大垣城改修(1596)
慶長元年、大垣城は慶長伏見地震で全壊した。城主伊藤盛景は豊臣政権の支援で対家康の要衝として再建し、後に関ヶ原で西軍の本拠地となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長元年、大垣城 ― 天災、再興、そして関ヶ原への序曲
序章:豊臣政権後期における美濃の要衝、大垣城
天下統一後の地政学的変化と大垣城の位置づけ
天正18年(1590年)の小田原征伐による後北条氏の滅亡と、それに続く奥州平定をもって、豊臣秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た。この政治的・軍事的再編の中で、徳川家康は旧領の東海地方から関東への移封を命じられた。この配置転換は、豊臣政権の安定化に寄与する一方で、日本の地政学的な構図を根本から変容させるものであった。政権の中枢である京・大坂から見て、関東に広大な領地を持つ家康は、依然として最大の潜在的脅威であり続けた。その結果、京と関東を結ぶ東山道(中山道)と東海道の要衝に位置する美濃国は、単なる一地方から、対徳川戦略における最前線、そして極めて重要な戦略的緩衝地帯へとその価値を飛躍的に高めることとなった。
この美濃国の中でも、大垣城は西美濃の中心に位置し、中山道と伊勢街道が交差する交通の結節点であった 1 。水運においても揖斐川水系を利用できるなど、経済・軍事の両面で比類なき重要性を有していた。この地政学的な優位性こそが、豊臣政権下で大垣城が特別な役割を担う根源的な理由であった。
秀吉の対家康戦略における「大事のかなめの城」としての役割
豊臣秀吉自身が、大垣城の戦略的価値を深く認識していたことは、彼がこの城を「大事のかなめの城」と称したという事実に端的に示されている 1 。この評価は単なる美辞麗句ではなかった。秀吉は大垣城に政権直轄の兵糧米と兵を常備させ、有事の際には即座に機能する前方拠点として整備していたのである 2 。これは、大垣城が単なる一大名の居城ではなく、豊臣政権の対家康防衛ラインにおける中核をなす、国家レベルの戦略拠点として位置づけられていたことを意味する。
この認識は豊臣方のみならず、敵対する可能性のあった東国の武将たちの間でも共有されていた。後の関ヶ原の戦いに際しても、多くの東軍武将が大垣城周辺が天下分け目の決戦の地になると予想していたとされ、その重要性は衆目の一致するところであった 2 。この国家戦略上の重要性こそが、慶長元年(1596年)に発生する未曾有の自然災害後、異例の速度と規模での再建を不可避とした根本的な要因となるのである。
伊藤盛景着任以前の城郭の沿革と構造
大垣城の歴史は古く、天文4年(1535年)に美濃守護・土岐氏の一族である宮川安定によって創建されたと伝わる 3 。戦国時代を通じて、この地は織田氏と斎藤氏による激しい争奪戦の舞台となり、城主は目まぐるしく変わった 4 。城郭として本格的な整備が進んだのは、永禄6年(1563年)、斎藤氏配下の氏家直元(桑原直元)が城主となった時代である。直元は堀や土塁に大規模な拡張を加え、総構えを整備するなど、城の防御能力を大幅に向上させた 4 。
豊臣政権下に入ると、賤ヶ岳の戦いの功により池田恒興が城主となり、近世城郭としての整備がさらに進められた 4 。恒興の子・輝政を経て、天正13年(1585年)には豊臣秀次の家老であった一柳直末が3万石で入城する 4 。この一柳直末の時代、天正16年(1588年)に天守が築かれたとする説が存在する 4 。これが事実であれば、この天守こそが後述する慶長伏見地震によって倒壊した建造物であった可能性が高い。しかし、この天守の実態を示す具体的な史料は乏しく、その後の再建において、全く新しい設計思想が導入される素地となったとも考えられる。
第一章:城主・伊藤盛景 ― 天下統一後の枢要を任された豊臣家臣
伊藤盛景(祐盛)の出自と秀吉への臣従
慶長元年の大垣城再建を主導した人物、伊藤盛景(いとう もりかげ)は、美濃舟岡城主・伊藤祐重の子として生まれた、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である 7 。初名を祐盛(すけもり)といい、後に盛景と改名した 7 。彼は美濃の在地領主の家に生まれ、早くから豊臣秀吉に仕えた 7 。秀吉が戦略的に重要な拠点に、譜代の信頼できる家臣や、その土地の事情に精通した在地出身者を配置するという人事政策は広く知られている。伊藤盛景の登用は、まさにこの政策を体現するものであり、彼が単なる武将としてだけでなく、西美濃という要衝を管理する行政官としての能力も期待されていたことを示唆している。
小田原征伐での功績と大垣3万石への入封
伊藤盛景が歴史の表舞台で確固たる地位を築くきっかけとなったのは、天正18年(1590年)の小田原征伐であった。この天下統一の総仕上げともいえる戦役において、彼は秀吉本陣の前備衆の一つとして320人の兵を率いて従軍し、武功を挙げた 7 。この功績が秀吉に高く評価され、彼は3万石に加増されるとともに、美濃大垣城主に抜擢された 7 。
この人事は、前城主である一柳直末が小田原攻めの最中、伊豆山中城攻撃で戦死したことを受けてのものであった 4 。豊臣政権にとって、対家康の最前線である大垣城を一日たりとも空位にしておくことは許されなかった。迅速な後任人事の決定は、この城がいかに政権にとって死活的に重要な拠点であったかを物語るエピソードである。盛景は、戦功によってその重責を担うに足る人物と認められたのである。
城主としての統治と豊臣政権下での立場
大垣城主となった伊藤盛景は、従五位下長門守に叙任されており、豊臣政権下で大名としての正式な地位を公的に認められていた 7 。彼の役割は、単に3万石の領地を治める領主であるに留まらなかった。豊臣政権が全国に張り巡らせた「本城―支城体制」において、大垣城は畿内を防衛する上で極めて重要な支城の一つであった 9 。盛景は、その支城の守将として、平時には西美濃の安定を維持し、有事の際には即座に兵を動員して徳川家康の西上を阻止するという、極めて重い軍事的責務を負っていた。彼の存在は、秀吉の意向を直接的に反映させ、中央集権的な支配を地方の隅々にまで徹底させるための、重要な駒の一つだったのである。この立場にあったからこそ、後に城が天災によって壊滅した際、彼は単なる一個人の領主としてではなく、豊臣政権の代理人として、国家的な重要インフラの復旧という使命感を持って再建事業に臨むことになったと考えられる。
第二章:激動の慶長元年 ― 慶長伏見地震と大垣城の壊滅
慶長元年(1596年)初頭の政治情勢と大垣城
慶長元年(1596年)は、豊臣政権にとって内外ともに多事多端な年であった。国外では、文禄の役(朝鮮出兵)の講和交渉が大詰めを迎え、明からの使節が来日していた 11 。秀吉は、完成したばかりの壮麗な伏見城に彼らを迎え、また京では方広寺大仏の建立を進めることで、自らの絶対的な権威を内外に示そうとしていた 12 。政権中枢が華やかな外交儀礼と巨大建築事業に沸き立つ一方で、地方の戦略拠点では静かな緊張が続いていた。伊藤盛景が守る大垣城も、平穏を保ちつつ、東の徳川家康に対する抑えとしての軍事的な役割を変わらず担っていたと推察される。以下の時系列表は、この年の大垣城を襲った激動を、より広い政治情勢の中に位置づけるものである。
年月日 |
国内外の主要動向 |
豊臣政権の動向 |
大垣城および伊藤氏の動向 |
慶長元年5月 |
明の正使、伏見城に到着 |
秀吉、伏見城にて明使節と会見 |
対家康の拠点として平穏に機能 |
閏7月12日 |
(地震前日) |
伏見城にて宴が催される |
平穏 |
閏7月13日 亥の刻 |
慶長伏見地震発生 |
伏見城天守崩壊、死者多数 |
城郭全壊、出火により焼失 |
閏7月14日以降 |
各地から甚大な被害報告が殺到 |
秀吉、伏見城の即時再建を命令 |
伊藤盛景、被害状況の把握と再建計画に着手 |
8月以降 |
|
伏見城・方広寺の復旧工事が開始される |
灰燼の中から再建工事が開始される |
【時系列分析】閏7月13日、亥の刻:地震発生の瞬間
運命の日、慶長元年閏7月13日(グレゴリオ暦1596年9月5日)、夜の亥の刻(午後10時頃)、突如として大地が激しく揺れた 12 。後に「慶長伏見地震」と呼ばれるこの巨大地震は、京都盆地から六甲・淡路島断層帯にかけての広範囲を震源域とし、その規模はマグニチュード7.5以上と推定されている。この凄まじい揺れは、震源から離れた美濃国をも容赦なく襲い、大垣城に壊滅的な被害をもたらした。
史料に見る大垣城の被害:「全壊」と「出火」の実態
複数の史料が、この地震による大垣城の被害を「全壊」あるいは「全壊焼失」と一致して記録している 12 。特に、一柳氏の家記である『一柳家記』には、「ことごとく覆り(震度6)、その上、出火。城中一家も残らず焼けた」と、その惨状が生々しく記されている 12 。この記述は、単に建物が損壊したというレベルではなく、強烈な地震動によって天守を含む城郭の主要建造物が完全に倒壊し、さらにそれに追い打ちをかけるように火災が発生して、城内のすべてが灰燼に帰したことを示している。
この事実は、本報告書の主題である「大垣城改修(1596)」の性格を根本的に規定するものである。すなわち、この事変は計画的に行われた「改修」や「整備」ではなく、突発的な自然災害による完全な破壊からの、ゼロからの「再建」であった。この認識の転換こそが、慶長元年の出来事を正しく理解するための第一歩となる。
美濃・近江一帯の被害と、豊臣政権中枢への衝撃
被害は大垣城一か所に留まらなかった。近江では長浜城も倒壊し、城主・山内一豊の息女が圧死。飛騨では帰雲城が地震による山津波に飲み込まれ、城主の内ヶ島氏一族と城下町300戸余りが一瞬にして地上から姿を消した 12 。
さらに深刻だったのは、政権中枢が受けた打撃である。秀吉の居城であり、豊臣政権の権力の象徴であった伏見城の天守が崩れ落ち、城内で多数の死者を出した 12 。同時に、政権の繁栄の象徴として建立中であった方広寺の大仏も無残に半壊した 12 。権力と権威、その両方の象徴を同時に失った豊臣政権は、物理的にも精神的にも計り知れない打撃を受けた。この政権全体の危機的状況が、地方の重要拠点である大垣城の復旧を、単なる一地方の問題ではなく、揺らぐ豊臣政権の統治能力を内外に示すための、喫緊の政治課題へと昇華させたのである。
第三章:灰燼からの再興 ― 地震後の「改修」の実態と築城技術
緊急復旧から本格的再建へ:伊藤盛景の指揮と豊臣政権の支援
地震による壊滅的な被害の直後から、城主・伊藤盛景は領内の混乱を収拾すると同時に、国家的な重要拠点である大垣城の再建に迅速に着手したと推察される。しかし、天守を含む城郭全体を再建するこの巨大事業は、3万石という一大名の財力のみで成し遂げられるものではなかった。伏見城自体も被災し、政権が危機的状況にある中、大垣城の再建が急ピッチで進められた背景には、豊臣政権からの直接的、あるいは間接的な支援があったと考えるのが妥当である。これは、諸大名に普請を割り当てる「天下普請」に準ずる形での技術的・財政的援助があった可能性を示唆している 9 。対家康戦略の要を失うことは、秀吉にとって断じて許容できない事態であり、その再建は最優先事項の一つとされたのである。
石垣普請:金生山の石灰岩を用いた野面積みの選択とその意図
再建にあたり、城の中核をなす天守台や櫓台の石垣には、大垣城の北西約4kmに位置する美濃赤坂の金生山から切り出された石灰岩が全面的に用いられた 15 。この石材は、近くを流れる杭瀬川を利用した水運によって、効率的に城まで運搬されたと考えられる 15 。
工法としては、自然石をほとんど加工せずにそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」が採用された 4 。この工法は、隅部を整然と積む「算木積み」などの後代の技術に比べると粗雑に見えるが、排水性に優れ、何よりも短期間で高く堅固な石垣を築くことができるという利点があった。一刻も早い城郭機能の回復が求められる中で、野面積みの採用は極めて合理的かつ現実的な選択であった。
この金生山産の石灰岩は、フズリナやウミユリといった古生代の海洋生物の化石を豊富に含んでおり、全国的に見ても極めて珍しい石垣となっている 15 。石灰岩は本来白い石であり、創建当時は白亜の石垣の上に白漆喰の天守が聳え立ち、壮麗な景観を誇っていたと想像される 15 。結果として、緊急再建という制約の中から、新生大垣城を象徴する独特の個性が生まれたのである。
天守造営:なぜ異例の「四重四階」が採用されたのか
灰燼の中から蘇った新生大垣城の象徴は、その天守にあった。複数の史料や伝承によれば、この時に建てられた天守は、一般的な三重や五重ではなく、当時としては異例の「四重四階」であったとされている 1 。数字の「四」が「死」に通じるとして忌避される傾向があった戦国時代において、この階層が敢えて採用された理由は、いくつかの観点から考察することができる。
第一に、実用性を最優先した結果という説である。城郭の敷地面積や天守台の規模、そして防御や監視活動に必要とされる高さを勘案した際に、構造的に最も合理的で、かつ迅速に建設可能な形態が四重四階であった可能性が考えられる。
第二に、築城技術の過渡期における様式であったとする説である。初期の天守に多い、下層の主屋の上に望楼を載せたような「望楼型」から、後の時代に主流となる全体が整然としたピラミッド状の「層塔型」へと移行する過程で、独自の設計思想が反映された結果、四重という構成が生まれた可能性もある 4 。
いずれにせよ、この異例の四重天守は、実用性と迅速な建設という時代の要請に応えた結果であり、後の関ヶ原合戦図屏風にもその特徴的な姿が描かれることになる 6 。
鉄砲の普及と城郭防衛思想の進化が再建に与えた影響
16世紀半ばに鉄砲が伝来して以降、日本の城郭の姿は劇的に変化した 18 。土塁を中心とした防御施設は、鉄砲の破壊力の前には脆弱であり、より高く、より堅固な石垣が求められるようになった。そして、石垣の上に建てられた天守や櫓は、雨に弱い火縄銃を守りつつ、城兵が一方的に有利な位置から射撃するための絶好のプラットフォームとして機能した 18 。
1596年の大垣城再建は、まさにこうした最新の築城理論を全面的に導入する絶好の機会であった。地震によって旧来の構造が一掃されたことで、白紙の状態から、対鉄砲戦を前提とした最新鋭の要塞を設計することが可能となった。高く聳える四重の天守と、それを支える野面積みの高石垣は、単なる復旧に留まらず、当代最新の軍事思想を体現した、全く新しい城への飛躍的進化であった。
第四章:蘇る拠点 ― 新生大垣城の政治的・軍事的意義
迅速な再建が示した伊藤氏の財力と豊臣政権の威信
慶長元年閏7月の大地震から、年内には天守を含む城郭の主要部が再建されたと伝えられている 1 。この驚異的な復興速度は、第一に城主・伊藤盛景の卓越した統治能力と、領内を迅速に動員し得た経済力を示すものであった。しかし、それ以上に重要なのは、この再建が持つ政治的なメッセージである。政権中枢である伏見城までもが被災し、権威が揺らぎかねない危機的状況下で、地方の最重要拠点をこれほど速やかに復旧させ得たという事実は、豊臣政権の国力と統治機構がいまだ盤石であることを全国の諸大名に強く誇示する効果を持った。天災による物理的な破壊を、権威の再構築という政治的勝利へと転化させたのである。
対家康防衛線としての機能強化
最新の築城技術を導入して再建された大垣城は、地震以前とは比較にならないほど堅固な要塞へと生まれ変わった。幾重にも巡らされた水堀、高くそびえる石垣、そして四重の天守を備えた城は、東海道・中山道の抑えとして、また徳川家康の西上に対する最前線基地としての機能を大幅に強化された 17 。秀吉自身が「大事のかなめの城」と評したその戦略的価値は、この再建によって名実ともに最高レベルにまで高められたのである。秀吉や、後の東軍の武将たちが、天下分け目の戦いの舞台が大垣城周辺になると予想していたことからも、この城の軍事的価値が当時いかに高く評価されていたかが窺える 2 。慶長伏見地震は、短期的には豊臣政権に打撃を与えたが、大垣城に限って言えば、結果的にその軍事的重要性を飛躍的に高める「強制的なアップグレード」の機会を提供したとも言える。
城下町の整備と領国経営の再構築
城郭本体の再建と並行して、被災した城下町の復興と再整備も精力的に進められたと考えられる。氏家直元の時代に形成された本町、中町、竹島町といった城下町の骨格を基礎としながら、伊藤氏は領国経営の拠点としての都市機能を再構築していった 5 。堅固な城郭と、それに付随する繁栄した城下町は、一体となって領主の権威を象徴する。この復興事業は、伊藤氏による西美濃支配を盤石なものとし、ひいては豊臣政権の地方支配の安定化に大きく寄与した。灰燼の中から蘇った城と町は、天災にも屈しない伊藤氏と豊臣政権の強靭さの証となったのである。
終章:慶長元年の遺産 ― 関ヶ原前夜の舞台として
伊藤盛景の死と子の盛宗への継承
大地震の惨禍から大垣城を見事に再興させた城主・伊藤盛景は、慶長4年(1599年)にその生涯を閉じた 4 。彼の跡は、子の伊藤盛宗(もりむね、盛正とも)が継承した 4 。盛宗が城主となって間もなく、豊臣秀吉の死後、日本は徳川家康を中心とする勢力と、それに反発する石田三成を中心とする勢力との間で、急速に緊張を高めていくことになる。
1600年、石田三成による本拠地化:再建された城郭機能の評価
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、反家康勢力(西軍)を率いる石田三成は、この大垣城を西軍の事実上の本拠地とした 13 。城主の伊藤盛宗は西軍に与し、三成に城を明け渡した 2 。三成が数ある城の中から大垣城を選んだ理由は、単に地理的な利便性だけではなかった。彼は、わずか4年前に完成したこの城の堅固な防御機能を高く評価していたのである。1596年の再建によってもたらされた、幾重にも巡らされた堀、高く堅固な石垣、そして四重の天守は、籠城戦をも十分に戦い抜ける当代屈指の要塞と見なされていた 17 。慶長元年の再建事業は、期せずして、反徳川連合軍の司令部を受け入れるに足る、最高の舞台装置を整えていたのである。
大垣城籠城戦と関ヶ原の戦いへの展開
石田三成ら西軍主力が関ヶ原での決戦のために城を立った後、大垣城には三成の義弟である福原長堯らが守将として残り、東軍による包囲攻撃を受けることになった(大垣城の戦い) 4 。この籠城戦において、再建された城郭は東軍の猛攻に対し、その防御能力を遺憾なく発揮した 27 。しかし、9月15日の関ヶ原本戦における西軍の壊滅的な敗北と、城内にいた相良頼房、秋月種長らの裏切りにより、城兵の助命を条件に開城を余儀なくされた 4 。
1596年の再建が日本の歴史に与えた長期的影響の総括
結論として、「1596年の大垣城改修」とは、計画的な改修ではなく、慶長伏見地震という未曾有の自然災害を契機とした、全面的かつ緊急の再建事業であった。この再建は、豊臣政権末期の対徳川という地政学的緊張を色濃く反映し、当代最新の築城技術を投じて行われた。その結果、大垣城は戦国末期屈指の堅城へと変貌を遂げた。
歴史の皮肉というべきか、豊臣秀吉が対家康戦略の要として再建を急がせたこの城は、彼の死後、まさにその家康と天下の覇権を争う反家康勢力の拠点として、その真価を発揮することになった。1596年の天災とそれに続く再興がなければ、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦は、全く異なる様相を呈していたかもしれない。この意味において、慶長元年の出来事は、意図せずして日本の歴史が大きく動く瞬間のための舞台を整えるという、極めて重要な役割を果たした、関ヶ原への序曲であったと結論づけられる。
引用文献
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- 「徳川家康と大垣」 1、豊臣秀吉の遺言 ・秀吉は豊臣政権を維持するため、五大老に対して只 https://www.ogakikanko.jp/event/kessenzenyaogaki/pdf/siryo.pdf
- 大垣城 | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき https://www.city.ogaki.lg.jp/0000000577.html
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- 【岐阜県】大垣城の歴史 関ヶ原の戦いで西軍本営となった城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1994
- 大垣城の見所と写真・3500人城主の評価(岐阜県大垣市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/27/
- 伊藤盛景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%9B%9B%E6%99%AF
- 【二 豊臣氏代官伊藤秀盛】 - ADEAC https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000020/ht000168
- 神奈川の中世城郭 ―小田原城支城を中心に― - 神奈川県 https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/r4kouza4.pdf
- 福永素久 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9519
- 文禄五年(1596)伏見地震における京都盆地での被害状況 https://www.histeq.jp/kaishi_26/HE26_92.pdf
- 天正地震 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC16%EF%BC%88%E7%AC%AC35%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89.pdf
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- お城大好き雑記 第81回 岐阜県 大垣城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/oogakijo-gihukenn
- 【石垣の歴史】日本のお城を支える石垣の工法にせまる - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-11/
- 第 43話 城の石垣の積み方を紹介。小倉城の石垣はどんな積み方? - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2021/07/story43/
- 三大築城家/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18731/
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- 日本の城探訪 大垣城 - FC2 https://castlejp.web.fc2.com/03-hokurikutoukai/01-oogaki/oogaki.html
- 大垣城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/ohgaki.j/ohgaki.j.html
- 大垣城(おおがきじょう)|おおがきっず! たんけん!はっけん!大垣市 https://www2.city.ogaki.lg.jp/ogakids/rekisi/siro.html
- 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
- 関ヶ原の戦いで籠城戦の舞台となった 大垣城|みにたま - note https://note.com/yanag06/n/nbf67c88aa071
- 大垣城の戦い ~福原長堯の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ogaki.html
- 古城の歴史 大垣城 http://takayama.tonosama.jp/html/ogaki.html