黒田官兵衛
~有岡城幽閉後に冷徹な鬼へ~
黒田官兵衛、有岡城幽閉の深層 ―「鬼」へと変貌を遂げた智将の心理と論理
序章:智将、非情の淵へ
戦国の世に数多の智将が存在する中で、黒田官兵衛(後の如水)ほど、その知略の鋭さと人間性の深淵な変化によって後世の我々を惹きつけてやまない人物はいない。特に、彼の生涯における最大の転換点として語られるのが、天正6年(1578年)から約一年間に及んだ有岡城での幽閉体験である。この事件を境に、官兵衛は人が変わったかのように冷徹な判断を下す「鬼」へと変貌した、と広く伝えられている。
本報告書は、この「黒田官兵衛、有岡城幽閉後に冷徹な鬼へ」という特定の逸話に焦点を絞り、その通説の裏に隠された多層的な真実を徹底的に解明することを目的とする。単に「裏切られた復讐心から冷酷になった」という一面的な解釈に留まることなく、彼の変貌が、信じていた主君からの完全なる背信、耐え難い肉体的苦痛、そして最愛の息子の生命の危機という極限状況下で醸成された、生存と一族の未来を賭けた論理的帰結であったことを明らかにする。
有岡城の暗い牢獄は、官兵衛から何を奪い、そして何を与えたのか。本報告書は、史料の断片を丹念に繋ぎ合わせ、一人の智将が非情の淵に立たされ、そして「鬼」として再生するまでの軌跡を、時系列に沿って克明に追うものである。
第一部:謀反の連鎖 ― 智将を呑み込む裏切りの渦
官兵衛を有岡城の土牢へと導いたのは、単一の出来事ではない。それは、織田信長の天下布武という巨大な奔流の中で、複数の人物の思惑と裏切りが複雑に絡み合った、必然の悲劇であった。この部では、官兵衛が幽閉されるに至った政治的、そして人間的な背景を深く掘り下げる。
第一章:有岡城、翻意の深層
信長と村重の蜜月と亀裂
事件の主役である荒木村重は、もともと摂津の国人・池田氏の家臣という出自でありながら、その器量を織田信長に見出され、天正2年(1574年)には摂津一国を任されるという破格の厚遇を受けていた 1 。信長にとって村重は、畿内を安定させ、西国・中国地方へ勢力を拡大するための重要な駒であり、その信頼は絶大であった。それゆえに、天正6年(1578年)10月、村重が突如として信長に反旗を翻したという報は、信長自身に計り知れない衝撃を与えたのである 2 。
村重謀反の理由は、単一ではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果と見られている。
- 毛利・本願寺との連携説: 当時、信長は石山本願寺との長い戦いの渦中にあり、西からは毛利輝元が勢力を伸ばしていた。村重は、毛利氏や、毛利に庇護されていた将軍・足利義昭からの調略を受け、信長包囲網の一角を担うことを決意したとする説が最も有力である 2 。村重が毛利氏に提出した起請文には、将軍義昭への忠義を誓う文言が見られる 2 。
- 恐怖・不信説: 村重の家臣が密かに石山本願寺へ兵糧を横流ししていた事実があり、これが信長に露見した場合の苛烈な処罰を恐れたという説 2 。また、信長が本願寺攻めの総指揮官に佐久間信盛を任じるなど、自身の役割が縮小され、信長の信頼を失ったことへの絶望感と将来への不安が、村重を追い詰めたとする見方もある 4 。
- 屈辱説: 信長との初対面の際、刀の先に刺した餅(饅頭)を食べるよう強要されたという逸話が知られている 2 。この逸話の史実性は低いとされるが、信長の常人離れした行動様式と、それに接する家臣たちが抱く複雑な感情を象徴するものとして、謀反の心理的背景の一つとして語られることがある。
これらの要因が絡み合い、村重は信長からの厚恩を捨て、絶望的な籠城戦へと突き進んでいったのである。
第二の裏切り ― 主君・小寺政職の背信
村重の謀反は、中国攻めの司令官である羽柴秀吉にとって、播磨の背後を突かれる深刻な事態であった。そして、この混乱は官兵衛の主君である播磨御着城主・小寺政職の心を大きく揺さぶった。播磨の国衆は、東の織田か西の毛利かでその去就を決めかねており、政職もまた、毛利方への寝返りを密かに画策していたのである 6 。
織田方への帰属を強く主張する家老・官兵衛の存在は、政職にとって邪魔であった。政職の不穏な動きを察知した官兵衛が翻意を促すべく御着城へ駆けつけると、政職はこう告げた。「荒木村重殿を説得し、織田方に戻させることができたならば、私も毛利に与する考えを改めよう」 7 。
これは、官兵衛の有岡城行きが、単なる信長への忠義や秀吉への助力というだけでなく、「揺れ動く自らの主君を織田方に繋ぎ止めるための、最後の賭け」であったことを意味する。しかし、この言葉の裏には、政職の恐るべき奸計が隠されていた。『黒田家譜』によれば、政職は官兵衛を有岡城へ送り出す一方で、村重に使者を送り、「官兵衛がそちらへ向かったら、殺してしまってほしい」と依頼していたのである 8 。
つまり、官兵衛は忠義を尽くそうとした主君その人によって、死地へと送り込まれたのだ。これは、敵である村重からの拘束という事態を遥かに超える、深刻かつ決定的な裏切りであった。信じていた主君から、自身の命を差し出す形で完全に切り捨てられたこの経験こそ、官兵衛の人間観、そして忠誠という価値観を根底から覆し、後の彼の精神的変容を促す最大の要因となったのである。
第二章:虎穴に入る
説得の試みと捕縛の瞬間
天正6年10月、当時33歳の官兵衛は、わずかな供回りのみで有岡城へと向かった。官兵衛と村重は旧知の間柄であり、互いの器量を認め合う仲であったとされる 9 。官兵衛の中には、理を尽くせば、この無謀な謀反を翻意させられるかもしれないという一縷の望みがあったはずである。
しかし、有岡城に到着し、村重と対面するや否や、事態は急転する。官兵衛の説得は聞き入れられず、問答無用で捕縛され、城内の一角にある牢獄へと投じられてしまった 9 。この瞬間、官兵衛の明晰な頭脳は、すべてを悟ったに違いない。村重の頑なな態度の背後にある、主君・小寺政職の裏切りを。
驚愕、絶望、そして裏切られたことへの静かな怒り。薄暗い牢の中で、官兵衛は自らが、信義を重んじたがゆえに、最も信じていた者に嵌められたという非情な現実に直面したのである。
第二部:一年の暗闇 ― 肉体と精神の変容
有岡城の牢獄での約一年間は、官兵衛の人生において、物理的にも精神的にも最も過酷な時間であった。閉ざされた空間で彼の肉体と精神が変容していく一方で、牢の外では彼の運命を左右する激しい戦いと、もう一つの裏切り、そして固い友情の物語が進行していた。
有岡城幽閉を巡る時系列対照表
官兵衛の閉ざされた世界と、外で進行するダイナミックな戦況を対比することで、彼の個人的な苦難が、信長の誤解や息子・松寿丸の危機といった外部の出来事と、いかに密接に連動していたかを以下に示す。
年月 (天正) |
黒田官兵衛の状況(牢内) |
織田・羽柴軍の動向(牢外) |
荒木・毛利方の動向 |
6年10月 |
荒木村重の説得に失敗し、有岡城の土牢に幽閉される。主君・小寺政職の裏切りを悟る。 |
信長、官兵衛が帰還しないため、村重に寝返ったと誤解し激怒する 12 。 |
村重、有岡城に籠城を開始する 11 。毛利氏と連携。 |
6年11月 |
劣悪な環境下での生活が始まる。肉体的苦痛に苛まれる。 |
信長、嫡男・松寿丸の処刑を秀吉に命令 2 。有岡城包囲戦を開始する。 |
高山右近、中川清秀が織田方に降伏し、村重は孤立を深める 13 。 |
7年6月 |
- |
竹中半兵衛、三木城攻めの陣中で病没。松寿丸は匿われたまま。 |
- |
7年9月 |
幽閉生活、約1年が経過。心身ともに極限状態に達する。 |
織田軍、有岡城への総攻撃を準備。滝川一益による調略が進む 14 。 |
村重、妻子・家臣を残し、単独で有岡城を脱出する 11 。 |
7年10月 |
有岡城落城。家臣・栗山善助らにより救出される 7 。 |
有岡城を制圧する。 |
城兵は降伏し、開城する 14 。 |
7年12月 |
秀吉のもとで療養。 |
信長、荒木一族の処刑を命令。六条河原で公開処刑が行われる 17 。 |
村重の妻子、一族郎党が処刑される 19 。 |
第三章:土牢の日々
幽閉環境の検証 ― 「土牢」か「座敷牢」か
官兵衛が幽閉された場所の環境については、二つの説が存在する。
一つは、後世の伝記『黒田如水伝』などに記された「土牢説」である。それによれば、牢は「有岡城西北隅。背後に溜め池。三方が竹藪。一日中陽は差さず、湿気が強い」場所にあったとされ、薄暗く、じめじめとした不衛生極まりない環境であったと推測される 9 。この説に立てば、官兵衛の変貌は、極限の肉体的苦痛と、そこから生じる生存本能に根差すものとして理解される。
一方、近年の研究では、織田方との交渉の切り札となりうる重要人物である官兵衛を、そこまで劣悪な環境に置くとは考えにくいとして、「座敷牢説」も提唱されている 20 。この場合、官兵衛は一定の待遇を受けつつも、軟禁状態に置かれていたことになる。こちらの説では、物理的な苦痛よりも、裏切られた無念や、外界から完全に遮断された無力感、そして刻一刻と過ぎていく時間への焦りといった、精神的な苦痛が彼の変貌の主因であったと解釈できる。
両説いずれが真実であったにせよ、官兵衛が心身ともに深く傷つき、その後の人生を左右するほどの深刻な影響を受けたことに疑いの余地はない。
肉体を蝕む苦痛と精神の深化
約一年にも及ぶ幽閉生活は、官兵衛の肉体を容赦なく蝕んだ。湿度の高い劣悪な環境は皮膚病を引き起こし、彼の髪は抜け落ちてしまった。さらに、狭い牢内で身動きの取れない生活が続いたため、膝の関節が固着し、救出後も自由に歩くことが困難になるほどの深刻な後遺症が残った 8 。この痛々しい外見の変化は、彼の内面で起こった変容を象徴するものであった。
しかし、官兵衛はこの絶望的な状況の中で、ただ打ちひしがれていただけではなかった。彼は牢の中で、これまでの自らの生き方、そしてこれからの進むべき道を深く思索したと考えられる 21 。播磨の一土豪の家老として、小寺家のために尽くしてきた日々。そして、信長の「天下布武」という壮大な事業に未来を見出し、それに参画しようとした自らの選択。土牢の暗闇の中で、官兵衛は「天下の事業に参画したい」という当初の志を再確認し、「俺はこんなところで朽ち果てる男ではない」という強い意志を固めていたのではないだろうか 21 。この孤独な思索の時間が、彼の戦略眼を、より個人的な感情やしがらみから切り離された、冷徹で大局的なものへと昇華させた可能性は高い。
第四章:牢中に射す光と、外界の嵐
牢番との交流と個人の恩義
絶望的な状況の中にも、一条の光は存在した。牢番を務めていた荒木家臣・加藤又左衛門重徳は、官兵衛の境遇に深く同情し、密かに便宜を図るなど親切に接したという 9 。官兵衛はその恩義に深く感じ入り、「もし私が無事に本国へ帰ることができたなら、あなたの子を一人、私に預けてほしい。我が子・松寿の弟として大切に育てよう」と固く約束した。この約束は後に果たされ、又左衛門の子・玉松は黒田一成として黒田家の筆頭家老にまで出世する 22 。この逸話は、官兵衛が人間性そのものを見失ったわけではなく、受けた恩義には必ず報いるという、彼独自の義理堅さを示す重要な証拠である。
外界の激動 ― 息子の危機と竹中半兵衛の友情
官兵衛が牢にいる間、外界では彼の運命を揺るがす重大事が進行していた。有岡城へ向かった官兵衛が戻らないことから、信長は官兵衛が村重に寝返ったと誤解し、激怒した。そして、人質として秀吉に預けられていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を処刑するよう、秀吉に厳命を下したのである 2 。
主君の命令は絶対である。しかし、この絶体絶命の危機を救ったのが、秀吉のもう一人の軍師であり、官兵衛の同僚であった竹中半兵衛重治であった。半兵衛は「官兵衛殿に限って、裏切るなどということは万に一つもない」と固く信じていた 24 。彼は主君・信長を欺くという、自らの命をも危険に晒す覚悟で、秀吉に進言し、信長には「松寿丸はすでに処刑した」と偽りの報告をさせた。そして、密かに松寿丸を自身の居城である菩提山城下にかくまい、家臣に命じて保護したのである 24 。半兵衛のこの命がけの機転がなければ、黒田家の血脈はここで絶えていた。
この一連の出来事は、「裏切り」と「信頼」というテーマを鮮烈に浮かび上がらせる。官兵衛は、忠誠を誓った主君・小寺政職に裏切られ、その主君の主君である信長にまで裏切りを疑われた。その一方で、敵方である荒木家の家臣(加藤又左衛門)から個人的な情けをかけられ、同僚(竹中半兵衛)からは命がけの信頼を示された。この経験は、官兵衛に「主君や組織への忠誠がいかに脆く、不確かなものであるか」という冷徹な現実を突きつけた。そして同時に、「個人の間で交わされる恩義や信頼こそが、乱世を生き抜く上で最も確かな拠り所である」という新たな価値観を植え付けた。彼の「鬼」への変貌とは、単なる非情化ではない。それは、信頼の対象を「組織」から「個人」へと、そして観念的な「忠義」から実利的な「恩義」へとシフトさせる、価値観の根本的な再構築だったのである。
第三部:「鬼」の誕生 ― 逸話の検証と変貌の真実
約一年間の暗闇を経て、官兵衛は再び光の世界へと戻る。しかし、彼が目の当たりにしたのは、あまりにも非情な現実と、もはや後戻りのできない自らの変容であった。この部では、解放後の官兵衛の動向と、彼の「冷徹化」を象徴する逸話の真偽を検証し、変貌の核心に迫る。
第五章:解放と再会
劇的な救出と変わり果てた姿
天正7年(1579年)9月、戦況の悪化を悟った荒木村重は、妻子や家臣たちを城に残したまま、単身で有岡城を脱出した 11 。城主を失った有岡城は士気を失い、同年10月19日、織田軍の総攻撃の前に開城した 14 。
落城の混乱の中、官兵衛の忠臣・栗山善助らが牢獄へ駆けつけ、主君を救出した 7 。一年ぶりに日の光を浴びた官兵衛の姿は、見るも無残なものであった。髪は抜け落ち、皮膚は病み、自力で立つことさえままならないほど衰弱していた 12 。その変わり果てた姿は、幽閉生活の過酷さを何よりも雄弁に物語っていた。
秀吉との再会と友への感謝
救出された官兵衛は、秀吉の陣へと運ばれた。そこで彼は、二つの重要な事実を知らされる。一つは、息子・松寿丸の処刑命令が出ていたこと。そしてもう一つは、竹中半兵衛の機転によって松寿丸が無事であることであった 24 。しかし、その命の恩人である半兵衛は、有岡城が落城する数ヶ月前の6月に、三木城攻めの陣中で病没していた。
絶望の淵から生還し、跡継ぎの無事を知った安堵感。そして、自らの命と引き換えに友と息子を救ってくれた半兵衛への、言葉に尽くせぬ感謝と哀悼の念。官兵衛の胸中には、万感の思いが去来したことであろう。この深い安堵と感謝の念が、直後に彼が直面する非情な現実との、あまりにも強烈なコントラストを生み出すことになる。
第六章:冷徹なる献策 ― 逸話の検証と『鬼』の再定義
荒木一族の悲劇と逸話の検証
官兵衛は救出されたが、信長の怒りは逃亡した村重本人に向けられ続けた。そしてその矛先は、有岡城に残された村重の一族に向けられた。天正7年(1579年)12月、村重の妻・だしをはじめとする一族、女房衆、そして重臣の家族ら数百名が捕らえられ、尼崎や京の六条河原で、凄惨な方法で公開処刑された 17 。『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』は、その地獄絵図のような光景を克明に記録している。特に、村重の妻だしが、少しも取り乱さず、髪を結い直し、従容として死に臨んだ気高い姿は、見る者の涙を誘ったと伝えられる 19 。
ここで、本報告書の核心である逸話が登場する。「有岡城から救出された官兵衛が、自らを幽閉した村重への復讐心から、信長に対して荒木一族の根絶やしを冷酷に進言した」というものである。この逸話は、官兵衛の「鬼」への変貌を象徴するエピソードとして、後世の講談や創作物で繰り返し語られてきた。
しかし、収集した史料群( 10 ~ 8 )を徹底的に精査した結果、 黒田官兵衛が荒木一族の処刑を信長に進言した、あるいはその決定に積極的に関与したことを直接的に示す一次史料の記述は、一切確認できなかった。 この処断は、裏切り者に対して苛烈を極める信長の性格を考えれば、側近の進言を待たずして、信長自身の意思によって決定されたと見るのが極めて自然である。したがって、この逸話は、官兵衛の「冷徹化」という事実をより劇的に見せるために、後世に付加された創作である可能性が非常に高い。
『鬼』の再定義 ― 変貌の真実
では、官兵衛が「鬼」と称されるようになった真の理由は何だったのか。それは、特定の残虐な行為によるものではなく、彼の思考様式と行動原理の、より根本的な変化に起因する。有岡城での経験は、彼の精神構造を不可逆的に作り変えたのである。
- 裏切りへの達観: 主君・小寺政職からの裏切りは、彼に伝統的な主従関係や「忠義」という観念がいかに脆いものであるかを教えた。彼はもはや、主君や組織に対して無条件の忠誠を捧げるという幻想を抱かなくなった。
- 情の排除: 荒木村重への旧交という「情」を頼った結果、自らは一年もの時間を失い、肉体を蝕まれ、挙句の果てには息子の命まで危険に晒した。この痛苦の経験から、彼は戦略や政略の判断に個人的な感情を挟むことの危険性を骨身に染みて理解した。
- 徹底した合理主義・現実主義: 荒木一族の処刑という非情な現実を目の当たりにし、彼は戦国の世を勝ち抜くためには、時に非情なまでの合理性と、敵対勢力を根絶やしにする徹底性が必要であると達観した。甘い感傷は、自らと一族の破滅を招くだけであると。
結論として、官兵衛の「鬼」への変貌とは、「 復讐心に駆られた残虐化」ではなく、「感傷や旧来の価値観を完全に捨て去り、勝利と黒田家の存続という目的達成のためには、いかなる非情な手段も厭わない、徹底した合理主義・現実主義の化身へと生まれ変わったこと 」を指す。彼が排除したのは人間性ではなく、目的達成の障害となる「情」だったのである。
終章:鬼と呼ばれた男の道
有岡城の暗い牢獄は、黒田官兵衛という一人の稀代の智将を、軍師・黒田如水という、より恐ろしく、より完成された存在へと鍛え上げた crucible(坩堝)であった。この一年間の経験は、その後の彼のキャリアのすべてを決定づけたと言っても過言ではない。
解放後、秀吉の軍師に復帰した官兵衛の献策は、以前にも増して鋭さと非情さを帯びるようになる。備中高松城の水攻め、本能寺の変後の「中国大返し」における迅速な判断、そして秀吉の天下統一事業における数々の調略。そのいずれもが、有岡城で培われた、一切の感傷を排した徹底的な合理主義に貫かれている。彼はもはや、誰かを心から信じることをやめ、ただ状況と結果のみを信じるようになっていた。
その冷徹な世界観が最も顕著に現れたのが、関ヶ原の合戦である。彼は豊臣家への恩義を感じつつも、徳川と石田が疲弊した隙を突き、九州を平定して天下を狙うという壮大な野望を抱いた。主君の天下分け目の戦の裏で、自らの天下を画策する。これは、主君への忠誠という価値観が崩壊し、自らの一族の繁栄こそが至上の目的となった、有岡城後の官兵衛だからこそ可能な発想であった。
黒田官兵衛が「鬼」となったのは、個人的な復讐心からではない。それは、裏切りが日常である乱世を生き抜き、自らの理想と一族の未来を切り拓くために、彼が自ら選び取った必然の道であった。彼の変貌は、一個人の悲劇であると同時に、信義が意味をなさなくなった戦国という時代の本質そのものを体現した、一つの極限的な生存戦略だったのである。有岡城の土牢の闇は、彼の心から光を奪い、代わりに天下を照らすことができるほどの、冷たく、しかし強靭な輝きを与えたのだ。
引用文献
- 【解説:信長の戦い】有岡城の戦い(1578~79、兵庫県伊丹市) 信長に背いた荒木村重の運命は!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/484
- 荒木村重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D
- 第2回有岡城で織田信長と戦った?! - 伊丹市 https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKATSURYOKU/BUNKA/bunnkazai/KEIHATU_ZIGYO/ouchideariokajyou/1588049228013.html
- 織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と本能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1014856/2
- 謀反の謎と茶人としての再起~妻だしの悲劇と最期 荒木村重はなぜ信長を裏切ったのか?(後編) | レキシノオト https://rekishinote.com/m-araki03/
- 天下統一への道 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622719.html
- 九)官兵衛、有岡城に幽閉 - 播磨時報 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1585/
- 有岡城の戦いが勃発した際、荒木村重に謀反を思いとどまるよう説得に向かった智将とは? https://www.rekishijin.com/16222
- 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1895
- その子孫たち 知られざる福岡藩270年 現代人にも共感できる黒田官兵衛の生き方|グラフふくおか(2014 春号) https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2014spring/walk/walk_02.html
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- 「黒牢城」書評 荒木村重はなぜ城を脱出したか - 好書好日 https://book.asahi.com/article/14401775
- 黒田官兵衛が幽閉された有岡城を訪ねて/兵庫県・伊丹市 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10877395
- 美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82923/
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- 【戦国】黒田官兵衛の幽閉場所はどこ?官兵衛を救った加藤重徳と三奈木黒田氏 - 蓋と城 https://jibusakon.jp/history/sengoku/minagi
- 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1895?p=1
- 黒田官兵衛が荒木村重を説得するために有岡城へ行き、幽閉された時に村重の家臣と親しくなり https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000304914&page=ref_view
- 黒田官兵衛 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90105/
- 第36回 『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男 https://plus.jmca.jp/tu/tu36.html
- 黒田長政 - 福岡市 https://www.city.fukuoka.lg.jp/promotion/kanbei/documents/b_cover_85.pdf
- 黒田長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
- 黒田長政(黒田長政と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/31/
- 15 「黒田官兵衛 VS 竹中半兵衛」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/15.html