最終更新日 2025-05-26

仙桃院

仙桃院

日本の戦国時代における仙桃院(長尾政景正室)に関する調査報告

序章:仙桃院とは

本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた女性、仙桃院(せんとういん)について、現存する史料に基づき、その生涯と人物像、そして歴史における役割を明らかにすることを目的とする。仙桃院は、通称を綾御前(あやごぜん)とも伝えられ、越後の戦国大名である長尾氏に生まれ、のちに「越後の龍」と称される上杉謙信の姉として、また坂戸城主長尾政景の正室、そして米沢藩初代藩主上杉景勝の母として、上杉家の歴史に深く、そして複雑に関わった人物である 1 。彼女の人生は、夫との死別、実子と娘婿との間の家督争い(御館の乱)、そして主家の移封といった戦国時代特有の激動の中にあり、その中で彼女がどのように生き、どのような役割を果たしたのかを検証する。

本報告では、まず仙桃院の出自と名称に関する諸説を整理し、次に長尾政景との婚姻と子女について述べる。続いて、夫の死、御館の乱、上杉家の移封といった彼女の人生における重要な局面を追い、最後に彼女の功績と後世への影響、そして歴史的評価について考察する。

第一章:仙桃院の出自と名称

仙桃院の生涯を理解する上で、まずその出自と、複数の呼称が存在する名称について整理する必要がある。

1.1. 生誕と実名

仙桃院の生誕年については、大永4年(1524年)とする説と、享禄元年(1528年)とする説の二つが伝えられている 1 。いずれの説も確たる一次史料に拠るものではなく、彼女の正確な生年は特定されていないのが現状である。

実名については、「綾(あや)」と伝えられることが多い 1 。この名は、後世の編纂物や軍記物語などを通じて広まったものであり、当時の史料で彼女自身が「綾」と署名した書状などが確認されているわけではない点に留意が必要である。

1.2. 院号:「仙桃院」と「仙洞院」 – 史料に基づく表記の検討

仙桃院の呼称として一般的に知られる「仙桃院」という表記は、主に江戸時代に成立した軍記物である『北越軍談』に見られるものである 1 。しかし、『北越軍談』は史料的価値が高いとは言えず、その記述を鵜呑みにすることはできない。

より信頼性の高い史料からは、異なる院号が確認される。山形県米沢市に現存する常慶院所蔵の、仙桃院とその夫・長尾政景の夫婦画像には位牌が描かれており、そこに記された彼女の法名は「仙洞院殿知三道早(せんとういんでんちさんどうそう)」である 1 。また、上杉家の菩提寺である林泉寺の過去帳においても、彼女の名は「仙洞院」と記されているという 4 。この夫婦画像は、政景の没後、仙桃院がまだ存命であった16世紀後期に制作された寿像(生前に描かれた肖像画)である可能性が高いとされており 1 、これらの史料的根拠から、学術的には「仙洞院」が正しい院号であると考えられている。

表1:仙桃院の呼称と史料的根拠

呼称

史料

信頼性/備考

綾(あや)

伝承、『北越軍談』など

実名とされるが、当時の確実な史料による裏付けは限定的 1

仙桃院(せんとういん)

『北越軍談』など

江戸時代の軍記物に見られる表記。史料的価値は低いとされる 1

仙洞院(せんとういん)

林泉寺過去帳、常慶院所蔵夫婦画像位牌

より信頼性の高い史料に見られる表記。学術的にはこちらが正しいとされる 1

仙洞院殿知三道早

常慶院所蔵夫婦画像位牌

法名。「仙洞院」が院号であることを強く示唆する 1

「仙桃院」と「仙洞院」という名称の揺れは、単なる表記の違いに留まらず、歴史情報がどのように伝播し、受容されるかという過程における重要な問題を示唆している。信頼性の高い一次史料(位牌、寺院記録など)と、物語性を重視する傾向のある二次史料(軍記物など)とでは、時に情報の内容や確度が異なる場合がある。仙桃院の名称に関する問題は、歴史研究における史料批判の重要性を具体的に示す好例と言えるだろう。一般に広く知られている名称が、必ずしも学術的に最も正確なものとは限らないという事実は、歴史上の人物や出来事を理解する上で常に念頭に置くべき点である。この名称の差異は、情報がどのような性質の史料から発信され、どのような経路で後世に伝わったかによって、歴史の姿が異なって認識され得ることを示している。

1.3. 家族構成

仙桃院の父は、越後守護代を務めた長尾為景(ながお ためかげ)である 1 。為景は下克上によって越後の実権を掌握した戦国武将の一人であり、仙桃院はその娘として生を受けた。

母については諸説存在する。一つは、上条上杉(かみじょううえすぎ)氏の娘であり、為景の正室であったとする説である 1 。もう一つは、虎御前(とらごぜん)という女性を母とする説である 6 。近年の研究では、後述する上杉謙信の生母が為景の正室とは異なるとする見解も提示されており 1 、仙桃院の母の出自についても、さらなる検討が必要とされる。

仙桃院の兄弟姉妹としては、兄に長尾晴景(ながお はるかげ)、弟に長尾景虎(ながお かげとら)、後の上杉謙信(うえすぎ けんしん)がいることが知られている 1

特に上杉謙信との関係については、一般に仙桃院は謙信の姉として認識されているが 1 、同母姉であったか、異母姉であったかについては議論が存在する。前述の常慶院所蔵の夫婦画像に描かれた位牌には、仙桃院の兄である晴景の法名は記されているものの、弟である謙信の法名が見られないことから、晴景は仙桃院と同母兄弟であり、謙信は異母兄弟であったとする説が有力視されている 10 。また、片桐昭彦氏の研究では、謙信の生母が為景正室と同じであるとする近世以降の資料は誤りであると指摘し、謙信と仙桃院が同腹ではない可能性を示唆している 1 。一方で、史料 3 では同母異父、あるいは同父異母の両論が併記されており、この問題の複雑さを物語っている。

仙桃院と謙信が実の姉弟であったか、あるいは異母姉弟であったかという問題は、単に家族関係の事実を確定するという以上の意味を持つ可能性がある。戦国時代の武家社会において、家督相続や家中における個人の立場は、母親の出自(正室か側室かなど)によって大きく左右されることが少なくなかった。もし謙信が、正室の子とされる仙桃院や晴景とは異なる母の出自であった場合、彼の長尾家内における初期の立場や、兄・晴景との関係、さらには仙桃院との個人的な関係性にも微妙な影響を与えた可能性が考えられる。仙桃院自身が為景の正室の子であれば、その立場は比較的安定しており、後の有力武将である長尾政景への政略結婚にも繋がったと推測される。この血縁関係の解明は、上杉(長尾)家内部の人間関係や権力構造、そして謙信の家督相続に至る背景をより深く理解するための一つの鍵となるかもしれない。

第二章:長尾政景との婚姻と子女

仙桃院の人生において、長尾政景との結婚は大きな転機であり、その間に生まれた子供たちは、後の上杉家の歴史に深く関わっていくことになる。

2.1. 長尾政景との結婚の経緯と背景

仙桃院は天文20年(1551年)、越後の有力国人領主である上田長尾氏の当主・長尾政景(ながお まさかげ)に嫁いだ 1 。長尾政景は、長尾為景の弟・長尾房長の子であり 10 、仙桃院とは従兄妹の関係にあたる。

この婚姻は、当時の越後国内の政治情勢と深く結びついていたと考えられる。長尾政景は、仙桃院の弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が兄・晴景から家督を相続した当初、これに反発し、景虎と敵対関係にあった 10 。しかし、数度の戦いの後、天文20年(1551年)に景虎に降伏している 12 。仙桃院と政景の結婚は、この和睦の証として、あるいは長尾宗家と有力分家である上田長尾氏との結束を強化する目的で行われた政略結婚であった可能性が高い 7 。史料 7 には「政略結婚の面もあったが、二人は心から互いを尊重する夫婦となった」という記述が見られるが、これは後世の創作物における描写である可能性も否定できず、史料的裏付けには慎重な検討が求められる。

2.2. 子女

仙桃院は長尾政景との間に、複数の子女をもうけた。史料によってその数や構成に若干の差異が見られるが、一般的には2男2女 1 、あるいは男子の義景と顕景(後の景勝)、女子の清円院と上条政繁室、そして時宗という名の男子を加えた5人 10 とされることもある。以下に主要な子女を記す。

  • 長尾義景(ながお よしかげ) : 長男。10歳という若さで早世したと伝えられる 1
  • 長尾顕景(ながお あきかげ) : 次男。幼名は卯松(うのまつ) 15 。後に実子のいなかった叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と改め、謙信の家督を継承した 1
  • 長女(清円院 せいえんいん とも) : 上杉景虎(うえすぎ かげとら)の正室となった 1 。景虎は相模の北条氏政の七男で、謙信の養子となった人物である。
  • 次女 : 嫁ぎ先については諸説ある。上条政繁(かみじょう まさしげ)の室となったとする説 6 と、畠山義春(はたけやま よしはる)の室となったとする説 1 である。江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春室、次女が上杉景虎室とされていた時期もあったが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説とされている 1 。さらに、義春の養父である上条政繁に嫁いだ可能性も指摘されている 1

表2:仙桃院の子女と縁組

子女名(通称)

続柄

配偶者

備考

長尾義景

長男

10歳で早世 1

上杉景勝(長尾顕景)

次男

武田信玄女・菊姫、四辻公遠女・桂岩院

上杉謙信養子、上杉家家督相続 1

長女(清円院)

長女

上杉景虎(北条氏政七男、謙信養子)

御館の乱で景虎と共に落命したとされる 1

次女

次女

畠山義春 または 上条政繁(畠山義春養父)

嫁ぎ先には諸説あり 1

仙桃院の子供たちの縁組は、当時の武家社会における女性や子供が果たした役割、そして一族の存続と勢力拡大のための戦略を色濃く反映している。次男・景勝が謙信の養子となったことは、上田長尾家の血筋を上杉本家に繋ぎ、将来の安定を図るという点で極めて重要な意味を持った。この養子縁組には、夫政景の死後、仙桃院自身の意向も少なからず影響した可能性がある。また、娘たちが、謙信のもう一人の養子である上杉景虎や、上杉家と関連の深い畠山氏(あるいは上条氏)といった有力武将と結ばれたことは、上杉家を中心とした勢力図の中で、政治的・軍事的な同盟関係を構築・維持するための重要な布石であったと言える。これらの縁組は、仙桃院を中心として様々な勢力が結びつく複雑な人間関係のネットワークを形成したが、皮肉にも謙信の死後、このネットワークが逆に緊張関係を生み出し、骨肉の争いである御館の乱の一因ともなった。仙桃院の子供たちの人生は、彼女自身の人生と同様に、戦国時代の政略と人間関係の複雑さ、そしてその中で翻弄される個人の運命を象徴していると言えよう。

第三章:激動の時代を生きた仙桃院

仙桃院の生涯は、夫の死、そして上杉家の家督を巡る内乱という、まさに激動と呼ぶにふさわしい出来事の連続であった。

3.1. 夫・長尾政景の死とその影響

永禄7年(1564年)、仙桃院の夫である長尾政景は、居城である坂戸城(現在の新潟県南魚沼市)近くの野尻池(銭淵とも呼ばれる 45 )で舟遊びの最中に溺死した 1 。享年は38歳であった 30

政景の死因については、単なる事故死ではなく、上杉謙信(あるいはその意を受けた腹心であった宇佐美定満など)による暗殺であったとする説が根強く存在する 1 。暗殺説の背景には、政景がかつて謙信に敵対し、降伏後もなお謙信に対して再度の謀反を企てていたため、という見方がある 9 。一方で、酒に酔っていたための事故死であるという説も伝えられており 9 、その真相は未だ明らかになっていない 7

夫・政景の突然の死は、仙桃院にとって大きな悲しみであったと想像されるが、それは同時に彼女と、当時まだ幼かった息子・顕景(後の景勝)の運命を大きく変える転機ともなった。政景の死後、仙桃院は謙信に招かれ、景勝と共に春日山城へ移り住むことになったのである 1 。そして、実子のいなかった謙信は、甥にあたる景勝を養子として迎え、上杉家の後継者候補の一人として養育することになる 1

政景の死、特にその背景に暗殺説が囁かれることは、当時の上杉家(長尾家)内部における権力関係の複雑さを物語っている。政景はかつて謙信に反旗を翻した有力な一族であり、その存在は謙信にとって潜在的な脅威であり続けた可能性も否定できない。そのような状況下で夫を失った仙桃院であったが、彼女が謙信の実の姉であったという血縁関係が、彼女と息子・景勝が春日山城に迎え入れられ、景勝が謙信の養子となる上で有利に働いたことは想像に難くない。この一連の出来事は、戦国時代の女性が夫の死という個人的な危機に直面した後、自身の血縁や子供の存在を通じて新たな活路を見出し、家の存続と発展に繋げていく姿の一例として捉えることができる。個人の悲劇が、時として大きな政治的変動と密接に結びつき、新たな権力構造を生み出すダイナミズムがここには見て取れる。

3.2. 御館の乱と仙桃院

天正6年(1578年)、上杉謙信が後継者を明確に指名しないまま急死すると、上杉家は未曾有の危機に見舞われる。謙信の養子であった上杉景勝(仙桃院の実子)と、同じく養子であった上杉景虎(仙桃院の長女・清円院の夫であり、北条氏康の子)との間で、家督を巡る激しい内乱、いわゆる「御館の乱(おたてのらん)」が勃発したのである 1

この骨肉の争いの中で、仙桃院は実子である景勝と、娘婿である景虎との間で、極めて苦しい立場に置かれた 6 。彼女の選択は、上杉景虎が春日山城を退去する際にこれに従い、景虎の正室である自身の娘・清円院と共に、謙信が関東管領・上杉憲政のために築いた居館である「御館」に籠もるというものであった 1 。これは、形式的には景虎方についたことを意味する。

戦いは熾烈を極め、御館は景勝軍の総攻撃を受けて炎上落城し、景虎は妻子と共に脱出するも、最終的には鮫ヶ尾城で自害して果てた 48 。しかし、乱の終結後、仙桃院は春日山城に戻り、勝利者となった実子・景勝の庇護を受けることになった 1

御館の乱における仙桃院の行動、すなわち実子・景勝ではなく、娘婿・景虎と娘と共に御館に籠もったという選択は、彼女の人間関係や当時の価値観、そして彼女が置かれた状況の複雑さを考察する上で極めて重要である。この選択の背景には、単に娘とその夫への情愛だけでなく、景虎方の正当性に対する何らかの認識、あるいは景虎の実家である強大な北条家への配慮、さらには周囲の状況からやむを得ずそのような行動を取らざるを得なかった可能性など、複数の要因が絡み合っていたと推測される。史料 6 が「辛い立場に置かれながら」と記しているように、彼女の心中は察するに余りある。

乱後、景勝が敵対したはずの母・仙桃院を許し、自身の庇護下に置いたという事実は、儒教的な「孝」の観念の表れであったのか、あるいは母の苦しい立場への理解があったのか、はたまた上杉家中の安定を図るための政治的判断であったのか、その理由は一概には言えない。しかし、この一連の出来事は、戦国時代の女性が直面した過酷な選択と、その後の人間関係の複雑さ、そして血縁というものが持つ単純ではない意味合いを鮮烈に物語っている。この経験が、仙桃院自身の人生観や、その後の景勝との関係にどのような影響を与えたのか、想像を巡らせることは尽きない。

3.3. 上杉景勝の時代:会津、そして米沢へ

御館の乱に勝利し、上杉家の家督を継承した上杉景勝は、豊臣政権下においては五大老の一人に数えられるなど、中央政権においても重要な地位を占めた。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したため、戦後、徳川家康によって所領を大幅に削減されることとなる。慶長3年(1598年)には越後から会津120万石へ、さらに敗戦後の慶長6年(1601年)には出羽米沢30万石へと、上杉家は移封を余儀なくされた 1

仙桃院は、実子である景勝のこれらの苦難に満ちた移封に随行し、晩年を米沢の地で過ごすことになった 1

仙桃院が、景勝の会津、そして米沢への移封に同行したという事実は、彼女が単に景勝の母であるという個人的な関係性に留まらず、困難な状況下にある上杉家にとって、ある種の精神的な支柱、あるいは家の伝統や結束を象徴する存在であった可能性を示唆している。度重なる移封と大幅な減封は、上杉家の家臣団にとって計り知れない動揺と苦難をもたらしたはずである。そのような中で、かつての越後の支配者であり、「軍神」とまで称された上杉謙信の姉であり、また先代当主(政景)の妻、そして現当主(景勝)の母である仙桃院の存在は、上杉家臣団の求心力を保ち、家の伝統と誇りを維持する上で、無視できない精神的な重みを持っていたのではないだろうか。特に米沢移封後は、上杉家は財政的にも極めて厳しい状況に置かれたと伝えられており、そのような中で、家の長老としての仙桃院の存在は、家中の人々の心の拠り所の一つとして機能したのかもしれない。高齢であった彼女が、厳しい移封の道のりに耐えて息子に付き従った背景には、母としての情愛はもとより、上杉家の一員としての強い自覚と責任感があったと推測される。

第四章:仙桃院の功績と後世への影響

仙桃院は、激動の時代を生き抜くだけでなく、上杉家の歴史や文化にも少なからぬ足跡を残している。

4.1. 直江兼続の推挙に関する逸話とその信憑性

仙桃院に関する逸話として最も広く知られているものの一つに、後に上杉景勝の執政として辣腕を振るうことになる直江兼続(なおえ かねつぐ、幼名:樋口与六)の才能を幼少期に見出し、景勝の小姓(近習)として推挙したという話がある 1 。この逸話は、仙桃院の人物眼の確かさや、上杉家の人事に対する影響力を示すものとして、小説やドラマなどでも度々取り上げられている。

しかしながら、この直江兼続推挙に関する逸話については、それを裏付ける確実な一次史料は現在のところ確認されておらず、その史実性については慎重な検討が必要であると指摘されている 1

直江兼続の推挙に関する逸話が、史実としての確証に乏しいにもかかわらず広く流布しているという現象は、興味深い。これは、後世の人々が仙桃院という人物に対して、「賢母」あるいは「慧眼の女性」といった理想的なイメージを投影し、一種の物語として形成・受容していった過程を反映している可能性がある。たとえ史実ではなかったとしても、このような逸話が生まれる背景には、彼女が上杉家内で一定の影響力を持つ存在として認識されていたこと、そして直江兼続という稀代の名臣の登場に、何らかのドラマチックな背景や、彼を見出した慧眼の人物の存在を求めたいという人々の心理が働いたのかもしれない。この逸話の真偽を追求することと並行して、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれるに至ったのかという文化的・社会的背景を考察することは、仙桃院の人物像が後世においてどのように解釈され、構築されてきたかを知る上で有益であろう。

4.2. 米沢・林泉寺の中興開基としての役割

仙桃院の具体的な功績として特筆すべきは、上杉家の菩提寺である林泉寺の米沢における建立への貢献である。林泉寺は元々、上杉謙信の祖父である長尾能景が越後国高田に建立した寺院であり、謙信によって上杉家の菩提寺と定められた 35 。しかし、上杉家が慶長6年(1601年)に米沢30万石へ減移封された際、林泉寺もこれに従って米沢へ移転したが、度重なる移封と減封により上杉家の財政は逼迫しており、寺院の維持・再建も困難な状況にあった 1

そのような中で、仙桃院は米沢における林泉寺の建立に尽力し、その多大な貢献により「林泉寺中興開基(りんせんじちゅうこうかいき)」と称えられている 1 。これは、仙桃院の深い信仰心と、上杉家の精神的支柱としての役割、そして家運が傾きつつある中でも家の伝統と文化を守り継ごうとする強い意志を示す重要な功績であると言える。

仙桃院が米沢林泉寺の「中興開基」と称されることは、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性が持ち得た社会的な影響力の一つの形態を示している。武力や直接的な政治権力とは異なる形で、信仰を通じた寺社のパトロネージは、女性が家や地域の精神文化に貢献し、後世にその名を残すための重要な手段であった。特に、上杉家が財政的に極めて困難な状況にあった中での菩提寺建立への尽力は、彼女の指導力や人望、あるいは私財の提供といった具体的な行動力を伴うものであったと推測される。戦国時代の女性は、直接的な政治・軍事の舞台からは遠ざけられることが多かったが、信仰や文化といった領域においては、時に大きな影響力を行使し得たのであり、仙桃院の林泉寺への貢献は、その側面を具体的に示す好例と言えよう。

4.3. 晩年と逝去、墓所

仙桃院は、慶長14年2月15日(西暦1609年3月20日)、上杉家の新たな本拠地となった米沢城の二の丸において、その波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。享年は、史料により82歳 1 または85歳 6 とされる。いずれにしても、戦国時代の女性としては長寿を全うし、戦国乱世の初期から江戸幕府成立後の世までを見届けたことになる。

彼女の墓所は、米沢市に現存する林泉寺にある 1 。この林泉寺には、仙桃院の墓のほか、息子である上杉景勝の正室・菊姫(武田信玄の娘)の墓や、景勝の重臣であった直江兼続夫妻の墓なども存在し 35 、上杉家とその家臣団にとって重要な菩提寺であり続けている。

4.4. 肖像画について

仙桃院の姿を今に伝える貴重な史料として、山形県米沢市の常慶院に所蔵されている、夫・長尾政景との夫婦画像が挙げられる 1 。この肖像画は、政景の没後、16世紀の後期に制作されたものであり、仙桃院がまだ存命中に描かれた寿像であると考えられている 1

この肖像画に描かれた位牌には、仙桃院の法名が「仙洞院殿知三道早」と記されており、これが彼女の正しい院号を特定する上で極めて重要な史料となっていることは既に述べた通りである 1 。さらに、この位牌には仙桃院の親族(曾祖父、祖父、父母、兄弟姉妹、子供、孫)の戒名も記されており、その内容から、この肖像画が御館の乱以降、仙桃院が亡くなる以前の時期に制作されたと推定することが可能である 1 。これは、御館の乱という困難な時期を経た後も、仙桃院が上杉家内で依然として敬意を払われる存在であったことを示唆している。

仙桃院の寿像が存在するという事実は、彼女が当時、相応の社会的地位と敬意を払われていたことを物語る。戦国時代の女性の肖像画自体が限られている中で、寿像として描かれ、それが今日まで伝えられていることは特筆に値する。この肖像画は、単に彼女の容貌を伝えるだけでなく、位牌の記述を通じて家族関係や信仰のあり方、さらには制作年代の特定にも寄与する、美術史的価値と史料的価値を兼ね備えた貴重な歴史遺産と言えるだろう。それは仙桃院という一人の女性が生きた証であり、彼女を取り巻く人々の思いや、当時の文化を今に伝えるタイムカプセルのような役割を果たしている。

結論:仙桃院の歴史的評価

仙桃院の生涯を概観すると、彼女が長尾家の娘、上杉謙信の姉、長尾政景の妻、そして上杉景勝の母という、時代と立場によって変化する複数の役割を、戦国という激動の時代の中で生き抜いたことがわかる。

彼女の人生は、政略結婚、夫の早すぎる死、そして実子と娘婿が家督を争うという骨肉の内乱(御館の乱)といった、戦国時代の女性が直面し得た典型的な困難に満ちていた。しかし、そのような中にあっても、彼女は深い信仰心や家族への愛情を支えとし、時には困難な選択を迫られながらも力強く生き抜き、結果として上杉家の存続と、その後の米沢藩の基礎を築く上で間接的に貢献した側面が見受けられる。

上杉家における彼女の存在意義は、特に御館の乱という危機的状況において、実子と娘婿の狭間で苦悩しつつも、最終的には勝利者となった景勝の庇護下でその晩年を過ごした点に象徴される。彼女が景虎方に与したにも関わらず、景勝が母を許容した背景には、単なる母子の情だけでなく、上杉家中の安定や、謙信以来の家の伝統を重んじる姿勢があったのかもしれない。また、米沢移封後の林泉寺建立への尽力は、上杉家の精神的支柱として、また信仰心篤い女性としての彼女の具体的な行動を示すものであり、高く評価されるべきである。

仙桃院に関する史料は断片的であり、特に『北越軍談』のような後世の軍記物語における記述と、位牌や寺院記録のような一次史料に近い情報との間には、名称の表記一つをとっても差異が見られる。これは、仙桃院の人物像を正確に捉えるためには、史料批判の重要性を常に念頭に置く必要があることを示している。

戦国女性史という観点から仙桃院を位置づけるならば、彼女は、お市の方や北政所、淀殿といった歴史の表舞台でより華々しく語られる女性たちとは異なり、どちらかと言えば裏方から家を支えた存在であったかもしれない。しかし、彼女の人生は、武家の女性が直面した典型的な困難を体現していると同時に、林泉寺中興開基といった独自の功績も残している。彼女の生涯を通じて、戦国期における女性の役割の多様性や、困難な時代を生き抜くための知恵と強靭さ、そして信仰が果たした精神的な支えの重要性などを浮き彫りにすることができる。仙桃院は、単に「謙信の姉」「景勝の母」という肩書だけでなく、一人の独立した歴史的人物として、その生涯を多角的に評価されるべき存在であると言えよう。

主要関連年表

西暦

和暦

年齢(推定)

出来事

関連史料

1524年 または 1528年

大永4年 または 享禄元年

0歳

仙桃院(綾)、長尾為景の娘として越後国に誕生か。

1

1530年

享禄3年

2歳または6歳

弟・長尾景虎(後の上杉謙信)誕生。

12

1548年

天文17年

20歳または24歳

弟・景虎、兄・晴景から家督を譲られ越後守護代となる。

10

1551年

天文20年

23歳または27歳

上田長尾氏当主・長尾政景に嫁ぐ。

1

1555年

弘治元年

27歳または31歳

次男・卯松(後の上杉景勝)誕生。

15

1564年

永禄7年

36歳または40歳

夫・長尾政景、野尻池にて溺死。仙桃院、謙信の招きで春日山城へ移る。

1

(不明)

息子・顕景(景勝)、謙信の養子となる。

7

1578年

天正6年

50歳または54歳

上杉謙信死去。御館の乱勃発。仙桃院、娘婿・上杉景虎と共に御館に籠城。

1

1579年

天正7年

51歳または55歳

御館落城、景虎自害。乱後、仙桃院は春日山城に戻り景勝の庇護下に入る。

1

1598年

慶長3年

70歳または74歳

上杉景勝、会津120万石へ移封。 仙桃院も随行。

1

1601年

慶長6年

73歳または77歳

上杉景勝、関ヶ原の戦いの結果、米沢30万石へ減移封。 仙桃院も随行。

1

(不明)

米沢における林泉寺建立に尽力。「林泉寺中興開基」と称される。

1

1609年

慶長14年

81歳または85歳

2月15日、米沢城二の丸にて死去。 墓所は米沢・林泉寺。

1

(注) 年齢は生年を1528年とした場合と1524年とした場合の推定値。

仙桃院関連略系図

コード スニペット

graph TD
A[長尾為景] -- 正室(上条上杉氏娘) --> B(仙桃院<br>【綾】)
A -- 側室?(虎御前?) --> C(上杉謙信<br>【長尾景虎】)
A -- 正室(上条上杉氏娘) --> D(長尾晴景)

B -- 婚姻 --> E(長尾政景)

E --- F(長尾義景<br>【早世】)
E --- G(上杉景勝<br>【長尾顕景】<br>謙信養子)
E --- H(長女<br>【清円院】)
E --- I(次女)

H -- 婚姻 --> J(上杉景虎<br>【北条氏政子】<br>謙信養子)
I -- 婚姻 --> K(畠山義春<br>または<br>上条政繁)

G -- 正室 --> L(菊姫<br>【武田信玄女】)
G -- 側室 --> M(桂岩院<br>【四辻公遠女】)
M --- N(上杉定勝<br>【米沢藩2代】)

(注) この系図は主要な人物と関係性を示すための略系図であり、全ての家族・養子関係を網羅したものではありません。特に仙桃院の母や謙信の母については諸説あります。

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