九戸政実
~謀られ斬られた奥州の悲劇~
豊臣秀吉の天下統一に抵抗した九戸政実の乱。奥州の地で起きた悲劇の背景、九戸城攻防戦、謀略による最期、そして後世に語り継がれる鎮魂の物語を解説。
九戸政実 ~謀られ斬られた奥州の悲劇~
序章:悲劇の序幕 - 奥州仕置と最後の抵抗
天正19年(1591年)、豊臣秀吉による天下統一事業が最終局面を迎える中、奥州の北端で最後の、そして最も熾烈な抵抗の烽火が上がった。その中心にいたのが、陸奥国九戸城主、九戸左近将監政実である。彼の起こした反乱、後に「九戸政実の乱」と呼ばれるこの戦いは、単なる一地方豪族の反抗に留まらない。それは、中世以来の伝統と秩序が、天下統一という巨大な波に飲み込まれていく時代の大きなうねりの中で起きた、必然の悲劇であった。
この悲劇の根源は、九戸氏が属する南部一族の内部構造に深く根差していた。当時の南部氏は、宗家である三戸南部氏を盟主としながらも、八戸氏、九戸氏、七戸氏といった有力な一族がそれぞれ独立性を保ち、「郡中」と呼ばれる連合体を形成して統治を行う、いわば同族連合国家であった 1 。中でも九戸氏は、鎌倉時代から続く名族であり、室町時代の武将列伝では南部宗家と同列に扱われるほどの勢力を誇っていた 2 。九戸政実自身も、その家格と武勇から一族内で絶大な影響力を持っていたのである。
この微妙な均衡が崩れるきっかけとなったのが、南部氏第24代当主・南部晴政の死に伴う後継者問題であった。晴政の養子であった南部(石川)信直が、晴政の実子・晴継の急死後、九戸氏が推す実親を退けて半ば強引に家督を継いだことで、政実と信直の間には修復しがたい亀裂が生じていた 1 。政実にとって、信直は南部家の正統な後継者とは認めがたい存在であり、その統治に心服することはなかった 5 。
この南部家内部の燻る対立に、決定的な「外圧」として作用したのが、豊臣秀吉による「奥州仕置」であった。天正18年(1590年)、小田原征伐にいち早く参陣した信直に対し、秀吉は南部氏宗家としての地位を公的に認め、7郡にわたる所領を安堵する朱印状を与えた 1 。これにより、信直は中央権力と結びついた近世大名へと変貌を遂げ、これまで対等に近い立場であった九戸氏ら他の一族は、否応なくその「家臣」と位置づけられることになった 1 。政実にとって、これは到底受け入れられるものではなかった。彼の抵抗の根底には、「奥州とは無縁の人物に領土の口出しをされることに我慢がならない」という、土地に根差した在地領主としての強い自負心があったのである 2 。
中世的な在地領主の論理と、秀吉がもたらした近世的な中央集権体制との衝突は、もはや避けられなかった。天正19年(1591年)の正月、政実は宗家である三戸城への新年参賀を拒否。これは、信直との完全な決別を天下に示す、公然たる宣戦布告であった 7 。同年3月、政実は櫛引清長ら同調する者たちと共に5千の兵を挙げ、南部信直方の諸城を次々と攻略していく 7 。当初の戦いは政実方が優勢であり、独力での鎮圧が不可能と悟った信直は、6月9日に京へ上り、秀吉に謁見して援軍を要請するに至った 3 。ここに、南部家内部の紛争は、天下を揺るがす「最後の内乱」へと発展していくのである。政実の行動は、勝者の視点からは「反乱」と断じられるが、彼自身の胸中には、失われゆく伝統と秩序を守るための「義戦」であるという強い信念があった。彼の座右の銘であったと伝えられる「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉は、まさにこの時の彼の心境を物語っている 5 。
第一章:九戸城包囲 - 天下軍、北の要害に集結す
南部信直からの援軍要請と、奥州各地で頻発していた一揆の報を受け、豊臣秀吉は迅速かつ大規模な軍事行動を決定した。これは単なる九戸氏の討伐に留まらず、先の奥州仕置に不満を持つ東北の全勢力に対し、豊臣政権の絶対的な権威を最終的に見せつけるための「奥州再仕置」であった。
編成された討伐軍の陣容は、まさに天下軍と呼ぶにふさわしいものであった。総大将には秀吉の甥である関白・豊臣秀次が任じられ、徳川家康、前田利家、上杉景勝といった大御所が各方面軍を率いた 7 。軍監には浅野長政、そして実質的な現場指揮官として歴戦の猛将・蒲生氏郷が加わり、さらには伊達政宗、最上義光ら、つい先日まで奥州の覇を競っていた東北の諸大名も動員された 10 。その総兵力は6万、一説には6万5千にも達したと記録されている 2 。この戦いが、単なる軍事制圧以上の、高度な政治的パフォーマンスであったことは、遠く蝦夷地を治める蠣崎氏がアイヌの人々まで動員して参陣したという逸話からも窺える 2 。豊臣政権は、その圧倒的な軍事力を奥州の隅々にまで可視化することで、抵抗勢力を物理的に排除するだけでなく、この地の支配構造を心理的にも完全に再編成しようとしたのである。
これに対し、九戸政実が動員できた兵力はわずか5千 2 。兵力差は10倍以上という、絶望的な状況であった。しかし、政実には頼むべきものがあった。それは、本拠である九戸城の堅固さである。九戸城は、西に馬淵川、北に白鳥川、東に猫渕川と、三方を深い川に囲まれた天然の要害であった 4 。さらに、この一帯の粘着質な火山灰土を削り出して造られた、切り立つような崖(切岸)は、敵兵の侵入を物理的に不可能にする、まさに鉄壁の防御機構を形成していた 6 。政実は、この難攻不落の城に籠もり、天下の大軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
天正19年8月下旬、再仕置軍は南部領へと進軍を開始する。8月23日、九戸方の勇将・小鳥谷摂津守がわずか50名の寡兵で討伐軍の先鋒に奇襲をかけ、一時は480人もの敵に打撃を与えるという奮戦を見せたが 1 、大勢を覆すには至らなかった。圧倒的な兵力で押し寄せる豊臣軍の前に、9月1日、九戸城の前線基地であった姉帯城と根反城が相次いで陥落する 6 。
そして翌9月2日、ついに6万の大軍が九戸城を完全に包囲した。北門には南部信直・松前慶広、南門には蒲生氏郷・堀尾吉晴、東門には浅野長政・井伊直政、西門には伊達政宗ら東北の諸将が布陣し、蟻の這い出る隙間もない四方攻囲の陣を完成させた 7 。北の空の下、巨大な政治劇の舞台の上で、滅びゆく旧時代の象徴として、5千の籠城兵は天下軍と対峙することとなったのである。
表1:九戸城攻防戦 主要人物と時系列表 |
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日付(天正19年) |
九戸方の動向 |
豊臣・南部方の動向 |
1月 |
宗家・三戸城への新年参賀を拒否。事実上の決別を表明。 |
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3月13日 |
櫛引清長らと共に挙兵。南部信直方の諸城を攻略開始。 |
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6月9日 |
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南部信直、上洛し豊臣秀吉に謁見。援軍を要請。 |
6月20日 |
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秀吉、豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍の派遣を命令。 |
8月23日 |
小鳥谷摂津守が美濃木沢にて討伐軍に奇襲をかける。 |
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9月1日 |
前線基地の姉帯城・根反城が陥落。 |
討伐軍、姉帯城・根反城を攻略。 |
9月2日 |
九戸城に籠城。 |
討伐軍、6万の兵で九戸城を完全包囲。 |
9月4日 |
降伏勧告を受諾。剃髪・白装束で開城し、投降。 |
蒲生氏郷ら、謀略による降伏勧告を行う。政実らを捕縛。 |
9月4日以降 |
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城内に乱入し、残った城兵や女子供を撫で斬りにしたと伝わる。 |
9月20日 |
宮城県三迫にて、主だった武将らと共に斬首される。 |
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第二章:降伏勧告 - 苦渋の決断とその裏側
九戸城を包囲した6万の天下軍であったが、その攻勢は予想外の困難に直面した。城の堅固な守りは想像を絶し、力攻めを仕掛ける豊臣方に多くの死傷者が続出したのである 2 。季節は初秋を迎え、このまま冬を迎えれば、大軍の兵糧維持は困難となる 3 。焦りを募らせた蒲生氏郷や浅野長政ら現場の指揮官たちは、武力による制圧から、謀略による開城へと戦術を転換することを決断した 2 。
彼らが用いたのは、九戸政実の武人としての倫理観、そして信仰心を巧みに利用する、極めて非情な心理戦であった。使者として白羽の矢が立てられたのは、九戸家代々の菩提寺である長興寺の住職、薩天和尚であった 2 。敬虔な仏僧であり、政実からも深く信頼されているであろう人物を介することで、交渉の信憑性を高めようという狙いである。薩天和尚自身は、これが謀略であるとは露知らず、純粋に戦を止め、人々を救いたい一心でこの大役を引き受けたと伝えられている 13 。
和尚が携えた降伏勧告の条件は、政実の心を揺さぶるに十分な内容であった。複数の伝承によれば、その内容は「政実殿の武勇は天下に聞こえている。これ以上の戦いは無益。降伏開城すれば、城内の兵はもちろん、婦女子の命は保証する」 12 、あるいは「反乱についての弁明の機会を関白殿下(秀次)の前で与える」 2 というものであった。いずれも、政実個人の名誉を立てつつ、彼が最も守りたかったであろう城兵とその家族の命を救うという大義名分を提示するものであった。
この勧告を受け、城内では最後の評議が開かれた。すでに兵糧は尽きかけており、これ以上の籠城は全ての将兵と家族を飢えさせるだけという現実は誰の目にも明らかであった 5 。しかし、敵の言葉を鵜呑みにすることへの警戒心も強かった。江戸時代の軍記物『南部根元記』によれば、この時、政実と共に籠城していた弟の実親が、「兄上、これは敵の策略にございますぞ。決して信用してはなりませぬ」と、涙ながらに諫言したという 9 。
実親の言葉は、冷徹な現実を見据えた正論であったかもしれない。しかし、政実は別の道を選んだ。城兵とその家族の命を救うという、将として、人としての道である。伝承によれば、政実はこの時、こう言い放ったという。「皆の命を救えるとあらば、勇んでこの首差し出そうではないか!」 4 。これは、自己の運命を悟った上での、悲壮な自己犠牲の決断であった。政実が依拠した中世的な武士の倫理観――すなわち、主従の絆、民を慈しむ心、そして菩提寺の僧侶の言葉を信じるという敬虔さ――は、目的のためには手段を選ばない豊臣政権の近世的な政治的合理性の前では、あまりにも無力であった。
天正19年9月4日、九戸城の城門が静かに開かれた 3 。門から現れたのは、武人としての生を終え、仏門に入ることを示す剃髪姿となり、死に装束である白装束を身にまとった九戸政実と、主だった将たちの姿であった 2 。彼らは静かに武器を置き、天下軍の前に進み出た。それは、一つの時代の倫理観が、より冷徹な新しい時代の論理によって打ち砕かれる、象徴的な瞬間であった。
第三章:謀略 - 約束の反故と二の丸の惨劇
九戸政実らが投降し、その身柄が捕縛された瞬間、豊臣軍が交わした約束は一片の反故と化した 12 。開かれた城門から、待ち構えていた寄せ手が堰を切ったように城内へと雪崩れ込み、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。
後世に編まれた軍記物やこの地に伝わる伝承は、その惨状を克明に描いている。抵抗する術を持たない城兵たちはもちろんのこと、城に避難していた何の罪もない女子供までもが、二の丸へと追い込まれていった 2 。そして、そこで豊臣軍は人としての道を外れた殺戮を開始する。二の丸に火が放たれ、逃げ惑う人々は鉄砲や弓矢、さらには毒矢まで用いて無差別に射殺された 2 。この凄惨な「撫で斬り」によって流れた血と炎は、「三日三晩夜空を焦がした」とまで言い伝えられている 1 。この徹底的な殲滅は、豊臣政権が反抗勢力に対して取る苛烈な方針を象徴するものであった。秀吉が肥後国人一揆の際に発した「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」という命令は、ここ奥州の地でも忠実に実行されたのである 15 。
しかし、この地獄のような光景は、あくまで「敗者の記憶」として語り継がれた物語である。事件に関する唯一の一次史料、すなわち「勝者の記録」とされる軍監・浅野長政が9月14日付で発した書状には、全く異なる情景が記されている 6 。そこには、「九戸城を塀際まで攻め寄せたところ、九戸(政実)が髪を剃って降参してきた。その妻子ともども秀次公の陣所へ送り届けた。その他の悪事を働いた者どもは、ことごとく首を刎ね、その首級150余りを秀次公に進上した」とある 6 。この公式報告書に従えば、政実はあっけなく降伏し、処刑は反乱の首謀者たちに限定され、女子供を含む無差別な大虐殺は行われなかったことになる。
「勝者の記録」と「敗者の記憶」の間に横たわるこの深い溝は、歴史の真実がいかに多層的であるかを示している。浅野長政の書状は、上官である秀吉への報告として、自らの軍功を際立たせ、無用な残虐行為を隠蔽する政治的な意図があった可能性は否定できない。一方、軍記物や伝承は、事件の衝撃と悲劇性を後世に伝えるための「物語」として、勝者の非道と敗者の悲運をより劇的に描く傾向がある。
この論争に、近年、沈黙の証言者が現れた。九戸城跡の発掘調査である。調査の結果、二の丸跡の土中から、刀傷のある人骨や、頭部のない人骨が10数体発見されたのである 6 。中には、幼児や老人を含む男女の人骨も確認された 6 。これらの人骨は、伝承が語るような大規模な撫で斬りを直接証明するには数が少ないかもしれない。しかし、これらは間違いなく、この城で凄惨な殺戮行為があったことを示す動かぬ「物理的な証拠」である。浅野長政の書状が隠蔽した暴力の痕跡が、数百年もの時を経て、土の中から現れたのである。九戸城の悲劇は、歴史がいかにして記録され、記憶され、そして時には隠蔽されるかを示す、生々しい実例と言えよう。
表2:九戸城落城に関する記述の比較 |
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比較項目 |
一次史料(浅野長政書状) |
後世の軍記物・伝承(『南部根元記』等) |
降伏の経緯 |
「塀際まで攻め寄せたところ、髪を剃って降参してきた」(あっけない降伏) |
「偽りの和議を受け入れ開城」(謀略による降伏) |
九戸政実の処遇 |
「妻子ともども秀次公の陣所へ送り届けた」 |
「捕縛され、後に斬首」 |
城兵・家族の処遇 |
「その他の悪徒人共はすべて首を刎ね、首級150余り」 |
「二の丸に追い込み、女子供かまわず撫で斬り。火をかけた」 |
第四章:斬首 - 奥州の雄、三迫に散る
九戸城での惨劇の後、捕らえられた九戸政実と、弟の実親、そして最後まで運命を共にした櫛引清長ら主だった武将たちは、総大将・豊臣秀次の本陣が置かれていた栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)へと護送された 1 。それは、故郷の地を二度と踏むことのない、最後の旅路であった。護送の道中、政実は自らの死を静かに覚悟していたと伝えられている 5 。
一行は天正19年9月17日、三迫にある上品寺に到着し、しばし留め置かれた 17 。そして運命の日、9月20日、政実らの処刑が執行された 9 。場所は、上品寺の南東に位置する丘、あるいは稲屋敷と呼ばれる地の丘であったとされる 18 。
その最期の様子は、対照的な二人の武将の姿として語り継がれている。共に反旗を翻した盟友・櫛引清長は、処刑の場においても怒りが収まらず、最後まで南部信直への罵詈雑言を叫び続けたという 17 。一方、九戸政実は少しも取り乱すことなく、従容として(いさぎよく)刑に服したと伝えられている 17 。享年56歳であった 20 。
政実が辞世の句を残したという記録はない 5 。しかし、彼の最期の心情を伝える二つの言葉が、後世に語り継がれている。一つは、「我が信じた道を貫いた。悔いはない」という言葉 5 。これは、彼の決起が、主君・信直個人への私怨ではなく、南部家そのものの伝統と、奥州の地に生きる人々への忠義を貫くためのものであったという信念の表明であった 5 。たとえ天下から「叛臣」の汚名を着せられようとも、自らの信じる「義」に殉じたことに一片の悔いもないという、武人としての誇りが込められている。
もう一つは、残される家族や家臣に諭したとされる「恨みを残すな」という言葉である 5 。これは、個人的な怨恨の連鎖を断ち切り、次の世代が新しい時代の中で明るい未来を築くことを願う、大将としての器の大きさを示す逸話である。
武士にとって、「いかに死ぬか」は「いかに生きたか」の総決算であった。政実の静かな最期に関するこれらの伝承は、彼を単なる敗者ではなく、自らの信念に殉じた「義士」として記憶するための物語装置として機能した。これにより、彼の死は物理的な敗北を超え、道徳的な勝利として語り継がれる土壌が生まれたのである。それは、日本人が古来より持ち続ける、悲劇の英雄に寄り添う「判官贔屓」の精神の現れでもあった。
終章:九戸落ちの怨念 - 語り継がれる悲劇と鎮魂の軌跡
九戸政実の非業の死と、九戸城で繰り広げられた惨劇は、謀略によって引き裂かれた武将の無念の魂として、この地に深く刻み込まれた。こうして、「九戸落ちの怨念話」として知られる数々の伝承が生まれることとなる。
物語は、まず処刑の地、宮城県栗原市から始まる。この地には、斬首された政実らの首を洗い清めたとされる「首級清めの池」が今も国道脇に残り、訪れる者に悲劇の記憶を静かに語りかけている 17 。また、処刑された主従を哀れんだ村人たちが、その墓標として一本の椿を植えて供養したという言い伝えも残っており、その椿は今も慰霊碑の傍らで花を咲かせている 18 。
政実の魂は、単に供養されるだけでなく、時を経てより能動的にその存在を示した。明治時代、遠田郡に住む一人の行者の夢枕に政実が現れ、「荒れ果てた我が塚を探し出し、供養してほしい」と告げたという 19 。お告げに従い、行者が草むらの中から塚を発見し、その地に建立したのが、現在の「九ノ戸神社」である 17 。これは、政実の怨霊が人々による鎮魂を経て、地域を守る神へと昇華されたことを示す典型的な御霊信仰の形であった。
一方で、政実の故郷である岩手県の九戸・二戸地方には、全く異なる形の鎮魂の物語が伝わっている。それは、忠義の家臣による、主君の魂の奪還劇である。家臣の一人、佐藤外記が、処刑後に乞食の姿に身をやつして敵地である三迫に潜入し、厳重な警備をかいくぐって主君・政実の首級を密かに盗み出し、故郷の地まで持ち帰ったという壮絶な伝承である 20 。
外記の命懸けの忠義によって故郷に還った政実の首は、九戸村の山中に手厚く葬られた。そこは現在、「政実公の首塚」として地域の人々によって大切に守られている 21 。この首塚の存在は長く一部の村人の間で秘かに伝えられてきたが、昭和51年(1976年)の調査によって正式に確認され、今では供養塔も建てられている 21 。
これら二つの土地に残る伝承は、単なる怪談や美談ではない。それは、暴力によって引き裂かれた政実の「身体(処刑地・栗原)」と「魂(故郷・九戸)」を、後世の人々が物語の力によって再び一つに統合しようとする、壮大な文化的試みであった。栗原の伝承が「死と怨念」という暴力の記憶の鎮魂であるのに対し、九戸の伝承は「忠義と帰郷」という抵抗の記憶の顕彰である。佐藤外記の物語は、物理的には叶わなかった政実の無念の帰郷を、象徴的なレベルで成就させた。これにより、人々は歴史の非情な結末を受け入れつつも、その中に救いと道徳的な意味を見出し、地域の誇りとして未来へ語り継ぐことが可能になったのである。「九戸落ちの怨念話」とは、歴史の深い傷を癒し、共同体の記憶を未来へと繋ぐための、力強い鎮魂歌なのである。
引用文献
- 九戸政実の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
- 岩手県二戸市・中世の終焉:秀吉に抗して散った 名将 九戸政実の乱 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11060582
- 秀吉の天下統一最後の相手「九戸政実」の城だった九戸城の物語 https://colors-style.com/articles/458
- 九戸政実(くのへ まさざね) 拙者の履歴書 Vol.151~義に殉じた叛臣 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf65a22bd17cf
- 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/2318
- 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再 ... https://sengoku-his.com/122
- 九戸政実・天下人に盾ついて負け戦にあえて挑む! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=N99CtGolhJ4
- 寄稿 『南部一族の歴史とそのゆかりの城』斎藤秀夫|米沢日報 ... https://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2020-13%20nanbu%20family/nanbu_family.html
- 九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%94%BF%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1-1161130
- 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
- 九戸政実 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/251.html
- 九戸政実と豊臣秀吉-奥州再仕置 http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/kunohejo/masazane-hideyosi.html
- 「九戸政実」分家ながら南部宗家と並ぶ家柄。天下人秀吉と南部宗家に挑んだ男! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/40
- No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html
- 伊加古 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/672/jinbutsu.pdf
- 九ノ戸神社(三迫) - 北奥三国物語 https://www.goemonto.rexw.jp/kunohejinja01.html
- 九戸政実 首級清めの池/九ノ戸神社 - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/6872/
- 【九戸政實】首級清めの池と九ノ戸神社 - もとじろう旅ブログ https://sendai-deep.hatenablog.com/entry/2021/11/28/160230
- 九戸政実とは 豊臣秀吉天下統一最後の相手 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/kenpoku/nino_chiiki/1053577/1053578/index.html
- 政實公の首塚 - 九戸村 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/235.html