最終更新日 2025-06-27

高田憲頼

「高田憲頼」の画像

戦国期上野国衆・高田氏の総合研究 ― 憲頼・繁頼父子の実像と一族の変遷

序章:高田憲頼とは誰か ― 研究史上の錯綜と本報告書の視座

日本の戦国時代、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)にその名を刻んだ武将「高田憲頼(たかだ のりより)」に関する調査は、まず人物の特定という根本的な問いから始めなければならない。利用者の方が事前に把握されていた「山内上杉家臣で、父・遠春の討死後に家督を継ぎ、武田信玄の侵攻に抵抗するも敗北して降伏、三方ヶ原の戦いで負傷し死去した」という人物像は、一人の武将の生涯としては非常に劇的である。しかし、詳細な史料を検証すると、この経歴は実際には親子二代、あるいはそれ以上の複数人物の事績が混同されて形成されたものである可能性が極めて高い。

この人物同定の錯綜は、高田氏を研究する上での長年の課題であった。特に、天文16年(1547年)の小田井原(おだいのはら)の戦いで討死した世代と、元亀4年(1573年)に三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの傷が元で世を去った世代とを明確に区別する必要がある。この混同こそが、高田氏の実像を曖昧にしてきた最大の要因であり、本報告書ではまずこの問題を整理することから論を進める。

近年の研究では、この親子関係について主に二つの見解が提示されている。黒田基樹氏や丸島和洋氏などの研究者は、山内上杉氏の家臣であった高田憲頼を父とし、その跡を継いで武田氏に仕えた人物を次男の**高田繁頼(たかだ しげより)**とする説を採る 1 。一方で、久保田順一氏は江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』の記述を基に、「憲頼」は繁頼と同一人物であり、その父は系図上の「遠春(とおはる)」であるとする説を唱えている 1

本報告書では、各種軍記物や一次史料の記述を総合的に勘案し、小田井原で戦死した父の世代(憲頼または遠春)と、その家督を継いで激動の時代を生き、最終的に武田家臣として三方ヶ原の戦いに臨んだ子の世代(繁頼)を、別人として扱うのが最も史実に近いと判断する。したがって、利用者の方が特に関心を持つ「三方ヶ原で戦没した人物」の生涯を、 高田繁頼 を主軸として徹底的に追跡・分析する。以下の表は、本報告書で扱う高田一族の主要人物と、彼らに関する情報を整理したものである。これにより、複雑な人物関係を明確にし、以降の論考への理解を助けたい。

表1:高田一族に関する主要人物と学説の整理

人物名(通称)

推定される活動時期

主要な事績

死因・没年

研究者による異説・備考

高田 憲頼(のりより)

または遠春(とおはる)

16世紀前半~中期

上野国の国衆。山内上杉家臣として活動。武田晴信(信玄)の信濃侵攻に際し、志賀城救援のため出陣。

天文16年(1547年)8月、信濃 小田井原の戦い にて討死 2

繁頼の父。一部史料では「遠春」とされる 1

高田 繁頼(しげより)

(小次郎、大和守)

大永6年(1526年)~

元亀4年(1573年)

父と兄の死により家督相続。当初は上杉氏、後に北条氏、再び上杉氏に属す。永禄4年(1561年)に武田信玄に降伏し、その家臣となる。

元亀4年(1573年)4月5日、 三方ヶ原の戦い の戦傷が元で死去(享年48) 1

本報告書の中心人物。通称は小次郎、後に大和守を称す 1

高田 信頼(のぶより)

生年不詳~

天正16年(1588年)

繁頼の嫡男。父の死後、武田勝頼の下で家督を継ぐ。武田氏滅亡後は滝川一益、次いで後北条氏に仕える。

天正16年(1588年)に死去(享年39) 6

諱の「信」は武田氏からの偏諱(主君の諱の一字を拝領すること)と考えられる 6

この整理に基づき、本報告書は、一人の英雄の物語ではなく、父の悲劇的な死を乗り越え、大国の狭間で一族の存続をかけて戦い抜いた息子の生涯という、より深く、重層的な歴史のドラマを解き明かしていく。

第一章:上野国衆・高田氏の出自と戦国期以前の動向

高田氏の歴史を理解するためには、まず彼らが戦国時代に至るまでにどのような背景を持つ一族であったかを知る必要がある。高田氏は、戦国期に突如として現れた新興勢力ではなく、鎌倉時代にまで遡る由緒と、関東の動乱の中で在地領主としての地位を維持し続けた長い歴史を持つ「国衆(くにしゅう)」であった。

1.1 名門としての系譜

各種系図によれば、高田氏は清和源氏の中でも摂津源氏に連なる頼光流の一族であり、馬場氏の支流とされている 4 。その祖は、治承・寿永の乱において以仁王を奉じて宇治川で討死した源頼政の孫、源光円の子・源盛員(もりかず)に遡る 4 。盛員は、鎌倉幕府が成立する過程で、美濃国から上野国甘楽郡(かんらぐん)菅野荘高田郷(現在の群馬県富岡市妙義町周辺)に移り住み、その地名を姓として「高田」を称したのが始まりとされる 4 。この地は妙義山の東麓を流れる高田川流域にあり、高田氏はここに高田城を築いて本拠地とした 1

1.2 中世における動向と国衆としての性格

高田氏は、鎌倉時代から室町時代を通じて、関東における数々の争乱に関与し続けた。建暦3年(1213年)の和田合戦では、北条義時と対立した和田義盛方に味方したが、和田方が敗北したことで一族の勢力は後退を余儀なくされた 4 。南北朝の動乱期には、高田義遠という人物が新田義貞に属し、南朝方として各地を転戦した記録が残る 4 。さらに室町時代、永享12年(1440年)の結城合戦では、高田越前守が関東管領上杉氏の下で活躍した 4

これらの歴史は、高田氏が一貫して関東の在地領主、すなわち「国衆」として活動してきたことを示している。国衆とは、特定の地域に根差し、半ば独立した勢力を保ちながらも、関東管領などのより大きな権威に服属することでその地位を維持する武士団である。しかし、高田氏の歴史を俯瞰すると、和田合戦や南北朝の動乱において、結果的に中央の権力闘争における「非主流派」に与することが多かった。この歴史的経緯は、彼らが戦国時代において独立した大名へと飛躍できず、山内上杉家という大きな権威に依存し、その権威が揺らげば自らの存亡も危うくなるという、典型的な国衆の立場を形成する一因となったと考えられる。名門としての自負と、現実の勢力基盤の限界との間にあった葛藤が、戦国期における彼らの行動を理解する上で重要な鍵となる。

第二章:山内上杉家の凋落と父祖の戦死

高田繁頼が若くして家督を継ぐことになった背景には、時代の大きな二つのうねりがあった。一つは、主家である関東管領・山内上杉家の権威失墜であり、もう一つは、甲斐国から信濃、そして上野へとその勢力を急拡大させる武田信玄の台頭である。この二つの力が交錯する中で、繁頼の父・憲頼(または遠春)は悲劇的な最期を遂げた。

2.1 主家・山内上杉家の衰退と武田信玄の信濃侵攻

繁頼の父・憲頼が活動した16世紀半ば、関東の政治情勢は大きく揺らいでいた。関東管領・上杉憲政の権威は、相模国の後北条氏康による南方からの圧迫によって著しく低下していた 7 。一方、甲斐国では武田晴信(後の信玄)が父・信虎を追放して国主となり、天文10年(1541年)以降、隣国の信濃への侵攻を本格化させていた 10 。信濃の国衆たちは武田氏に抵抗し、多くは北に位置する越後の長尾氏や、東に隣接する関東管領・上杉憲政に救援を求めた。これにより、信濃、特に佐久郡や小県郡は、武田・上杉両勢力が激突する最前線と化した 12

2.2 小田井原の戦いと父子の死

この情勢下で、高田氏の運命を決定づける戦いが起こる。天文16年(1547年)、武田晴信は信濃佐久郡の志賀城を包囲した。城主の笠原清繁は上杉憲政に救援を要請し、憲政はこれに応じ、金井秀景を大将とする西上野の国衆を中心とした大軍を派遣した 3 。高田氏もこの上杉方の援軍の中核をなし、当主であった高田憲頼(または遠春)は、長男(繁頼の兄にあたる右衛門佐)と共に参陣した 1

しかし、この救援軍は同年8月、志賀城へ向かう途中の小田井原(現在の長野県佐久市)で、板垣信方らを将とする武田軍に迎撃され、壊滅的な敗北を喫する 2 。この戦いで上杉方は多数の将兵を失い、援軍に来ていた高田憲頼と長男も奮戦の末に討死した 1 。救援の望みを絶たれた志賀城もまもなく陥落し、武田氏による佐久郡の制圧は決定的なものとなった 2

この小田井原での敗戦と当主父子の戦死は、高田氏にとって存亡の危機であった。これにより、当時まだ若年であった次男の繁頼が、一族の命運を一身に背負い、家督を継承することになったのである 1 。繁頼の家督相続は、輝かしいものではなく、主家の衰退と父兄の戦死という、極めて過酷な状況下での船出であった。この経験は、その後の彼の現実的で柔軟な立ち回りの原点となったに違いない。

第三章:激動の西上野 ― 繁頼、三大大名の狭間で

父と兄を一度に失い、若くして高田家の当主となった繁頼の眼前には、混迷を極める西上野の政治情勢が広がっていた。主家・山内上杉家の権威は失墜し、南からは後北条氏、西からは武田氏がその勢力圏を広げ、北には越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が控えるという、まさに三つの大国が睨み合う「境目」の地で、繁頼は一族の存続をかけて巧みな舵取りを要求された。

3.1 後北条氏への服属(天文21年/1552年~)

小田井原の戦いから5年後の天文21年(1552年)、事態はさらに動く。関東管領・上杉憲政は後北条氏康の攻勢に耐えきれず、ついに本拠地である上野平井城を放棄し、越後の長尾景虎を頼って亡命した 8 。これにより上野国、特に西上野は事実上の領主不在状態となり、地域の国衆たちは自らの領地を安堵してもらうため、新たな実力者である後北条氏に従属する道を選んだ。高田繁頼もこの時期、他の多くの国衆と同様に、後北条氏の麾下に入ったと見られている 1 。これは主家への裏切りというよりは、領地と一族を守るための、国衆としての現実的な生存戦略であった。

3.2 上杉謙信の関東出兵と再度の帰参(永禄3年/1560年~)

後北条氏への服属から約8年後、永禄3年(1560年)、関東の情勢は再び大きく転換する。旧主・上杉憲政を奉じた長尾景虎が、関東の旧上杉方国衆からの救援要請に応え、大軍を率いて関東へ侵攻(「越山」)したのである 8 。景虎は失われた関東管領の権威を再興するという大義名分を掲げており、これに呼応して多くの関東武士がその軍門に馳せ参じた。

高田繁頼もこの時、再び上杉方に帰参する 1 。この時の上杉軍の編成を記録した貴重な史料『関東幕注文』には、上杉方に参陣した諸将の名が列挙されている。その中で繁頼は、「箕輪衆(みのわしゅう)」の一員として「

高田小次郎(たかだ こじろう) 」の名で記されている 1 。「小次郎」は繁頼の通称であり 1 、この記述は彼が単独で行動していたのではなく、西上野における反北条連合の中核であった箕輪城主・長野業正(ながの なりまさ)が率いる地域軍事同盟「箕輪衆」に組み込まれていたことを明確に示している。

この事実は、繁頼の主家の変遷を理解する上で極めて重要である。彼の行動は、個人的な判断のみならず、西上野全体の地政学的な力学と、盟主である長野業正の動向に強く規定されていた。長野氏が後北条氏と対立し、上杉方につくという方針を採ったため、その指揮下にあった高田氏もそれに追随したのである。繁頼の目まぐるしい所属の変更は、彼個人の変節と見るべきではなく、大国の狭間で生き残りを図る国衆の集合的な意思決定の結果と解釈するのが妥当であろう。

第四章:武田信玄の西上野侵攻と高田氏の降伏

上杉謙信の関東出兵により、西上野の国衆は一時的に旧主の下で結束を取り戻したかに見えた。しかし、その結束は一人の傑物の死によって、脆くも崩れ去る。そして、その好機を逃さなかったのが、虎視眈眈と上野攻略の機会を窺っていた武田信玄であった。

4.1 西上野の防波堤・長野業正の死(永禄4年/1561年)

永禄4年(1561年)、西上野の国衆を束ね、巧みな戦略で長年にわたり武田・北条両氏の侵攻を防ぎ続けてきた「上州の黄斑」の異名を持つ箕輪城主・長野業正が病没した 19 。業正の存在は、上杉謙信の権威を背景とした西上野の地域的軍事同盟の、まさに「要石」であった。彼の死は、単なる一個人の死に留まらず、西上野国衆連合の求心力が失われたことを意味した。この情報はすぐに信玄の知るところとなり、彼はこれを上野侵攻の絶好の機会と捉えた 19

4.2 武田軍の電撃侵攻と高田城の陥落(永禄4年11月)

長野業正の死から数ヶ月後、同年9月の第四次川中島の戦いを終えた信玄は、満を持して西上野への本格的な侵攻を開始する。永禄4年(1561年)11月、信玄率いる武田軍は信濃から碓氷峠を越えて上野国へと雪崩れ込んだ。

武田軍の進撃は電光石火であった。11月18日には、まず高田繁頼の居城である 高田城が攻略 される 22 。そのわずか二日後の20日には、同じ甘楽郡の有力国衆・小幡氏の本拠地である国峯城も陥落した 22 。盟主であった長野氏が若年の業盛に代替わりし、防衛体制が整わない中でのこの圧倒的な軍事力の前に、西上野の国衆は組織的な抵抗をすることができなかった。

高田繁頼も、この抗いがたい力の前に、武田氏に降伏し、その軍門に下ることを決断する 1 。彼の降伏は、個人の力量や意志の問題ではなく、地域の防衛システムそのものが崩壊したことによる、いわば不可避の結末であった。父・憲頼が武田軍の前に散ってから14年、繁頼は父の仇とも言える相手に頭を下げることで、一族の血脈を繋ぐ道を選んだのである。

第五章:武田家臣としての高田繁頼 ― 忠節と最期

武田信玄への降伏は、高田繁頼にとって独立した領主としての地位を失うことを意味した。しかし、それは彼の武将としての人生の終わりではなかった。彼は武田家の家臣団という新たな組織に組み込まれ、その中で忠節を尽くすことで自らの存在価値を示し、一族の安泰を図ろうとした。その生涯の最期は、皮肉にも武田家臣としてその責務を全うする中で訪れる。

5.1 武田家臣団への編入 ― 小幡氏の同心として

降伏後、繁頼は武田氏の家臣団に編入されるが、その地位は複雑なものであった。彼は、同じ甘楽郡の有力国衆であり、繁頼より先に武田氏に属していた国峯城主・小幡信実(後に信貞)の「同心(どうしん)」として位置づけられた 1 。同心とは、与力や配下武将を意味し、これは武田氏が新たに支配下に置いた国衆を、より信頼の厚い先方衆(せんぽうしゅう、国衆出身の家臣)の指揮下に入れることで統制を図るという、巧みな支配方法の一例であった 27

一方で、繁頼は完全な属将ではなかった。永禄10年(1567年)、武田家に従う信濃・上野の武将たちが信玄への忠誠を誓って提出した起請文(生島足島神社に奉納された、通称『下之郷起請文』)には、「 高田大和守繁頼 」として、武田家の取次役である原昌胤に単独で提出している記録が残る 1 。これは、彼が武田信玄と直接主従関係を結ぶ独立した将として認められつつも、軍事行動においては小幡氏の指揮下に入るという、二重の立場にあったことを示唆している。

5.2 各地での戦功と最期

新たな主君を得た繁頼は、武田家臣として各地の戦いに動員され、忠実に戦功を重ねていく。永禄12年(1569年)6月には、武田氏から離反した同族の小幡信尚を追討し、その功を信玄から賞賛されている 1 。同年10月、信玄が後北条氏の小田原城を攻めた際には、先鋒の一隊として参陣するなど、重要な局面で起用されていたことがわかる 1

そして元亀3年(1572年)、信玄が生涯最後の大規模作戦として開始した西上作戦に従軍。同年12月22日、遠江国で繰り広げられた 三方ヶ原の戦い において、繁頼は嫡男・信頼と共に徳川家康軍と激しく戦った 1 。この戦いで武田軍は徳川・織田連合軍に圧勝するが、繁頼は奮戦の末に深手を負ってしまう。

この時の戦傷が致命傷となった。繁頼は甲斐へ帰還した後も回復せず、翌元亀4年(1573年)4月5日、ついにこの世を去った 1 。享年48。それは、主君・武田信玄が西上作戦の途上で病に倒れ、信濃駒場で死去するわずか一週間前のことであった。繁頼の死は、降伏という苦渋の決断を経て、新たな主君の下で武将としての本分を全うした、彼の忠実な生涯を締めくくるものであった。

終章:高田氏のその後 ― 旗本への道

高田繁頼の死、そして主君・武田信玄の死は、高田一族にとって再び大きな転換点となった。しかし、一族はその後も激動の時代を巧みに乗り越え、最終的に江戸幕府の旗本として近世までその家名を繋いでいく。その軌跡は、戦国時代の国衆が、新たな統一政権の誕生という歴史の大きなうねりの中で、いかにして生き残っていったかを示す一つの典型例と言える。

6.1 繁頼の子・信頼の時代と在地領主の終焉

繁頼の死後、家督は嫡男の**高田信頼(のぶより)**が継いだ 4 。彼の名にある「信」の一字は、武田氏から拝領した偏諱と考えられ、武田家との深い関係性を物語っている 6 。信頼は父の遺領を武田勝頼に安堵され、武田家臣として仕え続けた 6

しかし、天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田氏は滅亡する。主家を失った信頼は、父・繁頼がそうであったように、時勢に応じて新たな主君を求めた。まず織田家の部将・滝川一益に、本能寺の変で一益が後北条氏に敗れると、今度は後北条氏直に属し、一族の存続を図った 4

信頼の子・**直政(なおまさ)**は、新たな主君である北条氏直から一字を拝領している 4 。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によってその後北条氏も滅亡。後北条方に味方した高田氏はついに本拠地であった上野国高田郷の所領を失い、直政は高田城を離れて信濃国へ移住した 4 。鎌倉時代以来、約400年にわたって続いた在地領主としての高田氏の歴史は、ここに一度幕を閉じたのである。

6.2 徳川旗本としての再生

所領を失い浪人となった高田直政であったが、その武名は新たな天下人となった徳川家康の知るところとなる。直政は家康に召し出され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である上田合戦や、その後の大坂の陣に従軍し、武功を挙げた 4

その働きが認められ、高田氏は江戸幕府の直臣、すなわち 旗本 として取り立てられた 4 。これにより、一族は新たな支配体制の中にその居場所を見出し、近世を通じて存続することに成功した。その系譜は、幕府が編纂した公式の系図集である『寛政重修諸家譜』にも記載されている 4

高田氏一族の物語は、戦国という時代の終焉を象徴している。土地と不可分であった「在地領主」としてのあり方は、全国統一の過程で終わりを告げた。しかし、彼らは武士としての武芸や能力を新たな支配者に認めさせることで、主君に仕える「官僚・軍人」として再生を遂げたのである。父・憲頼の戦死から、子・繁頼の降伏と忠節、そして孫以降の流転と再起に至る高田氏の歴史は、まさしく戦国から近世へと移行する日本の大きな歴史的転換点の縮図であったと言えよう。

引用文献

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