本報告書は、真田信繁(以下、一般に知られる幸村の名も適宜用いる)の娘であり、仙台藩伊達家の重臣であった片倉小十郎重長の継室となった阿梅(おうめ)の方の生涯と、関連する史実および伝承を、現存する資料に基づいて多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。
阿梅の方は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという激動の時代を生きた女性である。父・真田幸村の死後、敵方であった片倉家に嫁ぐという数奇な運命を辿った。彼女の生涯は、個人の物語であると同時に、敗れた側の血脈が如何にして後世に繋がれていったか、また、武家の女性が置かれた状況や信仰のあり方を示す事例として、歴史的に重要な意味を持つと考えられる。本報告書では、阿梅の方の出自、大坂の陣における保護の経緯、片倉重長との結婚、白石での生活、そして彼女の信仰や晩年、さらには兄弟姉妹や仙台真田氏との関わりについて、詳細な検討を行う。
阿梅の方の出自、特に生母と生年に関しては諸説が存在し、確定には至っていない。これらの説を比較検討することで、彼女の初期の人生における背景を探る。
阿梅の方の生母については、主に二つの説が伝えられている。
表1: 阿梅の生母に関する諸説比較
説 |
主な史料・根拠 |
史料の性格 |
考察(支持する点・疑問点) |
高梨内記の娘説 |
『左衛門佐君伝記稿』 1 , Wikipedia 2 , 『真武内伝』 3 など |
編纂物、系図、伝記 |
複数の史料で言及。高梨内記は信繁の側近。側室の子という位置づけになる。 |
竹林院説 |
Wikipedia 1 , 阿梅による竹林院供養の事実 1 など |
編纂物、状況証拠(供養) |
正室の子となる。阿梅が竹林院の供養を行っている点が注目されるが、嫡母供養の可能性も否定できない。当信寺の記録にある「母大谷氏」 7 との関連も指摘される。 |
この表は、阿梅の方の出自に関する最も基本的な情報である生母について、錯綜する説を整理し、各説の根拠と検討点を明確にすることを意図している。
阿梅の方の生年についても、複数の説が存在する。
『左衛門佐君伝記稿』によれば、阿梅の方は信濃で生まれたとされる 1 。これが事実であれば、彼女の生年は父・信繁が関ヶ原の合戦(慶長五年/1600年)後に高野山、次いで九度山へ配流される以前、すなわち慶長五年以前の可能性が高まる。信繁の配流は慶長五年からであり、阿梅の方が信濃生まれであれば、配流前に誕生していたことになる。しかし、前述の通り生年には諸説あり、幼少期の具体的な状況については不明な点が多い。
阿梅の方の人生における最大の転機は、大坂の陣と、それに続く片倉家による保護であった。この経緯についても、複数の説が伝えられている。
通説によれば、阿梅の方は父・真田幸村に従って大坂城に入城していたとされる 11 。慶長二十年(1615年)五月七日、大坂夏の陣において真田幸村は徳川家康本陣への突撃も空しく討死を遂げる。その前夜にあたる五月六日の夜、幸村は娘の阿梅の方を、敵方である伊達政宗の重臣、片倉小十郎重長(当時は重綱)のもとにひそかに送り届けたとされる説がある 12 。
阿梅の方が片倉重長に保護された経緯については、大きく分けて「幸村による託付説」と「乱取り説」が存在する。
表2: 大坂の陣における阿梅保護の経緯に関する諸説比較
説 |
主な史料・根拠 |
記述内容の要点 |
考察(信憑性、背景) |
幸村による託付説 |
『老翁聞書』 13 , 白石市伝承 9 , 侍女の証言伝承 11 |
幸村が重長の武勇を見込み、娘を託した。重長の陣に送り届けられた。 |
美談として語られやすい。敗軍の将が敵将に託す背景には、よほどの信頼か絶望的状況があった可能性。ただし、直接的な一次史料による裏付けは限定的。 |
乱取り説 |
『片倉代々記』 1 , 『白川家留書』 1 |
大坂落城時に戦場で捕らえられた(乱取り)。当初出自不明で侍女として使役。 |
片倉家の正史や真田家臣の記録に見られる。戦国期の戦場の現実を反映。幕府への配慮から「乱取り」と記録した可能性も。 |
折衷/複合説 |
上記諸説の総合的解釈 |
幸村の意図はあったが正式な引き渡しはならず、結果的に乱取りに近い形で保護。当初出自不明。 |
対立する説の要素を組み合わせた解釈。戦場の混乱や、後の政治的配慮などが複雑に絡み合った可能性を示唆。三井豊前による出自判明が重要な転換点。 |
この表は、阿梅の方の人生における最大の転機である保護の経緯について、多様な史料と解釈を比較検討することで、歴史の多面性を浮き彫りにすることを目的としている。
保護された阿梅の方は、後に片倉重長の継室となり、白石の地で生涯を送ることになる。
大坂の陣の後、侍女として片倉家にあった阿梅の方は、真田信繁の娘であることが判明した後、片倉重長の継室として迎えられた 1 。重長ははじめ重綱と名乗っていたが、後に江戸幕府三代将軍徳川家光の嗣子・家綱の諱字を避けて重長と改名している 16 。重長には正室として針生盛直の娘・綾がいたが、阿梅の方はその後妻(継室)となった 16 。
片倉重長と阿梅の方の間には実子は生まれなかったとされている 1 。そのため、重長は正室・綾との間に生まれた娘・喜佐(松前安広室)の子、すなわち自身の外孫にあたる片倉景長を養子として迎え、家督を継がせた 1 。また、茂庭良元の三男・延元も一時養子としたが、後に茂庭本家を継ぐことになったため養子縁組は解消されている 16 。
阿梅の方や妹の阿菖蒲は白石城の二の丸で、弟の大八は城下の領内で密かに養育されたと伝えられている 10。一部の史料では、阿梅の方を含む4人の姫は白石城内で堂々と育てられたともされる 22。
白石市の伝承として「阿梅姫は後に片倉小十郎重長公の後室となり、生涯重長公と仲むつまじく暮らしました」との記述が見られる 21。具体的な生活記録は乏しいものの、阿梅の方が父・真田幸村の菩提を弔うために月心院を建立し(後述)、片倉家もそれを支援している点などから、夫婦関係や片倉家での立場が比較的良好であったことが推察される。敵将の娘という難しい立場でありながら継室となり、さらに弟妹の庇護にも繋がった背景には、阿梅の方自身の人間性や才覚、そして夫・重長の深い理解があったと考えられる。小説『幸村のむすめ』(伊藤清美著)では、12歳の阿梅の方が異郷の地で周囲の信頼を勝ち取り、確固たる地歩を固めていく姿が描かれているが 23、これは創作ではあるものの、阿梅の方が置かれたであろう状況の一端を示唆しているかもしれない。
阿梅の方の存在は、彼女自身の運命だけでなく、他の真田幸村の子女、特に弟の大八(真田守信)や妹の阿菖蒲の運命にも大きな影響を与え、仙台真田氏の成立へと繋がっていく。
真田幸村の次男である大八は、姉・阿梅の方の縁により片倉家に身を寄せた 1。当初は片倉久米介と名乗り、後に片倉四郎兵衛守信と改め、仙台藩士となった 10。
大八の養育は、白石城外で客分として行われ、その事実は「真田幸村の男子」であったが故に、徳川方からの追及を恐れて厳重に秘匿された 12。後に仙台城下の五橋通に屋敷を構え、刈田郡矢附村などに三百石の領地を与えられている 10。
守信の子の代(二代辰信)になって真田姓に復し、これが仙台真田家として現在まで続いている 16。大八(守信)の墓は、白石市の当信寺に姉・阿梅の方の墓と並んで建てられている 9。
大八の保護と仙台藩士としての取り立て、そして後の真田姓への復姓は、片倉家(ひいては伊達家)の戦略的な判断と、真田の武名への敬意が背景にあると考えられる。徳川の治世が安定するまでは片倉姓を名乗らせて庇護し、時期を見て真田姓を再興させるという周到な配慮が見て取れる。これは、単なる温情に留まらない、家の存続や武名の継承を重んじる戦国的な価値観の表れとも言えるだろう。
真田幸村の六女・阿菖蒲も、姉・阿梅の方の縁により片倉家に身を寄せ 1、白石城の二の丸で養育された 10。後に片倉重長・阿梅の方夫妻の養女となり、片倉定広(田村定広とも称す)に嫁いだ 1。
夫の定広は、三春城主・田村清顕の孫養子であり、伊達政宗の正室・愛姫の甥にあたる人物である 2。この縁組により、真田家の血は伊達家の縁戚とも繋がることになり、その血脈の複雑な広がりを示している。
真田幸村には阿梅、大八、阿菖蒲以外にも多くの子女がいた。そのうち、片倉家と関わりを持ったとされる姉妹もいる。
その他、信繁の子女としては、長女・阿菊(すへ、石合氏室)、次女・於市(九度山で早世)、四女・あくり(蒲生氏室)、五女・顕性院(なほ/御田姫、岩城氏継室)などが記録されている 2 。
表3: 真田信繁の子女一覧(阿梅の兄弟姉妹)と片倉家との関わり
氏名 |
続柄(信繁の子として) |
生母(主な説) |
片倉家への経緯・関わり |
その後の消息(主な説) |
備考 |
阿菊(すへ) |
長女 |
堀田興重の娘または妹 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。 |
石合重定/道定室 2 |
|
於市 |
次女 |
高梨内記の娘 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。 |
九度山で若死 2 |
|
阿梅(おうめ) |
三女 |
高梨内記の娘 または 竹林院 1 |
大坂の陣後、片倉重長に保護され、後に継室となる。 |
片倉重長継室。白石にて没。当信寺に墓所 1 。 |
本報告書の中心人物。 |
あくり(あぐり) |
四女 |
竹林院 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。滝川一積養女説あり。 |
蒲生郷喜室 2 |
|
真田幸昌(大助) |
長男 |
竹林院 2 |
片倉家との直接的な関わりなし。 |
大坂夏の陣で父と共に討死 2 。 |
真田家嫡流。 |
顕性院(なほ/御田姫) |
五女 |
隆清院(豊臣秀次の娘) 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。 |
岩城宣隆継室 2 。 |
|
阿菖蒲(おしょうぶ) |
六女 |
竹林院 2 |
阿梅の縁で片倉家に身を寄せ、重長夫妻の養女となる。 |
片倉定広室 1 。 |
仙台真田氏の血脈と伊達家縁戚を繋ぐ。 |
おかね |
七女 |
竹林院 2 |
阿梅の縁で片倉家に保護された後、白石を離れる。 |
石川重正室または石川宗雲室 2 。早世説あり 9 。 |
消息に諸説あり。 |
大八(片倉守信/真田守信) |
次男 |
竹林院 2 |
阿梅の縁で片倉家に保護され、密かに養育。後に片倉姓を名乗り仙台藩士。 |
仙台真田家初代当主。子の代に真田姓に復す 2 。当信寺に墓所 10 。 |
仙台真田氏の祖。 |
三好幸信(左次郎) |
三男 |
隆清院(豊臣秀次の娘) 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。姉・顕性院に引き取られ岩城家で養育。 |
出羽亀田藩士 2 。 |
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八女 |
八女 |
不詳(農家の娘説あり) 2 |
京都で片倉重長のもとに送られたとされるが 12 。 |
夭折、名前不詳 12 。 |
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九女 |
九女 |
不詳(農家の娘説あり) 2 |
片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。 |
早世 2 。 |
阿菖蒲を九女とする説もある 12 。この表では 2 の続柄順を優先。 |
この表は、真田幸村の子女たちの多様な運命を一覧で示すことにより、阿梅の方の物語をより広い文脈の中に位置づけることを意図している。特に、片倉家が関わった子女とそうでない子女の運命を比較することで、片倉家の役割の重要性がより明確になる。
白石の地で生きた阿梅の方は、父・真田幸村とその一族の菩提を弔うことに心を尽くした。その信仰心は、月心院の建立や当信寺との深い関わりに表れている。
阿梅の方は、亡き父・真田幸村の菩提を弔うため、白石城下の森合(現在の白石市郊外)に月心院という寺院を建立した 1。建立年については、慶安元年(1648年)、阿梅の方45歳の時とする説が有力である 1。慶安九年(1648年)とする史料もあるが 7、阿梅の方の生年から計算すると慶安元年が妥当と考えられる。
『刈田郡誌』には、月心院は片倉重長の後室である阿梅の方が建立した寺で、「真田幸村の位牌を置き、亡父の菩提を弔いしなり、幸村法号・月心院単翁宗伝大居士」と記されている 9。寺名は幸村のこの法号に由来するとされる 28。
月心院の建立は、阿梅の方個人の信仰心の発露であると同時に、夫である片倉重長を含む片倉家による真田家への敬意と配慮の表れでもあった。敵将の娘が、その父の菩提寺を夫の領内に建立できたという事実は、阿梅の方が片倉家内で一定の地位と発言力を有していたことを示唆する。また、幸村に「月心院」という法号を与え、それを寺名としたことは、片倉家が幸村を正式に弔う対象として認めたことを意味するものであり、重要な点である。
しかし、この月心院は明治維新後、戊辰戦争で伊達家が降伏し、片倉家臣の多くが北海道開拓移住に従ったことなどから、明治初期に廃寺となった 9。
阿梅の方の信仰生活において、もう一つ重要な寺院が白石市の功徳山当信寺(浄土宗)である。阿梅の方自身の墓所はこの当信寺にあり 1、墓標は如意輪観音像であると伝えられている 1。彼女の法名は「泰陽院殿松源寿清大姉」であり 1、当信寺の山号「泰陽院」はこの法名に由来するとされる 7。
阿梅の方は当信寺において、父・信繁と、母とされる竹林院の供養も行っていた 1。月心院を建立した翌年の慶安二年(1649年)、母・大谷氏(竹林院か)が京都の竜安寺に葬られたことを知り、両親の位牌を当信寺に安置したという記録がある 7。この「母大谷氏」という記述は、竹林院(大谷吉継の娘)が阿梅の方の母であるという説を強く裏付けるように見えるが、これが実母を指すのか、あるいは父の正室としての「母」を指すのかは慎重な検討が必要である。竜安寺に葬られたという情報と、竹林院の墓所とされる場所(京都の妙心寺塔頭養徳院など 2)との関連も調査すべき点である。この位牌は安永三年(1774年)の白石大火で焼失したが、平成二十五年(2013年)に再現されている 7。
阿梅の方が当信寺に埋葬された理由としては、彼女が西国生まれであり、西国人が通る街道近くに埋葬されたいという遺言があったこと、また当信寺の本尊が大阪天王寺から運ばれたものであることなどが伝えられている 7。当信寺は片倉氏二代の菩提寺でもあった 1。
阿梅の方は、延宝九年(1681年)に没したとされている 1 。その際の享年は78歳と伝えられている 1 。
阿梅の方の生涯は、白石の地に多くの伝承と史跡を残している。
これらの史跡群は、阿梅の方個人のみならず、真田幸村とその一族、家臣たちが、敵方であった伊達領白石の地でどのように受け入れられ、記憶されてきたかを物語っている。特に、幸村自身の供養墓や遺臣ゆかりの寺が存在することは、片倉家による真田家への敬意が篤かったことを示唆している。これらの史跡は、白石市の歴史的アイデンティティ形成にも寄与していると考えられる。
阿梅の方の生涯は、戦国末期の動乱から江戸初期の安定期へと移行する時代の中で、父・真田幸村の劇的な死、敵将・片倉重長への保護と結婚、そして異郷の地・白石での生活と、まさに数奇な運命を辿ったものであった。彼女の生涯は、個人の意思だけでは左右できない時代の大きな流れの中で、いかに強く生き抜いたかを示す貴重な事例である。
歴史的意義として、以下の点が挙げられる。
第一に、敗者の血脈の継承である。阿梅の方の存在は、弟・大八(守信)を通じた仙台真田家の成立に繋がり、真田幸村の血脈を仙台の地に残す上で決定的な役割を果たした。
第二に、武家の女性の生き方を示す点である。政略的な側面と人間的な側面が交錯する武家の婚姻の中で、阿梅の方がどのように自己の立場を確立し、家族や父祖への想いを貫いたかは、当時の女性の生き様を考察する上で示唆に富む。
第三に、信仰と慰霊のあり方である。月心院の建立や当信寺での供養は、戦乱で亡くなった人々への慰霊という、当時の武家社会における重要な精神文化を反映している。
第四に、地域史への貢献である。阿梅の方と真田一族にまつわる史跡や伝承は、宮城県白石市の歴史と文化を豊かにしており、現代においても地域の人々に語り継がれている。
今後の課題としては、未解明な点、特に生母や生年の確定、姉妹であるおかねの消息などについては、さらなる史料の発見と研究が待たれる。阿梅の方に関する研究が進むことは、戦国末期から江戸初期にかけての女性史、武家社会史、そして地域史の理解を深める上で、大いに貢献するものと期待される。