序論
大祝鶴(おおほうりつる)、通称「鶴姫(つるひめ)」は、日本の戦国時代、伊予国(現在の愛媛県)大三島に勢力を持った大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の大祝家に生まれたとされる女性である。伝承によれば、彼女は水軍を率いて瀬戸内海に覇を唱えようとした周防国(現在の山口県)の大内氏の侵攻に果敢に立ち向かい、故郷を守り抜いたとされている 1 。その勇猛さと悲劇的な最期から「瀬戸内のジャンヌダルク」とも称され、現代においても多くの人々の関心を集めている 1 。しかしながら、その華々しい活躍の裏で、鶴姫の実像については史実と後世の創作や伝説が複雑に絡み合っているのが現状である 3 。
本報告は、現存する資料やこれまでの研究成果に基づき、大祝鶴の生きた時代背景、伝承される生涯と武勲、彼女が所用したとされる遺物、そしてその実在性をめぐる議論を多角的に検証し、歴史上の人物としての大祝鶴の姿に迫ることを目的とする。具体的には、第一部で鶴姫が生きた戦国時代の伊予国と大祝氏を取り巻く状況を概観し、第二部では鶴姫の生涯と伝承される活躍を詳述する。続く第三部では、鶴姫所用と伝えられる「紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)」の謎に焦点を当て、第四部では鶴姫伝説の形成過程と実在性に関する諸問題を考察する。最後に第五部として、現代における鶴姫の受容と顕彰の状況について触れることとしたい。
第一部:大祝鶴の生きた時代と背景
大祝鶴の物語を理解するためには、まず彼女が生きた16世紀半ばの伊予国と瀬戸内海の情勢、そして彼女の家系である大祝氏が置かれていた特異な立場を把握する必要がある。
1. 戦国時代の伊予国と瀬戸内海情勢
鶴姫が生きたとされる戦国時代、伊予国は政治的に極めて不安定な状況にあった。名目上の守護は河野(こうの)氏であったが、その勢力は一族内の度重なる家督争いや内紛によって弱体化していた 5 。この機に乗じて、中国地方を掌握し勢力を拡大していた大内(おおうち)氏、土佐国から四国統一を狙う長宗我部(ちょうそかべ)氏、そして豊後国(現在の大分県)を拠点とする大友(おおとも)氏といった周辺の有力大名が、伊予国の支配権をめぐって絶えず侵攻や介入を繰り返していた 5 。特に大内氏による伊予侵攻は、鶴姫の物語が展開する直接的な引き金となっている 1 。このような地政学的な緊張状態は、地域防衛の英雄譚、とりわけ女性や神職の一族といった比較的非力と見なされがちな立場の人々が強大な外敵に立ち向かうという物語が生まれる土壌となったと考えられる。最終的に河野氏は、豊臣秀吉による四国平定の過程で改易され、大名としての歴史に幕を閉じることになる 5 。
一方、瀬戸内海は古来より西国と畿内を結ぶ海上交通の大動脈であり、経済的にも軍事戦略的にも極めて重要な海域であった。戦国時代に入ると、村上水軍に代表される「海賊衆(かいぞくしゅう)」と呼ばれる海上武装勢力が各地で活動し、諸大名の勢力争いや交易の主導権争いに深く関与した 1 。鶴姫がその生涯を送ったとされる大三島も、芸予諸島(げいよしょとう)に位置し、瀬戸内海の制海権を左右する上で無視できない戦略的拠点の一つであった 1 。この時代、水軍力は制海権の確保のみならず、兵站輸送、情報収集など、陸上の戦いと同様に、あるいはそれ以上に戦局を左右する重要な要素であった。鶴姫が水軍を率いたという伝承は、このような当時の瀬戸内海における水軍の戦略的価値を色濃く反映していると言えよう。
2. 大山祇神社と大祝氏の役割
大三島に鎮座する大山祇神社は、全国の三島神社・山祇神社の総本社とされ、「日本総鎮守(にほんそうちんじゅ)」の称号を持つ伊予国一宮(いちのみや)である 1 。祭神である大山積神(おおやまづみのかみ)は、山の神、海の神であると同時に戦いの神としても篤く信仰され、古来より多くの武将たちが武運長久を祈願し、武具甲冑類を奉納してきた [1, 3, 7, 2 ]。現在も国宝・重要文化財に指定された多数の武具が同神社に収蔵されていることは、その歴史を物語っている 1 。
この大山祇神社の神職を代々世襲してきたのが大祝(おおほうり)氏である。大祝氏は、古代伊予の有力豪族であった越智(おち)氏の末裔とされ、伊予守護であった河野氏とも同族関係にあった 3 。このため、大祝氏は単なる神職にとどまらず、在地領主としての性格も併せ持ち、大三島周辺の海域における軍事指揮権をも掌握していたと考えられている [1, 4, 33]。このような「神にして武」という大祝氏の二重性は、古代日本の祭政一致のあり方の名残とも、あるいは神社の宗教的権威を背景とした在地勢力の独特な統治形態の現れとも解釈できる。鶴姫が戦いに際して「三島明神の化身」と名乗ったという伝承 2 は、まさにこの大祝氏が有する宗教的権威と深く結びついている。彼女の行動は単なる個人的な武勇としてではなく、神意を体現したものとして正当化され、兵士たちの士気を高める上で大きな効果があったと推測される。この二重性が、鶴姫伝説における彼女のカリスマ性を生み出す重要な要素となっているのである。
ただし、大祝氏当主が自ら戦陣に立つことは稀で、通常は一族の者を「陣代(じんだい)」、すなわち代理の指揮官として派遣する慣わしであったと伝えられている 1 。これは、神職としての聖性を保ちつつ、俗世の軍事に関与するための方策であったと考えられる。鶴姫の兄たちも陣代として戦ったとされ 1 、鶴姫自身が陣代となったのは、兄の戦死という緊急事態によるものであったと物語られている 1 。この「陣代」というシステムが存在したからこそ、女性である彼女が軍を率いるという、通常では考えにくい物語が成立し得た背景の一つと言えるかもしれない。
3. 三島水軍の活動と大祝氏
三島水軍は、その名の通り大三島を拠点とした水軍であり、大祝氏がその統率に関わっていたとされる [ 1 (4.1, 4.2), 3 ]。瀬戸内海で名を馳せた村上水軍とは、活動した海域や名称が類似しているものの、氏族を異にする別の集団であったという指摘もある 3 。大内氏の侵攻に際しては、河野氏や来島(くるしま)村上氏などと連携してこれに対抗した記録が残されている 8 。大山祇神社は、この三島水軍にとっても重要な守護神であり、戦勝祈願や海上交通の安全を祈る信仰の対象であった [ 1 (5.1, 5.2), 7 ]。
しかしながら、三島水軍の具体的な規模や編成、村上水軍との正確な関係性など、その実態については史料からは必ずしも明確ではない。鶴姫が率いたとされる兵力や用いた戦術についても、多くは伝説の域を出ないのが現状である。鶴姫伝説において三島水軍は不可欠な存在であるが、その水軍の実態が曖昧であることは、伝説の歴史的検証を難しくする一因となっている。鶴姫の武勇伝を支える軍事基盤としての三島水軍の具体的な姿を明らかにするためには、他の関連史料、例えば村上水軍や河野氏に関する文書などから間接的にでもその活動を推測していく必要があるだろう。
第二部:大祝鶴の生涯と伝承
大祝鶴の生涯については、確実な史料に乏しく、その多くは後世の編纂物や伝承に依拠している。ここでは、一般的に語られる鶴姫の物語を、関連する史料への言及と共に紹介する。
表1:大祝鶴関連年表
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
主な典拠 |
1526年 |
大永6年 |
大祝鶴、大三島にて誕生(伝)。父は大祝安用、母は妙林(伝) |
1 |
1534年 |
天文3年 |
大内氏と河野氏の抗争が本格化。この頃、鶴姫の兄二人が戦死したとの記述もあるが( 2 )、日本の伝承では天文10年の安房の戦死が主。 |
2 |
1541年 |
天文10年6月 |
大内軍が大三島に侵攻。鶴姫の次兄・大祝安房が陣代として出陣し戦死。鶴姫(当時16歳)、初陣を飾り大内軍を撃退(伝)。 |
1 |
1541年 |
天文10年10月 |
大内軍が再度侵攻。鶴姫、再び出陣し大内軍を撃退。この戦いで敵将・小原隆言を討ち取ったとされる(伝)。一族の越智安成と恋仲になる(伝)。 |
2 |
1541年(異説) |
天文10年 |
父・大祝安用が死去。鶴姫(当時15歳)が神職を継いだとする説もあるが( 2 )、日本の伝承では兄・安舎が神職を継いでおり、鶴姫の父の死の時期や神職継承については異説がある点に注意が必要。 |
2 |
1543年 |
天文12年6月 |
大内義隆が陶隆房を主将とする大軍を派遣し、伊予に大規模侵攻。鶴姫の恋人とされる越智安成が戦死。鶴姫、残存兵力を率いて大内軍に夜襲をかけ撃退するも、その後、安成の死を嘆き入水自殺したとされる(伝、享年18歳)。 |
1 |
1. 出自と家族構成
鶴姫は、大永6年(1526年)、大山祇神社の大宮司であった大祝安用(おおほうりやすもち)の娘として生まれたと伝えられている 1 。後述する「大祝家記(おおほうりかき)」とされる文献によれば、鶴姫の母は安用の女中であった妙林(みょうりん)という女性であったという 8 。鶴姫には、安舎(やすおく)と安房(やすふさ)という二人の兄がいたとされ、大山祇神社のしきたりにより、長兄の安舎が大祝職を継ぎ、次兄の安房が三島水軍を率いる陣代となることが定められていたという 1 。
「大祝家記」の記述として伝えられるところによれば、鶴姫は幼い頃から容姿端麗で体格にも恵まれ、武術や兵法にも優れた才能を発揮し、非常に利発な少女であったとされる 1 。父の安用はそんな鶴姫をことのほか寵愛し、幼少期から武術の稽古を積ませたとされている 1 。しかしながら、鶴姫の幼少期やその才能に関するこれらの記述は、その多くが「大祝家記」という史料的価値に疑問が残る文献に依拠している。また、その内容は英雄譚にしばしば見られる「幼少からの非凡さ」を強調するものであり、後世の創作や脚色が多く含まれている可能性を考慮する必要がある。この点は、鶴姫の人物像の根幹をなす部分であるだけに、伝説と史実の境界線を慎重に見極める上で重要な留意点となる。
2. 大内氏との戦いにおける活躍
鶴姫の活躍が最も華々しく語られるのは、周防の大内氏による伊予侵攻に際しての戦いにおいてである。
天文10年(1541年)6月、大内義隆の命を受けた白井縫殿助房胤(しらいぬいのすけふさたね)らが率いる大内水軍が大三島に侵攻した(第一次大三島合戦とも呼ばれる) 8 。この時、鶴姫の次兄である大祝安房が三島水軍の陣代として、河野氏や来島氏の水軍と連合して大内軍を迎え撃ったが、奮戦及ばず討死したと伝えられる 1 。兄の戦死の報に接した鶴姫(当時16歳)は、三島明神に戦勝を祈願した後、自ら甲冑を身にまとい、大薙刀(おおなぎなた)を振るって戦陣に臨んだ。その勇猛果敢な姿は味方の兵士たちを大いに鼓舞し、ついに大内軍を撃退することに成功したという 1 。
同年10月、大内軍は再び大三島に侵攻する。戦死した兄・安房に代わって、鶴姫が再び三島水軍を率いて出陣し、これを撃退したとされる 1 。この戦いにおいて、鶴姫は甲冑の上に赤地の鮮やかな衣を羽織って早舟に乗り込み、敵陣に接近した。油断した大内方の兵が遊女の舟と見誤った隙を突いて奇襲をかけ、敵船に乗り移ると、敵将であった小原隆言(おはらたかとき、または「たかこと」とも)を見事討ち取り、「われは三島明神の鶴姫なり、立ち騒ぐ者あれば摩切りにせん」と高らかに名乗りを上げたと伝えられている 2 。さらに焙烙(ほうろく)と呼ばれる手投げ式の炸裂弾や火矢を放ち、大内軍を混乱に陥れて敗走させたとされる 2 。この戦いの後、鶴姫は、戦死した兄・安房の跡を継いで陣代となった一族の武将・越智安成(おちやすなり)と恋仲になったと物語られている 8 。
これらの鶴姫の戦闘描写は非常に劇的であり、「赤地の衣を羽織る」 8 、「薙刀を振るう」 1 、「敵将を討ち取る」 2 、「明神の化身と名乗る」 2 といった要素は、物語としての英雄性を際立たせる効果を持っている。特に、敵将・小原隆言を討ち取ったとされる逸話は、鶴姫の武勇伝の頂点として語られることが多い。しかしながら、この小原隆言という人物は、鶴姫に討たれたとされる天文10年以降も生存し、後に毛利氏の家臣として活動した記録が残されている 11 。この事実は、鶴姫伝説の核心部分の信憑性に大きな疑問を投げかけるものであり、これらの劇的な描写は、史実としての正確さよりも、鶴姫というキャラクターを印象づけるための文学的、あるいは伝承的な装置として機能している可能性が高いと考えられる。
天文12年(1543年)6月、二度にわたる敗北に業を煮やした大内義隆は、重臣である陶隆房(すえたかふさ、後の陶晴賢)を総大将とする大規模な水軍を伊予に派遣し、瀬戸内海の覇権確立を試みた 4 。河野氏とその一門は総力を挙げてこれを迎え撃ったが、大軍を擁する大内勢の前に苦戦を強いられ、多くの一族が討死した。この戦いで、鶴姫の恋人であり、彼女の右腕として活躍したとされる越智安成もまた、奮戦の末に命を落としたと伝えられている 1 。越智安成との悲恋は、鶴姫伝説における重要な要素であり、彼の戦死が鶴姫のその後の行動、特に後述する入水自殺説へと繋がるため、物語の悲劇性を高める上で大きな役割を担っている。この悲恋の要素は、鶴姫の物語を単なる武勇伝から、より感情に訴えかける人間ドラマへと昇華させ、後世の人々の共感を呼ぶ一因となったと考えられる。
恋人の死という悲報に接し、また大祝職にあった兄・安舎が大内氏との講和を決断したことを受けても、鶴姫の戦意は衰えなかったとされる。彼女は残存兵力を集結させると、大三島沖に停泊していた大内軍に対して夜襲を敢行し、これを打ち破って大三島から追い払うことに成功したと伝えられている 2 。
3. 鶴姫の最期に関する諸説
鶴姫の最期については、いくつかの説が伝えられているが、最も広く知られているのは、恋人・越智安成の戦死を深く嘆き、天文12年(1543年)の戦いの後、18歳という若さで入水自殺を遂げたというものである 1 。
その際、鶴姫は次のような辞世の句を詠んだと伝えられている [8, 10]。
「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」
(私の恋は、三島の浜辺に打ち寄せられた空っぽの貝殻のように虚しいものとなってしまった。あなたの名を思うことさえ辛く、心が乱れるばかりだ)
この歌は、愛する者を失った深い悲しみと空虚感を切々と詠んだものと解釈されている 10 。また、鶴姫が入水したとされる場所では、今でも鈴の音が聞こえるというロマンティックな伝承も残されている 3 。
しかしながら、「大祝家記」には、この入水自殺説とは異なる鶴姫の最期に関する記述も存在したとされている 8 。一つは、戦いの後、鶴姫は今治にある大祝家の屋敷に戻り、静かに祈祷に明け暮れる余生を送ったという説。もう一つは、今治の別宮(大山祇神社の分社)の宮司であった大祝貞元の子、八郎安忠(後に鶴姫の兄・安舎の養子となり大祝職を継いだ人物)に嫁いだという説である。
入水自殺という結末は、悲劇のヒロインとしての鶴姫像を完成させるものであり、非常に物語性が高い。辞世の句や鈴の音の伝承も、このイメージをさらに強固なものにしている。しかし、「大祝家記」に他の結末、すなわち余生を送った、あるいは結婚したといった、より現実的で平凡な結末も記されていたとされる事実は、入水自殺説が唯一絶対の伝承ではなかった可能性を示唆している。これらの異説は、物語としての魅力には乏しいかもしれないが、歴史的にはあり得たかもしれない選択肢である。複数の結末が存在するということは、鶴姫の最期が確定的な史実として伝承されていなかったことを示している。入水自殺説が最も広く流布しているのは、その物語性の高さゆえに、人々の記憶に残りやすかったためかもしれない。史実を探求する上では、他の可能性も排除せずに検討する必要があるだろう。
第三部:「紺糸裾素懸威胴丸」の謎
大祝鶴の物語と密接に結びつけて語られる遺物に、大山祇神社所蔵の「紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)」と呼ばれる鎧がある。この鎧は鶴姫が実際に着用したと伝えられ、その存在が鶴姫伝説にリアリティを与えている側面がある。
1. 大山祇神社所蔵の伝鶴姫所用鎧
愛媛県今治市大三島の大山祇神社には、「紺糸裾素懸威胴丸」と称される一領の鎧が収蔵されており、これが戦国時代に活躍したとされる大祝鶴(鶴姫)が着用したものではないかと伝えられている 1 。この鎧は、その歴史的・美術的価値から国の重要文化財に指定されており 14 、文化遺産データベースによれば室町時代の作とされている 15 。
この鎧の形状的特徴として、特に胸部が大きく膨らみ、一方で腰部が細くくびれている点がしばしば指摘される 1 。この独特のシルエットが、後に「女性用鎧」ではないかという議論を生むことになる。
2. 女性用鎧としての特徴と議論
「紺糸裾素懸威胴丸」の胸部が膨らみ、腰部がくびれた特徴的な形状から、これは女性の身体的特徴に合わせて製作された「日本に現存する唯一の女性用の鎧」であるという説が、かつて大山祇神社自身や一部の研究者、著述家によって唱えられた [1, 14, 14 ]。特に、後述する小説家・三島安精(みしまやすきよ)氏は、この鎧の形状を見て女性の体型を反映したものと考え、それが鶴姫の物語を執筆する着想の一つになったとされている 8 。
しかしながら、甲冑研究の専門家からは、この「女性用鎧」説に対して否定的な意見が多く出されている [3, 8, 11, 14 ]。反論の主な骨子は、胸部の膨らみや腰のくびれといった形状は、必ずしも女性特有のものではなく、室町時代後期から戦国時代にかけて製作された胴丸(どうまる)と呼ばれる形式の鎧によく見られる特徴であるというものである。これらの形状は、着用者の動きやすさを向上させたり、呼吸を楽にしたり、あるいは鎧の重量を肩だけでなく腰にも分散させて長時間の着用における身体的負担を軽減したりするための工夫であったと考えられている 3 。例えば、女城主として知られる井伊直虎(いいなおとら)が所用したとされる鎧(京都・井伊美術館蔵)には、大山祇神社の鎧ほど顕著な胸部の膨らみや腰のくびれは見られないという比較もなされることがある 14 。ただし、この井伊直虎の鎧が女性用ではないからといって、他の女性用甲冑が存在しなかったと断定できるわけではないとも指摘されている 14 。
3. 鶴姫着用説の信憑性
「紺糸裾素懸威胴丸」が鶴姫によって実際に着用されたという説については、「大祝家記」に「鶴姫の比類なき働き、鎧と共に今に伝はるなり」という一節があったとされ、これがその根拠の一つとして挙げられることがある 1 。
しかし、この鎧が鶴姫の所用であったという確たる史料的裏付けは乏しく、多くの研究者はフィクションの域を出ないものと見なしている [4, 8]。大山祇神社も、かつては「日本唯一の女性用鎧」としてこの鎧を紹介していた時期があったが、その主張は必ずしも正確ではないとの指摘がなされている 8 。
この鎧の解釈をめぐる状況は、鶴姫伝説の形成過程を考える上で示唆に富む。鎧の「女性的」とも解釈されうる形状 1 と、「大祝家記」にあるとされる記述 1 が結びつくことによって、鶴姫がこの鎧を着用したという物語が補強されてきた側面がある。しかし、前述の通り、鎧の形状解釈については異論があり、「大祝家記」の信憑性自体も揺らいでいる。つまり、必ずしも確実とは言えない前提同士が相互に補強しあう形で「鶴姫の鎧」というイメージが形成されてきた可能性がある。鶴姫伝説において、この鎧は数少ない「物的証拠」として扱われがちであるが、その解釈自体が伝説のイメージに引きずられている可能性を考慮する必要があるだろう。
また、三島安精氏がこの鎧の形状から女性用であると「発見」し、それが小説『海と女と鎧』の着想に繋がったという経緯 8 は、伝説が具体的に形成されていくプロセスの一端を示唆している。三島氏自身が大祝家の子孫であったという点も、この「発見」とそれに続く物語の創造に、ある種の権威性を付与した可能性は否定できない。これは、一つの遺物が特定の解釈と結びつき、それが文学作品を通じて広く一般に流布し、やがて多くの人々に信じられるようになるという、伝説生成の一つのパターンを示していると言える。
表2:「紺糸裾素懸威胴丸」に関する諸説比較
項目 |
説A(鶴姫の鎧・女性用説) |
説B(機能性重視・鶴姫着用疑問説) |
製作年代 |
室町時代 15 |
室町時代後期 3 |
形状的特徴 |
胸部膨大、腰部細小は女性の体型を反映 1 |
運動性・呼吸の容易さ・重量分散のための工夫、当時の胴丸に一般的 3 |
用途(性別) |
女性専用 1 |
男女兼用または男性用 14 |
鶴姫着用説 |
「大祝家記」に記述あり 1 、鶴姫が実際に着用 1 |
史料的裏付けなし、フィクションの可能性 [ 4, 8 ] |
主な根拠・提唱者 |
大山祇神社(過去の主張 8 )、三島安精 8 |
甲冑研究者・専門家 3 |
この表は、鎧に関する主要な論点を整理し、対立する見解を明確に対比させることを意図している。読者が鎧をめぐる議論の全体像を把握し、各説の根拠とされる情報源(あるいはその欠如)を認識することで、議論の深さを理解する一助となることを期待する。この鎧が鶴姫伝説の信憑性を左右する重要な物証と見なされているため、その解釈をめぐる対立点を整理することは、鶴姫の実在性に関する議論を理解する上で不可欠である。
第四部:鶴姫伝説の形成と実像
鶴姫の物語は、どのようにして形成され、現代に伝えられてきたのであろうか。ここでは、伝説の主要な典拠とされる「大祝家記」、そして伝説の普及に大きな役割を果たした三島安精氏の小説、さらには鶴姫の実在性に関する学術的な議論を概観する。
1. 「大祝家記」の記述とその評価
鶴姫の生涯や活躍を伝える上で、最も頻繁に言及されるのが「大祝家記」という古文書の存在である 1 。鶴姫の出自、容姿、武勇伝、そして辞世の句に至るまで、その物語の核心部分の多くがこの文献に由来するとされている 1 。
しかしながら、この「大祝家記」の史料的価値については、多くの疑問が呈されている。鶴姫伝説を広めたとされる小説家・三島安精氏が、自身の小説執筆の際にこの「大祝家記」を参考にしたと述べているが、三島氏の死後、この文献の所在は不明となっており、他の研究者による直接的な確認ができていない状況にある [8, 11]。大祝家に伝わる文書としては、「大祝家文書」という形で他の記録は現存しているものの 17 、その中には鶴姫に関する具体的な記述、特に天文10年(1541年)に鶴姫が戦ったとされる戦いに関する女武者の記録は見当たらないと指摘されている 11 。このため、「大祝家記」は、その内容について十分な史料批判がなされないまま、鶴姫伝説の根拠として用いられてきた可能性があるとの見解も存在する 19 。
鶴姫物語の核心部分の多くがこの「大祝家記」に依拠しているにもかかわらず、その文献自体が現在確認できず、第三者による検証が不可能であるという事実は極めて重要である。これは、「大祝家記」を一種の「ブラックボックス」のような存在にしてしまい、そこに実際に何が書かれていたのか(あるいは書かれていなかったのか)をめぐる憶測を呼ぶ原因となっている。この「見えない史料」への依存が、鶴姫の実在性に関する論争を一層複雑にしていると言えるだろう。たとえ「大祝家記」が存在したとしても、それはあくまで大祝家の「家記」であり、一族の歴史を肯定的、あるいは英雄的に記述する傾向を持つ可能性がある。他の客観的な史料、例えば敵対した大内氏側の記録や、同盟関係にあった河野氏の公式文書などとのクロスチェックなしに、その内容を鵜呑みにすることは歴史研究の姿勢として適切ではない。
2. 三島安精の小説『海と女と鎧-瀬戸内のジャンヌ・ダルク-』の影響
昭和41年(1966年)に出版された、大祝家の子孫とされる三島安精(みしまやすきよ)氏の小説『海と女と鎧-瀬戸内のジャンヌ・ダルク-』は、鶴姫伝説を現代に広く知らしめる上で決定的な役割を果たした [2, 3, 4, 8, 11, 16, 28]。この小説は、前述の「大祝家記」を基にしたとされており 4 、これによって「瀬戸内のジャンヌダルク」という鶴姫の勇壮なイメージが定着し、大山祇神社所蔵の鎧との関連も強く印象づけられることになった 1 。
注目すべきは、この小説が発表される以前は、鶴姫の地元である大三島においてさえ、彼女の存在はほとんど知られていなかったという指摘がある点である 2 。このことは、三島安精氏の小説が、単に埋もれていた地域の伝承を掘り起こしたというだけでなく、それに文学的な肉付けと「瀬戸内のジャンヌダルク」という魅力的なキャッチフレーズを与えることによって、新たな「鶴姫像」を創造し、効果的に普及させたと見ることも可能であることを示唆している。これは、歴史的事実の単なる紹介ではなく、創作活動を通じた歴史の再解釈・再生産の一例と言えるだろう。一つの小説が、特定の歴史的人物(あるいは伝承上の人物)のパブリックイメージをいかに強力に形成しうるかを示す事例であり、鶴姫の場合、小説の内容が史実そのものと混同されたり、あるいは史実の根拠として扱われたりする傾向を生んだ。
さらに、小説による鶴姫の知名度向上は、その後、鶴姫公園の設置 8 や鶴姫まつりの開催 13 といった形で、地域の観光資源化へと繋がっていく。この事実は、鶴姫伝説が、単なる歴史的関心の対象としてだけでなく、地域アイデンティティの醸成や観光振興といった現代的な要請とも結びついて受容されている側面を明らかにしている。伝説は、過去のものであると同時に、現代において再生産され、新たな意味を付与される動的な存在なのである。
3. 鶴姫の実在性に関する学術的見解と論点
大祝鶴の実在性については、現在に至るまで肯定的な見解と懐疑的な見解が対立しており、明確な結論は出ていない。
肯定的な見解の主な根拠は、これまで述べてきたように、「大祝家記」の記述とされる内容や、大山祇神社に伝わる伝承、そして「紺糸裾素懸威胴丸」の存在に依拠する部分が大きい 1 。一部には、大祝家の古文書に鶴姫の名が記載されており、大内氏と戦ったことは史実であるとする記述も見られる 4 。
一方、懐疑的な見解の根拠としては、以下の点が挙げられる。第一に、鶴姫伝説の主要な典拠とされる「大祝家記」の現物が確認されておらず、史料としての客観的な検証が不可能であること [8, 11]。第二に、鶴姫が活躍したとされる同時代の他の確実な史料、例えば河野氏や大内氏の公式な記録、あるいは他の寺社仏閣に残された文書などに、鶴姫の具体的な活躍を裏付ける記述が見当たらないこと 11 。第三に、鶴姫に討ち取られたとされる大内方の武将・小原隆言が、実際にはその合戦の後も生存し活動していた記録が存在すること 11 。これは、鶴姫の武勇伝の核心部分の信憑性を大きく揺るがす点である。第四に、大山祇神社所蔵の「紺糸裾素懸威胴丸」が鶴姫の所用であったという確証がなく、そもそも女性用の鎧であるかどうかも議論の対象となっていること 3 。そして第五に、三島安精氏の小説による創作や脚色の影響が非常に大きいと考えられることである 2 。
このような状況から、鶴姫伝説は、史実とフィクションが混ざり合った物語として、そのロマンを楽しむべきであるという意見も出されている 3 。鶴姫の実在を積極的に証明する一次史料(同時代の信頼できる記録)が決定的に不足している一方で、伝説の重要なエピソード(小原隆言討取りなど)には反証が存在するという状況が、実在性をめぐる議論を平行線にしている。歴史学における実証主義的アプローチの限界と、伝承や記憶の扱いの難しさを示す事例とも言えるだろう。鶴姫が「完全に存在しなかった」と証明することもまた困難であり、それが伝説が生き続ける余地を残している一因かもしれない。
また、「瀬戸内のジャンヌダルク」という呼称は、鶴姫の悲劇性や救国のヒロインとしての側面を効果的に強調する一方で、西洋の歴史上の人物との安易なアナロジーであり、日本の歴史的文脈から遊離させてしまう危険性もはらんでいる。戦国時代における女性の役割という観点から鶴姫の物語を見た場合、それが史実であれ伝説であれ、当時のジェンダー規範に対する一つの挑戦として解釈できるのか、あるいはむしろ男性中心社会の価値観を補強する例外的な存在として語られているのか、といった点も検討の余地があるだろう。
4. 他の「鶴姫」という名の人物との区別
日本の歴史上、「鶴姫」という名の女性は複数存在する 20 。例えば、備中松山城主・三村家親(みむらいえちか)の娘で常山城(つねやまじょう)城主・上野隆徳(うえのたかのり)の妻となった鶴姫 20 、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の長女である鶴姫 21 、織田信長の娘とされる鶴姫 21 などが挙げられる。
本報告で対象としているのは、あくまで伊予国大三島の大祝鶴であり、これらの他の「鶴姫」とは時代も場所も異なる人物である点を明確にしておく必要がある。「鶴姫」という名前は、あるいは高貴な女性や美しい女性に対する一種の一般的な呼称であった可能性も考えられる。「鶴」が長寿や吉祥の象徴であることから、姫の名前に好んで用いられたのかもしれない。徳川綱吉の娘・鶴姫の名を避けるために出された「鶴字法度(つるじはっと)」 22 の存在は、逆に言えば「鶴」という文字を含む名前や紋が、それなりに社会に広まっていたことを示唆している。大三島の鶴姫の物語を調査する際には、同名異人との混同を避けることが基本であるが、同時に「鶴姫」という名前に込められた当時の人々の願いやイメージについても考察することで、名前の文化史的な側面にも光を当てることができるかもしれない。
表3:鶴姫伝説の主要な情報源と評価
情報源 |
各情報源における鶴姫像の概要 |
史料的評価/信憑性 |
伝説形成への寄与度 |
「大祝家記」(伝) |
容姿端麗、武勇に優れ、神懸かり的な力を持つ悲劇のヒロインとして描かれる。辞世の句などもこの文献に由来するとされる 1 。 |
現存が確認できず、第三者による検証が不可能 11 。内容の史実性については大きな疑問符が付く。 |
鶴姫伝説の根幹をなす物語の多くを提供したとされるが、その存在自体が不確かであるため、直接的な寄与度の評価は困難。小説の典拠として間接的に影響。 |
三島安精『海と女と鎧』 |
「瀬戸内のジャンヌダルク」として、勇猛果敢に戦い、悲恋の末に散ったヒロイン像を確立。鎧との関連も強調 1 。 |
小説作品であり、史実記録ではない。作者の創作や脚色が多く含まれると考えられる 3 。 |
現代における鶴姫像を決定づけた最大の要因。この作品を通じて鶴姫伝説が広く知られるようになった 2 。 |
大山祇神社伝承(鎧含む) |
鶴姫が所用したとされる「紺糸裾素懸威胴丸」の存在と、それにまつわる伝承 1 。神社自体が鶴姫の物語を伝えてきた側面もある。 |
鎧が鶴姫所用であるか、女性用であるかについては専門家の間で意見が分かれる 3 。神社に伝わる話も、小説の影響を受けている可能性が指摘される。 |
鎧という「物的証拠」の存在が伝説にリアリティを与え、信仰の対象ともなりうる鶴姫像を補強した。 |
地元伝承 |
入水した場所で鈴の音が聞こえるといった伝承 3 や、鶴姫にまつわる地元の語り伝え。 |
口承伝承であり、時代と共に変化する可能性。史実性の検証は困難だが、地域における鶴姫の受容のされ方を示す。 |
地域住民の記憶の中で鶴姫像を維持し、祭りなどの形で現代に継承する基盤となった。 |
関連する可能性のある歴史史料(河野氏・大内氏関連など) |
現状では、鶴姫の具体的な活躍を直接裏付ける記述は確認されていない 11 。ただし、当時の伊予国や瀬戸内海の情勢、大祝氏の立場などを知る上で重要。 |
一次史料としての価値は高いが、鶴姫伝説との直接的な関連性は薄い。 |
鶴姫伝説の背景となる歴史的状況を理解する上で不可欠だが、伝説そのものの形成に直接寄与したとは言いがたい。むしろ、これらの史料との比較から伝説のフィクション性が浮かび上がる。 |
この表は、鶴姫に関する情報がどのような種類の情報源から派生しているのかを一覧化し、それぞれの情報源の信頼性や性格を比較することで、伝説のどの部分が比較的確実性が高く、どの部分が後世の創作の可能性が高いのかを視覚的に示すことを意図している。鶴姫という人物像が、単一の史実からではなく、複数の、時には信頼性の異なる情報源の組み合わせと相互作用によって構築されてきたことを理解する一助となるだろう。
第五部:現代における大祝鶴
大祝鶴の物語は、過去の伝承としてだけでなく、現代においても様々な形で語り継がれ、地域文化の一部として息づいている。
1. 鶴姫公園と鶴姫像
愛媛県今治市大三島には、鶴姫を顕彰するために整備された「鶴姫公園」が存在する 12 。この公園は、平成2年(1990年)に、当時の大三島町が「ふるさと創生事業」の一環として設置したものである 8 。園内には、鶴姫と彼女の恋人とされる越智安成のブロンズ像が建てられているほか、鶴姫が入水した際に鳴り響いたとされる鈴の音にちなんだ水琴窟(すいきんくつ)なども設けられている 12 。
鶴姫公園や鶴姫像の建設は、鶴姫伝説を物理的な形で可視化し、地域住民や島を訪れる観光客が共有できる物語の「場」を提供する試みと言える。「ふるさと創生事業」として行われたという事実は、鶴姫伝説が地域の歴史的シンボルとして、また観光資源として活用されていることを明確に示している。これは、鶴姫伝説が単なる過去の物語としてではなく、現代の地域社会において新たな意味を持ち、積極的に活用されている実態を示すものであり、歴史的コンテンツが現代社会とどのように結びつくかの一例として注目される。
2. 鶴姫まつり
鶴姫の故郷とされる今治市大三島では、毎年夏になると「三島水軍鶴姫まつり」が盛大に開催されている 13 。この祭りは、鶴姫の勇壮な姿を偲び、その伝説を現代に再現するものとして地域に定着している 24 。
祭りの主要な行事としては、公募で選ばれた鶴姫役の女性を中心として、鎧兜を身にまとった武者たちが島内を練り歩く「鶴姫行列」や、かつての水軍の勇壮さを彷彿とさせる櫂伝馬(かいでんま)競漕、さらには様々なステージイベントや多数の屋台出店などで賑わいを見せる 13 。祭りの主催は鶴姫まつり実行委員会であり、地元のしまなみ商工会大三島支所などが運営に深く関わっている 13 。
この鶴姫まつりがいつから始まったのか、その正確な開始時期を示す資料は少ないが、鶴姫公園の設置(1990年)以降、地域振興の一環として徐々に整備されてきたものと考えられる。少なくとも2000年代には開催されていたことが確認できる 27 。鶴姫まつりは、鶴姫伝説を毎年繰り返し上演し、体験する場を提供することで、その物語が地域住民や次世代へと継承されていく上で重要な役割を果たしている。また、祭りの準備や運営を通じて、地域コミュニティの結束を強めるという側面も持っていると考えられる。このように、祭りは単なる娯楽イベントとしてだけでなく、地域の歴史的記憶(それが伝説であったとしても)を維持し、活性化させる動的なプロセスとして機能しているのである。
3. 鶴姫を題材とした作品
大祝鶴の物語は、三島安精氏の小説『海と女と鎧-瀬戸内のジャンヌ・ダルク-』が最も影響力の大きい作品であることは論を俟たないが 8 、その他にも小説、演劇、映像作品など、様々な形で取り上げられてきた。
例えば、三島安精氏の小説を原案としたテレビドラマ「鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-」が制作・放映された記録がある 29 。また、阿久根治子(あくねはるこ)氏による小説『つる姫』といった作品も存在する 30 。劇団四季などで活躍する脚本家の高橋知伽江(たかはしちかえ)氏も、鶴姫に関連する作品を手がけた可能性が示唆されているが、具体的な作品名までは確認できなかった 31 。
小説から始まり、テレビドラマなど多様なメディアで鶴姫が描かれることで、それぞれのメディアの特性に応じた鶴姫像が創り出され、広まっていく。これにより、元の伝説からさらに多様な解釈やイメージが付加されていく可能性がある。このことは、鶴姫伝説が固定された静的なものではなく、時代やメディアの変遷に応じて変化し続ける文化現象であることを示している。それぞれの作品が、鶴姫のどの側面に焦点を当て、どのように解釈し、表現しているのかを比較分析することも、鶴姫像の多面的な理解に繋がる興味深いアプローチと言えるだろう。
結論
本報告では、日本の戦国時代に生きたとされる女性、大祝鶴(鶴姫)について、その歴史的背景、伝承される生涯と活躍、関連する遺物、そして実在性をめぐる議論を、現存する資料や研究成果に基づいて多角的に検討してきた。
大祝鶴は、伊予国大三島を拠点とした大山祇神社の神職の娘として生まれ、水軍を率いて大内氏の侵攻から故郷を守ったとされる女性である。その悲劇的な最期や、「瀬戸内のジャンヌダルク」という勇ましい呼称、そして彼女が着用したと伝えられる「紺糸裾素懸威胴丸」の存在は、今日に至るまで多くの人々の関心を引きつけてきた。
しかしながら、その実像については、確実な史料に乏しいのが現状である。特に、鶴姫伝説の主要な典拠とされる「大祝家記」の現存が確認できず、その史料的価値について多くの疑問が呈されている。また、鶴姫の武勇伝の核心部分である敵将・小原隆言の討取りについては、小原自身がその後も生存していた記録があるなど、伝説の内容と史実との間に矛盾点も見られる。大山祇神社所蔵の「紺糸裾素懸威胴丸」についても、鶴姫所用であるか、また女性専用の鎧であるかについては専門家の間でも意見が分かれている。そして何よりも、昭和41年(1966年)に出版された三島安精氏の小説『海と女と鎧-瀬戸内のジャンヌ・ダルク-』が、現代における鶴姫像の形成と普及に極めて大きな影響を与えており、史実と伝説、そして文学的創作とが複雑に混ざり合っているのが、大祝鶴をめぐる言説の現状と言える。
鶴姫の物語は、その史実性の検証が困難である一方で、戦乱の世に故郷と愛する人を守ろうとして雄々しく生きた女性、そして悲恋の主人公として、時代を超えて人々の心を捉える普遍的な魅力を持っている。その物語は、歴史学的な探求の対象であると同時に、文学や芸術のインスピレーションの源泉ともなり、さらには地域振興のシンボルとしても機能してきた。
今後の研究においては、未発見の関連史料の探索、特に大祝氏、河野氏、そして敵対した大内氏双方の記録の中に鶴姫に関する記述がないか、より広範な調査が期待される。また、既存史料の再検証や、「大祝家記」とされる文献に関するより詳細な調査(例えば、三島安精氏の遺稿や関係者への聞き取りなど)も重要となるだろう。さらに、鶴姫伝説がどのように形成され、時代や社会状況に応じてどのように受容され、変容してきたのかという伝承史、あるいは歴史的記憶の研究も、この人物像をより深く理解する上で不可欠である。
大祝鶴の物語は、歴史学だけでなく、文学、民俗学、ジェンダー史など、多様な学問分野からのアプローチが可能な、豊かで魅力的な研究対象であり続けるに違いない。史実と伝説の狭間で揺れ動くその姿は、私たちに歴史を語り継ぐことの意味を問いかけているようでもある。