春日局、本名を斎藤福といい、戦国時代の末期から江戸時代初期という激動の時代を生きた女性である。彼女の生涯は、単に徳川三代将軍家光の乳母という役割に留まらず、徳川幕府の黎明期における政治的、社会的な側面に深く関与し、その権勢は時として老中をも凌いだとされる。逆境に生まれながらも、類稀なる才覚と行動力をもって道を切り開き、大奥の制度を確立し、幕政にも影響を及ぼした春日局は、日本史上においても特筆すべき存在と言える。その生涯は、近世初期における女性の社会進出の限界と可能性、そして権力との関わり方を示す貴重な事例である。
本報告は、斎藤福(春日局)の生涯と業績を、現存する史料に基づき多角的に検証することを目的とする。特に、その出自、乳母としての役割、大奥における権勢、朝廷との関係、そして家光生母説といった重要な論点について、詳細な分析を試みる。
本報告は以下の構成で論を進める。まず、「第一部:出自と前半生」において、福の誕生から稲葉正成との結婚、離縁に至るまでの経緯を辿る。続く「第二部:徳川家光の乳母へ」では、乳母抜擢の背景と、家光の世継ぎ確立に貢献した「春日の抜参り」について詳述する。「第三部:大奥における権勢と役割」では、大奥制度の確立と「大奥法度」、そして将軍家光への影響力と政治への関与を明らかにする。「第四部:朝廷との関係と『春日局』の称号」では、称号拝受の経緯、官位叙任、さらには紫衣事件と後水尾天皇譲位への関与を考察する。「第五部:春日局を巡る諸説」として、特に注目される徳川家光生母説について、肯定・否定双方の論拠を検討する。「第六部:人物像と評価」では、史料に見る春日局の性格や能力、そして同時代及び後世からの評価を分析する。「第七部:晩年と遺産」では、その死と墓所、そして歴史的影響や現代に伝わるものを概観する。最後に「結論」として、春日局の生涯とその歴史的意義を改めて確認する。
斎藤福、後の春日局は、天正7年(1579年)に生を受けた 1 。複数の史料がこの生年で一致しており、彼女の生涯を辿る上での基本的な情報として高い信頼性を持つものと評価できる 3 。
福の父は斎藤利三(さいとう としみつ)である。利三は明智光秀の重臣として知られ、優れた軍略家であると同時に、和歌や茶の湯を嗜む高い教養の持ち主でもあった 1 。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変において、主君光秀に与し織田信長を討った後、山崎の戦いで羽柴秀吉軍に敗れ、捕縛された後に斬首された 6 。この父の非業の死と「逆賊の臣」という汚名は、幼い福の人生に大きな影を落とし、その後の苦難に満ちた道のりの始まりとなった。父利三の教養の高さが、福自身の知性や後の行動力に何らかの影響を与えた可能性も否定できない。
母は稲葉あん(稲葉一鉄(良通)の娘)である 1 。史料によっては「お安(あん)」とも記されている 7 。夫利三の死後、おあんは福を含む子供たちを連れて比叡山の麓に身を隠し、その後、母方の縁を頼って公家の三条西家に引き取られるなど、苦難の日々を送ったと伝えられる 6 。この母方の稲葉家との繋がりは、後に福が稲葉重通の養女となり、さらに稲葉正成に嫁ぐ上で重要な意味を持つことになった。
福の兄弟姉妹に関しては、史料 5 に父利三の子として利康、利宗、三存、七兵衛といった男子の名が見えるが、福以外の女子についての詳細は明らかではない。福は後に母方の伯父にあたる稲葉重通の養女となっており 4 、この養子縁組が彼女の身分をある程度安定させ、稲葉正成との結婚へと繋がる布石となった。
福の生誕地については諸説ある。一つは、父利三が丹波黒井城主であった時期に、丹波国春部荘(かすがべのしょう)(現在の兵庫県丹波市春日町)で生まれたとする説である 3 。丹波市春日町の興禅寺には、福の産湯に使われたとされる井戸や腰掛け石などの伝承が残り、生誕の地とする碑も建てられている 9 。もう一つは美濃説であるが、これは母方の実家である稲葉家が美濃の有力者であったことや、福が成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられる記述 8 などから推測されるもので、丹波説ほど具体的な伝承や直接的な史料に恵まれているわけではない。現状では、具体的な地名や伝承を伴う丹波説が有力視されるものの、福が幼少期から青年期にかけて美濃とも深い関わりを持っていたことは確かであり、父の死後の流転の生活の中で、母方の縁故を頼りに各地を転々とした様子が窺える。
父が明智光秀の重臣であったという事実は、福の生涯に決定的な影響を与えた。逆賊の娘という立場は、彼女の初期の人生を極めて困難なものにした。しかし、この逆境の中で母方の稲葉家や公家の三条西家に庇護された経験は、彼女に公家の教養を身につける機会を与えた 6 。後に徳川家光の乳母に選ばれる際、「京都に在住経験があり教養のある方」という条件が重視されたことを考えると 11 、父の悲劇的な死とそれに続く庇護生活が、皮肉にも彼女に新たな道を開くための素養を身につけさせたという因果関係が見えてくる。
斎藤福は、伯父である稲葉重通の養女となった後、その稲葉重通の婿養子であった稲葉正成(いなば まさなり)の後妻として嫁いだ 6 。正成は、元は林政秀の次男であったが、稲葉重通の婿養子となり、最初の妻(重通の娘)に先立たれたため、重通が姪にあたる福を養女として正成に娶わせたのである 13 。稲葉正成は、豊臣秀吉に仕えた後、小早川秀秋の家臣となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、主君秀秋を説得して東軍に寝返らせ、徳川家康の勝利に大きく貢献した人物として知られる 13 。
福と正成の間には、稲葉正勝、正定、正利といった子供たちが生まれた 4 。しかし、この結婚生活は長くは続かなかった。慶長9年(1604年)7月、福が徳川家光の乳母として採用されると、夫である正成とは離縁することになる 13 。
この離縁の理由については諸説あり、明確な定説はない 11 。夫婦仲が悪かったためという説 11 、当時の幕府の規定によるものという説 11 、福が将軍家の乳母に上がるために形式的に離縁したという説 14 などが挙げられる。さらに具体的には、正成が愛人を作ったことに福が激怒したためという説、福が正成に相談なく乳母に応募したことに正成が怒ったためという説、乳母に採用されたことを知った正成が「妻の威光で出世した」と噂されることを恥じたためという説、あるいは福が乳母として幕府に忠勤を尽くすことで夫の立身出世に繋がると考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したという説、さらにはこれら全てが口実であり、正成を徳川家康に仕官させるために夫婦があらかじめ示し合わせて離縁したという説まで存在する 13 。テレビドラマなどでは、福が家に押し入った夜盗を刺殺してしまい、それを「自分の評判に関わる」とした正成から離縁を言い渡されるという創作もなされている 16 。
いずれの説が真実であるかは定かではないが、福の乳母就任と離縁が同時期であることから、幕府への奉公が直接的な引き金となった可能性は極めて高い。重要なのは、この離縁が必ずしも夫婦関係の破綻を意味するものではなかったかもしれないという点である。事実、離縁後も福と稲葉家の関係は良好であり、福が産んだ子である稲葉正勝が後に稲葉家の家督を継いでいる 13 。これは、この離縁が個人的な感情のもつれによるものではなく、福の新たな社会的役割と稲葉家の将来双方にとって、ある種の戦略的な判断や合意に基づく「形式的な離縁」であった可能性を強く示唆している。特に「正成を家康に仕官させるために示し合わせて離縁したとする説」 13 は、夫婦双方がそれぞれの将来を見据えた上での、ある種の協力関係に基づく行動であった可能性を浮き彫りにする。当時の女性にとって、将軍家の乳母という立場は極めて名誉であり、そのために従来の家族形態を解消する必要があったとしても不思議ではない。
慶長9年(1604年)、第二代将軍徳川秀忠の嫡男として竹千代(後の三代将軍徳川家光)が誕生すると、その乳母の選定が京都所司代であった板倉勝重を通じて行われた 12 。この乳母募集の背景には、秀忠の正室であったお江の方(崇源院)の意向が強く反映されていたとされる。お江の方は、「野暮で無骨な関東の女に我が子を育てられるのは好まない」という考えを持っていたため、教養のある京都在住経験者から乳母を選ぶことになったのである 17 。
このような状況下で、斎藤福は乳母に応募した。その理由としては、当時の夫稲葉正成が関ヶ原の戦い後に小早川秀秋と対立して浪人となり、美濃で半農生活を送っていた苦しい状況から抜け出すため 11 、また、夫や子供たちの将来を考えてのことだったとも伝えられる 17 。
福が乳母として選ばれた理由は複数考えられる。第一に、彼女自身の資質、特に幼少期に母方の縁故である公家の三条西家で学んだ書道、歌道、香道といった高い教養が評価されたことである 11 。第二に、夫である稲葉正成が関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋を説得して東軍に寝返らせ、徳川方の勝利に貢献した戦功が考慮されたこと 12 。第三に、そしてこれが有力な説とされるが、竹千代の祖父である徳川家康が、稲葉正成を通じて以前から福と面識があり、家康自身が福の乳母選任に深く関与したというものである 11 。その他、福が容姿端麗であったため秀忠の目に留まったという説や 19 、家康と個人的に親しい間柄であったために重用されたという説も存在する 18 。
特筆すべきは、福の父が本能寺の変の首謀者の一人である斎藤利三であったにも関わらず、その出自が乳母選定の障害とならなかった点である 20 。これは、徳川家康の織田信長に対する感情が単純なものではなく、実利を重んじる彼のプラグマティックな人材登用の一面を示しているのかもしれない。また、福自身が持つ資質や稲葉家との繋がり、あるいは家康との間に何らかの信頼関係が存在したことを強く示唆している。
乳母の公募という形式は取られたものの、実際には家康を中心とする幕府中枢による選定が行われた可能性が高い。これは、将来の将軍の養育という極めて重要な任務を、単なる能力だけでなく、信頼のおける人物に託そうとする幕府側の強い意志の表れと言えるだろう。福の豊かな教養は、単に乳を与えるという役割だけでなく、将来の将軍の傅育役としての期待も込められていたと考えられる。この乳母抜擢は、福の人生における大きな転機となり、後の大奥での権勢を築く上での第一歩となったのである。
徳川家光(幼名:竹千代)の乳母となった斎藤福(後の春日局)にとって、その後の道のりは決して平坦なものではなかった。家光には慶長11年(1606年)に生まれた弟・国松(後の駿河大納言徳川忠長)がおり、父である将軍秀忠と母お江の方は、この国松を溺愛した 11 。聡明で容姿も優れていたとされる国松に対し、家光は病弱で内向的な性格であったため、両親の愛情は次第に国松へと傾いていった 21 。
この状況は、家光の将軍継嗣としての地位を危うくするものであった。幕臣たちも両親の意向を忖度し、国松を次期将軍と見なす風潮が強まり、家光は孤立感を深めていった。一説には、12歳の時に自害を試みたとも伝えられるほど、その立場は不安定であった 19 。
福は、この事態を深く憂慮し、家光の将来、ひいては自らの立場にも危機感を抱いた 14 。秀忠に家光の境遇改善を訴えても状況は変わらなかったため、福は最後の望みを託し、駿府に隠居していた大御所徳川家康に直訴することを決意する 11 。
元和元年(1615年)、福は「伊勢神宮参詣」を名目として江戸を離れ、駿府城の家康に謁見した 11 。乳母の身でありながら、将軍家の世継ぎ問題について大御所に直訴するという行動は、当時の身分制度を考えれば極めて異例かつ大胆なものであり、失敗すれば厳罰を免れない危険な賭けであった。家康は当初、福の訴えをにわかには信じなかったとも言われるが、後に江戸城を訪れて実情を目の当たりにすると、事の重大さを認識した。そして、秀忠夫妻や重臣たちを呼び集め、「長幼の序」(年長者を敬い、年少者はそれに従うべきとする秩序)を改めて明確にし、家光が徳川宗家を継ぐべきであるとの意思を表明したのである 11 。
この一連の出来事は「春日の抜参り」として後世に語り継がれ、福の家光への深い忠誠心、卓越した政治的判断力、そして不退転の決意と行動力を示す象徴的な逸話となっている。家康の鶴の一声により、家光の将軍継嗣としての地位は盤石なものとなり、同時に福の乳母としての立場も確固たるものとなった。この家康の介入は、徳川将軍家内部の潜在的な分裂危機を未然に防ぎ、幕府の安定に大きく寄与したと言えるだろう。福のこの行動は、単なる乳母の忠義心の発露というだけでなく、家光が廃嫡されれば自らの立場も失われるという、自身の政治的生存を賭けた戦略的な行動であったとも解釈できる。家康が福の訴えを最終的に聞き入れた背景には、単に長幼の序を重んじたというだけでなく、家光の資質を評価していたことや、お江・秀忠の国松への偏愛が将来的な幕政の不安定要因になりかねないという、大局的な判断があった可能性も考えられる。福は、家康が最も懸念するであろう「御家騒動」の危険性を的確に訴え、その心を動かすことに成功したのである。この成功体験は、春日局のその後の権力掌握への大きな布石となったと言えよう。
徳川家康が江戸城の大規模な増築を行った際、将軍が政務を行う「表」と、将軍の家族が生活する私的な空間である「奥」とが明確に区分された。これが、後に「大奥」と呼ばれる組織の原型となった 24 。当初、奥の支配者は二代将軍秀忠の正室お江の方であったが、この頃の奥にはまだ側室は居住していなかったとされる 24 。
春日局が大奥の制度確立に本格的に乗り出すのは、家光の母であるお江の方が寛永3年(1626年)に没した後である。これ以降、春日局は大奥の最高実力者として、その組織運営に辣腕を振るうことになる 23 。彼女は、大奥の役職を整理し、厳格な規律を定めた「大奥法度」を制定・改定するなど、大奥を機能的な組織へと構造的に整備していった 23 。この春日局によって基礎が築かれた大奥の制度は、幕末の江戸城無血開城まで約250年間にわたり存続することになる 11 。
「大奥法度」の具体的な内容については、断片的な記録からその一端を窺い知ることができる。初期の法度は元和4年(1618年)、徳川秀忠の時代に定められたもので、「男性の江戸城大奥への立ち入りは原則禁止」「夜六時以降の奥女中の出入り禁止」といった基本的な規則が含まれていた 27 。春日局が関与したとされる後の改定では、大奥内部の情報の外部への漏洩を厳しく禁じる条項や、賄賂の授受を禁止する条項などが加えられたとみられる 27 。例えば、「御紋付の御道具類一切私用にかし申ましき事」(徳川家の紋が付いた道具を私的に貸し借りしてはならない) 27 や、「めしつかいの女のうち もし見届さるやうすのものハ 早々おきかへ申へく候」(怪しい様子の使用人は速やかに解雇すること) 27 、「走り女(門限間際に駆け込む女中)は然るべき理由があっても追い返すこと」 24 といった具体的な規定が存在した。また、御広敷役人であった天野、成瀬、松田といった男性役人が一昼夜交代で大奥の入り口である御広敷に詰め、違反者があれば注進する義務を負っていたことも記録されている 24 。
大奥の職制整備に関しては、春日局が「将軍様御局(おつぼね)」として、大奥における女性に関する事柄の全てを一人で裁断したと伝えられている 26 。御年寄や上臈御年寄といった大奥の主要な役職の整備にも、彼女が深く関与したことは想像に難くない。史料には、祖心という女性が家光及び四代将軍家綱の二代にわたって仕え、老中と直接金銭のやり取りをしていた記録も残っており 28 、大奥女中が幕政にも影響力を持っていたことを示唆している。
春日局が大奥の制度確立に心血を注いだ最大の目的は、将軍の世継ぎを確実に儲け、徳川将軍家の血筋を永続させることにあった 14 。特に、三代将軍家光は男色を好み、正室の鷹司孝子との仲も芳しくなく、世継ぎの誕生が危ぶまれる状況であった 14 。この危機感から、春日局は自ら家光の好みに合うような女性たちを大奥に集め、側室として仕えさせたのである 14 。
春日局による大奥の制度化は、単に将軍家の私生活の場を管理するという範疇を超え、徳川将軍家の権力基盤を強化し、その永続性を担保するための高度な政治的意図に基づいていたと言える。大奥法度の制定は、内部の秩序維持のみならず、外部からの情報漏洩を防ぎ、将軍家のプライベートを幕府の厳格な統制下に置くことを目的としていた。春日局が大奥を整備したことは、女性が組織運営において高い能力を発揮し得ることを示す好例であると同時に、大奥が「男子禁制」の閉鎖的な空間として確立されたことが、後に大奥女中たちが独自の権力を持つに至る素地を形成したとも言えるだろう。
春日局の権勢は、将軍徳川家光からの絶大な信頼に支えられていた。幼少期より病弱で、両親との関係も複雑であった家光にとって、乳母である春日局は母親以上の存在であり、精神的な支柱でもあった 4 。家光は春日局の言うことには素直に耳を傾け、その影響を強く受けたとされる 29 。
春日局の影響力は、大奥内部に留まらず、幕府の「表」の政治、すなわち幕政にまで及んだ。彼女の発言力は非常に大きく、その権勢は老中をも凌駕するほどであったと伝えられている 23 。後に老中として幕政の中枢を担う堀田正盛や松平信綱といった人物たちも、若い頃から家光の側近くに仕え、春日局の薫陶を受けて育ったとされる 23 。また、春日局は徳川将軍家と他の大名家との婚姻政策にも深く関与していた 25 。
春日局の権勢を背景に、彼女の縁故者たちは次々と幕府の要職に登用され、異例の出世を遂げた。かつての夫であった稲葉正成は二万石の大名に取り立てられ 23 、春日局との間に生まれた長男の稲葉正勝は老中という最高幹部にまで昇進した 23 。兄の斎藤利宗や三存も旗本として召し抱えられた 23 。春日局が亡くなる直前には、家光自らが、春日局の孫娘(稲葉正則の娘)と堀田正俊(堀田正盛の子)との婚約、そして稲葉正則の妹と譜代大名の酒井忠能との婚約を発表している。これは、春日局ゆかりの新興譜代大名である稲葉氏や堀田氏を、門閥譜代大名である酒井氏と結びつけることで、彼らの地位を盤石にしようとする家光の意図の表れであり、春日局への配慮の深さを示すものであった 8 。
春日局自身も、その功績と権勢に見合う破格の待遇を受けていた。江戸城外の代官町や春日町(現在の東京都文京区春日、この地名は春日局の屋敷があったことに由来する 4 )に広大な屋敷を拝領し、三千石の知行地を与えられていた 23 。
家光が天然痘を患った際には、春日局が薬断ちをしてその平癒を祈願し、家光が亡くなるまでそれを続けたという逸話も残っており 19 、二人の間の深い絆を物語っている。
春日局の政治への関与は、公式な役職に基づかない「乳母」という立場から行われたものであり、徳川幕府初期の政治システムにおける非公式な権力行使の典型例と言える。これは、当時の幕政がまだ完全に制度化されておらず、将軍個人の信頼関係や個人の力量が政治に大きな影響を与え得たことを示している。春日局が老中をも凌ぐ権力を持ったとされる背景には、家光の絶対的な信頼に加え、大奥という情報が集積し、かつ外部から遮断された空間を完全に掌握していたことが大きい。将軍への情報伝達ルートの独占と、将軍の私生活への深い関与が、彼女の比類なき権力の源泉であったと考えられる。この強大な影響力は、縁故者の登用や自身の待遇向上にも繋がり、春日局を中心とする一つの勢力圏を幕府内に形成するに至ったのである。
寛永6年(1629年)、春日局は徳川家光の疱瘡治癒を祈願するためとして伊勢神宮へ参拝し、その帰途に京へ上った 11 。この上洛の真の目的は、表向きの伊勢参宮とは別に、当時の将軍秀忠(大御所)の内意を受け、紫衣事件などで悪化していた幕府と朝廷の関係を修復し、特に後水尾天皇との融和を図ることにあったとされる 17 。
しかし、武家の女性である春日局がそのまま御所に昇殿することは、当時の慣習からして許されることではなかった。そこで、彼女はかつて自身が世話になったことのある公家の名門、三条西実条の猶妹(義理の妹)という資格を得て、「三条西福子」あるいは「藤原福子」として正式に参内する手続きを踏んだ 11 。
宮中に参内した春日局は、後水尾天皇に拝謁し、そこで「春日局」の称号と従三位という破格の官位を賜った 1 。さらに、寛永9年(1632年)に再び上洛した際には、従二位へと昇叙された 12 。この従二位という位は、かつて朝廷を席巻した平清盛の妻・平時子や、鎌倉幕府の尼将軍と称された源頼朝の妻・北条政子に匹敵するものであり、一介の乳母であった女性がこれほどの高位に叙せられたことは、まさに前代未聞の出来事であった 12 。
「春日局」という称号の具体的な由来については、史料上明確な記述を見出すことは難しい。朝廷から下賜されたものであることは確かであるが 4 、その選定理由についてはいくつかの推測が可能である。一つは、春日局の生誕地とされる丹波国春部荘(かすがべのしょう) 3 との関連である。また、より有力な説として、藤原氏との関連性が挙げられる。春日大社は藤原氏の氏神を祀る神社であり 36 、春日局が公家の三条西家(藤原氏の流れを汲む)の猶妹となったことも、「春日」という藤原氏ゆかりの称号が選ばれた背景にあると考えられる。
春日局の昇殿と異例の叙任は、彼女個人の政治的影響力の大きさと、幕府の朝廷政策における彼女の役割の重要性を示すものである。幕府は、朝廷の伝統的権威を形式上は尊重しつつも、実質的な支配を強化しようとする二重戦略を展開しており、春日局に高い官位を与えることで、幕府の代表者としての彼女の格を高め、朝廷との交渉を円滑に進める狙いがあったと考えられる。「春日」の称号には、藤原氏との関連性を演出することで朝廷との結びつきを強調し、幕府の権威を補強するという深謀遠慮があったのかもしれない。無位無官の女性が天皇に拝謁するという前例のない事態に対し、公家の養女となるという形式を踏むことで、その正当性を確保しようとした幕府側の周到さも看取される。この一連の動きは、春日局が単なる将軍の乳母ではなく、幕府の外交使節としての重責をも担っていたことを内外に知らしめる結果となった。
紫衣事件は、江戸幕府が朝廷の権力を抑制し、その統制下に置こうとする過程で発生した、朝幕関係における重大な衝突事件である 39 。幕府は慶長20年(1615年)に制定した「禁中並公家諸法度」において、朝廷が高徳の僧侶に与える紫衣の勅許に対し、幕府への事前の申し出を義務付けるなど、厳しく干渉する姿勢を示していた 39 。
事件の直接的な発端は、寛永4年(1627年)、後水尾天皇が従来の慣例に従い、幕府に諮ることなく十数名の僧侶に対して紫衣の着用を勅許したことであった。これを知った幕府(三代将軍徳川家光政権下)は、法度違反であるとしてこの勅許を無効とし、京都所司代を通じて朝廷に紫衣の取り消しを命じた 39 。朝廷や、大徳寺の沢庵宗彭、妙心寺の東源慧といった高僧たちはこれに強く反発したが、幕府は強硬な態度を崩さず、寛永6年(1629年)には沢庵ら反抗的な高僧たちを流罪に処した 40 。
春日局が伊勢参宮後に上洛し、後水尾天皇に拝謁したのは、まさにこの紫衣事件が緊迫の度を増していた寛永6年(1629年)のことである。彼女の上洛の目的の一つが、この事件によって悪化した朝幕関係の修復にあったことは前述の通りである 26 。しかし、天皇側から見れば、幕府の強圧的な処置に対する不満が渦巻く中、無位無官の女性(形式的には三条西家の猶妹)である春日局が幕府の使者として拝謁を強行したことは、さらなる屈辱と受け取られた可能性が高い 40 。
そして、この春日局の拝謁直後とも言える同年の11月、後水尾天皇は幕府との事前の相談なしに、突然、娘の興子内親王(後の明正天皇)に譲位することを決行した 4 。天皇が腫れ物の治療のためにお灸を望んだ際、「天皇の玉体に傷をつけることはできない」と周囲に反対されたことが譲位の一因になったという説もあるが 46 、紫衣事件と春日局の拝謁が、天皇の譲位決断に大きな影響を与えたことは否定できない。
春日局の行動が、結果的に天皇の怒りを買い、譲位を早めたという見方も存在する 40 。しかし、より大きな視点で見れば、春日局の行動は幕府の朝廷に対する強硬姿勢の象徴であり、譲位の直接的な原因というよりは、長年にわたる幕府の朝廷統制強化策が引き起こした構造的な対立の帰結と捉えるべきであろう。幕府は後水尾天皇の突然の譲位に驚きつつも、これを追認し、この機に乗じて朝廷に対する統制を一層強化した 44 。春日局の行動は、幕府の力を背景にしたものであり、朝廷の伝統的権威に対する挑戦と受け取られた。これが天皇の尊厳を傷つけ、譲位という最終手段を選ばせるに至った重要な要因の一つと考えられる。紫衣事件とそれに続く春日局の拝謁、そして天皇の譲位という一連の流れは、幕府が朝廷の伝統的権威を形式上は尊重しつつも、実質的な権力は幕府が握っていることを内外に示すデモンストレーションであり、春日局はその駒として使われた側面と、自らその役割を積極的に果たした側面の両方を持っていたと言えるだろう。結果として、春日局の行動は、意図したか否かは別として、幕府の朝廷に対する優位性を確立し、その後の朝幕関係を規定する上で大きな影響を与えたのである。
春日局を巡る数ある説の中でも、特に注目を集めるのが、彼女が徳川三代将軍家光の実母であったとする「家光生母説」である。この説は、単なる憶測の域を超え、いくつかの史料的根拠とされるものと共に語り継がれてきた。
この説を支持する論拠として、まず江戸城内の紅葉山文庫に所蔵されていたとされる歴史書『松のさかへ』の記述が挙げられる。そこには「家光公のお腹は春日の局で、忠長公のお腹は御台所(お江の方)」と明確に記されていたという 19 。また、春日局の実家である稲葉家に伝わる家系典にも、「お福(春日局)は美麗だったので、秀忠の目に留まり、懐妊した。お福の子が家光公なり」との記述があり、乳母として公募される以前から大奥に出仕していたとされている 19 。さらに、春日局の菩提寺である麟祥院に残る文書には、彼女が「将軍の妻の役割を果たしていた」と解釈できる記述が存在するとも言われる 19 。
状況証拠とされるものも複数存在する。例えば、川越の喜多院に移築された江戸城の客殿と書院の配置について、竹千代(家光)誕生の間とされる客殿と、春日局の化粧の間とされる書院が隣接していることから、もし正室のお江の方が実母であれば、本来はお江の方の間であるべきではないかという指摘がある 19 。また、時系列的な疑問点として、春日局が稲葉正成と離縁してから家光が誕生するまで約5年が経過しており、その間に出産経験がない彼女が、家光誕生時に乳母として十分な乳が出たのかという根本的な疑問も提示されている 19 。さらに、家光誕生当時、お江の方は千姫の豊臣秀頼への輿入れに同行して大坂や京都に滞在しており、秀忠との間に家光を懐妊する機会が物理的に少なかったのではないかという点も指摘される 19 。
稲葉家に残る極秘文書には、「家光の生母が春日局であることは極秘にされて、お江の子とされた」との内容が記されているともいう 19 。春日局の家光に対する並々ならぬ献身ぶり、例えば、家光の廃嫡を阻止するために家康に直訴した行動や、家光が病に倒れた際に薬断ちをして平癒を祈願し続けたことなども、単なる乳母の情愛を超えた実母ならではの行動ではないかと解釈されることがある 19 。春日局が天皇に拝謁し、高位の官位と「春日局」の称号を得たことや、大奥で絶大な権勢を振るったことも、将軍の生母であったからこそ可能だったのではないか、という見方もこの説を補強する材料とされる 19 。
一方で、この生母説に対しては懐疑的な見解も根強い。九州大学の福田千鶴教授は、江戸城内の文書に生母説が明記されていることに驚きを示しつつも、歴史学界の専門家の間では、依然としてお江の方が家光の生母であるとの見解が主流であると指摘している 19 。また、「大奥という閉鎖された空間で、将軍の側室でもない女性が将軍の子を身ごもるようなことは考えにくい」という反論も存在するが、これに対しては、秀忠と女中の間に生まれた保科正之の例(お江の方の嫉妬を恐れて秘匿された)を挙げて、その可能性は完全には否定できないとする意見もある 19 。
史料批判の観点からは、『武家諫懲記後正』のような、大奥に関する情報を多く含む史料についても、その成立過程や信頼性について本格的な検討が十分に行われてこなかったという問題点も指摘されている 48 。
家光生母説は、複数の史料や状況証拠らしきものから提起されており、単なるゴシップとして片付けられない深みと複雑さを持っている。しかしながら、決定的な証拠に欠けるため、学術的には依然としてお江生母説が有力とされているのが現状である。この説が事実であったとすれば、春日局の家光擁立への執念、大奥における権力掌握、そして世継ぎ問題への異常なまでの介入といった行動の多くが、より自然に説明できることになる。また、徳川幕府が「逆賊(明智光秀)の家臣の娘」の血を引く人物を将軍として迎えるという、幕府の正統性に関わる重大な秘密を隠蔽したということにもなる。
ただし、生母説を支持するとされる史料の多くが、春日局自身やその縁故の深い家(稲葉家)や寺社(麟祥院)に由来するものであるという点は慎重に考慮する必要がある。これらは、春日局の権威を高める目的で後世に編纂されたり、あるいは解釈が加えられたりした可能性も否定できない。一方で、幕府側の公式記録である『徳川実紀』などが、お江生母説を採用するのは当然のことであり、真相は歴史の闇の中にあると言えるのかもしれない。現代的な視点からは、もし遺骨などが残存しているのであればDNA鑑定を行えば真相が明らかになるのではないか、という提案もなされている 19 。
家光生母説が事実であるか否かにかかわらず、このような説が生まれ、語り継がれてきた背景には、春日局と家光の間に存在した通常ならぬ親密な絆と、春日局が乳母という立場を超えて行使した並外れた影響力があったことは間違いない。この説の存在自体が、春日局という人物の特異性と、彼女が歴史に与えたインパクトの大きさを物語る一つの証左と言えるだろう。
春日局、すなわち斎藤福の人となりを史料から探ると、いくつかの際立った特徴が浮かび上がってくる。まず特筆すべきは、彼女が有した高い教養と知性である。幼少期に父を失い、母と共に苦難の日々を送る中で、母方の縁故である公家の三条西家に身を寄せた時期があった。この間に、書道、歌道、香道といった公家の洗練された文化や学問を身につけたとされ、これが後に徳川家光の乳母として選ばれる際の重要な資質の一つとなった 11 。
次に、彼女の性格を特徴づけるのは、逆境に屈しない強い意志と卓越した行動力である。最も象徴的なのは、家光の将軍継嗣としての地位が危うくなった際に、周囲の反対を押し切って駿府の徳川家康に直訴した「春日の抜参り」であろう 11 。これは、一歩間違えば自らの命をも失いかねない危険な賭けであったが、彼女は不退転の決意でこれを敢行し、見事に家光の地位を確立させた。また、大奥の制度を確立し、数々の法度を定めてその組織をまとめ上げた手腕にも、彼女の強い意志と実行力が表れている。
家光に対する深い愛情と揺るぎない忠誠心も、春日局の行動を理解する上で欠かせない要素である。病弱で内向的であった家光を献身的に養育し、その将来を守るためにあらゆる努力を惜しまなかった 19 。その愛情は、単なる乳母としての職務を超えた、母性にも似た深いものであったと推察される。家光が病に倒れた際には薬断ちをして平癒を祈願し、家光が亡くなるまでそれを続けたという逸話は、その献身ぶりを物語っている 19 。
さらに、春日局は優れた政治的手腕と交渉能力も備えていた。大奥という巨大な組織を効率的に運営し、その規律を維持しただけでなく、その影響力は幕政にも及び、時には老中をも動かしたとされる 23 。朝廷との交渉においても、幕府の使者として重要な役割を果たし、従二位という高位の官位と「春日局」の称号を得るに至ったことは、彼女の外交能力の高さを示すものである 11 。
一方で、情に厚く、恩義を忘れない人柄であったことも伝えられている。自身が苦境にあった際に助けられた人々に対しては、後に彼らの出世を後押しすることで恩返しをしたとされる 11 。
しかし、その強大な権力と影響力は、時に周囲から「口うるさい」「気位が高い」といった評価を生むこともあった。「お局様」という言葉が、現代において職場などで権力を持ち、口うるさい年長の女性を指す言葉として使われることがあるが、その語源の一つが春日局であるとする説もある 15 。
家光との関係においては、その影響力は絶大であった。家光は乳母である春日局の言うことにはよく耳を傾け、彼女の指南によって政治にも熱心に取り組むようになったとさえ言われている 29 。また、家光の実母であるお江の方とは、家光を巡って激しく対立したとされ、その確執は多くの逸話として残っている 21 。
総じて、春日局は、高い教養と知性、不屈の意志と行動力、そして卓越した政治感覚を併せ持った稀有な女性であったと言える。家光への深い愛情と忠誠心が彼女の全ての行動の原動力であり、それが結果として彼女に大きな権力をもたらした。その一方で、その権力志向や厳格さ、そして時には強引とも取れる手法に対しては、批判的な見方も存在したであろうことは想像に難くない。彼女の「強さ」は、幼少期に経験した父の死、流浪の生活、そして逆賊の娘という汚名といった逆境によって培われた可能性が高い。これらの経験が、彼女の不屈の精神と、自らの手で運命を切り開こうとする強い意志を形成したと考えられる。春日局の人物像は、単に「強い女性」というだけでなく、時代が求める役割(乳母、大奥の統率者、将軍の後見人)を的確に理解し、それを最大限に利用して自らの影響力を拡大していった戦略家としての一面も持つ。彼女の行動は、個人の感情だけでなく、徳川幕府の安定という大局的な視点からも動機づけられていた可能性があり、その多面性が彼女の人物像をより複雑で魅力的なものにしている。
春日局に対する評価は、彼女が生きた同時代から現代に至るまで、一様ではない。その立場や視点によって、称賛と批判が交錯する複雑な様相を呈している。
同時代においては、まず幕閣や大名からの評価が挙げられる。後に老中となる堀田正盛や松平信綱といった幕政の中枢を担う人物たちが、若い頃から家光の側近くに仕え、春日局の強い影響下で育ったとされることは、彼女の幕府内における発言力の大きさを物語っている 23 。また、彼女の縁故者たちが、その威光を背景に次々と要職に登用され、異例の出世を遂げた事実は 8 、周囲が彼女の権勢を認識し、ある者はそれを頼り、ある者はそれを警戒していたことを示唆している。朝廷からも、従二位という極めて高い官位と「春日局」の称号を授与されており 12 、その存在と影響力が公に認められていたことがわかる。しかしその一方で、無位無官の女性が天皇に拝謁するという前例のない事態や、紫衣事件における幕府の強硬な態度に対する朝廷側の反発も存在した 40 。幕府の公式記録である『徳川実紀』においては、家光の将軍継嗣確立に貢献した功労者として、総じて肯定的に描かれる傾向が見られるが、その記述の正確性や客観性については議論の余地がある 31 。
後世における評価としては、まず大奥という特異な組織を確立し、徳川幕府の長期的な安定に貢献した人物としての側面が強調されることが多い 11 。彼女の築いた大奥の制度は、将軍の世継ぎを安定的に確保するという点で、幕府の存続に不可欠な役割を果たしたと評価される。しかし同時に、その強大な権勢を振るった「女傑」としてのイメージも強く 23 、時には権謀術数を駆使して政敵を排除し、自らの地位を固めたという、やや否定的なニュアンスを伴って語られることもある。現代においては、「お局様」という言葉の語源の一つとされるように、組織内で権力を持ち、周囲に厳しく接する年長の女性の代名詞として、その名が引き合いに出されることもある 15 。
また、家光生母説をはじめとする様々な憶測や伝説が後を絶たないこと自体が、彼女がいかに人々の関心を引きつける存在であったかを物語っている。歴史小説やテレビドラマなど、大衆文化の中でも繰り返し描かれ、その人物像は英雄的な側面と、冷徹な権力者としての側面の両方から、多様に解釈され続けている 7 。
春日局の評価における肯定的側面としては、家光の将軍位確立への貢献、大奥制度の創設と運営、それによる幕政安定への寄与、そして何よりも家光への揺るぎない忠誠心と行動力が挙げられる。一方、批判的側面としては、その強大な権力を背景とした縁故主義的な人事、紫衣事件などで見られた朝廷に対する強圧的な態度、そして時に冷徹とも評される権力志向などが指摘される。
春日局に対する評価の多様性は、彼女が歴史の大きな転換期において、公式な役職や身分を超えた多岐にわたる役割を果たし、既存の秩序や価値観に大きな影響を与えたことの裏返しと言えるだろう。彼女の生涯は、男性中心の封建社会において、一人の女性がこれほどまでの影響力を持ち得たことの意義と、同時にその限界を示すものであった。そして、その評価が時代ごとの社会通念や女性観によって様々に変化してきたという事実は、歴史上の人物の評価がいかに多角的であるべきかを示唆している。
春日局、斎藤福は、寛永20年9月14日(1643年10月26日)にその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年65であった 1 。
その死に際して詠んだとされる辞世の句は、「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」というものである 8 。この句は、「西の極楽浄土へと沈んでいく美しい月を心に留めながら、仏の教えに従い、今日やっと、煩悩に満ちたこの世(火宅)から逃れることができる」といった意味に解釈され 4 、生涯を通じて権力の中枢にありながらも、晩年には仏道への帰依を深め、世俗の苦悩からの解放を願っていた心境が窺える。
春日局の法号は「麟祥院殿仁淵了義尼大姉(りんしょういんでんじんえんりょうぎにたいし)」という 8 。
彼女の墓所は、その影響力の広がりを反映してか、複数の場所に存在する。主要なものとしては、まず東京都文京区にある麟祥院が挙げられる。この寺院は春日局の菩提寺であり、彼女の死後、その冥福を祈って将軍徳川家光が建立したと伝えられている 4 。麟祥院には春日局の墓のほか、彼女の木像や記念碑も残されている 8 。
京都市左京区にある金戒光明寺も、春日局の墓所の一つとして知られている 4 。興味深いことに、金戒光明寺には、生前春日局と対立したとされる家光の母・お江の方(崇源院)や、弟・徳川忠長の供養塔も建立されているという 19 。これが春日局自身の遺志によるものか、あるいは別の経緯によるものかは定かではないが、もし彼女の意向が反映されているとすれば、晩年に至ってかつての対立者たちへの何らかの思いがあった可能性も考えられ、その心境の複雑さを物語る。
その他、神奈川県小田原市の紹太寺 8 や、京都の妙心寺の塔頭である麟祥院(東京の麟祥院とは別)にも墓所があるとされる 4 。
このように複数の地に墓所や菩提寺が存在することは、春日局がいかに広範な人々と関わりを持ち、各地の縁故者から追慕の念を寄せられていたかを示している。特に、将軍家光自らが菩提寺を建立したという事実は、家光の春日局に対する深い感謝と敬愛の念を物語っており、単なる乳母と養い子の関係を超えた、特別な精神的な絆が存在したことを強く示唆している。
春日局が歴史に残した影響は計り知れない。その最大の遺産は、江戸城大奥の制度を確立し、その後の約250年間にわたる徳川幕府の安定と存続に、間接的ながらも大きく貢献したことであると言えるだろう 4 。大奥は、将軍の世継ぎを安定的に供給する機関として機能し、徳川将軍家の血筋を維持する上で不可欠な役割を果たした。
また、将軍の乳母という立場を超えて幕政に深く関与し、その発言力は時として老中をも凌いだとされることは、近世初期の政治運営における女性の潜在的な影響力を示す事例として重要である。彼女の行動は、後の大奥のあり方や、幕府内における女性の役割にも一定の影響を与えた可能性がある。
春日局ゆかりの文化財も数多く現存し、彼女の存在を今日に伝えている。菩提寺である麟祥院には、小堀遠州作と伝えられる春日局の木像が安置されており 4 、また、湯島の麟祥院には、狩野探幽筆とされる春日局の肖像画が所蔵されている 4 。西翁院には春日局作と伝わる本尊阿弥陀如来像が祀られ 4 、京都の真如堂には春日局が植えたと伝えられる立派な桜の木(立皮桜)が現存する 4 。さらに、徳川家光から下賜されたとされ、後に国宝に指定された曜変天目茶碗(通称「稲葉天目」)は、春日局の子孫である淀藩主稲葉家に代々伝えられ、現在は静嘉堂文庫美術館に所蔵されている 8 。近年では、西本願寺において春日局の直筆とされる手紙も発見されており 4 、彼女の人物像や当時の状況を伝える貴重な一次史料として注目される。
彼女の名は地名にも残されている。東京都文京区「春日」は、かつて春日局の広大な屋敷があったことに由来すると言われている 4 。
その他、家光の偏食を心配した春日局が、様々な種類の飯(白飯、赤飯、麦飯、粟飯など)を用意して食事の改善を図ったという「七色飯」の逸話 4 や、江戸城内の春日局の居室であった「化粧の間」が、後に川越大師喜多院に移築され現存していることなども 19 、彼女の生涯を彩るエピソードとして語り継がれている。
春日局が創設・確立した大奥というシステムは、将軍の権威を強化し、世継ぎを安定させるという肯定的な側面を持つ一方で、女性を政治の表舞台から隔離し、世継ぎを生むための道具として扱うという批判的な側面も内包していた。春日局の物語は、逆境を乗り越えて権力を掴んだ一人の女性の成功譚として、また、権謀術数が渦巻く政治の世界でたくましく生き抜いた女性の姿として、現代に至るまで多くの人々の関心を引きつけてやまない。彼女の生涯は、歴史における女性の役割や可能性、そして権力との関わり方について考える上で、多くの示唆を与えてくれると言えるだろう。その功績と影響力の大きさは、数々の文化財や伝承、そして地名や言葉の中に、今もなお生き続けているのである。
本報告では、斎藤福、後の春日局の生涯と業績について、現存する史料に基づき多角的な検証を試みた。逆賊の家臣の娘という不遇な出自から身を起こし、知性と行動力をもって徳川三代将軍家光の乳母の地位を獲得した福は、単に養育係に留まらず、家光の将軍継嗣確立に決定的な役割を果たした。
その後、お江の方の死を契機に大奥の最高実力者となり、その組織と制度を確立、「大奥法度」を定めるなどして、将軍家の世継ぎ問題と私生活を盤石なものとした。その影響力は「表」の政治にも及び、老中をも凌ぐ権勢を振るったとされる。また、幕府の使者として朝廷との交渉にもあたり、「春日局」の称号と従二位という破格の官位を得るに至った。紫衣事件や後水尾天皇の譲位といった、朝幕関係における重大事件にも深く関与したことは、彼女の政治的役割の重要性を示している。
一方で、家光の実母ではないかとする説も根強く存在し、これは彼女と家光の間の並々ならぬ絆と、彼女の異例なまでの権勢を背景に生まれたものと考えられる。その真偽はともかく、このような説が語り継がれること自体が、春日局という人物の特異性を物語っている。
春日局の生涯は、近世初期という男性中心の社会において、一人の女性がいかにして自らの道を切り開き、大きな影響力を行使し得たかを示す稀有な事例である。彼女の行動は、時に強引とも評されるが、その根底には家光と徳川幕府に対する強い忠誠心があったと見られる。彼女が築き上げた大奥の制度は、その後の江戸時代の安定に貢献した一方で、女性の役割を固定化する側面も持っていた。
春日局という人物を通じて、我々は近世初期における女性の生き方の一つの極致、そして権力との複雑な関わり方を垣間見ることができる。彼女の生涯は、多くの文化財や伝承として現代に残り、歴史研究の対象としてだけでなく、文学や演劇の題材としても繰り返し取り上げられ、その多面的な人物像は今もなお我々の関心を引きつけてやまない。今後の研究においては、未発見の史料の探索や、既存史料のより緻密な再検討を通じて、春日局の実像とその歴史的意義について、さらに深い理解が得られることが期待される。
春日局 略年表
年号 |
西暦 |
主な出来事 |
典拠例 |
天正7年 |
1579年 |
斎藤福(後の春日局)、誕生。 |
1 |
天正10年 |
1582年 |
本能寺の変。父・斎藤利三、山崎の戦いで敗死。 |
6 |
(不明) |
(不明) |
稲葉重通の養女となる。稲葉正成と結婚。 |
6 |
慶長9年 |
1604年 |
徳川家光(竹千代)誕生。福、家光の乳母に選任される。稲葉正成と離縁。 |
12 |
元和元年 |
1615年 |
「春日の抜参り」。駿府の徳川家康に直訴し、家光の将軍継嗣を確実なものとする。 |
11 |
元和4年 |
1618年 |
大奥法度が定められる(秀忠時代)。春日局、大奥制度整備に関与し始める。 |
11 |
寛永3年 |
1626年 |
家光の母・お江の方(崇源院)死去。春日局、大奥の統率権を掌握。 |
23 |
寛永6年 |
1629年 |
伊勢神宮参拝後、上洛。後水尾天皇に拝謁し、「春日局」の称号と従三位を賜る。紫衣事件が深刻化、後水尾天皇譲位。 |
17 |
寛永9年 |
1632年 |
再上洛し、従二位に昇叙される。 |
12 |
寛永20年 |
1643年 |
9月14日、死去。享年65。 |
1 |
春日局 関係人物一覧
人物名 |
続柄・関係 |
簡単な説明 |
典拠例 |
斎藤利三 |
父 |
明智光秀の重臣。本能寺の変後、山崎の戦いで敗死。 |
1 |
稲葉あん(お安) |
母 |
稲葉一鉄(良通)の娘。夫利三の死後、福らと苦労を重ねる。 |
1 |
稲葉一鉄(良通) |
母方の祖父 |
美濃の戦国武将。 |
1 |
稲葉重通 |
養父(母方の伯父) |
福を養女とし、稲葉正成に嫁がせる。 |
4 |
稲葉正成 |
夫(後に離縁) |
小早川秀秋の家臣。関ヶ原の戦いで東軍勝利に貢献。 |
13 |
稲葉正勝 |
長男 |
後に老中に出世。 |
23 |
徳川家康 |
徳川幕府初代将軍 |
福を家光の乳母に選任する際に関与したとされる。「春日の抜参り」で福の直訴を聞き入れ、家光の世継ぎを決定。 |
11 |
徳川秀忠 |
徳川幕府二代将軍、家光の父 |
当初、次男忠長を溺愛。家康の裁定に従う。 |
14 |
お江の方(崇源院) |
秀忠の正室、家光の母 |
家光よりも忠長を寵愛し、春日局と対立したとされる。 |
21 |
徳川家光 |
徳川幕府三代将軍、春日局が養育 |
乳母である春日局を深く信頼し、その影響を強く受けた。 |
29 |
徳川忠長(国松) |
家光の弟 |
両親に溺愛されたが、後に改易、自害。 |
11 |
三条西実条 |
公家 |
春日局が上洛し昇殿する際、猶妹(義妹)の関係を結ぶ。 |
23 |
後水尾天皇 |
第108代天皇 |
春日局に称号と官位を授与。紫衣事件を機に譲位。 |
17 |
板倉勝重 |
京都所司代 |
家光の乳母を公募。 |
12 |
堀田正盛 |
老中 |
春日局の影響下で育ち、家光の側近として重用された。 |
23 |
松平信綱 |
老中 |
「知恵伊豆」と称される。春日局の影響下で育ち、幕政の中枢を担う。 |
23 |