本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて伊達政宗を支えた重臣、鬼庭綱元(後に茂庭綱元、以下、本報告書では茂庭綱元で統一する場合がある)の生涯と業績、人物像について、現存する史料に基づき多角的に考察するものである。綱元は、「武の伊達成実」、「智の片倉景綱」と並び「伊達三傑」の一人に数えられ、特に「吏の綱元」としてその行政手腕が高く評価された 1 。彼の92年という長寿にわたる活動は、伊達輝宗、政宗、忠宗の三代に及び、特に政宗の治世においては、その誕生から死までを見届けた稀有な側近であった 3 。綱元の存在は、戦国末期から江戸初期という激動の時代における伊達家の動向、ひいては東北地方の政治史を理解する上で不可欠な要素である。
綱元が「吏」として評価される背景には、単に個人の資質のみならず、戦国時代から江戸時代への移行期における武士の役割の変化が深く関わっていると考えられる。武力による覇権争奪が主であった戦国期から、豊臣政権、そして江戸幕府による中央集権体制が確立される過程で、大名とその家臣には領国経営の手腕や中央政権との折衝能力がより一層求められるようになった。綱元の活躍した安土桃山時代から江戸時代初期は、まさにこの移行期に合致する。彼が行政や外交で示した能力は、新しい時代の要請に応えるものであり、伊達家がこの変革期を乗り越え、仙台藩62万石の礎を築く上で重要な貢献を果たしたと言えよう。
また、綱元の92歳という長寿は、伊達家における知識や経験の継承という点でも大きな意味を持っていた。政宗の父・輝宗の代から仕え、政宗の治世のほぼ全てを見守り、さらに次代・忠宗の治世初期まで生存したことは、藩政の安定と継続性に寄与した側面があったと推測される。激動の時代を生きた「生き字引」として、綱元が伊達家にもたらした無形の価値は計り知れない。本報告書では、これらの視点も踏まえつつ、綱元の実像に迫る。
茂庭綱元の家系である鬼庭氏(後に茂庭氏)は、その出自を平安時代末期の武将、斎藤別当実盛に求めるとされる 2 。実盛の後裔である実良が奥州へ移住し、伊達家初代当主・伊達朝宗に仕え、伊達郡茂庭村(現在の福島県福島市飯坂町茂庭)を領して鬼庭を称したのが始まりと伝えられている 2 。茂庭氏は藤原北家利仁流斎藤氏の一族とされ、家祖を斎藤実良とする 5 。以来、代々伊達氏に仕える譜代の家臣としての地位を築いていった 7 。戦国武士の家格意識や名門意識を背景として、著名な武将に家系を結びつけることは珍しくなく、斎藤実盛という『平家物語』にも登場する高名な武将を祖とすることは、伊達家中における鬼庭氏の地位を正当化し、権威を高める意図があった可能性も考えられる。
綱元は、天文18年(1549年)1月11日、奥州伊達郡の鬼庭村赤館(または小屋館)において、鬼庭良直(後の左月斎)の嫡男として誕生した 2 。幼名は左衛門と称した 2 。父・良直は、武田信玄のもとへ武者修行に出たとも伝えられる武将で、伊達輝宗の代には評定役という重職を務めた 2 。母は、伊達郡福島城主であった牧野刑部の娘である 2 。
綱元には異母姉の片倉喜多がいた。喜多は伊達政宗の乳母(実際には養育係)を務め、政宗の人格形成に大きな影響を与えたとされる 2 。喜多の母(良直の最初の妻)が離縁後に米沢の神官片倉家に再嫁し、そこで生まれたのが片倉小十郎景綱であった。したがって、綱元にとって景綱は8歳年下の義理の弟にあたる 2 。政宗の側近として活躍した喜多、綱元、景綱の三者は、このような親族関係によって固く結ばれており、単なる主従関係を超えた個人的な繋がりが、政権基盤の脆弱な時期の伊達家において、家臣団の結束や政宗の政権運営の安定に寄与した重要な要素であったと考えられる。
天正3年(1575年)、綱元は27歳で父・良直の隠居に伴い家督を相続し、長井郡川井城主(現在の山形県米沢市)として伊達輝宗に仕えることとなった。同時に、輝宗の嫡男である梵天丸(後の政宗)の近侍ともなった 2 。この時の所領は、川井村と鬼庭村を合わせて二百貫文(二千石相当)であった 2 。綱元は、まだ幼かった政宗を置賜や茂庭の山野での鷹狩りに誘うなど、異母姉の喜多を助けながら政宗の養育にも関わったと記録されている 2 。
茂庭綱元は、伊達輝宗の代から政宗の近侍となり、政宗の誕生からその死(寛永13年、1636年)までを見届け、さらに次代藩主・伊達忠宗の初期に至るまで、三代にわたって伊達家に仕えた重臣である 2 。その長きにわたる奉公の中で、綱元は特に政宗から絶大な信頼を寄せられ、伊達家の屋台骨を支える重要な役割を担った。
天正14年(1586年)、綱元は伊達政宗より奉行職(他藩における家老に相当)に任じられた 8 。慶長6年(1601年)には、仙台城の留守居役に任じられると同時に、父・鬼庭良直(左月斎)が輝宗の代に務めていた評定役にも就任した。この評定役は、当時仙台藩で設けられていた六人制の奉行職(古田重直、鈴木元信、山岡重長、津田景康、奥山兼清、大條実賴)の上位に位置し、彼らを指導・監督する立場であった 8 。政宗は綱元に対し、機密文書にのみ使用する専用の印章の使用を許可しており、これは綱元が政宗の最高機密に関与し、その代理的権限も有していた可能性を示唆する 8 。藩主の前では常に綱元が上座に座し、他の奉行衆は敷居を隔てて控えたとも伝えられており 9 、綱元が単なる行政官僚ではなく、政策立案や最終決定に近い、藩政全体を統括する立場にあったことが窺える。
綱元は、「智の片倉景綱」「武の伊達成実」と並び称される「伊達三傑」の一人として、「吏の綱元」と評された 1 。この「吏」とは、行政手腕や実務能力に長けた官僚を意味し、綱元がその方面で卓越した才能を発揮したことを示している。ある歴史家は綱元を「政宗の官房長官」と表現しており 2 、まさに政宗政権の中枢で政策の実行と藩組織の運営を担った人物であった。特に、片倉景綱が白石城主となって政宗の側を離れてからは、綱元の行政官としての存在感は一層増したとされる 3 。
綱元の活躍は内政に留まらず、外交面でも顕著であった。天正18年(1590年)、葛西大崎一揆が政宗の煽動によるものとの嫌疑がかけられた際、綱元は弁明のために京都へ派遣され、時の天下人・豊臣秀吉との折衝役という重責を担った 8 。これ以降、綱元は秀吉との重要な連絡役を務めることとなり、伊達家の外交におけるキーパーソンの一人となった。他大名との外交交渉においては、政宗に次ぐナンバー2の役割を果たしたとも言われている 11 。
文禄4年(1595年)に一時伊達家を出奔した際には、徳川家康から本多正信を介して仕官の誘いを受けたが、政宗による奉公構(他家への仕官を禁じる措置)のため実現しなかった。しかし、家康は綱元の境遇に同情し、中白鳥毛槍、虎皮の鞍覆い、紫縮緬の手綱といった武具のほか、伝馬手形や資金を贈っている 8 。この家康から贈られた中白鳥毛槍は現存し、文化財にも指定されている 4 。中央の最高権力者である秀吉や家康と直接交渉し、かつ彼らから一定の評価を得ていたことは、伊達家が中央政権との間で微妙なバランスを保ちながら生き残る上で、綱元の外交手腕がいかに重要であったかを物語っている。家康からの贈り物は、綱元個人の能力への高い評価と同時に、有力大名である伊達家への間接的な懐柔策という側面も持ち合わせていたと考えられる。
政宗からの信頼は極めて厚く、晩年には城中での駕籠の使用や、政宗不在時の政宗専用の鷹場の使用を許されるなど、破格の待遇を受けていた 3 。そして、寛永13年(1636年)に主君・政宗が70歳でその生涯を閉じると、綱元は一切の政務から退いた。その4年後、奇しくも政宗の四回忌にあたる寛永17年(1640年)5月24日、綱元は92歳で大往生を遂げた 1 。主君の祥月命日に亡くなったという事実は、単なる偶然として片付けるにはあまりにも象徴的であり、綱元の政宗への深い忠誠心と、それを周囲も認識していたことの現れと言えよう。この事実は後世の記録において、綱元の忠臣としてのイメージを決定づける劇的なエピソードとして語り継がれることとなった。
表1:鬼庭綱元(茂庭綱元)略年表
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1549年 |
天文18年 |
1歳 |
1月11日、伊達郡小屋館(赤館)にて鬼庭良直の嫡男として誕生。幼名・左衛門。 |
2 |
1568年 |
永禄11年 |
20歳 |
新田景綱の娘と結婚。 |
2 |
1569年 |
永禄12年 |
21歳 |
長男・安元が誕生。 |
2 |
1575年 |
天正3年 |
27歳 |
父・良直の隠居に伴い家督を相続。長井郡川井城主となり、伊達輝宗に仕え、政宗の近侍となる。 |
2 |
1579年 |
天正7年 |
31歳 |
二男・良綱(後の良元)が誕生。 |
2 |
1586年1月(旧暦11月) |
天正13年 |
38歳 |
人取橋の戦い。父・鬼庭良直が殿軍を務め討死。 |
2 |
1586年 |
天正14年 |
38歳 |
伊達政宗より奉行職に任ぜられる。 |
8 |
1588年 |
天正16年 |
40歳 |
安達郡百目木城主となり、5千石に加増される。 |
8 |
1590年 |
天正18年 |
42歳 |
奥州仕置により柴田郡沼辺城主となる。葛西大崎一揆の弁明のため豊臣秀吉との折衝役を務める。 |
8 |
1591年 |
天正19年 |
43歳 |
政宗の岩出山移封に伴い、磐井郡赤荻城主となる。 |
8 |
1592年 |
文禄元年 |
44歳 |
文禄の役。肥前国名護屋にて留守居役。豊臣秀吉の命により姓を「鬼庭」から「茂庭」に改める。長男・安元死去、二男・良綱(良元)を後継とする。 |
3 |
1594年 |
文禄3年 |
46歳 |
豊臣秀吉より愛妾・香の前を下賜される。 |
2 |
1595年 |
文禄4年 |
47歳 |
政宗の不興を買い、家督を良綱に譲り隠居を命じられる。伊達家を出奔。 |
8 |
1597年 |
慶長2年 |
49歳 |
赦免され伊達家に帰参。 |
8 |
1600年 |
慶長5年 |
52歳 |
関ヶ原の戦い。最上義光支援のため出陣。刈田郡湯原城を攻略。福島城攻めに参加。年末に栗原郡文字1千1百石を隠居料として与えられる。 |
8 |
1601年 |
慶長6年 |
53歳 |
仙台城留守居役、評定役に就任。 |
8 |
1602年 |
慶長7年 |
54歳 |
政宗より香の前を下げ渡され、政宗と香の前の間に生まれた津多と又四郎(亘理宗根)を養子として養育。 |
3 |
1604年 |
慶長9年 |
56歳 |
政宗の五男・伊達宗綱の後見役を命じられる。 |
4 |
1614年-1615年 |
慶長19年-元和元年 |
66-67歳 |
大坂の陣。冬の陣では伊達秀宗に属す。夏の陣には宇和島より出陣。秀宗の宇和島藩設立に良元と共に尽力。 |
4 |
1618年 |
元和4年 |
70歳 |
伊達宗綱の早世(16歳)を悼み、高野山に入り出家。了庵高吽と号す。 |
7 |
1620年頃 |
元和6年頃 |
72歳 |
高野山より帰国。政宗より宮城郡下愛子栗生に館を拝領。 |
4 |
1636年 |
寛永13年 |
88歳 |
5月24日、伊達政宗死去。綱元は政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲り、隠居領の文字に隠棲。 |
2 |
1637年 |
寛永14年 |
89歳 |
文字村に洞泉院を創建。政宗と宗綱の菩提を弔う。 |
4 |
1640年 |
寛永17年 |
92歳 |
5月24日(政宗の四回忌)、死去。洞泉院の自刻の石仏を墓石とする。 |
1 |
茂庭綱元の生涯は、戦国時代の終焉から江戸幕府による泰平の世への移行期という、日本史上稀に見る激動の時代と重なる。彼は伊達家の重臣として、数々の重要な合戦や歴史的事件に深く関与し、その都度、武将として、また行政官・外交官として伊達家のために力を尽くした。
人取橋の戦い(天正13年、1585年):父・良直の戦死と綱元の対応
伊達政宗が家督を継いで間もない頃に起こった人取橋の戦いは、綱元にとって忘れ得ぬ戦いであった。この戦いで、父である老将・鬼庭良直(左月斎)は、数に劣る伊達軍の殿(しんがり)を務め、圧倒的な兵力を有する佐竹・蘆名連合軍の猛追を一身に引き受け、主君・政宗の退路を確保するために獅子奮迅の働きを見せた末、壮絶な討死を遂げた 4。この時、良直は73歳という高齢であったと伝えられている 2。
父の死という悲劇に見舞われた綱元であったが、後にこの戦いで父を討った岩城氏の家臣・窪田十郎が伊達軍に捕らえられた際、政宗から仇討ちを促されたにもかかわらず、綱元は「戦場での殺し合いは皆主君のためであり、個人的な恨みではござりませぬ。まして降人を討つは武士の本分にあらず」と述べ、窪田を赦したという逸話は有名である。この綱元の器の大きさに感服した窪田は、自ら願い出て綱元の家臣になったとされている 3。この逸話は、綱元の人間性と武士としての矜持をよく表している。綱元自身がこの戦いでどのような具体的な役割を果たしたかについての詳細な記録は少ないものの、父の壮絶な死と、その後の仇敵に対する寛大な処置は、彼の武士としてのあり方を示す重要な出来事であった。
奥州仕置と葛西大崎一揆(天正18年、1590年):豊臣秀吉との折衝
天下統一を進める豊臣秀吉による奥州仕置は、東北地方の勢力図を大きく塗り替えるものであった。この仕置により、綱元は柴田郡沼辺城主となっている 8。しかし同年、旧葛西領・大崎領で大規模な一揆(葛西大崎一揆)が発生し、これが伊達政宗の煽動によるものであるとの嫌疑がかけられた。伊達家にとって絶体絶命の危機であったが、この時、綱元は弁明のための使者として京都へ派遣され、秀吉との直接交渉という困難な任務にあたった 4。この折衝を通じて、綱元は中央政権とのパイプを築き、後の伊達家の外交において重要な役割を担う基礎を築いた。
文禄の役(文禄元年、1592年)と改姓:名護屋での留守居役と「茂庭」姓への変更経緯
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、綱元は政宗に従い肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市)に在陣し、政宗軍の留守居役を務めた 4。この際、綱元は独自の兵站ルートを開拓し、他の多くの大名が兵糧不足に苦しむ中で、伊達軍の兵站を滞りなく維持したとされ、その実務能力の高さを示した 3。この兵站確保の成功は、綱元の「吏」としての能力が単なる内政に留まらず、軍事行動の支援という実務面でも極めて高かったことを示しており、後の関ヶ原の戦いや大坂の陣での活動の伏線とも言える。
名護屋在陣中、綱元は秀吉から姓を改めるよう命じられた。秀吉は「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」とし、「庭に草木が茂る」という意味合いから「茂庭」姓を授けたとされる 2。これにより、鬼庭氏は茂庭氏と称するようになった。
一時的出奔と伊達家への帰参(文禄4年~慶長2年、1595年~1597年)
文禄年間、綱元は秀吉から1万4千石という破格の恩賞を与えられたが、これを主君である政宗の許可を得ずに私的に受けたことが、政宗の強い不興を買った 8。結果として、文禄4年(1595年)、綱元は政宗の命により家督を二男の良綱(後の良元)に譲らされ、わずか100石の隠居料で隠居することを余儀なくされた。さらに、良綱が相続した茂庭氏の本領5千石も事実上没収に近い条件であったため、これに憤慨した綱元は伊達家を出奔するという事態に至った 8。
この出奔と帰参の経緯は、戦国末期から江戸初期における主君と家臣の関係性の複雑さ、特に中央集権化を進める豊臣政権下での有力大名とその重臣が置かれた微妙な立場を象徴している。秀吉からの恩賞が、結果的に主君政宗との亀裂を生むという皮肉な状況は、綱元の伊達家内での影響力と、政宗の警戒心の現れとも解釈できる。秀吉は有力大名の力を削ぐため、あるいは自らの影響力を浸透させるために、大名の重臣に直接恩賞を与えることがあった。政宗にとって、綱元が秀吉と直接結びつくことは、自身の家臣団統制を揺るがす可能性があり、警戒したのである。
出奔中、綱元は徳川家康から仕官の誘いを受けたが、政宗による奉公構(他家への仕官を禁じる措置)が敷かれていたため、これは実現しなかった 8。家康が綱元の能力を高く評価していたことは、この勧誘からも明らかである。最終的に綱元は慶長2年(1597年)に赦免され、伊達家に帰参した 8。これは、伊達家にとって綱元が依然として必要不可欠な人材であったことを示している。この一連の出来事は、綱元のキャリアにおける大きな転換点であり、彼の政治的立場をより複雑なものにしたと言える。
関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年):最上義光支援と福島城攻め
天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、伊達政宗は東軍に与した。綱元は、東軍方であった山形城主・最上義光が西軍方の上杉景勝の攻勢にさらされた際、その救援軍の第一陣として、留守政景の指揮下に入り出陣した 4。綱元は別働隊を率いて長井方面に進攻し、同年9月25日には刈田郡湯原城を攻略するという戦果を挙げた 4。
その後、二井宿峠を越えて高畠城へと兵を進めていたが、政宗の命令により、突如として福島表の兵力不足を補うために呼び戻された。そして10月6日、上杉家の重臣・本庄繁長が籠城する福島城攻めに参加したが、この城を攻略することはできなかった 4。
大坂の陣(慶長19年~元和元年、1614年~1615年):伊達秀宗への従軍と宇和島藩設立への関与
徳川家康と豊臣秀頼の対立が頂点に達した大坂の陣においても、綱元は伊達軍の一員として参陣した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、政宗の長男である伊達秀宗の軍勢に属した 4。
翌慶長20年(元和元年、1615年)2月、戦功により秀宗に伊予国宇和島10万石が与えられ、宇和島藩が立藩されると、綱元は嫡男の良元(当時は良綱)と共に宇和島へ赴き、新しい藩の統治機構の立ち上げに尽力した 4。これは、綱元の卓越した行政手腕と豊富な経験が、伊達本藩だけでなく、分家の経営安定にも不可欠と見なされていたことを示唆する。政宗がこの重要な任務に綱元親子を派遣したことは、彼らの能力への絶対的な信頼の証左であり、綱元が単に政宗個人の側近であるだけでなく、伊達家全体の「家老」として機能していたことを示している。
同年4月に勃発した大坂夏の陣には、綱元は宇和島城から出陣したと記録されている 4。
茂庭綱元の人物像は、史料に残された記述や数々の逸話から、多面的に浮かび上がってくる。彼は単に有能な「吏僚」であっただけでなく、人間的な魅力や深い信仰心、そして豊かな教養を兼ね備えた人物であった。
性格:温厚、篤実、忠義に厚い
綱元の性格について、ある資料では「優しくおおらかで出しゃばらない性格」と評され、「常に一歩退いて政宗達の背中を守っている頼りになる人物」であったと記されている 1。これは、彼が自己顕示欲が薄く、協調性に富み、主君や同僚を陰で支えることに徹した人物であったことを示唆している。
また、前述したように、人取橋の戦いで父・鬼庭良直を討った窪田十郎を後に赦免した逸話は、綱元の寛容さ、そして私怨を超えた武士としての高い倫理観を物語っている 3。
豊臣秀吉は綱元を「老実強記」(実直で記憶力が良い)と評したとされ 17、また別の記録では「古実にして記憶よく、面白き者なり」(古くからの慣習や先例に通じ、記憶力に優れ、興味深い人物である)と評したとも伝えられている 9。これらの評価は、綱元が誠実で知識が豊富、かつコミュニケーション能力にも長けていたことを示している。
香の前との関係と子女(政宗との落胤説を含む)
綱元の人生において、側室・香の前(お種)との関係は特筆すべき事項である。文禄3年(1594年)、綱元は豊臣秀吉からその愛妾の一人であった香の前を下賜された 2。香の前は当時18歳で、伏見に住む侍・高田次郎右衛門の娘であったという 2。一説には、これは綱元が秀吉と賭け碁をし、それに勝利した褒美であったとも伝えられている 12。
香の前は綱元の側室となり、後に津多(つた、慶月院と号す。原田甲斐宗資に嫁ぎ、伊達騒動で知られる原田甲斐宗輔の母となる)と、又四郎(後の亘理宗根。亘理家の名跡を継ぎ、佐沼亘理氏の当主となる)という二人の子供を産んだ。しかし、この津多と宗根は、実は伊達政宗と香の前の間に生まれた子供(落胤)であり、綱元が養育したという説が有力視されている 2。
この説の背景には、綱元が秀吉から下賜された香の前を、後に政宗に差し出したのではないかという推測がある 3。もし政宗の落胤説が事実であれば、綱元は主君の重大な秘密を守り、その血筋を自らの家で育てるという、極めて重く困難な役割を忠実に果たしたことになる。これは、綱元の政宗への絶対的な忠誠心と、政宗からの深い信頼関係を物語るものであり、彼が単なる家臣ではなく、主君の最も私的な領域にまで関与する特別な存在であったことを示唆している。
綱元は又四郎宗根を養子とし、自身の死後、知行1100石を香の前(史料では「種」とも記される)と宗根に分けて与えるよう政宗に依頼し、政宗もこれを了承したという記録も残っている 3。
香の前を巡る一連の出来事(秀吉からの下賜、それが一因とされる綱元の一時的出奔、政宗との関係、そして子女の出自に関する謎)は、綱元の人生における大きな試練であったと同時に、彼の忠誠心、忍耐力、そして伊達家内部の複雑な人間関係を浮き彫りにするエピソード群であると言えよう。
信仰:熱心な仏教徒、反キリシタンの立場
茂庭父子(綱元とその父・良直、あるいは綱元とその子・良元)は熱心な仏教徒であり、当時の日本において広まりつつあったキリスト教に対しては、一貫して反対の立場を取っていたとされる 7。綱元自身も仏教への信仰が篤く、それは彼の行動にも表れている。
特に、伊達政宗の五男で、綱元が後見人を務め、我が子のように可愛がっていた伊達宗綱が16歳という若さで早世した際には、綱元はその死を深く悲しみ、主君・政宗の引き止めにもかかわらず高野山(真言宗の総本山)に赴いて出家し、「了庵高吽(りょうあんこううん)」と号して3年間、宗綱の菩提を弔う日々を送った 4。
綱元の「反キリシタン」という立場は、当時の伊達領内における宗教政策や、中央の豊臣政権および江戸幕府が進めた禁教政策との関連で理解する必要がある。伊達政宗自身は、一時期キリスト教に対して寛容な姿勢を見せたり、慶長遣欧使節を派遣したりするなど、複雑な対応を見せたが、最終的には幕府の禁教政策に同調していった。このような状況下で、綱元のような藩の重臣が明確に反キリシタンの立場を表明することは、藩内の宗教的統一を促し、幕府への恭順の意を示すという政治的な意味合いも持っていた可能性がある。
趣味・教養:茶道、和歌、書など
綱元は武勇や行政手腕に優れた武将であっただけでなく、茶道、和歌、書といった分野にも通じた文化人としての一面も持っていた 2。彼の和歌三首(「初花」「江戸霞」)と漢詩一首(「夏日遊城北天神社」)が「宮城百人一首・仙台風藻」に収録されていることは、その文芸的素養の高さを示している 9。
主君である伊達政宗もまた、料理や香道、能など多岐にわたる趣味と深い教養の持ち主であったことが知られている 20。綱元が同様の文化的素養を身につけていたことは、政宗との個人的な関係を良好に保ち、主君の意図を深く理解する上で、少なからぬ役割を果たしたと考えられる。
著名な逸話:父の仇を赦免した話、長寿の秘訣「石見湯」など
綱元に関しては、その人となりを伝えるいくつかの著名な逸話が残されている。
前述の通り、人取橋の戦いで父・鬼庭良直を討った敵将・窪田十郎が後に捕虜となった際、綱元は私怨を捨てて彼を赦し、結果として窪田は綱元の家臣となった 3。この逸話は、綱元の寛大さと武士道の精神を象徴するものとして語り継がれている。
また、茂庭家が代々長寿の家系であることを知った豊臣秀吉が、綱元にその秘訣を尋ねたという話も有名である。綱元は、日頃から米の粉を湯に溶いたものを服用していると正直に答えた。これを聞いた秀吉は、その飲み物を「石見湯(いわみゆ)」(綱元の官途名である石見守に因む)と名付けて自らも愛飲するようになったと伝えられている 1。この「石見湯」の逸話は、単に長寿の秘訣という興味深い話に留まらず、綱元が中央の最高権力者である秀吉と個人的な話題でコミュニケーションを取り、影響を与えるほどの間柄であったことを示唆している。これは、彼の外交におけるソフトパワーの一端を示すものかもしれない。
さらに、綱元の誕生にまつわる伝説もある。父・良直が世継ぎとなる男子を熱望し、側室をもうけて白鳥明神に熱心に祈願したところ、綱元は酉年の酉の刻に生まれたという。このことから、綱元は白鳥明神の化身であると言われ、戦場ではその頭上に白鳥が舞っていたと伝えられている 7。
同時代人からの評価(伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康など)
茂庭綱元は、同時代を生きた主要な人物たちから高く評価されていた。
主君である伊達政宗からの信頼は絶大であり、その片腕として、あるいは「官房長官」として、藩政の枢機に深く関与した 2。
豊臣秀吉は、綱元を「老実強記」であり「古実にして記憶よく、面白き者」と評し、その人柄や茂庭家の長寿に関心を示した 9。また、綱元の周旋によって物事が円滑に進んだともされている 17。
徳川家康もまた、綱元が一時伊達家を出奔した際に仕官を勧めるなど、その能力を認めていた。実現はしなかったものの、家康は綱元の境遇に同情し、多くの品々を贈っている 8。
これらの評価は、綱元が伊達家内部だけでなく、中央の政界においても一目置かれる存在であったことを示している。
表2:茂庭綱元 関係主要人物一覧
人物名 |
綱元との関係 |
主要な関わり・逸話など |
典拠 |
家族 |
|
|
|
鬼庭良直(左月斎) |
父 |
伊達輝宗の重臣。人取橋の戦いで討死。 |
2 |
牧野刑部の娘 |
母 |
|
2 |
片倉喜多 |
異母姉 |
伊達政宗の乳母(養育係)。 |
2 |
新田景綱の娘 |
正室 |
綱元の最初の妻。安元、良元らの母。 |
2 |
香の前(お種) |
側室 |
豊臣秀吉より下賜される。津多、亘理宗根の母(実父は政宗説あり)。 |
3 |
茂庭安元 |
長男 |
早世。 |
2 |
茂庭良元(良綱、周防) |
二男 |
茂庭氏本家を相続。松山茂庭氏初代。宇和島藩設立にも関与。 |
2 |
茂庭実元 |
三男 |
文字茂庭氏初代。 |
4 |
津多(慶月院) |
養女(実父政宗説) |
原田宗資室。原田甲斐の母。 |
3 |
亘理宗根(茂庭又四郎) |
養子(実父政宗説) |
亘理重宗養子。佐沼亘理氏当主。 |
3 |
主君 |
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伊達輝宗 |
主君 |
綱元の父・良直が仕え、綱元も当初仕える。 |
2 |
伊達政宗 |
主君 |
綱元が生涯をかけて支えた主君。絶大な信頼を寄せた。 |
1 |
伊達忠宗 |
主君 |
政宗の子。綱元は忠宗の初期治世まで生存。 |
4 |
伊達三傑の同僚 |
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片倉景綱(小十郎) |
同僚、義弟 |
「智の景綱」。綱元の異母姉・喜多の異父弟。 |
1 |
伊達成実(藤五郎) |
同僚 |
「武の成実」。 |
1 |
中央の権力者 |
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豊臣秀吉 |
中央の天下人 |
綱元の姓を改めさせ、香の前を下賜。綱元を評価。 |
1 |
徳川家康 |
中央の天下人 |
綱元出奔時に仕官を勧誘。後に贈り物をした。 |
8 |
その他 |
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伊達宗綱 |
政宗五男 |
綱元が後見人を務めたが16歳で早世。綱元は深く悲しんだ。 |
4 |
茂庭綱元の晩年は、主君伊達政宗への変わらぬ忠誠と、仏道への深い帰依によって彩られていた。その死後も、彼が遺した足跡は、子孫や史料、そして史跡を通じて今日に伝えられている。
政宗五男・宗綱の後見と、その早逝に伴う高野山入山
慶長9年(1604年)、綱元は伊達政宗の五男である伊達宗綱が栗原郡岩ヶ崎城主(三万石)となると、仙台藩の評定役という重職にありながら、宗綱の後見役を命じられた 4。綱元は宗綱を大変可愛がり、将来立派な武将に育て上げることを心から願っていたと伝えられている 7。しかし、その願いも虚しく、元和4年(1618年)、宗綱はわずか16歳でこの世を去った。
愛息同然であった宗綱の早世は、綱元に計り知れない悲しみをもたらした。彼は主君・政宗の引き止めにもかかわらず、高野山(真言宗の総本山)に赴いて出家し、「了庵高吽(りょうあんこううん)」と号した。そして、3年間もの間、高野山に留まり、宗綱の菩提を弔う日々を送ったのである 4。
政宗逝去後の隠棲と洞泉院の建立
高野山から戻った後も綱元は政宗に仕え続けたが、寛永13年(1636年)5月24日、伊達政宗が70年の生涯を閉じると、綱元は一切の政務から退いた。そして、かつて政宗から拝領した宮城郡下愛子栗生の館を政宗の娘・五郎八姫に譲り、自らは隠居領である栗原郡文字村(現在の宮城県栗原市栗駒文字)に隠棲した 2。
翌寛永14年(1637年)、綱元は隠棲の地に洞泉院を創建した。そして、その境内に、亡き主君・政宗のための阿弥陀堂と、早逝した宗綱のための妙覚堂を建立し、二人の冥福を祈る余生を送った 2。
最期と墓所(自ら刻んだ石仏)
政宗の四回忌にあたる寛永17年(1640年)5月24日、茂庭綱元は92歳でその長い生涯を閉じた 1。奇しくも主君と同じ祥月命日であった。
綱元の墓所は、自らが建立した宮城県栗原市の洞泉院にある。特筆すべきは、その墓石が、綱元自身の手によって彫られたと伝えられる石仏であることだ 2。この石仏は、座禅を組み両手を合わせた姿で南を向いており、高さは2.5メートルほどもあるという 22。武将が自ら墓石を彫るという行為は極めて稀であり、これは綱元の深い信仰心と、自らの死生観を投影した、極めて個人的かつ精神的な営みであったと言える。単なる墓標ではなく、彼の人生の集大成、あるいは政宗や宗綱への追悼の念を形にしたものとしての意味合いを持っていた可能性がある。
綱元の墓石像の後ろには、殉死が禁じられていたにもかかわらず綱元の後を追って殉死した家臣・土屋孫右衛門の墓があり、その横には綱元の墓守を務めた遊佐道海の墓が並んでいる。興味深いことに、この遊佐道海の命日もまた5月24日であったと伝えられている 7。
子孫:茂庭氏本家(松山茂庭氏)と文字茂庭氏の系譜と主要人物(茂庭良元(周防)など)、伊達騒動との関わり、明治維新までの動向
茂庭綱元の子孫は、伊達家臣として存続した。
関連史料:『綱元君記録』、『茂庭家記録』などの内容と意義
茂庭綱元の生涯や茂庭家の歴史を知る上で、『綱元君記録』や『茂庭家記録』といった史料は極めて重要である 2。これらは茂庭家に伝来した家史であり、綱元の生誕、結婚、一時的出奔と帰参の経緯、豊臣秀吉との逸話(香の前の下賜や「石見湯」の話など)、そして晩年の様子などが詳細に記されている 2。例えば、秀吉が綱元を「老実強記」と評したという記述もこれらの記録に見られる 17。
このような家史の編纂は、単に過去の出来事を記録として保存するだけでなく、家の由緒や当主の功績を後世に正確に伝え、家格を維持・向上させるという明確な意図を持って行われた。綱元に関する詳細な記述は、茂庭家にとって彼がいかに重要な人物であり、家の繁栄の礎を築いた存在として認識されていたかを物語っている。その功績を強調することで、茂庭家の伊達藩内における地位を確固たるものにする狙いがあったと考えられる。
関連文化財・史跡:茂庭家霊屋(石雲寺)、洞泉院など
茂庭綱元とその一族に関連する文化財や史跡は、宮城県内にいくつか現存している。
茂庭綱元は、伊達政宗の治世を初期から晩期に至るまで、実に半世紀以上にわたって支え続けた、まさに「仙台藩の官房長官」とも言うべき重臣であった。彼の功績は、戦場における華々しい武勇や奇抜な知略といったものよりも、むしろ地道な行政手腕、粘り強い外交交渉、そして何よりも主君・伊達政宗への揺るぎない忠誠心に集約されると言えよう。
戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本史における大きな転換期において、綱元は伊達家の安定と発展に不可欠な役割を果たした。彼の92年という長い生涯は、伊達家の歴史そのものと深く結びついており、その存在なくして仙台藩初期の姿を詳細に語ることは困難である。綱元の生涯は、戦国武将が近世的な「官僚」へと変容していく過渡期の典型例として捉えることができる。彼が示した多岐にわたる能力(行政、外交、兵站管理、さらには主君の個人的な問題への対応)は、新しい時代が求める武士像を体現していたと言えるだろう。
「吏の綱元」としての評価は、現代社会においても、組織運営や危機管理における補佐役の重要性、そして専門的能力に裏打ちされた実務家の価値を示唆するものである。綱元に関する記録や逸話の多くが、彼の「人間性」(父の仇を赦す寛容さなど)や「忠誠心」(主君と同じ祥月命日に没するなど)を強調する形で残されていることは注目に値する。これは、彼が単なる有能な実務家としてだけでなく、道徳的にも優れた理想的な家臣として記憶され、後世にその姿が伝えられようとした伊達家や茂庭家の意図を反映している可能性がある。特に『綱元君記録』のような家史は、先祖の顕彰を目的の一つとするため、肯定的な側面が強調される傾向があることを考慮し、綱元の歴史的評価は、これらの記録の性質も踏まえた上で、多角的に検討していく必要がある。
茂庭綱元という人物を通じて、我々は戦国から江戸初期にかけての武士の生き様、主従関係のあり方、そして近世国家の形成過程における地方大名の重臣の役割について、より深い理解を得ることができるのである。