北条早雲
~伊豆討入りで火牛の計使う~
北条早雲の「火牛の計」伝説を深掘り。軍記物の描写から史実性、そして明応地震・津波災害利用説まで、多角的に考察し、伝説の多層的な全体像を提示。
北条早雲「火牛の計」の深層分析:軍記物の描写から史実性の検証、そして災害利用説まで
序章:小田原城下に轟く牛の嘶き ― 伝説の幕開け
戦国時代の幕開けは、旧来の権威が失墜し、実力ある者が成り上がる「下剋上」の時代の到来を意味した。その魁として、後世に強烈な印象を刻んだ人物が、伊勢宗瑞、後の北条早雲である。彼の生涯は数々の伝説に彩られているが、その智将としての名を不動のものとし、後北条氏百年の繁栄の礎を築いたとされるのが、小田原城奪取の際に用いたとされる奇計「火牛の計」である 1 。
この逸話は、千頭もの牛の角に松明を括りつけ、闇夜に大軍の夜襲と見せかけて堅城を陥落させたという、劇的な計略として語り継がれてきた。それは単なる軍記物語の一場面に留まらず、早雲の非凡な才覚を象徴する「創業者神話」として機能し、彼の人物像を決定づける上で不可欠な要素となっている 3 。しかし、この鮮烈な物語の背後には、史実と創作、そして近年浮上した新たな解釈が複雑に絡み合っている。
本報告書は、この北条早雲の「火牛の計」という一つの逸話に焦点を絞り、徹底的な解剖を試みるものである。まず、利用者様の要望に応じ、軍記物が描く物語を時系列に沿って臨場感豊かに再現する。次に、その計略の源流をたどり、早雲の人物像形成に与えた影響を分析する。さらに、歴史学的な視点から逸話の史実性を厳密に検証し、それがなぜ生まれ、語り継がれる必要があったのかを探る。そして最後に、この伝説に全く新しい光を当てる「明応地震・津波災害利用説」を深く掘り下げ、逸話の多層的な全体像を提示することを目的とする。
第一章:軍記物に描かれる「火牛の計」― 活劇としての小田原城奪取
後代に成立した『相州兵乱記』や『北条記』といった軍記物語は、早雲による小田原城奪取を一つの活劇として描き出している。そこには、周到な準備、大胆な計略、そして劇的な結末が、あたかも眼前に繰り広げられるかのように描写されている。
第一幕:静かなる布石 ― 信頼の醸成
物語は明応四年(1495年)、伊豆一国を平定した伊勢宗瑞(早雲)が、次なる目標として相模国の中核、小田原城に狙いを定める場面から始まる 4 。当時の城主は、扇谷上杉家に属する大森藤頼。早雲は力攻めではなく、まず藤頼の警戒心を解くことから着手した。
早雲は、頻繁に小田原へ使者を送り、丁重な挨拶と共に様々な贈り物を届けさせたとされる 1 。その態度は常に謙虚であり、強大な隣人としての威圧感を微塵も見せなかった。人間の心理として、相手が下手に出て丁重に接してくれば、悪い気はしないものである 6 。藤頼は、この早雲の周到な振る舞いに次第に心を許し、いつしか彼を「礼儀をわきまえた、信頼できる隣国の主」と見なすようになっていった。この静かなる布石こそ、後に続く壮大な計略の第一歩であった。
第二幕:偽りの鹿狩り ― 計略の始動
数年にわたる交流の末、藤頼が完全に油断したと見た早雲は、機は熟したと判断する。「ころあいよし」 6 。彼は決定的な一手として、一通の書状を藤頼のもとへ届けさせた。その文面は、実に見事な口実であったと伝えられる。
「近頃、伊豆の天城山にて大規模な鹿狩りを催しておりましたところ、驚いた鹿の群れが貴殿の領地である箱根の山中へと逃げ込んでしまいました。このままでは伊豆の鹿が減ってしまいます。つきましては、誠に恐縮ながら、鹿を伊豆へ追い返すための勢子(狩りの追い込み役)を、しばし箱根の山に入れさせていただく許可を頂戴できないでしょうか」 3 。
この申し出は、あくまで「鹿を追い返す」という目的を掲げた、極めて穏当かつ謙虚なものであった。早雲をすっかり信用していた藤頼は、これが小田原城を狙うための謀略であるとは夢にも思わず、「よかろう、それは構わぬ」と二つ返事で快諾したという 6 。書状を携えた使者が帰路につく頃、伊豆韮山城の早雲は、計略の成功を確信していたに違いない。
第三幕:闇夜の狂乱 ― 火牛、放たれる
藤頼の許可を得た早雲の動きは迅速であった。彼は屈強な兵士たちを選抜し、猟師や農民を装った「勢子」として箱根山中へと送り込んだ 9 。しかし、彼らの真の目的は鹿を追うことではなかった。
それと並行して、早雲は密かに千頭もの牛を集め、芦ノ湖の湖畔などに隠していた 3 。そして、ある秋の夜、作戦は決行される。闇がすべてを包み込む中、兵士たちは牛の角一本一本に松明を固く結びつけた。やがて、早雲の合図と共に鬨の声が上がり、千の松明に一斉に火が灯される 3 。
驚きと熱さに狂った牛の群れは、燃え盛る炎を角に掲げ、小田原城を目指して闇の山肌を駆け下り始めた。山々にこだまする法螺貝の轟音と、地を揺るがすほどの蹄の響き、そして漆黒の闇に揺らめく無数の灯火。それは、あたかも数万の大軍が怒涛の如く夜襲を仕掛けてきたかのような、恐るべき光景であった 9 。
小田原城の城兵たちは、この予期せぬ事態に度肝を抜かれた。「敵は何万、いや何十万いるのだ!?」 9 。完全な不意を突かれ、敵の規模も掴めぬまま、城内は瞬く間に大混乱に陥り、兵士たちは戦意を喪失した。
この混乱こそが早雲の狙いであった。彼の本隊は機を逃さず城下町に火を放ちながら大手門に殺到。さらに、かねてより城内に侍女として潜入させていた「くノ一」や、風魔小太郎率いる忍者集団が内部から破壊工作を行い、城門を開いたという伝承も加わり、物語を一層華やかなものにしている 3 。防戦する術を失った大森藤頼は、なすすべもなく城を捨てて逃げ落ちた。
この時、自ら先頭に立ったとも言われる北条早雲は64歳。当時としてはかなりの高齢でありながら、老獪な知略と衰えぬ胆力で、後の北条氏百年の拠点となる小田原城を、一夜にして手中に収めたのである 9 。
この物語は、単なる奇策の成功譚ではない。それは、戦国時代という新たな時代の到来を告げる「価値観の転換」を象徴している。大森藤頼は、旧来の武家の作法や信頼関係といった価値観の中で生きる人物として描かれる。だからこそ、早雲の丁重な態度や「鹿狩り」という口実を無邪気に信じてしまう。一方の早雲は、「今は戦国の世じゃ」という新しい現実を体現する存在である 9 。彼にとって、礼儀や贈り物は目的を達成するための「手段」に過ぎない。したがって、「火牛の計」の物語は、旧時代の牧歌的な信頼関係が、新時代の冷徹なリアリズムと謀略によって打ち破られる瞬間を描いた寓話と解釈できる。この物語が後世に広く受け入れられたのは、それが「下剋上」という時代の精神を見事に捉え、旧弊を打破する英雄の姿を鮮やかに描き出したからに他ならない。
第二章:計略の源流と早雲の人物像 ― 古典の知識と戦国武将
早雲の智謀を象徴する「火牛の計」であるが、この計略自体は彼の独創によるものではない。その源流は、日本や中国の古典に求めることができる。この事実は、早雲の人物像を考察する上で極めて重要な意味を持つ。
故事としての「火牛の計」
この計略の最も古い原型は、紀元前の古代中国・戦国時代に遡る。『史記』の「田単伝」によれば、斉の将軍であった田単が、敵国である燕の大軍に包囲された際にこの策を用いたとされる 10 。田単は千頭余りの牛を集め、その尾に油を染み込ませた葦を括りつけて火を放ち、夜陰に乗じて敵陣に突入させた。角には刀剣を取り付け、より攻撃的にしたとも言われる 13 。大混乱に陥った燕軍を打ち破り、田単は国を救う大勝利を収めた。
日本国内においても先例が存在する。平安時代末期の源平合戦において、木曽義仲が平家の十万の大軍と対峙した「倶利伽羅峠の戦い」である。義仲は四、五百頭ともいわれる牛の角に松明を付け、平家軍の陣営に突撃させたと『源平盛衰記』は伝える 10 。不意を突かれた平家軍は総崩れとなり、多くが谷底へ転落して壊滅した。
教養人としての早雲像の構築
早雲が、これら中国や日本の故事を知っていた可能性は非常に高い。そして、その事実こそが、彼の人物像に深みを与えている。この逸話は、早雲が単なる武勇に優れた武辺者ではなく、漢籍や軍記物語に通じた高い教養を持つ知識人であったことを強く示唆するものである 10 。
彼の小田原城奪取という行動が、歴史的知識に裏打ちされた計算高い戦略であったと印象付けることで、その非凡さを際立たせている 15 。これにより、早雲の人物像には「武勇」だけでなく「知謀」という側面が強固に付与された。戦国大名にとって、軍事力だけでなく、古典に根差した「知」もまた、その権威を支える重要な源泉であった。この逸話は、早雲をその理想的な体現者として描き出すための、極めて効果的な装置として機能したのである。
さらに踏み込んで考察すれば、「火牛の計」の逸話は、早雲個人の智謀を称えるだけでなく、彼が興した北条氏という大名家の「ブランド戦略」の一環として機能していたと見ることができる。後北条氏は、鎌倉幕府の執権であった名門・北条氏とは直接の血縁関係がない。にもかかわらず「北条」を名乗ったのは、関東における統治の正当性を、由緒ある名跡に求めたからである。同様に、創業者である早雲の行動を、中国の田単や日本の木曽義仲といった歴史的英雄の行動と重ね合わせることは、彼の行動に歴史的な「権威」と「正統性」を与える効果があった。つまり、「早雲は田単や義仲と同じ計略を用いた」という物語は、「早雲はこれらの英雄に比肩する器である」という強力なメッセージを内包している。これは、出自が不確かであった早雲と彼の一族の権威を補強するための、極めて高度な知的・文化的なブランディング戦略であったと解釈できる。逸話は、血統に代わる「知の系譜」を創り出すための物語装置だったのである。
第三章:史実性の検証 ― 逸話はいつ、なぜ生まれたのか
華々しく、また示唆に富む「火牛の計」の逸話であるが、歴史学的な観点からその史実性を検証すると、大きな疑問符が付く。現代の歴史研究においては、この逸話は史実ではなく、後世の創作であるという見解が通説となっている。
史実性の否定
この説が創作とされる最大の根拠は、同時代に書かれた信頼性の高い一次史料、例えば早雲自身や関係者が記した書状などに、「火牛の計」に関する記述が一切見られない点にある。この劇的な事件がもし事実であれば、何らかの形で記録に残っていても不思議ではない。しかし、この逸話が初めて文献に登場するのは、江戸時代に入ってから成立した『北条記』や『相州兵乱記』といった軍記物語なのである 15 。これらの書物は、歴史的事実を伝えることよりも、物語としての面白さや教訓を重視する傾向があり、多くの脚色が含まれていることが知られている。したがって、早雲の「火牛の計」もまた、史実とは考え難いというのが現在の一般的な評価である 1 。
より現実的な小田原城奪取の経緯
では、史実としての小田原城奪取は、どのような経緯で行われたのであろうか。近年の研究で有力視されているのは、当時の関東の複雑な政治情勢を背景とした、より現実的な軍事行動であったという説である。
当時の小田原城主・大森藤頼は、扇谷上杉氏の麾下にあった。しかし、扇谷上杉氏と対立していた山内上杉氏に寝返った、あるいはその動きを見せたと考えられている 18 。一方、早雲は扇谷上杉氏と同盟関係にあったため、藤頼の裏切りは、早雲にとって小田原を攻撃する格好の口実となった。つまり、小田原城攻めは、鹿狩りを口実とした奇策による騙し討ちなどではなく、同盟関係の利害に基づいた、正当な理由のある軍事行動であった可能性が高いのである 18 。この説に基づけば、早雲は奇襲という戦術は用いたかもしれないが、それは「火牛」のような大掛かりで非現実的なものではなく、政治的対立を背景とした、よりオーソドックスなものであったと推測される 4 。
逸話創出の動機
史実とは異なる華々しい逸話が創られた背景には、北条氏の祖である早雲を英雄化し、その関東進出という偉業を劇的に演出したいという、後世の人々の意図があったと考えられる 17 。単なる政敵の討伐では、物語としての魅力に欠ける。出自も定かでない一介の素浪人から身を起こしたとされる早雲の「下剋上」ストーリーを際立たせるためには、常人には思いもよらない奇策を用いたという「脚色」が必要とされたのである。
興味深いことに、「火牛の計」という物語の存在は、我々の早雲に対する評価を特定の方向に誘導し、彼の真の凄みを見えにくくしている側面がある。この伝説は、一発逆転の奇策を成功させる「天才的な奇策家」としての早雲像を強調する。しかし、史実における彼の行動、例えば今川家の内紛への介入や伊豆討ち入りを詳細に追うと、その真骨頂は、奇策や賭けにあるのではなく、周到な情報収集、粘り強い外交交渉、そして敵の政治的失策を確実に見抜いて行動に移す、極めて現実的な政治・戦略能力にあったことがわかる 19 。
「火牛の計」という派手な物語は、こうした地道で、しかしより本質的な早雲の能力を覆い隠してしまう。人々は「火牛」の鮮烈なイメージに目を奪われ、その背後にある冷徹なリアリストとしての早雲の姿を見過ごしがちになる。したがって、この逸話は、早雲を英雄化すると同時に、彼の能力をある意味で単純化しているとも言える。伝説を疑い、その向こう側を見つめることで初めて、政治的混乱を乗り切った戦略家としての早雲の、より深遠な人物像が浮かび上がってくるのである。
第四章:もう一つの「火牛」― 明応大地震と津波災害説の深層
「火牛の計」が後世の創作である可能性が高いとすれば、小田原城奪取という歴史的事件は、より現実的な政治的文脈で理解されるべきであろう。しかし近年、この伝説の背後に全く新しい可能性を示唆する、非常に興味深い説が提唱されている。それは、軍事的な計略ではなく、大規模な自然災害を利用したという説である。
明応四年(1495年)の天変地異
早雲が小田原城を奪取したとされる明応四年(1495年)は、日本史において特筆すべき天変地異が発生した年であった。同年八月十五日(太陽暦では9月20日)、南海トラフを震源域に含む巨大地震、いわゆる「明応地震」が発生したのである 20 。この地震は甚大な被害をもたらし、特に沿岸部を襲った津波の記録は各地に残されている。『鎌倉大日記』などの史料によれば、鎌倉では大津波が襲来し、高徳院の大仏殿が倒壊、由比ヶ浜で200人以上が溺死したと記されている 13 。
「牛」=「津波」という比喩
この歴史的な大災害と、小田原城奪取の時期がほぼ一致することから、両者を結びつける画期的な仮説が生まれた。それは、「千頭の牛が怒涛の如く押し寄せた」という「火牛の計」の描写が、実は巨大津波やそれに伴う土石流の惨状を表現した比喩ではないか、というものである 13 。
古代・中世の日本では、人知を超えた自然の猛威、特に津波や土石流の破壊的な力を、「赤牛」や「暴れ牛」といった魔物的な存在に喩えることがあった 13 。この説は、「火牛」を実際の動物ではなく、未曾有の災害のメタファーとして読み解く。つまり、小田原城下を襲ったのは、早雲が放った牛の群れではなく、明応地震によって引き起こされた巨大津波そのものであったというのだ。
災害に乗じた戦略
この「災害利用説」に立てば、早雲の小田原城奪取の様相は一変する。それは軍事的な奇策によるものではなく、地震と津波によって小田原城とその周辺地域が壊滅的な打撃を受け、統治機能が麻痺した混乱に乗じて行われた、極めて合理的かつ冷徹な軍事行動だったということになる 13 。当時、伊豆の韮山城を拠点としていた早雲は、津波の直接的な被害を免れた可能性が高い。彼は、敵方が天災によって弱体化した千載一遇の好機を、決して見逃さなかった。これは、彼の奇策家としての一面よりも、機を捉える冷徹な状況判断能力を浮き彫りにする。また、災害後に早雲が領民を救済したという逸話も伝わっているが 24 、これも災害利用という冷徹な事実を糊塗し、仁君としてのイメージを後付けするために創られた物語である可能性も示唆される。
説の妥当性と課題
この「災害利用説」は、伝説の奇抜なイメージと、史実である大災害のタイミングを見事に結びつける、非常に魅力的で説得力のある仮説である。しかし、この説が確定的なものとなるには、まだ乗り越えるべき課題も存在する。最大の弱点は、明応の津波によって小田原周辺が「壊滅的な被害を受けた」ことを直接的に証明する同時代の文献史料や、それを裏付ける考古学的な証拠が、現時点では見つかっていないことである 25 。
したがって、この説は非常に示唆に富むものの、あくまで状況証拠に基づいた仮説の段階に留まる。今後の歴史学、考古学、そして災害科学の連携による研究の進展が待たれる分野である。
興味深いことに、「火牛の計」伝説と「災害利用説」は、一見すると対極にあるようで、実は「人知を超えた力」を前にした人間の認識という点で共通の根を持っている。小田原城という堅固な城が、いとも簡単に陥落したという異常事態。その原因を説明するため、当時の人々や後世の語り手は、何らかの「規格外の力」の介在を必要とした。一方はその力を「早雲の天才的な知謀」という、ほとんど超人的な能力に求めた。もう一方は「未曾有の天災」という、抗いようのない自然の力に求めた。原因を「人間」に帰するか「自然」に帰するかの違いはあれど、どちらも「小田原城陥落」という歴史的事件を理解し、納得するための物語的・合理的フレームワークとして、同じ構造を持っているのである。
小田原城奪取に関する三つの説の比較
これまで論じてきた複雑な説を整理するため、以下に三つの主要な解釈を比較する表を提示する。
項目 |
説①:火牛の計(軍記物語) |
説②:政治的軍事行動(近年の研究) |
説③:自然災害利用(新説) |
時期 |
明応四年(1495年)九月頃 |
明応四年(1495年)以降 |
明応四年(1495年)九月(地震直後) |
奪取方法 |
鹿狩りを口実に侵入し、千頭の牛を使った夜襲で混乱させ奇襲 |
大森氏の裏切り(山内上杉方へ寝返り)を口実とした正攻法に近い軍事侵攻 |
明応地震・津波による混乱に乗じ、最小限の抵抗で城を接収 |
早雲の人物像 |
天才的な知謀を持つ「智将」 |
冷徹な判断力を持つ「現実的な戦略家」 |
機を逃さない「冷徹な機会主義者」 |
典拠 |
『北条記』『相州兵乱記』など後代の軍記物 15 |
同時代の政治情勢からの推測、断片的な書状 18 |
『鎌倉大日記』などの災害記録と時期の一致 13 |
史実性 |
創作である可能性が極めて高い 1 |
最も蓋然性が高いとされる |
状況証拠のみで物証に欠ける 25 |
終章:伝説の継承 ― 小田原に聳える早雲像と現代に生きる逸話
北条早雲の「火牛の計」が、史実ではない可能性が極めて高いにもかかわらず、なぜ現代に至るまでこれほど鮮やかに語り継がれているのだろうか。その答えは、史実の真偽を超えた「物語の力」そのものにある。下剋上を成し遂げた男の、常人離れした知略と大胆さ。このロマン溢れる英雄譚は、時代を超えて人々の心を捉え、魅了し続けてきたのである。
その最も象徴的な例が、JR小田原駅西口のロータリーに建立された、巨大な北条早雲公像であろう 26 。高さ5.7メートル、重さ7トンにも及ぶこの日本最大級の銅像は、まさに「火牛の計」をモチーフにして制作されている 26 。牛を従え、采配を力強く振るうその勇壮な姿は、この伝説がもはや単なる逸話ではなく、小田原という土地の歴史的アイデンティティの一部として、深く根付いていることを雄弁に物語っている。また、地域の祭りなどにおいても、この逸話が山車の題材や演目として取り上げられることがあり 3 、伝説が地域文化として確かに継承されている様子がうかがえる。
結論として、北条早雲の「火牛の計」は、史実の記録と物語的な記憶が交錯する、歴史学的に極めて興味深い事例であると言える。一つの逸話を深く掘り下げることは、単に過去の事実を知るだけでなく、人々が歴史をどのように解釈し、記憶し、そして自らの文化として未来へ継承していくのかという、より大きな問いへと我々を導いてくれる。
小田原の地に立つ早雲像は、その視線の先に、燃え盛る松明を角に掲げた千頭の牛の幻影を見ているのかもしれない。そしてその姿は、歴史の探求において、厳密な事実の考証と、人々の心を動かす物語の力の両方を理解することの重要性を、我々に静かに語りかけているのである。
引用文献
- 北条五代にまつわる逸話 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html
- 北条五代PRキャラクター - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/ki-20150144.html
- 風流 北条早雲『火牛の計』 - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2009_05
- 【北条早雲】「火牛の計」で小田原城を奪取!?話題の最新説を解説!【きょうのれきし・2月16日は何の日!?】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1Bn1mwyYvT4
- 小田原城の歴史-北条五代 https://odawaracastle.com/history/hojo-godai/
- 小田原城奪取 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/004/
- 北条早雲の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7468/
- 北条早雲 神奈川の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/kanto-warlord/kanto-soun/
- 恐るべき大器晩成「北条早雲のすごい生き様」 50歳過ぎて無名の武人から戦国武将に急成長 https://toyokeizai.net/articles/-/210309?display=b
- 北条早雲 - 今月のよもやま話 https://2466-hachi.com/yomoyama_1309.htm
- 北条五代外伝pdf - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/285069/1-20160921171525.pdf
- 火牛の計(かぎゅうのけい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%81%AB%E7%89%9B%E3%81%AE%E8%A8%88-2236561
- 牛頭といえば獄卒悪鬼 本当の牛の角に火を括ったら - daitakuji 大澤寺 墓場放浪記 https://www.daitakuji.jp/2014/09/17/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%88%E3%81%B0%E7%8D%84%E5%8D%92%E6%82%AA%E9%AC%BC-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E7%89%9B%E3%81%AE%E8%A7%92%E3%81%AB%E7%81%AB%E3%82%92%E6%8B%AC%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89/
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- 北条早雲とは?「最初の戦国将軍」「下剋上の先駆け」の生涯・逸話を紹介【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/388114
- 日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【中編】:2ページ目 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/133690/2
- 10分で読める歴史と観光の繋がり 東国に誕生した日本初の戦国大名・北条早雲、京では足利将軍が追い落とされる明応の政変/ゆかりの天下の険箱根山と箱根湯本温泉、難攻不落の小田原城 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/02/15/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B9%95%E9%96%8B/
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- なぞの多い明応東海地震 - 北村晃寿 http://akihisakitamura.la.coocan.jp/17Meiou.pdf
- 伊勢宗瑞 「火牛の計」 は津波だった? http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9acd2e.html
- 戦国争乱と巨大津波―北条早雲と明応津波― | 「雄山閣」学術専門書籍出版社 https://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8282
- 下剋上時代にあって“奇跡的”な一族の初代・北条早雲に迫る!(2/2) - Newsクランチ! https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/1716?page=2
- 明応四(1495)年「相模トラフ地震」の問題点: 付・北条早雲の小田原城攻略 https://www.histeq.jp/kaishi/HE38/HE38_214_Ishibashi.pdf
- 【小田原 観光スポットレポ】北条早雲公像 - 小田原駅から一番近い観光スポット!歴史を語るダイナミックな銅像 | 湘南人 https://shonanjin.com/news/odawaracity_sightseeingspotrepo_hojyosounzou/
- 北條早雲公像 | スポット - 小田原市観光協会 https://www.odawara-kankou.com/spot/spot_area/souun.html
- 『「火牛の計」』by 温泉大好き|北条早雲像のクチコミ - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/13178996
- 北條早雲之像(名右衛門) https://naemon.jp/kanagawa/hojyosoun.php