島左近
~俸禄半分で雇えぬ廉直の話~
石田三成は浪人中の島左近を俸禄の半分という破格の待遇で召し抱えた。三成の覚悟と左近の価値を示す逸話だが、史実ではなく後世の創作の可能性が高い。
島左近「俸禄半知」の逸話 – 廉直なる将の伝説、その真層への徹底的探究
序章:運命の邂逅前夜 – 二人の男
戦国乱世の終焉が近づく天正年間、二人の男が歴史の舞台で交差する運命にあった。一人は、その武勇と知略で天下に名を轟かせながらも、主家を去り野に在った老練の将、島左近清興。もう一人は、豊臣秀吉の天下統一事業を吏僚として支え、比類なき才覚を発揮しながらも、武人としての威光に渇望を抱いていた石田三成。後に「俸禄半分で雇えぬ廉直の話」として語り継がれる伝説的な逸話は、この二人が互いを必然的に求め合う、それぞれの状況と背景から幕を開ける。それは単なる仕官の話ではなく、時代の転換点において、互いの欠けた部分を完璧に埋め合わせる二つの魂の邂逅であった。
第一節:野に放たれた虎 – 島左近の名声とその境遇
島左近、本名を島清興というこの武将は、石田三成と出会う以前から、既に戦国の世にその名を広く知られていた 1 。彼の前半生は、大和国(現在の奈良県)の戦国大名・筒井氏の重臣として築かれた。主君・筒井順慶の下では、森氏や松倉氏と並び「筒井の三老」と称されるほどの中心的存在であり、その武勇は「鬼左近」の異名をとるほどであった 2 。しかし、左近の真価は単なる猪武者としての勇猛さに留まらなかった。彼は同時に、戦局を読む知略にも長けた将であり、知勇兼備の人物として高い評価を確立していたのである 4 。
しかし、天正12年(1584年)に主君・順慶が病没すると、左近の運命は転機を迎える。順慶の養嗣子として家督を継いだ筒井定次と、宿老である左近との間には深刻な確執が生じた 2 。その原因の詳細は定かではないが、この不和が決定打となり、左近は長年仕えた筒井家を出奔するに至る 7 。こうして、当代随一と評された名将は、仕えるべき主君を持たない浪人となったのである。
野に放たれた虎、島左近の名声は、浪人の身となっても衰えることはなかった。むしろ、その自由な立場は各地の有力大名にとって絶好の機会と映り、数多の家から招聘の声がかかった 1 。しかし左近は、それら全ての誘いを頑なに固辞し続けた 2 。当時すでに40代後半に差し掛かり、隠棲を望んでいたとも言われるが 1 、その態度は、彼が単に俸禄の多寡や地位の高さで動く人物ではないことを雄弁に物語っている。彼が求めていたのは、自らの才覚と忠義を捧げるに値する、真の「器」を持つ主君であった。近江国の片隅で雌伏の時を過ごす左近は、次なる主君を冷静に見極めていたのであろう 2 。
第二節:慧眼の吏僚、その渇望 – 石田三成が抱えた課題
一方、島左近を熱心に求めた石田三成もまた、豊臣政権下で確固たる地位を築きつつ、深刻な課題を抱えていた。近江の土豪の家に生まれた三成は、早くから豊臣秀吉にその非凡な才を見出され、側近として頭角を現した 8 。彼の能力は、特に内政面で遺憾なく発揮された。検地の実施や兵站の管理、城割りの差配といった後方支援業務において、三成の右に出る者はいなかった 9 。その合理主義的で公正な仕事ぶりは、秀吉の天下統一事業を根底から支える原動力となった。
しかし、その能力の高さと、不正を許さない正義感の強さは、諸刃の剣でもあった 9 。特に、戦場で槍働きによって功名を立ててきた加藤清正や福島正則といった武断派の猛将たちにとって、吏僚である三成が政権の中枢で権勢を振るう姿は、面白いはずがなかった 8 。三成の合理的な思考は、彼らの情や面子を軽んじていると受け取られ、両者の間には修復しがたいほどの深刻な軋轢が生まれていた 10 。
さらに、三成自身も、自己の評価における決定的な弱点を自覚していた。それは、軍事指揮官としての威信の欠如である。賤ヶ岳の戦いや忍城攻めなど、彼にも実戦の経験はあったが 9 、世間の一部からは「いくさ下手」と揶揄されることも少なくなかった 2 。豊臣政権が安定し、秀吉という絶対的な存在がいる間は問題なくとも、いずれ来るであろう次代を見据えた時、武断派の猛将たちを心服させ、豊臣家の軍事を統率するためには、圧倒的な軍事적権威が必要不可欠であった。
三成が求めていたのは、単に戦に強いだけの武将ではなかった。豊臣家への揺るぎない忠誠心を持ち、天下の大局を見通せる高度な知略を備え、そして何よりも、清正や正則といった猛者たちでさえ一目置かざるを得ないほどの威名と実績を兼ね備えた人物。その全ての条件を奇跡的に満たす存在こそが、浪人中の島左近であった。三成にとって左近を招聘することは、自身の政権構想における最大の弱点を補い、盤石の体制を築くための、極めて戦略的な一手だったのである 2 。
この邂逅は、歴史の必然であったと言える。自らの価値を正当に評価し、その才を存分に振るわせてくれる「器」を持つ主君を求める左近と、「武」の象徴たる実績と威光を渇望する三成。両者の出会いは、単なる雇用関係の始まりではない。それは、互いの決定的な欠落部分を埋め合わせ、新たな時代を切り拓くための、運命的な相互補完関係の成立を意味していた。三成が次に取る行動は、単なるスカウトではない。それは、吏僚である彼が示しうる最大限の誠意と覚悟の表明であり、左近の心を動かす唯一の手段となるのであった。
本章:三顧の礼 – 伝説的逸話の再構成
石田三成による島左近の招聘は、後世に「三顧の礼」になぞらえられるほど、並々ならぬ熱意をもって行われたとされる。この伝説的な逸話の核心は、三成が提示した前代未聞の条件と、それに応えた左近の廉直さにある。複数の逸話集に残された断片的な記述を時系列に沿って再構成し、その会話の裏に秘められた二人の武将の心理と覚悟を読み解く。
第一節:最初の説得と左近の固辞
三成の最初の接触は、決して順調なものではなかった。彼は一度ならず、数度にわたって近江に隠棲する左近の元を訪れ、家臣となるよう懇請したと伝えられている 11 。これは、劉備が諸葛亮を迎えるために三度その庵を訪ねた中国の故事を引き合いに出されるほどの熱心さであった。
しかし、左近の決意は固かった。彼は、これまで他の有力大名からの誘いを断ってきたのと同様に、三成の申し出にも首を縦に振らなかった 1 。もはや誰にも仕える気はない、という隠棲者の静かな、しかし断固たる態度を崩さなかったのである 1 。この頑なな拒絶は、三成の心を挫くどころか、逆にその思いを一層募らせる結果となった。左近ほどの人物であればあるほど、ありきたりな説得や条件では心が動かないことを、三成は痛感したであろう。この左近の固辞こそが、三成をして常識を超えた最終手段、すなわち歴史に残る破格の提示へと踏み切らせる直接的な伏線となったのである。
第二節:破格の提示 – 「我が俸禄の半分を以て」
説得が難航する中、諦めきれない三成は、ついに自らの全てを賭けた切り札を提示する。江戸時代中期の逸話集『常山紀談』によれば、当時、近江水口城主として四万石の知行を得ていた三成は、その半分にあたる 二万石 という、前代未聞の俸禄を左近に約束したのである 13 。一部の記録では一万五千石ともされるが 11 、重要なのはその額面よりも、主君が自身の知行の半分(半知)を、一介の家臣に与えるという行為そのものの異常性であった。
この歴史的な瞬間を伝える逸話には、いくつかのバリエーションが存在し、それぞれが示唆に富んだ会話を記録している。
一つは、『常山紀談』に記された、豊臣秀吉と三成の間の会話である 15。後にこの噂を耳にした秀吉が三成に尋ねる。
「一体、いくらの禄高で左近を召し抱えたのか」
これに対し、三成は臆することなく答えた。
「されば、私の禄高四万石の半分の二万石で召し抱えましてございます」
秀吉はこれに驚愕する。
「君臣の禄が同じなどということは、昔から聞いたためしがない。いかにもそれほどの志なくしては、よもや彼はお主には仕えまい。それにしても思い切ったことをしたものよ」
この会話は、この登用がいかに当時の常識から逸脱していたかを、最高権力者である秀吉の驚きを通して描いている。
もう一つは、『武功雑話』や『佐久間軍記』に見られる、三成と左近の間の、より含蓄のあるやり取りである 16。ある時、三成が左近に水を向けた。
「世間の人々は、『三成は国を二つ分けるほどの俸禄を与えて左近を召し抱えた』と噂しておりますが」
すると左近は、平然とこう応じたという。
「左様。世間の人たちは真実を申しております。国を二つ分けるほどの俸禄でなければ、三成様のお家はとてもお持ちにはなりますまい」
この左近の言葉は、単なる強欲さや自己の価値の誇示ではない。それは、「石田三成という男がこれから天下で事を成すためには、島左近という高名な武将を、これほどの破格の待遇で召し抱えた、という事実そのものが、貴殿の威光を高め、人材を集める上で必要不可欠な投資なのです」という、極めて高度な政治的、戦略的助言であったと解釈できる。彼は自身の俸禄を、石田家の未来への布石と捉えていたのである。三成もその真意を即座に理解し、左近の器量の大きさに改めて感服したと伝えられている 16。
第三節:二万石の衝撃 – その価値と意味
三成が提示した「二万石」という俸禄は、現代の我々が想像する以上の衝撃を当時の人々に与えた。これを理解するためには、まず「石高」という単位の持つ意味を正しく把握する必要がある。戦国時代における石高とは、単に米の収穫量を示す単位ではない。それは、その土地から動員できる兵力、経済力、そして武士の社会的地位を規定する、総合的な国力指標であった 17 。一石が概ね大人一人が一年間に消費する米の量に相当することから 17 、二万石がいかに莫大な価値を持つかが窺える。
この二万石という俸禄の異常性をより具体的に示すため、同時代およびそれに近い時代の他の武将や家臣の俸禄と比較してみるのが有効である。
【表1:戦国時代末期における武将・家臣の俸禄比較分析】
人物名 |
当時の役職・立場 |
主な俸禄(石高) |
備考・出典 |
島左近(逸話) |
石田三成の客将 |
石 |
主君の知行の半分という前代未聞の待遇 13 |
奥村永福 |
前田家筆頭家老 |
石 |
百万石級の大大名・加賀前田家の最高幹部 19 |
大石内蔵助(後代) |
赤穂藩筆頭家老 |
石 |
五万石級の大名・浅野家の最高幹部 20 |
本多忠勝 |
徳川四天王 |
石 |
大名としての知行。家臣への俸禄とは次元が異なる 21 |
井伊直政 |
徳川四天王 |
石 |
譜代大名筆頭。大名としての知行 22 |
旗本(上級) |
徳川家直参 |
石 |
幕府の要職に就くエリート層 24 |
この比較表が示す事実は、驚くべきものである。一介の浪人であった島左近に提示された二万石という俸禄は、百万石という全国屈指の大大名であった前田家の筆頭家老・奥村永福の禄高すら上回っている。後世の江戸時代、五万石の赤穂藩筆頭家老であった大石内蔵助の千五百石とは比較にすらならない。その額は、もはや大名の家臣という範疇を超え、小大名クラスの石高に匹敵するものであった。
この数字の比較は、この逸話の核心にある「二万石」という価値が、単に「高給」という言葉で片付けられるレベルではなく、当時の社会秩序や主従関係の常識を根底から覆すほどの「異常事態」であったことを客観的に証明している。この異常性こそが、三成が左近を求める覚悟の深さであり、同時に、左近という武将が持つ価値の大きさの証左でもあった。この逸話が伝説として後世まで強く記憶されるのは、この衝撃的な数字が持つ物語装置としての機能に負うところが大きいのである。
第四節:左近の受諾と「廉直」の真意
最終的に、島左近は石田三成への仕官を受諾する。しかし、彼の心を動かしたのは、二万石という破格の俸禄そのものではなかった。彼が心を打たれたのは、自らの知行の半分を投げ打ってでも自分を必要とする、三成の類稀な「心意気」であった 11 。多くの大名が左近を欲しながらも、誰もが既存の秩序の範囲内で彼を評価しようとした。その中で三成だけが、常識の枠を破壊してまで、左近の価値を絶対的なものとして認めたのである。この一点において、三成は左近が長年探し求めていた「器」を持つ主君たることを証明した。
そして、この逸話が「廉直の話」として完成されるのは、仕官後の左近の行動によってである。伝えられるところによれば、左近はこの莫大な俸禄を自身の私腹を肥やすために用いることはなかった 1 。彼はその禄を元手として、新たに優れた兵を多数雇い入れ、手薄であった石田軍の軍備を増強することに充てたという 1 。
この行動は、左近が三成に求めたものが金銭ではなく、主君と共に天下で事を成すための「力(軍事力)」であったことを明確に示している。彼は、三成から与えられた破格の待遇を、そのまま石田家の軍事力へと還元したのである。これは、ユーザーが提示した逸話の題名「俸禄半分で雇えぬ廉直の話」の「廉直」たる所以に他ならない。この瞬間、三成の「知」と左近の「武」、そして両者の財産は、豊臣家の安泰という共通の大義の下に完全に一体化した。ここに、戦国乱世が生んだ最も理想的な君臣関係の一つが誕生したのである。
終章:君臣の契約が起こした波紋
石田三成と島左近の間に結ばれた、常識外れの主従契約は、静かな波紋のように周囲へと広がっていった。一人の浪人が、主君の知行の半分を得て家臣となる。この前代未聞の出来事は、豊臣政権の中枢から巷の噂話に至るまで、様々な反応を引き起こした。特に、天下人・豊臣秀吉の驚嘆と、世間の評価を象徴する俗謡の誕生は、この逸話が単なる個人的な登用劇に留まらず、時代を象徴する一つの事件であったことを物語っている。
第一節:太閤の驚嘆 – 豊臣秀吉の反応
この異例の登用の噂は、やがて天下人である豊臣秀吉の耳にも達した。秀吉は早速三成を呼び寄せ、事の真偽を直接問いただしたとされる 15 。三成から、自身の禄高四万石の半分にあたる二万石をもって島左近を召し抱えた旨の報告を受けると、さすがの秀吉も深く驚嘆した。
「君臣の禄が同じなど、古今聞いたことがない」 16
この秀吉の言葉は、この契約がいかに当時の主従関係の規範から逸脱していたかを端的に示している。しかし、秀吉の驚きは、すぐに納得へと変わった。相手が、あの天下に名高い島左近であると知ると、「それほどの男であれば、その待遇も当然であろう」と、三成の常識にとらわれない思い切った決断を高く評価し、賞賛したという 1 。
秀吉の評価は、言葉だけに留まらなかった。彼は左近自身を召し出し、「これからは三成に心を合わせてやってくれよ」と直接激励の言葉をかけた 16 。さらに、その忠誠と器量を称え、豊臣家の正式な紋である菊桐紋をあしらった羽織を与えたと伝えられている 1 。これは極めて重要な意味を持つ。この羽織の下賜は、三成と左近の異例の主従関係を、豊臣政権が公に認めた「公認の証」となったのである。これにより、三成の家臣団における左近の地位は絶対的なものとなり、同時に、それほどの人物を家臣とした三成自身の威光をも、天下に示す結果となった。
第二節:「治部少には過ぎたるもの」 – 俗謡の誕生とその背景
この一件は、政権中枢のみならず、やがて広く巷間に知れ渡ることとなり、一つの有名な俗謡(あるいは落首)を生み出した。
「 治部少輔(じぶのしょう)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城 」 4
治部少輔とは、三成の官職名である。この歌は、三成が持つものの中で、二つだけが突出して素晴らしい、という意味を持つ。一つは、家臣である島左近。もう一つは、三成の居城であった壮麗な佐和山城である 1 。この歌は、左近の登用がいかに世間を驚かせ、彼の存在が石田家の象徴として認識されるようになったかを物語っている。
しかし、この俗謡には二重の含意が込められている。表面的には、島左近という家臣と佐和山城の素晴らしさを称える賛辞である。だが、「過ぎたるもの」、すなわち「もったいないもの」という表現は、裏を返せば、その所有者である石田三成の器量が、所有物である左近や城に見合っていない、という痛烈な皮肉(揶揄)とも受け取れる 2 。
この皮肉めいた響きは、当時の三成が置かれていた政治的立場を反映している。彼のことを快く思わない武断派の大名たちや、その吏僚としての出世を妬む者たちの心情が、この歌には色濃く投影されているのである 27 。彼らにとって、この歌は左近を称賛することで、間接的に三成を貶める格好の材料となった。つまりこの俗謡は、 島左近という人物への最大級の賞賛であると同時に、石田三成に対する嫉妬や羨望が入り混じった、複雑な批評 として機能していたのである。
興味深いことに、「〇〇に過ぎたるもの」という言い回しは、一種の定型句(テンプレート)として当時存在していた。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(忠勝)」といった類例が確認されており 30 、特定の人物やその持ち物を称賛しつつ、主君をからかうという文化が広く共有されていたことがわかる。この事実は、この歌が特定の個人の創作というよりも、三成と左近の異例の関係性を目の当たりにした当時の人々の中から、ごく自然に生まれ出た時代の声であったことを示唆している。
考察:歴史的検証 – 事実、創作、そして不朽の伝説
これまで物語として再構成してきた「俸禄半知」の逸話は、その劇的な内容ゆえに、多くの人々の心を捉えてきた。しかし、歴史を探究する上では、その物語性に酔うだけでなく、史実としての確からしさを冷静に検証する作業が不可欠である。出典の信頼性を吟味し、同時代の一次史料との整合性を照らし合わせることで、この伝説の背後に隠された歴史の真層に迫ることができる。
第一節:出典の吟味 – 『常山紀談』の世界
島左近の俸禄半知の逸話が収録されている主要な典拠は、江戸時代中期に成立した『常山紀談』である 15 。この書物は、備後福山藩の儒学者であった湯浅常山が、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将たちの言行や逸話を集めて編纂したものである。
『常山紀談』は、武士の生き方や心構えを説く教訓的な逸話が豊富に含まれており、江戸時代の武士たちに広く読まれ、多大な影響を与えた。しかし、歴史史料として扱う際には、その性質を理解しておく必要がある。本書が編纂されたのは、逸話の舞台となった関ヶ原の戦いから百年以上が経過した時代であり、同時代に記録された一次史料ではない。後世に伝えられた伝承や逸話を集めた二次史料であるため、物語としての面白さや教訓性を高めるための脚色が加えられている可能性を常に念頭に置かなければならない。したがって、本書に記された内容を、そのまま歴史的事実として受け取ることはできず、その史実性については慎重な検討が求められる。
第二節:一次史料との矛盾 – 年次的な齟齬
この逸話の史実性に決定的な疑問を投げかけるのが、近年発見・研究が進んでいる同時代の一次史料である。その中でも特に重要なのが、天正18年(1590年)5月25日付で石田三成が常陸国の佐竹義宣の家臣・東義久に宛てた書状(『秋田藩家蔵文書』)の存在である 12 。
この書状は、佐竹義宣が秀吉に謁見する際の心構えなどを伝えたものだが、その 使者として、島左近の名前が明確に記されている のである 12 。これは、動かしがたい歴史的証拠である。
この事実は、「俸禄半知」の逸話が語る時間軸と、深刻な矛盾を生じさせる。逸話の舞台とされるのは、三成が近江水口城主として四万石を得ていた天正14年(1586年)頃 26 、あるいは佐和山城主となった文禄4年(1595年)以降とされている 25 。しかし、この一次史料は、それらの時期よりも前の天正18年(1590年)の段階で、左近が既に三成の家臣として、他家との外交交渉という重要な任務を担う重臣クラスの立場にあったことを示している。
この年次的な齟齬は、 「三成が浪人中の左近を、破格の待遇を提示してスカウトした」という逸話の根幹を、事実上否定する ものである。島左近が石田三成に仕官した経緯は、この有名な逸話が描くような劇的な形ではなく、もっと早い段階で、異なるプロセスを経て行われた可能性が極めて高いと言わざるを得ない。
第三節:渡辺勘兵衛の逸話 – もう一つの物語
さらに、この逸話の成立過程を考察する上で見逃せないのが、石田三成にまつわるもう一つの家臣登用譚の存在である。それは、豪傑として知られた渡辺勘兵衛を召し抱えた際の逸話であり、その構造は島左近の物語と驚くほど酷似している 12 。
その逸話によれば、渡辺勘兵衛は柴田勝家や羽柴秀吉から二万石という高禄で誘われてもなびかなかったほどの人物であった 31 。その勘兵衛を、当時まだ禄高わずか五百石の小姓に過ぎなかった三成が、なんと 自身の全俸禄である五百石 を差し出すと申し出て家臣にしたという 31 。この三成の並外れた心意気に秀吉が感心するという結末も、左近の逸話と共通している。
この二つの逸話の類似性は、偶然とは考えにくい。むしろ、より原初的で、三成がまだ小身であった時代の渡辺勘兵衛の逸話が**「原型(プロトタイプ)」**として存在し、それが後世、より有名で影響力の大きい島左近を主役として、物語が再構築されたと考えるのが自然である。その際、スケールは「全俸禄」から「半知」へ、「五百石」から「四万石」へと劇的に拡大され、より英雄的な物語へと昇華されたのではないか。後世の人々が、三成と左近という「理想の君臣」の関係性をより劇的に、より象徴的に描くために、勘兵衛の逸話を下敷きにして、より壮大な物語を創作した、という蓋然性は非常に高い。
第四節:結論 – なぜこの逸話は語り継がれるのか
歴史的検証の結果、「俸禄半知」の逸話は、史実そのものではなく、後世に創作された物語である可能性が極めて高いと結論付けられる。しかし、そのことによって、この逸話が持つ価値が損なわれるわけでは決してない。むしろ、史実性を超えたところに、この物語が不朽の伝説として語り継がれてきた真の理由が存在する。
この逸話は、史実か否かという次元以上に、 人々が石田三成と島左近という二人の人物に託した理想の姿 を、鮮やかに映し出している。私利私欲なく国家の将来を憂う「知」の将(三成)と、その高潔な心意気に自らの命と才覚の全てを賭して応える「武」の将(左近)。この物語は、戦国乱世における理想の君臣関係を、これ以上ないほど凝縮して描いているのである。
特に、江戸時代を通じて徳川史観の影響下で「佞臣」「奸臣」として不当に低い評価を受け続けてきた石田三成にとって 10 、この逸話は極めて重要な役割を果たしてきた。それは、彼の「人の真価を見抜く慧眼」と、「優れた才能を遇する際の度量の大きさ」、そして「大義のためには私財を惜しまない無欲さ」を伝える、数少ない肯定的な物語として、その人間的魅力を後世に伝え続ける灯火となったのである。
したがって、「島左近~俸禄半分で雇えぬ廉直の話~」とは、歴史的事実の記録というよりも、むしろ人々の記憶の中に築かれた記念碑であると言える。それは、石田三成という武将の再評価を促し、理想の主従の絆とは何かを問いかける、史実を超えて生き続ける不朽の伝説なのである。
引用文献
- 島左近(嶋左近)-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44328/
- 島左近は何をした人?「三成に過ぎたるものと謳われた鬼が関ヶ原を震撼させた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sakon-shima
- 島左近関連人物列伝1 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/retsuden01.html
- 島左近陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/shimasakonjinato.html
- 島左近(島左近と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/54/
- 戦国時代でスカウトしたい「島左近」 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/sakon-shima/
- 佐和山城は石田三成に過ぎたるものか https://yamasan-aruku.com/aruku290/
- 鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望したところ、三成の心配りから才気を見抜いたというのである。 もっともその当時、「観音寺の周辺が政所茶の大産地であった事や、また後に秀吉が生涯 https://www.seiseido.com/goannai/sankencha.html
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- 島左近(嶋左近) 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90093/
- 石田三成の逸話 - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/itsuwa/itsuwa.htm
- 島左近関連逸話集2・石田家時代 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep02.html
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- 加贺藩- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9
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- 石田三成の懐刀・嶋左近が辿った生涯|関ヶ原で戦う姿を“鬼左近”と恐れられた武将【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1153053
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- 「関ヶ原の鬼神」と恐れられた闘将【島左近】 石田三成の家臣ではもったいないとまでいわしめた男 【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/38089
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- 石田三成 - 歴史人物学習館 https://rekijin.net/ishida_mitunari/