最終更新日 2025-10-06

宮宿整備(1601)

宮宿は、1601年に徳川家康が東海道の要衝として整備。七里の渡しを擁する陸海交通のハブとして、伝馬制度により軍事・政治・経済・情報網を掌握。東海道最大の宿場町へと発展し、徳川支配の確立に貢献した。
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報告書:慶長六年「宮宿整備」の全貌 ―戦国から江戸へ、徳川覇権の礎―

序章:慶長六年の画期 ―天下人の描いた国家像―

慶長五年(1600年)、関ヶ原における徳川家康の勝利は、戦国乱世の終焉を告げる軍事的な大勢を決した。しかし、それは新たな国家建設の始まりに過ぎなかった。西国には依然として豊臣恩顧の大名が多数存在し、社会には長く続いた戦乱の気風が色濃く残っていた。この未だ流動的な情勢下で家康が最優先課題としたのは、武力による一時的な制圧から、法と制度に基づく恒久的な支配体制への移行であった 1

この壮大な構想を実現するため、家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に矢継ぎ早に全国支配のための政策を打ち出す。その中でも、東海道における宿駅伝馬制度の制定は、国家の軍事、政治、経済の生命線である交通網を幕府の直接管理下に置くという、極めて象徴的かつ実務的な一手であった 4 。本報告書で詳述する尾張国における「宮宿整備」は、この国家構想の中核をなす一事業であり、単なる一宿場のインフラ整備という事象に留まらない。それは、徳川による新たな秩序の礎石を、日本の中心地に据える戦略的行為そのものであった。

この街道整備の本質を理解するためには、単なる物流改善策という視点を超えなければならない。関ヶ原の勝利は決定的であったが、大坂城には豊臣秀頼が存在し、西国大名の動向は依然として不透明であった。この状況で最も重要なのは、有事の際の迅速な軍隊移動と、江戸を中心とした確実な情報伝達網の確立である 2 。東海道に公定の宿場と伝馬(公用のためのリレー馬)を整備することは、幕府の役人や飛脚の移動速度を飛躍的に向上させる。これは、万が一の反乱の兆候をいち早く江戸に伝え、鎮圧軍を迅速に派遣することを可能にする体制の構築を意味した。つまり、敵対勢力よりも常に一手先を行くための時間的優位性を確保するシステムであった。したがって、「宮宿整備」を含む一連の東海道整備は、物理的なインフラ構築を通じて、徳川幕府が日本全土の「時間」と「空間」を掌握しようとする、壮大かつ緻密な国家戦略の現れだったのである。

第一章:要衝・熱田湊の胎動 ―戦国時代の記憶―

慶長六年の宮宿整備が持つ歴史的意義を深く理解するためには、時計の針を戦国時代にまで巻き戻し、その前身である「熱田湊」が果たしてきた役割を検証する必要がある。この湊は、1601年に突如として歴史の表舞台に現れたわけではない。むしろ、戦国時代を通じてその戦略的重要性が証明され続けた一級の資産であり、家康はこの「遺産」を継承し、自らの天下統一事業に最適化させたのである。

戦国時代の尾張において、織田信長の父・信秀は、土地の農業生産力(石高)に依存する旧来の価値観から脱却し、商業が生み出す莫大な富に着目した先進的な大名であった 8 。信秀は、木曽川水運の拠点である津島湊に加え、伊勢湾の海上交通の要衝である熱田湊をも支配下に置くことに成功する 8 。熱田湊は、伊勢、三河、そして畿内へと繋がる広域交易ネットワークの結節点であり、物資の集散地として大いに繁栄していた 8 。戦国大名にとって「湊を制する」ことは、単に経済的利益を得るだけでなく、兵糧や武器の輸送、情報収集といった軍事行動の生命線を握ることを意味した。信秀が尾張最強の戦国大名へと飛躍できた背景には、この二つの湊の掌握による経済的・軍事的優位性が存在したのである 10

家康の「宮宿整備」は、この織田信秀が確立した「湊の支配による経済圏の掌握」という戦国時代の成功モデルを、全国規模の公的インフラへと昇華・制度化する試みであったと分析できる。家康自身も三河の商人との繋がりが深く、商業の重要性を熟知していた。彼は、信秀の戦略、すなわち「交通の結節点を抑える者が地域を制する」という原則を、同時代人として目の当たりにしていたはずである。1601年の東海道整備において、家康は熱田湊のような既存の重要拠点を意図的に選び、宿駅として公的に指定した。これは、戦国大名が私的な経済圏支配のために行っていた拠点の確保を、幕府という公権力が担う全国的な交通・物流システムへと再編する行為に他ならない。ここには、戦国時代の「点」としての湊支配から、江戸時代の「線」として繋がる街道支配への、国家統治におけるパラダイムシフトが明確に見て取れる。家康は、信秀の革新的な戦略を模倣し、それを国家レベルで完成させたと言えるだろう。

第二章:天下統一と東海道伝馬制度の確立

関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した家康は、その支配を盤石なものとするため、全国的な交通網の整備に乗り出した。その第一歩として、江戸幕府を開く以前の慶長六年(1601年)、東海道の各宿場に対して「御伝馬之定」を布達し、宿駅伝馬制度を正式に発足させた 2 。これは、後に徳川秀忠によって慶長九年(1604年)に五街道の起点と定められる江戸の日本橋から、京都・大坂に至る国家の大動脈を幕府の管理下に置くための、画期的な法令であった 2

この制度の目的と機能は、多岐にわたるが、その核心は公用交通の絶対的な優先にあった。

  • 公用交通の優先と継立: 幕府が発行する朱印状を持つ役人や公用の飛脚は、各宿場に常備された人馬(伝馬)を優先的かつ低廉な料金で利用し、次の宿場までリレー形式で移動・輸送することができた 13 。荷物は宿場ごとに新しい人馬に積み替えられ(人馬継立)、迅速かつ確実な輸送が保証された 3
  • 宿場の義務と権利: 各宿場は、幕府が定めた数(当初は36疋、後に100人・100疋へ増強)の人足と伝馬を常に確保する重い義務を負った 13 。公用輸送はしばしば赤字であったため、宿場はその負担の見返りとして、一般の旅人を宿泊させる旅籠の経営や、商業貨物の輸送で利益を上げる権利を独占的に認められた 13
  • 軍事的兵站システム: この制度は、平時における情報伝達や行政連絡だけでなく、有事の際には兵員や軍事物資を迅速に輸送するための、高度な兵站システムとしての側面も色濃く持っていた 2 。街道そのものが、徳川の軍事力を全国に展開するための戦略的なインフラとして構想されていたのである。

東海道は、幕府の拠点である江戸と、天皇の座す京都、そして全国経済の中心地である大坂を結ぶ、文字通りの大動脈であった。この道の流れを制度的に完全に掌握することは、徳川幕府が日本全土に指令を伝え、各地の情報を吸い上げるための、いわば国家の「神経系」を構築することを意味した。宮宿の整備は、この神経系の極めて重要な神経節を形成する作業であり、徳川による全国支配網の完成に不可欠なピースだったのである。

第三章:宮宿誕生のクロニクル ―慶長六年のリアルタイム分析―

慶長六年(1601年)、熱田の地で起こった「宮宿整備」は、一つの命令によって瞬時に完了したものではなく、段階的なプロセスを経て進行した。ここでは、その過程を時系列で再構築し、戦国以来の湊町が、いかにして徳川の国家システムに組み込まれていったかを明らかにする。

表1:宮宿の成立と発展に関わる時系列年表

年代(西暦/和暦)

出来事

関連する史実・背景

典拠

戦国期(16世紀中頃)

織田信秀、熱田湊を支配下に置く

津島湊と並ぶ経済・軍事拠点として掌握。商業の利益を重視。

8

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い

徳川家康が天下の実権を掌握。全国支配体制の構築に着手。

2

1601年(慶長6年)

東海道宿駅伝馬制度の制定

家康が江戸と京を結ぶ東海道に宿駅の設置を命令。

1

1601年(慶長6年)

宮宿の公式指定と整備開始

熱田が41番目の宿場に指定。「宿町」「今道」が「伝馬町」に再編。伝馬36疋の常備義務。

13

1601年(慶長6年)

「七里の渡し」の公式ルート化

宮宿と桑名宿を結ぶ海上路が東海道の正式経路となる。

17

1624年(寛永元年)頃

尾張藩、東浜御殿を造営

藩主や将軍家光(1634年)が宿泊する迎賓館・要塞として機能。

19

1634年(寛永11年)

佐屋街道の整備開始

七里の渡しの迂回路として尾張藩が整備。後に「姫街道」と呼ばれる。

18

1635年(寛永12年)

参勤交代の制度化(武家諸法度)

大名行列の通行が急増。宮宿の宿泊機能が大幅に拡充される。

7

1638年(寛永15年)

伝馬・人足の増強

交通量増大に伴い、各宿の人足100人・伝馬100疋に拡充。

13

時期不明(江戸初期)

船番所・船会所の設置

尾張藩が海上検問のため設置。旅人や貨物を検察。

20

段階1:宿駅としての公式指定

慶長六年、徳川氏の命令により、熱田は江戸日本橋から数えて四十一番目の東海道宿駅として正式に指定された 13 。これは、古くからの熱田神宮の門前町であり、戦国期から湊町として栄えたこの地が、国家の公的インフラの一部として法的に位置づけられた歴史的な瞬間であった 23 。公式文書では「熱田宿」とも記されたが、熱田神宮の存在から通称「宮宿」として広く知られることとなる 22

段階2:町の行政的再編と「伝馬町」の誕生

この公式指定は、単なる名称の付与ではなかった。それは、町の構造と住民の生活を根底から変えるものであった。宿駅指定以前、この地域には鎌倉時代から旅行者のための「宿町」や、織田信長時代の永禄年間(1558-70)に形成された「今道」といった町並みが自然発生的に存在していた 13

1601年の指定に伴い、これら既存の町は、幕府から伝馬役、すなわち公用交通のために定められた数の人馬を常備し、継立業務を行うという公的な義務を課せられる。この重い義務を共有することになった「宿町」と「今道」は、行政的に一体化され、その中心的機能を示す「 伝馬町 」という新たな呼称で呼ばれるようになった 13

この「伝馬町」への再編は、単なる地名変更ではない。それは、住民のアイデンティティと経済活動の根幹を、幕府への「奉仕義務(伝馬役)」に結びつける、一種の社会契約の強制的な締結であった。宿駅指定以前の住民は、熱田神宮の門前町や港町の住人として、参拝客や商人との自由な取引を中心に経済活動を行っていた。しかし1601年以降、彼らは赤字覚悟で幕府の公用旅行を支えるという重い負担を負うことになる 13 。その見返りとして、彼らは旅籠経営などの独占的な商業権を得た。この「義務と権利」のセットは、住民の生活と繁栄を、幕府の交通政策、ひいては徳川体制の安定と不可分に結びつけた。「伝馬町」という名は、彼らがもはや単なる町の住民ではなく、徳川の国家インフラを末端で支える「公務の担い手」へと変質させられたことを示す刻印であり、近世的な身分社会への移行を象徴する出来事だったのである。

段階3:宿駅機能の物理的実装

行政的な再編と並行して、宿駅としての具体的な機能が実装されていった。

  • 伝馬の常備と問屋場: 宮宿は、当初 36疋の伝馬 を常に用意しておくことを義務付けられた 13 。これらの馬と人足を管理し、複雑な継立業務を采配する「問屋場」が伝馬町の中心に設置された 16
  • 御朱印改め所の設置: 宮宿は、東海道の宿場の中で唯一、伝馬などを無料で利用できる朱印状が本物であるかを確認するための「御朱印改め所(御朱印番所)」が設置された特別な場所であった 13 。これは、宮宿が名古屋城下への分岐点でもある交通の要衝であり、不正利用を厳しく取り締まる必要性が特に高かったことを示唆している。

段階4:海上交通路「七里の渡し」の公式ルート化

宿駅制度の制定と同時に、宮宿と伊勢湾の対岸に位置する桑名宿を結ぶ海上ルートが、東海道の正式な経路として認定された 17 。これにより、戦国時代から利用されてきた熱田湊は、官道の一部である「

宮の渡し 」(あるいは距離にちなんで「 七里の渡し 」)としての公的性格を帯びることになった。船着場の整備や航路の管理、渡船の運営が、これ以降、より組織的に行われるようになり、宮宿は陸路と海路が交差する、名実ともに交通のハブとなったのである。

第四章:宿駅機能の拡充と検問体制の強化

慶長六年(1601年)の「整備」は、宮宿の変革の出発点であった。これを機に、特に寛永年間(1624-1644)に入ると、その機能は社会情勢の変化に対応して急速に拡充・強化されていく。宿場としての機能拡充と、海上の関所としての検問体制の強化は、宮宿の性格を決定づける両輪であった。

第一節:東海道随一の宿場町への発展

寛永十二年(1635年)に武家諸法度によって参勤交代が制度化されると、東海道を往来する交通量は爆発的に増加した 7 。大名行列という大規模かつ格式の高い旅行者が定期的に通行するようになり、宿場にはそれに対応する高度なインフラが求められた。

これに応える形で、宮宿には大名や公家、幕府の高級役人が宿泊するための最高級施設である「本陣」が二軒(南部家の赤本陣、森田家の白本陣)、そしてその予備施設である「脇本陣」が一軒整備された 22 。さらに、一般の武士や庶民が利用する「旅籠」の数も飛躍的に増加した。天保十四年(1843年)の記録によれば、宮宿の旅籠は248軒を数え、これは東海道五十三次の中で最多であった 22 。人口も1万人を超え、東海道随一の規模を誇る巨大な宿場町へと発展したのである 24

この驚異的な発展を支えた最大の要因は、皮肉にも東海道の難所であった「七里の渡し」の存在であった。伊勢湾の天候は変わりやすく、海が荒れれば船は欠航となった。その結果、多くの旅人たちは天候の回復を待つ「日和待ち」を余儀なくされた 22 。この強制的な滞在が、宿泊、飲食、さらには遊興といった様々な需要を宿場内にもたらし、宮宿に莫大な経済的利益をもたらしたのである 29 。宮宿は、交通の結節点であると同時に、交通の「ボトルネック」でもあり、その両方の特性が未曾有の繁栄を生み出す原動力となった。

第二節:海上の関所 ―七里の渡しと検問―

宮宿のもう一つの重要な顔は、海上の安全保障を担う「関所」としての機能であった。徳川幕府は、江戸の防衛と全国支配の安定化のため、「入り鉄砲に出女」という基本政策を掲げた。これは、江戸への武器の流入(入り鉄砲)と、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子の国元への脱出(出女)を厳しく監視・禁止するもので、箱根や新居(今切)といった主要な関所で徹底されていた 30

宮宿の「七里の渡し」は、この原則を 海上ルートで適用する という極めて重要な役割を担っていた。宮宿は尾張徳川藩の重要拠点とされ、藩は 熱田奉行所 を設置し、その管轄下で海上交通の管理・監視を専門に行う 船奉行 、そしてその実務機関である 船番所 船会所 を船着場周辺に置いた 20 。これらの機関が、渡船に乗り込む旅人や積み込まれる貨物に対して厳格な検察、すなわち「検問」を行った。特に、江戸方面から来て船に乗る女性や、不審な荷物は厳しいチェックの対象となった。

この宮宿における検問体制の強化は、単なる物理的な関所の設置に留まらない、より深い統治思想を反映している。それは、幕府が直接管理するのではなく、管轄する大名(この場合は親藩筆頭の尾張藩)に、インフラ管理と警察権を一体的に委任するという「間接統治モデル」の確立であった。家康は、最も信頼する尾張徳川家に、江戸の西の玄関口とも言える最重要拠点の管理を委ねたのである。幕府は、街道整備という「ハードウェア(インフラ)」の規格を定め、その運用と監視という「ソフトウェア(統治機能)」を現地の有力大名に担わせた。これにより、幕府は直接的な行政コストを抑えつつ、全国の要衝を確実に支配下に置くことができた。一方、尾張藩は幕府から任された重要任務を遂行することで、その政治的地位を確固たるものにした。この「中央(幕府)の規格設定」と「地方(藩)の実行・管理」という巧みな役割分担は、260年続く江戸幕府の統治システム(幕藩体制)の雛形であり、「宮宿整備」はその初期における典型的な成功事例であったと言える。

なお、七里の渡しの厳しさと危険性を物語るのが、寛永十一年(1634年)に整備が始まった陸路の迂回路「佐屋街道」の存在である 18 。船酔いや海難事故のリスクを嫌う旅人、特に取締りが厳しい女性が多く利用したことから「姫街道」とも呼ばれたこの街道の繁栄は、裏を返せば、本道である七里の渡しがいかに厳しく管理され、また自然の脅威に満ちたルートであったかを雄弁に物語っている 18

第五章:「宮宿整備」の歴史的意義と後世への影響

慶長六年(1601年)に始まった宮宿の整備は、単に一つの宿場町を誕生させたに留まらず、日本の近世社会の形成に多大な影響を与えた。その歴史的意義は、政治、経済、文化の各側面に及んでいる。

第一に、徳川支配体制の確立への貢献である。宮宿を重要なハブとする東海道伝馬制度の確立は、幕府による情報伝達と軍事展開の速度を飛躍的に向上させた。これにより、江戸から遠く離れた西国大名への睨みを効かせ、潜在的な反乱を抑止し、徳川の覇権を揺るぎないものにした。宮宿の海上検問機能は、江戸の西の守りを固める上で不可欠な役割を果たし、幕藩体制の安定に直接的に寄与した。

第二に、全国的な経済・文化の大動脈を形成した点である。整備された宮宿と東海道は、参勤交代の大名行列、幕府の役人、全国を駆け巡る商人、そして伊勢参りなどに赴く庶民に至るまで、身分を超えた膨大な数の人々が往来する巨大な舞台となった 1 。この人々の絶え間ない移動は、江戸で生まれた政治や文化(例えば、江戸の言葉や風俗)を全国に伝播させると同時に、地方の産物や情報が江戸や上方に集まるという双方向の流れを生み出した。これにより、日本列島全体で経済・文化の均質化と交流が劇的に促進された。宮宿は、陸路と海路が交わる最大の結節点として、この近世的な「ヒト・モノ・情報」の全国的流通ネットワークの心臓部として機能し、日本の近世社会の形成に大きく貢献したのである。

第三に、近代都市・名古屋の原型を形成した点である。1601年の整備を起点として、宮宿は東海道随一の規模を誇る宿場町へと成長した 24 。その繁栄は、古くからの熱田神宮の門前町、戦国時代からの港町、そして江戸時代の宿場町という複数の顔を持つ、他に類を見ない複合都市としての性格を強めていった。この過程で蓄積された富と人口、そして交通の要衝としての地位は、後の名古屋市の発展における重要な基盤となった。現在の名古屋市熱田区に見られる地名や史跡は、この時代の繁栄を今に伝えている 35

結論:戦国の終焉、新たな秩序の礎石

慶長六年(1601年)の「宮宿整備」は、単なる一地方におけるインフラ事業では断じてなかった。それは、織田信秀に始まる戦国時代の地域的な経済支配の論理を、天下人となった徳川家康が、国家規模の恒久的な支配システムへと昇華させる、画期的な事業であった。

この一つの宿場町の変貌の過程には、徳川による新たな国家建設の設計思想が集約されている。第一に、既存の都市構造を国家の網の目へと再編し(伝馬町の成立)、住民を公務の担い手として体制に組み込んだ。第二に、交通の難所という地理的制約を、強制的な滞在需要を生み出すことで経済的繁栄の源泉へと転化させた(七里の渡しによる日和待ち経済)。そして第三に、最も信頼する親藩に管理を委任することで、中央集権と地方分権を両立させる幕藩体制の礎を築いた(尾張藩による海上検問)。

宮宿の整備は、実力と武力のみが支配の正当性を担保した戦国という時代が終わりを告げ、法と制度に基づく新たな近世社会が到来したことの、力強い宣言であった。この地に築かれた宿駅と航路は、物理的な道であると同時に、徳川が描いた新たな秩序を全国に行き渡らせるための道でもあった。したがって、「宮宿整備」は、まさに徳川300年の平和の礎石の一つとして、日本史上に位置づけられるべき重要な事変である。

引用文献

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  7. 歴史探訪[街道の歴史]江戸宿駅制度の成立 - お茶街道 http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/kaisetu2.htm
  8. 魔王・信長の実像 兄弟・家臣たちとの狭間で苦悩 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/8899/4
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