最終更新日 2025-10-14

小早川秀秋
 ~空砲号砲に寝返り幼稚譚~

小早川秀秋の関ヶ原での寝返りは、家康の威嚇射撃に怯えた「幼稚譚」で知られるが後世の創作だ。史実は家臣団の激論の末の苦渋の決断で、戦の趨勢を決した。

小早川秀秋『空砲号砲に寝返りし幼稚譚』の真相 ― 関ヶ原・松尾山における決断の深層分析

序章:天下分け目の松尾山 ― 運命を握る十九歳

慶長5年(1600年)9月15日、払暁。美濃国関ヶ原は、夜来の雨がもたらした濃い霧に包まれていた。眼下に広がる盆地では、やがて日本の運命を決定づけるであろう徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的に指揮する西軍、合わせて十数万の軍勢が対峙し、静かにその刻を待っていた。

この天下分け目の戦場全体を見下ろすことができる戦略的要衝、松尾山。ここに陣取るのは、豊臣秀吉の養子にして小早川家の当主、中納言・小早川秀秋である 1 。齢わずか十九歳 2 。しかし、彼が率いる1万5千という大軍は、この戦いの帰趨を決定づける上で最大の不確定要素であり、東西両軍の将兵すべての視線が、その一挙手一投足に注がれていた 3

後世、小早川秀秋の名は「裏切り者」の代名詞として語り継がれることになる。特に、徳川家康の威嚇射撃に怯えて寝返りを決意した、あるいは決断できずに栗を拾っていた、といった「幼稚譚」は、彼の人物像を優柔不断で思慮の浅い若者として描き出し、嘲笑の対象としてきた。

本報告書は、この流布された「幼稚譚」というレッテルを一旦保留し、その決断の瞬間に松尾山の陣中で何が起こっていたのかを、残された史料と近年の研究成果に基づいて多角的に再構成するものである。秀秋が布陣した松尾山は、単なる高台ではなかった。西軍が敷いた鶴翼の陣の右翼の要であり、中山道を押さえる軍事上の要衝であった 4 。石田三成は当初、この地に西軍総大将である毛利輝元の本営を置く構想すら持っていたとされる 4 。しかし秀秋は、三成の許可を得ることなく、先んじてこの地を占拠したのである 4 。この行動自体が、すでに西軍首脳部との間に横たわる不協和音と、秀秋の心中に渦巻く複雑な政治的計算を象徴していた。家康が秀秋の松尾山着陣の報を聞き、「これで勝ったも同然じゃ」と床几を叩いて喜んだと伝えられるのは 4 、この「場所取り」が、家康にとって内応を確信させる明確なシグナルであったからに他ならない。これは単なる陣地選びではなく、開戦前に発せられた高度な政治的メッセージングであった。

第一章:払暁の霧から正午の膠着へ ― 煮詰まる時間

午前8時~午前11時:開戦と西軍の優勢

関ヶ原を覆っていた濃霧が徐々に晴れ始めた午前8時頃、静寂は破られた。東軍の先鋒、井伊直政と松平忠吉の部隊が抜け駆け的に西軍の宇喜多秀家隊に発砲したのを皮切りに、福島正則隊もこれに続き、天下分け目の戦いの火蓋が切られた 6

戦いの序盤は、西軍が優勢に展開した。石田三成配下の猛将・島左近は鬼神の如き働きで黒田長政隊を押し返し、宇喜多秀家率いる備前勢1万7千も、正面の福島正則隊を圧倒する勢いを見せた 7 。松尾山の陣から眼下の戦況を眺める秀秋の目には、西軍の勝利が現実味を帯びて映っていたことだろう。事前に家康と内応の密約を交わしていたとはいえ、敗色濃厚な側へ味方することは、小早川家の未来を危うくする愚行に他ならない。この西軍優勢の状況が、彼の決断を躊躇させた第一の要因であったことは想像に難くない。

午前11時~正午:戦線の膠着と焦燥

しかし、東軍も猛将たちの奮戦によって徐々に戦線を立て直し、午前11時頃には、戦況は一進一退の膠着状態に陥った 6 。勝敗の行方は全く見えず、戦場の全ての視線は、依然として動かぬ松尾山の小早川軍1万5千に集中し始めた。

この状況に、東西両軍の総大将は焦りを募らせる。東軍本陣では、徳川家康が当初布陣していた桃配山から、より前線に近い陣場野へと本陣を前進させた 7 。これは単なる督戦のためだけではなく、松尾山の秀秋に対し「我はここだ。覚悟を決めよ」と無言の圧力をかける示威行動でもあった 9 。一方、西軍の笹尾山に陣取る石田三成は、再三にわたり小早川隊の出撃を促す狼煙を上げるが、松尾山からの応答はなかった 11

この時、戦場の誰よりも秀秋の動向を冷静に、そして警戒心をもって見つめていた将がいた。秀秋の陣の麓に布陣する西軍の将、大谷吉継である。吉継は開戦前から秀秋の裏切りを予期しており、味方であるはずの松尾山に向けて土塁を築くなど、万一に備えた防御陣地を構築していた 12 。これは、秀秋の逡巡が西軍の一部には「想定内」の事態であったことを示す極めて重要な証拠である。

戦況の膠着は、秀秋を心理的に追い詰めていった。当初の「西軍優勢」は寝返りを躊躇させ、「膠着」はどちらにつくべきかという判断をさらに困難にした。しかし、この時間は家康にとって、秀秋を動かすための決定的な「舞台装置」でもあった。時間が経てば経つほど、中立を保つ秀秋の立場は東西両軍から不信を招き、悪化の一途をたどる。家康は戦況の推移だけでなく、秀秋の心理が限界まで「煮詰まる」のを、計算高く待っていた可能性も否定できない。

第二章:号砲は響いたのか ― 「問い鉄砲」の史実と虚構

通説の劇場的再現

正午過ぎ、戦況は依然として動かない。ついに業を煮やした徳川家康が、苛立ちを隠さずに叫んだとされる。「金吾(秀秋の官職・中納言の唐名)はまだ動かぬか!」。そして側近に、松尾山への威嚇射撃を命じた。これが世に言う「問い鉄砲」である 7

この命令一下、徳川本陣の鉄砲隊が松尾山に向かって一斉に火を噴いた。轟音と共に放たれた弾丸が、麓に布陣する小早川勢の陣近くに着弾する 1 。この予期せぬ味方からの攻撃に、松尾山本陣の空気は凍りついた。特に、総大将である19歳の秀秋は激しく動揺し、顔色を失ったと物語は伝える 11

「内府様(家康)がお怒りである…! 約束を違えれば、次は我が身が危うい」。恐怖に駆られた秀秋は、半ばパニック状態で叫んだ。「ええい、ままよ! 全軍、山を下り、大谷隊へ攻めかかれ!」。この恐怖心に後押しされた突発的な決断が、関ヶ原の戦いの趨勢を決したというのが、広く知られる「幼稚譚」のクライマックスである。

学術的検証と反証

しかし、この劇的な逸話は、歴史的事実として受け入れて良いのだろうか。結論から言えば、その信憑性は極めて低いと言わざるを得ない。

最大の問題点は、この「問い鉄Pope」に関する記述が、関ヶ原の戦いと同時代に書かれた一次史料には一切見られないことである 15 。この逸話が歴史の表舞台に登場するのは、戦いから100年以上が経過した江戸時代中期以降に成立した『関原軍記大成』といった軍記物語や編纂史料においてである 17

近年の歴史研究、特に白峰旬氏による実証的な研究は、この「問い鉄砲」が歴史的事実ではなく、後世に創作されたものである可能性を強く示唆している 16 。その最大の目的は、徳川家康の決断力を神格化し、天下人としての正統性を演出するための「家康神話」を創出することにあったとされる 17 。家康の威光一つで戦況が動いたという物語は、徳川支配の正当性を補強する上で非常に都合が良かったのである。

この逸話が、時代と共にいかに脚色され、変容していったかを以下の表に示す。

史料群(成立年代)

射撃の主体(命令者/実行者)

逸話の描写と特徴

一次史料(慶長5年当時)

記述なし

記述なし

江戸初期~中期の編纂物

家康が命令し、藤堂高虎隊や京極高知隊が実行したとする説が登場 17

家康の苛立ちと、それに応える諸将の動きとして描かれ始める。物語性が加わる。

江戸中期の軍記物(例:『関原軍記大成』)

家康が命令し、福島正則隊や家康旗本(布施孫兵衛など)が実行したとする説も現れる 17

射撃が「つるべ撃ち」であったり、報告者が「黒装束の武者」であったりと、より劇的な脚色が加えられる 17

近代以降の通説

家康が本陣から直接、威嚇射撃を命じた。

家康の絶対的な決断力と、それに怯える幼稚な秀秋という対比が最も強調され、広く定着する。

この「問い鉄砲」神話の創作は、単に家康を英雄化するだけではなかった。それは同時に、小早川秀秋を「主体性のない、臆病で幼稚な裏切り者」として歴史に刻印する役割も果たした。家康の「神話化」と秀秋の「矮小化」は、いわば表裏一体の現象であった。関ヶ原の戦いの勝敗を決した最大の功労者が、寝返りを実行した秀秋ではなく、寝返りを「演出」した家康であるという物語は、徳川幕府の正統性を盤石にするための、極めて効果的なプロパガンダとして機能したのである。秀秋が自らの意思で天下の趨勢を決したのではなく、「偉大な家康に動かされた操り人形」であったという物語が、勝者によって必要とされたのだ。

第三章:陣中の激論 ― 遅延の真実

では、「問い鉄砲」が後世の創作であるならば、なぜ秀秋の決断は正午過ぎまで遅れたのか。その真相は、秀秋個人の優柔不断や恐怖心ではなく、松尾山の陣中で繰り広げられていた、小早川家臣団内部の深刻な意見対立にあった。

この対立の構図は、二つの派閥に大別できる。

一つは、家老の平岡頼勝と稲葉正成を中心とする**東軍内応派(現実主義者)**である。彼らは事前に黒田長政らを通じて家康と内応の密約を結んでおり、豊臣政権の将来性に見切りをつけ、主君・秀秋の将来と小早川家の安泰を最優先に考える現実的な判断から、東軍への寝返りを強く進言していた 20

もう一方は、先鋒大将の松野主馬(重元)に代表される**西軍恩顧派(理想主義者)**である。彼らは、秀秋が豊臣秀吉の養子として厚遇された恩義を重んじ、戦の途中で味方を裏切ることを「武士にあるまじき不義」として、寝返りに猛烈に反対していた 21

江戸時代の逸話集『明良洪範』は、この陣中の激論を生々しく伝えている。

戦況が膠着する中、家老の稲葉正成が秀秋に「もはや頃合いかと存じます」と決断を促した 5 。意を決した秀秋は、使番を通じて先鋒の松野主馬に「大谷隊を攻撃せよ」との命令を伝達させた。

しかし、この命令を受けた主馬は伝令に対し激昂した。

「戦の最中に裏切れとは、まるで楯の裏から刺すような卑怯な真似である! 小早川に於て楯裏の裏切りする軍法は無し! そのような不義理、断じて同意できぬ!」

そう言って、主君の命令を公然と拒絶したのである 21。

先鋒大将が主命を拒否するという異常事態に、本陣は騒然となった。平岡頼勝らが必死に説得を試みるも、主馬は頑として動かない。見かねた秀秋の近習・村上忠兵衛が主馬の陣に駆けつけ、「主命に従わぬ貴殿こそ裏切り者ではないか!」と詰問した。これに対し主馬は、「ならば仕方ない」と述べ、自らの部隊を率いてそのまま戦場を離脱し、国元へ帰ってしまったと伝えられる 21

この家臣団内部の深刻な対立こそが、秀秋の決断が遅れた最大の理由であった。彼の遅延は、単なる「迷い」ではなかった。彼は、家臣団を二分する深刻なイデオロギー対立の調停者という、19歳の若者にはあまりに過酷な役割を担わされていたのである。もし無理に寝返りを強行すれば、小早川軍内部で同士討ちが起きかねない極めて危険な状況だった。秀秋の遅延は、恐怖や優柔不断の証ではなく、分裂した自軍をなんとかまとめようとした、必死の組織マネジメントの結果であった可能性が高い。彼が直面していたのは単純な二者択一のプレッシャーではなく、組織崩壊の危機そのものであった。

第四章:雪崩の如く ― 松尾山、動く

陣中の混乱を乗り越え、秀秋は最終的に寝返りを決行する。松野主馬が戦線を離脱したことで、家臣団の意見は東軍内応派に傾いた。秀秋は使番・村上右衛門に再度命令を下し、山を駆け下らせ、各部隊に「大谷へ討ち掛かり候え」との最終指令を伝達させた 5

正午過ぎ、ついに松尾山が動いた。1万5千の小早川軍が鬨の声を上げ、雪崩を打って山を下り、山麓に布陣する大谷吉継隊の側面に殺到した 1

裏切りを予期していた大谷吉継は、この猛攻に対し鬼神の如く奮戦した。数で圧倒的に劣りながらも、巧みな采配で小早川軍を二度にわたり押し返すなど、その武勇と指揮能力を遺憾なく発揮した 12 。しかし、衆寡敵せず、奮戦も長くは続かなかった。

さらに、秀秋の寝返りは致命的な連鎖反応を引き起こす。戦況を日和見していた西軍の脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸将が、小早川の動きを見るや、一斉に東軍に寝返り、大谷隊に襲い掛かったのである 12

四方八方から攻撃を受け、完全に包囲された大谷隊はついに壊滅。もはやこれまでと悟った吉継は、その場で自害して果てた。この大谷隊の崩壊がドミノ倒しのように西軍全体の戦線崩壊を招いた。側面を突かれた宇喜多隊、小西隊も持ちこたえられず総崩れとなり、石田三成は笹尾山の本陣を捨てて戦場から離脱した 5

開戦からわずか半日。小早川秀秋の決断をきっかけとして、天下分け目の戦いは東軍の圧勝という形で、あまりにも劇的な幕切れを迎えたのである 14

結論:「幼稚譚」から歴史的実像へ

本報告書が検証してきたように、「小早川秀秋が徳川家康の空砲号砲に怯えて寝返った」という逸話は、徳川の治世を正当化するために江戸時代に創作された、史実とは言い難い物語である可能性が極めて高い。また、ユーザーが認識していた「決断できずに栗を拾っていた」という幼稚譚に至っては、今回調査した主要な史料や研究文献の中に、その典拠となる記述は見当たらなかった 13 。これは、秀秋の人物像を貶めるために後世に付加された、信憑性のない民間伝承レベルの逸話であると結論付けられる。

松尾山における彼の決断は、幼稚さや恐怖心による突発的な行動では断じてない。それは、豊臣政権下での冷遇(朝鮮出兵における三成の讒言という俗説も含む) 4 、家康からの周到な調略と破格の恩賞の約束 20 、そして何よりも、家中を二分する激論の末に、組織の崩壊を回避しながら下された、19歳の領主としての極めて政治的かつ苦渋に満ちた選択であった。

では、なぜこれほどまでに彼を貶める「幼稚譚」が生まれ、広く受け入れられてしまったのか。その背景には、彼の悲劇的な後半生がある。

関ヶ原の後、秀秋は東軍の勝利に決定的な貢献をしたにもかかわらず、味方であったはずの東軍諸将からも「裏切り者」と蔑まれ、孤立した 4 。そして戦後わずか2年後の慶長7年(1602年)、アルコール依存症による内臓疾患とも噂される中、21歳という若さで謎の多い死を遂げた 4 。彼には跡継ぎがおらず、その死をもって名門・小早川家は無嗣改易となり、歴史の表舞台から姿を消した 4

これらの要素が複合的に絡み合い、彼の歴史的評価を地に落とし、「大谷吉継の祟り」「愚物」といった嘲笑的な逸話や「幼稚譚」が生まれ、定着する土壌となったのである。小早川秀秋は、歴史の転換点において極めて重要な役割を果たしながらも、その功績を歴史の勝者(徳川)によって意図的に矮小化され、物語の中で「道化」の役を背負わされた、悲劇の人物であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 【岐阜関ケ原古戦場記念館】古戦場史跡紹介24 松尾山 小早川秀秋陣跡 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tO8odTy0YoE
  2. 松尾山城跡・小早川秀秋陣跡|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6715.html
  3. 松尾山・小早川秀秋 陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/matsuoyama.html
  4. 小早川秀秋の 裏切りがなかったら歴史は どうなっていただろうか…?〈前編〉 https://www.okb-kri.jp/wp-content/uploads/2019/04/147-rekishi.pdf
  5. 関ケ原松尾山 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/sekigahara-matsuo.k/sekigahara.matsuo.k.html
  6. 関ヶ原の戦いを勝利へと導いた徳川家康の〝準備〟 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/31991?page=3&layout=b
  7. 関ヶ原の戦い : Network2010.org https://network2010.org/article/2127
  8. わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06916/
  9. 小早川秀秋コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/kobayakawa-hideaki/
  10. 小早川秀秋の関ケ原での優柔不断、その後の乱行は、すべて病気のせいだった!? https://shuchi.php.co.jp/article/3931
  11. 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
  12. そりゃ裏切るわ…関ヶ原の戦いで小早川秀秋が寝返った当然の理由、家康の根回し力がエグすぎた https://diamond.jp/articles/-/348109
  13. 家康は「早く裏切れ」と小早川秀秋に催促したわけではない…関ヶ原合戦の「家康神話」が崩壊する衝撃的新説 問鉄砲は後世の創作で「小早川は開戦と同時に西軍を裏切った」 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75298?page=1
  14. 小早川秀秋は何をした人?「愚物とされた裏切り者が関ヶ原で世紀の寝返りをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hideaki-kobayakawa
  15. 関ヶ原の戦い(4)「問い鉄砲」はなかった?① - 東野高等学校 https://eishin.ac/blog/34590.html
  16. フィクションとしての「問鉄砲」(パート1) - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=10383
  17. フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) −家康 ... - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=10385
  18. 家康は「早く裏切れ」と小早川秀秋に催促したわけではない…関ヶ原合戦の「家康神話」が崩壊する衝撃的新説 問鉄砲は後世の創作で「小早川は開戦と同時に西軍を裏切った」 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75298?page=2
  19. 43.朝野旧聞裒藁 - 歴史と物語 - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/43.html
  20. 小早川秀秋の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/35768/
  21. 松野主馬重元の関ケ原。小早川に裏切りの軍法は無い!|北条高時 https://note.com/takatoki_hojo/n/nf48dca6ac412
  22. 関ヶ原の戦いを動かした裏切り/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41103/
  23. 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
  24. 小早川秀秋、「関ケ原の裏切者」とか「農民にキンタマ蹴られて死亡」とか、その評価が酷すぎる件 https://note.com/takatoki_hojo/n/nd149920176d7
  25. 小早川秀秋と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/9570/