最終更新日 2025-05-27

真田阿梅

真田阿梅

阿梅の方の生涯と真田氏の血脈 ―仙台藩片倉家との関わりを中心に―

1. はじめに

本報告書は、真田信繁(以下、一般に知られる幸村の名も適宜用いる)の娘であり、仙台藩伊達家の重臣であった片倉小十郎重長の継室となった阿梅(おうめ)の方の生涯と、関連する史実および伝承を、現存する資料に基づいて多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。

阿梅の方は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという激動の時代を生きた女性である。父・真田幸村の死後、敵方であった片倉家に嫁ぐという数奇な運命を辿った。彼女の生涯は、個人の物語であると同時に、敗れた側の血脈が如何にして後世に繋がれていったか、また、武家の女性が置かれた状況や信仰のあり方を示す事例として、歴史的に重要な意味を持つと考えられる。本報告書では、阿梅の方の出自、大坂の陣における保護の経緯、片倉重長との結婚、白石での生活、そして彼女の信仰や晩年、さらには兄弟姉妹や仙台真田氏との関わりについて、詳細な検討を行う。

2. 阿梅の出自と生い立ち

阿梅の方の出自、特に生母と生年に関しては諸説が存在し、確定には至っていない。これらの説を比較検討することで、彼女の初期の人生における背景を探る。

2.1. 生母に関する諸説と検討

阿梅の方の生母については、主に二つの説が伝えられている。

  • 高梨内記の娘説:
    複数の史料において、阿梅の方の母は真田家の重臣・高梨内記の娘であるとされている 1。高梨内記は、真田昌幸・信繁父子が九度山へ配流された際にも同行し、大坂の陣では信繁に従って討死したとされる人物である 3。『真武内伝』などには、高梨内記の娘が采女殿(阿梅の方の姉妹、あるいは阿梅の方自身を指す可能性も考察される)の母であると記されており、阿梅の方の母である可能性を示唆する記述も見られる 3。この説に従うならば、阿梅の方は側室の子ということになる。
  • 竹林院(大谷吉継の娘)説:
    一方で、真田信繁の正室である竹林院を阿梅の方の母とする説も有力である 1。竹林院は豊臣家臣であった大谷吉継の娘である 5。阿梅の方が後年、父・信繁と共に竹林院の供養を行っているという事実は 1、この説を補強する間接的な根拠としてしばしば挙げられる。
  • 比較検討と考察:
    阿梅の方が父・信繁と竹林院の供養を行っていたという事実は、竹林院が実母であることの有力な状況証拠と見なされがちである。しかし、当時の家制度において、実母でなくとも父の正室(嫡母)の供養を行うことは自然なことであり、この事実のみをもって竹林院を実母と断定することは慎重を期すべきである。むしろ、阿梅の方が片倉家という父の敵方の重臣の妻となった後も、父とその正室の菩提を弔い続けたという事実は、彼女の出自がどちらであったにせよ、その孝心と真田家への強い想いを示すものと解釈できる。
    各説の根拠となる史料の成立年代や性格(一次史料か二次史料か、系図か編纂物かなど)を比較検討し、より信頼性の高い情報を特定していく必要がある。例えば、ある資料では阿梅の方の母を高梨内記の娘としつつ(竹林院ともされると併記)、竹林院の子としては阿梅の方を挙げていないが 2、別の資料では竹林院の子として阿梅の方を含む可能性を示唆しているように 6、情報源によっても記述に揺れが見られるのが現状である。

表1: 阿梅の生母に関する諸説比較

主な史料・根拠

史料の性格

考察(支持する点・疑問点)

高梨内記の娘説

『左衛門佐君伝記稿』 1 , Wikipedia 2 , 『真武内伝』 3 など

編纂物、系図、伝記

複数の史料で言及。高梨内記は信繁の側近。側室の子という位置づけになる。

竹林院説

Wikipedia 1 , 阿梅による竹林院供養の事実 1 など

編纂物、状況証拠(供養)

正室の子となる。阿梅が竹林院の供養を行っている点が注目されるが、嫡母供養の可能性も否定できない。当信寺の記録にある「母大谷氏」 7 との関連も指摘される。

この表は、阿梅の方の出自に関する最も基本的な情報である生母について、錯綜する説を整理し、各説の根拠と検討点を明確にすることを意図している。

2.2. 生年に関する諸説と検討

阿梅の方の生年についても、複数の説が存在する。

  • 慶長九年(1604年)生まれ説:
    通説として、延宝九年(1681年)に78歳で没したという記録からの逆算により、慶長九年(1604年)生まれとされることが多い 1。この場合、大坂の陣(慶長二十年/1615年)の際には10歳または11歳であったことになる 10。しかし、この説では、父・信繁の九度山配流時代(慶長五年/1600年~慶長十九年/1614年)の生まれとなり、『左衛門佐君伝記稿』に記された「信濃で生まれる」との記述とは時期的に一致しないという矛盾が生じる 1。
  • 慶長四年(1599年)生まれ説(またはそれに近い年代):
    大坂の陣の際に「阿梅は当時12歳」であったとする記述も存在する 11。ここから逆算すると、慶長四年(1599年)または慶長三年(1598年)頃の生まれとなり、この場合は信濃で生まれた可能性も出てくる。
  • 比較検討と考察:
    生年に関する諸説の矛盾は、阿梅の方の幼少期に関する記録が乏しいこと、あるいは後世の編纂物における情報の混濁を示唆している。享年からの逆算は直接的な算出方法ではあるが、その享年自体の正確性も検証の対象となる。一方、大坂の陣での年齢に関する記述は具体的ではあるものの、これも記憶や伝聞に基づく可能性があり、数年の誤差を含むことも考慮しなければならない。「信濃生まれ」か「九度山生まれ」かという点は、父・信繁の動向と照らし合わせることで、生年の絞り込みに繋がる重要な手がかりとなる。信繁が信濃にいた時期と九度山にいた時期を特定し、各生年説との整合性を確認する必要があるが、複数の情報源が完全に一致しないため、現時点での断定は難しい。各説の根拠と矛盾点を併記し、総合的に判断することが求められる。

2.3. 幼少期の状況

『左衛門佐君伝記稿』によれば、阿梅の方は信濃で生まれたとされる 1 。これが事実であれば、彼女の生年は父・信繁が関ヶ原の合戦(慶長五年/1600年)後に高野山、次いで九度山へ配流される以前、すなわち慶長五年以前の可能性が高まる。信繁の配流は慶長五年からであり、阿梅の方が信濃生まれであれば、配流前に誕生していたことになる。しかし、前述の通り生年には諸説あり、幼少期の具体的な状況については不明な点が多い。

3. 大坂の陣と片倉家による保護

阿梅の方の人生における最大の転機は、大坂の陣と、それに続く片倉家による保護であった。この経緯についても、複数の説が伝えられている。

3.1. 大坂の陣における阿梅の状況

通説によれば、阿梅の方は父・真田幸村に従って大坂城に入城していたとされる 11 。慶長二十年(1615年)五月七日、大坂夏の陣において真田幸村は徳川家康本陣への突撃も空しく討死を遂げる。その前夜にあたる五月六日の夜、幸村は娘の阿梅の方を、敵方である伊達政宗の重臣、片倉小十郎重長(当時は重綱)のもとにひそかに送り届けたとされる説がある 12

3.2. 片倉重長による保護の経緯に関する諸説

阿梅の方が片倉重長に保護された経緯については、大きく分けて「幸村による託付説」と「乱取り説」が存在する。

  • 幸村による託付説:
    真田幸村が、道明寺の戦いなどで目覚ましい活躍を見せた片倉重長の武勇や人柄を高く評価し、自らの死を覚悟して娘の将来を託したとする説である 9。『老翁聞書』には、大坂落城の際、重長の陣に「容顔美麗な女性が届けられ」、当時の人々は「幸村があらかじめ予想し、娘を重綱の陣の前に出させたのだろう」と噂したと記されている 13。また、阿梅の方に付き従っていた侍女が「幸村公は我が子を託するに足る方は重長公ただ一人であると判断いたしました」と述べたと伝えられる史料もある 11。この説は、敵味方を超えた武士の情けや信頼関係を想起させる美談として語られることが多い。
  • 乱取り(乱妨取り)説:
    一方で、片倉家の正史とされる『片倉代々記』や、真田家臣白川氏の覚書である『白川家留書』などによると、阿梅の方は大坂城落城の際に片倉重長が戦場で得た、すなわち「乱取り」によって捕らえられたと記されている 1。当初は出自が分からず、侍女として召し使われていたが、後に真田信繁の娘と判明したという 1。戦国時代の戦場における「乱取り」は、人身売買や隷属化に繋がる過酷な現実であり 17、この説が事実であれば、阿梅の方は極めて厳しい状況から救われたことになる。
  • 比較検討と考察:
    「託付説」と「乱取り説」は一見すると対立する内容であるが、両説の記述を詳細に検討すると、単純な二者択一では捉えきれない複雑な背景が浮かび上がってくる。例えば、幸村が何らかの形で重長に阿梅の方の保護を依頼、あるいは示唆したものの、戦場の混乱の中で正式な引き渡しとはならず、結果的に「乱取り」に近い形で保護され、当初は出自が不明であったという流れも想定しうる。
    また、片倉家側の公式記録である『片倉代々記』が「乱取り」と記している点については、敵将の娘を積極的に匿ったという事実が露見した場合の、徳川幕府からの嫌疑を避けるための韜晦であった可能性も考慮に入れる必要がある。戦利品として「得た」という形であれば、幕府に対しても説明がつきやすい。
    阿梅の方の出自が判明するきっかけとなったのは、真田家の旧臣・三井豊前(あるいは三井景国)が片倉家を訪れたことによるとする記述は多くの史料に見られる 16。三井氏の来訪がなければ、阿梅の方は侍女のまま生涯を終えた可能性も否定できない。この出来事が、阿梅の方の運命、さらには他の幸村の子女たちの運命にも大きな影響を与えたと考えられる点は重要である。三井氏の行動は、真田の血脈が片倉家を通じて仙台の地で存続する上で、極めて重要な役割を果たしたと言えよう。

表2: 大坂の陣における阿梅保護の経緯に関する諸説比較

主な史料・根拠

記述内容の要点

考察(信憑性、背景)

幸村による託付説

『老翁聞書』 13 , 白石市伝承 9 , 侍女の証言伝承 11

幸村が重長の武勇を見込み、娘を託した。重長の陣に送り届けられた。

美談として語られやすい。敗軍の将が敵将に託す背景には、よほどの信頼か絶望的状況があった可能性。ただし、直接的な一次史料による裏付けは限定的。

乱取り説

『片倉代々記』 1 , 『白川家留書』 1

大坂落城時に戦場で捕らえられた(乱取り)。当初出自不明で侍女として使役。

片倉家の正史や真田家臣の記録に見られる。戦国期の戦場の現実を反映。幕府への配慮から「乱取り」と記録した可能性も。

折衷/複合説

上記諸説の総合的解釈

幸村の意図はあったが正式な引き渡しはならず、結果的に乱取りに近い形で保護。当初出自不明。

対立する説の要素を組み合わせた解釈。戦場の混乱や、後の政治的配慮などが複雑に絡み合った可能性を示唆。三井豊前による出自判明が重要な転換点。

この表は、阿梅の方の人生における最大の転機である保護の経緯について、多様な史料と解釈を比較検討することで、歴史の多面性を浮き彫りにすることを目的としている。

3.3. 関連史料の記述内容と解釈

  • 『片倉代々記』 : 片倉家の正史とされ 20 、「乱取り」説を採り、阿梅の方が当初出自不明の侍女であったが、後に真田信繁の娘と判明し、重長の継室となった経緯を記している 1 。武藤弘毅による写本が現存し、「白石市史」の底本とされた 20 。正史が「乱取り」と記すことの重みは無視できない。幕府への配慮があったのか、あるいはそれが実態に近かったのか、慎重な解釈が求められる。三井豊前の来訪と出自判明の記述は、阿梅の方の身分変化の正当性を強調する意図も読み取れる。
  • 『白川家留書』 : 『片倉代々記』と同様に「乱取り」されたと記している 1 。真田家臣白川氏の覚書にも同様の記述がある 17 。複数の史料が「乱取り」という点で一致していることは注目に値するが、これらの史料が同じ情報源に基づいている可能性も考慮する必要がある。
  • 『老翁聞書』 : 仙台叢書に所収されている 14 。大坂落城の際、重長(重綱)の陣に「容顔美麗な女性が届けられ」、後に後室となったと記す 13 。当時の人々は、幸村が重長の武名を知り娘を託したのだろうと噂したと伝える 13 。一方で、この史料の解釈として、阿梅の方のみが乱取りされ、他の姉妹の保護は阿梅の方の願いによる後日のことであり、幸村からの直接の依頼を否定する見解も存在する 14 。「届けられ」という表現の曖昧さが解釈の幅を生んでいると言える。「老翁」とされる人物が片倉家の家士であったならば 14 、その証言は一定の信憑性を持つが、あくまで伝聞や噂話の集積である可能性も考慮すべきである。幸村の矢文や手紙による保護依頼を否定する 14 の解釈は、美談を排した厳しい見方と言える。
  • その他の子女の保護 : 阿梅の方の保護の後、真田家の遺臣三井景国の家臣である我妻佐渡・西村孫之進らに護られ、幸村の四女お弁、七女おかね、八女(名前不明)、そして次男大八が京都で片倉重長のもとに送り届けられたとされる 12 。これらの子女は伊達政宗の軍勢に匿われる形で江戸を経て仙台へ到着したという 12 。阿梅の方一人の保護に留まらず、他の子女、特に男子である大八まで保護したことは、片倉重長(および主君伊達政宗)の並々ならぬ覚悟を示すものである。三井景国ら旧臣のネットワークと忠誠心が、これらの子女の保護に不可欠であったことは想像に難くない。

4. 片倉重長との結婚と白石での生活

保護された阿梅の方は、後に片倉重長の継室となり、白石の地で生涯を送ることになる。

4.1. 結婚に至る経緯

大坂の陣の後、侍女として片倉家にあった阿梅の方は、真田信繁の娘であることが判明した後、片倉重長の継室として迎えられた 1 。重長ははじめ重綱と名乗っていたが、後に江戸幕府三代将軍徳川家光の嗣子・家綱の諱字を避けて重長と改名している 16 。重長には正室として針生盛直の娘・綾がいたが、阿梅の方はその後妻(継室)となった 16

4.2. 子女と養子

片倉重長と阿梅の方の間には実子は生まれなかったとされている 1 。そのため、重長は正室・綾との間に生まれた娘・喜佐(松前安広室)の子、すなわち自身の外孫にあたる片倉景長を養子として迎え、家督を継がせた 1 。また、茂庭良元の三男・延元も一時養子としたが、後に茂庭本家を継ぐことになったため養子縁組は解消されている 16

4.3. 白石における阿梅の生活

阿梅の方や妹の阿菖蒲は白石城の二の丸で、弟の大八は城下の領内で密かに養育されたと伝えられている 10。一部の史料では、阿梅の方を含む4人の姫は白石城内で堂々と育てられたともされる 22。

白石市の伝承として「阿梅姫は後に片倉小十郎重長公の後室となり、生涯重長公と仲むつまじく暮らしました」との記述が見られる 21。具体的な生活記録は乏しいものの、阿梅の方が父・真田幸村の菩提を弔うために月心院を建立し(後述)、片倉家もそれを支援している点などから、夫婦関係や片倉家での立場が比較的良好であったことが推察される。敵将の娘という難しい立場でありながら継室となり、さらに弟妹の庇護にも繋がった背景には、阿梅の方自身の人間性や才覚、そして夫・重長の深い理解があったと考えられる。小説『幸村のむすめ』(伊藤清美著)では、12歳の阿梅の方が異郷の地で周囲の信頼を勝ち取り、確固たる地歩を固めていく姿が描かれているが 23、これは創作ではあるものの、阿梅の方が置かれたであろう状況の一端を示唆しているかもしれない。

5. 阿梅の兄弟姉妹と仙台真田氏

阿梅の方の存在は、彼女自身の運命だけでなく、他の真田幸村の子女、特に弟の大八(真田守信)や妹の阿菖蒲の運命にも大きな影響を与え、仙台真田氏の成立へと繋がっていく。

5.1. 弟・大八(真田守信、片倉守信)

真田幸村の次男である大八は、姉・阿梅の方の縁により片倉家に身を寄せた 1。当初は片倉久米介と名乗り、後に片倉四郎兵衛守信と改め、仙台藩士となった 10。

大八の養育は、白石城外で客分として行われ、その事実は「真田幸村の男子」であったが故に、徳川方からの追及を恐れて厳重に秘匿された 12。後に仙台城下の五橋通に屋敷を構え、刈田郡矢附村などに三百石の領地を与えられている 10。

守信の子の代(二代辰信)になって真田姓に復し、これが仙台真田家として現在まで続いている 16。大八(守信)の墓は、白石市の当信寺に姉・阿梅の方の墓と並んで建てられている 9。

大八の保護と仙台藩士としての取り立て、そして後の真田姓への復姓は、片倉家(ひいては伊達家)の戦略的な判断と、真田の武名への敬意が背景にあると考えられる。徳川の治世が安定するまでは片倉姓を名乗らせて庇護し、時期を見て真田姓を再興させるという周到な配慮が見て取れる。これは、単なる温情に留まらない、家の存続や武名の継承を重んじる戦国的な価値観の表れとも言えるだろう。

5.2. 妹・阿菖蒲(おしょうぶ)

真田幸村の六女・阿菖蒲も、姉・阿梅の方の縁により片倉家に身を寄せ 1、白石城の二の丸で養育された 10。後に片倉重長・阿梅の方夫妻の養女となり、片倉定広(田村定広とも称す)に嫁いだ 1。

夫の定広は、三春城主・田村清顕の孫養子であり、伊達政宗の正室・愛姫の甥にあたる人物である 2。この縁組により、真田家の血は伊達家の縁戚とも繋がることになり、その血脈の複雑な広がりを示している。

5.3. その他の姉妹(お弁、おかね等)

真田幸村には阿梅、大八、阿菖蒲以外にも多くの子女がいた。そのうち、片倉家と関わりを持ったとされる姉妹もいる。

  • お弁(四女か) : 幸村の四女とされる。三井景国の家臣に護られ京都で重長に引き合わされた後 12 、白石で養育され 22 、彦根藩士・青木朝之に嫁いだとされる 12
  • おかね(七女か) : 幸村の七女とされる。同様に京都から白石へ移り 12 、京の茶人・石川宗雲(宗林)に嫁いだ 12 、あるいは石川重正室となった 2 とされる。白石を離れ幸せに暮らしたという記録 22 と、早世したという説 9 があり、情報が錯綜している。白石には早世説は伝わっていないともいう 29 。おかねの消息に関する情報の不確かさは、当時の記録の散逸や、特に女性に関する記録が男性に比べて軽視されがちであったことを反映している可能性がある。
  • 八女 : 夭折し、名前は伝わっていないとされる 12

その他、信繁の子女としては、長女・阿菊(すへ、石合氏室)、次女・於市(九度山で早世)、四女・あくり(蒲生氏室)、五女・顕性院(なほ/御田姫、岩城氏継室)などが記録されている 2

表3: 真田信繁の子女一覧(阿梅の兄弟姉妹)と片倉家との関わり

氏名

続柄(信繁の子として)

生母(主な説)

片倉家への経緯・関わり

その後の消息(主な説)

備考

阿菊(すへ)

長女

堀田興重の娘または妹 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。

石合重定/道定室 2

於市

次女

高梨内記の娘 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。

九度山で若死 2

阿梅(おうめ)

三女

高梨内記の娘 または 竹林院 1

大坂の陣後、片倉重長に保護され、後に継室となる。

片倉重長継室。白石にて没。当信寺に墓所 1

本報告書の中心人物。

あくり(あぐり)

四女

竹林院 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。滝川一積養女説あり。

蒲生郷喜室 2

真田幸昌(大助)

長男

竹林院 2

片倉家との直接的な関わりなし。

大坂夏の陣で父と共に討死 2

真田家嫡流。

顕性院(なほ/御田姫)

五女

隆清院(豊臣秀次の娘) 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。

岩城宣隆継室 2

阿菖蒲(おしょうぶ)

六女

竹林院 2

阿梅の縁で片倉家に身を寄せ、重長夫妻の養女となる。

片倉定広室 1

仙台真田氏の血脈と伊達家縁戚を繋ぐ。

おかね

七女

竹林院 2

阿梅の縁で片倉家に保護された後、白石を離れる。

石川重正室または石川宗雲室 2 。早世説あり 9

消息に諸説あり。

大八(片倉守信/真田守信)

次男

竹林院 2

阿梅の縁で片倉家に保護され、密かに養育。後に片倉姓を名乗り仙台藩士。

仙台真田家初代当主。子の代に真田姓に復す 2 。当信寺に墓所 10

仙台真田氏の祖。

三好幸信(左次郎)

三男

隆清院(豊臣秀次の娘) 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。姉・顕性院に引き取られ岩城家で養育。

出羽亀田藩士 2

八女

八女

不詳(農家の娘説あり) 2

京都で片倉重長のもとに送られたとされるが 12

夭折、名前不詳 12

九女

九女

不詳(農家の娘説あり) 2

片倉家との直接的な関わりの記録は少ない。

早世 2

阿菖蒲を九女とする説もある 12 。この表では 2 の続柄順を優先。

この表は、真田幸村の子女たちの多様な運命を一覧で示すことにより、阿梅の方の物語をより広い文脈の中に位置づけることを意図している。特に、片倉家が関わった子女とそうでない子女の運命を比較することで、片倉家の役割の重要性がより明確になる。

6. 信仰と晩年

白石の地で生きた阿梅の方は、父・真田幸村とその一族の菩提を弔うことに心を尽くした。その信仰心は、月心院の建立や当信寺との深い関わりに表れている。

6.1. 月心院の建立と父・真田幸村の菩提供養

阿梅の方は、亡き父・真田幸村の菩提を弔うため、白石城下の森合(現在の白石市郊外)に月心院という寺院を建立した 1。建立年については、慶安元年(1648年)、阿梅の方45歳の時とする説が有力である 1。慶安九年(1648年)とする史料もあるが 7、阿梅の方の生年から計算すると慶安元年が妥当と考えられる。

『刈田郡誌』には、月心院は片倉重長の後室である阿梅の方が建立した寺で、「真田幸村の位牌を置き、亡父の菩提を弔いしなり、幸村法号・月心院単翁宗伝大居士」と記されている 9。寺名は幸村のこの法号に由来するとされる 28。

月心院の建立は、阿梅の方個人の信仰心の発露であると同時に、夫である片倉重長を含む片倉家による真田家への敬意と配慮の表れでもあった。敵将の娘が、その父の菩提寺を夫の領内に建立できたという事実は、阿梅の方が片倉家内で一定の地位と発言力を有していたことを示唆する。また、幸村に「月心院」という法号を与え、それを寺名としたことは、片倉家が幸村を正式に弔う対象として認めたことを意味するものであり、重要な点である。

しかし、この月心院は明治維新後、戊辰戦争で伊達家が降伏し、片倉家臣の多くが北海道開拓移住に従ったことなどから、明治初期に廃寺となった 9。

6.2. 当信寺との関わり

阿梅の方の信仰生活において、もう一つ重要な寺院が白石市の功徳山当信寺(浄土宗)である。阿梅の方自身の墓所はこの当信寺にあり 1、墓標は如意輪観音像であると伝えられている 1。彼女の法名は「泰陽院殿松源寿清大姉」であり 1、当信寺の山号「泰陽院」はこの法名に由来するとされる 7。

阿梅の方は当信寺において、父・信繁と、母とされる竹林院の供養も行っていた 1。月心院を建立した翌年の慶安二年(1649年)、母・大谷氏(竹林院か)が京都の竜安寺に葬られたことを知り、両親の位牌を当信寺に安置したという記録がある 7。この「母大谷氏」という記述は、竹林院(大谷吉継の娘)が阿梅の方の母であるという説を強く裏付けるように見えるが、これが実母を指すのか、あるいは父の正室としての「母」を指すのかは慎重な検討が必要である。竜安寺に葬られたという情報と、竹林院の墓所とされる場所(京都の妙心寺塔頭養徳院など 2)との関連も調査すべき点である。この位牌は安永三年(1774年)の白石大火で焼失したが、平成二十五年(2013年)に再現されている 7。

阿梅の方が当信寺に埋葬された理由としては、彼女が西国生まれであり、西国人が通る街道近くに埋葬されたいという遺言があったこと、また当信寺の本尊が大阪天王寺から運ばれたものであることなどが伝えられている 7。当信寺は片倉氏二代の菩提寺でもあった 1。

6.3. 享年と最期

阿梅の方は、延宝九年(1681年)に没したとされている 1 。その際の享年は78歳と伝えられている 1

7. 阿梅に関する伝承と史跡

阿梅の方の生涯は、白石の地に多くの伝承と史跡を残している。

7.1. 白石市に残る阿梅ゆかりの伝承

  • 墓石の迷信 : 当信寺にある阿梅の方の墓石(如意輪観音像)は、その形が歯痛で頬を押さえているように見えることから、この墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まった。その結果、墓石は原型を留めないほどに削られてしまったと伝えられている 1 。このような伝承は、阿梅の方が経験したであろう苦難の生涯(父との死別、敵方への嫁入りなど)に対する民衆の同情や、彼女を特別な力を持つ存在として神聖視する意識から生まれた可能性がある。また、如意輪観音像という具体的な墓標の形状が、特定の俗信と結びつきやすかったとも考えられる。これは、歴史上の人物が地域社会の中でどのように記憶され、伝説化していくかの一つのパターンを示す事例と言えよう。

7.2. 関連する史跡の現状

  • 当信寺(白石市) : 阿梅の方及び弟・大八(守信)の墓が現存する 7 。山門は白石城の二の丸大手二ノ門を移築したもので、旧白石城の遺構を伝える貴重な建造物である 8
  • 月心院跡(白石市森合) : 現在は廃寺となっている 9 。『刈田郡誌』に詳細な記述が残る。真田幸村の墓があった可能性も指摘されている 28
  • 清林寺(白石市) : 真田家遺臣が開基した寺として知られ、真田家の家紋「六文銭」を寺紋としている 10
  • 田村家墓地(白石市福岡蔵本字愛宕山) : 阿菖蒲の夫・田村定広が建立したとされる真田幸村の供養墓(自然石の墓)がある 10

これらの史跡群は、阿梅の方個人のみならず、真田幸村とその一族、家臣たちが、敵方であった伊達領白石の地でどのように受け入れられ、記憶されてきたかを物語っている。特に、幸村自身の供養墓や遺臣ゆかりの寺が存在することは、片倉家による真田家への敬意が篤かったことを示唆している。これらの史跡は、白石市の歴史的アイデンティティ形成にも寄与していると考えられる。

8. おわりに

阿梅の方の生涯は、戦国末期の動乱から江戸初期の安定期へと移行する時代の中で、父・真田幸村の劇的な死、敵将・片倉重長への保護と結婚、そして異郷の地・白石での生活と、まさに数奇な運命を辿ったものであった。彼女の生涯は、個人の意思だけでは左右できない時代の大きな流れの中で、いかに強く生き抜いたかを示す貴重な事例である。

歴史的意義として、以下の点が挙げられる。

第一に、敗者の血脈の継承である。阿梅の方の存在は、弟・大八(守信)を通じた仙台真田家の成立に繋がり、真田幸村の血脈を仙台の地に残す上で決定的な役割を果たした。

第二に、武家の女性の生き方を示す点である。政略的な側面と人間的な側面が交錯する武家の婚姻の中で、阿梅の方がどのように自己の立場を確立し、家族や父祖への想いを貫いたかは、当時の女性の生き様を考察する上で示唆に富む。

第三に、信仰と慰霊のあり方である。月心院の建立や当信寺での供養は、戦乱で亡くなった人々への慰霊という、当時の武家社会における重要な精神文化を反映している。

第四に、地域史への貢献である。阿梅の方と真田一族にまつわる史跡や伝承は、宮城県白石市の歴史と文化を豊かにしており、現代においても地域の人々に語り継がれている。

今後の課題としては、未解明な点、特に生母や生年の確定、姉妹であるおかねの消息などについては、さらなる史料の発見と研究が待たれる。阿梅の方に関する研究が進むことは、戦国末期から江戸初期にかけての女性史、武家社会史、そして地域史の理解を深める上で、大いに貢献するものと期待される。

引用文献

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