最終更新日 2025-05-26

織田徳

織田徳

徳姫 ―戦国の世に咲いた数奇なる花―

序章:徳姫とは

徳姫(とくひめ)は、永禄2年(1559年)から寛永13年(1636年)にかけて生きた、戦国時代から江戸時代初期の女性である 1 。彼女は、天下統一を目指した織田信長の長女として生まれ、後に徳川家康の嫡男である松平信康の正室となった。その生涯は、織田家と徳川家という、戦国時代を代表する二大勢力の狭間で大きく揺れ動いた。特に、夫である信康とその母である築山殿が非業の死を遂げた「信康事件」において、その発端となる告発状を送ったとされる点で、歴史に深く名を刻んでいる 2

徳姫の人生は、政略結婚、嫁姑の確執、そして夫と姑の悲劇的な死という、戦国時代の女性が直面し得た過酷な運命を色濃く反映していると言えるだろう 2 。彼女の行動やその背景を詳細に検討することは、当時の武家の女性の立場や、大名家間の複雑な関係性を理解する上で不可欠である。

本報告書では、現存する史料や近年の研究成果に基づき、徳姫の出自、松平信康との結婚生活、信康事件における役割と事件の真相、その後の波乱に満ちた生涯、そして後世における歴史的評価について、多角的に詳述することを目的とする。彼女の生涯を丹念に追うことで、戦国という時代が個人に与えた影響の深さと、その中で生き抜いた一人の女性の実像に迫りたい。

第一章:出自と幼少期

生誕と家族構成

徳姫は、永禄2年(1559年)10月12日、尾張国の戦国大名・織田信長の長女として誕生した 1 。これは『源流綜貫』に記されている。父は、天下布武を掲げ、日本の歴史に大きな変革をもたらした織田信長である 1

母に関する諸説と歴史的考察

徳姫の生母については、いくつかの説が存在し、歴史学的な考察の対象となっている。

有力な説の一つは、母を生駒吉乃(いこまきつの、法名:久菴桂昌)とするものである 1 。生駒吉乃は信長が最も寵愛した側室の一人とされ、徳姫は織田信忠(信長の嫡男)、織田信雄(信長の次男)の妹にあたるとされる 2 。『前野家文書』(一般には『武功夜話』として知られる)には、母の名を吉乃(または吉野)と記しているが、これは実名ではなく通称であった可能性があり、また『武功夜話』自体の史料的価値については議論がある点に留意が必要である 4 。この説によれば、吉乃は徳姫を出産した後、産後の肥立ちが悪く、徳姫がわずか8歳の永禄9年(1566年)に若くして亡くなったとされている 2

一方で、この生駒吉乃説には矛盾を指摘する史料も存在する。『織田家雑録』という史料には、徳姫が織田信忠の姉であると記されているのである 1 。もし、通説通り織田信忠の生母が生駒吉乃であるならば、徳姫が信忠の姉であるという記述は、徳姫の生母が生駒吉乃であることと矛盾する。この点は、徳姫の出自を考える上で重要な論点となる。

徳姫の生母が誰であるかという問題は、単に系図上の事柄に留まらない。例えば、『織田家雑録』の記述が正しく、徳姫が信忠の姉であった場合、織田家における彼女の序列や立場は、信忠の妹である場合とは異なっていた可能性がある。信忠が織田家の後継者として重視されていたことを考えると、その姉という立場は非常に高く、父・信長が彼女の言葉や訴えをより重く受け止めた可能性も否定できない。逆に、生駒吉乃が母であれば、信長に深く愛された側室の子という立場であり、これもまた信長の情愛に訴えかける要因となり得たであろう。この生母の問題は、後に詳述する信康事件における信長の判断や行動を理解する上で、間接的ながらも影響を与えた可能性を考慮する必要がある。そのため、『織田家雑録』の史料としての信頼性や成立背景 1 、他の一次史料との比較検討が、徳姫の人物像をより深く理解するためには不可欠となる。

表1:徳姫の母に関する諸説

内容

主要史料

備考

生駒吉乃説

織田信長の側室・生駒吉乃が母。信忠・信雄の妹。

『源流綜貫』 1 、 『前野家文書』 4 、生駒家伝承 2

最も広く知られている説。吉乃は信長に寵愛されたとされる。

『織田家雑録』の記述

織田信忠の姉。

『織田家雑録』 1

生駒吉乃が信忠の母であるという通説と矛盾する可能性があり、徳姫の生母が別人物である可能性、あるいは出生順序に関する異説を示唆する。

幼名「おごとく」と呼称

徳姫の幼名は「おごとく」と伝えられている 1 。この「おごとく」という名は、『織田家雑録』によれば、火鉢や炉の上に鍋や釜などを置くための金属製の道具である「五徳(ごとく)」の足のようであることから、父・信長が名付けたとされている 7 。これが事実であれば、信長のユニークな命名センスの一端を窺い知ることができる。

徳川家に嫁いだ後は、居住した岡崎城にちなんで「岡崎殿」と敬称された 1 。また、漢字では「五徳」と表記されることも一般的である 1

第二章:松平信康との結婚

政略結婚の背景(清洲同盟)

徳姫の結婚は、戦国時代特有の政略結婚であった。永禄5年(1562年)、尾張の織田信長と三河の徳川家康(当時は松平元康)の間で「清洲同盟」と呼ばれる軍事同盟が成立した 12 。この同盟は、両者がそれぞれの敵対勢力(織田にとっては美濃の斎藤氏、徳川にとっては駿河の今川氏)に対抗し、勢力を拡大していく上で極めて重要な意味を持った。

この同盟関係をより強固なものとするため、永禄6年(1563年)3月、信長は家康に対し、自身の娘である徳姫を、家康の嫡男である松平信康に嫁がせることを約束した 1 。そして永禄10年(1567年)5月(徳姫が9歳の時ともされる)、徳姫は信康と結婚した。この時、夫となった信康も徳姫と同じく9歳であった 1 。幼い二人の結婚は、まさしく織田家と徳川家の同盟の絆を象徴するものであり、両家の将来を左右する重要な政略であったと言える 11

岡崎城での生活と「岡崎殿」

結婚後、徳姫は信康と共に徳川家の本拠地の一つである岡崎城で生活を始めた 12 。元亀元年(1570年)、信康が元服して正式に岡崎城主となると、徳姫も城主正室として「岡崎殿」と呼ばれるようになった 2

同じ年、舅である徳川家康は、遠江の浜松城に本拠を移した。しかし、姑である築山殿(瀬名)は、岡崎城から約1キロメートル離れた築山に居館を構えつつも、城主信康の生母として岡崎城に出入りし、影響力を保持していた 2 。この状況が、後に徳姫と築山殿の間に深刻な確執を生む一因となる。

信康との夫婦関係の変遷

徳姫と信康の夫婦仲については、史料によって記述が異なり、一概には言えない。結婚当初は幼かったこともあり、形式的な夫婦であったと考えられる。信康は武勇に優れ、将来を嘱望される武将であったと伝えられている 2

しかし、時が経つにつれて夫婦関係には亀裂が生じたとされる。『松平家忠日記』などの記録によれば、二人の仲は良好ではなかったことが示唆されている 12 。特に、徳姫が二人の娘をもうけたものの、徳川家の世継ぎとなる男子を産まなかったことが、信康の不満を招き、夫婦仲が冷え込む大きな原因となったと言われている 12 。戦国時代の武家社会において、嫡男の誕生は家の存続に関わる最重要事であり、正室が世継ぎを産めないことは、その立場を著しく不安定にする要因であった。この嫡男不在という問題は、単に夫婦間の問題に留まらず、徳川家の将来にも関わる政治的な意味合いを帯びていた。信康自身が跡継ぎとなる男子を得られないことに不満を抱いたとされ 12 、これが夫婦関係の悪化、さらには後の信康事件へと繋がる遠因の一つとなった可能性は否定できない。

姑・築山殿との確執

徳姫の岡崎城での生活において、最も深刻な問題となったのが、姑である築山殿との確執であった。築山殿、通称瀬名は、今川義元の姪(または養女)にあたる出自の高い女性であった 10 。今川家は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、急速に勢力を失墜した経緯があり、築山殿は信長に対して深い憎悪の念を抱いていたと言われている 2 。そのため、信長の娘である徳姫に対しても、その憎しみが向けられ、厳しい態度で接したとされる。これが、嫁姑問題の始まりであった 2

徳姫が世継ぎとなる男子を産まなかったことに対し、築山殿は公然と嫌味を言ったり、信康に他の女性を側室として迎えるよう勧めたと伝えられている 2 。実際に信康は、築山殿の勧めにより、武田氏の家臣であった浅原昌時の娘や日向時昌の娘などを側室として迎えたとされる 2 。これは、織田家と敵対関係にあった武田氏の縁者であったため、徳姫にとっては屈辱的なことであった。こうした経緯から、徳姫と築山殿の関係は修復不可能なほどに悪化し、同時に徳姫と信康の夫婦仲もますます冷え込んでいった。この状況を憂慮した家康が、岡崎城の様子を心配し、何度も浜松から岡崎へ足を運んだという記録も残されている 2

子女:登久姫と熊姫

このような困難な状況の中にあっても、徳姫は二人の娘をもうけている。

天正4年(1576年)、徳姫は長女・登久姫(とくひめ、幼名:福子)を出産した 1。登久姫は後に小笠原秀政の正室となる。

翌年の天正5年(1577年)には、次女・熊姫(くまひめ、幼名:国子)を出産した 1。熊姫は後に本多忠政の正室となる。

しかし、徳川家の跡継ぎとなる男子を産むことは叶わなかった 1 。このことが、築山殿からの風当たりを一層強くし、徳姫の立場を苦しいものにした最大の要因であったと言えるだろう。

第三章:信康事件

信康事件は、徳姫の生涯、そして徳川家と織田家の関係において、極めて重大な転換点となった悲劇である。

事件に至る経緯

前述の通り、徳姫は岡崎城において、姑・築山殿との深刻な確執、夫・信康との夫婦仲の冷却、そして徳川家の世継ぎとなる男子を産めないことへの焦りといった、多くの困難に直面していた 2 。これらの積もり積もった不満と苦悩は、ついに徳姫をある行動へと駆り立てる。それは、実父である織田信長に書状を送り、岡崎での窮状を訴え出るというものであった 2

「十二箇条の訴状」の内容と信憑性

徳姫が父・信長に送ったとされる書状は、その内容から「十二箇条の訴状」と呼ばれている 2 。この訴状に記されていたとされる主な内容は、以下の通りである。

  1. 姑である築山殿は悪逆非道な人物であり、事実を歪曲して徳姫と信康の仲を裂こうとしている 2
  2. 徳姫が女子しか産まないことを理由に、築山殿は信康に武田氏の家臣である日向大和守時昌の娘を側室として迎えさせた 2
  3. 築山殿は、唐人の医師とされる減敬(または西慶)と密通し、その医師を通じて武田勝頼と内通している 2 。具体的には、武田軍を岡崎に引き入れ、織田・徳川両家を滅ぼそうと画策している、といった内容が含まれていたとされる 10

この「十二箇条の訴状」の存在そのものや、記された内容の信憑性については、歴史学者の間でも長年にわたり議論が続けられている。江戸時代に成立した『三河物語』などの軍記物では、この訴状が信康事件の直接的な引き金となったと描かれている 20 。しかし、近年の研究では、この訴状の内容が後世の加筆や創作である可能性、あるいは事件の責任を信長に転嫁するために徳川家側が強調した記述であるとの指摘もなされている 7 。特に、築山殿が武田氏と内通していたという具体的な証拠は、現在に至るまで確認されていない 2

「十二箇条の訴状」が実際にどのような内容で、どの程度の信憑性を持っていたかについては断定できないものの、この訴状が信康事件の「きっかけ」の一つとして機能した可能性は高い。しかし、事件の真相はより複雑で、多層的な要因が絡み合っていたと考えられる。徳川家内部における対立、例えば家康と信康の父子間の不和、両者の政策を巡る意見の対立、あるいは岡崎の家臣団と浜松の家臣団との間の派閥争いなどが背景にあった可能性が指摘されている 12 。また、家康自身の判断や、織田信長の政治的な意図も事件の展開に影響を与えたであろう。徳姫の訴状は、これらの既に存在していた徳川家内部の緊張関係を一気に表面化させ、悲劇的な結末へと導く触媒のような役割を果たしたのではないか。家康の重臣である酒井忠次が、信長から訴状の内容について問われた際に、その一部を認めたとされる逸話 20 も、徳川家内部の複雑な力学や、事件処理における何らかの政治的判断があったことを示唆している。

表2:「十二箇条の訴状」に関する主要な論点

論点

訴状とされる内容

歴史的解釈・信憑性

関連史料・研究

築山殿による徳姫・信康の離間工作

築山殿が悪意をもって徳姫と信康の仲を裂こうとした。

嫁姑の確執は事実としてあった可能性が高いが、訴状で告発されたような築山殿の一方的な悪意によるものであったかは不明。双方に要因があった可能性も。

2

男子不出生と側室問題

徳姫が女子しか産まないことを理由に、築山殿が信康に武田氏家臣の娘を側室として迎えさせた。

嫡男不在は事実であり、側室を迎えること自体は当時の武家の慣習としてあり得た。しかし、武田氏家臣の娘を側室とした点は、織田家との同盟関係を考慮すると政治的に非常に敏感な問題であり、徳姫の不満を増幅させたと推測される。

2

築山殿の武田氏内通疑惑

築山殿が医師と密会し、武田勝頼と内通していた。

事件の最も重大な告発内容であるが、確たる一次史料による裏付けは見つかっていない。家康による築山殿・信康粛清の口実として、この内通疑惑が利用された、あるいは誇張された可能性も研究者によって指摘されている。

2

訴状全体の信憑性

『三河物語』など後世の編纂物において詳細に記述されるが、同時代の一次史料には訴状そのものの存在や具体的な内容を直接的に示すものは乏しい。事件の責任を信長や徳姫に転嫁するため、あるいは物語性を高めるために脚色された部分が含まれている可能性が高いと考えられている。

7

築山殿の死と信康の自刃

徳姫からの訴状を受け取ったとされる織田信長は、この問題を極めて深刻に受け止めた。信長の指示があったのか、あるいは徳川家康自身の判断であったのか、真相は定かではないが、事態は急速に悲劇的な結末へと向かう。

天正7年(1579年)8月29日(『改正三河後風土記』など一部史料では8月29日、 2 では8月)、築山殿は遠江国富塚村の小藪(現在の静岡県浜松市中央区)において、徳川家の家臣によって殺害された 2 。享年は40歳前後であったと伝えられる 2

その約半月後の同年9月15日、夫である松平信康もまた、遠江国二俣城(現在の静岡県浜松市天竜区)において自刃を命じられ、短い生涯を閉じた 2 。この時、信康はわずか21歳であった 2

事件の真相をめぐる諸説

信康事件の真相については、長年にわたり様々な説が提唱され、歴史家や研究者の間で活発な議論が交わされてきた。

  • 信長主導説(旧通説):
    これは、徳姫の訴えを読んだ信長が激怒し、同盟者である家康に対して、築山殿と信康の処分を厳命したという説である 2。家康は信長の強大な力に抗しきれず、断腸の思いで妻子を手にかけたとされる。この説は、江戸時代に成立した『三河物語』などを通じて広く流布した。
  • 家康主導説(近年の有力説):
    近年、より信頼性の高い一次史料の分析が進むにつれて、事件の主導権はむしろ家康自身にあったのではないかという説が有力視されるようになってきている。
  • 父子不和・政策対立説: 家康と信康の間には、性格の不一致や政治路線を巡る深刻な対立が存在し、これが事件の根本的な原因であったとする説 12 。例えば、信康の粗暴な行動や「不覚悟」を理由に、家康の方から信長に信康追放の許可を求めたとする史料(家康が堀秀政に宛てた書状など)が存在する 12 。『安土日記』や『当代記』といった史料では、信長は「信康を殺せ」とは直接的に命じておらず、徳川家の内情を酌んで「家康の思う通りにせよ」と答えたとされており、最終的な判断は家康に委ねられていた可能性を示唆している 12
  • 家康による粛清説: 家康が、徳姫の訴状を好機と捉え、以前から問題視していた、あるいは将来の脅威となり得ると考えていた築山殿と信康を、織田家との同盟関係を維持しつつ排除しようとしたという説 2
  • 徳川家中の派閥対立説: 当時の徳川家中には、家康のいる浜松を中心とする家臣団と、信康のいる岡崎を中心とする家臣団との間に、政策や待遇を巡る対立(いわゆる岡崎衆と浜松衆の派閥争い)が存在し、これが事件の背景にあったとする説 12 。信康が岡崎衆に担がれる形で、家康と対立する構図があったのではないかと推測されている。
  • 信康の武田氏内通疑惑の深刻化説: 信康や築山殿が、武田氏と内通していたという疑惑(特に天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件との関連)が、家康にとって看過できないレベルにまで深刻化しており、徳川家の存続のために断固たる処置が必要であったとする説 12

これらの説は、それぞれ異なる史料的根拠や解釈に基づいており、事件の真相は未だ確定していない。しかし、家康が単に信長の命令に受動的に従ったというよりも、徳川家内部の複雑な事情や家康自身の政治的判断が深く関与していた可能性が高いというのが、近年の研究における主要な見方となっている。

また、異説として、葬られた信康の遺体は替え玉であり、信康本人は家臣の手によって密かに逃れ、生存していたという説も存在するが 12 、これは伝承の域を出ないものと考えられている。

信康は織田信長の娘である徳姫を正室として迎えており、その信康を処断するということは、織田・徳川同盟の根幹を揺るがしかねない極めて重大な事態であった 22 。家康が信長と緊密に連絡を取りながら事件の処理を進めた形跡が見られるのは 12 、この同盟関係の維持に対する最大限の配慮を示している。しかしながら、事件の処理方法やその後の両家の関係性を考慮すると、この事件が織田・徳川同盟に全く影響を与えなかったとは考えにくい。家康がこの事件を機に、織田家に従属する姿勢をより明確に示すことで同盟関係を維持しつつ、同時に徳川家内部の不安定要素を排除し、家中の結束を強化しようとしたという見方も存在する 23 。このように、信康事件は、当時の織田・徳川両家の力関係や政治的状況の中で発生した、極めて複雑な事件であったと言える。

第四章:信康事件後の徳姫

夫・信康と姑・築山殿を失った徳姫の人生は、大きな転機を迎えることになった。

岡崎退去と織田家への帰還

信康事件の後、天正8年(1580年)2月20日、徳姫は二人の娘、登久姫と熊姫を徳川家康の元に残し、長年暮らした岡崎城を後にした 9 。家康自身が彼女を見送ったと伝えられている。徳姫は実家である織田家へ送り帰され、父・信長の居城であった安土近郊の近江八幡あたりに居住したとされる 9 。この時、生活の基盤として近江国の長命寺に化粧料田(女性の生活費や化粧代などに充てるための所領)が設定された 9 。この化粧料田は、父・信長によって与えられたものか、あるいは徳川家からの手切れ金的な意味合いがあったのか、詳細は明らかではないが、彼女の生活を支える重要な経済的基盤となった 1

本能寺の変後の境遇

安土での平穏な生活も長くは続かなかった。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により本能寺の変が勃発し、父・織田信長と、織田家の家督を継いでいた長兄・織田信忠がともに横死するという衝撃的な事件が発生する 9 。これにより、徳姫は最大の庇護者であった父と兄を同時に失い、その境遇は再び不安定なものとなった。

本能寺の変後、徳姫は次兄にあたる織田信雄(のぶかつ)に保護された 9 。しかし、信雄は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との間で信長の後継者の地位を巡って対立し、天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いが起こる。この戦いの後、信雄と秀吉が和睦する際、徳姫はその和議の条件の一つとして、人質のような形で京都に移り住むことになったと『顕如上人貝塚御座所日記』には記されている 9

豊臣政権下での生活

天正18年(1590年)、保護者であった織田信雄が小田原征伐後の領地替えを拒否したことなどを理由に、豊臣秀吉によって改易(領地没収・追放)されてしまう。これにより、徳姫は再び庇護者を失う危機に瀕したが、この時は母方の一族とされる生駒氏の所領であった尾張国小折村(現在の愛知県江南市)に移り住んだ 9 。この処遇は、秀吉の朱印状(「埴原家文書」所収)によって指示されたものであり、徳姫の身柄や処遇が秀吉の管理下に置かれていたことを示している 9

その後、徳姫は再び京都に戻り、居住したとされる 9 。秀吉の治世下において、彼女は信長の娘として、またかつての同盟相手であった徳川家康の嫡男の正室として、一定の敬意を払われつつも、政治の表舞台からは遠ざけられ、静かな生活を送っていたものと推測される。

信長、信忠、そして信雄という織田家の直接的な庇護者を次々と失った徳姫にとって、豊臣秀吉の存在は極めて重要であった。秀吉は、織田信長の後継者としての地位を確立していく過程で、旧織田家臣団や信長ゆかりの人々に対して、一定の配慮を示す必要があった。徳姫を保護し、彼女の生活を保障したことは、秀吉のこうした政治的戦略の一環であったと考えることができる。徳姫の存在は、秀吉にとって信長との連続性を内外に示す象徴的な意味合いを持ち、自身の権威を補強する上で間接的に役立ったのかもしれない 30 。彼女に化粧料田が与えられたり、居住地が指定されたりした背景には 9 、こうした秀吉の政治的判断があったと推察される。

第五章:晩年と死

豊臣秀吉の死後、日本の政治情勢は再び大きく動き出す。関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下の実権を掌握し、江戸幕府を開府する時代へと移行していく中で、徳姫の晩年もまた、新たな局面を迎えた。

関ヶ原の戦い後の所領

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の四男であり、徳姫にとっては義理の弟にあたる松平忠吉が、戦功により尾張国清洲城主となった。この松平忠吉から、徳姫は1761石(史料によっては二千石とも)の所領(化粧料または賄料として)を与えられた 9 。この所領は、徳姫が亡くなるまで、彼女の母方とされる生駒氏の一族である生駒利豊(徳姫の従弟にあたる)が管理したと伝えられている 9

徳川家、特に家康の息子である松平忠吉から徳姫へまとまった所領が与えられたという事実は、非常に興味深い。この背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、信康事件における徳川家の負い目や、織田信長の娘であり、かつて徳川家の嫡男・信康の正室であった徳姫の身分に対する配慮があった可能性である 12 。また、天下人となった徳川家が、旧織田家勢力や信長ゆかりの人々に対して懐柔策を講じ、新体制の安定を図ろうとしたという政治的な意図も否定できない。家康が、信長の血を引く徳姫を適切に処遇することで、内外に徳川政権の正当性と寛容さを示そうとしたのかもしれない。この所領給与には、家康の複雑な政治的判断と、過去の出来事に対する一定の清算の意味合いが含まれていたと推測される 12

京都での隠棲生活

所領を得た後も、徳姫は主に京都で隠棲生活を送ったとされている 1 。信康との死別後、彼女が再婚することはなかったと伝えられている 2 。戦国時代から江戸初期にかけての女性としては、比較的長命を保ち、激動の時代を生き抜いた。

曾孫の乳母選定への関与

晩年においても、徳姫が一定の敬意を払われていたことを示す逸話が残っている。寛永7年(1630年)、徳姫の曾孫にあたる蜂須賀光隆(長女・登久姫の孫である小笠原忠真の娘・繁姫と蜂須賀忠英の間に生まれた嫡男)が誕生した際、その乳母の選定について、徳姫に相談が持ちかけられたという記録がある 29 。これは、彼女が織田信長の直系の子孫として、また徳川家とも縁戚関係にあったことから、大名家の間でも一定の発言力や影響力を保持していたことを示唆している。

最期と法名、墓所

徳姫は、寛永13年(1636年)1月10日(旧暦)、多くの歴史的事件と深い関わりを持ちながら生きたその生涯を閉じた 1 。享年は78歳であった 1

彼女の法名は、「見星院香岩寿桂大姉(けんせいいんこうがんじゅけいだいし)」と伝えられている 1

その墓所は、京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺の塔頭寺院の一つである総見院(そうけんいん)に設けられた 1 。総見院は、本能寺の変で倒れた父・織田信長の菩提を弔うために、豊臣秀吉が建立した寺院である 32 。この寺院には、信長の木像(重要文化財)が安置されているほか、信長をはじめとする織田一族の墓碑が数多く存在する 32

徳姫が、父・信長の菩提寺である大徳寺総見院に葬られたという事実は、彼女の生涯を象徴する出来事と言えるかもしれない。松平信康の妻として徳川家に嫁ぎ、一時は徳川家の将来を担う立場にあったものの、信康事件という悲劇を経て織田家に戻り、その後の人生も織田家の縁者としての側面を強く持ち続けた。徳川家からの所領給与はあったものの、彼女のアイデンティティの根幹は、やはり「織田信長の娘」という点にあったのかもしれない。その終焉の地が、父の眠る場所であったことは、彼女の数奇な運命と、戦国という時代の複雑な人間関係を物語っているように思われる 1

第六章:徳姫の娘たちとその後の血脈

徳姫は松平信康との間に男子をもうけることはなかったが、二人の娘、登久姫と熊姫に恵まれた。彼女たちはそれぞれ有力な大名家に嫁ぎ、徳姫の血脈は後世へと繋がっていくことになる。

長女:登久姫(福子)

徳姫の長女である登久姫(とくひめ、幼名:福子)は、天正4年(1576年)に生まれた 1 。信康事件後、母・徳姫が岡崎を去る際に徳川家に残され、祖父である徳川家康のもとで養育された 9

天正17年(1589年)8月、豊臣秀吉の仲介により、信濃国松本城主であった小笠原秀政に嫁いだ 1 。小笠原秀政は、家康の信頼厚い譜代大名であり、この婚姻によって小笠原家は徳川家との結びつきを一層強固なものとした。登久姫と秀政の夫婦仲は良好であったと伝えられ、小笠原忠真(後の小倉藩初代藩主)、小笠原忠脩(ただなが)など、多くの子女に恵まれた 34

しかし、登久姫は慶長12年(1607年)10月18日、疱瘡(ほうそう、天然痘)を患い、31歳(一部史料では47歳ともされるが 34 、生年から計算すると31歳が妥当か 34 )という若さでこの世を去った。その墓所は、長野県飯田市の峯高寺にあるとされている 34

次女:熊姫(国子)

徳姫の次女である熊姫(くまひめ、幼名:国子)は、天正5年(1577年)に生まれた 1 。姉の登久姫と同様に、信康事件後は家康のもとで養育された 9

熊姫は、徳川四天王の一人である本多忠勝の嫡男・本多忠政に嫁いだ 1 。忠政は後に桑名藩主、そして姫路藩初代藩主となる人物である。熊姫は忠政との間に、本多政朝(まさとも)、本多忠義(ただよし)など3男2女をもうけたと記録されている 37

熊姫は、寛永3年(1626年)6月25日に死去した 37 。その墓所は、兵庫県姫路市の久松寺にあり、また高野山奥の院にも次男・政朝と三男・忠義によって供養塔が建立されている 37

血脈の広がりと歴史的意義

徳姫の二人の娘たちが、それぞれ小笠原秀政や本多忠政といった、徳川家にとって極めて重要な有力大名家に嫁いだという事実は、単なる縁組以上の意味を持っている。これは、祖父である徳川家康の明確な政治的戦略の一環であったと見ることができる 9

信康事件という悲劇によって、家康は嫡男・信康とその血筋を失うという大きな痛手を被った。しかし、家康は信康の娘たち、すなわち自身の孫娘たちを、徳川家の基盤固めと勢力拡大のための重要な駒として活用したのである。彼女たちを信頼の置ける譜代大名や有力大名と縁組させることで、徳川政権内部の結束を強化し、安定を図ろうとした。また、彼女たちが織田信長の血を引く存在であることから、その血筋を徳川方に取り込むことで、旧織田家臣団や信長恩顧の大名たちに対する一定の配慮を示し、彼らの不満を和らげる効果も期待したのかもしれない。

信康事件という悲劇にもかかわらず、徳姫を通じて織田信長の血を引く子孫たちは、徳川政権下においても重要な地位を保ち続け、その血脈は様々な大名家へと広がっていった。これは、家康の巧みな政略と、戦国時代から江戸時代初期にかけての婚姻政策の重要性を示す好例と言えるだろう。徳姫の娘たちの人生は、母である徳姫自身の波乱に満ちた生涯とは対照的に、比較的安定したものであったように見えるが、それもまた、時代の大きな変化と、その中で生きる人々の運命の綾を物語っている。

終章:歴史的評価と人物像

徳姫の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた一人の女性の記録として、また、日本の歴史における重要な転換点となった出来事の当事者として、多大な影響と考察の余地を後世に残している。

徳姫の生涯が後世に与えた影響

徳姫は、何よりもまず「信康事件」の鍵を握る人物として記憶されている。彼女が父・織田信長に送ったとされる「十二箇条の訴状」が、徳川家康の嫡男・松平信康とその母・築山殿の死に繋がったという通説は、長らく彼女に「悲劇の引き金」あるいは「騒動の元凶」といったイメージを付与してきた。この事件は、徳川家にとって最大の危機の一つであり、その後の徳川幕府成立史における重要な転換点であったことは間違いない。徳姫の行動が、意図したか否かは別として、歴史の大きな歯車を動かす一因となったことは否定できないだろう。

一部では「悪女」と評されることもある徳姫だが 38 、その評価は一面的に過ぎるかもしれない。彼女の行動の背景には、政略結婚の道具として扱われ、嫁ぎ先では姑との深刻な確執に悩み、夫との関係も冷え込むという、戦国時代の武家の女性が置かれた極めて過酷な状況があったことを十分に考慮する必要がある。

史料から読み解く徳姫の人物像

現存する史料から徳姫の具体的な性格や人となりを詳細に描き出すことは容易ではないが、いくつかの側面を推測することは可能である。

まず、織田信長の娘としての誇りや気概を持っていた可能性が考えられる。姑・築山殿との対立が深刻化した際に、最終的に実父である信長を頼った行動は、彼女の出自意識の強さを示すものかもしれない 2 。当時の女性が取り得る選択肢が限られていた中で、最高権力者である父に窮状を訴えるという手段を選んだことは、彼女なりの必死の抵抗であったとも解釈できる。しかし、その結果として夫と姑を死に至らしめたことは、彼女にとってあまりにも大きな代償であったろう。

一方で、夫や姑との関係に苦悩し、精神的に追い詰められていた一人の女性としての一面も無視できない。嫡男を産めなかったことへのプレッシャーや、夫・信康の愛情が離れていくことへの絶望感は、想像に難くない。

晩年、曾孫である蜂須賀光隆の乳母選定の相談を受けているという逸話からは 29 、騒動の渦中にあった頃とは異なる、穏やかで思慮深い一面も窺える。長い年月を経て、彼女の中で様々な葛藤や後悔が昇華され、円熟した境地に至っていたのかもしれない。

徳姫の教養については、直接的な史料は乏しい。しかし、父・信長に長文の書状(十二箇条の訴状)を送ったとされることから 2 、少なくとも文字の読み書き能力は有していたと考えられる。また、織田信長の娘、そして徳川家康の嫡男の正室という高い身分であったことを考慮すれば、当時の高位の女性に求められる一定の教養や嗜み(例えば和歌や手習いなど)は身につけていたと推測するのが自然であろう 39

研究史における徳姫

徳姫に関する学術的な研究は、主に信康事件との関連で論じられることが多い。奥野高廣氏の論文「岡崎殿―徳川信康室織田氏―」 1 や、岩沢愿彦氏の論文「岡崎殿異聞」 1 、渡辺江美子氏の論文「織田信長の息女について」 1 などが、徳姫の生涯や関連する出来事について詳細な考察を行っている。これらの研究は、史料の再検討や新たな視点の導入を通じて、徳姫像の再構築に貢献してきた。

歴史記述、特に女性に関する記述においては、しばしばジェンダーバイアスが介在する可能性がある。徳姫に関しても、彼女を単に「悲劇のヒロイン」として描いたり、あるいは「騒動の元凶」として断罪したりするような、単純化された見方がなされることがある。しかし、彼女の行動を理解するためには、当時の女性が置かれていた社会的、政治的な制約や、彼女が利用し得た数少ない手段といった文脈を考慮することが不可欠である。彼女が父に送ったとされる「訴状」も、単なる個人的な感情の発露としてではなく、自らの生き残りをかけた一種の政治的行為であった可能性も視野に入れるべきであろう。戦国時代の女性史研究 2 の進展とともに、徳姫の生涯やその歴史的意味についても、より多角的で深みのある再評価が期待される。

総括

徳姫の生涯は、織田信長の娘として生まれ、徳川家康の嫡男に嫁ぎ、そして信康事件という歴史的悲劇の中心人物の一人となるという、まさに波乱に満ちたものであった。彼女の人生は、戦国から江戸初期という激動の時代を生きた一人の女性の記録として、また、大きな歴史的事件の当事者として、現代の我々に多くの教訓と考察の機会を提供している。彼女の選択や行動、そしてそれを取り巻く状況を丹念に追うことは、戦国時代の社会構造や人間関係の複雑さを理解する上で、依然として重要な意味を持ち続けていると言えるだろう。

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