慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが日本の運命を決定づける中、その激しい動乱の余波は遠く北の地、陸奥国遠野にまで及んでいた。この地で、一人の武将が歴史の表舞台に躍り出る。その名は鱒沢左馬助広勝。主君の不在を好機と捉えた彼の謀叛は、鎌倉時代から四百年以上にわたり遠野を支配してきた名門・阿曾沼氏の歴史に突如として終止符を打ち、この地域の勢力図を根底から覆す激震の引き金となった。
一般に、鱒沢広勝は主家を裏切った反逆者として、その生涯を簡潔に語られることが多い。しかし、彼の行動は単なる個人的な野心の発露だったのであろうか。それとも、戦国乱世の終焉という、より大きな時代のうねりの中で、自らの一族の生き残りを賭けて下した、必然の選択だったのであろうか。
本報告書は、歴史の記録に「反逆者」として名を刻まれた鱒沢広勝という人物の生涯を、多角的な視点から再検証することを目的とする。彼の出自と主家・阿曾沼氏との長年にわたる確執、天下の動乱を背景とした謀叛の真相、その背後で糸を引いた大国の思惑、そして彼と彼の一族が辿った悲劇的な末路までを丹念に追跡する。これにより、戦国末期の地方豪族が直面した過酷な現実と、権力闘争の背後にある非情な論理を浮き彫りにし、鱒沢広勝という一人の武将の実像に迫るものである。
鱒沢広勝の謀叛という劇的な事件を理解するためには、まずその舞台となった遠野における、阿曾沼氏と鱒沢氏という二つの一族が織りなしてきた、長年にわたる複雑な関係性を解き明かす必要がある。本家と分家、支配者と被支配者という関係の中に、既に動乱の種は蒔かれていた。
遠野を支配した阿曾沼氏は、その祖を鎮守府将軍・藤原秀郷に持つ、由緒ある一族である 1 。下野国安蘇郡阿曾沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼)を本貫とし、文治五年(1189年)、源頼朝による奥州合戦において、初代・阿曾沼広綱が戦功を挙げた。その恩賞として、奥州藤原氏の旧領であった遠野十二郷の地頭職を与えられたことが、阿曾沼氏による遠野支配の始まりであった 1 。
当初、一族は遠野盆地の北西に位置する横田城(現在の遠野市松崎町)を本拠地としていた。しかし、この地は猿ヶ石川の氾濫による水害に度々見舞われたため、戦国時代の天正年間(1573年~1592年)に、第十三代当主である阿曾沼広郷が、より堅固な遠野盆地南方の鍋倉山に新たな城を築いた 6 。この城もまた旧名を引き継いで横田城、あるいは新横田城と呼ばれたが、後に鍋倉城として知られるようになる 6 。鍋倉城は、広大な曲輪、土塁、空堀といった遺構が今日まで良好に残り、岩手県内でも屈指の規模を誇る中世山城であったことが確認されている 8 。
阿曾沼氏の権勢が頂点に達したのは、この広郷の時代であった。広郷は武勇に優れた傑物と評され、遠野という奥州の僻遠の地にありながら、中央の情勢にも敏感であった。天正七年(1579年)には、当時天下人であった織田信長に白鷹を献上したことが『信長公記』にも記されており、その政治感覚の鋭さがうかがえる 1 。
一方で、阿曾沼氏の支配体制下には、常に緊張の火種が存在した。それが庶流である鱒沢氏の存在である。鱒沢氏は、十五世紀後半、阿曾沼光綱の次男・守綱が、遠野郷の一部である鱒沢村と小友村半分を分与され、この地に館を構えて分家したことに始まる 9 。
その本拠地である鱒沢館(別名・上町館)は、現在の遠野市宮守町、長泉寺の裏山に築かれた山城である 11 。山の斜面を階段状に削平して七、八段もの平坦地を造成し、その周囲を巨大な空堀で囲むという、極めて防御を意識した堅固な縄張りであった 11 。この城の構造自体が、鱒沢氏の強い自衛意識と独立志向を物語っている。
諸史料において、鱒沢氏は「独立色が強く、本家に対ししばしば反抗的であった」と記されており 9 、広勝の代に至る以前から、本家である阿曾沼氏との間には根深い対立と確執が存在したことが示唆される。阿曾沼氏の支配下にある一家臣という立場に安住せず、常に独自の勢力拡大を窺う存在であった。
戦国末期、阿曾沼氏の運命を大きく左右する転機が訪れる。天正十八年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、全国の大名に小田原征伐への参陣を命じた。しかし、阿曾沼広郷はこの命令に従わず、参陣しなかった 1 。結果として、阿曾沼氏は改易こそ免れたものの、鎌倉以来の独立大名としての地位を失い、北の雄・南部氏の「与力」、すなわち配下の武将という立場に甘んじることとなった 9 。
後世の視点から見れば、これは天下の形勢を見誤った致命的な失策であった。しかし、当時の広郷が置かれた状況は、決して単純なものではなかった。彼が本拠地である遠野を離れることができなかった背景には、他ならぬ鱒沢氏の存在があった。諸記録は、広郷が「留守中の鱒沢氏の動向に不安があり、参陣したくても領国を空けられなかった」と伝えている 1 。
この事実は、鱒沢広勝の謀叛が、一個人の野心から突発的に生じたものではないことを示している。阿曾沼氏の支配体制は、強力な軍事拠点を持ち、反抗的な意志を持つ庶流・鱒沢氏という「構造的な脆弱性」を内部に抱えていた。この内部対立こそが、小田原参陣という国家的な義務の遂行を不可能にし、結果として阿曾沼氏の政治的地位を決定的に低下させたのである。つまり、広勝が謀叛の刃を抜く以前から、鱒沢氏の存在そのものが阿曾沼氏の命運を左右するアキレス腱となっており、この長年の確執こそが、やがて南部氏による介入を許す最大の隙を生み出すことになったのである。
阿曾沼氏が内憂を抱え、その地位を低下させる一方で、彼らを与力として組み込んだ南部氏は、虎視眈々と遠野併合の機会を窺っていた。慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いという天下の動乱は、南部氏にとって、そして鱒沢広勝にとって、千載一遇の好機をもたらした。
この章で展開される複雑な人間関係を理解するため、まず主要な登場人物を以下に整理する。
氏名 |
所属・役職 |
役割 |
鱒沢 広勝 |
阿曾沼氏家臣、鱒沢館主 |
南部氏と結託し、主君・広長に謀叛を起こす。 |
阿曾沼 広長 |
遠野領主、鍋倉城主 |
鱒沢広勝に城を追われ、伊達氏の支援を得て奪還を図る。 |
南部 利直 |
南部氏当主、盛岡藩初代藩主 |
遠野併合を企図し、広勝の謀叛を背後で操る。 |
伊達 政宗 |
仙台藩初代藩主 |
南部氏に対抗し、追放された阿曾沼広長を支援する。 |
上野 広吉 |
阿曾沼氏家臣、鍋倉城留守居 |
広勝に同調し、城の乗っ取りに協力した。 |
平清水 平右衛門 |
阿曾沼氏家臣、鍋倉城留守居 |
広勝に同調し、城の乗っ取りに協力した。 |
鱒沢 忠右衛門 |
鱒沢広勝の子 |
父の死後、南部氏に仕えるが、後に粛清される。 |
世田米 広久 |
気仙郡世田米城主 |
阿曾沼広長の舅。追放された広長を匿い、支援する。 |
慶長五年(1600年)、関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が対峙する中、東北地方でもそれに連動した戦いが勃発した。西軍方の上杉景勝が、東軍方の最上義光が治める出羽国(現在の山形県)に侵攻した「慶長出羽合戦」である 1 。
この戦いにおいて、南部氏は東軍・徳川方に与した。そして、その与力である阿曾沼氏の当主・広長(広郷の子)に対し、最上氏を救援するため、軍勢を率いて出羽へ出陣するよう命じた 9 。主君である南部氏の命令は絶対であり、広長はこれに従い、遠野の主だった兵力を率いて山形へと向かった。これにより、遠野の政治的・軍事的中心である鍋倉城は、城主と主力部隊を欠く、事実上の権力空白状態に陥ったのである。
この権力の空白は、偶然の産物ではなかった。南部氏にとって、与力とはいえ遠野に半独立的な勢力を保つ阿曾沼氏は、領土拡大と支配体制強化の途上にある障害であった。阿曾沼氏を完全に排除し、戦略的要衝である遠野を直轄領とすることは、南部氏の長年の悲願であったと考えられる 2 。
その野望を実現するための駒として、鱒沢広勝はまさにうってつけの存在であった。広勝は父祖の代からの本家への反抗心に加え、自らの領土拡大という強い野心を抱いており、以前から南部氏の当主・南部信直と密かに通じていたとされる 10 。南部氏の「阿曾沼氏排除」という戦略と、広勝の「主家打倒と領地獲得」という野心は、ここで完全に利害が一致した。
この両者の密約をより強固なものとして裏付けるのが、広勝と南部氏との姻戚関係である。一説には、広勝は南部利直(信直の子)の妹を妻としていたとされ、これが事実であれば、この謀叛は南部氏が公認、あるいは主導した、極めて計画的なものであった可能性が高い 9 。ただし、利直の養女を娶ったのは広勝の子である忠右衛門であったという異説も存在しており、いずれにせよ両家が深い関係にあったことは確かである 9 。
さらに、広勝の計画は周到であった。彼は、主君・広長が不在の鍋倉城で留守居役を務めていた重臣、上野広吉と平清水平右衛門を味方に引き入れることに成功する 9 。これにより、外部からの攻撃ではなく、内部からの手引きによる、より確実な城の乗っ取りが可能となった。
全ての準備は整った。主君・阿曾沼広長が遠く出羽の戦線にあることを確認した広勝は、共謀者たちとともに行動を開始した。内部に強力な協力者がいたため、堅城であるはずの鍋倉城はほとんど抵抗を受けることなく、広勝らの手に落ちた 9 。
やがて出羽での戦役を終えた広長が遠野への帰途についたとき、彼を待っていたのは衝撃的な報せであった。自らの居城は家臣に奪われ、もはや帰るべき場所はなかった。遠野に入ることすら叶わず、広長は故郷から追放される身となったのである 1 。この瞬間、鎌倉時代から四百年以上にわたって続いた阿曾沼氏による遠野支配は、事実上の終焉を迎えた。
この一連の出来事は、南部氏が仕組んだ巧妙な権力奪取のシナリオであったと見ることができる。南部氏は、阿曾沼氏が抱える内部対立という弱点を正確に見抜き、それを最大限に利用した。まず、関ヶ原の動乱という天下の大義名分のもと、阿曾沼広長を合法的かつ自然な形で遠野から引き離した。そして、自らが作り出したその権力空白を狙い、かねてより手懐けていた「内部の駒」である鱒沢広勝に謀叛を実行させ、阿曾沼体制を内側から崩壊させたのである。この手法により、南部氏は直接的な軍事侵攻というリスクを冒すことなく、また戦後の徳川幕府からの咎めを受ける可能性を最小限に抑えながら、遠野の支配権を事実上掌握することに成功した。広勝は、この壮大な謀略の主役であると同時に、南部氏の野望を実現するための、最も重要な道具であったと言えよう。
鍋倉城を掌握し、遠野の新たな支配者となったかに見えた鱒沢広勝。しかし、彼の野望の成就は、決して平坦な道のりではなかった。城を追われた旧主・阿曾沼広長は、屈辱に甘んじることなく、即座に逆襲に転じた。遠野の支配権を巡る争いは、新たな局面を迎える。
本拠地を失った阿曾沼広長が頼ったのは、妻の実家であった。彼は隣接する気仙郡の世田米城(現在の岩手県住田町)に逃れ、城主であった舅の阿曾沼(世田米)広久に庇護を求めた 13 。
この広長の逃避行が、事態をより複雑化させる。当時、気仙郡一帯は、奥州の独眼竜・伊達政宗の勢力圏にあった 15 。南部氏の長年のライバルである政宗にとって、南部氏が遠野を併合し、自らの領地に隣接する形で勢力を拡大することは、決して看過できる事態ではなかった。彼はこの状況を、南部氏への牽制と勢力争いを有利に進める好機と捉え、失意の広長に支援の手を差し伸べた。伊達氏は広長に兵を貸し与え、遠野奪還を後押ししたのである 9 。
これにより、遠野を巡る争いは、単なる「阿曾沼氏の内訌」という枠組みを完全に超え、北奥州の二大勢力である「南部氏 対 伊達氏」の代理戦争という様相を色濃く呈していくことになった。広長は伊達氏の支援と気仙郡の諸勢力を結集し、故郷・遠野を奪還するための逆襲軍を組織した。
慶長六年(1601年)、広長率いる奪還軍は、ついに遠野への侵攻を開始した。迎え撃つ鱒沢広勝との間で、決戦の火蓋が切られた場所は「平田」であったと記録されている 9 。この地は、気仙方面から遠野盆地へ至る経路上にあり、侵攻を阻止するための重要な防衛拠点であったと考えられる。
広勝は、敵の来攻を城で待ち受けるという消極策は取らなかった。彼は自ら軍を率いて出陣し、機先を制して平田館に攻めかかった 9 。これは、敵の戦力が完全に整う前に叩くという、戦術的には理に適った積極的な判断であった。
しかし、この戦いは広勝の予想を上回る激戦となった。伊達の支援を受けた広長軍の抵抗は激しく、平田館を巡る攻防は熾烈を極めた。そして、この戦いの最中、謀叛の首謀者であった鱒沢左馬助広勝は、奮戦の末に討ち取られ、その波乱に満ちた生涯に幕を下ろした 9 。主家を簒奪し、遠野の支配者となるという目的の完全な達成を目前にしながら、彼は戦場の露と消えたのである。
謀叛の首謀者・広勝を討ち取ったことで、阿曾沼広長の復権は目前かと思われた。しかし、現実は非情であった。広長はその後も二度にわたり、合計三度にわたって遠野への侵攻を試みたが、そのいずれもが失敗に終わった 10 。
この事実は、広長が対峙していた敵が、もはや広勝個人や鱒沢氏の残党だけではなかったことを雄弁に物語っている。広勝亡き後も、遠野の防衛体制は揺らがなかった。その背後には、遠野の実効支配を維持しようとする南部氏の強力な支援と軍事介入があったことは間違いない。平田の戦いは、単なる城の攻防戦ではなく、南部・伊達という二大勢力の威信と思惑が激しく衝突した、東北地方の覇権争いの縮図であった。広長の勝利は局地的な戦術的成功に過ぎず、遠野全体の支配権を覆すという戦略的な目標を達成するには至らなかった。
最終的に、関ヶ原の戦いで東軍に味方した南部氏の功績が徳川幕府に正式に認められ、遠野は名実ともに南部領として安堵された 10 。これにより、広長の奪還の夢は完全に潰えた。彼は失意のうちに伊達領でその生涯を終えたとされ、ここに阿曾沼氏の嫡流は歴史の舞台から姿を消した 2 。広勝も広長も、結局は自らの意志を超えた大国の掌の上で踊らされた駒であったという側面が、この結末から鮮明に浮かび上がってくる。
平田の戦いで鱒沢広勝が討死し、阿曾沼広長の奪還作戦が最終的に失敗に終わったことで、遠野を巡る動乱は一つの区切りを迎えた。しかし、それは新たな支配体制が確立されるまでの、束の間の静寂に過ぎなかった。政変の主役たちが舞台から去った後、彼らの一族は、権力闘争の非情な論理によって、さらなる悲劇的な運命を辿ることになる。
父・広勝の死後、その子の忠右衛門(広純、広恒とも伝わる)が鱒沢氏の家督を継いだ。南部氏にとって、広勝は遠野併合の功労者である。そのため、忠右衛門は南部氏の正式な家臣として遠野の所領を安堵され、その地位を認められた 9 。さらに、南部利直の養女を妻として迎え入れるなど、当初は破格の厚遇を受けていた 10 。これは、阿曾沼氏の旧臣や領民を懐柔し、遠野支配を安定させるための、南部氏による巧みな政治的配慮であった。忠右衛門にとって、それは父の野望が結実した栄華の時代の幕開けに見えたかもしれない。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。南部氏による遠野の支配体制が盤石になるにつれて、鱒沢氏の存在そのものが、新たな支配者にとって次第に厄介なものへと変わっていった。かつて主君を裏切ったという事実は、彼らが再び裏切る可能性を常に示唆していた。また、独立志向の強い鱒沢氏が、遠野の地に勢力を保ち続けることは、南部氏の直接支配を確立する上での潜在的な脅威であった。
やがて、忠右衛門に「謀反の疑い」がかけられる 9 。この嫌疑が事実であったか否かは、もはや重要ではなかった。それは、用済みとなった功臣を排除するための、最も都合の良い口実であった可能性が高い。忠右衛門は弁明の機会も与えられず、切腹を命じられた。そして、ここに鱒沢一族は歴史上から完全にその姿を消し、滅亡したのである 9 。彼らが代々本拠地としてきた堅固な鱒沢館も、主を失い廃城となった 9 。
鱒沢氏の滅亡は、まさに「兎死して狗烹らる(としくほう)」ということわざを地で行く結末であった。南部氏は、阿曾沼氏排除という目的を達成するために鱒沢氏という「猟犬」を利用したが、目的が達成され、もはやその犬が不要、あるいは危険と見なされるや、容赦なくこれを葬り去った。鱒沢氏は、自らの野心のために主家を滅ぼしたが、その結果、自らもまた、より大きな権力によって使い捨てられるという皮肉な運命を辿ったのである。
こうして、遠野を巡って争った阿曾沼氏と鱒沢氏は、共に歴史の闇に消えた。阿曾沼広長は遠野の地に復帰することなく世を去り、鎌倉時代から四百年にわたって続いた遠野阿曾沼氏の嫡流は完全に断絶した 2 。
領内の全ての抵抗勢力が一掃された後の遠野には、寛永四年(1627年)、南部利直の正式な命令により、新たな支配者が送り込まれた。南部一門の中でも、三戸の本家と並ぶほどの格式と勢力を誇った八戸(根城)南部氏の当主・八戸直義(後の南部直栄)が、一万二千五百石をもって入部したのである 6 。
これ以降、遠野は明治維新に至るまで「遠野南部氏」の城下町として、新たな歴史を歩み始める。鱒沢広勝の謀叛は、彼自身と彼の一族に滅亡をもたらしたが、結果として遠野の中世を終わらせ、近世という新たな時代の扉を開く、歴史的な画期となったのである。
鱒沢広勝の生涯を振り返るとき、彼を単に「主君を裏切った反逆者」という一面的な評価で断じることは、歴史の複雑さを見過ごすことになる。彼は、本家から冷遇され、常に圧迫を受けてきた庶流の当主として、自らの一族の生き残りと発展を賭け、戦国乱世の終焉という時代の激動期に、乾坤一擲の大勝負を打った野心家であった。彼の行動は、弱者が強者に成り代わろうとする、戦国時代ならではの下剋上の精神の発露であったとも言える。
しかし、その行動の背後には、常に南部氏という巨大な権力の影がちらついていた。広勝は自らの意志で行動し、遠野の支配者になろうとしたと信じていたかもしれない。だが、より大きな視点で見れば、彼の野心は南部氏によって巧みに利用され、彼は遠野の勢力図を塗り替えるための最も効果的な「駒」として動かされていたに過ぎない。そして、その駒としての役割を終えた時、彼の一族は盤上から無慈悲に取り除かれた。彼の生涯は、大国の思惑に翻弄された地方豪族の悲劇を象徴している。
広勝の個人的な意図が何であったにせよ、彼の起こした謀叛が、遠野四百年の歴史を根底から動かし、新たな時代を到来させる直接的な触媒となったことは、疑いようのない歴史的な事実である。彼の野望と挫折、そして一族の滅亡という物語は、戦国という時代の終わりに生きた一人の地方武将の栄光と悲惨を、我々に余すところなく伝えている。
本報告書で述べた一連の出来事を、時系列で以下にまとめる。
西暦 |
和暦 |
主な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1590年 |
天正18年 |
阿曾沼広郷、小田原征伐に不参。豊臣政権下で南部氏の与力となる。 |
阿曾沼広郷、南部信直 |
9 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原合戦勃発。阿曾沼広長、南部氏の命で慶長出羽合戦に出陣。 |
阿曾沼広長、南部利直 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
広長の留守中、鱒沢広勝が上野広吉らと謀叛を起こし鍋倉城を占拠。 |
鱒沢広勝、上野広吉 |
9 |
1600年 |
慶長5年 |
阿曾沼広長、遠野を追われ、気仙郡の世田米城へ逃れる。 |
阿曾沼広長、世田米広久 |
13 |
1601年 |
慶長6年 |
広長、伊達政宗の支援を得て遠野奪還を図る。平田の戦いが勃発。 |
阿曾沼広長、伊達政宗 |
9 |
1601年 |
慶長6年 |
平田の戦いで、先陣を切った鱒沢広勝が討死する。 |
鱒沢広勝 |
9 |
1601年以降 |
慶長6年以降 |
阿曾沼広長の奪還作戦は三度に及ぶも失敗。遠野は南部領として確定。 |
阿曾沼広長、南部利直 |
10 |
時期不明 |
慶長年間 |
鱒沢忠右衛門、父の跡を継ぐも、後に謀反の疑いで南部利直に誅殺される。鱒沢氏滅亡。 |
鱒沢忠右衛門、南部利直 |
9 |
1627年 |
寛永4年 |
八戸(根城)南部直義が遠野に入部。遠野南部氏による統治が始まる。 |
八戸直義 |
6 |