最終更新日 2025-06-25

須田満親

「須田満親」の画像

上杉氏の懐刀、須田満親 ― 信濃の豪族から豊臣大名の重臣へ、その生涯と実像

序章:須田満親、その歴史的評価と本報告書の視座

本報告書の目的と構成

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、須田満親(すだ みつちか)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に解明することを目的とする。信濃国高井郡の国人領主として生を受け、武田信玄との抗争の末に故郷を追われながらも、越後の上杉謙信・景勝の二代に仕え、ついには上杉家中枢で絶大な権勢を誇るに至った彼の軌跡は、戦国乱世における地方武将の生存戦略と栄達の様相を鮮やかに映し出している。

本報告書では、彼の出自と一族の背景から筆を起こし、信濃失陥、上杉家臣としての台頭、北陸・信濃における軍事指揮官・統治者としての活動、豊臣中央政権との外交、そして謎に包まれた最期と子孫の動向に至るまでを、時系列に沿って詳細に記述する。これにより、須田満親という一人の武将の全体像を立体的に描き出すことを目指す。

須田満親の一般的評価

須田満親は、一般的に「信濃の豪族であり、信濃の一向一揆衆を指導した。のち上杉景勝に仕え、北陸の一向一揆対策の責任者となり、信濃海津城主を務めた」人物として認識されている [User Query]。しかし、この評価は彼の多岐にわたる活動のごく一面を捉えたに過ぎない。史料を深く読み解くと、彼は単なる地方武将の範疇に収まらず、軍事指揮官、方面司令官、領国経営者、そして中央政界とのパイプ役を担う卓越した外交官という、いくつもの顔を持つ極めて重要な人物であったことが浮かび上がる 1 。その生涯は、信濃の一国人から、上杉家の命運を左右する重臣、さらには豊臣政権下の大名家老へと駆け上がった、稀有な成功譚であった。

本報告書が提示する新たな視点

本報告書では、単なる伝記的記述に留まらず、特に以下の三つの視点から須田満親の実像に迫る。

第一に、 「他国衆」から「実質的譜代」への異例のキャリアパス である。信濃を追われた亡命国人という、上杉家中では外様に等しい「他国衆」の立場から、いかにして譜代の重臣を凌ぐ信頼を勝ち取り、家宰・直江兼続に次ぐ地位を築き上げたのか。その過程を、彼の能力と上杉家の政治状況の変化との関連で分析する。

第二に、 宗教的人脈の政治的活用 である。彼のアイデンティティの中核をなす浄土真宗(一向宗)との深い繋がりが、いかにして上杉家の外交戦略、特に本願寺や北陸の一向一揆衆との関係において強力な武器となったのかを解明する。

第三に、 矛盾する史料の分析 である。魚津城の戦いにおける動向や最期の死因など、史料間で記述が食い違う点について、各説の背景を考察し、より確度の高い人物像を構築する試みである。

これらの視点を通じて、須田満親を戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムの中に位置づけ、その歴史的意義を再評価する。

第一章:清和源氏井上氏流、須田一族の出自と系譜

須田氏の起源

須田氏は、信濃国北部に勢力を張った清和源氏井上氏の流れを汲む、由緒ある武士団である 4 。その本貫地は高井郡須田郷(現在の長野県須坂市周辺)とされ、須坂の地名の由来になったとの説もある 4 。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鑑』には、建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際、随行した信濃武士団の中に「須田小太夫」の名が見え、その歴史の古さを物語っている 5

一族の分立と満親の家系

室町時代から戦国時代にかけて、須田氏は勢力を拡大し、根本所領である須田郷、大岩郷、高井野郷のほか、旧井上氏領にも進出する有力国人へと成長した 3 。しかし、その過程で一族は二つの系統に分かれていく。須田郷を本拠とする惣領家(便宜上「臥竜山須田氏」)と、大岩郷を本拠とする庶子家(便宜上「大岩須田氏」)である 3

須田満親は、この大岩須田氏の出身であり、父は須田満国、本拠は大岩城であったと伝えられる 4 。この一族内の分立は、後に武田信玄が北信濃へ侵攻した際に、惣領家が武田方に、満親ら大岩須田氏が反武田方に付くという、一族の命運を分ける決断の重要な背景となった 3

この一族の分裂は、単なる内紛と見るべきではない。強大な二大勢力である武田と上杉に挟まれた国人領主が、家の存続を図るために取る典型的な生存戦略であった。一族を二つに分け、それぞれが異なる大名に属することで、どちらが勝利しても家名を保つという、いわばリスクヘッジであったと考えられる。結果的に、上杉方についた満親の系統が須田氏の正統となり、惣領家を継ぐ形でその命脈を保ったことは 10 、この戦略が功を奏したことを示している。この決断こそが、満親の波乱に満ちた生涯の出発点となったのである。

第二章:信濃失陥と上杉謙信への臣従

武田信玄への抵抗と故郷の喪失

天文22年(1553年)、甲斐の武田信玄による北信濃への本格的な侵攻が始まると、須田満親の父・満国は、北信濃の盟主であった村上義清らと連携し、これに激しく抵抗した 6 。しかし、信玄率いる武田軍の圧倒的な軍事力の前に、村上方は敗北を重ねる。満親の一族が拠点とした大岩城も武田勢の攻撃を受けて落城し、須田氏は先祖伝来の所領を失うこととなった 3

越後への亡命と上杉家臣として再起

故郷を失った満国・満親親子は、村上義清をはじめとする多くの北信濃国人衆と同様に、北の越後国を治める長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた 6 。これにより、満親は上杉家の家臣団に組み込まれることとなる。故郷を奪われ、その回復を悲願とする「他国衆」として、彼の新たな武将としてのキャリアが始まったのである。

謙信の麾下に入った満親は、その能力を早くから認められていたようである。永禄4年(1561年)に繰り広げられた第四次川中島の戦いには、上杉方の一員として参陣している記録が残る 6 。さらに、謙信の命により、越後国内の蒲原郡須田村(現在の新潟県加茂市後須田)に須田城を築城し、その領主に任じられている 12 。これは、謙信が満親を単なる亡命客将としてではなく、信頼できる家臣として処遇し、越後国内に新たな拠点を与えていたことを示している。満親は、この地を足掛かりに、故郷信濃への復帰を目指して活動を続けることになった。

第三章:一向宗の指導者から外交のキーマンへ

浄土真宗(一向宗)との深い関係

須田満親の人物像を語る上で、浄土真宗(当時の一向宗)との深い関わりは不可欠である。彼は信濃の一向宗門徒と極めて親しい関係にあり、彼自身も熱心な門徒であったと考えられている 4 。その証左として、須坂地域に残る複数の寺社との関係が挙げられる。松代にある浄福寺は、満親が中興開基したと伝えられ、寺には須田家の家紋である揚羽蝶が残されている 4 。また、須田氏の発願によって聖徳太子像が造立された記録もあり、一族の篤い信仰心が窺える 4 。須坂地域が古くから浄土真宗の勢力が強い土地であったことも、彼の信仰の背景にある 4

宗教ネットワークの政治資本化

この宗教的人脈は、単なる個人的な信仰に留まらず、満親の政治的価値を飛躍的に高める「政治資本」となった。当時、織田信長と石山合戦で10年にも及ぶ死闘を繰り広げていた本願寺にとって、信長包囲網の一翼を担う上杉謙信との連携は死活問題であった。しかし、真言宗を篤く信仰する謙信 13 と、しばしば敵対関係にあった一向宗徒との間には、直接的な交渉を円滑に進めるためのパイプが不足していた。

この状況において、信濃出身で一向宗と深い繋がりを持つ満親の存在が、極めて重要な意味を持った。彼は、謙信が直接手を伸ばせない領域にアクセスできる、貴重な「インターフェース」として機能したのである 4 。天正4年(1576年)、本願寺門主・顕如(光佐)から謙信への救援要請が行われた際、満親が両者の和睦交渉に関与し、これを成立させたとされる 10 。これにより、上杉軍は後顧の憂いなく越中・能登へ進軍することが可能となった。

本願寺からの絶大な信頼

満親が単なる連絡役ではなかったことは、本願寺側からの彼に対する信頼の厚さからも明らかである。天正8年(1580年)、本願寺光佐から満親個人に物が贈られた記録が残っている 14 。さらに、光佐から満親宛に「信濃国の一向宗門徒たちをよろしく頼む」という趣旨の書状が送られていることから 4 、満親が本願寺から「信濃門徒の代表者・保護者」として公式に認識されていたことがわかる。この役割を通じて、彼は上杉家中で軍事力だけではない、外交・情報戦における独自の専門性を確立し、謙信死後、景勝政権下でさらに重用される強固な基盤を築き上げたのである。

第四章:「御館の乱」における選択と景勝政権での飛躍

景勝方への加担と勝利への貢献

天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死すると、その後継者の座を巡り、謙信の二人の養子、上杉景勝(長尾政景の子)と上杉景虎(北条氏康の子)との間で、越後国を二分する大規模な内乱「御館の乱」が勃発した。この上杉家の存亡をかけた争いにおいて、須田満親は一貫して景勝を支持した 1 。信濃国人衆という、越後譜代の家臣とは異なる立場でありながら、早くから景勝方への与力を明確にした満親の行動は、景勝方の結束を固める上で重要な意味を持った。

論功行賞と上杉家中枢への進出

約2年にわたる乱は景勝方の勝利に終わり、満親はその功績を高く評価された。乱の終結から間もない天正8年(1580年)4月には、上杉家の公式な制札に、年寄(家老級の重臣)である上条宜順・竹俣慶綱と共に奉者として連署しており 17 、この時点で既に景勝政権の中枢に深く食い込んでいたことが確認できる。亡命国人という出自からすれば、これは異例の抜擢であった。

直江兼続との連携体制の構築

この時期、満親と同じく御館の乱で頭角を現し、景勝の絶対的な信頼を得たのが、後に「天下の陪臣」と称される直江兼続である 15 。満親と兼続は、景勝政権を支える両輪として、以後、軍事・外交・内政の各方面で緊密な連携関係を築いていくことになる 4

この政治的連携をさらに強固なものにするため、血縁による結びつきが図られた。満親の嫡男である須田満胤が、兼続の実妹である「きた」を室に迎えたのである 5 。この婚姻により、須田家は上杉家の家宰である直江家と姻戚関係となり、満親の政治的地位は盤石なものとなった。彼はもはや単なる他国衆ではなく、景勝・兼続体制に不可欠な中核メンバーとしての地位を確立したのである。

第五章:北陸方面軍司令官としての死闘 ― 対佐々成政戦

越中方面軍の総指揮官へ

御館の乱を乗り越えた上杉家が次に直面したのは、天下統一を目前にした織田信長軍による北陸からの侵攻という、国家存亡の危機であった。この重大な局面で、越中方面の司令官であった重臣・河田長親が天正9年(1581年)に病死すると、その後任として須田満親が抜擢された 6 。彼は越中における上杉方の最重要拠点である松倉城(富山県魚津市)に入り、織田方の北陸方面軍司令官・柴田勝家、そしてその与力である佐々成政との戦いの総指揮を執ることになった 3 。この頃、越中の国人・舟見氏の名跡を一時的に継承し、「舟見宮内少輔規泰(のりやす)」と名乗っているが、これは越中での活動を円滑に進めるための戦略的措置であったと考えられる 4

魚津城の戦いと本能寺の変

天正10年(1582年)、柴田勝家率いる数万の織田軍の猛攻により、上杉方の重要拠点・魚津城は完全に包囲された(魚津城の戦い)。この戦いにおける満親の動向については、史料によって記述が錯綜している。

一部の記録では、満親が魚津城で討死した「魚津在城十三将」の一人として数えられている 2 。しかし、これは後世の誤伝の可能性が高い。より信頼性の高い複数の史料によれば、満親は総指揮官として後方の松倉城に在城しており、魚津城の籠城衆とは別に全体の指揮を執っていた 6 。景勝は援軍を派遣するも、織田軍の堅固な包囲網を破ることができず、天神山からの撤退を余儀なくされる 21 。これにより魚津城は完全に孤立し、籠城していた将兵は壮絶な玉砕を遂げ、6月3日に落城した 23

奇しくも、魚津城落城の前日である6月2日、京では本能寺の変が勃発していた。主君・信長の死の報を受けた織田軍は大混乱に陥り、越中から撤退する。この千載一遇の好機を、満親は見逃さなかった。彼は即座に反攻に転じ、空城となった魚津城を奪還、越中東部における上杉方の失地を回復したのである 23 。この迅速かつ的確な軍事行動は、彼の指揮官としての卓越した能力を明確に示している。

対佐々成政戦と戦略的退去

本能寺の変後、越中は柴田勝家方に与した佐々成政の支配下となり、満親は成政との間で一進一退の攻防を続けることとなる。しかし、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破り、中央の政治情勢が大きく変化すると、上杉家の戦略も転換を迫られる。秀吉と連携関係を築いた景勝の意向を受け、満親は同年中に成政に魚津城を明け渡し、信濃へと転進した 6 。これは敗北による退却ではなく、上杉家が秀吉の天下統一事業に協力する姿勢を示すための、高度な政治判断に基づく戦略的退去であった。

第六章:信濃四郡の支配者 ― 海津城代時代の権勢

海津城代への就任と絶大な権限

天正13年(1585年)6月、須田満親は、その生涯における頂点ともいえる地位に就く。上杉景勝から、対武田氏防衛の最前線として名高い信濃国・海津城(後の松代城)の城代に任命されたのである 6 。これは単なる一城の守将を意味するものではなかった。満親には川中島四郡と称される高井・水内・更級・埴科の広域支配が委ねられ、方面軍司令官と統治者を兼ねる役割を担うことになった 6

景勝が満親に寄せた信頼は、彼に与えられた権限の大きさからもうかがえる。景勝は満親に対し、北信濃における検地の実施権、軍事指揮権、そして通常は主君のみが行使する「検断権(警察・司法権)」までも委任した 4 。景勝は満親に「其方分別次第、越国へ注進及ばず申し付けらるべきの事(お前の判断で、越後へ報告することなく処置してよい)」とまで伝えており 17 、これは上杉家臣の中でも前例のない破格の待遇であった。

家中第二位の知行高

満親の権勢は、その経済的基盤にも明確に表れている。豊臣政権下で作成された「文禄三年定納員数目録」によれば、満親の知行高は12,086石、軍役負担は725人と記録されている 6 。これは、家宰・直江兼続に次ぐ上杉家中第二位の禄高であり、亡命国人という出自から成り上がった武将としては、まさに異例中の異例であった。


表1:上杉家主要家臣の知行高と軍役比較(文禄三年定納員数目録等に基づく)

家臣名

役職・拠点

知行定納高 (石)

軍役負担 (人)

備考

直江兼続

家宰 / 与板城主

(会津移封後) 300,000

-

主君景勝に次ぐ実力者。知行高は別格。

須田満親

海津城代

12,086

725

本報告書の対象。他国衆出身ながら家中第2位。

色部長実

平林城主

5,163

295

譜代の重臣。

甘粕景継

庄内酒田城代

5,000

250

譜代の重臣。庄内三郡を管轄。

本庄繁長

櫛引城代

(史料により変動)

-

勇猛で知られるが、知行高では満親に及ばず。

注:直江兼続の知行高は、文禄年間以降に米沢で与えられたものを参考値として記載。他の家臣との比較から、須田満親の地位の突出性がわかる。

真田氏との同盟と第一次上田合戦

海津城代としての満親の最初の大きな仕事は、徳川家康と対立し、上杉への従属を申し入れてきた真田昌幸との同盟交渉であった。満親はこの交渉役を見事に務め上げ、昌幸の次男・信繁(後の幸村)を人質として海津城で預かった 3 。同年、徳川軍が真田氏の上田城に大軍を差し向けると(第一次上田合戦)、満親は景勝に強く救援を進言し、自ら上杉方援軍の総大将として出陣。徳川軍の背後を脅かし、真田氏の歴史的な勝利に大きく貢献した 6 。これにより、彼は信濃における上杉家の権威を確立するとともに、統治者としての名声を不動のものとした。

第七章:中央政界とのパイプ役 ― 豊臣政権下の須田満親

豊臣大名の重臣としての公認

天正16年(1588年、一説に17年) 6 、須田満親は主君・上杉景勝の上洛に随行し、聚楽第で豊臣秀吉に謁見した。この際、同行した直江兼続と共に豊臣姓を下賜され、さらに後陽成天皇より従五位下・相模守に叙任された 6 。これは、彼がもはや単なる上杉家の一家臣ではなく、豊臣政権によって公式に認知された有力武将となったことを意味する。これにより、彼は中央政界で活動するための公的な地位と権威を手に入れた。

外交の窓口としての役割

満親はその卓越した外交手腕と、信濃・北陸にまたがる広範な人脈を背景に、上杉家の対外的な「顔」として機能した。様々な勢力が、上杉家との交渉において満親を重要な窓口と見なしていたことが、残された書状から明らかである。

  • 足利義昭からの働きかけ : 天正10年(1582年)、毛利氏の庇護下にあった前将軍・足利義昭は、秀吉と対立する柴田勝家と上杉景勝の連携を画策した。その際、義昭は和睦を仲介するよう命じる御内書を、上杉家の重臣である上条宜順と須田満親に宛てて送っている 3 。これは、満親が上杉家の意思決定に大きな影響力を持つ人物として、外部勢力からも認識されていたことを示す動かぬ証拠である。
  • 羽柴秀吉からの直接の書状 : 天下人への道を歩む秀吉もまた、景勝との交渉において満親を重要なキーパーソンとして扱った。賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いの際には、戦況を詳述する書状を景勝本人だけでなく、満親にも直接送っている 3 。さらに、秀吉配下の奉行衆が関東の紛争の調停を景勝に依頼する際にも、満親を通じて行われるなど 3 、彼は上杉家の対中央外交における実務責任者としての役割を担っていた。
  • 本能寺の変の密書説 : 明智光秀が本能寺の変の直前、上杉方の協力を取り付け、後顧の憂いを断つために満親へ密書を送ったという説も存在する 3 。この説の根拠とされる『覚上公御書収』や『歴代古案』といった史料の信憑性については慎重な検討を要するものの、仮に事実でなくとも、そのような説が生まれるほど、満親が当代随一の外交チャンネルを持つ人物と見なされていた可能性を示唆している。

第八章:一族の栄光と影 ― 晩年と最期の謎

嫡男・満胤の改易という打撃

栄華を極めた満親の晩年には、暗い影が差し始める。慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が命じた伏見城の舟入普請において、嫡男の須田満胤が不手際を問われ、同じく担当であった柿崎憲家らと共に改易処分となり、上杉家から追放されたのである 6 。満胤は直江兼続の妹婿であり、この事件は須田家にとって大きな打撃であっただけでなく、兼続との関係にも微妙な緊張をもたらした可能性がある。父である満親もこの事件に連座したとされており 30 、彼の権勢に陰りが見え始めた時期であった。

上杉家の会津移封と故郷の再喪失

慶長3年(1598年)正月、秀吉の命により、上杉家は越後・信濃から会津120万石への移封が決定する 32 。この国替えは、石高の上では大幅な加増であり、上杉家にとっては栄転であった。しかし、須田満親個人にとっては、全く異なる意味を持っていた。それは、武田氏に追われて以来、生涯をかけて回復し、統治してきた故郷・信濃を再び手放すことを意味したのである。

最期をめぐる二つの説

同年3月4日、須田満親は居城である海津城にてその生涯を閉じた 6 。享年73(一説に62) 6 。その死因については、史料によって見解が分かれており、彼の最期は謎に包まれている。

  • 病死説 : 自然死であったとする見方。
  • 自害説 : 会津への移封に強く反対し、春日山城に赴いて景勝に諫言するも受け入れられなかったため、故郷を失うことへの憤慨と主君への抗議のために自害したとする説 11 。『梁川町史』をはじめ、複数の記録がこの説を伝えている。

満親の墓所は、彼が統治した信濃松代の浄福寺に五輪塔として現存すると伝えられている 4

自害説の背後にあるアイデンティティの危機

満親の自害説が事実であったと仮定するならば、その死は単なる絶望によるものではなく、より深い意味を持つと解釈できる。彼の行動原理の根底には、常に故郷を追われた「信濃国人」としてのアイデンティティがあった。上杉家臣として栄達する一方で、彼の最終目標は故郷・信濃における須田家の再興であったはずである。海津城代として北信濃四郡を統治したことは、その生涯をかけた目標の達成を意味した。

しかし、会津への移封は、その全てを水泡に帰させるものであった。上杉家にとっては栄転でも、満親個人にとっては再び根無し草になることを意味し、彼の武将としてのアイデンティティを根底から揺るがす決定であった。加えて、嫡男・満胤の改易という個人的な不幸が重なり、家の将来にも暗雲が垂れ込めていた 6 。このような状況下で、彼は自らの死をもって主君の決定の非を訴え、自身の信条を貫くという、武士としての最後の政治的抗議行動(諫死)に至ったのではないだろうか。この自害説は、満親が単なる従順な家臣ではなく、強い自己の信念と故郷への執着を持つ独立した人格であったことを示唆している。彼の死は、豊臣政権による全国統一という巨大な権力構造の再編の中で、翻弄される一人の国衆の悲劇として捉えることができる。

第九章:その後の須田家 ― 猛将・長義と米沢藩士としての道

二男・長義の家督相続と梁川城代

須田満親の死と、嫡男・満胤の改易により、須田家の家督は二男の長義(ながよし、通称・大炊介)が継承した 19 。慶長3年(1598年)、上杉家の会津移封に伴い、長義は陸奥国伊達郡の梁川城代に任命され、2万石という破格の知行を与えられた 19 。これは、会津の北の玄関口であり、隣接する伊達政宗への備えとして最重要拠点の一つであった。この人事は、長義の武将としての器量が父・満親に劣らず高く評価されていたことを示している 33

対伊達政宗戦での武功

その期待に応え、長義は猛将としてその名を轟かせる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに連動して勃発した慶長出羽合戦では、福島口の守備を担当し、上杉領に侵攻してきた伊達政宗の軍勢と激しく戦った。10月の松川の戦いでは、福島城を包囲する伊達軍本隊の背後を突き、その小荷駄隊を急襲して撃破するという目覚ましい武功を挙げている 33 。この時、伊達政宗の九曜紋の陣幕と看経幕(かんきんまく)を奪った逸話は特に名高い。後に主君・景勝が江戸屋敷に徳川秀忠を迎えた際、この奪った陣幕をわざと見える場所に飾り、同席していた政宗に大恥をかかせたという話が伝わっている 33

大坂の陣と最期

関ヶ原の戦いの後、上杉家が米沢30万石に減封されると、須田家の知行も6,666石に減らされたが、長義は引き続き梁川城代の重責を担った 33 。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、上杉軍の先手として鴫野の戦いで後藤基次勢を相手に奮戦し、将軍・徳川秀忠から直々に感状と短刀を賜るほどの武功を立てた 19 。しかし、この時に負った戦傷が悪化し、翌元和元年(1615年)6月1日に死去した 33 。享年37という若さであった。

米沢藩士としての須田家

長義の死後も須田家は上杉家の重臣として存続し、その子孫は江戸時代を通じて米沢藩の上級藩士として家名を保った 4 。満親が築き、長義が武勇で守り抜いた須田家の栄光は、近世を通じて受け継がれていったのである。

終章:総合評価 ― 須田満親とは何者だったのか

須田満親の生涯を総括すると、彼は戦国時代という激動の時代が生んだ、極めて多才で複雑な人物像として浮かび上がる。一向宗徒との交渉に見られる 外交能力 、北陸戦線や第一次上田合戦で見せた 軍事指揮能力 、そして海津城代としての統治に示される 領国経営能力 を高いレベルで兼ね備えた、稀有な武将であった。

上杉家における彼の役割は、時代の変遷とともに劇的に変化した。謙信時代には、信濃国人として、また一向宗門徒としての特殊な人脈を活かした「他国衆」として重宝された。彼の存在は、上杉家が直接的な影響力を行使しにくい勢力圏への、重要な橋渡し役を担った。

謙信の死後、景勝時代に入ると、その立場はさらに飛躍する。御館の乱での一貫した忠誠と、その後の対織田・対佐々戦線で示した卓越した実務能力により、彼は景勝と家宰・直江兼続から絶対的な信頼を勝ち取った。その結果、他国衆という出自にもかかわらず、譜代の重臣を凌駕する知行と権限を与えられ、上杉家の権力構造の中枢を担う「実質的譜代」とも言うべき存在へと上り詰めた。彼は、カリスマ的な指導者であった謙信の時代から、景勝と兼続による組織的な統治へと移行する上杉家の過渡期を象徴し、その変革を内部から支えた最重要人物の一人であったと言える。

須田満親の生涯は、戦国乱世の中で一人の国人領主がいかにして自らの価値を高め、大名の家臣団の中で生き残り、栄達していくかというダイナミックな過程を体現している。彼の成功は、個人的な能力の高さもさることながら、宗教や地縁といった当時の社会に深く根差したネットワークを、巧みに政治力へと転換した点にその本質がある。

そして、その劇的な最期は、豊臣政権による全国統一という巨大な権力構造の再編の中で、故郷への帰属意識という武士の根源的なアイデンティティが揺さぶられた悲劇でもあった。彼は単なる上杉家の一家臣ではない。戦国から近世へと移行する時代の複雑さと、そこに生きた武将の矜持と悲哀を我々に伝える、稀有な歴史の証人と言えるだろう。

引用文献

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  2. 上杉家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugiSS/index.htm
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