最終更新日 2025-05-27

武田松

武田松

日本の戦国時代における松姫(信松尼)の生涯と遺産

序章:戦国の世に咲いた悲運の姫君、松姫

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた武田信玄の娘、松姫(出家後は信松尼)の生涯を、関連史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。松姫の人生は、甲斐の名門武田家に生まれながらも、政略結婚の道具とされ、婚約者の織田信忠とは一度も会えぬまま武田家の滅亡という悲劇に見舞われるなど、戦国という時代の激流に翻弄されたものであった 1 。しかし、彼女はその過酷な運命に屈することなく、出家後は信松尼として信仰に生き、養育した姫たちや地域の人々のために尽くした。その生涯は、戦国時代の女性が置かれた厳しい状況と、その中で見せた精神的な強靭さ、そして後世に与えた影響を考察する上で、極めて重要な事例と言える。本報告書では、松姫の出自、婚約の経緯と破談、武田家滅亡後の流転の日々、そして信松尼としての活動と彼女の人となり、さらには八王子を中心とする地域史への関わりや遺された文化財について、多角的に検証していく。彼女の生涯を追うことは、単に一個人の伝記を辿ることに留まらず、戦国という時代における女性の生き様、そして歴史的悲劇が個人の精神性や社会貢献へと昇華される過程を理解する一助となるであろう。

第一章:武田信玄の娘として

松姫の生涯を理解する上で、まず彼女の出自、すなわち「甲斐の虎」と称された武田信玄の娘であるという事実は、その後の運命を大きく左右する要素であった。名門武田家の血筋は、彼女に誇りと困難の両方をもたらしたと言えるだろう。

  • 甲斐の名門、武田家の血筋
    松姫は、永禄4年(1561年)に甲斐国で生まれたとされる、戦国大名武田信玄の五女(四女説もあり)である 1。父、信玄は戦国時代を代表する武将の一人であり、その威名は全国に轟いていた。武田家は清和源氏の流れを汲む名門であり、松姫もまたその高貴な血筋を受け継いでいた 4。この出自は、彼女が後に織田信長の嫡男との婚約者に選ばれる大きな理由の一つとなったが、同時に武田家滅亡という悲劇に巻き込まれる要因ともなった。
  • 母、油川夫人と兄弟姉妹
    松姫の母は、信玄の側室であった油川夫人である 1。油川氏は武田家の支流にあたる一族であり 7、油川夫人は信玄から深く寵愛されていたと伝えられている 8。松姫には、同母の兄弟姉妹として、後に高遠城で壮絶な最期を遂げる仁科盛信(五郎)、葛山氏を継いだ葛山信貞、そして上杉景勝の正室となった菊姫らがいた 1。また、異母兄には武田家を継いだ武田勝頼がいる 9。これらの兄弟姉妹、特に同母兄である仁科盛信との関係は、武田家滅亡という混乱期において、松姫の行動や精神的な支えに少なからず影響を与えたと考えられる。
  • 松姫の誕生と幼少期
    松姫は永禄4年(1561年)に甲斐国で誕生した 1。一説によれば、父信玄が上杉謙信との川中島の戦いの最中に松姫誕生の報を受け、陣地の傍らにあった松の木にちなんで「松」と命名し、幼い松姫を大変可愛がったと伝えられている 2。彼女の幼少期に関する具体的な記録は乏しいが、永禄8年(1565年)5月に信玄が富士浅間大菩薩(冨士御室浅間神社)に対し、息女の病気平癒を願った願文が現存しており、これが松姫(あるいは姉の黄梅院)に関する初見の史料である可能性が指摘されている 1。この貴重な願文の原本は、富士吉田市歴史民俗博物館に所蔵されている 1。

松姫の出自は、彼女の人生に複雑な影響を及ぼした。信玄の娘、そして寵愛された油川夫人の子という血筋は、彼女を織田家との政略結婚の重要な駒として位置づけることになった。戦国時代において、有力大名の姫が同盟関係の証として他家へ嫁ぐことは常であり、松姫もその例外ではなかった 11 。しかし、その一方で、この高貴な血筋は、武田家滅亡という悲劇の後、彼女が八王子で信松尼として生きる中で、かつての武田家臣たちからの支援や敬愛を受ける精神的な支柱としての役割を担う背景ともなった 3 。武田家という大きな存在が彼女の人生に光と影を落とし、その後の波乱に満ちた生涯を方向づけたと言えるだろう。

第二章:政略の波に揺れる婚約

武田信玄の娘として生まれた松姫の運命は、戦国時代の常として、個人の意思とは関わりなく、大名間の政略によって大きく左右された。織田信長の嫡男・信忠との婚約は、その象徴的な出来事であった。

  • 甲尾同盟と織田信忠との縁談
    永禄10年(1567年)、武田信玄と尾張の織田信長は、相互の勢力拡大と安定を図るため同盟関係を結んだ。この「甲尾同盟」をより強固なものとするため、信玄の娘である松姫(当時7歳)と、信長の嫡男である織田信忠(当時11歳)との婚約が取り決められた 2。これは、戦国時代に頻繁に見られた政略結婚の典型であり、両家の友好関係を人質ならぬ婚姻によって担保しようとするものであった 11。婚約に伴い、松姫は武田家において「信忠正室を預かる」という意味合いから「新館御料人」と呼ばれるようになったとされる 16。
  • 文に託された想い
    婚約当時、松姫はまだ7歳と幼かったため、実際の輿入れは彼女の成長を待って行われることとなった 2。この間、信長は息子の信忠に対し、松姫へこまめに贈り物や手紙を送るよう指示したと伝えられている 2。これにより、松姫と信忠の間で文通が始まった。政略的な背景を持つ婚約ではあったが、二人は手紙のやり取りを通じて、まだ見ぬ互いの姿を想像し、次第に相手への思慕の情を深めていったと言われている 2。この個人的な交流は、後の松姫の人生において、精神的な支えとなる純粋な想いを育むことになった。
  • 引き裂かれた絆:婚約破棄
    しかし、この婚約は成就することなく、戦国時代の非情な現実によって引き裂かれる。元亀3年(1572年)、武田信玄が西上作戦を開始し、遠江国の三方ヶ原で徳川家康軍を破るなど、織田家との対立が鮮明になると、甲尾同盟は事実上破綻した 2。この時、松姫は12歳となり、まさに輿入れも間近に迫っていたとされるが、両家の同盟関係が敵対関係へと転換したことにより、二人の婚約は破棄されるに至った 2。この背景には、徳川家康が織田信長に対し、武田家との手切れ、すなわち婚約の破棄を働きかけていたという事情もあったとされている 16。

松姫と織田信忠の婚約と破談は、戦国時代の政略結婚の典型的な様相を呈している。大名家の都合によって結ばれ、そして反故にされるという、個人の感情が入り込む余地のない政治的取引であった。しかし、その一方で、二人の間で交わされたとされる文通は、政略の枠を超えた人間的な心の交流を生み出した。特に松姫にとって、この一度も会うことのなかった婚約者への想いは、その後の過酷な運命を生き抜く上での精神的な支柱となり、彼女の行動原理の一つを形成したと考えられる。武田家滅亡後、数々の縁談を断り続け 3 、信忠の死を知ると出家し、彼と武田一族の冥福を生涯祈り続けたという松姫の姿は 3 、この未完の恋が彼女の人生に与えた影響の深さを物語っている。手紙という限られた手段でのみ繋がっていた関係性が、かえって相手を理想化し、純粋な思慕の情を強固にした可能性も否定できない。この経験は、後の信松尼としての慈愛に満ちた活動の精神的基盤の一つとなったとも考えられる。

第三章:武田家滅亡と流転の日々

織田信忠との婚約破棄は、松姫の人生における最初の大きな転換点であったが、それに続く武田家の滅亡は、彼女をさらなる過酷な運命へと導いた。父信玄亡き後の武田家は急速に衰退し、松姫は一族の悲劇を目の当たりにしながら、戦火を逃れて流浪の日々を送ることになる。

  • 落日の武田家と兄たちの死
    武田信玄の死後、家督を継いだ異母兄・武田勝頼の時代になると、天正3年(1575年)の長篠の戦いでの織田・徳川連合軍に対する大敗北を喫するなど、武田家の勢力は急速に陰りを見せ始めた。そして天正10年(1582年)、織田信長は満を持して甲州征伐を開始する。
    この織田軍の侵攻に対し、松姫の同母兄である仁科盛信は、信濃国高遠城に籠城し、織田信忠(松姫のかつての婚約者)が率いる大軍を相手に最後まで抵抗した。信忠からは降伏勧告がなされたものの、盛信はこれを敢然と拒否し、壮絶な戦いの末に討死を遂げた 3。武田勝頼もまた、織田軍の追撃を受け、天目山で嫡男信勝と共に自害し、これにより戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した 3。さらに、もう一人の同母兄である葛山信貞も、武田家滅亡からほどなくして、甲斐善光寺において処刑されたと記録されている 19。次々と肉親を失うという悲劇が松姫を襲ったのである。
  • 戦火を逃れて:高遠城から八王子へ
    武田家滅亡の危機が迫る中、松姫は兄・仁科盛信を頼って高遠城に身を寄せていた。しかし、織田軍が高遠城に迫ると、盛信は松姫らの身を案じ、城から逃がしたとされる 3。こうして松姫は、仁科盛信の3歳になる娘・後の玉田院殿、武田勝頼の4歳になる娘、そして人質として預かっていた小山田信茂の4歳になる娘といった、まだ幼い姫たちを連れて、戦火を逃れるための過酷な逃避行を開始した 3。
    一行は、いつ敵兵に遭遇するとも知れぬ不安の中、現在の山梨県から険しい山道や峠を越え、寺社を渡り歩きながら、武蔵国(現在の東京都)八王子付近まで逃げ延びたと伝えられている 3。この時、松姫が通ったとされる道の一つは、現在「松姫峠」としてその名を残している 22。馬や車などの交通手段もない時代に、女性と幼い子供たちだけでこの長距離を移動したことは、想像を絶する困難を伴う旅であったことは疑いない 3。

武田家の滅亡という、一族にとって破局的な出来事、そしてそれに続く筆舌に尽くしがたい逃避行は、松姫の精神を鍛え上げ、後の信松尼としての利他的な活動の原体験となったと言えるだろう。特に、かつて淡い恋心を抱き、文を交わした元婚約者である織田信忠が、実の兄・仁科盛信を攻め滅ぼすという運命の皮肉は、彼女にとって「胸裂ける思いであったろう」と史料は記している 5 。この個人的な悲恋と一族の存亡が複雑に絡み合う状況は、戦国という時代の過酷さを凝縮して示している。幼い姫たちを保護し、時には武田家を裏切ったとされる家臣の娘までも分け隔てなく庇護したという伝承は 3 、この苦難の中で培われた彼女の強い責任感と深い人間愛の表れであり、後の信仰生活や社会奉仕活動へと繋がる萌芽であったと考えられる。

第四章:信松尼としての生涯

武田家滅亡という悲劇と過酷な逃避行を経て八王子に辿り着いた松姫の人生は、元婚約者・織田信忠の死というさらなる衝撃によって、大きな転換期を迎える。彼女は俗世を離れ、仏門に入ることを決意し、信松尼として新たな人生を歩み始める。

  • 本能寺の変と出家の決意
    天正10年(1582年)3月に武田家が滅亡した後、松姫は八王子に潜んでいた。一説には、織田信忠が松姫の行方を探しており、迎えの使者を送ったとも言われる 23。しかし、その直後の同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発する。織田信長が家臣の明智光秀に討たれ、信忠もまた父の後を追うように二条城で奮戦の末、自刃して果てた 3。
    元婚約者の悲報に接した松姫は、深く悲しみ、信忠の菩提を弔うために出家を決意したとされる。この時、松姫は22歳であった 3。彼女は生涯独身を貫き、信忠への操を守り通したと伝えられている 3。
  • 八王子心源院での修行と信松院建立
    出家を決意した松姫は、八王子の曹洞宗寺院である心源院(下恩方村、現在の東京都八王子市下恩方町)の門を叩き、卜山舜越(ぼくざんしゅんえつ)和尚の下で剃髪し、仏門に入った 3。そして、「信松尼(しんしょうに)」という法名を授かる。この「信」の一字は、父・武田信玄の「信」とも、あるいは織田信忠の「信」から取ったとも、さらには信忠の妻であるという意味が込められているとも伝えられ、彼女の深い想いを物語っている 3。
    信松尼は心源院で約8年間、厳しい仏道修行に励んだ 3。その後、天正18年(1590年)頃、八王子市御所水(現在の台町)の地に草庵を結んだ。この草庵が後の信松院の始まりであり、その建立には、かつて武田家に仕え、当時は徳川家康の下で関東代官頭を務めていた大久保長安らの支援があったとされる 1。信松院は現在も東京都八王子市台町3丁目にあり、松姫ゆかりの寺として知られている 25。
  • 姫たちの養育と地域への貢献
    信松尼は、自身の修行や菩提を弔う日々を送る傍ら、共に苦難を乗り越えてきた姫たちの養育にも心血を注いだ。その中には、兄・仁科盛信の娘である玉田院殿(通称は小栗殿)や、武田勝頼の娘、さらには武田家を裏切ったとされる小山田信茂の娘も含まれていたが、信松尼は分け隔てなく慈しみ育てたと伝えられている 3。玉田院殿は慶長13年(1608年)に29歳で病没し、信松院に葬られた 9。
    姫たちを養い、また自身の生活を支えるため、信松尼は朝から晩まで熱心に働いた。特に、絹織物の技術に長けていたとされ、織物を製作して生計の一助としたと言われている 3。この信松尼が伝えた織物の技術が、後の八王子織物の発展に貢献したという伝承は広く知られており、八王子の地域文化と深く結びついている 4。また、寺子屋のような形で近隣の子供たちに読み書きを教えたとも伝えられており 32、地域の教育にも貢献した可能性が示唆される。
  • 大久保長安ら旧臣との関わり
    信松尼の八王子での生活は、かつての武田家臣たちの支援によって支えられていた側面が大きい。特に、徳川家康に仕えて関東代官頭、後に佐渡金山奉行などを歴任した大久保長安は、元は武田信玄に仕えた猿楽師であったとも言われ、信松尼に対して経済的な援助を惜しまなかった 3。家康自身も武田信玄を高く評価しており、信松尼の清貧な暮らしぶりを知り、長安による信松院創建への尽力を黙認、あるいは後押ししたとされる 13。
    また、武田家滅亡後に徳川家に召し抱えられ、八王子に移住した武田遺臣たちによって組織された八王子千人同心にとっても、信松尼の存在は心の拠り所であり、旧主君の姫君として敬愛し、様々な形で支援を行ったと言われている 13。
  • 晩年と逝去
    多くの人々に慕われ、信仰と奉仕の生涯を送った信松尼は、元和2年(1616年)4月16日、波乱に満ちた56年の生涯を閉じた 1。その墓所は、彼女が開いた信松院の境内にあり、現在、八王子市の指定史跡として大切に守られている 1。

信松尼としての松姫の後半生は、婚約者の死という個人的な悲劇を、仏道への帰依と他者への献身へと昇華させる過程であったと言える。彼女の活動は、単に個人の魂の救済に留まらず、戦乱で傷ついた人々の心を癒し、武田家遺臣たちの精神的な結束を促すとともに、八王子という地域社会に対しても、織物技術の伝承や教育といった形で文化的な影響を与えた可能性を秘めている。それは、戦国から江戸初期という転換期を生きた一人の女性が、過酷な運命を受け入れつつも、信仰と奉仕を通じて新たな生きる意味を見出し、社会的な役割を果たし得たことを示す貴重な事例である。

第五章:松姫の人となりと後世への影響

松姫(信松尼)の生涯は、戦国時代の女性の典型的な運命を辿りながらも、その人となりや行動によって、後世に強い印象を残した。一途な想い、慈愛の心、そして地域文化への貢献伝承は、彼女の人物像を形作る重要な要素である。

  • 一途な想いと慈愛の心
    松姫の人物像を語る上で最も象徴的なのは、一度も顔を合わせることのなかった元婚約者・織田信忠への一途な想いである。武田家と織田家が敵対関係となり婚約が破棄された後も、彼女は信忠への想いを持ち続け、武田家滅亡後には数々の縁談を断ったと伝えられている 3。容姿端麗で天性の気品を備えていた松姫には、富豪の子息や有力者の若者からの求婚が絶えなかったが、それらを固辞し続けたという逸話も残る 4。
    そして、本能寺の変で信忠が非業の死を遂げると、その菩提を弔うために22歳で出家し、生涯独身を貫いた 3。この純粋で一途な愛情は、政略結婚が当たり前であった戦国時代において、際立った存在として人々の心に刻まれた。
    また、彼女の慈愛に満ちた心は、共に逃避行を経験した幼い姫たちの養育によく表れている。その中には、兄・武田勝頼を裏切ったとされる家臣の娘も含まれていたが、松姫は分け隔てなく大切に育て上げたとされる 3。このような行動は、彼女が単に武家の姫としての義務感からではなく、深い人間愛と共感力を持っていたことを示している。困難な状況下でも他者を思いやり、強く生き抜いた精神力は、彼女の人となりを際立たせている 3。
  • 八王子織物への貢献伝承
    信松尼が八王子で暮らす中で、生計を立てるために機織りを行い、その優れた技術を地域の人々に伝えたことが、後の八王子織物の発展に大きく貢献したという伝承は、八王子市を中心に広く語り継がれている 4。この伝承の史実性については、具体的な一次史料による裏付けが必ずしも十分とは言えないものの、地域文化における松姫のイメージ形成に決定的な役割を果たしてきたことは間違いない 36。
    八王子市では、この伝承に基づいて「松姫マッピー」というマスコットキャラクターが作られ、八王子織物をはじめとする市のPR活動に活用されている 39。これは、松姫の物語が現代においても地域活性化の一翼を担っていることを示している。
  • 信松院と松姫ゆかりの文化財
    松姫(信松尼)が開基した信松院(東京都八王子市台町3-18-28)は、彼女の信仰と後半生の活動の中心地であり、現在もその遺徳を偲ぶ人々が訪れる 1。境内には、信松尼の墓所(八王子市指定史跡)があり、大切に守られている 1。
    また、信松院には木造の「松姫坐像」(八王子市指定有形文化財)が安置されており、彼女の姿を今に伝えている 1。その他、松姫が所持していたと伝えられる手鏡が、東京都西多摩郡檜原村の郷土資料館に現存し、展示されている 22。信玄公宝物館の展示目録には「武田松姫消息文」の記載もあり、彼女の筆跡を伝える史料が存在することを示唆している 43。
    八王子市では、彼女の生涯を分かりやすく伝える紙芝居「松姫ものがたり」が郷土資料館や桑都日本遺産センター 八王子博物館(はちはく)などで上演されており、松姫の伝承は地域社会の中で生き続けている 23。

松姫の人物像は、悲劇的な運命に翻弄されながらも、一途な愛を貫き、慈愛の心を持ち続けた理想化された女性像として、特に彼女が晩年を過ごした八王子の地で深く根付いている。八王子織物への貢献伝承は、その最たる例であり、地域の重要な産業の起源を、悲劇性と高潔さを併せ持つ歴史上の人物に結びつけることで、産業に物語性を付与し、地域住民の誇りを醸成する役割を果たしてきたと言える。信松院や関連する文化財、そして語り継がれる物語は、松姫の記憶を物理的、文化的に継承する装置として機能し、彼女の存在感を現代に伝えている。彼女の物語は、歴史上の人物が時代を超えてどのように記憶され、地域社会の中で意味づけられていくかを示す好例と言えるだろう。

終章:松姫が遺したもの

武田信玄の娘、松姫(信松尼)の生涯は、戦国という激動の時代に翻弄されながらも、一人の女性として、また信仰者として、気高く生き抜いた証であった。彼女が後世に遺したものは、物質的な遺産に留まらず、人々の心に刻まれた物語と、そこから汲み取られる精神的な価値にあると言えよう。

松姫の人生は、武田家の姫としての栄華から、政略結婚の道具としての悲哀、そして武田家滅亡とそれに伴う流浪の日々、さらには元婚約者の死という度重なる試練に見舞われた。しかし、彼女はこれらの逆境に屈することなく、信松尼として仏道に帰依し、八王子の地で信仰と奉仕の生活を送った。その姿は、戦国時代における女性の生き方の一つの典型を示しつつも、個人の精神的な強靭さがいかに運命を切り開くかを示唆している。

信松尼としての彼女の活動、特に共に逃れた姫たちの養育や、地域住民への織物技術の伝承(伝承として)、寺子屋での教育(伝承として)は、単なる隠遁生活を超えた社会的な意義を持っていた。彼女が開いた信松院は、武田家遺臣や地域の人々にとって、精神的な拠り所となった 14 。大久保長安をはじめとする旧臣たちの支援は、彼女が信玄の娘であるという出自だけでなく、その人徳によってもたらされたものであろう。彼女の存在は、滅亡した武田家を偲ぶ象徴であると同時に、八王子という新たなコミュニティにおける求心力ともなったのである 14

現代において、松姫の物語は、小説や紙芝居、地域の祭りなどを通じて語り継がれている 24 。特に八王子市では、彼女は郷土の英雄の一人として親しまれ、その名は地域文化やアイデンティティと深く結びついている。八王子織物の起源を松姫に求める伝承は、その代表例であろう。史実としての厳密な考証は今後の課題としても、この伝承自体が、彼女が地域社会に与えた影響の大きさと、人々がいかに彼女を記憶してきたかを物語っている。

松姫が遺したものは、信松院や関連文化財といった具体的な形あるものだけではない。むしろ、それ以上に重要なのは、逆境にあっても一途な想いを貫き、慈愛の心を持って他者に尽くしたその生き様から発せられる精神的な遺産である。彼女の物語は、歴史が単なる過去の出来事の記録ではなく、現代に生きる私たちにとっても共感や教訓を与えうる、生きた物語として受容され続けることを示している。松姫の生涯を研究し、語り継ぐことは、戦国という時代を生きた人々の多様な姿を理解し、歴史から学びを得る上で、依然として大きな意義を持つと言えるだろう。


付表

表1:松姫略年表

和暦

西暦

松姫の年齢

主要な出来事

関連史料例

永禄4年

1561年

0歳

甲斐国にて武田信玄の五女(四女説あり)として誕生。母は油川夫人。

1

永禄8年

1565年

4歳

父信玄、息女(松姫か黄梅院)の病気平癒を富士浅間大菩薩に祈願か。

1

永禄10年

1567年

6歳

織田信長の嫡男・織田信忠(当時11歳)と婚約(甲尾同盟)。

2

元亀2年

1571年

10歳

母・油川夫人が死去。

48

元亀3年

1572年

11歳

武田信玄の西上作戦開始。武田家と織田家が敵対関係となり、信忠との婚約が破談。

2

元亀4年

1573年

12歳

4月、父・武田信玄が死去。

48

天正10年

1582年

21歳

3月、甲州征伐により武田家滅亡。兄・仁科盛信が高遠城で討死。兄・葛山信貞も処刑。

3

幼い姫たちを連れて高遠城から八王子へ逃避行。

3

21-22歳

6月、本能寺の変。織田信忠が自刃。

3

22歳

信忠の死を知り、八王子の心源院にて出家、「信松尼」と称す。

3

天正18年頃

1590年頃

29歳頃

八王子御所水(現・台町)に草庵(後の信松院)を建立。

3

慶長13年

1608年

47歳

養育していた姪・玉田院殿(仁科盛信の娘)が29歳で死去。

9

元和2年

1616年

55歳

4月16日、逝去。享年56(数え年)。信松院に葬られる。

1

表2:松姫関係主要人物一覧

氏名

松姫との関係

概要

関連史料例

武田信玄

甲斐国の戦国大名。「甲斐の虎」と称される。

1

油川夫人

信玄の側室。武田家の支流・油川氏の娘。信玄に寵愛されたと伝わる。

1

織田信忠

元婚約者

織田信長の嫡男。松姫と7歳で婚約するも、両家の関係悪化で破談。本能寺の変で自刃。

2

仁科盛信

同母兄

武田信玄の五男。信濃高遠城主。甲州征伐の際、織田軍に最後まで抵抗し討死。

1

葛山信貞

同母兄

武田信玄の六男。駿河葛山氏の養子。武田家滅亡後、甲斐善光寺で処刑される。

1

菊姫

同母妹

武田信玄の娘。上杉景勝の正室。

1

武田勝頼

異母兄

武田信玄の四男。信玄死後、武田家を継承。長篠の戦いで敗れ、甲州征伐で天目山にて自刃。

3

大久保長安

支援者

元武田家臣。後に徳川家康に仕え、関東代官頭などを歴任。八王子での信松尼の生活を支援し、信松院建立に尽力した。

3

玉田院殿

姪(養女)

仁科盛信の娘。通称は小栗。武田家滅亡後、松姫と共に八王子へ逃れ、信松尼に養育される。慶長13年に29歳で病死。

9

卜山舜越

八王子心源院の和尚。松姫が出家する際の師。信松院の開山。

26

表3:松姫ゆかりの史跡・文化財一覧

名称

所在地(現存する場合)

概要・松姫との関連

文化財指定状況(該当する場合)

関連史料例

信松院

東京都八王子市台町3-18-28

松姫(信松尼)が開基した曹洞宗の寺院。松姫の墓所がある。

-

3

信松尼墓

信松院境内

松姫(信松尼)の墓。

八王子市指定史跡

1

松姫坐像

信松院所蔵

木造の松姫(信松尼)の坐像。

八王子市指定有形文化財(彫刻)

1

松姫の手鏡

東京都西多摩郡檜原村郷土資料館所蔵

松姫が武田家滅亡の際に八王子へ逃れる途中、檜原村の民家で休憩したお礼に置いて行ったと伝わる手鏡。

-

22

松姫峠

山梨県大月市・北都留郡小菅村境

武田家滅亡後、松姫が八王子へ逃れる際に越えたと伝えられる峠。

-

22

心源院

東京都八王子市下恩方町

松姫が出家し、信松尼として修行を積んだ曹洞宗の寺院。

-

3

武田松姫消息文

信玄公宝物館(山梨県甲府市)に記載あり

松姫が書いた手紙。具体的な内容や現存状況については詳細な調査が必要。

-

43

軍船ひな形・寄進目録

信松院所蔵

安土桃山時代制作の安宅船と関船の木製雛型(模型)と寄進目録。松姫との直接的な関連は不明だが、信松院の重要な文化財。

東京都指定有形文化財(歴史資料)

1

引用文献

  1. 信松尼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%9D%BE%E5%B0%BC
  2. 松姫 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46535/
  3. 元婚約者を愛し続けた武田信玄の娘・松姫。「本能寺の変」が生んだ切なすぎる悲恋とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/89719/
  4. 八王子見て歩記/松姫さま5 https://utrblog.exblog.jp/15808300/
  5. に導かれ(その1) 武田松姫の生涯 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/302/302toku_kiko.pdf
  6. 松姫さまの生涯 - 八王子金龍山 信松院 https://shinshouin.or.jp/matsuhimesama/
  7. 油川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B7%9D%E6%B0%8F
  8. 武田家の姫について紹介しています - 戦国時代を巡る旅 http://www.sengoku.jp.net/hime/takeda/takeda-hime/
  9. 仁科盛信とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%9B%9B%E4%BF%A1
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