最終更新日 2025-10-04

小石川上水整備(1606)

徳川家康は江戸入府後、飲料水確保のため小石川上水整備に着手。慶長11年(1606年)に大規模整備が行われ、戦国技術が集約。大久保忠行が総責任者となり、江戸の都市機能と人口増加を支える生命線となった。
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天下普請の脈動:戦国技術の粋、慶長十一年・小石川上水整備の時系列的再構築

序章:江戸前島に立つ家康の渇望

徳川家康が天正十八年(1590年)に関東へ入府した際、その本拠と定めた江戸は、後の百万都市の姿とは似ても似つかぬ、葦の生い茂る低湿地であった 1 。日比谷付近まで深く入り江が湾入し、江戸城のすぐ麓まで潮の香りが届くような土地であり、井戸を掘削しても塩分を含んだ苦水が湧出するばかりで、良質な飲料水の確保は絶望的であった 2 。この「水」という根源的な課題の克服なくして、新たな政治中枢の建設はあり得なかった。この地理的制約こそが、江戸における大規模な上水道事業を、他のいかなる普請よりも優先されるべき絶対的な要件たらしめたのである。

多くの史料は、家康が入府して間もない天正十八年七月、家臣の大久保藤五郎忠行(後の主水)に命じ、江戸の上水道を見立てさせたと伝えている 5 。これが「小石川上水」の濫觴であり、後の神田上水の原型となった事業である 9 。『校註天正日記』には、同年十月には「小石川水はきよろしくなり申」とあり、わずか三ヶ月ほどで通水したことが記されている 5 。しかし、この初期の上水が具体的にどのような流路を持ち、どれほどの規模であったかは詳らかではない 5 。むしろ、これは来るべき江戸の大改造に向けた試験的な布設、いわばプロトタイプであったと考えるべきであろう。そして、慶長十一年(1606年)に行われたとされる「整備」こそが、単なる修繕や拡張に留まらず、江戸を未曾有の巨大都市へと変貌させるための、極めて戦略的なインフラ投資であった。

本報告書は、この慶長十一年の事変を、単発の土木工事として捉えることをしない。むしろ、戦国乱世を通じて全国各地で培われた治水・築城技術の粋が、徳川による新たな国家建設の象徴である「江戸」という巨大プロジェクトに初めて体系的に投入された、歴史の転換点として位置づける。武田信玄が河川を制し、豊臣秀吉が大地を改変した技術と思想の潮流が、いかにして江戸の生命線たる上水道へと流れ込み、百万都市の礎を築き上げたのか。本稿では、1606年前後の江戸を巡る政治・社会・技術の動態を時系列で再構築し、その歴史的意義を徹底的に論証するものである。家康が入府直後に上水建設に着手したことは、単なる民政上の配慮に留まるものではない。それは、小田原北条氏を滅ぼした新領主として、旧領民の心を掌握するための迅速かつ効果的な施策であった 3 。前任者が成し得なかった生活基盤の安定化を即座に実現することは、統治の正当性を内外に示す絶好の機会であった。さらに、家康は秀吉による大坂城や伏見城の築城、すなわち「天下普請」を目の当たりにしており、巨大都市の建設がいかに大規模なインフラを要するかを熟知していた 11 。したがって、天正十八年の初期工事は、短期的な人心掌握術と、来るべき江戸の大発展を見据えた長期的な都市計画の布石という、二重の戦略的意味を内包していたと解釈できるのである。

第一部:戦国の遺産 ― 武将たちの治水と築城

小石川上水整備を可能にした技術と思想は、慶長の世に突如として現れたものではない。それは、戦国大名たちが自らの領国を富ませ、敵から守るために、血肉を削る努力の末に獲得した土木技術の集大成であった。この章では、上水整備の技術的・思想的背景を理解するため、戦国時代の土木技術が到達した高みを概観する。

第一章:大地を制する者 ― 武田信玄と加藤清正の領国経営

甲斐の武田信玄は、戦国屈指の治水家としても知られる。彼が釜無川に築いたとされる「信玄堤」は、単に洪水を防ぐための堤防ではなかった。それは、川の流れを二重、三重の堤で受け止め、勢いを削ぎ、洪水の際には意図的に水を遊水地に導くことで被害を最小化し、さらにはその水と土砂を新田開発に利用するという、極めて複合的な水利システムであった 11 。特筆すべきは、堤の上に神社を設けて祭礼を行わせ、人々が堤を踏み固めるように仕向けたという逸話である 11 。これは、自然の猛威に力で対抗するのではなく、その力を巧みに受け流し、利用するという思想の表れであり、後の日本の治水事業に大きな影響を与えた 14

一方、豊臣秀吉配下の猛将、加藤清正は、築城と都市計画を一体化させた稀有な才能の持ち主であった。彼が肥後熊本に入封した際、城下を流れる白川、坪井川、井芹川の複雑に蛇行した流路を大胆に直線化し、それらを熊本城の外堀として再編した 13 。これにより、城の防御力を飛躍的に高めると同時に、広大な城下町を開発する用地を生み出し、さらに治水と灌漑、水運のための用水路網を整備したのである。これは、軍事(防御)と経済(物流・農業)という、領国経営の二大要請を土木技術によって同時に解決した好例であり、築城技術がそのまま都市インフラ整備に応用された画期的な事例であった。

これらの事業を支えたのが、「川除衆」に代表される専門技術者集団の存在である 12 。戦国大名は、地形を読み、水の流れを計算し、普請を指揮する能力を持つ人材を積極的に登用し、その知見は代々継承されていった。

第二章:権威のインフラ ― 豊臣秀吉の都市改造と水利

天下を統一した豊臣秀吉は、その絶大な権力を誇示するかのように、大坂や伏見に壮大な城郭都市を建設した。彼の事業は、単なる城の建設に留まらず、広大な城下町とそれを支える水利システムを一体的に構築する、まさに地形そのものを改変する巨大プロジェクトであった 11

特に、晩年の居城となった伏見城の建設に伴う宇治川水系の改修は、その思想を象徴している。秀吉は、伏見城築城の資材を運搬する水路の水深を確保するため、宇治川の流れを大きく北へ迂回させ、城の麓へと引き込んだ 15 。この際に築かれた「太閤堤」は、宇治川と巨椋池を分離し、水運路を確保すると同時に、周辺地域の洪水防御にも寄与する壮大な治水事業であった 17 。これは、権力者が意のままに自然を制御し、新たな経済的・軍事的価値を創造する「天下普請」の思想そのものであった。徳川家康は、豊臣政権下でこの事業を間近に見ており、江戸建設の構想に多大な影響を受けたことは想像に難くない。

第三章:小田原合戦の教訓 ― 総構えと水の防御

天正十八年(1590年)、家康が秀吉軍の一翼を担って参陣した小田原征伐は、彼に強烈な印象を残した。難攻不落を誇った小田原城は、城下町全体を総延長9kmにも及ぶ長大な堀と土塁で囲い込む「総構え」によって守られていた 19 。この巨大な防御システムは、関東ローム層という粘土質の赤土の性質を巧みに利用していた 20 。一度掘に落ちれば、滑りやすい壁面を這い上がることは不可能であり、空堀でありながら水堀に匹敵する防御効果を発揮した 22

さらに、この総構えは、渋取川などの自然河川を巧みに取り込み、天然の堀として防御線に組み込んでいた 23 。地形と水利を最大限に活用するこの思想は、後の江戸城が神田川や日本橋川を内堀・外堀として利用し、「の」の字状に堀を巡らせて江戸全体を要塞化する構想の原型となった可能性が指摘されている 24

これらの戦国時代の経験は、小石川上水整備の技術的・思想的な土台を形成した。城の縄張り(設計)において、高低差を精密に読み解き、防御施設を効果的に配置する測量技術は、自然流下式の上水路で微細な勾配を設計する技術と本質的に通底する 25 。また、巨大な堀を掘削し、石垣を組み上げる技術は、上水路の開削や石樋の設置に直接応用できるものであった 5 。慶長十一年の整備を担ったのは、戦国の「普請」の修羅場をくぐり抜けてきた技術者たちであり、彼らが戦争で培ったスキルセットが、そのまま平和な時代の都市建設へと転用されたのである。それは、戦争の技術が平和の礎を築くために再利用された、歴史的な転換点であった。


【表1】戦国期から江戸初期における主要治水・利水事業年表

年代 (西暦)

事業名

主体

目的・特徴

16世紀中頃

信玄堤

武田信玄

釜無川の治水。霞堤などを用い、洪水の勢いを削ぎつつ新田開発に利用する複合的システム 11

1580年頃

佐々堤

佐々成政

越中・常願寺川の治水。急流河川の氾濫を防ぐための堤防建設 11

1583年~

大坂城築城と城下町整備

豊臣秀吉

淀川水系を利用した水運網の整備と、城下町の防御・経済基盤の構築 11

1594年~

伏見城築城と太閤堤

豊臣秀吉

宇治川の流路を変更し、水運路確保と治水を両立。巨椋池を制御下に置く 16

16世紀末~

熊本城築城と河川改修

加藤清正

坪井川・井芹川を直線化し、城の外堀として利用。城下町の治水・利水網を整備 13

1590年

小石川上水 (創設)

徳川家康 (大久保忠行)

江戸入府直後の飲料水確保。後の神田上水の原型となる 5

1590年~

利根川東遷事業

徳川家康 (伊奈忠次)

関東平野の治水と新田開発を目的とした、利根川の流路を東へ移す国家的大事業 1

1606年

小石川上水整備

徳川家康 (大久保忠行)

天下普請による人口急増に対応するため、水源・取水・水路を大規模に強化 2


第二部:慶長十一年 ― 小石川上水整備のリアルタイム分析

慶長十一年(1606年)という年を特定して「整備」が行われた背景には、当時の江戸が経験していた未曾有の都市変容があった。この章では、ユーザーの要望である「リアルタイムな状態」を再現するため、1606年前後の江戸の状況を時系列で再構築し、上水整備が天下普請という巨大プロジェクトの中でいかに重要な役割を果たしたかを明らかにする。

第一章:前夜(1603~1605年)― 動き出す江戸、沸騰する需要

慶長八年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開府した 29 。これを機に、江戸は名実ともに関東の一地方都市から日本の政治的中枢へとその姿を変え始める。直後から、家康は全国の外様大名に対し、江戸城及び城下町の建設への奉仕を命じた。これが世に言う「天下普請」である 28 。この大事業は、単なる都市建設に留まらず、普請にかかる莫大な費用を大名に負担させることでその財力を削ぎ、徳川の絶対的な権威を天下に示すという、高度な政治的意図を内包していた 31

第一次天下普請のハイライトは、江戸城の北に位置した神田山を切り崩し、その膨大な土砂で城の南東に広がっていた日比谷入江を埋め立てるという、大規模な地形改変であった 28 。この工事により、後の丸の内、日比谷、銀座に連なる広大な武家屋敷地と町人地が生み出されたのである 32

この巨大工事は、江戸に爆発的な人口増加をもたらした。普請を命じられた大名たちは、家臣団を引き連れて江戸に藩邸を構え、現場の指揮を執った。そして、彼らの下で働く膨大な数の職人(石工、大工、鳶など)や、土を運び、石を曳く人足が全国から流入した 36 。記録によれば、慶長十四年(1609年)には江戸の人口は15万人に達したとされ、町数も寛永期には「八百八町」と呼ばれるほどに増加した 38

この人口爆発は、江戸の水需要を臨界点にまで押し上げた。天正十八年に開設された初期の小石川上水や、赤坂の溜池といった既存の水源では、急増する需要を到底賄いきれなくなっていた 39 。飲料水はもとより、石垣を積む際の漆喰を練ったり、土木工事で発生する土埃を抑えたりと、普請作業そのものにも大量の水が不可欠であった。江戸の都市建設プロジェクトを円滑に進める上で、安定的かつ大容量の給水システムの確立は、もはや一刻の猶予も許されない喫緊の課題となっていたのである。


【表2】慶長十一年(1606年)前後 江戸内外の主要動向 時系列対照表

年 (西暦)

季節

幕府・江戸城の動向 (天下普請)

小石川上水整備の進捗 (推測)

江戸市中の状況

慶長8 (1603)

通年

徳川家康、征夷大将軍に就任、江戸開府。第一次天下普請が本格化。神田山切り崩しと日比谷入江埋め立て開始 28

-

普請のための労働者・職人が流入開始。人口増加が顕著になる 38

慶長9 (1604)

通年

江戸城本丸・二の丸・三の丸の縄張りが決定。普請が進行。

-

日本橋が架橋されるなど、町割りが進展 30

慶長10 (1605)

徳川秀忠、二代将軍に就任。家康は大御所となる。

上水整備の必要性が幕府中枢で認識され、計画策定が始まる。

人口増加が加速し、既存水源の水不足が深刻化 41

慶長11 (1606)

春~夏

江戸城本丸の石垣普請が本格化。西国外様大名が動員される 35

幕府が正式に整備を決定。大久保主水忠行の指揮の下、計画が最終化され、普請人足の動員が始まる。

天下普請の槌音が響き渡る。水不足が普請の進捗にも影響を及ぼし始める。

夏~秋

天守台の築造が開始される (担当:黒田長政など) 35

関口大洗堰の改修・強化工事。小日向台地沿いの開渠の拡幅・浚渫。市中への暗渠(木樋・石樋)敷設が急ピッチで進む。

整備された水路から、普請現場や拡大する町人地への給水が徐々に改善。

本丸御殿の建設が進行。

一連の整備工事が完了し、本格的な通水が開始。給水能力が飛躍的に向上する。

安定した水供給により、都市機能が向上。さらなる人口流入の受け皿が整う。

慶長12 (1607)

通年

江戸城本丸が完成。

安定した運用と維持管理体制の構築。

整備された上水が、江戸のさらなる発展を支える生命線となる。


第二章:事変の核心(1606年)― 普請の槌音と水の流れ

慶長十一年の春、江戸城本丸の石垣普請が本格化し、加藤清正や福島正則といった西国の猛将たちが動員される中、幕府は天下普請の成否を左右する生命線として、小石川上水の大規模な「整備」を正式に決定した。総責任者には、天正十八年の創設事業を成功させた大久保主水忠行が再び任命された 5 。彼の頭の中には、単なる水路の補修ではなく、水源の安定化、取水量の増強、そして拡大する江戸城と市中へ淀みなく清流を送り込むための、新たな幹線水路の構想があったと推測される。

この事業のための労働力は、天下普請の枠組みの中で調達された。江戸城の普請を命じられていた諸大名に対し、幕府は「御手伝普請」として、さらに人足や資材を供出させたのである 44 。これは、大名にとってはさらなる経済的負担であったが、幕府の絶対的な命令に逆らうことはできなかった 32 。こうして、上水整備の現場には、各地から集められた屈強な人足と、彼らを束ねる組頭、そして熟練の技術を持つ職人たちが集結した。

夏から秋にかけて、工事は急ピッチで進められた。その様相を時系列に沿って再現する。

  1. 【関口での作業】: まず最優先されたのは、上水システムの心臓部である関口の大洗堰の改修・強化であった 4 。神田川(当時は江戸川とも呼ばれた)の流れを確実に堰き止め、取水口へ安定した水量を導くため、既存の堰はより堅牢な石積みの構造へと改められた。石工たちが巨大な石を巧みに組み上げ、大工たちが水門の差蓋(さぶた)を調整する。この堰の完成度こそが、下流への供給量を決定づけるため、一切の妥協は許されなかった。
  2. 【開渠の掘削】: 関口から小日向台地、そして小石川へと続く開渠(白堀)区間では、大規模な拡幅と浚渫(しゅんせつ)が行われた。鍬(くわ)や鋤(すき)を振るう人足たちの掛け声が響き、掘り出された土は畚(もっこ)や担架で次々と運び出されていく 47 。その傍らでは、測量部隊が「水盛り」と呼ばれる、水の水平性を利用した原始的ながらも正確な測量法で、水路の勾配をミリ単位で指示していた 26 。この僅かな傾斜こそが、動力なき時代の水の流れを生み出す唯一の力であった。
  3. 【暗渠の敷設】: 水戸藩邸(現在の小石川後楽園)を過ぎ、人口が密集する江戸市中へと入る部分では、衛生管理と土地の有効利用のため、水路を地下に埋設する暗渠化が進められた 46 。普請のために江戸に集結していた高度な技術を持つ樋大工たちが、檜や松の角材を刳り抜いたり、板を組み上げたりして木樋を製作 26 。それらが次々と連結され、地中深くに埋設されていった。特に重要な幹線部分には、半永久的な使用に耐える「万年石樋」が用いられた 48

そして冬、一連の整備工事が完了し、拡幅・強化された水路に、井の頭池を源とする清冽な水が満々と流れ込んだ。これにより、天下普請が進む江戸城、周辺の大名屋敷、そして神田・日本橋方面の町人地への給水は劇的に安定化した 2 。沸騰する巨大都市の渇きは癒やされ、江戸の都市機能は、この新たな生命線によって大きく向上したのである。

第三章:主導者、大久保主水忠行 ― 菓子司から治水家へ

この国家的な大事業を成功に導いた大久保主水忠行は、異色の経歴を持つ人物であった。彼は元々、徳川家康に仕える三河武士であったが、永禄六年(1563年)の三河一向一揆との戦で腰に銃弾を受け、歩行が不自由となり、武人としてのキャリアを断念せざるを得なくなった 43

失意の中にあった忠行(当時は藤五郎)であったが、彼には菓子作りの才があった。趣味で始めた菓子作りは評判を呼び、やがて家康に餅を献上する役目、いわゆる菓子司となった 51 。彼の作る餅は家康の好みに合い、毒殺を警戒していた家康も、忠行の献上する餅だけは安心して口にしたと伝えられるほどの信頼を得ていた 43

なぜ、この菓子司が上水道事業という国家プロジェクトの総責任者に抜擢されたのか。史料にその明確な理由は記されていない。しかし、最も有力な説は、家康が忠行の持つ「水を見極める能力」を高く評価したからだというものである 52 。良質な菓子作りには、良質な水が不可欠である。日頃から水に深いこだわりを持つ忠行であれば、江戸に最適な水源を見つけ出し、清浄な水を供給する事業を任せられると家康は判断したのである。また、槍働きのできない身でありながら、変わらぬ忠誠心を示し続けた忠行への、家康の厚い信頼があったことも大きな要因であろう。

この事業の功績により、家康は忠行に「主水(もんと)」の名を与えた。通常「もんど」と読むこの官途名を、家康はあえて「もんと」と読ませたという。「もんど」の音が「濁(にご)る」に通じるのを嫌ったためだと伝えられている 43 。この逸話は、この事業が単に水を供給するだけでなく、「清浄な水」を江戸にもたらすという強い意志と誇りのもとに行われたことを象徴している。

第三部:江戸の血脈 ― 技術と構造の深層

慶長十一年の整備によって強化された小石川上水(後の神田上水)は、単なる溝や管の集合体ではなかった。それは、地形を読み、自然の力を最大限に利用し、適材適所の材料と工法を駆使して構築された、極めて洗練されたシステムであった。この章では、上水路の具体的な構造と、それを実現した戦国由来の技術について詳細に分析する。

第一章:水源から江戸市中へ ― 水路の解剖学

上水システムの全体像は、水源からの「集水」、安定した量を取り込む「取水」、そして市中へと導く「導水」の三段階で構成される。

  • 水源と集水: 主水源は、武蔵野台地に豊かな湧水を湛える井の頭池であった。さらに、その水量を安定させるため、善福寺池や妙正寺池からの流れも途中で合流させる設計となっていた 2 。複数の水源を確保することで、旱魃時にも供給が途絶えるリスクを低減させていたのである。
  • 取水と分水: 各水源からの流れが合流し、神田川となって目白台下に至る地点、すなわち「関口」に、システムの心臓部である大洗堰が設けられた 9 。この堰は川の流れを堰き止めて水位を人為的に上昇させ、その水を上水路へと引き込むための施設である 4 。取水量を調整するための水門も備えられており、余剰な水は堰を越えて本来の神田川へと流された。これは、必要な分だけを正確に取り込む、高度な水量管理技術の表れであった。
  • 導水ルート: 関口で取水された水は、まず小日向台地の縁を縫うように、開渠(地上に掘られた水路)として東へと流れた。このルートは現在の巻石通りにほぼ相当する 46 。その後、水戸徳川家の上屋敷(現在の小石川後楽園と東京ドーム一帯)の広大な敷地内を通過 2 。屋敷を抜けた水は、神田川の谷を越えるため、木製の水道橋である「懸樋(掛樋)」によって立体交差する 4 。この懸樋の存在こそが、後に「水道橋」という地名の由来となった 55 。川を越えた上水は、いよいよ江戸市中へと入り、地下に埋設された暗渠となって、神田、日本橋方面の武家屋敷や町人地へとくまなく配水されていったのである。

第二章:匠の技 ― 木樋と石樋の工法

江戸市中の地下に網の目のように張り巡らされた配水網は、主に木材と石材で作られた樋(とい)によって構成されていた。これらは、場所の重要度や求められる機能に応じて巧みに使い分けられていた。

  • 木樋(もくひ): 市中の配水管の主役であった。
  • 材質: 耐久性や防腐性に優れ、水中でも腐りにくい檜(ひのき)や松(まつ)が主に使用された 5
  • 構造: 角材の中心をノミで刳り抜いて溝を作り、上から蓋をする「彫樋(ほりどい)」や、四枚の板を箱状に組み上げる「箱樋(はこどい)」などがあった 56
  • 接合・止水: 木樋一本の長さは二間(約3.6m)程度で、これらを連結して使用した 5 。継ぎ目からの漏水を防ぐため、合わせ目を船釘(ふなくぎ)で堅固に固定し、隙間には檜の皮などを叩き込んで密閉するという、船大工の技術を応用した高度な止水工法が用いられた 5
  • 石樋(いしひ): 上水路の幹線など、特に重要な部分に使用された。
  • 用途: 半永久的な使用が期待され、「万年石樋」とも呼ばれた 48 。強固な構造は、交通量の多い道の下や、特に高い水密性が求められる区間に最適であった。
  • 構造: 昭和後期に文京区本郷で発掘された神田上水の石樋は、底石の上に石を積み上げた側壁を持つ「石垣樋」と呼ばれる構造で、その上には巨大な一枚岩の蓋石が乗せられていた 51 。石と石の隙間には良質な粘土を突き固めて充填し、完璧な漏水防止が図られていた 5
  • 竹樋(たけひ): 町屋の各戸への最終的な引き込みなど、小口径の配管には、竹の節をくり抜いて作られた竹樋が安価で加工しやすいため用いられた 7

この適材適所のシステム設計は、プロジェクト全体の経済性、施工性、そして持続可能性(メンテナンス性)を考慮した、総合的な設計思想の表れである。単に水を流すだけでなく、巨大都市の生命線をいかに効率よく、かつ永続的に構築・維持するかという、極めて高度なマネジメント視点が存在したことを示唆している。


【表3】神田上水(旧小石川上水)の構造と技術仕様

構成要素

主な使用場所

材質

標準的な寸法 (例)

構造・工法

主な機能・特徴

開渠 (白堀)

関口取水口から小石川周辺までの郊外区間

- (素掘り)

幅・深さは場所により変動

地山を掘削して水路を形成

大量の水を効率的に導水。維持管理(浚渫)が比較的容易 46

石樋 (石垣樋)

江戸市中の幹線水路、特に重要な区間

花崗岩など

内法上幅1.5m、下幅1.2m、高さ1.2-1.5m 51

切石や間知石を組積。蓋石を設置。目地は粘土で止水。

極めて堅牢で耐久性が高い。「万年石樋」と呼ばれ、半永久的な使用を想定 5

木樋 (箱樋/彫樋)

市中の主要な配水管、支線

檜、松、樅など

内法断面は大小様々。一辺30cm~1m超まで 5

板組または刳り抜き。継手は船釘で固定し、檜皮等で止水。

加工・敷設が比較的容易で、大量生産に適する。市中の複雑な配管網を形成 7

竹樋

町屋などへの最終的な引き込み管

-

竹の節を抜いて連結

最も安価で軽量。小口径の給水に適し、末端の配管網を担う 7

分岐点、合流点、勾配の変換点

石、木

-

石組または木組の箱型構造物

分水、合流、水勢の調整、土砂の沈殿(沈砂池)、維持管理の点検口など多機能 26


第三章:見えざる設計 ― 自然流下を支えた測量術

江戸の上水道システムを貫く最も重要な技術的原則は、一切の動力を必要としない「自然流下方式」であった 6 。これは、水源から江戸市中の末端に至るまで、地形の僅かな高低差、すなわち勾配のみを頼りに水を流す方式である。後の玉川上水が、約43kmの長大な水路をわずか92mの高低差で流したという驚異的な記録が残っているように 6 、この方式の実現には、極めて精密な測量技術が不可欠であった。

勾配が緩やかすぎれば水は滞留し、水質が悪化する。逆に急すぎれば、水流が樋を侵食し、空気を含んで流れが不安定になる 26 。この絶妙な勾配を、全線にわたって維持し続ける必要があった。これを可能にしたのが、戦国時代の城の縄張りで培われた測量術の応用である。当時の技術者たちは、長い竿の両端に水の入った管を取り付け、その水面を基準に水平を出す「水盛り」や、水糸を張って勾配を確認するといった、原始的ながらも極めて精度の高い手法を駆使して、寸分の狂いなく水路の設計・施工を行ったと推測される 26

さらに、この見えざる設計の巧みさは、「枡(ます)」と呼ばれる施設の存在にも見て取れる。水路の要所要所に設けられたこの箱型の施設は、単なる分岐点や合流点ではなかった。枡の底を意図的に樋よりも深くすることで、流れてきた土砂を沈殿させる沈砂池の役割を果たし、上澄みの清浄な水だけを下流に流す仕組みになっていた 56 。また、急な高低差がある場所では、枡を階段状に設置して水の勢いを吸収し、水路の破損を防いだ。そして何より、枡は地下に埋設された配管網の重要な点検口であり、維持管理の中核を担う拠点でもあった 26 。これらの機能は、上水道を一度作って終わりではなく、永続的に維持・管理していくという、長期的な視点に基づいた設計思想の存在を物語っている。

終章:百万都市の礎

慶長十一年(1606年)の小石川上水整備は、戦国乱世を通じて蓄積された日本の土木技術が、徳川による天下泰平の世を象徴する巨大都市・江戸の建設へと結実した、画期的な一大事業であった。それは、武田信玄や豊臣秀吉が領国経営のために駆使した河川制御の思想と、加藤清正らが築城において示した都市インフラ整備の技術が、徳川家康という新たな天下人の壮大な都市構想の下で融合した瞬間であった。この事業は、武力による領土支配から、インフラ整備による民政へと、統治のパラダイムが転換したことを明確に示すものであった。

この整備によって飛躍的に能力を向上させた小石川上水は、やがて「神田上水」としてその名を知らしめ、後に開削される玉川上水と共に、江戸の発展を支える二大動脈となった 2 。その清冽な流れは、江戸城や武家屋敷の堀を満たし、八百八町の町人たちの喉を潤し、江戸が世界にも類を見ない百万都市へと成長するための不可欠な礎となったのである 37 。明治三十四年(1901年)に近代水道の完成に伴いその役目を終えるまで、実に300年近くにわたり、この上水は江戸・東京の生命線として機能し続けた 46

結論として、慶長十一年(1606年)の事変は、単なる「補助上水の整備」という言葉で片付けられるべきものではない。それは、天下普請という国家プロジェクトを成功に導くための戦略的インフラ投資であり、家康の先見的な都市構想と、戦国の世を生き抜いた名もなき技術者たちの知恵と技が結晶した、歴史的な瞬間であった。この時、江戸という未来都市の「血脈」は、確かに大地の下に敷設されたのである。

引用文献

  1. 江戸を建てる」の著者、門井慶喜さんに聞く、家康が行ったサステナブルなまちづくり【前編】 https://www.daiwahouse.co.jp/sustainable/sustainable_journey/column/edo-development/
  2. 神田上水からみる水道橋のルーツについて。文京区と上水道 https://bunkyo-tushin.com/?p=8308
  3. 江戸最古の上水施設 小石川上水 | ノジュール|50歳からの旅と暮らしを応援する定期購読雑誌 https://nodule.jp/info/ex20231204/
  4. きれいな飲み水を求めて 武士・町人を支えた江戸初期の「上水設備」を知っていますか https://urbanlife.tokyo/post/72116/
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  13. 戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?ー超入門!お城セミナー【構造】 https://shirobito.jp/article/922
  14. すぐれた土木技術者だった https://www.jctc.jp/wjctcp/wp-content/uploads/2023/02/071.pdf
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  23. 総構【小田原城街歩きガイド】 https://www.scn-net.ne.jp/~yanya/daigaikaku.htm
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  53. サイト内コンテンツ - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/131.shtml
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  55. 本資料のURL - 詳細 :東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042240
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  60. 【日本初の水道】水道の歴史~日本編~ | 有限会社 トヨタビルサービス https://www.toyota-bs.com/blog/1011/
  61. 江戸の六上水 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E5%85%AD%E4%B8%8A%E6%B0%B4
  62. 上下水道の歴史① ~江戸の”和製水インフラ”は世界最先端だった - note https://note.com/mizudewakuwaku/n/nc81ff742e98b
  63. まとめ【現代に残る神田上水】江戸時代に設けられた上水道の歴史に迫る - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-9/