最終更新日 2025-05-26

櫛橋光

櫛橋光

日本の戦国時代を生きた女性「櫛橋光」に関する調査報告

序章:櫛橋光という女性

本報告書の目的と概要

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた一人の女性、櫛橋光(くしはし みつ、後の照福院)の生涯と人物像を、現存する史料に基づき多角的に明らかにすることを目的とします。黒田官兵衛孝高の正室として、また福岡藩の礎を築いた黒田長政の母として、彼女が歴史の中で果たした役割やその意義について考察を深めます。櫛橋光に関する情報は断片的であるものの、それらを丹念に繋ぎ合わせることで、戦乱の世にあって夫を支え、家を守り、信仰に生きた一人の女性の実像に迫ります。

戦国時代における女性の立場と櫛橋光

戦国時代の女性は、その多くが家と家を結ぶ政略結婚の駒として扱われ、その生涯は実家や嫁ぎ先の家の盛衰に大きく左右されました。歴史の表舞台で活躍する武将たちの陰で、女性たちは家の存続や繁栄のために重要な役割を担っていましたが、その具体的な姿が記録として残されることは稀でした。しかし、そのような時代にあっても、櫛橋光のように、夫を献身的に支え、数々の困難を乗り越え、篤い信仰心を持って家を守り抜いた女性たちの存在は、歴史の深層において重要な意味を持っています。櫛橋光の生涯を丹念に追うことは、単に一個人の記録を辿ることに留まらず、戦国という特異な時代を生きた一人の女性の具体的な生き様と、その時代における女性のありようの一端を明らかにする試みと言えるでしょう。

第一章:櫛橋光の出自と黒田官兵衛への輿入れ

櫛橋家の歴史と播磨における立場

櫛橋光の生家である櫛橋氏は、室町時代に播磨国(現在の兵庫県南西部)の守護を務めた赤松氏に古くから重臣として仕え、東播磨の目代として活動した記録が残る一族です 1 。戦国時代に入ると、播磨国加古郡の志方城(現在の兵庫県加古川市志方町)を拠点とする在地豪族の一つとして勢力を有していました 1 。しかし、織田信長の勢力が播磨に伸長してくると、周辺の他の豪族と同様に、その対応に苦慮することになります。最終的には、同じ東播磨の有力豪族であった三木城の別所長治が織田氏に反旗を翻した際にこれに同調し、織田軍の攻撃を受けて鎮圧され、志方城は落城。これにより、播磨における櫛橋氏の宗家は事実上滅亡しました 1

光の父については、志方城主であった櫛橋伊定(くしはし これさだ)であると一般的に認識されています 3 。しかしながら、『黒田家譜』や地元の弘善寺の史料においては「豊後守則伊(ぶんごのかみ のりこれ)」という名も見られるなど、記録には錯綜が見られます 5 。これは、戦国時代の地方豪族に関する史料が断片的であったり、後世の編纂物において情報が混同されたりすることの難しさを示す一例と言えるでしょう。

櫛橋家の歴史を辿ると、その盛衰が光の人生に大きな影響を与えたことがうかがえます。赤松氏の重臣としての地位から、戦国時代の在地領主としての自立、そして織田勢力との対立と滅亡という流れは、光が黒田家に嫁ぐ前後の播磨の複雑な政治状況を反映しています。

表1:櫛橋氏主要人物とその動向

人物名

続柄・役職など

主な動向

典拠

櫛橋 伊定

光の父、志方城主

娘の光を黒田官兵衛に嫁がせる。織田信長に反旗を翻した別所長治に同調し、後に織田軍に降伏、開城したとされる 6 。一説には自害したとも伝わる 7

3

櫛橋 政伊

光の兄、左京進

父・伊定(または則伊)と共に志方城を守る。織田軍の攻撃により敗北し、天正6年(1578年)に自刃したとされる 1

1

櫛橋 則伊

伊定の父(一説)、または伊定と同一人物か

赤松氏の重臣として活動。志方城を築き居城とした 1 。『黒田家譜』などでは光の父を則伊とする記述もある 5

1

櫛橋 左京亮

櫛橋氏代々の当主が用いた官途名

歴代当主の多くが「左京亮」を名乗った 1

1

櫛橋氏の子孫

光の甥・櫛橋定重など

櫛橋氏滅亡後、光の縁により黒田孝高に養われ、福岡藩士として存続した 1

1

この表からもわかるように、櫛橋家は播磨の戦国史において一定の役割を果たしましたが、最終的には時代の大きな波に飲み込まれていきました。光の父や兄の最期は、彼女の心に深い影を落としたであろうことは想像に難くありません。

光の誕生と成長、結婚前の状況

櫛橋光は、天文22年(1553年)に、播磨国志方城主・櫛橋伊定の娘として生を受けました 3 。彼女には兄の櫛橋政伊や姉の妙寿尼(みょうじゅに)など、7人の兄妹がいたと伝えられています 3 。戦国時代の武家の娘として、光もまた、当時の女性に求められる教養や礼儀作法、そして家を守るための心構えなどを身につけながら成長したと考えられますが、結婚前の彼女の具体的な様子を伝える史料は残念ながら乏しいのが現状です。

しかし、一つの興味深い逸話が残されています。それは、光の父・伊定が、娘と黒田官兵衛との結婚の1年前に、官兵衛に対して赤格子の兜と胴丸具足を贈ったというものです 10 。戦国時代の婚姻が多分に政略的な意味合いを持つ中で、このような個人的な贈り物がなされたという事実は、伊定が単に家と家との結びつきを求めただけでなく、官兵衛という人物の将来性や才能を高く評価し、娘の夫としてふさわしい器量の持ち主であると認めていたことを強く示唆しています。そしてそれは同時に、娘である光自身もまた、そのような優れた武将の妻となるにふさわしい資質と評判を備えていたことの証左とも言えるでしょう。この逸話は、光が結婚前から、その人間性や才覚において周囲から一定の評価を得ていた可能性を物語っています。

黒田官兵衛との結婚とその背景

光が黒田官兵衛孝高(後の如水)に嫁いだのは、永禄10年(1567年)頃、彼女が15歳の時でした。官兵衛は光より8歳年長であったと記録されています 3 。この婚姻は、官兵衛の主君であった小寺政職の養女という形をとって行われたとも 10 、あるいは小寺氏との関係をより強固にするための政略結婚であったとも言われています 11 。当時の播磨の情勢を鑑みれば、周辺豪族との連携を深めるという政治的な意図があったことは想像に難くありません。

しかし、この結婚には、単なる政略を超えた側面があった可能性も示唆されています。一説によれば、当初は光の姉が官兵衛に嫁ぐ予定でしたが、光自身が官兵衛に対して密かに好意を抱いており、自ら名乗り出て嫁いだとも伝えられています 11 。もしこれが事実であるならば、光の主体性と、自らの意志で運命を切り開こうとする情熱的な一面を物語るエピソードと言えるでしょう。

この結婚を一つの契機として、官兵衛は父である黒田職隆から家督を譲り受け、黒田家の当主となりました 3 。そして、結婚の翌年である永禄11年(1568年)には、二人の間に長男の松寿丸(しょうじゅまる)、後の福岡藩初代藩主となる黒田長政が誕生しています 3

特筆すべきは、戦国武将としては異例なことに、黒田官兵衛が生涯を通じて側室を持つことなく、光ただ一人を正室とし続けたという事実です 4 。当時の武家社会の慣習からすれば、家の存続や勢力拡大のために複数の妻を持つことは決して珍しいことではありませんでした。そのような中で官兵衛が光のみを生涯の伴侶としたことは、二人の間に単なる政略を超えた深い愛情と信頼関係が育まれていたことを強く示唆しています。たとえその始まりが政略的なものであったとしても、夫婦として共に多くの困難を乗り越える中で、揺るぎない絆が結ばれていったのでしょう。この事実は、光の人間的魅力や「内助の功」がいかに大きかったかを物語るものと言えます。

第二章:戦国の動乱と光の試練

夫・黒田官兵衛の有岡城幽閉と光の苦難

櫛橋光の人生における最初の大きな試練は、夫である黒田官兵衛の有岡城(伊丹城)幽閉事件でした。天正6年(1578年)、官兵衛の主君であった小寺政職や、織田信長に仕えていた荒木村重が相次いで信長に反旗を翻すという事態が発生します。官兵衛は、旧知の間柄であった荒木村重を説得し、翻意させるために単身有岡城へ乗り込みましたが、逆に捕らえられ、土牢に監禁されるという不運に見舞われました。この幽閉は約1年間に及びました 3

この間、官兵衛の安否は全く分からず、姫路城で留守を守っていた光は、夫の身を案じ続ける筆舌に尽くしがたい日々を送ることになります。さらに悪いことに、官兵衛が人質として織田信長のもとに送っていた嫡男・松寿丸(当時10歳)の身にも危険が迫りました。信長は、官兵衛が荒木村重に寝返ったと誤解し、松寿丸を処刑するよう豊臣秀吉に命じたのです 3 。この絶望的な知らせは、光の耳にも届いていた可能性が高いと考えられます。夫の生死も分からぬ中、愛息の命まで奪われようとしている状況は、彼女にとってまさに奈落の底に突き落とされるような心境であったでしょう。円応寺の記録によれば、光はこの苦難の時期、「夫と子供の安否に心痛の時を阿弥陀さまに手を合わせ過ごしていました」とあり、ひたすら仏に祈りを捧げることで精神的な支えを求めていた様子がうかがえます 10

幸いにも、松寿丸は官兵衛の盟友であった竹中半兵衛重治の機転によって密かに匿われ、処刑を免れることができました 3 。しかし、この事実が光にすぐに伝えられたとは考えにくく、彼女はしばらくの間、最悪の事態を想定しながら過ごさなければならなかったはずです。夫の不在、生死不明、そして息子の処刑命令という、まさに極限とも言える状況を耐え抜いた経験は、光の信仰心を一層深めるとともに、彼女の人間的な強靭さを形作る上で決定的な影響を与えたと考えられます。この筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えたことが、後に「才徳兼備」と称される光の人物像を形成する上で、重要な精神的基盤となったことは想像に難くありません。

実家・櫛橋家の滅亡とその影響

黒田官兵衛が有岡城に幽閉され、生死不明の状態にあったまさにその時期、櫛橋光をさらなる悲劇が襲います。彼女の実家である播磨の櫛橋家が、織田信長に反旗を翻した別所長治に与同し、毛利方についたのです。これに対し、織田信長は羽柴秀吉に播磨平定を命じ、その過程で志方城も織田軍の攻撃対象となりました。激しい抵抗もむなしく志方城は落城し、光の兄である櫛橋政伊は自刃して果てました 1 。これにより、播磨における櫛橋氏の宗家は事実上滅亡の途を辿ることになります。一部の史料では、光の父・伊定が自らの命と引き換えに一族の赦免を願い出たとも伝えられていますが 7 、いずれにしても櫛橋家が受けた打撃は壊滅的なものでした。

夫の危機的状況に加え、実家の滅亡という二重の悲劇に見舞われた光の心痛は計り知れません。黒田家に嫁いだ女性として、実家が夫の主家である織田家に敵対し、その結果として滅び去ったという事実は、彼女の立場を非常に困難かつ微妙なものにしたと推察されます。夫への忠誠と、滅びた実家への複雑な想いの間で、彼女が深い葛藤を抱えていたとしても不思議ではありません。この経験は、光にとって耐え難い精神的な打撃であったと同時に、黒田家の一員としての自身の存在意義や役割を改めて問い直す契機となった可能性も否定できません。後に、櫛橋氏の縁者が黒田家に召し抱えられ、福岡藩士として存続することになる背景には 1 、光の存在と、彼女の黒田家における影響力が大きく作用したと考えられます。

関ヶ原合戦前夜の人質事件と光の対応

慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦が勃発する直前、櫛橋光は再び大きな危機に直面します。当時、豊臣秀吉亡き後の政権内部では、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との対立が激化していました。石田三成は、諸大名の妻子を人質として大坂城内に集め、東軍につこうとする大名たちを牽制しようと画策します。この時、大坂の黒田屋敷にいた光も、長男・長政の正室である栄姫(徳川家康の養女)と共に、人質の対象となりました 3

西軍による人質作戦が実行に移される中、細川忠興の妻・ガラシャが人質となることを拒絶し、壮絶な最期を遂げるという事件が起こります。この混乱に乗じて、黒田家の家臣たちは機転を利かせ、光と栄姫を屋敷から救い出すことに成功します。彼女たちは薦(こも)に包まれ、米俵に偽装されて運び出され、困難な道のりを経て、九州の中津城へと無事に送り届けられました 3 。この知らせを受けた官兵衛(当時は如水と号す)は大変喜び、領民を城内に招いて祝宴を催したと伝えられています。

この危機一髪の脱出劇の成功は、光自身が非常時においても冷静沈着さを失わなかったこと、そして何よりも黒田家の家臣たちから厚い信頼と忠誠を寄せられていたことの証左と言えるでしょう。日頃から家臣たちに慕われ、その人徳によって家中の結束を固めていたからこそ、このような危機的状況下においても、家臣たちは身を挺して主君の妻と嫁を救い出そうとしたと考えられます。この出来事は、光の「才徳兼備」と評される資質の一端が、危機管理能力や周囲の人々を動かす人間的魅力として現れたものと解釈することができます。

第三章:「才徳兼備」の誉れ ― 内助の功と信仰の生涯

「才徳兼備」と称された光の人となり

櫛橋光は、その生涯を通じて「才徳兼備」――すなわち、優れた才能と豊かな徳性を兼ね備えた女性として称えられています 4 。この評価は、単に外見的な美しさや表面的な教養を指すものではなく、戦国という厳しい時代を生き抜くために不可欠な知性、判断力、精神的な強靭さ、そして周囲の人々を惹きつけ、信頼を得る人間的魅力を総合的に指し示すものと考えられます。

光の父・櫛橋伊定が、娘と黒田官兵衛との結婚の1年前に、官兵衛の将来性を見込んで赤格子の兜と胴丸具足を贈ったという逸話は 10 、光自身もまた、そのような優れた武将の妻としてふさわしい人物であると周囲から認識されていたことを示唆しています。また、夫・官兵衛が有岡城に幽閉された際の約1年間にわたる苦難を耐え忍んだ精神力 3 、そして関ヶ原の合戦前夜の人質事件において、冷静な判断と家臣たちの助けによって危機を脱したこと 3 なども、彼女の卓越した才覚と徳の高さを示す具体的な事例と言えるでしょう。

ある史料では、光は「才色兼備で良妻賢母な女性であり、官兵衛の言動に意見することはあまりない」と記されています 11 。これは、単に従順であったということではなく、むしろ夫である官兵衛の能力と判断を深く理解し、全幅の信頼を寄せていたことの表れと解釈することも可能です。夫の意図を的確に汲み取り、その活動を妨げることなく、陰で支えることに徹した彼女の姿勢こそが、戦国武将の妻に求められた重要な資質の一つであったのかもしれません。

これらのエピソードや評価を総合すると、櫛橋光の「才徳兼備」とは、困難な状況に直面しても冷静さを失わない的確な判断力、幾多の試練を乗り越える精神的な強靭さ、そして夫や家臣たちから深く信頼され、敬愛される人間的魅力の総体であったと理解することができます。それは、単に家庭を守る良妻賢母というだけでなく、時には家の命運を左右するような危機において、その知恵と徳によって困難を切り開くことのできる、戦国時代の女性リーダーに求められる資質であったとも言えるでしょう。

夫を支え続けた内助の功

櫛橋光は、戦国時代屈指の智将と名高い黒田官兵衛孝高が生涯ただ一人愛した妻として、その目覚ましい活躍を陰日向に支え続けた女性として知られています 3 。官兵衛が織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人に仕え、軍師として、また時には外交官として全国各地を奔走し、長期にわたり家を空けることが常であった中、光は播磨の姫路城、後の豊前中津城、さらには大坂の伏見屋敷などで、留守を守り、家庭を切り盛りし、夫の帰りを待ち続けました 3

彼女の存在は、常に危険と隣り合わせの状況に身を置き、謀略渦巻く戦国の世を渡り歩いた官兵衛にとって、何物にも代えがたい精神的な支柱であったと伝えられています。「結婚生活のほとんどを夫と過ごせなかった光姫でしたが、夫の代わりに黒田家を守っていたことで、黒田官兵衛の心の支えになっていたと考えられます」という記述や 3 、「最愛の妻がいたからこそ過酷な状況のなかでも様々な知恵や策を用いて、黒田家を存続させることができたのかもしれない」という評価は 3 、光の内助の功がいかに官兵衛の活動と黒田家の存続にとって重要であったかを物語っています。

光の内助の功は、単に家庭内の秩序を保ち、夫の身の回りの世話をするという範疇に留まるものではありませんでした。それは、官兵衛が後顧の憂いなく、その類稀なる知謀を存分に発揮できるための精神的な安定と安心感を提供し、結果として黒田家の政治的・軍事的な成功、そしてその後の福岡藩の礎を築く上で、不可欠な役割を果たしたと言えるでしょう。物理的な支援のみならず、精神的な支えとなることの重要性は、特に生死を賭けた判断を日常的に下さなければならない戦国武将にとって計り知れないものがあったはずです。光の存在と彼女が守る家庭は、官兵衛にとって荒波を乗り越えるための穏やかな港のようなものであり、その判断力や戦略遂行能力にも間接的に良い影響を与えていた可能性が考えられます。

二人の息子、長政と熊之助

櫛橋光と黒田官兵衛の間には、二人の息子がいました。長男は黒田長政(幼名:松寿丸)、次男は黒田熊之助です。

長男の黒田長政は、永禄11年(1568年)に誕生し 3 、後に初代福岡藩主としてその名を歴史に刻む人物です。しかし、その幼少期は波乱に満ちたものでした。父・官兵衛が織田信長に臣従する証として、わずか10歳で人質として豊臣秀吉のもとに送られました 3 。さらに、官兵衛が有岡城に幽閉された際には、信長の誤解により処刑の危機に瀕しますが、竹中半兵衛の機転によって命を救われるという経験もしています 3 。このような苦難を乗り越え、長政は父譲りの武勇と知略を兼ね備えた武将へと成長し、関ヶ原の戦いなどで大きな功績を挙げました。光が長政の教育に具体的にどのように関わったかを詳細に示す史料は少ないものの、人質として送られる息子を案じ、その無事を祈り続けた母としての愛情は深かったことでしょう。そして、苦難を乗り越えて成長していく息子の姿は、彼女にとって大きな喜びであり、支えであったに違いありません。

次男の黒田熊之助は、長政誕生から14年後の天正10年(1582年)に山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で生まれました 3 。しかし、熊之助の生涯は短いものでした。慶長2年(1597年)、文禄・慶長の役で朝鮮に出兵していた父・官兵衛と兄・長政を追って、自らも朝鮮へ渡ろうと試みます。当時16歳であった熊之助は、豊前国中津城(大分県中津市)から船を出しましたが、その途上で不運にも玄界灘で暴風雨に遭遇し、船が転覆。帰らぬ人となってしまいました 3

この時、光は豊臣秀吉の人質として大坂天満の屋敷にいたとされ、次男の悲劇的な死の知らせは、彼女を深い悲しみの底に突き落としました 10 。「もし、生きていれば、兄・長政の片腕となり藩政に尽くしていたに違いない。光姫さまのおおきな力にもなっていたことでしょう」 10 という後世の記述は、その早すぎる死を惜しむとともに、母である光の無念さを代弁しているかのようです。この熊之助の死は、光の信仰生活に一層大きな影響を与え、後に彼が眠る玄界灘を見渡せる場所に円応寺を建立する直接的な動機の一つになったと考えられています 10 。愛息を失った悲しみは、彼女の信仰心を深め、その菩提を弔うという形で昇華されていったのでしょう。同時に、唯一残された息子である長政への期待と愛情は、より一層深いものとなったことが想像されます。

篤い浄土宗信仰と円応寺建立

櫛橋光は、生涯を通じて熱心な浄土宗の信者であったことが知られています 3 。これは、夫である黒田官兵衛や長男の長政がキリシタンであった(官兵衛は後に棄教したとも言われる)のとは対照的であり、当時の武家社会における多様な信仰のあり方を示す一例とも言えるでしょう。

官兵衛が慶長9年(1604年)に亡くなると、光は出家して照福院(しょうふくいん)と号しました 3 。そして、その信仰心の篤さを示す最も顕著な行動が、寺院の建立です。慶長7年(1602年)、あるいは官兵衛の死後とも言われますが、光は福岡城に近い場所、そして次男・熊之助が非業の死を遂げた玄界灘を見渡せる地に、自ら開基となって円応寺(圓應寺)を建立しました 10

円応寺は、黒田家の菩提寺の一つとなり、光はそこで先祖代々の霊や、戦乱の中で命を落とした敵味方の区別なく多くの御霊の追善供養に励み、黒田家と福岡藩の安泰と繁栄を熱心に祈願したと伝えられています 10 。熊之助の菩提を弔うという個人的な動機に加え、大名の妻として家と領地の安寧を願うという公的な役割意識も、この寺院建立の背景にはあったと考えられます。

光の信仰は、個人的な心の慰めや救済を求めるものに留まらず、他者のため、そして家の安寧のために行動する原動力となっていたことがうかがえます。家族内に異なる宗派(キリスト教と浄土宗)を信仰する者がいた中で、自身の信仰を貫き、寺院建立という明確な形でそれを表明した光の行動は、彼女の意志の強さを示すと同時に、当時の宗教的な状況の一端を垣間見せるものかもしれません。

表2:櫛橋光ゆかりの寺社と墓所

寺社名

所在地

宗派

櫛橋光との関連

典拠

円応寺(圓應寺、照福山顕光院円応寺)

福岡県福岡市

浄土宗

櫛橋光(照福院)が開基となって建立した寺院。黒田家の菩提寺の一つ。光自身の墓所(供養碑)もある。次男・熊之助が眠る玄界灘を見渡せる地に建立されたとされる。毎年命日には「光姫忌」が営まれる。

3

報土寺

京都府京都市

浄土宗

櫛橋光の墓所の一つとされる。

4

崇福寺

福岡県福岡市

臨済宗

黒田孝高(如水)、櫛橋光(照福院)、黒田長政などの墓所がある黒田家代々の菩提寺。

4

観音寺

兵庫県加古川市

曹洞宗

櫛橋氏の居城であった志方城の本丸跡に建つ。光の生誕地とされ、境内には櫛橋氏累代の墓所があるとも言われる 2

2

この表に示されるように、櫛橋光にゆかりの深い寺社は、彼女の信仰生活や菩提を弔う活動の具体的な場所を明らかにし、その精神世界の重要な側面を浮き彫りにします。特に、自らが開基となった円応寺は、彼女の信仰心の篤さ、母としての深い愛情、そして黒田家の安寧を願う大名の妻としての役割意識が結実した場所と言えるでしょう。京都と福岡という広範囲に墓所が存在することは、彼女の存在が各地で記憶され、大切に弔われていたことを示唆しています。

第四章:晩年と後世への影響

照福院としての晩年

夫である黒田官兵衛孝高が慶長9年(1604年)に亡くなると、櫛橋光は出家し、照福院(しょうふくいん)と号して仏門に入りました 3 。その後は、長男・黒田長政が藩主を務める筑前国福岡で余生を送ったとされています。

照福院としての光の晩年は、自らが開基した円応寺を拠点として、亡き夫や次男・熊之助をはじめとする先祖代々の霊、さらには戦乱で命を落とした敵味方の区別なく多くの人々の追善供養に励む日々であったと伝えられています 10 。その姿は、戦国の世の喧騒から離れ、篤い信仰に生きた静かで敬虔なものであったと想像されます。

円応寺の山号が「照福山」とされたのは、「福岡を見守り照らす」という光の深い思いを反映したものであり、彼女が単に個人的な信仰に留まらず、黒田家と福岡の地の安寧、そしてそこに暮らす人々の幸福を願っていたことを示唆しています 10

数々の試練を乗り越え、激動の時代を生き抜いた櫛橋光は、寛永4年(1627年)8月26日、75歳という当時としては長寿を全うし、その波乱に満ちた生涯を閉じました 9 。彼女の法名は、照福院殿然誉栄大尼公(しょうふくいんでんねんよこうえいだいにこう)と伝えられています 10 。夫や次男に先立たれ、実家の滅亡という悲劇も経験しましたが、信仰に支えられたその晩年は、ある種の穏やかさと精神的な充足感に満ちていたのかもしれません。

史料に見る櫛橋光(『黒田家譜』などの記述を中心に)

櫛橋光の生涯や人物像をより深く理解するためには、同時代や後世に編纂された史料の記述を検討することが不可欠です。その中でも特に重要なのが、福岡藩の公式な歴史書として編纂された『黒田家譜』です。この史書は、三代藩主・黒田光之の命により、儒学者である貝原益軒らが中心となって編纂され、寛文11年(1671年)に作業が開始され、元禄元年(1688年)に完成したとされています 19 。『黒田家譜』には、初代藩主・黒田長政の母であり、藩祖・黒田孝高(如水)の正室であった櫛橋光(照福院)に関する記述も含まれていると考えられ、特に巻頭に記された黒田孝高の事績や、如水の遺事といった部分に、彼女の出自、結婚、行動、性格などに関する情報が記されている可能性があります 20 。『黒田家譜』における光の記述は、福岡藩の公式見解としての彼女の評価を反映している可能性が高く、その内容を分析することは、彼女の歴史的評価を考察する上で極めて重要です。

また、福岡市博物館には、光の甥にあたる櫛橋定重(さだしげ)の家系に代々伝えられてきた貴重な資料群が収蔵されています。その中には、「櫛橋家系図」や「照福院関連の盃」などが含まれており、これらは櫛橋光の人物像や、彼女の生家である櫛橋家との繋がりを具体的に考察する上で非常に価値の高い史料と言えます 8 。特に「照福院関連の盃」の箱書きには「正福院殿御盃」と記されており、金蒔絵で酒の神である猩々(しょうじょう)が描かれた朱塗りの小盃であるとされています。これらの品々が、櫛橋家において戦災を避けるために真っ先に持ち出されるほどの家宝として、近年まで大切に保管されてきたという事実は 8 、光が嫁ぎ先の黒田家だけでなく、自らの生家である櫛橋家からも深く敬愛され、その記憶が大切に受け継がれてきたことを物語っています。

これらの史料を比較検討すること、すなわち福岡藩の公式記録である『黒田家譜』と、光の生家筋に伝わる私的な記録とを照らし合わせることによって、櫛橋光という人物の姿をより立体的かつ多角的に捉えることが可能となります。例えば、『黒田家譜』が光の「内助の功」や「才徳兼備」といった公的な側面を強調する一方で、櫛橋家伝来の史料は、彼女の家族に対する情愛や、滅びた実家への配慮といった、より人間的な側面を明らかにする手がかりとなるかもしれません。

櫛橋家子孫と黒田家の関係

櫛橋光の生家である播磨の櫛橋氏宗家は、織田信長の播磨平定の過程で事実上滅亡しましたが、光の存在が、その血筋を完全に途絶えさせることから救いました。光の甥である櫛橋定重をはじめとする櫛橋氏の子孫たちは、伯母(叔母)である光の縁によって、黒田孝高(如水)に庇護され、後に福岡藩士として召し抱えられ、その家名を後世に伝えることができました 1

史料によれば、櫛橋定重は黒田家に仕官した後、2000俵という破格の扶持を与えられたと記録されています 8 。これは、当時の武家社会において非常に高い待遇であり、光の存在と影響力がなければ到底ありえなかった厚遇と言えるでしょう。この事実は、光が黒田家内部において大きな発言力と影響力を持ち、夫である官兵衛や息子である長政に対して、実家である櫛橋家の血筋を絶やさぬよう配慮を働きかけるだけの力があったことを示唆しています。

戦国時代の婚姻は、家と家との結びつきを強化するための政略的な側面が強かったことは言うまでもありません。しかし、櫛橋家子孫の黒田藩への仕官という事例は、単なる政略を超えて、櫛橋光という一個人の人間関係や、彼女が築き上げた信頼、そしてその影響力の大きさを具体的に物語っています。彼女は、黒田家と、滅亡したとはいえかつては播磨の有力豪族であった櫛橋家とを繋ぐ、極めて重要な結節点としての役割を果たしたのです。これは、戦国時代の女性が、家の存続や家臣団の形成に対して、間接的ながらも少なからぬ影響を及ぼし得たことを示す貴重な事例と言えるでしょう。

後世における評価と語り継がれる姿

櫛橋光は、後世において「黒田官兵衛が生涯ただ一人愛した妻」として 10 、また「才徳兼備」の誉れ高い女性として 4 、その名が語り継がれています。彼女が夫・官兵衛の波乱に満ちた生涯を献身的に支え、数々の困難を乗り越えて黒田家を守り抜いた姿は、理想的な夫婦像、あるいは賢妻の模範として、多くの人々に感銘を与えてきました。

彼女が自ら開基した福岡の円応寺では、毎年8月26日の命日に「光姫忌(みつひめき)」という法要が営まれており 10 、彼女が建立した寺院を通じて、その遺徳が現代に至るまで偲ばれています。これは、彼女の信仰心の篤さと、地域社会への貢献が深く記憶されていることの証と言えるでしょう。

また、近年の歴史関連のメディアにおいても、櫛橋光は注目される存在です。例えば、あるラジオ番組では、黒田官兵衛が妻・光の家族(櫛橋家)に裏切られた(織田方から毛利方に寝返った)にもかかわらず、戦国時代の常識であった離縁をすることなく、光を生涯愛し続けた「愛妻家」であったというエピソードが紹介されています。そして、光の名前の読み方(「みつ」か「てる」か)が判明したのも比較的最近のことである、といった興味深い情報も伝えられています 21

これらの後世における評価や語り伝えられる姿は、夫である黒田官兵衛の著名な事績と相まって、櫛橋光を理想化された「良妻賢母」のイメージとして形成してきた側面があることは否定できません。しかしながら、本報告書で検討してきたように、断片的に残された史料の記述を丹念につなぎ合わせ、その行間を読み解くことによって、単なる「夫に従順な妻」という枠には収まらない、自らの意志と深い信仰心を持ち、主体的に困難な時代を生き抜いた一人の女性としての実像が浮かび上がってきます。後世の評価は、必ずしも彼女の多面的な姿の全てを捉えきれていない可能性があり、史料に基づいた客観的な分析を通じて、その実像に迫ることの意義は大きいと言えるでしょう。

結論:櫛橋光の生涯とその意義

総括と歴史的評価

櫛橋光の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という、日本史上類を見ない激動の時代に翻弄されながらも、妻として、母として、そして一人の信仰者として、類稀なる強さと賢明さをもって生き抜いたものであったと総括できます。彼女の存在は、夫である黒田官兵衛孝高の目覚ましい活躍、そしてその息子・黒田長政による福岡藩黒田家の礎を築く上で、精神的な支柱として、また実質的な内助者として、不可欠なものであったと高く評価することができます。

実家である櫛橋家の滅亡、夫の長期にわたる不在と有岡城幽閉という生死の境をさまよう危機、そして愛息・熊之助の早すぎる死といった、筆舌に尽くしがたい数々の試練に直面しながらも、彼女は決して屈することはありませんでした。その精神的な強靭さの根底には、篤い浄土宗への信仰があったと考えられます。その信仰心は、単に個人的な慰めや救済を求めるものに留まらず、亡き人々の菩提を弔い、家の安泰と領民の安寧を願うという、より公的な行動へと昇華されました。その最も顕著な現れが、自ら開基となった円応寺の建立です。この寺院は、彼女の深い信仰心と、母としての愛情、そして大名の妻としての責任感の結晶であったと言えるでしょう。

櫛橋光の生涯は、戦国時代の武家の女性の生き様の一つの典型を示していると同時に、その枠組みを超えた主体性や影響力を有した稀有な人物であったことを示しています。彼女は、単に夫に従属する存在ではなく、自らの意志と判断力を持ち、困難な状況下においても家を守り、家族を支え、そして信仰に生きるという確固たる姿勢を貫きました。その「才徳兼備」と称された資質は、歴史の表舞台には現れにくいものの、確かに時代を動かす力の一端を担っていたと言えます。櫛橋光という女性の生涯とその生き様は、戦国という時代を多角的に理解する上で、そして歴史における女性の役割を再評価する上で、今後も語り継がれるべき貴重な事例であると言えるでしょう。

引用文献

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  2. ここは、あの黒田官兵衛の妻となった光(てる)姫の実家の地。 - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2015/04/18/shikata/
  3. 光姫(櫛端光) 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46523/
  4. kako-navi.jp https://kako-navi.jp/kanbee/images/guide.pdf
  5. 櫛橋政伊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E6%A9%8B%E6%94%BF%E4%BC%8A
  6. 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 志方城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/1046
  7. 黒田官兵衛と櫛橋氏 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/morioka-2735/
  8. 収蔵品目録20 - 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/collection/20/
  9. 『志方城』その成立と崩壊のミステリー | 五郎のロマンチック歴史街道 https://rekishigoro.amebaownd.com/posts/8401394/
  10. 歴史|その女性の名は光(みつ)Princess Mitu - 圓應寺の世界 副住職のススメ https://ennouji.net/HISTORY/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BD%9C%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E5%85%89%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%A4%EF%BC%89princess-mitu/
  11. 軍師官兵衛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
  12. 官兵衛と光を巡る人々|NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」黒田官兵衛と光 - 加古川観光協会 http://kako-navi.jp/kanbee/person.html
  13. 山陽電車とめぐる軍師黒田官兵衛 | 官兵衛とは https://www.sanyo-railway.co.jp/kanbee/about/
  14. 黒田長政の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34588/
  15. お墓と納骨堂・授与頒布物・奉納品筆録 https://ennouji.info/%E3%81%8A%E5%A2%93%E3%81%A8%E7%B4%8D%E9%AA%A8%E5%A0%82%E3%83%BB%E6%8E%88%E4%B8%8E%E9%A0%92%E5%B8%83%E7%89%A9%E3%83%BB%E5%A5%89%E7%B4%8D%E5%93%81%E7%AD%86%E9%8C%B2/
  16. 圓應寺 | 福岡のお寺・供養探し総合情報サイト - 福寺 https://eidai-kuyou.jp/temple/ennouji/
  17. 浄土宗 照福山 顕光院 圓應寺 - 福岡 (円応寺・えんのうじ) https://www.ennouji.or.jp/concept/ceo-outline/outline.html
  18. 官兵衛ゆかりの加古川、光の方(幸圓)の櫛橋氏居城志方城跡などを訪れてみました。 https://4travel.jp/travelogue/10852251
  19. 黒田家譜 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%B6%E8%AD%9C
  20. 【黒田家譜】(目録) - ADEAC https://adeac.jp/iwasebunko/catalog/mp00597500
  21. 『黒田官兵衛は、妻の家族に裏切られても離縁しないほどの、「愛妻家」だった!』 | よ・み・き・か・せ https://www.tfm.co.jp/yomikikase/?itemid=75773
  22. 崇福寺 (福岡市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)
  23. 崇福寺(そうふくじ)で黒田官兵衛の墓参り (博多) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10816712