井伊直政
~関ヶ原で赤備え率い先鋒務~
関ヶ原合戦で家康の先鋒を務めた井伊直政。軍令を破り戦端を開き島津隊追撃で重傷を負う。この傷が元で1年半後に死去した「赤鬼」の栄光と悲劇の生涯に迫る。
関ヶ原、赤鬼の軌跡 ― 井伊直政、先駆けから被弾までの全貌
序章:払暁の関ヶ原、立ち込める霧の中で
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。天下分け目の決戦を迎えんとするこの地は、払暁から小雨が降りしきり、深い霧が立ち込めていた。史料によっては「十五間(約27m)先も見えない」と記されるほどの濃霧であり、視界は著しく遮られていた 1 。この自然が作り出した帳は、後に起こる歴史的な軍令違反に、絶好の舞台装置を提供することになる。
午前6時から7時にかけて、東西両軍は布陣を完了した。西軍は笹尾山に石田三成、南宮山に毛利秀元、そして松尾山には小早川秀秋を配し、東軍を包み込むかのような鶴翼の陣を形成する 2 。対する東軍は、徳川家康を総大将とし、関ヶ原盆地の中央に魚鱗の陣を敷き、西軍主力を正面に見据えていた 2 。両軍合わせて十数万の大軍が、息を殺して対峙し、戦場の緊張は極限にまで高まっていた 3 。
この東軍の最前線には、極めて繊細な政治的配慮によって生まれた二重構造が存在した。公式な先鋒の大役を任されたのは、豊臣恩顧の猛将・福島正則である 3 。彼は石田三成と深く対立しており、自ら先鋒を願い出て家康に認められていた 2 。豊臣恩顧の大名が先陣を切ることは、この戦いが徳川による天下簒奪ではなく、あくまで豊臣家中の奸臣・石田三成を討つという大義名分を保つ上で不可欠であった。家康が豊臣恩顧の大名を前面に押し出したのは、日和見を決め込む諸将を東軍に引き留めるための、計算され尽くした戦略であった。
しかし、そのすぐ側には、もう一人の「事実上の先鋒」が控えていた。徳川四天王の一人、「井伊の赤鬼」の異名で恐れられる井伊直政である。彼のこの場での公式な役割は、家康の四男であり、自身の娘婿でもある松平忠吉の後見役(軍監)であった 5 。井伊・松平隊は福島隊のやや後方、現在のJR関ヶ原駅付近に布陣していたが、実質的には最前線グループの一角を占めており、いつでも前線に躍り出られる位置にいた 2 。
この配置こそ、家康の深謀遠慮の表れであった。建前上は豊臣恩顧の福島正則を立てつつも、本音では天下分け目の戦の口火を、徳川譜代の、それも最も信頼する将に切らせたい。この「建前」と「本音」の狭間で、井伊直政は単なる後見役ではなく、徳川の意志を体現し、戦端を開くという重大な密命を帯びた存在として、濃霧の中に静かに佇んでいたのである。物理的な「霧」は、これから直政が演じる政治的な「掟破り」を覆い隠し、それを「偶発」として語るための、またとない言い訳を用意していた。
第一章:掟破りの一閃 ― 開戦の火蓋はなぜ切られたか
静寂と緊張が支配する戦場において、その均衡を破ったのは、徳川家康が最も信頼を寄せる猛将、井伊直政の行動であった。それは単なる武功への焦りではなく、戦いの主導権を徳川の手に引き寄せるための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。
第一節:福島隊との対峙 ― 「物見」という名の突破口
午前8時前、膠着状態が続く中、突如として動きがあった。井伊直政は松平忠吉を奉じ、朱色で統一された精鋭部隊「井伊の赤備え」の中から、わずか50騎ほどの手勢を率いて前進を開始した 3 。その進路は、東軍先鋒である福島正則隊の側面をすり抜けるように、西軍の宇喜多秀家隊へと向かっていた 4 。
この軍令に反する動きを、福島隊の将・可児才蔵が見咎めた。彼は先鋒の面目を守るべく、槍を構えて直政らの行く手を阻み、鋭く言い放った。「ここから先は通すわけにはいかない」 3 。軍監として当然の制止であり、一触即発の空気が流れた。
しかし、直政は臆することなく、冷静に、そして誰もが反論しがたい口実を述べた。「これは松平忠吉様の初陣である。戦の様子を一目見せてやりたいと思い、物見(偵察・見学)に出ただけだ。決して先陣を争うつもりはない」 9 。主君の息子であり、これが初陣であるという若者の「物見」を、誰が止められようか。これを拒めば、忠吉、ひいては家康本人の顔に泥を塗ることになりかねない。さらに、率いているのが本隊の3,000ではなく、わずか50騎という寡兵であることも、「物見」という口実の信憑性を高めていた 3 。可児才蔵は、それ以上強く制止することができなかった。これは、相手の立場と軍の常識を巧みに逆手に取った、直政の高度な政治的駆け引きであった。
第二節:抜け駆けの多角的解釈 ― 偶発か、必然か
この歴史的な「抜け駆け」の意図については、複数の説が存在する。
一つは、 偶発説 である。当日は深い霧が立ち込めており、物見のつもりで前進したところ、意図せず西軍の宇喜多隊と至近距離で遭遇し、やむなく戦闘に至ったという見方である 1 。戦後、福島正則から公式な抗議がなかったのは、この偶発性が認められたためだと解釈される 3 。
二つ目は、 家康黒幕説 である。この行動は家康の密命であり、天下統一を懸けた象徴的な戦いの口火を、外様大名である福島ではなく、徳川一門の忠吉と譜代の重臣である直政に切らせることに、政治的な意味を見出していたとする説である 11 。
三つ目は、 直政独断説 である。直政自身が「この戦は、われらの戦である」という強い意志を持ち、徳川家が主体となって勝利を掴むために、あえて軍令違反という汚れ役を買って出たとする見方である 12 。当時の武士の価値観では、軍令違反は法度とされつつも、臆病者と謗られるよりは、積極的に手柄を立てようとする行動が賞賛される側面もあった 13 。直政の行動は、この価値観に根差したものであった可能性も否定できない。
いずれの説が真実であったにせよ、直政の行動が、この後の戦局を決定づける引き金となったことは間違いない。
第三節:轟音、そして開戦
可児才蔵とのやり取りを終え、前進を許された直政・忠吉隊は、西軍最大の17,000の兵力を誇る宇喜多秀家隊の陣前に到達すると、一斉に鉄砲を撃ちかけた 2 。慶長5年9月15日午前8時過ぎ、関ヶ原に響き渡ったこの銃声が、天下分け目の戦いの始まりを告げる合図となった 14 。
この轟音は、即座に連鎖反応を引き起こした。先鋒の栄誉を目前で奪われた福島正則は激怒し、「井伊に先陣を越されたからには、これ以上遅れを取るものか」と、即座に宇喜多隊へ全軍で突撃を開始した 2 。この猛攻を皮切りに、藤堂高虎、京極高知らは大谷吉継隊へとなだれ込み、他の東軍諸将も堰を切ったように西軍各隊へ攻撃を開始。それまでの静寂が嘘のように、関ヶ原は一瞬にして激戦の坩堝と化した 7 。
直政の抜け駆けは、単に「徳川が先陣を切った」という事実を作っただけではなかった。結果として、最も血気盛んな福島正則の闘争心に火をつけ、東軍全体の攻撃意欲を爆発させる起爆剤となったのである。もし睨み合いが長引いていれば、南宮山の毛利勢が動くなど、西軍に有利な状況が生まれていたかもしれない。直政の行動は、戦場の膠着状態を破壊し、東軍が勢いに乗る乱戦へと引きずり込むという、戦術的にも極めて大きな意味を持つ一撃だったのである。
第二章:死闘、島津の退き口 ― 鬼気迫る追撃戦
開戦から約6時間後、松尾山の小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、東軍の勝利は決定的となった 14 。敗走する西軍の将兵を東軍が追撃する中、ただ一隊、異常なまでの戦意を保ち、凄絶な撤退戦を敢行した部隊があった。島津義弘率いる薩摩の兵たちである。
第一節:敵中突破 ― 島津義弘の決断
石田三成らが敗走し、周囲を完全に東軍に包囲される中、島津義弘の部隊は孤立した 16 。兵力は僅か300から1,000程度であったとされる 17 。降伏も、他の部隊のように散り散りに逃げることもせず、義弘は驚くべき決断を下す。それは、敵の最も手薄な箇所、すなわち家康の本陣が存在する正面への一点突破であった 17 。
島津隊は、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術を用いた。これは、退路を確保するために、小部隊がその場に留まって追撃軍を足止めし、弾薬が尽きるか全滅するまで戦い続けるという、文字通り命を捨てる戦法である 18 。この鬼気迫る抵抗により、東軍の多くの将は追撃を躊躇した。
第二節:赤鬼、最後の猛追
しかし、この危険極まりない島津隊に、執拗に食らいつく部隊があった。井伊直政と松平忠吉の部隊である。なぜ直政は、多大な犠牲を払いながら撤退する島津隊を深追いしたのか。通説では家康の厳命があったとされるが 9 、西軍の敗走を受けて先手の諸将が競って追撃に移る中、直政もまた「負けじと前進した」結果、島津隊と正面から衝突したという見方も存在する 9 。また、後見役として、娘婿である忠吉に手柄を立てさせたいという強い意識が働いたことも想像に難くない。
追撃戦は、伊勢街道の難所である勝地峠付近で最も激しくなった 19 。捨て奸の猛烈な抵抗により、東軍も多大な損害を被る。この激戦の最中、松平忠吉も島津方の兵に組み伏せられ、負傷している 18 。だが、直政は怯むことなく、赤備えを率いてなおも島津隊の背後に迫った。
第三節:運命の一弾 ― 史料が語る異なる「真実」
追撃戦のクライマックス、直政を悲劇が襲う。島津隊の鉄砲隊が放った一弾が、彼の身体を捉えたのである。この被弾の瞬間については、誰が、どこで、どのように撃ったのか、立場によって全く異なる「真実」が記録されており、歴史の多面性を如実に物語っている。
徳川方の史料である『慶長記』では、直政が「是非兵庫頭(義弘)とくみ候はん」と、島津義弘本人と組み合おうと馬を乗り回している最中、五間(約9m)という至近距離から狙撃されたと記されており、彼の勇猛さを強調する 9 。
一方、島津方の史料には、より具体的で劇的な描写が見られる。『惟新公関原御合戦記』では、伊勢街道を南下する島津隊を追尾してきたところを銃撃され、落馬したとされる 9 。また、筆者不詳の島津方書上では、義弘が退却に移る前、本陣近くに現れた直政を指し、「彼の武者を撃ってみよ」と名手・大野正三郎に命じて狙撃させたとある 9 。
中でも最も詳細なのが、義弘の側近であった帖佐宗辰の覚書『帖佐彦左衛門宗辰覚書』である。それによれば、義弘の本陣前に馬を乗り入れ、「どうして手間どっている。兵庫(義弘)を打て」と大音声で叫んだ直政に対し、川上四郎兵衛の配下である柏木源藤が進み出て、その「胸板上巻」を撃ち抜き、直政は馬から下にどっと落ちたとされる 9 。
これらの記述の相違は、単なる記憶違いや伝聞の誤りではない。それぞれの立場が、自らの名誉を最大化するための「物語」を構築した結果と見るべきである。島津方にとっては、敵の猛将を撃退した武勇伝として、柏木源藤や大野正三郎といった英雄の名と共に具体的に語る必要があった。徳川方にとっては、直政が敵の大将に肉薄した末の栄誉の負傷という物語が必要だったのである。
なお、井伊家の史料『井伊慶長記』によれば、銃弾は鎧の右脇に当たったが、鎧が頑丈であったため貫通せず、跳ね返った弾が右腕に命中したという。直政はこの激痛に耐えきれず、手にしていた槍を落とし、苦痛のあまり落馬したと記録されている 9 。
以下に、これらの諸説をまとめる。
【表1:井伊直政被弾の状況に関する諸説比較】
史料名(所属勢力) |
狙撃者とされる人物 |
被弾した場所・状況 |
備考 |
『惟新公関原御合戦記』(島津方) |
(特定せず) |
伊勢街道を南下中、追尾してきたところを銃撃され落馬。 |
追撃戦の最中での出来事として記述。 |
『慶長記』(徳川方) |
(特定せず) |
島津義弘本人と組もうと馬を乗り回している最中、至近距離(五間)から狙撃。 |
直政の積極的な攻撃姿勢を強調。 |
筆者不詳の島津方書上 |
大野正三郎 |
義弘が退却に移る前、小関村の本陣近くで、義弘の命令により狙撃。 |
狙撃の名手による計画的な迎撃として記述。 |
『帖佐彦左衛門宗辰覚書』(島津方) |
柏木源藤 |
義弘の本陣前に乗り込んできたところを、胸板上部を撃たれ落馬。 |
最も具体的かつ劇的な状況描写。 |
『井伊慶長記』(井伊家) |
(特定せず) |
(被弾箇所について)銃弾は鎧の右脇に当たり、貫通せず右腕に命中。 |
負傷の具体的な内容を記録。 |
この一弾により、東軍の追撃は事実上停止した。井伊直政という最大の脅威を退けた島津義弘は、多大な犠牲を払いながらも、故郷薩摩への生還を果たすのである。
終章:関ヶ原の傷跡 ― 赤鬼、最後の奉公
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わったが、井伊直政にとって、その戦いはまだ終わっていなかった。戦場で得た栄光の裏で、彼の身体は死へと向かう傷を深く刻まれていたのである。
戦後の論功行賞と多忙な日々
右腕に受けた銃創の痛みに耐えながら、直政は休む間もなく戦後処理の中心人物として奔走した 15 。特に、西軍の総大将でありながら戦に参加しなかった毛利輝元との講和交渉においては、その外交手腕を遺憾なく発揮し、毛利家の改易を回避させるという多大な功績を挙げた 20 。開戦の口火を切り、島津を追撃した武勇だけでなく、戦後処理における政治的手腕もまた、彼が家康にとって不可欠な存在であったことを示している。
これらの功績により、直政は徳川家臣団の中で最高の恩賞を受ける。石田三成の旧領である近江佐和山18万石を与えられ、名実ともに徳川第一の功臣となった 6 。
癒えぬ傷、そして死
しかし、栄光の絶頂にあった直政の身体は、関ヶ原で受けた一弾によって確実に蝕まれていた。佐和山城に入った後も傷は快方に向かわず、彼は病床に伏すことが多くなった 22 。
そして、関ヶ原の戦いからわずか1年半後の慶長7年(1602年)2月1日、井伊直政は佐和山城でその生涯を閉じた。享年42歳 6 。その死因は、関ヶ原で受けた銃創がもとになった破傷風、あるいは銃弾による鉛中毒であるとする説が有力であり、戦後処理の激務による過労がそれに拍車をかけたとされる 15 。
井伊直政の関ヶ原における一連の行動は、彼に最大の栄光をもたらした。掟破りの抜け駆けは徳川の勝利を決定づける口火となり、鬼気迫る島津追撃は「井伊の赤鬼」の勇猛さを天下に知らしめた。しかし、皮肉にも、その勇猛さの象徴である追撃戦で受けた一発の銃弾が、結果的に彼の命を奪ったのである。もし彼が他の将のように追撃を躊躇していれば、あるいは軍令を遵守していれば、もっと長生きし、徳川幕府の黎明期においてさらに大きな役割を果たしたかもしれない。だが、それでは「井伊の赤鬼」の伝説は完成しなかったであろう。
彼の早すぎる死は、関ヶ原での武勇伝に悲劇的な結末を与えることで、彼の苛烈な生涯を象徴する逸話を完結させた。関ヶ原での一日は、井伊直政という武将の栄光と死の両方を決定づけた、まさに彼の人生そのものを凝縮した一日だったのである。
引用文献
- 東軍 井伊直政/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41108/
- 福島正則コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/fukushima-masanori/
- わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を ... https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/
- 特集 西美濃歴史めぐり ―関ケ原合戦編― 第弐章(2ページ目) https://www.nisimino.com/nisimino/tokusyu/1008-2/index2.shtml
- 敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/shimazunonokiguchi/
- 美濃 松平忠吉・井伊直政陣(東軍) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mino/sekigahara-matsudairatadayoshi-jin/
- 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
- 可児 才蔵とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%8F%AF%E5%85%90+%E6%89%8D%E8%94%B5
- 『どうする家康』徳川四天王・井伊直政は関ケ原のどこで狙撃されたか? - Newsクランチ! https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/4858
- 「井伊直政」家臣に厳しすぎるのが玉にキズ!? 武田軍団の赤備えを引き継いだイケメン名将 https://sengoku-his.com/559
- 井伊直政-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44331/
- 徳川家康と井伊直政|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/n59daa3f80766
- 井伊直虎・直政そして忠直卿ー武辺徒然草ー | iimuseum https://www.ii-museum.jp/blank-74
- 井伊直政は何をした人?「抜け駆け上等の赤備えが関ヶ原で家康に天下を取らせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/naomasa-ii
- 井伊直政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34813/
- 関ヶ原の戦いを制したのは「火力」より「決断」だった 鉄砲に裏切り…勝敗を分けた意外なポイント|戦国武家の死生観|フレデリック・クレインス - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/27776/
- 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
- 島津の退き口の「小返しの五本鑓」、関ヶ原で猛追撃を食い止める - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/10/04/171459
- 関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・2 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7190
- 井伊直政 滋賀の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-naomasa/
- 井伊直政 家康に愛された猛将の不審死 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1634/
- 【徳川四天王】BLで16万石ゲット!家康から最も寵愛を受けた「井伊直政」の最期 https://www.miyabi-sougi.com/topics/f3eb7cca6eb48ed9ae6f19e3369283dd87942ef4
- 井伊直政(いい なおまさ) 拙者の履歴書 Vol.225~赤備えと共に生きた生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf5e9ec68ca27
- 徳川四天王の『赤備え』井伊直政。『赤心』で家康に仕えた直政の生涯に迫る! | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10016/