最終更新日 2025-09-30

口之津港整備(1570)

1570年、有馬氏の口之津港は南蛮貿易で栄えるも、大村純忠が長崎を開港。イエズス会は長崎を選び、口之津は経済的役割を終え、宗教・文化拠点へ転換。天正遣欧少年使節の構想が練られた。
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元亀元年の光と影:口之津港整備と長崎開港の相克―戦国期肥前における南蛮貿易港の興亡史―

序章:1570年、肥前の海に吹く風

戦国時代の日本、とりわけ西国九州の情勢は、一隻の異国の船によって大きく左右される時代にあった。16世紀半ば、ポルトガル人がもたらした南蛮貿易は、単に珍奇な文物や生糸を輸入する経済活動に留まらなかった。それは、戦国大名たちの存亡をかけた権力闘争の様相を一変させる、戦略的価値を秘めた切り札であった。硝石や鉛、そして何よりも火縄銃という最新兵器の導入は、合戦の勝敗を決定づけるほどの力を持ち、その窓口となる貿易港を自領に誘致することは、各大名にとって最優先の課題となっていた 1 。南蛮貿易がもたらす莫大な富は、疲弊した領国経済を潤し、兵を養い、城を築くための財政基盤を強化した 2 。さらに、宣教師や商人からもたらされる海外の地理、科学、そして国際情勢に関する情報は、織田信長のような先進的な大名にとって、旧来の世界観を打ち破り、新たな統治のビジョンを構想するための貴重な資源であった 3

本報告書が焦点を当てる元亀元年(1570年)の肥前国(現在の長崎県、佐賀県)は、まさにこの南蛮貿易を巡る欲望と戦略が渦巻く、動乱の中心地であった。この物語には、それぞれに異なる思惑を抱いた主要なアクターたちが存在する。

第一に、島原半島を本拠とする 有馬氏 である。当主の有馬義貞(義直)、そして後に家督を継ぐことになる晴信は、北方に勢力を拡大する龍造寺氏の圧倒的な軍事的圧力に常に晒されていた 4 。彼らにとって南蛮貿易は、劣勢を覆すための唯一の活路であり、生き残りをかけた最後の希望であった。

第二に、有馬義貞の実弟でありながら大村家の養子となった 大村純忠 である。日本初のキリシタン大名として知られる彼は、兄の有馬氏と協力関係にありながらも、南蛮貿易の主導権を巡っては熾烈な競争を繰り広げるライバルであった 6

第三に、「肥前の熊」と恐れられた戦国大名、 龍造寺隆信 である。九州北部で破竹の勢いを見せる彼は、有馬・大村両氏にとって最大の軍事的脅威であった。皮肉にも、この龍造寺氏の存在こそが、両氏を南蛮貿易へと傾倒させた最大の要因であったと言える 4

そして最後に、海の向こうからやってきた二つの集団、 イエズス会宣教師 ポルトガル商人 である。コスメ・デ・トーレス、ルイス・デ・アルメイダ、そして後に『日本史』を著すルイス・フロイスら宣教師の第一の目的は、キリスト教の布教にあった。しかし、その活動資金と安全を確保するためには、ポルトガル商人と密接に連携し、貿易の利益に深く関与する必要があった 9 。彼らにとって貿易と布教は不可分であり、寄港地の選定に絶大な影響力を持っていた。一方、ポルトガル商人たちは、何よりも安全かつ安定した交易ルートの確保と利益の最大化を追求する経済主体であった。

これらのアクターたちの思惑が交錯する中で、南蛮貿易は「諸刃の剣」としての性格を露わにする。大名たちは富と軍事力を渇望したが、その対価としてキリスト教の布教を公認せねばならなかった 11 。これは、領内の伝統的な仏教勢力との深刻な軋轢を生むだけでなく、後に豊臣秀吉や徳川幕府が発令する伴天連追放令や禁教令といった、中央政権からの弾圧リスクを内包する危険な賭けであった。有馬氏が口之津港にかけた期待は、短期的な生存戦略と、長期的な政治的リスクとの引き換えだったのである。1570年という年は、このリスクがまだ顕在化する前、有馬氏にとって南蛮貿易が唯一の光明に見えていた、そんな時代の物語である。

第一章:口之津前史 ― 安定を求めたポルトガル船

口之津港が歴史の表舞台に登場する以前、ポルトガル船は安定した寄港地を求めて肥前国の沿岸を彷徨う「港の流浪時代」を経験していた。この不安定な時代背景を理解することなくして、口之津がなぜ一時的にせよ南蛮貿易の中心地となり得たのかを解き明かすことはできない。

南蛮貿易の黎明期、ポルトガル船が最初に寄港したのは平戸であった 12 。1550年から始まった平戸での交易は、しかし常に不安定要素を抱えていた。領主であった松浦氏との間では、貿易の主導権や利益配分を巡る摩擦が絶えず、また、古くからの仏教勢力が強かった領内では、キリスト教の布教活動が激しい反発を招き、宗教的な対立が頻発した。ポルトガル人にとって、平戸は利益は上がるものの、決して心休まる場所ではなかったのである。

こうした状況を打開すべく、1562年、大村純忠は自領の横瀬浦(現在の長崎県西海市)を新たな貿易港として開港し、ポルトガル船の誘致に成功する 14 。純忠は日本初のキリシタン大名として洗礼を受け、イエズス会を手厚く保護した。しかし、彼のキリスト教への傾倒はあまりに急進的であった。領内の寺社仏閣を破壊し、領民に改宗を強要した政策は、家臣団の間に深刻な亀裂を生み、ついに大規模な反乱を招いてしまう。その結果、開港からわずか1年余りの1563年、繁栄を謳歌し始めた横瀬浦は炎に包まれ、灰燼に帰した 14 。この悲劇は、ポルトガル側にとって痛烈な教訓となった。「キリシタン大名の庇護」という条件だけでは不十分であり、貿易港の存続には何よりも「領内の政治的安定」が不可欠であるという事実を、彼らは骨身に染みて理解したのである。

横瀬浦の壊滅は、図らずも新たな港に光を当てることになった。大村純忠の兄である有馬義貞(義直)は、弟が横瀬浦を開港したのと全く同じ永禄5年(1562年)、自領の南端に位置する口之津を南蛮貿易港として開くことを宣言していた 7 。これは、弟の成功に触発され、南蛮貿易の莫大な利益を自領にもたらそうとする、明確な対抗策であり、兄弟間の誘致競争の始まりであった。

当初、ポルトガル側は横瀬浦を失った後、福田(現在の長崎市)などを一時的な寄港地としたが 13 、いずれも本格的な貿易拠点とするには決め手を欠いていた。その中で、口之津の持つ地理的優位性が改めて注目されることになる。口之津は、大型のポルトガル船(ナウ船)が安全に停泊できる十分な水深を持ち、三方を丘に囲まれて季節風を避けやすい、まさに「天然の良港」であった 17 。さらに、天草灘に面し、有明海への航路の入り口に位置するその立地は、当時の海上交通の要衝でもあった 7 。政治的にも、有馬氏の支配は比較的安定しているように見えた。こうして、安定を求めるポルトガル船の視線は、次第に島原半島の南端、口之津へと注がれていくのである。

以下の表は、長崎開港以前の肥前国における主要な南蛮貿易港の変遷をまとめたものである。この表は、ポルトガル側が一貫して「安全で、安定し、領主が完全に統治できる港」を求めていたという歴史的経緯を明確に示している。口之津はその探求の過程における一つの重要な到達点であり、そして長崎がその最終的な答えであったことが、この変遷から読み取れる。

肥前国における主要南蛮貿易港の変遷と比較

港名

主な庇護大名

開港年

衰退/閉港年

地理的・政治的特徴

主要な出来事

平戸

松浦隆信

1550年

(断続的に継続)

良好な港だが、領主との摩擦や宗教対立が頻発。

ポルトガル船初入港の地。

横瀬浦

大村純忠

1562年

1563年

優れた港湾。しかし領主の急進的政策が内乱を招く。

開港後わずか1年で反乱により焼失 14

福田

大村純忠

1565年

1566年頃

長崎に近く、一時的な寄港地。港が狭く防衛に難あり。

松浦氏の襲撃を受ける。

口之津

有馬義貞

1562年

1582年頃

天然の良港。有馬氏の庇護下で安定。

1567年に本格的な貿易開始。1579年宣教師会議開催 16

長崎

大村純忠

1570年

(幕末まで継続)

三方を山に囲まれた最高の天然港。防衛に極めて有利。

1571年以降、ポルトガル貿易の拠点となる 13

第二章:有馬氏の決断 ― 口之津開港とキリスト教の浸透(1562年~1569年)

口之津が名実ともに南蛮貿易港として機能し始めるまでの道のりは、有馬氏の政治的決断と、それに伴うキリスト教の浸透という二つの軸が絡み合いながら進んでいった。1570年の「整備」に至る下地は、この8年間に着実に形成されていったのである。

永禄5年(1562年):開港宣言とその意図

有馬義貞が口之津の開港を宣言したこの年、まだ一隻のポルトガル船もその港に姿を現してはいなかった。この宣言は、現実の貿易開始を告げるものではなく、有馬氏側からの積極的な誘致活動の狼煙であった 6 。その背景には、二重の動機が存在した。一つは、弟である大村純忠が横瀬浦で成功を収めつつあることへの対抗意識。もう一つは、そしてより切実な動機として、肥前国北部で勢力を拡大し続ける龍造寺隆信の脅威に対抗するため、富国強兵策を推し進める必要があったことである。この時点での開港宣言は、ポルトガル人に対する「我々の港は、あなた方を受け入れる用意がある」という明確なメッセージであった。

永禄6年(1563年):布教の開始と拠点の形成

有馬義貞の招きに応じ、翌年、医師としての知識も持つイエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダが口之津の地を踏んだ 16 。彼はこの地で、島原半島における最初のキリスト教の洗礼を250人の住民に授け、教会を建設した 6 。これは、有馬氏が南蛮貿易を誘致するための交換条件として、キリスト教の布教を公式に許可したことを示す象徴的な出来事であった。ここに建てられた教会は、単なる宗教施設に留まらなかった。それは、来航するポルトガル人たちの精神的な支えとなるコミュニティの中心であり、文化交流のサロンであり、そして時には貿易交渉が行われる実務的な場としても機能したのである。

永禄10年(1567年):ポルトガル船、ついに来航

開港宣言から4年の歳月が流れたこの年、ついに3隻のポルトガル船が口之津港に入港した 16 。この瞬間、口之津は名実ともに国際貿易港としての歴史的な歩みを始めた。この4年間というタイムラグは、ポルトガル側の慎重な姿勢を物語っている。横瀬浦焼失の悪夢を経験した彼らは、福田港などを試しながら、口之津の港湾としての性能、そして何よりも有馬氏の統治能力と領内の安定性を注意深く見極めていたのである。有馬氏が示した継続的な歓迎の姿勢と、アルメイдаらによって築かれた現地のキリスト教コミュニティの存在が、最終的に彼らの信頼を勝ち取ったのであった。

龍造寺氏からの軍事的圧力と貿易への依存

口之津が貿易港として発展していくこの期間、有馬氏を取り巻く軍事環境はますます厳しさを増していた。龍造寺隆信は肥前国統一の野望を露わにし、有馬領への侵攻を繰り返していた 4 。有馬氏にとって、口之津での南蛮貿易によって得られる鉄砲、火薬、そして財貨は、龍造寺氏の強大な軍事力に抗するための文字通りの生命線であった 1 。この軍事的状況が、有馬氏の南蛮貿易への依存度を決定的に高めていく。貿易を継続するためには、ポルトガル商人やイエズス会の意向を無視することはできない。その結果、有馬氏は領内でのキリスト教保護政策をさらに強化せざるを得なくなり、それがまた貿易の安定化に繋がるという循環が生まれていった。

口之津の発展は、単に有馬氏の先見の明や積極的な経済政策の結果としてのみ語ることはできない。その背景には、常に龍造寺隆信という強大な「外圧」の存在があった。有馬氏の領地は決して肥沃ではなく、度重なる戦火に疲弊していた 2 。この危機的状況が、彼らを南蛮貿易というハイリスク・ハイリターンな戦略へと駆り立てたのである。口之津の賑わいは、有馬氏の存亡をかけた危機感の裏返しであり、その発展は外圧によって強制的に加速された側面が強かった。貿易は、もはや単なる経済活動ではなく、生き残りをかけた軍事戦略そのものであったのだ。

第三章:元亀元年(1570年)の錯綜 ― 「口之津港整備」のリアルタイム分析

本報告書の核心である元亀元年(1570年)。この年、口之津港は繁栄の頂点を迎える一方で、その地位を根底から覆す歴史的な出来事がすぐ隣で静かに進行していた。複数の視点から当時の状況を「リアルタイム」で再構築することで、歴史の皮肉とダイナミズムを浮き彫りにする。

【口之津の視点】繁栄の頂点と「整備」の実態

1567年のポルトガル船初入港から3年、口之津は活気に満ち溢れていた。港には南蛮船がもたらした異国の品々が溢れ、日本人商人やポルトガル商人、宣教師たちが行き交い、大変な賑わいを見せていたと記録されている 16 。この繁栄の只中で進められたのが「口之津港整備」である。

ここでいう「整備」とは、現代的な重機を用いた大規模な土木工事を意味するものではない。それは、国際貿易港としての「機能拡張」と解釈するのが最も適切である。具体的には、以下のような多岐にわたる整備が進められたと考えられる。

  • 物的インフラの拡充: ポルトガル商人が商品を保管し、取引を行うための商館や倉庫群の建設。宣教師や増加する信者のための教会(天主堂)や、病院、学校といった関連施設の拡充 6
  • 都市機能の形成: 日本人商人と、来航する外国人たちが居住し、生活するための区画整理。後に「唐人町」と呼ばれる地区の原型もこの頃に形成された可能性がある 16
  • 制度的インフラの整備: 異文化間の取引を円滑に進めるための商慣習やルールの策定、治安維持のための体制構築、そして度量衡の統一など、ソフト面のインフラ整備も不可欠であった。

この時点において、口之津は有馬氏にとってまさしく富と軍事力の源泉であり、その繁栄は一族の未来を照らす希望の光であった。

【大村領の視点】長崎開港という衝撃

しかし、口之津がその栄光の頂点にあったまさにその年、歴史の歯車は別の場所で大きく回転していた。元亀元年(1570年)、有馬氏の弟でありライバルでもある大村純忠は、ポルトガル側と決定的な協定を締結し、長崎を新たな貿易港として開港したのである 13

なぜ長崎だったのか。その理由は、過去の失敗の教訓に基づいていた。長崎港は三方を山に囲まれ、湾の入り口が狭いという、防衛上この上なく有利な地形を持っていた。これは、横瀬浦で家臣の反乱に、福田で松浦軍の襲撃に苦しめられたポルトガル側にとって、何物にも代えがたい魅力であった。さらに純忠は、長崎の地そのものをイエズス会に寄進するという、前代未聞の破格の条件を提示した 19 。これにより、ポルトガル側は領主の気まぐれや国内の政争に左右されない、恒久的かつ絶対的に安全な拠点を手に入れることができたのである。

【イエズス会の視点】二つの港を天秤にかける戦略

イエズス会にとって、口之津を庇護する有馬氏と、長崎を提供する大村氏は、どちらもキリスト教布教を支える重要なパートナーであった。彼らの目的は布教効果の最大化であり、そのためには最も安全で効率的な貿易港を確保することが絶対条件であった。

ルイス・フロイスが後に著した『日本史』などの記録からは、彼らが両港の地形的条件、政治的安定性、そして領主の信仰の篤さを冷静に比較検討していた様子が窺える 15 。口之津も優れた港であったが、長崎の持つ圧倒的な地形的優位性と、大村純忠による「領地寄進」という究極の申し出は、彼らの天秤を決定的に長崎へと傾けた。

【時系列での再構築】1570年、肥前沿岸の同時進行ドキュメント

元亀元年の肥前沿岸で起きていた出来事を、あたかもドキュメンタリーのように再構成してみよう。

  • 春から夏: 口之津では、今年も間もなく来航するであろうポルトガル船団を迎える準備が着々と進められていた。港は活気に満ち、有馬氏もまた、龍造寺氏に対抗するための軍資金となる貿易利益に大きな期待を寄せていたであろう。
  • 同時期: そのすぐ北に位置する大村領では、純忠とポルトガル側の代表者の間で、長崎開港に向けた最終交渉が密かに行われていた。この動きは、有馬氏にとっては全く知らされていない、水面下での出来事であった可能性が高い。
  • 秋から冬: ポルトガルのナウ船が東シナ海に姿を現す。この年はまだ口之津にも寄港したかもしれないが、宣教師や船乗りたちの間では、翌年以降の主たる寄港地が長崎に固定されるという情報が共有され始めていたはずだ。口之津の町が一年で最も華やぐ季節の裏側で、その繁栄の終焉を告げるカウントダウンが、静かに始まっていたのである。

ユーザーが指定した「口之津港整備(1570)」という事象の歴史的意義は、口之津単体で評価することはできない。同年に起きた「長崎開港」という出来事との対比の中に置くことによって、初めてその真の姿が浮かび上がる。口之津で進められていた「整備」は、未来に向けた発展のための投資というよりも、その価値がまさに失われようとする瞬間に放った、最後の輝きであった。一つの歴史的ピークが、次なる時代の幕開けによってその終焉を規定されるという、歴史の非情なダイナミズムが、この1570年という年に凝縮されている。

第四章:斜陽と最後の輝き ― 長崎への重心移動と口之津の変容

1570年を境として、口之津の運命は大きく転換する。南蛮貿易の主役の座を長崎に譲り渡した口之津は、しかし、歴史の舞台から完全に姿を消したわけではなかった。経済的中心地としての役割を終えた後、この港町は宗教と文化の拠点として新たな役割を担い、最後の輝きを放つことになる。

元亀2年(1571年)以降:ポルトガル船の長崎への恒常的入港

この年から、ポルトガル船は長崎を主要な寄港地として恒常的に利用し始める 13 。これにより、口之津の貿易額は激減し、国際貿易港としての地位は急速に失われていった。これは有馬氏にとって経済的、軍事的に大きな打撃であり、龍造寺氏への対抗戦略の根本的な見直しを迫られる事態であった。この苦境が、後の当主・有馬晴信をより一層キリスト教へと傾倒させ、1580年の洗礼へと繋がった一つの要因である可能性は高い 4

交易港から布教・文化拠点への変容

貿易の中心地ではなくなったとはいえ、口之津には既に教会や病院、そして多くの信者からなる強固なコミュニティが形成されていた。そのため、イエズス会にとって口之津は、島原半島におけるキリスト教布教の重要な根拠地であり続けた 6 。その事実を雄弁に物語るのが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの動向である。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺で倒れるという日本史を揺るがす大事件が起きた際、フロイスは京や安土ではなく、遠く離れた口之津に滞在していた 24 。これは、口之津が単なる過去の港ではなく、依然としてイエズス会の情報網と活動における重要拠点であったことを明確に示している。

天正7年(1579年):ヴァリニャーノと全国宣教師会議

口之津がその新たな役割において最も輝いたのが、この年であった。イエズス会の東インド管区巡察使という要職にあったアレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本における布教活動の将来を決定づけるための「全国宣教師会議」の開催地として、長崎ではなく口之津を選んだのである 16 。この会議では、九州のキリシタン大名(大友・有馬・大村)の名代として少年使節をローマへ派遣する「天正遣欧少年使節」の構想や、日本人司祭を育成するための高等教育機関(セミナリヨ、コレジヨ)の設立といった、日本のキリスト教布教史上、極めて重要な方針が次々と決定された。経済的繁栄を失った港町は、日本のキリスト教の未来を方向づける、歴史的な議論の舞台となったのである。

天正10年(1582年)頃:貿易港としての歴史の終焉

この年を最後に、ポルトガル船が口之津に入港したという記録は途絶える 6 。ここに、南蛮貿易港としての口之津の約20年間の歴史は、完全に幕を閉じた。しかし、有馬氏の海外への関心が途絶えたわけではない。当主の有馬晴信は、江戸時代に入ってからも朱印船貿易に積極的に乗り出し、大名の中では最多の派遣回数を誇った 2 。口之津での国際交流の経験が、その後の有馬氏のグローバルな視野と交易政策に、少なからぬ影響を与えたことは想像に難くない。

長崎に貿易の主役を奪われたことをもって、口之津の歴史的役割が「失敗」に終わったと見るのは一面的である。実際には、貿易港時代に築かれた人的・物的インフラ(教会組織、信者コミュニティ、宣教師との強固なパイプ)を土台として、日本のキリスト教における「精神的・戦略的拠点」へとその役割を昇華させたのである。天正11年(1583年)、ルイス・フロイスが壮大な『日本史』の執筆を開始したのも、この口之津の地であった 27 。口之津の物語は、「繁栄から衰退へ」という単純な直線的変化ではない。それは、「経済的拠点から宗教的・知的拠点へ」という、質の的な「役割の転換」として捉えるべきなのである。

結論:歴史事象としての「口之津港整備(1570)」の再評価

本報告書で詳述してきた通り、「口之津港整備(1570)」という事象は、単一の港湾開発事業としてではなく、戦国時代末期の九州における複雑で多層的な文脈の中に位置づけることによって、初めてその歴史的意義が明らかになる。

第一に、この事象は、三つの異なるベクトルの利害が交錯し、そして乖離し始めた「転換点」であった。すなわち、①龍造寺氏の脅威から生き残るため、南蛮貿易に全てを賭けた有馬氏の生存戦略、②横瀬浦の悲劇を乗り越え、より安全で安定した貿易港を希求したポルトガル人の探求の旅、そして③貿易と一体となった布教活動の恒久的な拠点を求めたイエズス会の日本布教戦略。1570年まで、これら三者の利害は口之津において一致していた。しかし、長崎という、より優れた選択肢の出現により、その均衡は崩れ、それぞれのベクトルは新たな方向へと進み始めたのである。

第二に、口之津の経験は、長崎の成功のための重要な「習作」であったと評価できる。平戸での政治的摩擦、横瀬浦での宗教的内乱、そして口之津の地形的な限界。これらの成功と失敗の経験の積み重ねが、ポルトガル側にとって理想的な貿易港の条件―すなわち、圧倒的な地形的優位性と、領主による絶対的な支配と安全の保証―を明確化させた。口之津での繁栄があったからこそ、それを超える長崎という「最終回答」へと彼らは導かれたのである。口之津なくして、長崎の急速な発展はあり得なかったかもしれない。

最後に、この物語は歴史の持つ非情な皮肉と、変化の激しい時代における普遍的な教訓を示している。有馬氏が領国の存亡をかけて整備し、繁栄の絶頂にあった港が、まさにその年に、すぐ隣で産声を上げた新たな港によって、その存在意義を根本から奪われてしまう。これは、地政学的条件や技術、そして戦略的環境の変化が、いかに急速に既存の優位性を陳腐化させるかを示す好例である。栄光と悲哀が常に隣り合わせに存在する戦国という時代を象徴する一幕として、「口之津港整備(1570)」は、我々に歴史のダイナミズムを鮮烈に物語っている。

引用文献

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