戦国時代の女性、西郷局の生涯と実像:史料に基づく徹底調査
はじめに
本報告書は、徳川家康の側室であり、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の生母である西郷局(さいごうのつぼね、通称お愛の方)について、現存する諸史料に基づき、その生涯、人物像、そして歴史的意義を詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とします。
西郷局は、家康の苦難の時代を支え、後の徳川幕府の基盤形成に間接的ながらも重要な役割を果たした女性です。しかし、その出自や死因、享年などについては史料間で記述が錯綜しており、多くの謎に包まれています。
本報告書では、提供された調査資料群を網羅的に分析し、特に『家忠日記』や『お国文書』といった一次史料に近い記録と、『以貴小伝』や『寛政重修諸家譜』などの編纂物を比較検討することで、西郷局の実像に迫ります。
まず、西郷局の生涯を概観するために、略年表を以下に示します。
表1:西郷局 略年表
年号(和暦)
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西暦
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年齢(諸説)
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主要事項
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関連史料例
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天文21年
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1552年
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1歳
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遠江国掛川上西郷にて誕生(通説)。父は戸塚忠春、母は西郷正勝の娘とされる。
1
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『以貴小伝』など
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(異説)永禄5年
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1562年
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(1歳)
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生年に関する異説。
3
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天文23年
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1554年
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3歳
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父・戸塚忠春、「大森の戦い」で戦死(通説)。
2
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『以貴小伝』など
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時期不明
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不明
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不明
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母、服部正尚と再婚(通説)。
2
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時期不明
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不明
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不明
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最初の夫に嫁ぐも死別(一説)。
2
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『以貴小伝』など
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時期不明
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不明
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不明
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従兄・西郷義勝と結婚(継室または初婚)。1男1女をもうける(通説)。
1
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『以貴小伝』、『寛政重修諸家譜』など
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元亀2年
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1571年
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20歳/10歳
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夫・西郷義勝、「竹広合戦」にて戦死。
2
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天正6年
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1578年
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27歳/17歳
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3月、徳川家康に見初められ、浜松城にて側室となる。伯父・西郷清員の養女となる。
1
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『以貴小伝』、『寛政重修諸家譜』など
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天正7年
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1579年
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28歳/18歳
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4月7日(または4日)、浜松にて徳川秀忠(長松、後の2代将軍)を出産。
1
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『徳川実紀』など
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天正8年
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1580年
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29歳/19歳
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9月7日(または9月)、松平忠吉(福松丸、後の尾張清洲藩主)を出産。
1
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天正17年
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1589年
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38歳/28歳
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5月19日、駿府(または浜松)にて死去。
1
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『家忠日記』、『以貴小伝』、『柳営婦女伝系』など
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寛永5年
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1628年
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―
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5月9日、徳川秀忠により従一位追贈。法名を「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」と改められ、龍泉寺は宝台院と改称。
1
|
宝台院記録など
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第一章:西郷局の出自と前半生
本章では、西郷局の生誕から徳川家康に出仕するまでの前半生を、史料に基づき詳細に検証します。特に、その呼び名、生年、家族背景、そして最初の結婚については諸説あり、慎重な分析が求められます。
第一節:生誕と呼び名
西郷局は、その生涯を通じていくつかの名で呼ばれていました。これらの呼称の変遷は、彼女の立場や徳川家における重要性の変化を反映していると考えられます。
-
幼名・通称としては「お愛の方」が広く知られています
1
。これは彼女の美貌や聡明さ、そして温和な人柄に由来すると考えられています
6
。一方で、「お相の方」が正しいとする説も存在します
1
。
-
徳川家康の側室となってからは「西郷局」と呼ばれました
1
。これは、家康に仕えるにあたり、母方の伯父にあたる西郷清員の養女となったことに由来するとされています
1
。
-
死後、その功績と息子である秀忠の将軍就任により、複数の院号や戒名が追贈されました。当初は「竜泉院殿」と称されましたが
1
、後に秀忠によって「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」という壮大な法名が贈られました
1
。
-
その他、「蓮葉院」という別名も伝えられていますが
13
、これは「西郡局」という別の側室(鵜殿長持の娘で督姫の母)の院号である可能性が高く、西郷局(お愛の方)とは別人であると考えられます
13
。
-
西郷局の生年については諸説ありますが、天文21年(1552年)説が比較的多くの史料で支持されています
1
。
-
異説として永禄5年(1562年)とするものもありますが
3
、この場合、天正17年(1589年)に死去した際の享年が28歳となり、天文21年生まれで享年38歳とする説とは10年の開きがあります。この享年の問題は、彼女の生涯を理解する上で重要な論点となります。
-
遠江国掛川の西郷地区(現在の静岡県掛川市上西郷)で生まれたと伝えられています
1
。具体的には、構江(かまえ)屋敷が生誕地とされ、その名は屋敷が「構え」ていたことに由来するとも言われています
15
。現在、構江公民館の横には、西郷局の家神とされる「いつき様」を祀る祠が残されています
17
。
これらの呼称や生誕地に関する情報は、西郷局の生涯を辿る上で基礎となるものです。特に呼称の変遷は、彼女の徳川家における地位の向上を物語っています。
表2:西郷局の呼称と院号一覧
呼称/院号
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読み
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使用時期/背景
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典拠史料例
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お愛の方(於愛の方)
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おあいのかた
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幼名・通称。家康側室時代にも使用。
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1
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お相の方(於相の方)
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おあいのかた
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「お愛」の異説、または正しい表記とする説。
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1
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西郷局(西郷の局)
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さいごうのつぼね
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家康側室としての呼称。西郷清員の養女となったため。
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1
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竜泉院殿(龍泉院殿)
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りゅうせんいんでん
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死後の最初の院号。埋葬された龍泉寺に由来。
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1
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宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼
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ほうだいいんでんいっぽんたいふじんしょうよていじゅだいぜんじょうに
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寛永5年(1628年)に従一位追贈と共に改められた法名。秀忠による顕彰。
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1
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(参考)蓮葉院
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れんよういん
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西郡局(鵜殿長持の娘)の院号であり、西郷局(お愛の方)とは別人である可能性が高い。
13
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『寛政重修諸家譜』(西郡局の項)か
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「お愛」という個人名から、徳川家康の側室としての公的な立場を示す「西郷局」、そして死後、息子である徳川秀忠の権威確立と共に追贈された壮大な院号「竜泉院殿」「宝台院殿」へと呼称が変化していく過程は、彼女の生涯における社会的地位の段階的な上昇を明確に示しています。特に、従一位という高位と共に贈られた「宝台院殿一品大夫人」という称号は、彼女が単なる将軍の生母としてだけでなく、徳川家にとって特別な存在として位置づけられていたことを物語っています。この背景には、秀忠自身の母への敬愛の念に加え、新たに確立されつつあった徳川幕府の権威を、将軍家の祖先顕彰を通じて強化しようとする意図があったと考えられます。
第二節:家族背景
西郷局の家族背景、特に実父と実母の出自や経歴については、史料によって記述に食い違いが見られ、慎重な検討が必要です。
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実父:戸塚五郎太夫忠春(とづか ごろうだゆう ただはる)
-
通説では、戸塚忠春は遠江国の武士で今川家の家臣とされ、天文23年(1554年)に「大森の戦い」で戦死したと伝えられています
2
。この説に従えば、西郷局は幼くして父を失ったことになります。
-
しかし、近年注目されている史料に、西郷局の従姉妹にあたる「お国」という女性が江戸時代初期に記した『お国文書』(具体的にはその中の「先祖覚」)があります。この文書によれば、戸塚忠春は西郷局が徳川家康の側室となった天正6年(1578年)以降も生存しており、家康から遠江国上西郷村に屋敷と知行(五百石三千石とも)を与えられ、その屋敷の管理を任されていたと記されています
14
。この記述は、戸塚忠春の早期戦死説とは大きく異なり、西郷局の前半生に関する通説に再考を迫るものです。郷土史家の中山正清氏はこの『お国文書』を詳細に分析し、戸塚忠春生存説を提示しています
19
。
-
戸塚忠春の生死に関するこの矛盾は、西郷局の幼少期の環境や、彼女が家康に見出されるに至った経緯を理解する上で極めて重要な論点です。もし忠春が生存していたのであれば、西郷局の家康への出仕に何らかの形で関与していた可能性も考えられます。
-
西郷局の実母は、三河国(現在の愛知県東部)の国人領主であった西郷正勝(弾正左衛門)の娘とされています
1
。名は「お貞」と伝えられることもあります
4
。
-
彼女は戸塚忠春に嫁ぎ、西郷局(お愛の方)を産みました。通説では、忠春の戦死後、西郷局を連れて遠江国掛塚(現在の静岡県磐田市)の服部平太正尚(服部正尚)と再婚したとされています
2
。
-
三河西郷氏は、現在の愛知県豊橋市西郷地区を本拠とした名族で、室町時代には仁木氏の守護代を務めた家柄でした
20
。戦国時代には松平氏(後の徳川氏)に臣従したとされます
20
。
-
一方、戸塚氏は遠江国(現在の静岡県掛川市周辺)の武士であり
14
、『お国文書』によれば西郷政清(後の石谷政清)率いる「西郷十八士」の一人とされています
14
。
-
三河の有力国人である西郷氏の娘が、遠江の一武将に過ぎない可能性のある戸塚氏に嫁いだ経緯については、家格の釣り合いの観点から疑問も提示されており
7
、さらなる研究が待たれます。
『お国文書』の記述、特に戸塚忠春が西郷局の家康への出仕後も生存し、家康から所領を与えられていたという内容は、従来の西郷局像、すなわち「父を早くに亡くし、母の再婚などで苦労を重ねた薄幸の女性」というイメージに大きな修正を迫るものです。もし『お国文書』の記述が事実であれば、西郷局の出自や前半生は、これまで考えられていたよりも安定したものであった可能性が出てきます。
通説の形成過程において、後の時代に特定の家系(例えば三河西郷氏嫡流)が徳川将軍家との繋がりをより良く見せるために、西郷局の出自に関する情報を整理・編纂した可能性も否定できません。中山正清氏の研究は、まさにこの点に光を当て、史料批判の重要性を示しています 7。『お国文書』のような一次史料に近い記録の再評価は、西郷局の実像を明らかにする上で不可欠と言えるでしょう。
第三節:結婚と離縁・死別
西郷局の徳川家康への出仕以前の結婚生活についても、複数の説が存在します。
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一つの説として、西郷局は西郷義勝と結婚する前に別の男性と結婚し、その夫と死別して寡婦となっていたというものがあります。その後、同じく正室を亡くしていた従兄の西郷義勝の継室として迎えられたとされています
2
。しかし、この「最初の夫」とされる人物の名前や具体的な史料的根拠については、現時点では不明な点が多い状況です。
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一方で、西郷義勝が西郷局にとって最初の夫であったとする説も存在します
2
。
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この最初の結婚の有無は、西郷局が家康の側室となるまでの社会的立場や経験を理解する上で重要な論点です。未亡人としての経験が、後の彼女の人間性や家康との関係に影響を与えた可能性も考えられます。
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多くの史料で、西郷局は西郷義勝と結婚したとされています。義勝は西郷正勝の嫡孫であり、西郷局にとっては母方の従兄にあたります
1
。
-
義勝との間には、一男一女をもうけたと伝えられています
1
。
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男子の名は「勝忠(かつただ)」とされ、成人後は徳川御三家の一つである紀州徳川家に仕えたと記録されています
24
。
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女子については、西郷家員(さいごう いえかず、西郷清員の子で義勝の養子)の妻となった娘が義勝の子とされますが、その生母がお愛の方(西郷局)であるかについては史料によって見解が異なり、明確ではありません
24
。一部の史料では、この娘を義勝の姉妹とする説も示唆されています
24
。
-
元亀2年(1571年)3月4日、西郷義勝は「竹広合戦」において戦死しました
2
。この戦いは、武田信玄の遠江侵攻に関連するもので、義勝は武田方の秋山虎繁の軍勢と戦い、命を落としたとされています。
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夫・義勝の死により、西郷局は幼い子供たち(特に勝忠)を抱えた未亡人となりました。この経験は、彼女のその後の人生観や、他者への深い同情心、特に弱者への慈悲の心に影響を与えた可能性があります。
西郷局と西郷義勝の間に生まれたとされる子供たちの記録、特に娘に関する情報が曖昧である点は注目に値します。男子である勝忠については、紀州藩に仕えたという比較的明確な記録が残っているのに対し、娘については名前すら不確かであり、その後の消息も詳らかではありません。これは、当時の記録が男性中心であったこと、そして女性の生涯が嫁ぎ先の家系の中で埋もれがちであったことを反映している可能性があります。また、西郷局が後に徳川家康の側室となり、将軍秀忠の生母という極めて重要な立場になったことで、それ以前の家族関係、特に前夫との子供たちの記録の重要性が相対的に低下した、あるいは意図的に曖昧にされた可能性も考えられます。勝忠が紀州徳川家という徳川御三家の一つに仕官できた背景には、家康や秀忠による何らかの配慮があったと推測することも可能であり、西郷局の徳川家における影響力の一端を示しているのかもしれません。
第二章:徳川家康への出仕
本章では、西郷局が徳川家康の側室となる経緯、そして二人の将軍の母となる過程を、史料に基づいて詳細に追います。
第一節:家康の側室へ
西郷局が徳川家康の側室となった経緯には、いくつかの説が伝えられています。
-
通説によれば、天正6年(1578年)3月、当時浜松城にいた徳川家康のもとに、西郷局の美貌と聡明さが伝わり、側室として迎え入れられたとされています
6
。
-
より具体的な状況としては、夫の西郷義勝と死別した後、母の再婚先である服部正尚の屋敷に身を寄せていた西郷局を、家康がその屋敷を訪れた際に偶然見初め、浜松に連れ帰ったという説が有力です。この時、西郷局は27歳であったとされます
1
。
-
別の説として、家康が幼少期に今川氏の人質であった頃、西郷局の父である戸塚忠春と親しい間柄であったことから、その縁で縁談が成立したというものもあります
4
。この説は、前述の『お国文書』に見られる戸塚忠春生存説と関連付けて考えると、興味深い視点を提供します。
-
西郷局が家康の側室となるにあたり、彼女の伯父(母の兄弟、または西郷正勝の子)にあたる三河西郷氏の西郷清員の養女となったとされています
1
。
-
この養子縁組の理由としては、西郷局の実父である戸塚忠春が今川家の旧臣であったため(通説)、あるいは徳川家と縁組するにあたって家格を整えるためであったと考えられています。西郷氏は三河の有力な国人であり、その養女という形をとることで、体裁を整えたと推測されます。この措置は、西郷局個人のためだけでなく、徳川家と西郷氏との政治的な結びつきを強化する意味合いも持っていたと考えられます。
-
側室となった西郷局は、当初、浜松城で家康に仕えました
2
。当時の浜松城は、武田氏との攻防の最前線であり、家康にとっては苦難の多い時期でした。そのような中で、西郷局は浜松城の奥向きを取り仕切り、その温和な人柄から三河武士団の人望も厚かったと伝えられています
2
。
西郷局が家康の側室となる際に、わざわざ西郷清員の養女という形をとったことは、当時の武家社会における婚姻や縁組の複雑な政治的背景を物語っています。単に家康が西郷局を見初めたという個人的な感情だけでなく、有力な国人領主である西郷氏との関係強化という、徳川家にとっての戦略的な意味合いが含まれていた可能性が高いでしょう。西郷氏側にとっても、将来有望な徳川家康との縁戚関係は、自家の勢力維持・拡大にとって有利に働くと判断したのかもしれません。もし『お国文書』の記述通り戸塚忠春が生存していた場合、養子縁組の理由は「今川家臣だった父を隠すため」という説明の説得力は薄れ、純粋に西郷氏の家格を利用するため、あるいは西郷氏側の徳川家への接近戦略という側面がより強かった可能性も考えられます。
第二節:家康との子
西郷局は、徳川家康との間に二人の男子をもうけました。これが彼女の徳川家における地位を決定的なものとします。
-
天正7年(1579年)4月7日(史料によっては4日とも
2
)、西郷局は浜松城(あるいはその近郊にあった家康の下屋敷
28
)において、後の江戸幕府二代将軍となる徳川秀忠を出産しました
1
。秀忠の幼名は長松(長丸とも)といいました
4
。
-
この天正7年という年は、徳川家にとって大きな転換期でした。同年、家康の正室・築山殿と嫡男・松平信康が武田氏への内通疑惑により死に追いやられるという事件(信康事件)が起きています
10
。この事件により、徳川家の後継者問題は深刻な状況に陥っていました。そのような中で秀忠が誕生したことは、家康にとって大きな喜びであったと同時に、徳川家の将来にとって極めて重要な意味を持つ出来事でした。西郷局の立場も、単に男子を産んだ側室から、次期後継者候補の母へと格段に向上したと考えられます。
-
翌年の天正8年(1580年)9月7日(史料によっては9月とも
2
)、西郷局は後の尾張清洲藩主となる松平忠吉を出産しました
1
。忠吉の幼名は福松丸(松丸とも)といいました
4
。
-
相次いで二人の男子、特に後の将軍家を継ぐことになる秀忠を産んだことにより、西郷局の徳川家における地位は不動のものとなりました。家康からの寵愛も一層深まったと想像に難くありません。彼女の存在は、後継者問題に揺れる徳川家にとって、一つの安定をもたらす要素となった可能性があります。
信康事件という徳川家の存続に関わる大きな危機と同じ年に秀忠が誕生したという事実は、単なる偶然以上の意味を持っていた可能性があります。家康にとって、信康を失った悲しみと後継者不在の不安の中で生まれた秀忠は、まさに希望の光であったかもしれません。この出来事が、西郷局と秀忠の運命を大きく左右し、後の歴史に繋がっていくことになります。
第三章:人物像と逸話
本章では、史料や伝承に見る西郷局の人物像を、容姿、性格、信仰心、聡明さといった側面から掘り下げます。
第一節:人柄と評判
西郷局は、その容姿の美しさだけでなく、内面の優れた人格によっても多くの人々から敬愛されたと伝えられています。
-
多くの史料が、西郷局が美人であったと記しています
1
。徳川家康が彼女を一目惚れしたという逸話も、その美しさを裏付けるものとして語られています
1
。
-
温和で誠実な人柄であったと評されており、これが家康をはじめとする多くの人々から好かれた大きな理由の一つと考えられます
1
。贅沢を好まず、権力を追い求めるようなこともなかったとされています
4
。
-
徳川家康からの信頼は厚く、深い寵愛を受けました
1
。特に、家康が三方ヶ原の戦いや設楽原の戦いなど、最も苦難の多かった時期に浜松城の奥向きを支えたことから、「糟糠の妻」とも評されています
2
。
-
西郷局は、夫である家康だけでなく、周囲の家臣や侍女たちからも好かれ、誰からも愛される人物であったと伝えられています
1
。彼女の分け隔てない態度は、多くの人々の心を掴んだのでしょう。
西郷局が家康のみならず、家臣や侍女、さらには後述する盲目の人々からも広く敬愛されたという事実は、単に「美しく性格が良い」という外面的な評価に留まらない、彼女の内面的な魅力と、当時の武家の奥向きにおける女性の理想像を体現していた可能性を示唆しています。特に、戦国末期から江戸初期という激動の時代において、権力を笠に着ることなく、弱者に手を差し伸べる彼女の姿勢は、家中の人間関係の潤滑油となり、人々に精神的な安定をもたらしたのではないでしょうか。彼女の存在そのものが、困難な時代を生きる人々の心の支えとなっていたのかもしれません。
第二節:近眼の逸話
西郷局の人物像を語る上で欠かせないのが、彼女が強度の近眼であったという伝承です。
-
西郷局は強度の近眼であったと多くの史料や伝承で語られています
1
。その視力は日常生活にも支障をきたすほどだったと言われ、一説には「めがね御前」というあだ名で呼ばれていたとも伝えられています
10
。
-
自らが近眼で不自由な思いをしていたことから、西郷局は特に盲目の女性たちに深い同情を寄せ、衣服や飲食を施すなどして、その生活を熱心に保護したとされています
1
。
-
彼女が亡くなった際には、その死を悼んだ多くの盲目の女性たちが、彼女が葬られた龍泉寺(後の宝台院)の門前に連日集まり、後生を祈ったという逸話は、彼女の慈悲深さを象徴する話として広く知られています
1
。
西郷局の近眼という身体的特徴と、盲目の人々への慈善活動という行為が強く結びつけて語られることは、彼女の「慈悲深さ」を際立たせるための物語的構成要素として機能している側面も否定できません。「自身の不自由さから他者の不自由さを深く理解し、具体的な行動をもって助けた」というストーリーは、人々の共感を呼びやすく、美談として後世に伝わりやすい性質を持っています。これが史実であった可能性は高いと考えられますが、彼女の他の善行(例えば家臣への配慮など)と比較して、この逸話が特に強調されて伝わっている背景には、物語としての魅力や教訓的な側面があったのではないかと考察されます。また、彼女の視力の弱さが読書によるものという説
4
もあり、これは彼女の「聡明さ」と結びつけられています。このように、身体的特徴が、彼女の複数の美徳を説明する根拠として機能している点は興味深いと言えるでしょう。この逸話は、西郷局を単なる将軍の母としてだけでなく、人格的にも優れた理想的な女性像として描こうとする後世の意図を反映している可能性も考えられます。
第三節:聡明さと学識
西郷局は、その美貌や温和な人柄に加え、聡明さも兼ね備えていたと伝えられています。
-
徳川家康が彼女の美貌だけでなく、聡明さにも惹かれたとされています
6
。
-
西郷局は読書家であり、豊富な知識を持っていたという説があります
4
。一説には、その読書熱心さゆえに近眼になったとも考察されています
4
。
-
しかしながら、彼女の聡明さを具体的に示すような、家康や家臣との知的な会話の記録、あるいは政治的な献策や助言といったエピソードは、現存する史料からは乏しいようです。例えば、同じく家康の側室であったお梶の方が「一番美味しい食べ物は何か」という家康の問いに「塩です」と答え、その理由を理路整然と述べたことで家康を感心させたという「塩の問答」のような具体的な逸話
36
が、西郷局についてはあまり伝えられていません。現状では、「読書家であった」という間接的な情報が、彼女の知性を示す主な根拠となっています。
西郷局が「聡明」であったと複数の資料で言及されているにもかかわらず、その聡明さを具体的に示すエピソードが少ない点は考察に値します。これは、彼女の聡明さが主に内面的な教養や、奥向きの差配といった、記録に残りづらい形で発揮されていた可能性を示唆しています。当時の女性に期待される役割は、政治の表舞台で意見を述べることよりも、家庭内の調和を保ち、次世代を育成することに重きが置かれていたため、彼女の知性がそうした形で発揮されたとしても、それが詳細な記録として残ることは稀であったのかもしれません。あるいは、彼女の聡明さが「読書家」という形で主に語られるのは、直接的な政治介入を想起させずに知性を称賛するという、当時の女性に対する評価の一つのパターンであった可能性も考えられます。
第四章:晩年と死
本章では、西郷局の死について、その時期、場所、享年、そして死因をめぐる諸説を詳細に検討します。特に享年と死因については、史料の解釈が分かれており、本報告書の核心部分の一つとなります。
第一節:死没と享年
-
西郷局が死去したのは、天正17年(1589年)5月19日(旧暦)であると、多くの史料で一致しています
1
。
-
死没地については、駿府城説と浜松城説の二つが存在します。
-
駿府城説
: 徳川家康が浜松城から駿府城に本拠を移した直後に、駿府で亡くなったとする説が有力です
1
。
-
浜松城説
: 一部の史料では、浜松城内で病死したとされています
2
。
-
この死没地の違いは、当時の徳川家の拠点移動の正確な時期や、西郷局の最期の状況を特定する上で重要な手がかりとなりますが、多くの主要史料が駿府説を支持しているように見受けられます。
-
西郷局の享年については、大きく分けて28歳説と38歳説があり、長らく議論の対象となっています。
-
28歳説
: 『柳営婦女伝系』
19
や、その他の多くの系図類で支持されている説です
4
。
-
38歳説
: 江戸時代後期に成立したとされる『以貴小伝』
1
や、これを引用する一部の記述で見られる説です。
-
『以貴小伝』が記す38歳説は、西郷局の生年(通説では天文21年/1552年)や父・戸塚忠春の没年(通説では天文23年/1554年)、最初の結婚の時期など、他の記録との間に矛盾を生じさせる点が複数の研究者によって指摘されています
7
。例えば、父・忠春の没年が西郷局誕生の8年前になってしまう、あるいは夫・義勝の戦死時に西郷局が10歳で二児の母であったことになってしまうなど、年代的な整合性が取れません。
-
郷土史家の中山正清氏は、これらの矛盾点を踏まえ、江戸時代中期以降に三河西郷氏の嫡流が、徳川綱吉の不興を買って大名から旗本へと転落した家勢を挽回するため、徳川将軍家との血縁をより有利に(例えば、西郷局の年齢を上げることで、より分別のある年齢で家康に仕えたとするなど)見せようとする作為が働いた可能性を指摘し、『以貴小伝』の記述の信頼性に強い疑問を呈しています
7
。
-
同時代史料である松平家忠の『家忠日記』には、西郷局の死去した年月日は記されていますが、享年に関する直接的な記述はありません。
-
結論としては28歳説が有力
: 史料間の整合性や、中山氏らによる詳細な史料批判を踏まえると、28歳説の方が信憑性が高いと考えられます。
表3:西郷局の享年に関する諸説比較
説
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根拠史料
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史料の記述内容・論点
|
主な提唱者/研究者
|
信頼性に関する考察
|
28歳説
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『柳営婦女伝系』、その他多くの諸系図
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天正17年(1589年)に28歳で死去。
4
|
通説の一つ
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多くの系図で支持。生年に関する通説(天文21年または永禄4年)との整合性も比較的高い。
|
30歳説
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一説
|
天正17年(1589年)に30歳で死去。
7
|
|
28歳説に近いが、根拠となる主要史料は不明確な部分もある。
|
38歳説
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『以貴小伝』
|
天正17年(1589年)に38歳で死去。
1
|
『以貴小伝』
|
他の記録(父の没年、結婚時期など)との間に矛盾が多い。中山正清氏により、後世の三河西郷氏による作為の可能性が指摘され、信頼性に大きな疑問符がつく。
7
|
享年が28歳であるか38歳であるかという10年の差は、西郷局の生涯の長さを大きく左右し、彼女が経験したであろう出来事の範囲、徳川家康との関係の期間、そして息子たちの成長にどれほど関われたかなど、人物像の解釈に根本的な影響を与えます。例えば、28歳で亡くなったとすれば、秀忠や忠吉はまだほんの幼少期であり、母親としての直接的な関わりは非常に短期間であったことになります。一方、38歳で亡くなったとすれば、息子たちがある程度成長する姿を見守る時間があったことになり、彼女の母としての役割や影響もより長期的なものとして捉えられます。家康が最も苦難の時期を支えた「糟糠の妻」
2
という評価も、彼女が生きた期間の長さによってその重みが変わってくるでしょう。
第二節:死因をめぐる諸説
西郷局の死因については、確たる史料に乏しく、いくつかの説が伝えられています。
-
多くの史料や解説で、長年の心労や疲労が重なったことによる病死であったとされています
2
。特に、若くして亡くなったとされる28歳説を採る場合、何らかの急病や、当時の医療水準では治療が困難であった病にかかった可能性は十分に考えられます。
-
一方で、西郷局の死には不審な点があるとして、毒殺や暗殺を疑う説も根強く存在します。
-
一説には、徳川家康の正室であった築山殿(1579年に死罪)に仕えていた侍女が、築山殿の恨みを晴らすため、あるいは西郷局が家康の寵愛を一身に受け、次期将軍となる秀忠を産んだことへの嫉妬から、西郷局を毒殺したというものです
2
。
-
また、江戸時代に編纂された『柳営婦女伝系』には、「松平主殿助家忠家士稲吉兵衛害レ之と云々」(松平主殿助家忠の家臣である稲吉兵衛がこれを害したという)という記述が見られます
7
。これは、家康の家臣による殺害の可能性を示唆しており、毒殺説とは異なるものの、他殺であったという点では共通しています。
-
『家忠日記』に見る「喧嘩にて死去」の記述とその解釈
:
-
西郷局の死因をめぐる議論で最も注目されるのが、松平家忠の日記『家忠日記』の天正17年5月21日の条です。そこには、「駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候。野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由申来候」と記されています
7
。
-
この記述の解釈は大きく二つに分かれます。
-
解釈1(西郷局の死因とする説)
: 「喧嘩にて死去」の部分を西郷局の死因と直接結びつけ、彼女が野田菅沼助兵衛(菅沼定盈の従兄弟で家臣)との喧嘩、あるいは何らかの争議に巻き込まれて命を落としたとする解釈です。
-
解釈2(別人の死因とする説)
: 郷土史家の中山正清氏などは、この記述を、西郷局が亡くなったという報告と、それとは別に野田菅沼助兵衛が喧嘩で死去したという報告が、たまたま同日に家忠のもとに伝えられ、日記に併記されたに過ぎないと解釈しています
7
。この説の根拠としては、徳川家康の後継者である秀忠の生母が、家臣間の私的な争いに巻き込まれて落命するとは考えにくいという状況判断や、他の史料に同様の記述が見られないことなどが挙げられます。
-
『家忠日記』は同時代の一次史料であり、その記述は非常に重要ですが、このように解釈が分かれるため、西郷局の死因を特定する決定的な証拠とはなり得ていません。
表4:西郷局の死因に関する諸説比較
説
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根拠史料/状況証拠
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史料の記述内容/論点
|
主な提唱者/研究者
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歴史学的考察
|
病死説
|
多くの通説的記述、状況証拠(若年での死去)
|
長年の心労、疲労による病。
2
|
―
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最も穏当な説。具体的な病名は不明。当時の医療水準では若年死も珍しくない。
|
毒殺説
|
一部の伝承、状況証拠(家康の寵愛、秀忠出産への嫉妬など)
|
築山殿の侍女などによる毒殺。
2
|
―
|
確たる史料なし。徳川家内部の緊張関係を背景とした憶測の可能性。
|
暗殺説(稲吉兵衛説)
|
『柳営婦女伝系』
|
「松平主殿助家忠家士稲吉兵衛害レ之と云々」
19
|
『柳営婦女伝系』
|
後世の編纂物であり、信憑性に注意が必要。具体的な動機は不明。
|
喧嘩死説(『家忠日記』解釈1)
|
『家忠日記』
|
「野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由申来候」を西郷局の死因と解釈。
7
|
一部の研究者
|
同時代史料だが、将軍生母が喧嘩死するとは考えにくく、解釈に異論が多い。
|
喧嘩死説の否定(『家忠日記』解釈2)
|
『家忠日記』、状況判断
|
上記記述を西郷局の死因ではなく、別人の死の報告と解釈。
7
|
中山正清氏など
|
西郷局の立場を考えると、喧嘩死は不自然。日記の併記の可能性を指摘。
|
西郷局の死因として毒殺説や暗殺説が根強く語られる背景には、当時の徳川家内部、あるいは徳川家を取り巻く複雑な人間関係や権力闘争の存在が推測されます。天正7年(1579年)の信康事件は、徳川家中に深刻な亀裂と緊張感をもたらしました。西郷局が秀忠を産んだのはまさにこの時期であり、彼女が家康の寵愛を受け、次期将軍の有力候補となる男子の母となったことで、築山殿派の残党や他の側室、あるいは政治的対立者から妬みや敵意の対象となった可能性は否定できません。『家忠日記』の「喧嘩」という記述も、額面通りに受け取るのではなく、何らかの騒動や事件を婉曲的に表現した可能性も皆無とは言えません。しかし、これらの説はいずれも憶測の域を出ず、確たる証拠に欠けるのが現状です。
第三節:埋葬と追贈
西郷局の死後、彼女は手厚く葬られ、後には高い位を追贈されるなど、徳川家にとって重要な人物として扱われました。
-
西郷局は、死去した駿府(現在の静岡市)にあった龍泉寺(りょうせんじ)に葬られました
1
。
-
この龍泉寺は、後に西郷局の院号にちなんで宝台院(ほうだいいん)と改名され、現在も静岡市葵区に西郷局の墓所として存在しています
1
。
-
西郷局の息子である徳川秀忠が二代将軍に就任した後、母である西郷局の顕彰が大規模に行われました。
-
寛永5年(1628年)5月9日、朝廷から従一位の官位が追贈されました
1
。これは女性に与えられる位としては最高位に近いものであり、彼女の徳川家における重要性を示すものです。
-
一部の史料では「正一位」が贈られたとする記述も見られますが
2
、従一位の追贈がより多くの史料で確認されており、確実性が高いと考えられます。両方の位が贈られた可能性は低いとされています
8
。
-
法名(戒名)も、当初の「竜泉院殿」から、より壮大な「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」(ほうだいいんでん いっぽんたいふじん しょうよていじゅ だizenjōni)へと改められました
1
。この「一品大夫人」という称号は、皇族や摂関家の女性に匹敵する極めて高い格式を示すものです。
-
徳川秀忠は、生母である西郷局の菩提を弔うため、寛永5年(1628年)に、元々西郷局が葬られていた龍泉寺を大規模に改修・拡張し、壮大な伽藍を建立しました。そして、母の新しい院号である「宝台院」を寺名とし、金米山宝台院龍泉寺と改めました
1
。この事業は、秀忠の将軍としての権威を示すとともに、亡き母への深い敬愛の念を表すものでした。宝台院は、江戸の増上寺と並び、徳川家の菩提寺としての高い格式を与えられました
8
。
西郷局への従一位追贈や壮大な宝台院の建立は、単に徳川秀忠の母への孝養の念の表れに留まるものではありませんでした。これらは、成立間もない徳川幕府の権威を内外に示し、将軍家の血筋の尊貴さとその神聖性を高めるための、重要な国家的な事業であったと解釈することができます。当時の日本は、豊臣家の影響力が依然として残り、大名の統制も道半ばという状況でした。そのような中で、将軍の生母を朝廷からの追贈によって手厚く顕彰し、壮大な菩提寺を建立することは、徳川家の文化的・宗教的権威を強化し、幕府の支配体制を盤石なものにする上で大きな効果があったと考えられます。
第五章:歴史的意義と遺産
本章では、西郷局が徳川家の歴史、特に初期の幕政安定に与えた間接的な影響や、史料における彼女の記述、そして現代に残る史跡についてまとめ、その歴史的評価を試みます。
第一節:秀忠生母としての影響
西郷局自身が直接政治の表舞台で活躍したという記録は乏しいものの、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の生母であるという事実は、彼女の存在自体に大きな歴史的意義を与えています。
-
西郷局の温和な人柄や家臣からの人望は、徳川家康の家庭内の安定に寄与し、ひいては初期の徳川家の結束に間接的に良い影響を与えた可能性があります
2
。家康が最も困難な時期を過ごした浜松時代を支えた彼女の存在は、家康にとって精神的な支柱の一つであったかもしれません。
-
徳川秀忠の人格形成において、実母である西郷局から直接的な影響を受ける期間は短かった(28歳説の場合)と考えられますが、伝え聞いた母の人柄や、母を失った経験が、彼の性格(律儀で実直、温和だが厳格といった評価
30
)に何らかの影響を与えた可能性は否定できません。
-
三代将軍・徳川家光の乳母であった春日局は、大奥の制度確立に深く関与し、幕政にも大きな影響力を持った人物として知られています
48
。彼女は家光の養育に深く携わり、将軍継承問題にも関与したとされます。
-
一方、西郷局は秀忠の生母ではありますが、秀忠がまだ幼い9歳か10歳の頃(28歳説の場合)に亡くなっているため、春日局のように長期にわたる直接的な養育や、政治的な影響力を行使する機会はなかったと考えられます。西郷局の役割は、主に家康の良き伴侶であり、次世代の将軍を産むという点に集約されるでしょう。この両者の徳川家における役割や影響力の違いを比較することで、西郷局の位置づけがより明確になります。
西郷局が秀忠の幼少期に早逝した(28歳説が有力)という事実は、秀忠の人格形成や、彼の時代の徳川政権の性格に、母の「不在」という形で影響を与えた可能性があります。母親の温情を十分に受けることなく育った経験が、秀忠の慎重で実直、時に厳格とも評される性格の一因となったのかもしれません。また、実母の庇護が早くに失われたことが、秀忠が父・家康の意向を忠実に守ろうとする姿勢や、後に正室となるお江の方との関係性にも、何らかの影響を及ぼした可能性が考えられます。
第二節:史料に見る西郷局
西郷局に関する記述は、同時代の記録から後世の編纂物に至るまで、様々な史料に見られます。それぞれの史料の性質を理解することが、西郷局の実像に迫る上で重要です。
-
江戸幕府の公式な歴史書であり、徳川家康(東照宮御実紀)や秀忠(台徳院殿御実紀)の治世を中心に編纂されています。西郷局については、主に秀忠の生母としての記述が見られますが、その人物評価や逸話の取捨選択には、幕府の公式見解や顕彰の意図が反映されていると考えられます
12
。
-
江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集であり、西郷氏や戸塚氏の項、あるいは徳川将軍家の系譜の中に、西郷局に関する記述が含まれる可能性があります。ただし、中山正清氏の研究によれば、西郷局に関する通説(例えば、三河西郷氏の養女となった経緯など)はこの時期に整理・完成されたものであり、その記述には史料批判的な検討が必要です
12
。
-
松平家忠(徳川家家臣)による同時代の日記であり、西郷局の死に関する記述は、一次史料として極めて高い価値を持ちます。しかし、前述の通り、その死因に関する記述の解釈は研究者の間でも分かれています
7
。
-
徳川将軍家の生母や側室の伝記を集めたもので、西郷局の享年を38歳とする説の主な根拠とされています。しかし、江戸時代後期に成立した編纂物であり、その記述内容には他の史料との矛盾が多く、信頼性には多くの疑問が呈されています
1
。
-
西郷局の従姉妹にあたる「お国」という女性が記したとされる文書群で、特に西郷局の父・戸塚忠春の実像や、西郷家の状況を明らかにする上で重要な一次史料に近い記録と評価されています。中山正清氏の研究により、その価値が再評価されています
14
。
これらの史料を比較検討すると、西郷局に関する情報は、それぞれの史料が成立した時代や編纂者の立場、目的によって、その内容や強調される点が異なることがわかります。例えば、同時代の断片的な記録である『家忠日記』は事件の速報性こそ高いものの、詳細な背景情報に乏しい場合があります。一方、幕府の公式記録である『徳川実紀』は、徳川家の正当性や将軍の権威を高めるという意図が反映されている可能性があります。また、『以貴小伝』のような後世の編纂物は、通説を形成する上で大きな影響力を持った一方で、その記述の正確性については慎重な検証が必要です。『お国文書』のような私的な記録は、公的な記録からは見えてこない、より実態に近い情報を提供してくれる可能性があります。このように、多様な性質を持つ史料群を総合的に分析することで、単一の「真実の西郷局像」を求めるのではなく、時代や立場によって異なる複数の西郷局像が重層的に存在することを理解することが重要です。
第三節:顕彰と関連史跡
西郷局の生涯は、死後も様々な形で記憶され、ゆかりの地には史跡が残されています。
-
西郷局の主要な菩提寺であり、墓所(廟塔)が現存します
1
。元は龍泉寺という名の寺院でしたが、西郷局の死後、徳川秀忠によって大規模に改修・拡張され、母の院号にちなんで宝台院と改名されました。
-
寺には、徳川家康自筆の画像や家康が父・広忠から譲り受けた太刀、家康の守り本尊であった快慶作の「白本尊阿弥陀如来立像」(重要文化財)など、徳川家ゆかりの貴重な品々が伝えられています
8
。
-
また、西郷局の肖像画も所蔵されているとされますが
16
、その制作年代や作者、様式などの詳細については、さらなる調査が望まれます。一般公開の状況についても、寺院への確認が必要です。
-
西郷局が生まれたとされる構江(こうえ)屋敷跡が伝えられています
1
。周辺には、図書屋敷跡や東門といった関連地名、西郷局の氏神の一つとされる弓箭八幡の小祠、父・戸塚忠春の位牌があったとされる観音寺跡などが残されています
16
。
-
掛川市では、西郷局を郷土の偉人として顕彰する活動が行われており、『西郷の局物語 お愛さま』という冊子も発行されています
6
。
-
徳川秀忠が誕生した際に産湯として使われたとされる井戸の伝説が残る史跡があります
10
。ただし、秀忠の出生地については浜松城内二の丸説など諸説あります
28
。
-
法泉寺(天龍寺)
: 西郷局の父・戸塚忠春の菩提寺とされ、家康や西郷局ともゆかりの深い寺院です
14
。
これらの史跡や伝承は、西郷局の死後、長い時間をかけて形成され、地域社会の中で記憶として継承されてきたものです。宝台院のように直接的な墓所や遺品が残る場所もあれば、生誕地や誕生の井戸のように伝承に基づいて顕彰されている場所もあります。これらの史跡や伝承は、必ずしも全てが厳密な史実に基づいているわけではないかもしれませんが、西郷局という人物が地域の人々にとってどのような存在であったか、あるいはどのように記憶され、評価されてきたかを示す貴重な手がかりとなります。特に、掛川市における顕彰活動は、現代における地域アイデンティティの形成と歴史上の人物の再評価という視点からも興味深い事例と言えるでしょう。
おわりに
本報告書では、徳川家康の側室であり、二代将軍秀忠の生母である西郷局について、現存する諸史料に基づいてその生涯と実像を多角的に検討してきました。
西郷局の出自については、父を戸塚忠春、母を三河西郷氏の娘とする点で多くの史料が一致しますが、父・忠春の経歴や没年、西郷局の最初の結婚の有無など、前半生には不明な点や諸説が多く存在します。特に、中山正清氏による『お国文書』の再評価は、通説であった戸塚忠春の早期戦死説に疑問を呈し、西郷局の出自に関する研究に新たな視点を提供しました。
徳川家康の側室となってからは、その美貌と温和誠実な人柄で家康の寵愛を受け、天正7年(1579年)に秀忠、翌年には忠吉という二人の男子を産みました。特に秀忠の誕生は、信康事件で後継者問題を抱えていた徳川家にとって大きな意味を持ちました。彼女はまた、強度の近眼であったと伝えられ、そのことから盲目の人々を助けたという慈悲深い逸話も残されています。
西郷局の死については、天正17年(1589年)5月19日に死去したことはほぼ確実視されていますが、その死没地(駿府説と浜松説)、享年(28歳説と38歳説)、そして死因(病死説、毒殺説、『家忠日記』の「喧嘩にて死去」説)については、史料の解釈が分かれ、確定的な結論は出ていません。しかし、史料批判的な検討からは、享年28歳説、死因については病死説が比較的穏当な解釈として考えられます。
死後、息子秀忠が将軍になると、従一位の追贈を受け、菩提寺である龍泉寺は宝台院と改称されて壮大な伽藍が建立されるなど、手厚い顕彰を受けました。これは、秀忠の母への敬愛の念と共に、徳川幕府の権威確立の一環としての意味合いも持っていたと考えられます。
史料解釈の変遷、特に『お国文書』の発見と再評価や、『家忠日記』の記述をめぐる論争は、西郷局研究に大きな影響を与えています。今後の研究課題としては、未発見史料の探索はもとより、既存史料のさらなる精密な読解、そして関連する考古学的調査などが期待されます。
西郷局は、政治の表舞台に立つことはありませんでしたが、家康の苦難の時代を支え、次代の将軍を生み育てるという重要な役割を果たしました。彼女の温和な人柄や慈悲深さは、激動の戦国時代から泰平の江戸時代へと移行する時期にあって、徳川家内部の安定に少なからず貢献した可能性があります。本報告書が、西郷局という一人の女性の生涯と、彼女が生きた時代の理解を深める一助となれば幸いです。そして、歴史の陰に埋もれがちな女性たちの多様な生き様とその意義について、改めて光を当てるきっかけとなることを願います。
引用文献
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家康の側室・於愛の方(西郷局)が辿った生涯|家康を支えた2代将軍・秀忠の母【日本史人物伝】
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由緒|【浄土宗金米山 宝台院】最後の将軍徳川慶喜公謹慎の地です
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ダンス時代劇「西郷の局~家康を魅了した、お愛さま」 - 掛川観光協会
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家康公の子どもたち - 岡崎おでかけナビ
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掛川城コラム 掛川城 家康 読本 公式WEB
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西郷の局・於愛の方 - 西郷の局(つぼね)、通称「於愛の方」のふるさと、静岡県掛川市西郷からお届けします。
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家康の散歩道|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松
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国史大系 第9巻 | NDLサーチ | 国立国会図書館
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徳川家康の側室は何人いたのか(戦国武将イラスト一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド
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『どうする家康』でも注目!家康の苦難の時代を支えた側室・於愛(おあい)の方のお墓
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NHK大河ドラマ『べらぼう』第13回放送の注目シーンは? - REVISIO株式会社
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篤姫も驚いた!? 大奥の意外なルール』をオンエア!! - SmaTIMES || smaSTAION!!
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設楽原決戦場のガイドポイント
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現代語訳 家忠日記 | 中川三平 |本 | 通販 | Amazon
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徳川 家康とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
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大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第36回 - note
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斬り合いの果て - researchmap
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西郷局の出自と構江屋敷についての一考案 -『お国文書』「先祖覚」の再評価を通じてー
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府中宿 エリア家康公の寵愛を受けた西郷の局(於愛の方)が眠る地 宝台院
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宝物|【宝台院】家康公の阿弥陀如来立像(国・重要文化財)や ...
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参 考 資 料 - 米原市
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鶴岡市歴史的風致維持向上計画(第2期)
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大磯海水浴浜辺景/明治24年「禱龍館繁栄之図」 旧大隈重信邸 旧池田成彬邸 旧陸奥宗光邸 旧 - 大磯町
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花筏 - 朗文堂
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(口絵1)ピエール・ボナール 《プロヴァンス風景》1932年 油彩
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法然 上人鍛仰会
http://www.jodo.ne.jp/pdf/2001-10.pdf
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平成 27 年度 - いわき市立 美術館年報
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−1− - 熊本大学五高記念館
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特別展「幕末日本と德川齊昭」 - 茨城県立歴史館
https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/notice99.pdf
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平成28年度 学位(博士)論文 - 大阪芸術大学大学院
https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/graduation-work/doctoral-dissertation/culture-no16-thesis.pdf
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資 料 編 - 長崎市
https://www.city.nagasaki.lg.jp/uploaded/attachment/9736.pdf
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博士論文 (学術) 越前若狭における渡来系伝承の研究
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/24051/files/k11820_repository.pdf
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史跡 | 出世 | 家康公の生涯をたどる | 武将愛 - SAMURAI HEART
https://busho-heart.jp/ieyasu/success/historic.html
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徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松
https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/place/spot/