本報告は、戦国時代に讃岐国西部(西讃)を拠点とした武将、香川之景(かがわ ゆきかげ、大永7年〈1527年〉生~慶長5年〈1600年〉没)の生涯と、彼が率いた香川氏の動向を、現存する史料に基づき詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とします。特に、中央政権や四国内の有力大名との間で揺れ動いた彼の政治的立場、諱(実名)の変遷、そして最終的に豊臣秀吉による四国平定によって改易に至るまでの過程と、その後の晩年について深く掘り下げます。
香川之景の生涯は、応仁の乱以降の戦国乱世において、中央の権威が揺らぎ、各地で実力主義が横行する中で、地方の国人領主がいかにして自領と一族の存続を図ったかを示す貴重な事例です。彼の選択と行動を丹念に追うことは、戦国時代の複雑な権力構造、外交戦略、そして地域社会のダイナミズムを理解する上で重要な手がかりを与えてくれます。また、彼のような中規模の領主の視点から歴史を見ることで、著名な大名中心の歴史叙述では見過ごされがちな、戦国時代の多様な側面を浮き彫りにすることができます。
本報告は、まず香川之景の出自、彼が名乗った複数の名称、そして彼が属した讃岐香川氏の背景と勢力基盤について概観します。次に、彼の生涯における重要な出来事を、細川氏、三好氏、織田氏、毛利氏、長宗我部氏といった関連諸勢力との関係性の変化の中で時系列に沿って詳述します。その過程で、主要な合戦への関与や外交交渉についても触れます。最後に、豊臣秀吉による四国平定後の香川氏の終焉、之景の晩年と最期に関する諸説を検討し、彼の歴史的評価について考察を加えます。報告全体を通じて、史料に基づく客観的な記述を心がけ、必要に応じて複数の説を提示し、その妥当性について論じます。
香川之景は、大永7年(1527年)に讃岐国の武将・香川元景の子として生まれたとされています 1 。没年は慶長5年(1600年)8月と伝えられています 1 。これらの生没年については、主に香川氏の末裔と称する家系に伝わる系図に基づくものであり、確実な一次史料による裏付けが必ずしも十分でないため、生没年不詳とする見解も存在します 1 。香川氏は桓武平氏良茂流を称し、その祖は相模国香川荘(現在の神奈川県茅ヶ崎市付近)に発祥した鎌倉党の鎌倉権五郎景政の後裔とされています 1 。讃岐へは南北朝時代の貞治3年(1364年)頃、初代讃岐守護細川氏に従って香川景則が入部し、西方守護代に任じられたのが始まりとされます 6 。香川氏が関東の武士団をルーツとし、守護細川氏の被官として讃岐に入部したという経緯は、彼らが讃岐土着の国人とは異なる立場にあったことを示唆します。中央の権力(室町幕府や管領細川氏)との結びつきを背景に西讃に勢力を築いたことは、後の之景の外交戦略、特に織田信長など中央の有力者との連携を重視する姿勢に影響を与えた可能性があります。
香川之景の諱(実名)は、当初「之景(ゆきかげ)」でしたが、後に織田信長から偏諱(「信」の一字)を賜り、「信景(のぶかげ)」と改名しました 1 。この改名は天正4年(1576年)のことです 1 。通称は「五郎次郎(ごろうじろう)」といい 1 、これは香川宗家の通字であった可能性が指摘されています 13 。官途名としては「兵部大輔(ひょうぶのたいふ)」や「中務丞(なかつかさのじょう)」などが史料に見えます 1 。法名は「釈通庵(しゃくつうあん)」と伝えられています 1 。なお、一部の通俗的な文献で「元景」と記されることがありますが、これは父・香川元景との混同であり誤りです 1 。
「之景」と「信景」を別人とする説も一部には存在するものの 1 、信長からの偏諱授与という具体的な史実から、同一人物と見なすのが通説です。「五郎次郎」という通称が宗家の通字であれば、之景が香川氏の正統な後継者であったことを強く示唆します。官途名は、彼が室町幕府やそれに連なる権威から一定の地位を認められていた(あるいはそれを求めていた)ことの現れと考えられます。諱の変更は、戦国武将が新たな主君への忠誠を示し、その庇護下に入ることを内外に宣言する重要な政治的行為であり、之景の信長への接近が単なる儀礼的なものではなく、明確な戦略に基づいていたことを物語っています。
表1:香川之景 関連名称一覧
分類 |
名称 |
主な典拠・備考 |
諱(当初) |
之景(ゆきかげ) |
1 |
諱(改名後) |
信景(のぶかげ) |
1 (天正4年に改名) |
通称 |
五郎次郎(ごろうじろう) |
1 (香川宗家の通字の可能性) |
官途名(例1) |
兵部大輔(ひょうぶのたいふ) |
1 |
官途名(例2) |
中務丞(なかつかさのじょう) |
1 |
法名 |
釈通庵(しゃくつうあん) |
1 |
讃岐香川氏は、室町時代を通じて讃岐守護であった細川京兆家の被官として、讃岐国西部の多度郡、三野郡、豊田郡(後に那珂郡も加わる)を支配する守護代の家柄でした 1 。東讃の安富氏と並び、讃岐における有力な国人領主と目されていました 1 。
香川之景の父・元景は、細川京兆家の重臣として在京し、管領の政務執行を補佐する立場にありましたが、主家である細川氏の権勢が衰退し、内部抗争が頻発するようになると(永正の錯乱以降)、これを好機と捉え、讃岐本国での内政に力を注ぎ、国人領主としての自立の道を模索し始めました 1 。
守護代という役職は、本来守護の代官として領国支配を行うものでしたが、戦国時代に入り守護の権威が失墜すると、多くの守護代が守護の権力を奪い取り、自らが領国を直接支配する戦国大名や有力国人へと成長しました。香川氏もこの時代の潮流に乗り、中央の細川氏の衰退を背景に、讃岐における在地支配を強化し、独立した地域権力としての性格を強めていったと考えられます。この自立志向は、香川之景の代における周辺勢力との複雑な外交関係の根底にあると言えるでしょう。
香川氏の主要な活動拠点として、平時の居館であった本台山城(ほんだいやまじょう、現・香川県多度津町本台)と、有事の際の詰城(つめのしろ)であった天霧城(あまぎりじょう、現・香川県善通寺市・三豊市・多度津町境の天霧山頂)が挙げられます 1 。
本台山城は多度津平野に位置し、政務や日常の生活の場として機能したと考えられます。一方、天霧城は標高382メートルの天霧山山頂に築かれた大規模な山城であり、国の史跡にも指定されています 9 。正平19年・貞治3年(1364年)に香川景則によって築かれたとされ 9 、香川氏累代の重要な防衛拠点でした。その遺構からは、本丸、二の丸、三の丸、隠し砦、石塁、堀切などが確認されており、堅固な要塞であったことが窺えます 9 。
天霧城は、香川氏にとって最終防衛ラインであると同時に、その勢威を示す象徴でもありました。後に長宗我部氏が讃岐に侵攻した際にも、この城は戦略上の重要拠点として接収・利用されています 6 。本台山城(平時の居館)と天霧城(有事の詰城)という二元的な城郭体制は、戦国時代の国人領主に見られる典型的な防衛戦略です。平野部の居館で領国経営を行い、敵襲の際には険峻な山城に立て籠もって抗戦するというものです。天霧城の規模と堅固さは、香川氏が西讃地域に確固たる支配基盤を築いていたことを物語っています。また、この城が長宗我部氏による讃岐平定後も重要視されたことは、天霧城が単に香川氏の拠点であっただけでなく、西讃岐全体を俯瞰し、さらには伊予方面への進出をも視野に入れることができる戦略的要衝であったことを示唆しています。
香川之景が家督を継承したと推定される16世紀半ばは、畿内における政治情勢が大きく変動していた時期にあたります。室町幕府の権威は失墜し、管領として幕政を主導してきた細川京兆家の力も、永正の錯乱(1507年)以降、度重なる内紛や有力被官の台頭により著しく弱体化していました 1 。このような状況下で、細川氏の有力被官であった三好長慶が畿内及び四国において急速に勢力を拡大し、主家を凌ぐ実権を掌握しつつありました 1 。
讃岐の守護代であった香川氏は、伝統的に細川京兆家に仕えてきましたが、中央政権の混乱と主家の衰退は、讃岐の国人領主たちにも大きな影響を与えました。彼らは細川氏の支配から脱し、自立化の動きを強めるとともに、互いに勢力拡大を目指して争うようになります 17 。香川之景もまた、このような激動の時代に家督を相続し、一族の存続と勢力維持という困難な課題に直面することになったのです。中央権力の弱体化は、地方勢力にとっては自立の好機であると同時に、新たな強者の出現による脅威にもさらされることを意味します。之景の初期の動向は、この不安定な情勢の中で、いかにして香川氏の勢力を維持・拡大するかという課題に直面していたことを示しています。
三好氏が讃岐への影響力を強める中、香川之景は当初、これに容易には従おうとしませんでした。天文21年(1552年)、三好長慶の弟である三好実休が、細川氏に代わって讃岐国内を掌握しようと、讃岐の諸将に服属を促す書状を送りましたが、之景はこれに応じなかったとされます 1 。
この対立は、やがて軍事衝突へと発展します。永禄元年(1558年)9月 6 、あるいは永禄6年(1563年) 1 ともいわれますが、三好実休(またはその勢力)は、香西元成をはじめとする阿波や東讃の兵、約8千余りを率いて西讃に侵攻し、善通寺に陣を構え、香川氏の本拠地である天霧城に迫りました。これが「善通寺合戦」と呼ばれる戦いです。この合戦の具体的な時期については史料によって差異が見られる点に留意が必要です。
この戦いにおいて、香川之景は天霧城に籠城し、三野氏や秋山氏といった配下の国人を糾合して三好勢に抵抗しました 1 。戦いの結果については諸説ありますが、香川勢の奮戦により三好勢を撃退した、あるいは本格的な攻城戦には至らず和議が結ばれたとされています 1 。和議の結果、香川氏は所領を安堵された上で、一時的に三好氏の支配下に入ったと考えられています。しかし、一説には、この時之景は一旦天霧城から退去し、後に安芸の毛利氏の支援を得て天霧城に復帰したとも伝えられています 1 。
三好氏への対応は、之景の外交手腕と軍事的力量を示す最初の大きな試練であったと言えるでしょう。仮に一時的に従属したとしても、所領を安堵された上で和議に持ち込んだとすれば、それは彼の現実的な判断力と交渉力を示唆します。また、この時期に毛利氏との連携の可能性が浮上していたとすれば、それは後の織田信長や長宗我部元親との関係構築にも繋がる、多方面外交の一端を示しているのかもしれません。いずれにせよ、この善通寺合戦は、香川氏が讃岐における一勢力として、強大な隣国といかに対峙し、自立を模索したかを示す重要な出来事でした。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内に新たな中央政権を樹立すると、その影響力は次第に四国へも及び始めました。このような状況下で、讃岐の諸勢力も信長との関係構築を模索し始めます。
天正4年(1576年)、香川之景は東讃の有力国人である香西佳清と連携し、当時信長に服属していた三好康長(笑岩)の仲介を通じて、織田信長に接近しました 1 。之景は家臣の香川元春と三野栄久を使者として信長のもとに派遣し、名刀として知られる大原真盛作の太刀を献上して服属を願い出ました 1 。信長はこの申し出を喜び、使者を饗応するとともに、之景に対して自身の諱から一字(「信」)を与える偏諱を行い、これを受けて之景は名を「信景」と改めました 1 。
この信長への接近と改名は、讃岐国内における三好氏の残存勢力に対抗し、また当時土佐から四国統一の勢いで北上しつつあった長宗我部元親の勢力を牽制するための、香川信景(之景)による戦略的な判断であったと考えられます。偏諱の授与は、主従関係あるいはそれに準ずる緊密な同盟関係の証であり、信長政権という新たな中央権力の一翼を担う(あるいはそのように見せる)ことで、讃岐における香川氏の立場を強化する狙いがあったと推察されます。三好康長の仲介という点も、当時の四国における諸勢力の複雑な力関係を反映しています。
信長に従属しつつも、香川信景は独自の動きも見せています。天正5年(1577年)、信景は安芸の毛利氏にも接近し、毛利勢が讃岐の元吉城(現在の香川県琴平町と善通寺市の境にあったとされる城)を修築するという出来事がありました 11 。これに対して、阿波三好氏に通じる讃岐の国人衆(長尾氏、羽床氏など)が元吉城を攻撃しましたが、毛利方の援軍により三好方は敗北しました(元吉合戦)。この争いは、当時毛利氏の庇護下にあった前将軍・足利義昭の仲介によって和議が成立しています 11 。
信長に従属しながら毛利氏とも連携を図るという、一見矛盾するような外交は、当時の香川氏が置かれた厳しい状況を物語っています。織田氏の四国への影響力はまだ限定的であり、瀬戸内海を挟んで強大な勢力を保持する毛利氏との関係も無視できなかったため、両勢力との間で巧みなバランス外交を展開しようとしたものと考えられます。足利義昭の仲介という事実は、失脚したとはいえ、前将軍の権威が依然として一定の影響力を持ち得たことを示唆しており、戦国末期の複雑な政治状況を映し出しています。
土佐国を統一した長宗我部元親は、天正3年(1575年)頃から「四国は切り取り次第」という織田信長の言質を得て 18 、四国統一へと本格的に乗り出します。天正5年(1577年)には阿波の白地城を攻略し、ここを拠点として讃岐への侵攻を開始しました 18 。
当時の讃岐は、香川氏の他にも奈良氏、長尾氏、羽床氏、香西氏、十河氏、安富氏、寒川氏といった国人領主が群雄割拠しており、中でも香川氏、香西氏、十河氏が有力でした 18 。長宗我部元親は、三好氏の影響力が比較的弱いと見られた西讃の香川信景(之景)の領内から侵攻を開始します 18 。
当初、香川信景は長宗我部氏の侵攻に対して、必ずしも協力的ではありませんでした。東讃の十河存保から、長宗我部方に降った藤目城の斉藤師郷を攻撃するよう命じられた際も、信景はこれに応じませんでした 25 。さらに天正6年(1578年)秋、元親が西讃の本篠城主・財田常久を攻撃した際には、財田氏からの援軍要請を黙殺し、結果的に財田氏は滅亡しました 25 。同年冬、元親が自ら大軍を率いて藤目城を攻撃した際も、信景は援軍を送らず傍観したとされています 25 。
信景がこのような消極的な対応を取った背景には、いくつかの要因が考えられます。強大な長宗我部軍との正面衝突を避け、自勢力の温存を図ったという戦略的判断があったのかもしれません。また、三好氏や織田氏との関係で度重なる緊張状態にあり、既に疲弊していた可能性も否定できません。あるいは、長宗我部氏の勢いが本物であることを見極め、無益な抵抗よりも有利な条件での和睦を模索していたとも考えられます。
長宗我部元親は、信景に戦意がないことを見抜くと、信景の弟である香川景全(高丸城主)を通じて帰服を勧めました 25 。そして天正7年(1579年) 6 、あるいは史料によっては天正9年(1581年) 13 ともされますが、和睦の条件として、元親の次男である親和(ちかかず)を信景の娘の婿養子として迎え入れ、香川氏の家督を譲ることで合意に至りました 1 。親和は香川氏の名跡を継ぎ、香川五郎次郎と名乗りました 13 。
この養子縁組は、双方にとって戦略的な意味合いを持っていました。香川氏側にとっては、強大な長宗我部氏の軍事力を背景に家名を存続させ、西讃における一定の勢力を保持することが最大の目的でした。一方、長宗我部氏側にとっては、西讃の有力国人である香川氏を大きな戦闘を経ずに傘下に収めることで、讃岐平定を円滑に進めることができるという利点がありました。親和を送り込むことで、香川氏の領地と軍事力を実質的に掌握し、他の讃岐国人の懐柔にも利用する狙いがあったと考えられます。
この養子縁組により、香川氏は長宗我部氏の四国統一戦に組み込まれることになりました。信景は隠居したわけではなく、養子・親和の後見役として、また長年培ってきた西讃での影響力や外交手腕を活かして、長宗我部体制下で活動を続けました。具体的には、外交交渉によって香西氏や羽床氏などを長宗我部方に恭順させています 1 。天霧城は長宗我部氏の伊予侵攻の拠点となり、讃岐と東予の国人統括の意図を持って利用され、天正11年(1583年)には、讃岐平定がほぼ完成に近づいた頃、親和が天霧城に入城しています 9 。また、後の引田の戦いでは、豊臣秀吉の命により十河氏救援のために渡海してきた仙石秀久の軍を、大西氏と共に破ったとも伝えられています 1 。しかし、実質的な権力は養子の親和、ひいては長宗我部氏に移っており、香川氏の独立性は失われていたと言わざるを得ません。
表2:香川之景 関係勢力変遷図
時期(元号・西暦) |
主君/同盟勢力 |
敵対勢力 |
主要な出来事(香川氏の動向) |
主要関連史料 |
不明~永禄年間初期 |
細川氏(讃岐守護) |
(台頭する)三好氏 |
細川氏に臣従 |
1 |
永禄元年(1558)頃 |
(一時的に)三好氏に和睦・従属 |
(当初)三好実休 |
善通寺合戦後、三好氏と和睦 |
1 |
永禄年間~天正初期 |
(独立状態、毛利氏と連携の可能性) |
三好氏(継続的に対立) |
毛利氏の支援を得て独立を保つ(説あり) |
1 |
天正4年(1576) |
織田信長 |
三好氏(一部)、長宗我部氏(潜在的) |
信長に属し「信景」と改名 |
1 |
天正5年(1577) |
織田信長、毛利氏(連携) |
三好方讃岐国衆 |
元吉合戦(毛利方として参戦) |
11 |
天正7年~9年(1579~81) |
長宗我部元親(養子縁組により従属) |
(長宗我部氏に抵抗する讃岐国衆) |
長宗我部親和を養子に迎え、長宗我部体制下で活動。讃岐諸将の懐柔。 |
1 |
天正13年(1585) |
(長宗我部氏と共に改易) |
豊臣秀吉 |
四国征伐により改易、土佐へ移住 |
1 |
天正13年(1585年)、天下統一を目指す豊臣秀吉は、四国制覇をほぼ手中に収めていた長宗我部元親に対し、その領土削減を要求しました。元親がこれを拒否したため、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする大軍を四国へ派遣し、いわゆる「四国征伐」が開始されました。圧倒的な兵力差の前に長宗我部軍は各地で敗退し、元親は降伏を余儀なくされました 1 。
この四国平定の結果、長宗我部氏は土佐一国のみ安堵されることとなり、讃岐をはじめとする他の征服地は没収されました。長宗我部氏に従属していた香川信景(之景)とその養子・香川親和もまた、この決定により讃岐の所領をすべて失い、改易処分となりました 1 。これは、戦国領主としての讃岐香川氏の終焉を意味するものでした。
養子の香川親和は、四国平定後、人質として大和郡山城の羽柴秀長のもとへ送られました。天正14年(1586年)には土佐の岡豊城に帰国を許され、父・元親から幡多郡山田郷一帯に所領を与えられましたが、同年、長兄である長宗我部信親が九州の戸次川の戦いで戦死すると、豊臣秀吉は元親に対し、親和に家督を継がせるよう促しました。しかし、元親はこの提案を受け入れず、四男の長宗我部盛親を後継者とすることを決定しました。この家督相続問題の衝撃や、その他の要因が重なったためか、親和は程なく病にかかり、天正15年(1587年)に岡豊城下で死去しました。その死因については、家督相続問題による心労、あるいは父元親による毒殺説など諸説あります 13 。親和の早すぎる死は、香川氏の血脈(養子ではあるものの)を通じた将来的な再興の望みを事実上断ち切るものであったと言えるでしょう。
香川氏の改易に伴い、彼らの本拠地であり、西讃岐における重要な軍事拠点であった天霧城も廃城となりました 6 。これにより、香川氏の讃岐における支配権は完全に失われました。
香川信景(之景)は、改易後、数名の家臣と共に土佐へ移り住んだとされています。そして、かつての盟友であり、養子・親和の実父でもある長宗我部元親から、幡多郡山田郷(現在の高知県宿毛市山田など)一帯に所領を与えられ、そこで余生を送ったと伝えられています 1 。元親が、かつて香川氏の勢力圏であった讃岐を失った信景に対して、土佐国内に所領を与えたという事実は、両者の間に一定の情誼が存在したことを示唆しています。しかし、その所領規模や信景の立場は、かつて西讃岐の守護代として権勢を振るった頃とは比較にならないほど縮小したものだったと推察されます。
香川信景(之景)の没年については、慶長5年(1600年)8月とされています 1 。しかし、その最期については史料が乏しく、いくつかの説が存在し、詳細は不明です 1 。
慶長5年(1600年)8月という没年が正しければ、それは関ヶ原の戦いの直前の時期にあたります。当時の土佐国は、長宗我部氏の改易を巡って極めて不安定な情勢にあり、信景がそのような状況下でどのような最期を迎えたのか、確たる史料がないため断定は困難です。
讃岐国多度郡にある弥谷寺(いやだにじ)には、香川氏累代の墓所が存在しますが、そこに信景の墓はないとされています 1 。これは、改易によって讃岐を離れ、土佐あるいは他の地で生涯を終えたため、菩提寺である弥谷寺に葬られることがなかったことを示唆しており、彼の晩年の流転を象徴していると言えるでしょう。
香川之景には実子がおらず、養子として迎えた長宗我部元親の次男・香川親和も天正15年(1587年)に早世したため、之景の直系にあたる血筋は途絶えたと考えられています 1 。これにより、戦国領主としての讃岐香川氏の宗家は、実質的に終焉を迎えたと言えます。
しかしながら、「香川」の姓を持つ家系が完全に途絶えたわけではありません。香川氏の一族や分家はその後も存続し、江戸時代以降、武家として仕官した者、儒学者(例えば香川修徳など)や医師、兵学者として名をなした者、あるいは豪商や豪農として地域社会に貢献した人々がいたと伝えられています 1 。これらの諸系統が、香川之景あるいは讃岐香川氏と具体的にどのような血縁関係にあったのかを詳細に追跡することは、現存する史料の制約から困難な場合が多いです。
特筆すべき点として、江戸時代後期の著名な歌人である香川景樹(かがわ かげき)を輩出した香川氏は、安芸国(現在の広島県西部)を拠点とした別の香川氏の末裔であり、毛利氏に仕えた家系です。この安芸香川氏は、讃岐の香川之景の系統とは直接的な血縁関係はないとされています 1 。このように、「香川氏」と一口に言っても、その出自や系統は多岐にわたるため、混同しないよう注意が必要です。
香川之景の生涯は、中央政権の権威が揺らぎ、周辺の有力大名が絶えず勢力拡大を目指して争いを繰り広げた戦国時代という激動の時代において、地方の国人領主がいかにして自領と一族の存続を図ったかを示す典型的な事例として評価することができます。
彼は、主家であった細川氏の衰退後、讃岐に勢力を伸張してきた三好氏、次いで畿内を掌握した織田信長、そして中国地方の雄である毛利氏、さらには四国統一を目指す土佐の長宗我部元親といった、時々の有力勢力との間で、時には対立し、時には従属・同盟するという複雑な外交関係を渡り歩きました。これは、単なる日和見主義と断じるべきではなく、限られた情報と資源の中で、一族の存続という至上命題を背負い、必死に活路を見出そうとした現実的な選択の連続であったと理解すべきでしょう。
特に、織田信長から偏諱を賜り「信景」と改名したことは、新たな中央権力との結びつきを内外に示し、自らの立場を強化しようとする明確な戦略的判断でした 1 。また、長宗我部元親の次男・親和を養子に迎えたことは、強大な長宗我部氏の圧力を受けながらも、香川家の名跡を保とうとした苦渋の決断であり、同時に長宗我部氏の勢力を利用して讃岐国内での影響力を維持しようとする狙いも含まれていたと考えられます 13 。
しかし、彼の巧みな(あるいは苦心に満ちた)外交戦略も、最終的には豊臣秀吉による天下統一とそれに伴う四国平定という、より大きな時代のうねりには抗しきれませんでした。結果として香川氏は改易され、戦国領主としての命脈を絶たれることになります。
香川之景の行動は、戦国時代における多くの中小国人領主が直面した困難と、その中で発揮された生存への執念を象徴しています。彼の外交手腕や情報収集能力、そして危機的状況における決断力には評価すべき点がある一方で、時代の大きな流れには逆らえなかったという限界もまた、彼の生涯が示す歴史的教訓と言えるでしょう。
本報告では、戦国時代の讃岐西部で活動した武将、香川之景(信景)の生涯と彼が率いた香川氏の動向について、現存する史料に基づいて詳細な調査を行いました。大永7年(1527年)の生誕から慶長5年(1600年)の死に至るまで、彼の人生は中央政権の変遷と四国内の勢力争いの影響を強く受けたものでした。
まず、香川之景の出自と家系、諱「之景」から織田信長の偏諱による「信景」への改名、通称「五郎次郎」、官途名「兵部大輔」「中務丞」などを確認し、人物特定の一助としました。また、讃岐西方守護代としての香川氏の立場と、本台山城および天霧城という主要拠点の重要性を明らかにしました。
彼の生涯における画期としては、細川氏衰退後の三好氏との対立と一時的従属(善通寺合戦)、次いで中央の覇者となりつつあった織田信長への接近と「信景」への改名、さらに安芸毛利氏との連携(元吉合戦)、そして土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に対する苦渋の選択としての養子・香川親和の受け入れが挙げられます。これらの出来事は、彼が激動の時代を生き抜くために駆使した外交戦略と、その時々の政治的判断を如実に示しています。
しかし、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐は、香川氏にとって決定的な転換点となりました。長宗我部氏と共に改易され、本拠地であった天霧城も廃城となり、信景自身は土佐へ移住しました。その最期については諸説あるものの、慶長5年(1600年)に土佐で没したとする説が比較的有力視されます。
香川之景の生涯は、戦国乱世における地方国人領主の典型的な生き様を反映しています。彼は、周辺の強大な勢力の間で巧みな外交を展開し、一族の存続を図ろうとしましたが、最終的には天下統一という大きな歴史の流れの中でその勢力を失いました。彼の行動は、当時の武将たちが置かれた厳しい状況と、その中での必死の努力を物語っています。
今後の課題としては、まず第一に、香川之景および香川氏に関する未発見史料の探索と、既存史料の再検討が挙げられます。特に『西讃府志』、『南海通記』、『全讃史』、『善通寺市史』といった編纂史料の原史料の調査や、香川県立文書館、国文学研究資料館などに所蔵されている可能性のある古文書の丹念な調査が期待されます 1 。
第二に、橋詰茂氏の「長宗我部氏の天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉」 1 や、川島佳弘氏の「天正五年元吉合戦と香川氏の動向」 1 といった重要な先行研究との詳細な比較検討を通じて、香川之景像をより立体的に再構築する必要があります。
第三に、断片的な史料から、之景の個人的な資質や人間性について、より深く掘り下げる試みも重要です。伝承や逸話の信憑性を慎重に検証しつつ、彼の意思決定の背景にある動機や思想を探ることは、人物理解を深める上で不可欠です 1 。
最後に、讃岐地域全体の戦国史の中で、香川氏および香川之景が果たした役割をより明確に位置づけることが求められます。彼の動向が、周辺の国人領主や四国全体の政治情勢にどのような影響を与えたのかを明らかにすることで、戦国時代の地域史研究に貢献できると考えられます。
香川之景に関する研究は、史料の制約から依然として多くの謎を残していますが、彼の生涯を追うことは、戦国時代の四国、特に讃岐の複雑な政治状況と、そこに生きた人々の姿を理解する上で不可欠です。今後の研究の進展により、より詳細な実像が明らかになることが期待されます。
表3:香川之景 略年譜
元号・西暦 |
年齢(数え年) |
主要な出来事 |
関連人物 |
主要関連史料 |
大永7年(1527) |
1歳 |
誕生。父は香川元景。 |
香川元景 |
1 (『西讃府志』等に基づく) |
天文21年(1552) |
26歳 |
三好実休の服属要求を拒否。 |
三好実休 |
1 |
永禄元年(1558) |
32歳 |
善通寺合戦。三好勢と戦い和睦、一時従属(永禄6年説もあり 1 )。 |
三好実休 |
6 |
天正4年(1576) |
50歳 |
織田信長に属し、偏諱を受け「信景」と改名。 |
織田信長、三好笑岩(康長) |
1 |
天正5年(1577) |
51歳 |
元吉合戦。毛利氏と連携し、三好方の讃岐国衆と戦う。 |
毛利輝元、足利義昭 |
11 |
天正7年(1579)頃 |
53歳 |
長宗我部元親の次男・親和を養子に迎える(天正9年説もあり 13 )。 |
長宗我部元親、香川親和 |
1 |
天正13年(1585) |
59歳 |
豊臣秀吉の四国征伐により改易。天霧城廃城。土佐へ移る。 |
豊臣秀吉、長宗我部元親 |
1 |
天正15年(1587) |
61歳 |
養子・香川親和が岡豊城下で死去。 |
香川親和、長宗我部元親 |
13 |
慶長5年(1600)8月 |
74歳 |
死去(於土佐説が有力だが、戸次川戦死説、肥後死去説など諸説あり 1 )。 |
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1 (没年)、 1 (諸説) |