外城制再編(1600)
慶長五年、関ヶ原で敗れた島津氏は、外城制を再編。武士を農村に土着させ、一国一城令を逆手に取り、領内全域に軍事力を分散配置した。これは薩摩独自の生存戦略であり、後の琉球侵攻や幕末雄藩の礎となった。
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慶長の危機と薩摩藩の生存戦略 — 外城制再編(1600年)の時系列的考察
序論:再編事変の本質
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北は、それに与した島津氏を藩の存亡を揺るがす未曾有の危機へと突き落とした。本報告書が主題とする「外城制再編(1600年)」は、この国家的危機に対する島津氏の応答であり、単なる地方行政制度の変更という範疇に収まるものではない。それは、戦国時代を通じて培われた統治体制と軍事思想の根幹から構造改革を断行し、新たな時代における藩の生存と自立を賭けた、一大国家改造計画であった 1 。
徳川家康が天下を掌握し、江戸幕府による中央集権的な支配体制が築かれようとする中、多くの大名は豊臣政権下で進められた兵農分離を徹底し、武士を城下町に集住させることで、領国支配の近代化と中央への恭順を示した。しかし、島津氏はこの潮流に真っ向から逆行する道を選択した。すなわち、領内に点在する武士を解体するのではなく、むしろ彼らを半農半士の「郷士」として土着させ、領内全域に網の目のように配置する「外城制」を再編・強化したのである 2 。
本報告書の中心的な問いは、この島津氏の特異な選択の背景と意図を解明することにある。なぜ島津氏は、他藩とは真逆の道を選んだのか。そして、この外城制再編は、徳川幕府という新たな中央権力に対し、「恭順」の意を示しながら、いかにして「武装」の実体を維持・強化するという、二律背反の課題を両立させようとしたのか。この再編は、後に徳川幕府が発する一国一城令という、地方大名の軍事力を削ぐための政策を巧みに逆手に取り、藩の防衛体制をむしろ強靭化させるという、驚くべき戦略的思考の産物であった。本稿では、関ヶ原の戦いを起点としたリアルタイムな時間の流れの中で、この統治革命の全貌を時系列で明らかにしていく。
第一章:再編前夜 — 戦国期島津氏の統治構造
第一節:中世から続く統治の礎 — 地頭衆中制
外城制の起源は、鎌倉時代にまで遡る。島津氏は、初代・忠久が源頼朝より薩摩・大隅・日向の三カ国守護に任じられて以来、南九州を支配してきた 5 。その地方支配の根幹をなしたのが、幕府によって現地の荘園・公領の管理を委任された「地頭」の存在であった 6 。島津領において、地頭職は単なる幕府の出先機関ではなく、島津氏による領国支配の末端を担う独自の行政・軍事システムへと変質・発展していった。
戦国時代に入る頃には、この地頭制度はさらに洗練され、「地頭衆中制」と呼ばれる統治形態が確立されていた 5 。これは、島津宗家から領内各地の拠点に派遣された地頭が、その地に土着する武士団である「衆中(しゅうちゅう)」を統率し、地域の行政と軍事を一体的に運営する制度である 9 。衆中を構成する武士たちは、平時からそれぞれの拠点で生活し、有事の際には地頭の指揮下で一つの戦闘単位として機能した。この地頭衆中制こそが、江戸時代に体系化される外城制の直接的な前身であり、島津氏の強大な軍事力の基盤を形成していたのである。
第二節:異質の社会 — 膨大な武士人口と兵農未分離
戦国末期から江戸初期にかけての薩摩藩の社会構造は、他藩と比較して極めて異質であった。その最大の特徴は、異常に高い武士の人口比率である。明治初期の統計では、薩摩藩の士族人口は総人口の約26%にも達しており、これは全国平均の約6%を遥かに凌駕する数値であった 10 。この特異な人口構成は、島津氏が戦国時代に九州制覇を目指して版図を拡大した際、各地で抱えた膨大な家臣団を、豊臣秀吉による九州平定後も解雇することなく、そのまま領内に引き入れたことに起因する 2 。
この膨大な武士人口を、城下町一箇所に集住させて扶持米で養うことは、経済的に到底不可能であった。必然的な帰結として、多くの武士は領内各地に分散して居住し、平時は自ら田畑を耕して生計を立てる「半農半士」としての生活を余儀なくされた 2 。これは、豊臣政権が全国的に推進し、多くの大名が採用した「兵農分離」政策が、薩摩では徹底されなかったことを意味する 13 。この兵農未分離の状態と武士の在地性は、意図せざる結果として、領内全域に軍事力が分散配置されるという、薩摩藩独自の防衛体制の素地となった。
また、この在地武士団の存在は、単なる対外的な軍事力であるだけでなく、強力な内部統制の装置でもあった。島津氏の歴史は、宗家と有力分家、あるいは重臣との間の内紛の歴史でもあった 14 。膨大な武士人口を領内各地に分散させ、藩主が任命する地頭の直接指揮下に置くことは、特定の家臣が鹿児島城下の近くで巨大な私兵を組織化することを防ぎ、反乱の芽を摘むという内政上の重要な機能も果たしていたのである。関ヶ原直前に発生した伊集院氏による「庄内の乱」は、この潜在的な危険性が現実化した事件であり、在地武士団の統制が島津氏にとって常に死活問題であったことを示している 15 。
第三節:慶長年間初期の島津領 — 安定と内憂
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、島津義弘が率いる軍勢は泗川の戦いなどでその勇猛さを天下に知らしめた 17 。しかし、七年にも及ぶ海外への長期出兵は、兵員の消耗だけでなく、領国の経済を著しく疲弊させる結果をもたらした 17 。
さらに、島津家内部も決して安泰ではなかった。豊臣政権は、島津氏の弱体化を狙い、当主である兄・義久を冷遇し、戦功著しい弟・義弘を優遇することで兄弟間の対立を煽ったとされる 17 。また、慶長4年(1599年)、義弘の子で次期当主と目されていた島津忠恒(後の初代藩主・家久)が、豊臣政権と結びついて大きな権勢を誇っていた家老・伊集院忠棟を京都伏見の藩邸で自ら手討ちにするという衝撃的な事件が発生する 16 。これに反発した忠棟の子・忠真が日向庄内の地で大規模な反乱を起こし、領内は内戦状態に陥った(庄内の乱) 15 。島津家はこの内乱の鎮圧に忙殺されることとなり、中央で徳川家康と石田三成の対立が激化し、天下分け目の戦いが迫っているという情勢を、固唾を飲んで見守るしかなかったのである。
第二章:激震 — 関ヶ原の戦いと島津家の岐路(慶長5年/1600年)
第一節:中央の動乱と島津義弘の決断
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、これを好機と見た石田三成が挙兵し、天下は二分された。この時、島津義弘は庄内の乱の後処理に関する報告などのため、わずかな手勢を率いて上方に滞在していた 21 。義弘の当初の意図は、家康率いる東軍に与することにあったとされる。家康からの要請を受け、伏見城の守将・鳥居元忠のもとへ援軍として駆けつけようとしたが、元忠は「そのような話は聞いていない」として、義弘の入城を頑なに拒否した 17 。
この予期せぬ屈辱的な対応により、義弘は行き場を失う。その一方で、西軍の石田三成からは再三にわたり味方になるよう熱心な勧誘を受けていた。進退窮まった義弘は、不本意ながらも西軍への参加を決断する。しかし、国元の薩摩では、当主の兄・義久や後継者の忠恒が、先の庄内の乱で疲弊した領内の安定を最優先し、中央の戦乱への大規模な派兵には極めて慎重な姿勢を崩さなかった。義弘からの再三の援軍要請にもかかわらず、国元から送られた兵力はごく少数であり、最終的に義弘が関ヶ原の戦場に率いることができたのは、甥の島津豊久の兵などを合わせても、わずか1500名程度であった 18 。
第二節:戦場での孤立と「島津の退き口」— 薩摩武士の矜持と犠牲
9月15日、関ヶ原での決戦当日。戦端が開かれる前夜の軍議において、島津義弘は徳川軍への夜襲を進言したが、石田三成はこれを「田舎者の戦法」と一蹴したと伝えられる 23 。この侮辱により、島津勢の士気は大きく削がれ、戦闘が始まっても自陣に留まり、戦況を静観し続けた。
しかし、昼過ぎに小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、各部隊が次々と敗走を始める。瞬く間に、広大な関ヶ原の戦場には島津隊のみが孤立して取り残される形となった 21 。死を覚悟した義弘を、重臣たちが「生き延びて薩摩に帰ることこそが肝要」と諌め、前代未聞の退却作戦が開始される。それは、後方に退くのではなく、敵軍の只中、徳川家康の本陣が構える前方へと突破を敢行するというものであった 22 。
鬼気迫る島津隊の突撃に、追撃してきた徳川軍の猛将たちも度肝を抜かれた。井伊直政や本多忠勝といった精鋭部隊が追撃する中、島津隊は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術を展開する。これは、部隊の一部がその場に踏みとどまって死ぬまで戦い、追っ手の足を止め、その間に本隊が前進するという、文字通り命を捨て石とする非情な遅滞戦術であった。この戦いで、甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳をはじめとする多くの将兵が、義弘の身代わりとなって次々と命を落としていった 24 。この決死の退却戦「島津の退き口」は、西軍大敗の中で島津の武名を天下に轟かせると同時に、徳川家康をはじめとする東軍の諸将に、島津武士の恐ろしさを骨の髄まで刻み込むことになった。
第三節:存亡を賭けた戦後交渉 — 徳川家康との2年間にわたる駆け引き
伊勢街道を駆け抜け、幾多の困難の末に大坂・堺にたどり着いた義弘の一行は、懇意にしていた商人の助けを借りて海路で薩摩へと帰還した 25 。関ヶ原に赴いた1500の兵のうち、故郷の土を再び踏むことができたのは、わずか数十名であったと伝えられている 26 。
一方、勝利した徳川家康は、西軍に与した大名に対し、改易(領地没収)や減封(領地削減)といった厳しい戦後処理を次々と断行していた。当然、西軍の主力として戦った島津氏もその対象となり、家康は九州の諸大名に島津討伐令を発令、島津家はまさに風前の灯であった 17 。
ここから、薩摩本国にいた当主・島津義久とその後継者・忠恒による、粘り強く、そしてしたたかな外交戦が始まる。彼らは、家康からの上洛命令を再三にわたって拒否し続ける一方で、国境の防備を固め、もし攻め寄せるならば一戦も辞さないという「武備恭順」の姿勢を明確に示した 17 。交渉の仲介役としては、皮肉にも関ヶ原で義弘が重傷を負わせた井伊直政や、かねてより親交のあった公家の近衛前久などを頼り、あらゆる人脈を駆使して徳川方との対話を続けた 17 。
島津側の主張の骨子は、「関ヶ原での戦は、あくまで上方へ出向いていた義弘が独断で行ったことであり、国元の当主・義久や島津家全体としては関知していない」というものであった。この主張と、一戦も辞さないという薩摩の強硬な態度、そして関ヶ原で無傷のまま温存された島津本軍との全面戦争がもたらすであろう甚大な損害を天秤にかけた家康は、ついに現実的な判断を下す。慶長7年(1602年)、2年にも及ぶ膠着状態の末、家康は島津側の論理を受け入れ、島津家の本領安堵を認めたのである 17 。こうして島津家は、西軍の主要大名でありながら、所領を一切失うことなく、徳川の世を乗り切ることに成功した。
第三章:国家再建 — 外城制再編のリアルタイム展開(慶長5年〜慶長年間)
第一節:危機下の意思決定 — 忠恒、義久、義弘の三頭体制
関ヶ原での敗報と、それに続く徳川家康による討伐令という国家的危機に直面した薩摩では、三人の指導者による強力なリーダーシップのもと、国家再建が急ピッチで進められた。
- 島津忠恒(後の家久): 慶長4年(1599年)に家督を継承した新当主として、藩政改革の実行責任者となった 16 。彼は、徳川との交渉が妥結する以前から、新たな時代の領国支配のグランドデザインを描き始めていた。慶長7年(1602年)頃からの鹿児島城(鶴丸城)の築城着手や、外城制の体系的な整備は、彼の主導によるものであった 1 。
- 島津義久: 隠居の身でありながら、大御所として依然として家中に絶大な影響力を保持していた 33 。特に徳川家との外交交渉においては最高責任者として振る舞い、その老練な政治手腕で、絶望的な状況から本領安堵という最良の結果を勝ち取った 28 。
- 島津義弘: 関ヶ原から生還した百戦錬磨の将として、軍事面の最高顧問の役割を担った。徳川や隣接する諸大名からの侵攻に備え、国境防衛線をいかに再構築するかという喫緊の課題において、彼の豊富な実戦経験と知見が遺憾なく発揮された 36 。
この三者がそれぞれの役割を分担し、緊密に連携することで、島津家は外交と内政、軍備強化を同時並行で進めるという、極めて困難な舵取りを可能にしたのである。
第二節:「人をもって城となす」— 一国一城令を逆手にとった領国改造
徳川との和睦が成立すると、忠恒は新たな支配体制の構築を本格化させた。その象徴が、慶長7年(1602年)頃に始まった鹿児島城(鶴丸城)の築城である 1 。これは、徳川幕府に対して新たな支配者としての恭順を示すと同時に、領国支配の新たな中核を定めるという政治的意図を持つものであった。
島津氏の真の狙いは、この鶴丸城を藩内唯一の公式な「城」、すなわち「内城(うちじろ)」と位置づけた点にある。そして、いずれ徳川幕府によって発布されるであろう一国一城令(慶長20年/1615年)を先読みし、領内各地に点在していた中世以来の山城などの城郭を破却する代わりに、麓(ふもと)と呼ばれる武士の集住地を、行政上の拠点である「外城(とじょう)」として公式に再定義し、整備を進めた 1 。
これは、政策の意図を巧みに読み解き、それを逆手にとるという、極めて高度な政治的判断であった。表向きは幕府の方針に従い、物理的な「城」を一つに限定することで恭順の意を示しつつ、実質的には領内全域に100を超える軍事・行政拠点を合法的に維持することに成功したのである。城という「物」に頼るのではなく、そこに住む武士という「人」そのものを城壁と見なす、「人をもって城となす」という薩摩独自の思想が、ここに具現化された 2 。
第三節:まず国境を固めよ — 肥後・日向方面における防衛線の緊急再構築
外城制の再編において、最も緊急かつ重要視されたのは、徳川方の有力大名である加藤清正(肥後熊本藩)や伊東氏(日向飫肥藩)と国境を接する、北部および東部方面の防衛力強化であった。関ヶ原直後の緊迫した情勢下、いつ侵攻が開始されてもおかしくないという危機感が、この地域の外城整備を加速させた。
- 肥後国境: 熊本藩と直接対峙する北辺の防衛線は、藩の生命線であった。その最重要拠点とされたのが出水麓と大口麓である。特に出水麓は、慶長4年(1599年)頃から大規模な造成が始まっていたが、関ヶ原の戦いを経てその重要性はさらに高まり、慶長年間を通じて藩内最大規模の麓へと強化されていった 39 。関ヶ原を義弘と共に戦い抜き、生還した猛将・山田有栄が地頭として赴任し、防衛体制の構築にあたった 41 。また、薩摩の玄関口である野間の関をはじめとする関所の警備も、他藩が天下泰平の中で警備を緩めるのとは対照的に、むしろ一層厳重化された 42 。
- 日向国境: 飫肥藩などと接する東側の防衛線もまた、喫緊の課題であった。この方面の防衛線構築の指揮を執ったのが、他ならぬ島津義弘その人であった。彼は関ヶ原から帰還後、日向との国境地帯である高岡の地に新たな外城(高岡郷)を創設した 36 。義弘は自ら天ヶ城を築き、関ヶ原を戦った家臣や領内各地の郷士を移住させ、計画的な麓集落を整備することで、対日向方面の防衛の要を築き上げた 43 。
これらの国境地帯に配置された外城は、他の平時の外城とは異なり、より多くの郷士が配置され、動員兵力も大きい「大郷」として特別に位置づけられた 39 。この迅速かつ重点的な国境防衛線の再構築こそが、島津氏が徳川との2年間にわたる交渉を強気に進めることができた、軍事的な裏付けであった。
外城(麓)名 |
位置(国境) |
整備内容・時期 |
主な関連人物 |
戦略的意義 |
出水麓 |
肥後国境 |
慶長4年(1599)頃から大規模造成を開始、関ヶ原後に加速 40 。 |
山田有栄 (地頭) 41 |
薩摩藩最大の麓。対加藤清正の最前線基地であり、薩摩の北門としての役割を担った。 |
大口麓 |
肥後国境 |
国境防衛の要として重点的に整備。「大郷」として位置づけられた 39 。 |
- |
出水麓と連携し、人吉方面からの侵攻路を封鎖する内陸部の重要拠点。 |
高岡郷 |
日向国境 |
慶長5年(1600)以降、新たに創設。天ヶ城を築城し、計画的な麓を整備 36 。 |
島津義弘 |
義弘自身が築いた対日向の戦略拠点。関外四ヶ郷の中心として機能した。 |
第四章:確立された新体制とその機能
第一節:麓の構造と郷士の生活 — 平時と有事の二重性
慶長年間の再編を経て確立された外城の拠点集落「麓」は、極めて計画的に設計された軍事都市であった。その中心には、地頭が政務を執る役所である「仮屋(かりや)」が置かれた 1 。仮屋の前には、軍事教練や馬術の訓練に使われる「馬場」と呼ばれる幅の広い直線道路が設けられ、この馬場に沿って郷士たちの武家屋敷が整然と配置された 1 。
麓全体の町割りそのものが、一個の城郭として機能するように工夫されていた。敵が侵入した際に直進を妨げる「桝形(ますがた)」と呼ばれるクランク状の道や、見通しの利かない狭い小路を意図的に配置するなど、集落全体が防御を前提とした構造を持っていたのである 45 。屋敷も石垣や生垣で囲まれ、容易に侵入できないようになっていた 48 。
この麓に住む郷士たちは、二重の生活を送っていた。平時においては、自ら割り当てられた田畑を耕作し、家族を養う農民であった 4 。しかし、彼らは同時に、常に武芸の鍛錬を怠らない武士でもあった。農作業の合間には剣術や弓術、鉄砲の訓練に励み、有事の際には即座に武装して戦場に赴くことが求められた 45 。この「半農半士」という生活様式は、藩の財政負担を軽減しつつ、領内全域に即応可能な軍事力を常駐させるという、薩摩藩独自の強靭な体制の根幹をなしていた。
第二節:統治と動員 — 地頭の役割と軍事指揮系統
領内に100以上設けられた各外城には、藩主である島津宗家から直接「地頭」が派遣された 4 。地頭は、その外城における行政、司法、警察権を掌握する全権責任者であり、藩主の代理人として地域を統治した 51 。藩直轄の外城は「地頭所」と呼ばれ、藩主一門などの上級家臣が支配する外城は「私領」と呼ばれたが、いずれも藩の統制下にある点では同様であった 52 。
この体制の真価は、有事の際に発揮された。戦が起きた場合、地頭は直ちに指揮官となり、管轄下の郷士たちを動員して一つの戦闘部隊を編成した 4 。出陣の際には、個々の兵士を寄せ集めるのではなく、普段から生活と訓練を共にしている外城(後に「郷」と改称)を一つの単位として部隊が編成された 53 。これにより、指揮官と兵士、兵士同士の間に極めて強い連帯感が生まれ、高い士気と結束力を誇る軍団を迅速に組織することが可能であった。外城制とは、平時の地方行政システムであると同時に、極めて効率的な軍事動員システムでもあったのだ。
第三節:他藩との比較 — 薩摩藩地方支配の特異性
外城制に代表される薩摩藩の地方支配は、他の藩とは一線を画す数多くの特異性を持っていた。
第一に、農村支配の担い手が異なっていた。全国の多くの藩では、村の行政責任者である庄屋や名主は、現地の有力な農民が世襲で務めるのが一般的であった。しかし薩摩藩では、武士身分である郷士が庄屋の役職を兼任することが珍しくなかった 54 。これにより、藩の支配体制は農村社会の末端にまで武士階級によって貫徹され、百姓一揆などが極めて起こりにくい、強固な封建的支配が実現された 2 。
第二に、兵農分離の度合いが根本的に異なっていた。前述の通り、薩摩藩では武士が農業に従事し、農村に居住することが常態化していた。これは、武士を城下町に集住させ、農民から明確に分離した他藩の体制とは対極にある。
第三に、この外城制は、農民を「門(かど)」と呼ばれる血縁・地縁的な共同体に編成して土地を割り当て、納税や賦役の義務を課す「門割制度」と不可分の関係にあった 4 。外城制が武士を統制し軍事力を組織するシステムであるとすれば、門割制度は農民を統制し経済的基盤を確保するシステムであった。この二つの制度が両輪となって機能することで、薩摩藩は軍事と行政、そして徴税を一体化した、他藩に類を見ない強力かつ独特な支配システムを築き上げたのである。
第五章:再編がもたらした遺産
第一節:次なる一手 — 琉球侵攻を支えた軍事基盤
外城制再編によって確立された、領内全域にわたる即応可能な軍事力は、島津氏の次なる戦略的行動を支える強力な基盤となった。関ヶ原の危機を乗り越えてからわずか9年後の慶長14年(1609年)、島津家久(忠恒)は、江戸幕府の許可を得て3000の兵を琉球王国に侵攻させた 32 。この迅速な派兵を可能にしたのは、まさしく外城制による効率的な動員体制であった。
この侵攻により琉球王国を事実上の支配下に置いた薩摩藩は、琉球を通じて行われる明(中国)との朝貢貿易の利益を独占する道を開いた 56 。関ヶ原の戦後処理や藩政改革で逼迫していた藩財政は、この琉球貿易によって得られる莫大な利益によって大きく潤い、再建されることとなる 32 。外城制再編という軍事・統治体制の強化が、藩の経済的活路を切り拓くための対外行動を直接的に可能にしたのである。
第二節:二百五十年の礎 — 幕末雄藩としての薩摩の強さの源流
慶長年間に再編・確立された外城制は、その後、若干の変更はありつつも、江戸時代を通じて薩摩藩の統治と軍事の根幹であり続けた。平時から領内全域に戦闘準備の整った武士が分散配置されているという状況は、徳川幕府にとって常に潜在的な脅威であり、薩摩藩が幕府に対して一定の独自性を保ち続ける要因の一つとなった 2 。
そして250年後、幕末の動乱期において、この制度は再びその真価を発揮する。欧米列強の脅威が迫り、国内が騒然とする中、薩摩藩は外城制のおかげで他藩を圧倒する大規模な兵員を迅速に動員することができた 10 。西郷隆盛や大久保利通といった明治維新の指導者たちも、この尚武を尊び、平時から国事に備える郷士たちの社会から生まれた。彼らが率いた薩摩藩の強力な軍事力が、討幕運動を推進し、明治維新を成し遂げる原動力の一つとなったことは疑いようがない 40 。1600年の外城制再編は、目先の危機を乗り越えるための改革であったと同時に、結果として二百数十年後の日本の歴史を大きく動かすための礎を築くことになったのである。
結論:危機を転機に変えた統治革命
慶長5年(1600年)に端を発する「外城制再編」は、関ヶ原の敗戦という島津氏史上最大の存亡の危機を、逆に領国支配を前例のないレベルまで強靭化させる最大の転機へと昇華させた、卓越した生存戦略であった。それは、単なる制度のマイナーチェンジではなく、国家のあり方を根底から再設計する統治革命であったと言える。
島津氏は、徳川幕府が志向した中央集権化と大名の軍事力解体という時代の大きな流れに、正面から抗うのではなく、その流れを巧みに利用し、逆手にとる道を選んだ。一国一城令という支配の論理を受け入れ、恭順の意を示す一方で、その抜け道を探し出し、「人をもって城となす」という思想のもと、実質的な軍事国家体制を領内に築き上げた。
この再編は、中世以来の伝統的支配構造である地頭衆中制を、近世という新たな時代環境に適応させ、発展的に解消させたものであった。そして、その結果生まれた外城制は、薩摩藩に二百五十年にわたる安定と、幕末期に日本を動かすほどの強大な軍事力をもたらした。危機に直面した際に、旧来の伝統と新たな時代の要請を弁証法的に統合し、独自の活路を見出したこの統治革命は、日本の地方支配の歴史において、類稀な成功例として評価されるべきものである。
引用文献
- 薩摩藩独自の外城制度 https://kagoshima-fumoto.jp/outer-castle/
- 外城制度 - 南九州市観光協会へ https://minamikyushu-kankounavi.com/postSingle.php?mCd=6297244a6ab16&cd=MKKK0195&lang=ja
- 【ホームメイト】外城制|城・日本の城・城郭用語辞典 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2134001/
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- ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD#:~:text=%E5%9C%B0%E9%A0%AD%E3%81%AF%E5%85%83%E6%9D%A5%E3%80%81%E5%BD%93%E5%9C%B0,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E4%BB%BB%E5%8B%99%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82
- 地頭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
- 戦国大名島津氏の領国形成 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版 https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32630.html
- 外城制度は薩摩藩独自の制度はどのように運用されたのか? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16116/
- 外城制 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9F%8E%E5%88%B6
- 薩摩藩の支配体制 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/shihgai.html
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- 一島津義弘の参戦事情と徳川の島津処分‑ - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/144565247.pdf
- 島津家久 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/shimazu.html
- 島津義弘の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38344/
- 島津義弘の戦歴(3) 異国での戦い、関ヶ原からの生還 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/01/24/141257
- 島津義弘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
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- 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~STORY #082 - 日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story082/
- 越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』の中の「士平民」と 薩摩の数学 - 鹿児島大学 https://www.kagoshima-u.ac.jp/shoujukai/re_tsuboi.pdf
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- 琉球国と東アジア交流 〜琉球史から探る沖縄の自立自尊と経済的自立〜 - 多摩大学 https://www.tama.ac.jp/guide/inter_seminar/2015/asia.pdf
- 琉球王国を江戸時代に支配した薩摩藩。その目的は貿易の独占? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/18457/?pg=2