浅井初(常高院) – 戦国乱世を生きた高貴なる女性の生涯と役割
序章:浅井初 – 戦国の世に咲いた一輪の花
本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた一人の女性、浅井初(あざい はつ)、後の常高院(じょうこういん)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に検証し、その人物像と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。特に、彼女が経験した二度の落城、豊臣家と徳川家という二大勢力の狭間で果たした和平への努力、そして嫁ぎ先である京極家の存続に尽力した点に焦点を当てる。
浅井初が生きた時代は、織田信長の台頭に始まり、豊臣秀吉による天下統一、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が盤石の体制を築き上げるまでの、まさに日本史における一大転換期であった。このような時代にあって、武家の女性たちは、個人の意思とは別に、家の存続や勢力拡大のための政略結婚の駒として扱われることが常であった
1
。浅井初もまた、その高貴な出自ゆえに、時代の荒波に翻弄されながらも、類稀なる才覚と強靭な精神力をもって自らの役割を果たし、歴史にその名を刻んだ。本報告書では、彼女の生涯を丹念に追うことで、戦国から近世へと移行する時代における女性の生き様の一端を照らし出すことを試みる。
第一章:誕生と浅井家の没落 – 波乱の幕開け
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近江の名門・浅井長政とお市の方の次女としての出自
浅井初は、永禄13年(1570年)頃、北近江の戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹であるお市の方の間に次女として生を受けた 3。父・長政は、六角氏の支配から独立し、北近江に勢力を築いた気鋭の武将であり、母・お市の方は「戦国一の美女」と称されるほどの美貌と気品を兼ね備えた女性であった 1。この両親から受け継いだ血筋は、初にとって生涯を通じて大きな意味を持つことになる。それは時に庇護の源となり、また時には政争の渦に巻き込まれる要因ともなったのである。信長は、美濃攻略後、京へ上るルートとして近江を重視し、長政を味方につけるためにお市の方を嫁がせたという背景があり、初はまさにそのような政治的結束の象徴として生を受けたと言える 3。お市の方が24歳の時の子で、長女・茶々の一歳下であった 3。
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幼名「御鐺(おなつ)」と家族構成
初の幼名は「御鐺(おなつ)」または「於那(おなつ)」と伝えられている 3。姉には後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀殿)、妹には後に徳川二代将軍・秀忠の正室となる江(崇源院)がおり、この三姉妹は「浅井三姉妹」として後世に名を残すことになる 1。また、兄に万福丸がいた 5。彼女たち姉妹の絆は、その後の過酷な運命の中で互いを支え合う力となった。
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小谷城落城と織田家による庇護
初の幼少期は、父・長政と伯父・信長の対立により、早くも暗転する。元亀元年(1570年)、信長が長政との盟約に反し、浅井氏と旧知の間柄であった越前の朝倉義景を攻めたことにより、長政は信長と決別 3。浅井・朝倉連合軍は信長を相手に善戦するも、天正元年(1573年)8月、ついに浅井氏の居城である小谷城は織田軍の猛攻の前に落城する 1。この時、父・長政は自害し、浅井氏は滅亡した 3。初はわずか数歳にして、母・お市の方、姉妹と共に、織田方の武将・藤掛永勝によって城中から救出され、織田家に引き取られることとなった 5。その後の庇護については諸説あり、伯父の織田信包のもとや、信長の叔父にあたる織田信次に預けられた後、信長の岐阜城へ移り住んだとされる 5。この最初の落城体験は、初の人生における最初の大きな試練であり、父との死別という悲劇を伴うものであった。
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母・お市の方の柴田勝家への再嫁と北ノ庄城での生活、そして再びの落城
天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死すると、織田家の後継者問題が浮上する。その後の清洲会議を経て、母・お市の方は織田家の筆頭家老であった柴田勝家と再婚する 1。これに伴い、初ら三姉妹も勝家の居城である越前国北ノ庄城へと移り住んだ 5。しかし、安息の日々は長くは続かなかった。天正11年(1583年)、勝家は羽柴秀吉との覇権争いである賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城は秀吉軍に包囲される 5。勝家とお市の方は城内で自害を選び、初は14歳にして再び落城の悲運に見舞われ、母と継父を同時に失うという二度目の大きな悲劇を経験した 1。度重なる落城と肉親の死という過酷な体験は、初の精神形成に計り知れない影響を与えたであろう。それは深い無常観を抱かせると同時に、いかなる困難にも屈しない強靭な精神力と、現実を冷静に見据える目を養うことにも繋がったのかもしれない。後に彼女が和平交渉の場で示した粘り強さや現実的な判断力は、こうした経験に裏打ちされていたとも考えられる。
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羽柴(豊臣)秀吉による庇護
両親を失った浅井三姉妹は、敵将であった羽柴秀吉の庇護下に置かれることとなった 5。一説には、北ノ庄城落城後、一時的に遥の谷に匿われた後、秀吉に迎えられて安土城に入ったとも 5、あるいは織田信雄が後見人となったとも言われている 5。いずれにせよ、この秀吉による庇護が、後の姉・茶々の秀吉側室入り、そして初自身の結婚へと繋がる新たな運命の序章となったのである。
第二章:京極高次との結婚 – 新たな人生と戦乱の渦
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従兄・京極高次との結婚の経緯と豊臣秀吉の関与
北ノ庄城落城後、豊臣秀吉の庇護下に入った初は、天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、京極高次(きょうごく たかつぐ)と結婚する 5。高次は、浅井氏の旧主筋にあたる近江の守護大名・京極氏の当主であり、初の母・お市の方の姉(京極マリア)の子、すなわち初にとっては従兄にあたる人物であった 10。この結婚は、秀吉の政略的な意図が大きく働いたものと考えられる。秀吉は、有力な血筋である浅井三姉妹を自らの影響下に置くことで、政権の安定化を図ろうとしたのであろう 11。高次にとっても、信長の姪であり、秀吉の庇護下にある初を正室に迎えることは、京極家の再興と地位向上に繋がる重要な意味を持っていた 11。
以下に、浅井初(常高院)の生涯における主要な関係者を示す。
表1:浅井初(常高院)の主要な関係者一覧
関係
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氏名(通称・諱)
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生没年
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初との関わり(簡潔な説明)
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備考 (関連史料IDなど)
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父
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浅井長政(あざい ながまさ)
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1545-1573
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北近江の大名。織田信長と敵対し自害。
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3
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母
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お市の方(おいちのかた)
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1547-1583
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織田信長の妹。浅井長政に嫁ぎ、後に柴田勝家と再婚。北ノ庄城で自害。
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1
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姉
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茶々(ちゃちゃ)、淀殿(よどどの)
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1569?-1615
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豊臣秀吉の側室。豊臣秀頼の母。大坂夏の陣で自害。
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1
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妹
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江(ごう)、崇源院(すうげんいん)
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1573-1626
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徳川秀忠の正室。三代将軍・家光の母。
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1
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夫
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京極高次(きょうごく たかつぐ)
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1563-1609
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近江大津城主、後に若狭小浜藩初代藩主。初の従兄。
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3
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養子
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京極忠高(きょうごく ただたか)
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1593-1637
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高次の庶子。常高院の養子となり京極家を継ぐ。
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10
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養女
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初姫(はつひめ)、興安院(こうあんいん)
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1602-1630
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徳川秀忠と江の四女。常高院の養女となり、京極忠高に嫁ぐ。
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10
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伯父
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織田信長(おだ のぶなが)
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1534-1582
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母・お市の方の兄。天下統一を進めたが本能寺の変で死去。
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3
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義父(継父)
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柴田勝家(しばた かついえ)
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1522?-1583
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織田家重臣。母・お市の方の再婚相手。賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自害。
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1
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庇護者
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豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
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1537-1598
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浅井三姉妹を庇護。姉・茶々を側室とし、初の結婚を斡旋。天下人。
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6
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義弟
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徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
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1579-1632
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江戸幕府第二代将軍。妹・江の夫。
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1
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甥
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豊臣秀頼(とよとみ ひでより)
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1593-1615
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豊臣秀吉と淀殿の子。大坂夏の陣で自害。
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5
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舅
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徳川家康(とくがわ いえやす)
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1543-1616
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江戸幕府初代将軍。妹・江の舅。大坂の陣で豊臣家を滅ぼす。
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5
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夫婦関係と京極家における初の役割 – 姉妹を通じた姻戚関係の重要性
京極高次と初の夫婦関係については、史料により異なる側面が伝えられている。初と高次は従兄弟同士であり、当時としては珍しく恋愛結婚であったと言われ、夫婦仲は良好だったとする説がある 9。子宝には恵まれなかったものの、初は高次の側室の子である熊麿(後の京極忠高)を引き取り、養子として育て、京極家の後継者とした 9。しかし一方で、高次が熊麿の母である側室・於崎の懐妊を初の嫉妬を恐れて隠そうとしたという逸話も残っており 13、当時の武家の複雑な夫婦関係を垣間見ることができる。
重要なのは、初の存在が京極家にもたらした広範な姻戚関係である。姉の茶々(淀殿)は天下人・豊臣秀吉の側室となり豊臣秀頼を産み、妹の江(崇源院)は後に徳川幕府二代将軍となる徳川秀忠に嫁いだ 4。これにより、京極家は豊臣家と徳川家という、当時の日本で最も力を持つ二大勢力と強力な縁戚関係を結ぶことになった 11。初自身も「夫の信頼できる相談役として尽くした、美しく知的な妻」と評され、その家柄と才覚は、京極家の存続と発展にとって計り知れない価値を持っていた 16。彼女はまさに、これらの有力な家々の間を繋ぐ「仲介者」としての役割を担うことになったのである 16。この事実は、初が単なる政略結婚の駒ではなく、自らの立場を理解し、それを京極家のために活かそうとした能動的な女性であったことを示唆している。
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関ヶ原の戦いと大津城籠城 – 夫を支えた初
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この時、京極高次は近江大津城主であった。当初、高次は西軍に与するかに見せかけていたが、最終的には東軍(徳川家康方)に味方し、大津城に籠城する 5。西軍の立花宗茂、毛利元康らの大軍に包囲され、激しい攻防戦が繰り広げられた 18。高次の籠城は、西軍の主力を関ヶ原の本戦場から引き離し、その進軍を遅滞させる効果をもたらした 11。この戦いにおいて、初も夫と共に大津城にあり、城兵を励まし、食料調達に奔走するなど、籠城戦を支えたと伝えられている 16。大津城は最終的に開城するものの、高次のこの行動は徳川家康に高く評価されることになる 19。
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京極家の若狭小浜藩主への道
関ヶ原の戦いにおける大津城での功績により、戦後、京極高次は徳川家康から若狭一国を与えられ、若狭小浜藩8万5千石(後に加増され9万2千石)の初代藩主となった 5。これにより、かつては衰退しかけていた京極家は、大名家としての地位を確固たるものにした。この京極家の再興には、初の存在と、彼女が持つ豊臣・徳川両家との強力な人脈が大きく寄与したことは疑いない 8。初はまさに、嫁ぎ先の家を支え、その繁栄の礎を築いたのである。高次は小浜藩主として、新たな城(小浜城)の建設や城下町の整備、商業の振興などを行い、藩政の基礎を固めた 16。
第三章:常高院としての活動 – 豊臣と徳川の架け橋
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夫・高次の死と出家、「常高院」となる
若狭小浜藩主として京極家の再興を果たした夫・高次であったが、慶長14年(1609年)5月3日、47歳という若さで病没する 5。夫の死後、初は当時の高貴な女性の慣例に従い剃髪し、出家して「常高院」と号した 3。これは彼女の人生における大きな転換点であり、これ以降、彼女は常高院として、新たな役割を担うことになる。
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大坂冬の陣における和平交渉 – 豊臣方使者としての尽力
夫・高次の死後、常高院の姉・淀殿が実権を握る豊臣家と、妹・江が嫁いだ徳川家の間の対立は次第に深刻化していった 9。そして慶長19年(1614年)、ついに大坂冬の陣が勃発する。この時、常高院はその特異な立場から、両家の和平交渉の使者として白羽の矢が立てられた。一説には豊臣方の使者として 3、また一説には徳川家康からの依頼で 9、あるいは両者の意向を受けて、和平の仲介に奔走したとされる 21。常高院は、徳川方の交渉役である阿茶局(家康の側室)と会談を重ね、粘り強い交渉の末、大坂城の外堀を埋めることなどを条件とする和議を成立させ、一時的な停戦を実現した 3。彼女の血縁という個人的な繋がりと、これまでの人生で培われたであろう交渉力や現実認識が、この困難な任務を遂行する上で大きな力となったことは想像に難くない。
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大坂夏の陣と豊臣家の滅亡 – 再度の和平交渉と姉・淀殿の最期
しかし、大坂冬の陣における和議は長くは続かなかった。和議の条件であった堀の埋め立てを巡る解釈の違いなどから両者の不信感は再び高まり、翌慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣が勃発する。常高院は再び豊臣家からの依頼を受け、徳川家康に和議を申し入れるが、今回は家康の豊臣家殲滅の意志は固く、和平交渉は不調に終わった 9。
豊臣方は奮戦するも徳川方の圧倒的な兵力の前に敗れ、大坂城は落城。姉・淀殿と甥・豊臣秀頼は城中で自害し、ここに豊臣家は滅亡した 8。常高院自身もこの大坂夏の陣を大坂城内で経験しており、落城の混乱の中、家臣たちによって城から避難させられたと伝えられている 3。姉を救うことができなかった悲しみは、常高院にとって生涯癒えることのない深い傷となったであろう。この一連の出来事は、個人の力や血縁だけでは、大きな歴史の流れや武力衝突を止めることには限界があるという、戦国末期の非情な現実を改めて示すものであった。
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豊臣秀頼の遺児・天秀尼の助命嘆願
豊臣家滅亡後、常高院は秀頼の娘であり、自らの姪孫にあたるお七(後の天秀尼)の助命を徳川家康に嘆願したと伝えられている 5。その結果、お七は死罪を免れ、常高院の保護下で命をつなぎ、後に鎌倉の東慶寺に入って天秀尼と称し、同寺の再興に尽力した 6。この行動は、豊臣家への旧恩や血縁者への深い情愛を示すものであり、常高院の人間性の一面を伝える重要な逸話である。
第四章:晩年と遺産 – 静かなる余生と後世への影響
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江戸における妹・江(崇源院)との交流と手紙
豊臣家滅亡後、常高院は京極家の人質として江戸城下に居住したという説がある 6。江戸では、妹であり徳川将軍家の御台所となっていた江(崇源院)と頻繁に面会し、姉妹の絆を深めたと伝えられている 5。岐阜市歴史博物館には、江が常高院に宛てた手紙が数通現存しており、その文面からは姉妹の親密な関係がうかがえる 24。
これらの手紙には、江の娘である和子(まさこ、後の東福門院、後水尾天皇中宮)に常高院が使者を送ったことへの感謝、江戸での再会を楽しみにする言葉、常高院が患っていた中風の具合を気遣う内容などが記されている 24。また、将軍・徳川家光の動向や大御所・秀忠への手紙の取り次ぎ、祝儀の品への感謝なども見られ、単なる私的な交流に留まらず、当時の政治の中枢に関わる情報交換も行われていた可能性が示唆される 24。常高院は、その豊富な経験と人脈から妹・江にとって重要な相談相手であったかもしれず、また江から得られる幕府内部の情報は、京極家にとっても価値のあるものであったかもしれない。これは、江戸初期において、女性が公式な政治の場からは遠ざけられつつあったものの、私的なネットワークを通じて依然として情報収集や一定の影響力を行使し得たことを物語っている。
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養子・京極忠高と初姫(江の娘)の養育
常高院は、夫・高次の庶子であった京極忠高を養子とし、京極家の家督を継がせた 9。さらに、徳川家康の命、あるいは妹・江との関係から、江の四女である初姫(後の興安院)を養女として引き取り、後に忠高の正室として嫁がせた 10。これは京極家と徳川家の結びつきをより強固にするための政略結婚であったが、忠高と初姫の夫婦仲は必ずしも良好ではなかったと伝えられており 9、これが常高院の晩年における心労の一因となった可能性も考えられる。
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常高寺の建立 – 夫と一族の菩提を弔う信仰心
常高院は、亡き夫・京極高次の菩提を弔うため、京極家の所領である若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に常高寺を建立した 21。寺の創建は寛永7年(1630年)頃とされ、小浜出身の禅僧・槐堂周虎(かいどうしゅうこ)禅師を開山として迎えた 21。常高院は、かつて豊臣秀吉から化粧料として与えられた所領の一部を常高寺に寄進し、寺の経済的基盤を固めたとされている 28。
特に注目されるのは、常高院が「もし、将来(京極家が)国替えになるようなことがあっても、常高寺だけはこの若狭の地に留めおいて下さい」という遺言を残したことである 23。この遺言からは、常高寺に対する彼女の深い愛着と、夫への追慕の念、そして篤い信仰心がうかがえる。常高寺の建立は、単に夫の冥福を祈るというだけでなく、京極家の権威と菩提を後世に伝え、自らの信仰の証を残すという複合的な意味合いを持っていたと考えられる。
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その死と墓所 – 若狭小浜の常高寺にて永眠
寛永10年(1633年)8月27日、常高院は江戸の京極忠高の屋敷において、波乱に満ちた生涯を閉じた 5。享年は64歳であったと伝えられる(諸説あるが、23の六十四歳が有力か)。彼女は浅井三姉妹の中で最も長命であった 9。その遺骸は、生前の遺言に従い、遠く若狭国小浜まで運ばれ、自らが建立した常高寺に葬られた 5。
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京極家の繁栄への貢献と人柄を偲ばせる逸話(侍女たちの菩提寺建立など)
常高院の生涯を通じての働きは、嫁ぎ先である京極家の存続と繁栄に大きく貢献したと高く評価されている 8。彼女の持つ広範な人脈、政治的なバランス感覚、そして困難な状況を乗り越えるための知恵と行動力は、京極家が戦国末期から江戸初期にかけての激動期を乗り切り、大名としての地位を確立する上で不可欠な要素であった。
また、常高院の人柄を偲ばせる逸話として、彼女に仕えた侍女たちとの関係が挙げられる。常高院は非常に優しい人柄で、侍女たちからも深く慕われていたと伝えられている 29。その証として、常高院の死後、7人の侍女たちが主君の菩提を弔うために出家し、岐阜に庵(後の後背山栄昌院)を結んだという話が残っている 29。これは、常高院が単に血筋や立場によって敬われただけでなく、その人間性によっても周囲の人々を魅了し、深い絆を築いていたことを物語る感動的なエピソードである。
終章:浅井初(常高院)の歴史的評価
浅井初、後の常高院の生涯は、戦国乱世から江戸初期という時代の転換期を背景に、高貴な出自に生まれながらも、度重なる試練と悲劇を乗り越え、自らの役割を力強く果たした一人の女性の物語である。
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戦国乱世を生き抜いた女性としての強さと賢明さ
幼少期からの相次ぐ落城、肉親との死別という過酷な運命に翻弄されながらも、常高院は長寿を全うした 9。その背景には、類稀な生命力と強靭な精神力、そして変化する状況に柔軟に対応する賢明さがあったと言える。「悲劇を生き延びながらも姉妹愛を重んじ、嫁いだ京極家の繁栄も支え続けた」9 という評価は、彼女の生き様を的確に捉えている。彼女の人生は、戦国時代の女性が単なる政略の道具ではなく、主体的に運命と向き合い、家や家族を守るために尽力した存在であったことを示している。
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政治的役割と平和への希求
常高院の最も特筆すべき功績の一つは、豊臣家と徳川家という二大勢力の間に立ち、和平交渉に尽力した点である 3。姉が豊臣家に、妹が徳川家に嫁ぐという特異な立場を活かし、大坂の陣という未曾有の戦乱の中で、平和の実現に向けて奔走した。その努力は、最終的に豊臣家の滅亡という悲劇を防ぐことはできなかったものの、彼女の平和への強い願いと外交手腕は高く評価されるべきである。国際的にも「日本の歴史上のその時代で最も有力な2つの家の間の仲介者として尽くしました」16 と評される役割は、戦国末期から江戸初期にかけての過渡期における女性の政治的関与の稀有な例として重要である。彼女の平和への希求は、自らが体験した戦乱の悲惨さに深く根差していたと考えられ、その行動は、近世における女性の役割が変化していく中で、戦国女性が持ち得たある種の政治的影響力とその限界を象徴している。
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浅井三姉妹の中での位置づけと後世への影響
姉の淀殿は豊臣家の栄華と滅亡を象徴する存在であり、妹の江は徳川将軍家の御台所として権勢を誇った。その著名な姉妹に挟まれながらも、常高院は独自の道を歩み、京極家を支え、豊臣・徳川間の調停役という重要な役割を果たした。姉二人が嫁ぎ先の家の盛衰に深く関わったのに対し、初は京極家を大名家として再興させ、その存続に貢献した点で、異なる形の成功を収めたと言える 8。
彼女自身に実子はいなかったものの、養子・忠高を通じて京極家の血筋(実際には高次の血筋)を後代に繋ぎ、また、常高寺や後背山栄昌院の建立は、彼女の篤い信仰心と、後世の人々からの敬慕の念を今に伝えている 21。
浅井初(常高院)の生涯は、戦国という時代の厳しさと、その中で輝きを放った一人の女性の強さ、賢明さ、そして人間愛を私たちに教えてくれる。彼女の生き様は、歴史の大きなうねりの中で、個人がいかにして自らの役割を見出し、困難に立ち向かい、そして後世に影響を与え得るかを示す、貴重な事例と言えるであろう。
付録
表2:浅井初(常高院)略年表
和暦
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西暦
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年齢 (数え)
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出来事
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関連人物
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備考 (関連史料IDなど)
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永禄13年頃
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1570年頃
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1歳
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浅井長政とお市の方の次女として誕生。幼名「御鐺(おなつ)」。
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浅井長政, お市の方
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3
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天正元年
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1573年
|
4歳頃
|
小谷城落城。父・浅井長政自害。母・姉妹と共に織田家に保護される。
|
浅井長政, お市の方, 織田信長
|
3
|
天正10年
|
1582年
|
13歳頃
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本能寺の変。織田信長死去。母・お市の方、柴田勝家と再婚。
|
織田信長, お市の方, 柴田勝家
|
1
|
天正11年
|
1583年
|
14歳頃
|
賤ヶ岳の戦い。北ノ庄城落城。母・お市の方、継父・柴田勝家自害。羽柴秀吉の庇護下へ。
|
お市の方, 柴田勝家, 羽柴秀吉
|
6
|
天正15年
|
1587年
|
18歳頃
|
豊臣秀吉の計らいにより、従兄の京極高次と結婚。
|
京極高次, 豊臣秀吉
|
5
|
慶長3年
|
1598年
|
29歳頃
|
豊臣秀吉より近江蒲生郡に化粧料を与えられる。
|
豊臣秀吉
|
10
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慶長5年
|
1600年
|
31歳頃
|
関ヶ原の戦い。夫・高次、大津城に籠城し東軍に貢献。初も夫を支える。
|
京極高次, 徳川家康
|
5
|
(戦後)
|
(1600年)
|
|
高次、若狭小浜藩主となる。
|
京極高次, 徳川家康
|
5
|
慶長14年
|
1609年
|
40歳頃
|
夫・京極高次死去。出家し「常高院」と号す。養子・忠高が家督相続。
|
京極高次, 京極忠高
|
5
|
(時期不明)
|
|
|
妹・江の娘、初姫を養女とし、後に忠高に嫁がせる。
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初姫, 京極忠高, 江
|
10
|
慶長19年
|
1614年
|
45歳頃
|
大坂冬の陣。豊臣・徳川間の和平交渉に尽力し、一時和議を成立させる。
|
淀殿, 豊臣秀頼, 徳川家康, 阿茶局
|
3
|
元和元年
|
1615年
|
46歳頃
|
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。姉・淀殿、甥・秀頼自害。
|
淀殿, 豊臣秀頼
|
8
|
(戦後)
|
(1615年)
|
|
豊臣秀頼の娘(天秀尼)の助命を嘆願。
|
天秀尼, 徳川家康
|
5
|
(時期不明)
|
|
|
江戸にて妹・江と頻繁に交流。
|
江
|
5
|
寛永7年頃
|
1630年頃
|
61歳頃
|
若狭小浜に常高寺を建立。
|
槐堂周虎
|
21
|
寛永10年
|
1633年
|
64歳
|
8月27日、江戸の京極屋敷にて死去。若狭小浜の常高寺に葬られる。
|
|
5
|
引用文献
-
長女は豊臣家に、三女は徳川家に嫁いだ「浅井三姉妹」の数奇な人生
https://dot.asahi.com/articles/-/208419?page=1
-
たくましく生き抜いた「浅井三姉妹」と戦国の世 - PHPオンライン
https://shuchi.php.co.jp/article/136
-
浅井三姉妹(茶々・初・江)お市の方の3人娘の数奇な運命 - 戦国武将のハナシ
https://busho.fun/column/azai-threesisters
-
姉と妹、豊臣と徳川のあいだを取り持つ!浅井三姉妹の次女・お初(常高院)とは? - Japaaan
https://mag.japaaan.com/archives/191461
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常高院 - Wikipedia
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常高院- 维基百科,自由的百科全书
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浅井三姉妹 - Wikipedia
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お初(常高院) 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド
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茶々の妹・初が辿った生涯|大坂の陣で豊臣方の使者を務めた浅井 ...
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戦国一情けない?妹や妻のコネクション使いまくり大名「京極高次」に逆転人生を学ぶ! - 和樂web
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常高院(お初)について - 小浜市
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浅井三姉妹 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド
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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城 - 攻城団ブログ
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大津城 /城跡巡り備忘録 滋賀県
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常高寺|おすすめの観光スポット|【公式】福井県 観光/旅行サイト | ふくいドットコム
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常高寺 | おすすめ観光スポット | FUKUI若狭ONEweb 福井「若狭路」の観光サイト
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江の手紙から – 岐阜ネタ満載!レッツぎふ マガジン
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「江~姫たちの戦国~」展 江戸東京博物館 | 猫アリーナ - FC2
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お初の方、京極高次とともに小浜へ!
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観光スポット - 魚市場|カニ|海産物|海鮮丼|敦賀 - 日本海さかな街
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佐治与九郎の妻(お江)の姉(お初)を訪ねて1 | 大野谷文化圏のブログ
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後背山栄昌院と常高院(初)/ホームメイト
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後背山栄昌院|観光スポット|岐阜市観光ナビ - 岐阜観光コンベンション協会
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