最終更新日 2025-10-01

小倉城下碁盤整備(1602)

細川忠興は関ヶ原後、慶長七年に小倉城下を碁盤割に整備。戦国の軍事思想と近世の合理性を融合させ、武家地と町人地を分離したハイブリッド都市を創造した。これは九州の要衝に築かれた壮大な国家創造であった。
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慶長七年 小倉城下碁盤整備の真相:戦国武将・細川忠興による国家創造のリアルタイム・ドキュメント

序章:天下分け目の後、九州の地にて

慶長5年(1600年)、関ヶ原における天下分け目の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。この戦いにおいて、東軍の武将として目覚ましい武功を挙げた細川忠興は、その論功行賞として、父祖伝来の地である丹後宮津から遠く離れた、豊前一国および豊後二郡、合計約39万9千石にも及ぶ広大な領地を与えられた 1 。これは、彼にとって事実上の新天地であり、全く新しい「国」をゼロから築き上げる機会の到来を意味した 3

慶長7年(1602年)に開始される「小倉城下碁盤整備」は、単に一つの城と町を建設する土木事業に留まるものではない。それは、戦国の荒波を生き抜き、当代随一の文化人でもあった細川忠興という一人の大名が、自らの理想とする統治、経済、文化、そして軍事を具現化しようとした、壮大な国家創造の試みであった。利用者様がご存知の「直線道路で武家地と町人地を分離」という事実は、この壮大なデザインを構成する重要な要素の一つに過ぎない。その背後には、時代の要請を読み解き、未来を見据えた忠興の緻密な戦略と、揺るぎない思想が隠されているのである。

本報告書は、この歴史的事業を、構想の段階から実行、そして完成後の影響に至るまで、あたかもリアルタイムでその過程を追体験するかのように、多角的な視点から詳細に解き明かすものである。

第一部:構想 ― 新たなる領国のグランドデザイン

第一章:なぜ小倉だったのか ― 戦略的拠点としての選定

細川忠興の国家創造は、その舞台となるべき中心地、すなわち領国の首都をどこに定めるかという、極めて重大な意思決定から始まった。彼の選択は、豊前国の既存の中心地であった中津ではなく、当時はまだ毛利氏の旧城が残るに過ぎなかった小倉であった。この決断の背後には、戦国武将としての軍事的洞察と、近世大名としての経営者的視点が交錯していた。

【1600年秋~1601年】中津城への入城と領国経営の開始

関ヶ原の戦いが終結した後、忠興はまず豊前国の中心であった中津城に入城した 2 。ここは、関ヶ原で袂を分かった黒田官兵衛・長政父子が九州平定の拠点とした城であり、領国統治の基盤としては一定の機能を有していた。忠興は、この地を足がかりとして、広大な新領地の掌握に着手する。弟の細川興元を小倉城に、幸隆を龍王城に、孝之を香春岳城に、そして重臣の松井康之を杵築城に配置するなど、領内の主要な城に信頼できる一族や家臣を配し、軍事的な支配体制を迅速に固めていった 5 。これは、新領主として現地の地理と勢力バランスを把握し、来るべき本格的な領国経営の準備を整えるための、慎重かつ戦略的な初期行動であった。

【1601年~1602年初頭】小倉の地政学的価値の再評価

中津での統治を開始する一方で、忠興の視線は、より長期的な視点から領国の将来像を描き出していた。その中で、小倉という土地の持つ圧倒的なポテンシャルが、彼の心を捉えていった。

第一に、その地政学的な優位性である。小倉は関門海峡に面し、本州と九州を結ぶ陸路と海路が交差する「九州の玄関口」であった 6 。長崎街道や中津街道の起点でもあり、「九州のすべての道は小倉に通じる」とまで言われたこの地を抑えることは、九州全体の物流と情報を掌握することを意味した 6 。これは、内陸部へのアクセスを主眼とする中津とは比較にならないほどの戦略的価値を持っていた。

第二に、経済的な潜在力である。忠興は、領国の富を増やすために海外貿易にも強い関心を持っていた 1 。小倉の港は、国内交易のみならず、将来的な国際貿易港としての発展可能性を秘めていた。交通の要衝は、すなわち商業の要衝であり、ここに新たな経済都市を建設することは、細川藩の財政基盤を盤石にする上で不可欠であった。

第三に、軍事的な合理性である。小倉の地は、東に紫川、西に板櫃川という二つの河川が流れ、天然の堀として利用できる理想的な地形であった 9 。毛利氏が築いた旧城の存在も 6 、全くのゼロから築城するよりも有利な条件であった。この地形を最大限に活用すれば、防御性に優れた壮大な城郭都市を建設することが可能であった。

拠点選定にみる「経営者」としての忠興

これらの多角的な分析を経て、忠興は中津を一時的な拠点とし、小倉に恒久的な藩都を建設するという、領国の未来を左右する重大な決断を下した。この意思決定プロセスは、彼が単なる軍人ではなく、領国という「企業」の将来価値を最大化しようとする、優れた「経営者」であったことを示している。

その思考の過程は、現代の経営戦略にも通じるものがある。まず、中津城という「既存事業」の価値と限界を冷静に分析した。次に、小倉という土地の持つ地政学的・経済的ポテンシャルを「新規事業機会」として発見した。そして、大規模な都市開発という莫大な初期投資(リスク)を乗り越えれば、長期的に計り知れない戦略的・経済的利益(リターン)が得られると判断したのである。戦国時代の価値観が「土地そのものの支配」にあるとすれば、忠興の決断は、来るべき近世の価値観、すなわち「経済と情報の流れの支配」へと舵を切るものであった。この先見性こそが、小倉という都市の礎を築いたのである。

第二章:三斎(忠興)の脳内図面 ― 京の記憶と「総構え」

慶長7年(1602年)の普請開始直前、忠興の頭の中には、単なる城や町の設計図を超えた、一つの理想都市の完成予想図が描かれていた。それは、彼自身の個人的な来歴と、戦国乱世の記憶という、二つの異なる要素が複雑に絡み合って形成された、独創的なグランドデザインであった。

文化的DNA:京都へのオマージュ

忠興の都市計画の根底には、彼が生まれ育ち、その半生を過ごした京都の記憶が色濃く反映されていた 3 。彼にとって理想の都市とは、美しく、機能的で、文化的な香気に満ちた京都の街並みであった 2

その最も明確な現れが、城下町の町人地に採用された「碁盤の目」状の街路計画である 11 。直線的な道路が直角に交差するこの都市計画は、単に整然としているだけでなく、区画の管理や物資の輸送、防火といった面で極めて高い機能性を持っていた。後に、城下には「京町」や「室町」といった、京都や大坂に由来する地名が付けられたことからも、忠興がいかに故郷の都市空間を意識していたかが窺える 2

また、茶人・細川三斎としての卓越した美意識も、都市の景観に大きな影響を与えた 5 。小倉城の象徴である天守閣は、「唐造り」と呼ばれる他に類を見ない特異な意匠で設計された 4 。これは、四階よりも五階が大きく張り出し、その間に屋根の庇がないという独創的な構造で、機能一辺倒ではない、文化的で見る者を圧倒する風格を備えた都市を創造しようとする、忠興の美学の表れであった。

軍事的思想:戦国の記憶と「総構え」

忠興が描いた理想都市は、美しいだけの平和な街ではなかった。彼の脳裏には、関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、未だ豊臣恩顧の有力大名が割拠する九州の地で、いつ再び戦乱が起こるとも限らないという、戦国武将としての冷徹な現実認識があった。

その危機意識が結晶化したのが、城下町全体を外堀と土塁で囲い、都市そのものを一つの巨大な要塞と化す「総構え」の構想である 4 。紫川、板櫃川、そして新たに掘削する外堀によって囲まれた総構えの周囲は、実に8kmにも及んだ。これは、難攻不落を誇った大坂城に匹敵する規模であり 9 、忠興が小倉を、有事の際には領民ごと籠城できる国家的な防衛拠点として設計していたことを明確に示している。

統治思想:身分制社会の空間的具現化

忠興の都市計画は、文化的景観と軍事的要請に加え、新たな時代である江戸時代の社会秩序を空間的に表現するという、高度な統治思想に基づいていた。その核心が、紫川を天然の境界線として、城の西側(西曲輪)を武士の居住区、東側(東曲輪)を町人の居住区として明確に分離するゾーニング計画であった 11

この分離は、複数の目的を同時に達成するための、極めて合理的な設計であった。第一に、城に近い西曲輪に家臣団を集住させることで、有事の際に迅速な動員を可能にすると同時に、藩主の権威を日常的に示すことができる。第二に、身分に応じた居住区を明確に分けることで、近世的な身分制社会の秩序を可視化し、人々の意識に浸透させることができる。そして第三に、武士という最大の消費階級と、町人という生産・商業階級を近接させながらも分離することで、治安を維持しつつ、効率的な経済循環を生み出すことが可能となる。

戦国と近世のハイブリッド都市

このように、細川忠興が構想した小倉城下町は、単一の思想で貫かれた都市ではなかった。その設計思想を深く分析すると、二つの異なる時代の論理が共存していることがわかる。

まず、周囲8kmに及ぶ「総構え」という徹底した要塞化思想 9 。これは、小田原城や大坂城に代表される、戦国時代末期の軍事思想の集大成である。敵の侵攻を前提とした、過去の経験に基づくリアリズムの産物と言える。

一方で、京都を模範とした「碁盤の目」状の整然とした町割り 2 、身分制度を反映した明確なゾーニング 11 、そして商工業者を積極的に誘致して経済的繁栄を目指す政策 7 。これらは、秩序と安定、そして経済的合理性を重視する、来るべき江戸時代の近世的な統治思想を先取りするものである。

なぜ、この二つの異なる思想が一つの都市に同居しているのか。その答えは、この事業が開始された「慶長7年(1602年)」という、まさに時代の狭間にあったからに他ならない。天下分け目の戦いからわずか2年、徳川の治世はまだ盤石とは言えず、戦乱の記憶は生々しかった。したがって、忠興が設計したのは「平和な時代の理想都市」ではなく、「まだ終わらないかもしれない戦に備えつつ、新しい時代の平和を築くための拠点都市」であった。小倉城下町は、戦国武将が近世大名へと自己変革を遂げる過程で生み出した、類い稀な「過渡期のハイブリッド都市」だったのである。

第二部:実行 ― 慶長七年、普請の刻

細川忠興の壮大な構想は、慶長7年(1602年)、ついに現実の形を取り始める。ここから約7年間にわたる城と城下町の建設は、単なる土木工事ではなく、最新の技術、高度なプロジェクトマネジメント、そして数万人の労働力を動員した、一大国家プロジェクトであった。そのプロセスを、あたかもドキュメンタリー映像を見るかのように、時系列で追跡する。

【表1:小倉城下町建設 主要工程年表(1600年~1620年)】

この長期間にわたる複雑な建設プロセスを俯瞰するため、まず主要な工程を年表形式で示す。これにより、全体の流れと各フェーズの位置づけを明確に把握することができる。

年(西暦/和暦)

主要な出来事

内容の要約

関連資料

1600 (慶長5)

細川忠興、豊前国に入封

関ヶ原の戦功により39万9千石を得る。当初は中津城に入る。

1

1601-1602

小倉への拠点移転決定

領内の検分と戦略的評価を経て、小倉を恒久的な藩都と定める。

2

1602 (慶長7)

小倉城・城下町の普請開始

大規模な築城と城下町の町割りが本格的に始まる。

1

1602-1604頃

フェーズ1:基盤整備

縄張の確定。紫川・板櫃川を利用した堀の掘削、総構えの外郭形成。

9

1604-1607頃

フェーズ2:城郭本体の造営

野面積みによる石垣の構築。唐造りの天守閣の建設。

6

1605-1609頃

フェーズ3:町割とインフラ整備

碁盤の目状の道路網敷設。武家屋敷、町人地の区画整理。

11

1602-継続

フェーズ4:人と文化の招聘

全国から商人・職人を誘致。城下町の人口増加と経済活動の開始。

6

1609頃

城郭の主要部分が完成

約7年の歳月を経て、城と城下町の基本骨格が完成。

7

1617 (元和3)

小倉祇園社創建

城下の鋳物師町に祇園社を創建。翌年より祇園会が始まる。

2

1620 (元和6)

忠興、隠居

三男・忠利に家督を譲り、中津城へ隠居。

2

第三章:城下町建設のリアルタイム・シークエンス

【フェーズ1:縄張と基盤整備(1602年~)】

普請の第一歩は、忠興の脳内にあるグランドデザインを、現実の大地へと写し取る作業から始まった。

まず、この巨大プロジェクトを効率的に遂行するための専門家集団が組織された。細川家の家臣団には、「普請奉行」や「作事奉行」といった、現代で言えば建設プロジェクトの総責任者や現場監督に相当する専門職が存在した 17 。忠興がかつて丹後宮津城の築城の際に重臣の有吉立言を普請奉行に任じたように 18 、小倉でも屈指の能力を持つ家臣がこの任に当たり、数千、数万の労働者を指揮したと考えられる。

次に、測量技術者たちが、忠興の構想に基づき、実際の土地に縄を張って都市の骨格を決定していく「縄張」が行われた。城郭の中心となる本丸、二ノ丸、三ノ丸の配置 14 、武家地と町人地を分かつ紫川の位置 12 、そして総構えの壮大な外周ラインが、大地の上に正確に描かれていった。

そして、この計画の根幹をなす、大規模な土木工事が開始される。それは、都市の輪郭そのものを創造する、大地の改造であった。東の紫川と西の板櫃川を天然の堀として活用することを前提に 9 、さらに南を流れる寒竹川(現在の神嶽川)の下流から北の響灘に向かって、新たな水路が人力で掘削された。これが、総構えを完成させる東の外堀(現在の砂津川)となったのである 9 。この工事により、小倉の地は、海と三方の水路に囲まれた、巨大な要塞島の原型を現した。

【フェーズ2:石垣と天守の造営(1604年頃~)】

都市の輪郭が定まると、次はその中核である城郭本体の建設が本格化する。

城の土台となる石垣は、自然の石をほとんど加工せずに、その形を巧みに組み合わせて積み上げる「野面積み」という技法で築かれた 6 。この技法は、一見すると無骨で荒々しいが、石同士が自然に噛み合うことで、地震などの揺れに強く、排水性にも優れるという利点を持っていた。石材の多くは、近隣の足立山から切り出され、多大な労力をかけて城まで運ばれた 15 。この高度な技術を要する石垣普請には、安土城の石垣などで名を馳せた近江の石工集団「穴太衆」のような、専門技術者集団の関与があったと強く推測される 19 。彼らは、石の声を聞き、その重心を見極めながら、堅牢かつ美しい石垣を築き上げていった。

石垣の構築と並行して、城の象徴である天守閣の建設が始まった。忠興が採用した「唐造り」の天守は、四階と五階の間に屋根の庇がなく、最上階である五階がその下の四階よりも大きく張り出すという、他に類を見ない独創的なデザインであった 4 。これは、伝統的な天守の様式を打ち破る、忠興(三斎)の革新的な美意識の現れであり、見る者に強烈な印象を与え、細川家の権威を天下に示すための視覚的な装置でもあった。

【フェーズ3:町割とインフラ整備(1605年頃~)】

城郭本体の工事が進行する中、城下のインフラ整備も同時並行で進められた。特に、経済の中心となる町人地(東曲輪)では、京都を模範とした碁盤の目状の街路が次々と敷設されていった 2 。これにより、整然とした都市空間が生まれ、後の商業活動の発展や、防火、治安維持の基盤が築かれた。

また、城下への出入り口として、香春口、中津口といった主要な「口」(門)が、土塁や石垣を伴う堅固な構えで設置された 2 。これらの門は、単なる出入り口ではなく、有事の際には都市を防衛する重要な拠点であり、平時においては長崎街道などの主要街道から出入りする人や物資の流れを管理・統制する関門の役割を果たした 6

【フェーズ4:人と文化の招聘(1602年~継続)】

忠興は、都市が真に機能するためには、優れたインフラ(ハードウェア)だけでなく、そこに住む人々の活力(ソフトウェア)が不可欠であることを深く理解していた。そのため、普請の初期段階から、新都市に魂を吹き込むための政策を積極的に展開した。

彼は城下町繁栄策として、全国各地から優れた技術を持つ商人や職人を、様々な優遇措置をもって誘致した 6 。これは、織田信長が始めた「楽市・楽座」に類する政策であり 24 、自由な経済活動を保証することで、新興都市に経済のエンジンを組み込もうとするものであった。

さらに、忠興は人々を単に集めるだけでなく、彼らが一体感を持つための文化的な装置も巧みに導入した。元和3年(1617年)、城下の鋳物師町に小倉祇園社(現在の八坂神社の前身)を創建し、翌年から盛大な「祇園会」を催した 2 。これが、今日まで続く「小倉祇園太鼓」の起源である。この祭りは、武士や町人といった身分を超えて城下の住民が共有するアイデンティティとなり、都市共同体の形成を強力に促進した 8

同時並行で進む巨大プロジェクト

小倉城下町の建設過程を詳細に見ていくと、それが単線的なプロセスではなく、複数の工事や政策が同時並行で進む、極めて複雑なプロジェクトであったことがわかる。約7年という比較的短期間でこれだけの規模の都市を完成させた事実は 10 、一つの工事が終わってから次を始めるという逐次的な方法では到底不可能であったことを物語っている。

川の掘削(フェーズ1)と石垣の石材運搬(フェーズ2)は同時に進行し、城の石垣を積みながら、城下の道路を敷設する(フェーズ3)ことも行われたであろう。そして、町人地がある程度区画されれば、建設の槌音響く中、いち早く商人を呼び込み、経済活動を開始させた(フェーズ4)に違いない。このことは、細川忠興と彼が任命した普請奉行たちが、現代のプロジェクトマネジメントにも通じる、極めて高度な計画遂行能力と資源配分能力を持っていたことを示唆している。この「リアルタイム」で多層的に進行する建設過程の姿こそ、細川藩の組織としての成熟度と、忠興のリーダーシップの卓越性を何よりも雄弁に物語っているのである。

第三部:完成、そして遺産

約7年の歳月を経て、細川忠興の壮大な構想は、小倉の地に一つの完成された都市として姿を現した。それは、彼の狙い通り、防衛、経済、文化という三つの機能が高度に融合した、時代の最先端を行く都市であった。そして、その都市計画が持つ普遍的な力は、細川氏が去った後も、時代を超えて小倉の地に生き続けることになる。

第四章:機能する都市 ― 防衛・経済・文化の三重奏

慶長14年(1609年)頃に主要部分が完成した小倉城下町は、忠興の構想通り、多機能都市として見事に機能し始めた。

防衛都市として 、海と川、そして人工の堀による総構えに囲まれた小倉は、九州における徳川方の軍事的中核拠点として、その役割を果たした。特に、島津氏をはじめとする有力な外様大名が割拠する西国において、この難攻不落の要塞都市の存在は、彼らへの強力な牽制力となった。この軍事的重要性は、後に細川氏の後を継いだ小笠原氏が、幕府から正式に「九州諸大名監視」という特命を受けることで、改めて公に認められることになる 6

経済都市として 、小倉は九州の玄関口という地の利を最大限に活かし、急速な経済的繁栄を遂げた。忠興の奨励策によって全国から集まった商人や職人たちは、京町や室町といった町人地で活発な商業活動を展開した 6 。やがて、木綿の織物である「小倉織」のような特産品も生まれ、藩の重要な財源となった 8 。藩は外国貿易も盛んに行い 7 、小倉は人、物、金、そして情報が集まる一大ハブ都市として発展した。その活況は、後の宝永5年(1708年)の記録において、町人地である東曲輪の人口が、武家地である西曲輪の約3倍に達していたことからも窺い知ることができる 25

文化都市として 、小倉は豊前国における文化的中心地としての性格を確立した。忠興が京都から移植した祇園祭は、城下最大の行事として定着し、住民たちの間に強い共同体意識と郷土愛を育んだ 2 。また、忠興自身が利休七哲の一人に数えられる当代一流の文化人であったことは、藩全体の文化レベル向上に大きく寄与した。

興味深いのは、武家地と町人地の「分離」が、同時に機能的な「連携」を生み出す装置として働いた点である。物理的に紫川で隔てられた両地区 11 は、身分秩序を維持する一方で、経済的には密接に結びついていた。武士階級は最大の消費者であり、彼らの旺盛な需要が、川向うの町人地の経済を直接的に潤すという、効率的な経済循環システムが形成されたのである。つまり、物理的な分離は、社会的な安定を保ちながら、経済的な連携を最大化するための、極めて合理的な都市デザインであったと言える。

第五章:細川時代の終焉と不滅の遺産

忠興が心血を注いで築き上げた小倉の地であったが、細川家の統治は永続しなかった。しかし、彼が遺した都市の骨格と精神は、新たな支配者へと引き継がれ、現代に至るまでその影響を色濃く残している。

時代の移り変わりと遺産の継承

元和6年(1620年)、忠興は三男の忠利に家督を譲り、中津城へと隠居する 2 。そして寛永9年(1632年)、二代藩主・忠利は、幕府の命により、石高がさらに大きい肥後熊本54万石へと加増転封となった 1 。これは、徳川幕府による全国的な大名再配置の一環であり、細川家の能力と忠誠が、より重要な拠点である熊本の統治に必要とされたことを意味する。

細川氏に代わって播磨明石から15万石で入国したのは、徳川家と縁の深い譜代大名の小笠原忠真であった 1 。忠真は、忠興が築き上げた完成度の高い城と城下町を、ほぼそのままの形で継承した。すでに高度な都市機能と経済基盤が整っていた小倉は、小笠原氏にとって理想的な統治拠点であった。小笠原氏は、この盤石な基盤の上に、幕末に至るまで約230年間にわたる安定した治世を築き、九州探題としての役割を果たし続けたのである 6

都市計画という「不滅のソフトウェア」

小倉城の象徴であった「唐造り」の天守閣は、天保8年(1837年)に城内からの火災によって惜しくも焼失し、江戸時代中には再建されなかった 6 。現在の天守閣は、昭和34年(1959年)に市民の熱望によって再建されたものである 13 。このように、建物という物理的な「ハードウェア」は、火災や時代の変化によって失われる運命にあった。

しかし、細川忠興がこの地に遺した最も偉大な遺産は、目に見える建造物ではなかった。それは、彼が設計した都市の区画、道路網、土地利用のゾーニングといった、目に見えない都市の基本構造、すなわち「都市計画」という名の「ソフトウェア」であった。このソフトウェアは、藩主が細川氏から小笠原氏に代わっても、時代が江戸から明治、そして現代へと移り変わっても、その基本構造が驚くほど強固に維持され続けた。

現在の北九州市小倉北区の中心市街地図を広げれば、そこに400年以上前の忠興のグランドデザインが今なお生き続けていることを、誰もが確認できる 12 。紫川を挟んで、かつての武家地と町人地が広がる街の骨格は、まさに忠興の設計そのものである。物理的な建造物よりも、都市の機能や人々の生活様式を規定する「計画」そのものの方が、はるかに永続的な影響力を持つ。忠興の先見性は、後世の人々の活動の舞台そのものをデザインし、未来の都市の発展の方向性までも規定した点にあったのである。

結論:戦国から江戸への架け橋として

慶長七年(1602年)に始まった「小倉城下碁盤整備」は、その名称が示すような単なる一地方の都市開発事業では断じてなかった。それは、戦国の知将であり、当代一流の文化人でもあった細川忠興が、自らの経験、思想、美意識のすべてを注ぎ込み、一つの理想国家の縮図を九州の地に創造しようとした、壮大な社会実験であった。

この都市計画の中には、二つの異なる時代の精神が見事に融合されていた。「総構え」という徹底した要塞化思想に象徴される、戦国の記憶から生まれた冷徹なリアリズム。そして、「碁盤の目」という整然とした都市構造と商工業保護政策に象徴される、来るべき泰平の世を見据えた近世的な合理主義。この二つを内包した小倉の都市計画は、まさに戦国と江戸という二つの時代をつなぐ、堅固で美しい「架け橋」そのものであった。

細川忠興の描いたビジョンは、藩主の交代や建造物の焼失といった歴史の変転を乗り越え、400年以上の時を超えて現代の北九州市の都市構造にまで、そのDNAを色濃く刻み込んでいる。彼の事業は、一人の武将が歴史の巨大な転換点において、いかにして未来を構想し、それを揺るぎない形として後世に遺し得たかを示す、不朽のドキュメントなのである。

引用文献

  1. 小倉城と小倉藩 - 北九州市 https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0082.html
  2. 第1話 小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉の町に残したものとは - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/11/story1-hosokawatadaoki/
  3. 小倉という町と大名・細川忠興の関わり|黒田きのと - note https://note.com/kuroda_roman/n/n4cc2884d0f1e
  4. 小倉城(福岡県北九州市) 前衛的だった南蛮造の天守 https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2023/04/08/100000
  5. 細川忠興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
  6. 小倉城 天守閣 - 小倉城 公式ホームページ https://kokura-castle.jp/castle/
  7. 小倉城の歴史 - 小倉城 公式ホームページ https://kokura-castle.jp/history/
  8. 小倉城下 http://www.kaido-nagasaki.com/route/route04.html
  9. 第27話 小倉城の総構えと城下町 https://kokuracastle-story.com/2020/11/story27/
  10. kokura-castle.jp https://kokura-castle.jp/history/#:~:text=%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AF,%E6%9C%88%E3%82%92%E8%A6%81%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  11. 小倉城下町散策コース | ふれあうツアーズ [Fureaú tours] 日本の魅力に触れる旅をナビゲート https://www.fureautours.jp/tours/view/ecfae8f7-dace-461b-aa54-4ba175839885
  12. 北九州の城下町・小倉 - 千葉工務店 https://kitakyushu.casa/living-kitakyusyu
  13. 小倉城 - 福岡県 https://fukuoka.mytabi.net/kokura-castle.php
  14. 小倉城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-728.html
  15. 小倉城 歴史と文化の観光散策 | たびらい福岡 https://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000498.aspx
  16. 【細川忠興・忠利の治政】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2042102010
  17. 【家臣団と支配機構】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050410
  18. 歴史の目的をめぐって 細川忠興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-30-hosokawa-tadaoki.html
  19. Made in Japanの心に触れる旅~第6回 夏休みスペシャル - ZEROO TIME Co. https://zerootime.com/blogs/store/made-in-japan-journey-vol6
  20. かるーいお城の雑学(その7)石工集団・穴太衆 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/ishikusyuudann-anousyuu
  21. 小倉城 | 観光スポット | 【公式】福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」 https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/13192
  22. 街中に佇む小倉城、細川忠興、小笠原家 - 「夢:dreamsギャラリー」へようこそ http://dreams.world.coocan.jp/main/Photo_kyushu_kokurajo.htm
  23. 小倉城と城下町:中世から細川氏時代の姿を辿る旅 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11936261
  24. 楽市楽座とは?簡単に!織田信長の目的、なぜ?政策のメリット - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/rakuichi-rakuza
  25. 【小倉城下町の発展】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050750
  26. 九州の城(豊前・小倉城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle09/096101/sub096101.html