赤雨三将」の一人とされる雨森弥兵衛その人であるとすれば、人物同定における大きな進展となる。
一方で、「清貞」という実名(諱)については、その確実性が疑問視されている。彼が実際に「清貞」と名乗っていたか否かは不明であるというのが、現在の研究における一般的な見解である 1 。生没年についても、1514年から1573年とする記述が見られるが 7 、これも「清貞」の名と同様に、確たる史料的裏付けに乏しい。ゲームソフト『信長の野望・天道』の関連情報として「雨森清貞(あめのもり きよさだ)、生没年: 1514 ~ 1573」との記載があるが 7 、これはあくまでゲーム内の設定であり、史実を直接反映したものとは言えない。
これらの状況を鑑みると、「雨森弥兵衛」という呼称は、特定の個人を指す固有名詞としてのみならず、雨森家のある系統で代々襲名された可能性や、あるいは同時代に複数の「弥兵衛」が存在し、それらが混同されている可能性も考慮しなければならない。そして「清貞」という諱は、後世において特定の「弥兵衛」を識別するために付与されたか、あるいは伝承の中で徐々に定着していった可能性も否定できない。高宗を「海赤雨三将」の弥兵衛とする説は、この名乗りと実名をめぐる問題に重要な一石を投じるものであり、今後の研究の進展が期待される。
以下に、史料に見える雨森姓の関連人物について、現時点での情報を整理する。
表1:雨森姓の関連人物比較
氏名(通称/諱) |
活動時期/生没年 |
主な主君 |
主な事績/史料上の言及 |
備考 |
主要出典 |
雨森弥兵衛(清貞とされる人物) |
1514年? - 1573年? |
浅井久政・長政 |
浅井氏旗頭、奏者、「海赤雨三将」の一人。小谷城で討死または逃亡。実名「清貞」は不確か。 |
本報告書の主要対象 |
1 |
雨弥 |
天文4年(1535年)戦死 |
浅井氏 |
多賀氏との戦いで海北善右衛門と共に戦死。 |
清貞とは別人か。 |
13 |
雨森広常(弥兵衛) |
不明 |
浅井氏か |
系図資料で弥兵衛を称したとされる初代。 |
高宗の祖父か。 |
13 |
雨森広商(弥兵衛) |
不明 |
浅井氏か |
系図資料で弥兵衛を称したとされる二代。 |
高宗の父か。 |
13 |
雨森高宗(弥兵衛) |
不明 |
浅井氏か |
系図資料で弥兵衛を称し、赤尾氏・海北氏と共に賞されたとされる。 |
「海赤雨三将」の弥兵衛の実体である可能性が指摘される。 |
13 |
雨森清兵衛 |
浅井氏滅亡後 |
羽柴秀吉 |
浅井氏滅亡後、秀吉に仕えたとされる。清貞と同一人物説があるが不明。 |
|
1 |
雨森清良 |
元亀元年(1570年)姉川の戦いで討死 |
浅井長政 |
清貞の従弟とされる。姉川の戦いで戦死。 |
|
5 |
雨森清次 |
浅井氏滅亡後 |
阿閉貞征 |
清良の弟。浅井氏滅亡後、阿閉貞征に属す。山崎の戦いで阿閉氏滅亡後、渡岸寺村に蟄居。子は松江藩士清広。 |
|
5 |
雨森芳洲(伯易、藤右衛門、号は東里など) |
寛文8年(1668年) - 寛延5年/宝暦5年(1755年) |
対馬藩宗氏 |
儒学者、木門十哲の一人。朝鮮外交に尽力。雨森氏の末裔。 |
雨森弥兵衛(清貞)との直接的な系譜関係は不明だが、同族出身の著名人物。 |
4 |
この表からも明らかなように、「雨森弥兵衛」という呼称が指し示す人物の実体については、複数の可能性と多くの不明点が存在する。本報告書では、これらの点を踏まえつつ、主に「清貞」の名で後世に知られる浅井長政期の「弥兵衛」を中心に論を進めるが、常にその呼称と実体に関する留保を伴うことを読者にご理解いただきたい。
雨森弥兵衛(清貞)は、浅井氏の二代の当主、久政とその子長政に仕えたとされる。近江国伊香郡雨森の出身であり、浅井氏の旗頭を務めたと伝えられている 1 。
浅井久政の時代における弥兵衛の活動として特筆すべきは、天文13年(1544年)の記録である。この年、彼は浅井久政が発給した書状に奏者としてその名が見え、特に久政から重用されていたことが窺える 1 。奏者とは、主君の意思を伝達し、他者からの言上を取り次ぐ役職であり、主君の側近として機密に触れる機会も多い重要な立場であった。この事実は、弥兵衛が単なる武勇に優れた武将というだけでなく、主君の信頼を得て政務の一端を担う能力も有していたことを示唆している。
その後、浅井家の家督が久政から長政へと移ると、弥兵衛は引き続き長政に仕えたとされる 1 。長政の時代においても、浅井氏の旗頭として軍事面での中心的な役割を期待されていたと考えられる。久政から長政への当主交代は、必ずしも平穏なものではなく、家臣団内部の動揺も伴ったとされるが、その中で弥兵衛が引き続き重用されたとすれば、それは彼が単に久政個人の寵臣であっただけでなく、浅井家中で一定の実力と広範な信頼を得ていたことの証左と言えよう。
軍記物である『浅井三代記』には、浅井氏初代当主・亮政の時代に行われたとされる小関合戦の場面で、「雨森弥兵衛」が赤尾美作守や海北善右衛門尉らと共に敵陣に勇猛果敢に切り込み、奮戦する様子が描かれている 17 。しかしながら、この記述は亮政の時代のものであり、本報告書の主題である清貞(1514年生と仮定した場合)の活動年代とは合致しない可能性が高い。また、『浅井三代記』自体が寛文年間(1661年~1672年)に成立した軍記物であり、その記述の史実性については慎重な検討が必要であることは前述の通りである 3 。したがって、この小関合戦の勇姿が、長政期の弥兵衛(清貞)の具体的な武功を示すものと直結させることは難しい。
雨森弥兵衛(清貞)の名を後世に広く知らしめた要因の一つに、「海赤雨三将(かいせきうさんしょう)」という呼称の存在がある。これは、雨森清貞、海北綱親、赤尾清綱の三人の浅井氏重臣を指すものとされている 1 。
海北綱親は通称を善右衛門といい、生年は1510年、没年は1573年と伝えられる 19 。赤尾清綱は永正11年(1514年)生まれ、天正元年(1573年)没とされ 22 、雨森清貞(1514年生~1573年没とされる)とはほぼ同世代の武将であったことになる 7 。赤尾清綱は、浅井氏の居城である小谷城内に「赤尾曲輪」と呼ばれる自身の居館を持ち、城の防衛において重要な役割を担っていたとされる 22 。これら三将は、浅井氏の武勇を代表する存在として語られることが多い。
しかしながら、「海赤雨三将」という呼称の起源と史実性については、いくつかの留意点が存在する。この呼称は、江戸時代に成立した軍記物である『浅井三代記』における創作、あるいは同書によって広められた可能性が高いと指摘されている 2 。前述の通り、『浅井三代記』はその史料的価値について議論があり 3 、浅井長政・久政父子の髑髏を杯にしたという織田信長の逸話など、劇的な描写を含む一方で、史実との乖離が見られる箇所も少なくない 24 。
『浅井三代記』の第九巻「小関合戦の事」には、浅井亮政の軍勢として「赤尾美作守海北善右衛門尉雨森弥兵衛宮沢平八」らが敵中に切り込み奮戦する場面が描かれており 17 、これらの勇将の名が並び称される状況が記述されている。この記述が、後の「海赤雨三将」という呼称の原型となった可能性も考えられるが、これはあくまで亮政の時代のことであり、長政期の「三将」の具体的な活動や関係性を直接示すものではない。一方で、三将の一人とされる赤尾清綱については、実際に浅井氏の宿老として重きをなしていたと考えられている 2 。
「海赤雨三将」という呼称が、浅井氏の同時代において実際に確立し、広く用いられていたかどうかは疑わしいと言わざるを得ない。しかし、この呼称が後世において浅井氏の忠勇な家臣団を象徴する言葉として定着し、雨森弥兵衛の名を今日に伝える上で大きな役割を果たしたことは否定できない。その一方で、この勇ましい呼称の影で、弥兵衛自身の具体的な事績や、他の二将との実際の関係性については、依然として不明な点が多いのが現状である。この呼称の流布は、浅井氏滅亡の悲劇性と共に、その忠臣たちの姿を語り継ぎたいという後世の人々の心情や、講談などによる脚色の影響も考えられる。「三将」という括りは、個々の詳細な功績が不明であっても、集団としての強さを印象付けるのに効果的であったと言えよう。
雨森弥兵衛(清貞)は、浅井氏の主要な家臣として、各地の合戦で活躍したと伝えられているが 1 、その具体的な戦功や動向を詳細に記した一次史料は乏しいのが実情である。
元亀元年(1570年)に勃発した姉川の戦いは、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した、浅井氏の命運を左右する重要な合戦であった 25 。この戦いにおける雨森弥兵衛(清貞)自身の直接的な動向を示す史料は、提示された情報の範囲では確認できない。しかしながら、雨森氏の一族が浅井方としてこの戦いに深く関与していたことは確かである。史料によれば、清貞の従弟にあたるとされる雨森清良が、この姉川の戦いで討死を遂げたと記録されている 5 。浅井氏の「旗頭」であったとされる弥兵衛が、このような大規模かつ重要な合戦に参加しなかったとは考えにくく、何らかの役割を果たしたと推測するのが自然であるが、その具体的な内容は不明である。
その他の合戦への関与についても、明確な記録は少ない。『浅井三代記』には、前述の通り、浅井亮政の代に行われた小関合戦において「雨森弥兵衛」が勇戦する記述が見られる 17 。しかし、これが長政期の弥兵衛(清貞)の事績と直接結びつくかどうかは、年代的な問題や史料の性質を考慮すると、慎重な判断を要する。
雨森弥兵衛(清貞)の具体的な戦功が記録として残りにくかった背景には、いくつかの可能性が考えられる。彼が持ち城である雨森城の守備や兵站などの後方支援、あるいは浅井久政・長政父子の側近としての奏者のような役割など、必ずしも最前線での華々しい武功とは異なる形で浅井家に貢献していた可能性である。これらの役職は、個人の武勇伝として記録されにくい性質を持つ。また、浅井氏側の史料自体が、織田氏や徳川氏のような最終的な勝者の記録と比較して、散逸したり残存量が少なかったりする可能性も否定できない。「海赤雨三将」という後世の勇ましい呼称が先行し、個々の具体的な戦功の記録がそれに追いついていない、あるいは歴史の過程で失われてしまったという状況も想定される。
天正元年(1573年)、織田信長の猛攻により、浅井氏の居城である小谷城は陥落し、当主浅井長政とその父久政は自刃、ここに戦国大名としての浅井氏は滅亡した 26 。この浅井氏最後の戦いにおいて、雨森弥兵衛(清貞)はどのような運命を辿ったのであろうか。
小谷城落城の際、「海赤雨三将」のうち、海北綱親は城内で討死し 26 、赤尾清綱も織田軍に捕縛された後に潔く自刃したと伝えられている 20 。しかし、雨森清貞の最期については、情報が錯綜しており、明確ではない。小谷城で討死したとする説と、城を脱出して落ち延びたとする説が存在し、判然としないのが現状である 1 。
一部の資料、例えばWikipediaの「小谷城の戦い」の項目では、小谷城からの逃亡者の一人として雨森清貞の名が挙げられている 26 。また、彼の生没年を1514年から1573年までとする資料 7 は、小谷城落城の年に没したことを示唆しており、討死説を補強するように見えるが、前述の通りこの没年には確たる史料的裏付けがない。
雨森清貞の最期に関する情報がこのように錯綜していること自体が、浅井氏滅亡時の混乱した状況と、その後の雨森氏一族の離散の様相を反映している可能性がある。他の二将、すなわち海北綱親と赤尾清綱の最期がある程度具体的に伝えられているのに対し、清貞の消息が不明確であるという事実は、彼が他の二人とは異なる運命を辿ったか、あるいは彼の最期を伝える記録が特に失われやすい状況にあったことを示唆しているのかもしれない。浅井氏滅亡という一大事件の渦中において、個々の家臣の正確な消息を追跡することは極めて困難であり、特に敗者側の記録は散逸しやすい運命にある。
浅井氏が滅亡した後、雨森弥兵衛(清貞)が生き延びたとすれば、彼はどのような道を歩んだのであろうか。また、彼が属した雨森氏一族は、その後どうなったのであろうか。
史料の中には、浅井氏滅亡後に羽柴秀吉に仕えたとされる「雨森清兵衛」という人物の存在が記されている。この雨森清兵衛が、雨森清貞(弥兵衛)と同一人物ではないかという説が存在するが、これもまた不明であるとされている 1 。「清兵衛」と「弥兵衛」は共に通称であり、同一人物が後に改名した可能性も皆無ではないが、これを裏付ける確証は見つかっていない。
雨森弥兵衛(清貞)個人の消息は不明な点が多いものの、彼が属した雨森氏という一族は、浅井氏滅亡後も各地に離散し、その命脈を保っていったことが確認できる 4 。その末裔とされる家系には、江戸時代に対馬藩に仕え、高名な儒学者であり朝鮮外交にも大きな足跡を残した雨森芳洲を出した雨森芳洲家、出雲松江藩に仕官した出雲雨森氏、土佐藩の山内家に仕えた土佐雨森氏、そして京の都で医家として名を成した雨森良意家など、多岐にわたる家が存在する 4 。
特に、姉川の戦いで討死した雨森清良(清貞の従弟とされる)の弟である雨森清次に関する記録は興味深い。清次は、浅井氏滅亡後、一度は織田信長に降った旧浅井家臣の阿閉貞征に属した。しかし、天正10年(1582年)の山崎の戦いで阿閉氏が滅亡すると、その後は近江国伊香郡の渡岸寺村(現在の滋賀県長浜市高月町渡岸寺)に蟄居したという。そして、その子である清広は、後に出雲松江藩に仕えたと伝えられている 5 。これは、雨森氏の一系統が、浅井氏滅亡という激動の時代を乗り越え、新たな仕官先を見出して家名を存続させた具体的な事例を示している。
雨森清貞(弥兵衛)本人の消息は依然として謎に包まれているが、彼が属した雨森氏という「家」そのものは、各地で形を変えながらも存続し、特に雨森芳洲のような歴史に名を刻む傑出した人物を輩出している。この事実は、戦国時代の武家が一つの合戦の敗北や主家の滅亡によって完全に歴史の舞台から消え去るのではなく、様々な形でその血脈や家名を後世に伝えていくという、当時の社会の様相を示す一例と言えるだろう。雨森清貞の直接の血筋が、これらの後裔とされる家々に繋がっているかどうかは不明であるが、一族としての連続性は注目に値する。
本報告書を通じて、戦国時代の浅井氏家臣・雨森弥兵衛(清貞)に関する調査結果を多角的に検討してきた。その結果、いくつかの事実が確認される一方で、多くの謎が残されていることが明らかになった。
まず、雨森弥兵衛(清貞)は、浅井氏の重臣として、特に二代当主浅井久政から厚い信任を得ており、奏者などの重要な役職を務めていたことが史料から確認できる 1 。この点は、彼が単なる武辺者ではなく、政務にも通じた人物であった可能性を示唆している。
また、海北綱親・赤尾清綱と共に「海赤雨三将」と称されることは広く知られているが、この呼称の史実性、特に浅井氏の同時代において実際に用いられていたか否かについては、江戸時代成立の軍記物『浅井三代記』の記述に依拠する部分が大きく、慎重な検討を要する 2 。この呼称が、彼の名を後世に伝える上で大きな役割を果たしたことは間違いないが、その勇名と具体的な事績との間には隔たりが見られる。
「清貞」という実名や正確な生没年、そして具体的な戦功については、残念ながら一次史料が極めて乏しく、不明な点が多いのが現状である 1 。浅井氏滅亡時の彼の消息についても、小谷城で討死したとする説と、城から逃亡したとする説が並立しており、未だ確定を見ていない 1 。
これらの調査結果を踏まえると、雨森弥兵衛の人物像は、後世の軍記物などで語られる勇将としてのイメージに対し、史料上で確認できる姿は、むしろ主君の側近くに仕える実務的な官僚としての側面も併せ持つ、より複雑で多面的なものであったと推察される。
今後の研究において特に重要な論点となるのは、「弥兵衛」という通称が雨森氏の複数の人物(例えば、系図資料に見える広常、広商、高宗など)によって用いられた可能性であり、とりわけ「高宗」という人物が「海赤雨三将」の一人とされる弥兵衛の実体であるとする説 13 は、その真偽の解明が待たれる。この点を明らかにするためには、『近江伊香郡志』 13 や雨森正高氏編纂の『雨森家系図集覧』 13 、さらには太田浩司氏による浅井氏関連の研究 13 などの詳細な再検討が不可欠である。
雨森弥兵衛(清貞)の研究は、単に一人の戦国武将の伝記を復元する試みに留まらない。それは、戦国期における武士の呼称(通称と諱)のあり方、軍記物語が歴史像形成に与える影響力とその史料的価値の評価、そして何よりも敗者側の記録が歴史の中にどのように埋もれ、あるいは断片的に伝えられていくのかといった、より広範な歴史学的方法論に関わる普遍的な課題を我々に提示している。雨森氏関連の古文書や系図資料のさらなる発掘と精密な分析が、雨森弥兵衛という謎多き武将の実像解明に繋がり、ひいては戦国史研究の深化に貢献することが期待される。