壱岐検地実施(1600)
慶長五年、松浦鎮信は関ヶ原の動乱後、壱岐で検地を実施。徳川家康への忠誠を示し、壱岐の石高を確定して藩財政の基盤を確立した。これは中世的支配を解体し、近世的な一元的統治を確立する静かなる革命であった。
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慶長五年 壱岐検地:関ヶ原の動乱と平戸藩新秩序の胎動
序章:慶長五年、壱岐の夜明け―検地という名の新秩序
慶長五年(1600年)、この年は日本の歴史が地殻変動ともいえるほどの大きな転換を遂げた画期であった。秋九月、美濃国関ヶ原において徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突し、わずか一日で天下の趨勢は決した。この戦いは、百年にわたる戦国の世に事実上の終止符を打ち、徳川幕府による二百六十余年の泰平の世へと至る道筋をつけたのである。
その激動の最中、西の海に浮かぶ国境の島、壱岐国では、新たな時代の到来を告げる、静かなる、しかし決定的な変革が始まろうとしていた。それが、平戸藩主・松浦鎮信の命によって断行された「壱岐検地」である。一般に、この事業は「島内石高を確定し年貢体系を整備」したものと要約される。しかし、この簡潔な説明は、歴史の巨大なうねりの中で敢行されたこの事業の、表層的な結果をなぞるに過ぎない。
本報告書は、この慶長五年の壱岐検地を、単なる地方領主による内政事業としてではなく、関ヶ原の動乱と密接に連動した、極めて高度な政治的・戦略的決断の帰結として捉え直すものである。それは、存亡の危機を乗り越えた松浦氏による自領支配権の再確認と確立のプロセスであり、新たな天下人・徳川家康に対し自らの統治能力と経済基盤を提示する政治的行為であった。さらに、壱岐の社会に目を転じれば、中世的な重層的支配構造を解体し、近世的な一元的支配体制へと移行させた「静かなる革命」であり、平戸藩の経営戦略上、壱岐を安定した収奪拠点として再定義する経済政策でもあった。
本報告書は、これらの多角的な視点から、壱岐検地という歴史事象の深層を徹底的に解明する。関ヶ原の戦雲が渦巻く中で松浦鎮信がいかなる決断を下し、それが如何にして壱岐の土地と人々を測量する竿へと結実したのか。そのリアルタイムな進行過程と、壱岐社会にもたらした構造的変革、そしてその後の平戸藩経営における戦略的意味を、時系列に沿って明らかにしていく。
第一章:関ヶ原の動乱と松浦鎮信の決断―壱岐の運命を定めた選択
岐路に立つ松浦氏:豊臣恩顧大名の苦悩
慶長五年、天下分け目の戦いが勃発したとき、肥前平戸の領主・松浦鎮信は絶体絶命の窮地に立たされていた。彼の経歴を紐解けば、紛れもなく豊臣恩顧の大名であった。天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐に際してはいち早く恭順の意を示し、その結果、旧来の所領である肥前国北部の松浦郡と壱岐国を安堵された 1 。続く文禄・慶長の役では、小西行長率いる第一軍に属し、三千の兵を率いて朝鮮半島へ渡海。二十四戦全勝という目覚ましい戦歴を誇り、豊臣政権下でその武名を轟かせた 1 。
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が台頭すると、鎮信は時勢を冷静に見極め、家康への接近を水面下で模索していた。しかし、彼の深謀遠慮とは裏腹に、家督を継いでいた嫡男・松浦久信は、大坂にあって石田三成を中心とする西軍に与するという、父とは正反対の立場を取ってしまった 6 。この「家の分裂」は、戦後どちらが勝利しても家名を存続させるための保険戦略であったという見方も存在するが、現実には一歩間違えれば改易・滅亡に繋がりかねない、極めて危険な賭けであった。豊臣家への恩義と、新たな時代の実力者である徳川家への配慮。その狭間で、松浦家は存亡の危機に瀕していたのである。
徳川家康への忠誠の証明:起死回生の政治劇
鎮信の苦悩は深かったが、決断の時は迫っていた。彼は、同じ肥前の大名であり、早くから東軍への味方を表明していた大村喜前の助言を受け、徳川家康率いる東軍に与することを最終的に決断した 6 。
しかし、単に味方を表明するだけでは不十分であった。嫡男・久信が西軍にいるという事実は、家康の疑念を招くに十分な材料であった。ここで鎮信は、常人には思いもよらない大胆かつ劇的な行動に出る。家康への絶対的な忠誠を明確に示すため、建設途中であった自らの新たな居城・平戸城の一部を、自らの手で焼き払ったのである 6 。この行為は、西軍に与した息子との関係を断ち切り、家康への忠誠のためには自らの本拠地さえも犠牲にする覚悟があるということを、視覚的に、そして強烈にアピールするための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。戦場での物理的な戦功以上に、この「忠義の表明」こそが、松浦家の運命を決定づける起死回生の一手となった。
所領安堵と検地への道:新時代への第一歩
慶長五年九月十五日、関ヶ原での東軍圧勝の報が西国にもたらされると、鎮信の賭けは報われた。家康は鎮信のこの対応を高く評価し、戦後処理において、彼に温情ある措置を下した。鎮信は家康から直々に朱印状をもって、従来の所領である肥前国松浦郡・彼杵郡、そして壱岐国を合わせた6万3200石の領有を正式に安堵されたのである 1 。西軍に付いた息子の久信にも咎めはなく、松浦家は最大の危機を乗り越え、平戸藩初代藩主として近世大名の仲間入りを果たすことに成功した 6 。
この所領安堵という政治的勝利の直後、鎮信は間髪を入れずに壱岐検地の断行を命じる。この迅速な動きは、単なる内政整備という枠を超えた、深い政治的意図を内包していた。関ヶ原の戦いは、日本全国の支配秩序をリセットする大事件であった。松浦鎮信は、巧みな政治行動で自領の安堵という「権利」を勝ち取ったが、それだけでは不十分であった。新たな支配者である徳川家康に対し、その安堵された領地を完全に掌握し、安定した統治と年貢徴収(すなわち軍役奉仕の原資)が可能であるという「義務」を果たす能力を、具体的に示す必要があったのである。
この文脈において、壱岐検地は二重の意味を持っていた。第一に、関ヶ原の動乱を乗り切った松浦氏による「戦後処理」として、自領、特にこれまで支配が複雑であった壱岐に対する完全な支配権を再確認し、確立するプロセスであった。第二に、新たな天下人・徳川家康に対する「新体制への宣誓」であった。検地によって作成される検地帳は、領地の石高、村数、耕作者といった基礎データを網羅した、いわば「領地経営計画書」である。これを家康(後の幕府)に提示することは、自らの統治の正統性と能力をアピールする最高の機会となる。したがって、慶長五年の壱岐検地は、徳川幕藩体制という新たな政治秩序へ正式に参加するための「資格証明」であり、忠誠の「宣誓書」を提出する行為に等しかった。この政治的文脈こそが、1600年という天下分け目の年に、検地が断行された核心的な理由なのである。
第二章:検地前夜の壱岐―支配と経済の実像
松浦氏支配以前の複雑な歴史
検地という近世的支配のメスが入る以前の壱岐は、長く複雑な歴史を歩んできた。古代、中国の史書『魏志』倭人伝に「一支国」としてその名が記されて以来、大陸と日本列島を結ぶ海上交通の要衝として、独自の文化と歴史を育んできた 8 。
時代が下り、中世から戦国時代にかけては、その戦略的重要性と経済的価値ゆえに、島の支配を巡る激しい抗争が繰り返された。在地武士団である松浦党の諸氏や、対岸の肥前唐津を本拠とする波多氏などが、島の覇権を争い、領民は絶え間ない戦乱に苦しんだ 11 。この長い抗争の末、平戸の松浦氏は元亀二年(1571年)、在地勢力の日高氏と連携して波多氏の勢力を壱岐から駆逐し、島の実質的な支配権を確立するに至る 11 。しかし、それはあくまで実力による支配であり、在地には依然として旧来の勢力が割拠し、その統治は盤石なものとは言い難い状況にあった。
豊臣政権下の「軍事基地」としての壱岐
豊臣秀吉による天下統一と、それに続く文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、壱岐の戦略的地位を飛躍的に高めた。壱岐は対馬と共に、朝鮮半島へ渡る数十万の大軍の兵站、すなわち食糧・武器・兵員の輸送を担う最前線基地と位置づけられたのである。
秀吉の厳命により、松浦鎮信は総奉行として、有馬氏、大村氏、五島氏ら肥前の諸大名の協力を得て、壱岐北部の勝本に大規模な城(勝本城)を短期間で築城した 13 。この城には、秀吉の弟・秀長の家臣であった本多俊政が城代として五百の手勢と共に駐留し、兵站管理と島内統治を直接監督した 13 。この時期、松浦氏の壱岐支配は、豊臣政権の強力な軍事統制下に置かれた、いわば「条件付き」のものであった。壱岐は松浦氏の所領でありながら、同時に天下人の軍事戦略に直結する「公儀」の拠点でもあったのだ。秀吉の死によって朝鮮出兵が終焉を迎えると、この軍事基地としての役割は終わりを告げ、壱岐は再び松浦氏の統治下へと戻されることになった。
壱岐の潜在的経済力:藩経営の新たな柱
関ヶ原の戦いを乗り越え、平戸藩の永続的な経営を考え始めた松浦鎮信にとって、壱岐の持つ経済的な潜在力は極めて魅力的に映ったはずである。平戸周辺の本拠地は山がちで土地が痩せており、農業生産力に乏しかった 15 。これに対し、壱岐は比較的平野が多く、農耕に適した土地が広がっており、平戸藩の貴重な穀倉地帯となる大きな可能性を秘めていた 15 。平戸藩の全石高の実に四割を壱岐が生産していたという記録もあり、その重要性は計り知れない 16 。
また、古来からの伝統である漁業、特に後に藩の大きな財源となる捕鯨業(鯨組)は、壱岐の豊かな海がもたらす恵みであった 12 。さらに、対馬や朝鮮半島との中継貿易も、島の重要な経済基盤を形成していた 8 。
鎮信が直面していた課題は、貿易収入という不安定な収益源(この懸念は後の寛永十八年(1641年)にオランダ商館が長崎へ移転させられたことで現実となる 3 )への過度な依存から脱却し、藩財政の根幹を固めることであった。そのためには、安定した農業生産に基づく年貢収入を確実に確保することが不可欠であった。慶長五年の検地は、まさにこの壱岐の豊かな経済的潜在力を「石高」という具体的な数値に変換し、体系的かつ効率的な収奪の対象として再定義するための、最初の、そして最も重要な一歩だったのである。
第三章:検地断行―壱岐支配を盤石にするための一大事業
検地奉行の派遣と事業の開始:権威の示威行動
関ヶ原の戦いが終結し、徳川家康からの所領安堵の報が平戸にもたらされると、松浦鎮信は間髪を入れずに壱岐検地の準備に着手した。これは、新たな時代の支配者としての地位を内外に誇示する、迅速かつ断固たる行動であった。
平戸からは、この一大事業の総責任者である検地奉行が任命され、測量や帳簿作成を担う配下の役人たち(竿奉行など)と共に壱岐へと派遣された 17 。彼らは単なる行政官僚ではない。藩主・鎮信の全権代理として、島内における絶対的な権限を委ねられていた。壱岐に上陸した奉行一行は、まず島内の各村々に対し、藩主の命令として検地の実施を布告した。これは、戦国の遺風がいまだ色濃く残り、旧来の領主や有力者との関係が複雑に絡み合っていた在地社会に対し、もはや壱岐の唯一無二の支配者が松浦氏であることを明確に宣言し、その権威に絶対的に服従することを求める、強烈な示威行動でもあった。
竿入れと石盛:土地の価値の再定義
検地の実務は「竿入れ(さおいれ)」と呼ばれる測量作業から始まる。竿奉行と呼ばれる専門の役人が、一間を六尺三寸(約1.9メートル)とする当時の竿(検地尺)を用いて、田畑一枚一枚の面積を正確に実測していく 19 。一反は三百歩と定められ、これまで曖昧であった土地の広さが、藩の統一された基準の下で客観的な数値として確定されていった。
次に、測量された土地は、その生産力に応じて厳格に等級分けされた。日当たり、水利の便、土壌の肥沃度などを基準に、「上田」「中田」「下田」「下々田」といったランクが付けられたのである 19 。
そして最後に、各等級の土地に対して、その土地から標準的に収穫できる米の量を石単位で示す「石盛(こくもり)」あるいは「斗代(とだい)」と呼ばれる係数が掛け合わされ、その土地の公式な生産力、すなわち「石高」が算出された 17 。この一連の作業を通じて、これまで各村や有力者の間で主観的に、あるいは慣習的に評価されてきた土地の価値が、藩主の権威の下で、米を基準とする一元的かつ客観的な数値へと完全に再定義された。これは、土地に対する支配権が、在地勢力から藩主へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。
一地一作人の原則:中世的社会構造の解体
検地の結果は、村ごとに「検地帳(水帳とも呼ばれる)」に詳細に記録された 17 。この検地帳の作成において、最も革命的であったのが「一地一作人の原則」の適用である 20 。これは、一つの土地に対して、年貢を納める責任者(名請人)を一人に定め、その人物を実際にその土地を耕作している農民とする、という画期的な原則であった。
この原則の適用は、壱岐の社会構造を根本から変革する「静かなる革命」であった。戦国時代までの壱岐では、在地領主や有力な名主層が土地の権利を重層的に保持し、その下にいる一般の農民を支配するという構造が一般的であった 11 。領主の支配は、これらの中間層を介した間接的なものであり、個々の農民を直接把握することは困難であった。
しかし、「一地一作人の原則」は、この中間支配層の存在を法的に否定するものであった。検地帳に耕作者個人の名前が直接記載されることで、藩主(松浦氏)と個々の農民が直接結びつく、一元的な支配関係が確立されたのである 17 。これにより、これまで土地に対する支配権や中間搾取の権利を享受してきた在地領主や名主層は、その特権を事実上剥奪された。彼らは、藩の新たな支配体制の末端(庄屋など)に組み込まれるか、あるいは単なる一耕作者へとその地位を落とすことを余儀なくされた。この社会構造の根本的な変革は、武力衝突を伴わないものの、その影響の大きさにおいて革命と呼ぶにふさわしいものであった。壱岐の中世は、この検地帳の作成をもって実質的に終焉を迎え、近世の扉が開かれたのである。
権力による強制力:抵抗を許さぬ姿勢
土地所有権の再編と新たな税負担を課す検地は、領民の財産と生活に直接的な影響を与えるため、しばしば在地勢力の激しい抵抗に遭うことがあった。豊臣秀吉は、全国で実施した太閤検地において、抵抗する者は身分を問わず「なで斬り(皆殺し)」にせよと奉行に命じるほど、強硬な姿勢で臨んだという 17 。
壱岐で大規模な抵抗運動があったという直接的な記録は見られない。しかし、関ヶ原の戦いを乗り越えたばかりの松浦氏が断行したこの事業において、検地奉行が同様の絶対的な権限と、いかなる抵抗も許さないという断固たる姿勢を背景に事業を推進したと考えるのが自然である。検地とは、平和的な測量調査という側面と同時に、新たな支配者の権力を物理的に強制する、軍事的な威圧を伴う事業であった。竿を持つ役人の背後には、藩主の武力が控えていたのである。
第四章:検地の成果と確立される新秩序
石高の確定と藩財政の基盤
慶長五年(1600年)に完了した検地の結果、壱岐一国の公式な総石高は「15,982.3石」と確定された 21 。この数値は、単なる統計上の数字ではない。それは、壱岐の土地と人民に対する松浦氏の完全な支配権の確立を象徴し、以後、江戸時代を通じて平戸藩の壱岐統治と財政運営の根幹をなす基本台帳となった。
その後の時代の郷帳と比較しても、この慶長検地で定められた石高がいかに決定的なものであったかがわかる。
表1:壱岐国 石高の変遷
史料名 |
年代 |
石高(石) |
村数 |
慶長郷帳 |
1600年頃 |
15,982.30000 |
(不明) |
正保郷帳 |
1644年頃 |
15,982.33196 |
61 |
元禄郷帳 |
1697年頃 |
16,110.23196 |
61 |
天保郷帳 |
1831年頃 |
16,110.23196 |
61 |
明治5年 |
1872年 |
16,128.52988 |
62 |
出典: 21
この表が示すように、1600年の検地で算出された約1万6千石という数値は、その後270年以上にわたる統治の基本となった。元禄期以降に見られる微増は、平戸藩が新田開発などを奨励し、壱岐からの収益をさらに増やそうと継続的に努力していたことを示唆している 22 。この確定された石高は、平戸藩全体の総石高6万3200石の約四分の一に相当する。貿易という外的要因に左右されやすい不安定な収入源に加えて、この確実な農業収入が確保されたことは、平戸藩の財政基盤を飛躍的に安定させる上で決定的な意味を持った。壱岐は、名実ともに平戸藩の経営に不可欠な「穀倉地帯」として、その位置づけを不動のものとしたのである 7 。
壱岐統治機構の整備:直接支配体制の確立
検地によって島内の土地と人民が完全に把握されたことを受け、平戸藩は壱岐に新たな統治機構を系統的に整備していった。これにより、中世的で間接的な支配から、近世的で直接的な支配体制へと完全に移行した。
まず、壱岐統治の最高責任者として亀尾城に「城代」が置かれ、平戸から重臣が派遣された 23 。その下には、壱岐郡と石田郡の二郡をそれぞれ管轄する2人の「郡代」が、さらにその下には島内24村を東西南北の4地区に分けて担当する4人の「代官」が置かれた 24 。このピラミッド型の支配構造により、藩主の意思が末端の村々にまで迅速かつ確実に伝達される体制が確立された。
さらに、平戸藩は壱岐の社会経済構造の特性に応じた、きめ細かな支配体制を構築した。島内を農村地帯である「在(ざい)」(史料では触とも記される)と、漁村・商業地帯である「浦(うら)」に明確に区分したのである 14 。在には、村の末端行政を担う役職として「庄屋」や「朷頭(百姓頭)」が置かれた。一方、浦には、漁業や海運、交易などを管理する「浜使」が置かれ、それらを郷ノ浦で統括する「浦役」が設置された 24 。この二元的な支配体制は、壱岐の多様な生産活動を効率的に管理・掌握するための、巧みな統治システムであった。
新たな年貢体系と民衆への影響:収奪システムの完成
確定した石高を基準として、壱岐の民に課される新たな年貢率が定められた。複数の史料や研究が示唆するところによれば、その税率は「六公四民」、すなわち収穫の六割を領主が徴収し、農民の取り分は四割という、非常に厳しいものであった 15 。これは、当時の一般的な基準であった「四公六民」や「五公五民」と比較しても、著しく高い税率であった。
この事実は、平戸藩にとって壱岐がどのような存在であったかを雄弁に物語っている。平戸藩はオランダ貿易などで潤っていたが、それを幕府に知られると年貢を増額される恐れがあったため、財政的に苦しいと見せかけていたという逸話も残る 25 。平戸本土は土地が痩せており、農業生産力には限界があった 15 。一方で、壱岐は豊かな穀倉地帯であった 16 。これらの状況を総合すると、平戸藩は「平戸本土の農民には課さないような重税を、地理的に離れ、支配の歴史も浅い壱岐の民に課す」ことで、藩全体の財政を支えるという戦略を取った可能性が極めて高い。作家・司馬遼太郎がその紀行文の中で「平戸藩は、壱岐を自由自在に料理していたのではないか」と喝破したのは 15 、まさにこの非対称的な収奪構造を的確に指摘したものであった。
壱岐の民衆にとって、慶長五年の検地は、戦国の動乱からの解放という側面があった一方で、近世的な藩の収奪システムの中に、より効率的かつ徹底的に組み込まれることを意味した。彼らの生活は、この重税によって大きく圧迫されたと想像される。検地は、支配者にとっては新秩序の確立であったが、被支配者にとっては新たな負担の始まりでもあったのである。
結論:壱岐検地が持つ歴史的意義
慶長五年(1600年)に断行された壱岐検地は、単なる土地調査や税制改革という枠組みを遥かに超える、重層的かつ画期的な歴史事象であった。それは、関ヶ原の戦いという日本史の巨大な転換点において、政治、軍事、経済、社会のあらゆる側面が凝縮された、時代の象徴であったと言える。
松浦氏にとって、この検地はまさに新時代の幕開けを告げる号砲であった。関ヶ原の戦いという最大の政治的危機を、当主・鎮信の卓越した政治手腕によって乗り越えた末の「戦後処理」であり、徳川の世で藩を永続させるための、極めて戦略的な経営基盤確立事業であった。それは、新たな天下人・徳川家康への忠誠と自らの統治能力を具体的に示す「宣誓書」であり、不安定な貿易収入を補完する藩財政の安定化策であり、そして壱岐に対する中世以来の複雑な関係を清算し、完全な支配権を確立する最終的な宣言でもあった。
一方、壱岐の島民にとって、この検地は、戦国時代以来続いた在地勢力による重層的で不安定な支配から、平戸藩による一元的・直接的な支配体制へと移行する、不可逆的な転換点であった。それは社会構造の根本的な変革を意味し、以後、明治維新に至る約270年間の平戸藩統治の出発点となった。検地によって個々の農民が直接把握され、厳しい年貢システムに組み込まれたことは、彼らの生活に大きな影響を与えたであろう。1600年の壱岐検地は、まさに壱岐の「中世」の終わりと「近世」の始まりを告げる鐘の音だったのである。
結論として、慶長五年の壱岐検地を理解することは、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムそのものを、国境の島・壱岐という具体的な舞台を通して鮮やかに理解することに繋がる。それは、天下分け目の大乱の余波が、いかにして西の果ての島の田畑一枚一枚にまで及び、人々の暮らしと社会のあり方を根底から作り変えていったのかを物語る、壮大な歴史の一幕なのである。
引用文献
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- 【検地と土地制度】 - ADEAC https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht030080
- 壱岐郷ノ浦散策 http://www.ikishi.sakura.ne.jp/gounourasansaku.html
- 壱岐焼酎をメインに大阪の居酒屋を元気にする酒屋 Waraio株式会社 http://www.waraio.com/sp/iki.html
- 年貢米の一俵が、平戸藩だけすくないわけ 長崎県 平戸市の民話 <福娘童話集携帯版 日本民話> http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/04/30c.html