最終更新日 2025-10-02

岐阜町奉行設置(1570)

元亀元年、信長は岐阜に町奉行を設置せず。楽市楽座令で都市経済と秩序を管理し、機能的統治を確立。これは近世都市行政の先駆であり、後の町奉行制度の源流となった。
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元亀元年(1570年)における織田信長の岐阜都市統治 —「町奉行設置」説の歴史的再検証

序章:問いの再設定 — 1570年「岐阜町奉行」の実像をめぐって

本報告書は、「日本の戦国時代という視点で『岐阜町奉行設置(1570)』という事変について、詳細かつ徹底的に調査しまとめる」という要請に基づき、当該事象の歴史的実像を多角的に解明するものである。

まず、本報告書の出発点として、極めて重要な時代考証上の論点を提示する必要がある。提示された「岐阜町奉行」という制度が、明確な役所として設置されたのは、江戸時代中期の元禄8年(1695年)、美濃国岐阜町が尾張藩の所領となってからのことである 1 。これは、織田信長が統治した元亀元年(1570年)から約125年後の出来事であり、両者の間には看過できない時間的・時代的隔たりが存在する。

したがって、本報告書は「1570年に町奉行が設置されたか否か」という二元論的な問いに終始するものではない。むしろ、この歴史認識の齟齬そのものを探求の核心に据え、より深く、「なぜ1570年という年が岐阜の都市統治において画期と見なされうるのか」、そして「織田信長が構築した岐阜の統治システムは、後世の『町奉行』が担う機能をどのように先取りしていたのか」という問いを徹底的に解明することを目的とする。

1570年という年は、信長が美濃を平定し、岐阜城下町の建設に着手した初期段階(1567年~1569年)の直後であり、同時に、浅井・朝倉・石山本願寺などが蜂起した「信長包囲網」という未曾有の軍事的危機に直面した年でもある 3 。この極度の緊張状態は、信長が岐阜で創始した新しい都市システムが、初めて本格的な政治的・軍事的ストレスに晒された「テストケース」の年であったと位置づけることができる。

本報告書は、「町奉行設置」という名称の有無に固執することなく、1570年という時間軸を基点として、織田信長の岐阜における都市統治の実像、その革新性と歴史的意義を立体的に描き出すことを試みるものである。

第一部:岐阜城下町の形成と信長の都市構想(1567年~1569年)

第一章:天下布武の拠点・岐阜の誕生

永禄10年(1567年)、織田信長は長年の宿願であった美濃攻略を達成し、斎藤道三の孫・龍興を追放して稲葉山城をその手に収めた 6 。信長は直ちに本拠地を尾張国の小牧山城からこの地に移すと、古代中国において周の文王が「岐山」より起こり天下を平定した故事、そして孔子の生地「曲阜」にちなみ、城の名を「岐阜城」、城下の町「井口(いのくち)」を「岐阜」と改めた 8 。この改名行為は、単なる地名の変更に留まらず、信長が「天下布武」の朱印を用い始め、本格的に天下統一事業へ乗り出すという、壮大な政治的意志の表明であった 10

信長は、義父である斎藤道三が築いた城下町の基礎構造を受け継ぎつつも、自身の構想に基づき大規模な都市改造に着手した 12 。その最大の特徴は、計画的なゾーニング(区域分け)にある。金華山の山麓には壮麗な居館を構え、その東側(山側)には家臣団の屋敷が広がる武家屋敷地区を、そして城下を囲む惣堀の西側には商工業者が住まう町屋地区を明確に分離・配置した 14 。これは、城主である信長を頂点とし、武士、町人という身分秩序を都市空間の構造によって可視化する試みであり、後の安土城下町へと発展する「信長モデルの城下町」の原型であった 16

この新しい都市の急成長ぶりは、信長入城からわずか2年後の永禄12年(1569年)に来岐したイエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によって鮮やかに伝えられている。フロイスはその著書『日本史』の中で、岐阜の城下町を「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい」「バビロンの雑踏を思わせた」と記し、その人口を8千人から1万人と推定している 17 。また、山麓に築かれた信長の居館を「宮殿」と呼び、その壮麗さを「地上の楽園のようであった」と絶賛した 17 。これらの記述は、信長が築いた岐阜が、単なる軍事要塞ではなく、国内外の賓客を圧倒し魅了するための壮大な「おもてなし空間」としても設計されていたことを示している 12

信長の都市計画は、単なるインフラ整備ではなかった。それは「天下布武」という政治目標を達成するための、極めて高度な戦略的ツールであった。武士と町人を空間的に分離して統制を容易にし、壮麗な建築物で自らの権威を誇示し、そして次章で詳述する経済政策によって兵站と財政基盤を確保する。岐阜の町づくりそのものが、信長の天下統一事業の縮図であり、その物理的な基盤だったのである。

第二章:岐阜繁栄の設計図 — 楽市楽座令の導入

岐阜城下町の急速な繁栄を支えた経済政策の中核が、「楽市楽座」令の導入であった。信長は岐阜入城直後の永禄10年(1567年)10月、城下の加納(当時は楽市場と呼ばれていた)に対し、制札(せいさつ)を発布した 24 。現在、岐阜市の円徳寺に所蔵されるこの制札は、信長が発した最初の楽市令としてだけでなく、現存する最古級の楽市令の実物史料として、国の重要文化財に指定されており、歴史的に極めて価値が高い 24

その条文を分析すると、信長の狙いが明確に浮かび上がる。

定 楽市場

一、当市場へ越居の者、分国往還煩いあるべからず、并びに借銭・借米・地子・諸役免許せしめ訖んぬ。譜代相伝の者と雖も、違乱あるべからざるの事。

一、押買・狼藉・喧嘩・口論あるべからざる事。

一、理不尽の使入、宿を執り非分申しかくべからざる事。

右条々、違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処すべき者なり。仍って下知件の如し。

永禄十年十月 日 (花押)

25

第一条では、市場への自由な往来と居住を保障し、借金などの債務や地子(土地税)、諸役(各種税)を免除することを宣言している。これにより、身分や出身地を問わず、誰もが自由に商工業を営める環境を創出した。第二条、第三条では、押買(強制的な買い付け)や狼藉、喧"嘩口論といった不法行為を厳しく禁じ、治安の維持を約束している。これは、経済活動の自由と安全を領主の権力によって保障する画期的な布告であった。

この政策の真の狙いは、単なる商業振興に留まらなかった。中世社会において、商工業は「座」と呼ばれる同業者組合によって厳しく管理され、その特権は地域の寺社や公家といった旧権力に支えられていた。「楽市楽座」は、この「座」の独占権を打破し、旧権力の重要な経済基盤を切り崩すための鋭い刃であった 28 。商工業者を旧来のしがらみから解放し、信長の直接的な支配下に組み込むことで、城下町の経済力を活性化させ、その富を自身の権力基盤へと還流させるシステムを構築したのである 31

楽市令自体は、信長の独創ではなく、近江の六角定頼が観音寺城下の石寺で発布した例(1549年)などが先行していた 25 。しかし、信長の政策は、それをより徹底的かつ大規模に展開し、都市政策の中核に据えた点で革新的であった。以下の表は、信長の加納楽市令と、先行する六角氏、そして後の安土城下町での法令を比較したものである。

【表1】戦国大名による楽市令の比較分析

発給者

発給年

対象地

主要な条文・特徴

六角定頼

1549年

近江・石寺新市

・「楽市」であることを明記し、座人以外の紙商売を一部認めるなど、既存の座との共存を図る側面があった 33

今川氏真

1566年

駿河・富士大宮

・押買狼藉の禁止、諸役の停止を命じているが、信長令ほど包括的ではない 25

織田信長

1567年

美濃・加納

・自由通行、債務破棄、地子・諸役の全面的な免除を宣言。治安維持を領主の責任として明確化 24

織田信長

1577年

近江・安土

・全13ヶ条に及ぶ詳細な都市法。諸座・諸役の完全免除に加え、徳政令の適用除外、移住の自由、火事や犯罪に関する詳細な規定、馬市場の独占など、より包括的で先進的な内容を含む 25

この比較から、信長の政策が岐阜での実践を経て、安土でより洗練され、体系的な都市法へと進化していく過程が明確に見て取れる。岐阜での試みは、来るべき新しい時代の統治モデルを創造するための、壮大な実験だったのである。

そして、この楽市令は経済政策であると同時に、一種の 法治主義の宣言 でもあった。制札の末尾にある「違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処すべき者なり」という一文は、信長自身が定めた法規が絶対的なものであり、その執行権を自らが独占することを領内に示したものである。これは、慣習や旧来の権威に依拠した中世的な支配から、為政者が定めた法に基づく近世的な支配への移行を象徴する、重要な一歩であった。この「法」の執行者が誰であったかという問いこそが、本報告書が探求する「町奉行」的機能の実態へと繋がっていくのである。

第二部:元亀元年(1570年)のリアルタイム分析

第三章:信長最大の危機 — 反信長包囲網の形成

元亀元年(1570年)は、信長の天下布武事業が最大の危機に瀕した年であった。『信長公記』をはじめとする同時代史料に基づき、この一年間の信長の行動を時系列で再構築すると、その状況の過酷さが浮き彫りになる 36

【表2】元亀元年(1570年)における織田信長の主要行動年表

日付

場所(国・城)

主要な出来事・関連する合戦

1月~3月

京都・岐阜

上洛し、将軍・足利義昭や朝廷との関係を調整。禁裏(皇居)の修築などを指揮 38

4月

20日

京都 → 越前

越前の朝倉義景討伐のため、徳川家康と共に3万の軍勢で出陣 39

25日~28日

越前・金ヶ崎

天筒山城、金ヶ崎城を攻略するも、義弟・浅井長政の裏切りが発覚。絶体絶命の撤退戦( 金ヶ崎の退き口 )を敢行 5

5月

岐阜

辛うじて岐阜に帰還。軍勢の再編を行う。

6月

19日

岐阜 → 近江

浅井氏討伐のため、再び出陣 5

28日

近江・姉川

徳川家康連合軍が、浅井・朝倉連合軍を辛くも撃破( 姉川の戦い 3

7月

8日

岐阜

一時的に岐阜へ帰還 5

8月

20日

岐阜 → 摂津

阿波から上陸した三好三人衆を討伐するため、大坂へ出陣 5

9月

12日

摂津・野田/福島

三好三人衆と対陣中( 野田・福島の戦い )、石山本願寺が蜂起し、背後を突かれる 4

16日~23日

近江・坂本

浅井・朝倉連合軍が信長不在の近江に侵攻し、京都に迫る。信長は摂津から急遽撤退し、京都へ戻る 4

24日~

近江・志賀

浅井・朝倉軍が比叡山延暦寺に籠城。信長は比叡山を包囲し、長期の対陣状態に入る( 志賀の陣 4

10月~12月

近江・志賀

志賀の陣が継続。各地で反信長勢力が蜂起し、包囲網が形成される。12月、朝廷の仲介により和睦が成立 4

この年表が示す通り、1570年の信長は、春から冬にかけて絶え間なく畿内およびその周辺地域での戦闘に明け暮れており、本拠地である岐阜に滞在した期間は極めて短かった。この一連の戦役において、岐阜城は出陣の拠点であり、兵員・兵糧を供給する後方基地として、戦略的に極めて重要な役割を果たした。信長は戦況報告を受け、遠隔から指示を出す司令塔としても、岐阜城の機能に完全に依存していた。

この状況は、信長の統治システムに大きな影響を与えたと考えられる。自身が長期間にわたり本拠地を不在にし、最前線に釘付けにされるという現実は、信長に 権力委任の必要性 を痛感させたはずである。本拠地である岐阜の統治、すなわち治安の維持、経済活動の継続、そして何よりも軍事活動を支える兵站の確保を、信頼できる家臣に任せなければ、戦争の遂行自体が不可能になるからである。この絶え間ない危機的状況こそが、特定の家臣に行政権限を集中させ、その役割を実質的に確立させる契機となり、後の「奉行」制度につながる統治システムの萌芽を促した可能性が高い。

第四章:戦時下の都市統治 — 1570年の岐阜

信長が畿内で死闘を繰り広げていた元亀元年(1570年)、その不在の本拠地・岐阜は、平時とは異なる緊迫した状況下で、信長の天下布武事業を支えるための重要な機能を果たし続けていた。

第一に、 兵站基地としての経済機能 である。姉川の戦いや志賀の陣といった大規模な軍事行動は、膨大な兵糧、武具、弾薬を必要とする。これらの物資を安定的に供給する責務を担ったのが、楽市楽座によって岐阜に集積された商工業者たちであった。彼らは信長の保護と経済的自由の恩恵を受ける一方で、その経済活動を通じて信長軍の兵站を支えるという、いわば運命共同体であった。武具の生産、兵糧の調達、前線への物資輸送など、城下町の経済力そのものが、信長の軍事力を直接的に下支えしていたのである。

第二に、 情報拠点および治安維持機能 である。四方を敵に囲まれる中、本拠地の内部安定は最重要課題であった。敵対勢力による調略や間諜の侵入を防ぎ、領内での一揆の発生を抑え込むためには、高度な警察・諜報機能が不可欠であった。また、岐阜は各地の戦況や情勢に関する情報が集約され、整理された上で信長の許へと伝達される、政権の情報ハブとしての役割も担っていた。

このような極度の軍事的緊張下で、信長が腰を据えて「岐阜町奉行」という新たな行政制度を「設置」する式典を執り行ったり、関連法令を発布したりする余裕があったとは到底考えられない。むしろ、1570年という年は、信長がそれまでに築き上げてきた都市統治システムと、それを担う家臣団の能力が、極限状況下で最大限に試された時期であったと見るべきである。

ここに、一つの逆説的な意味が浮かび上がる。1570年に「岐阜町奉行」という名の役職が 設置されなかった こと自体が、信長の統治システムの本質を物語っている。信長は、形式的な役職名や伝統的な官位よりも、 実質的な機能と個人の能力 を絶対的に重視した。彼が必要としたのは「町奉行」という肩書の役人ではなく、「信長不在の岐阜を、問題なく運営できる有能な家臣」であった。したがって、1570年に起こったのは、新たな制度の「設置」ではなく、既存の行政担当者への権限の集中と、その役割の重要性の増大、すなわち 職務の恒常化・専門化 への決定的な一歩であったと解釈できる。これこそが、後世の視点から「設置」と見なされるに至った歴史的実態であろう。

第三部:信長政権における「町奉行」的機能の実態

第五章:信長の行政官僚団と都市支配

信長政権下で、後世の「町奉行」が担うべき都市行政の機能を果たした中心人物として、村井貞勝の名を挙げることができる 43 。彼は、戦場を駆ける猛将というよりは、卓越した実務能力で信長の天下統一事業を内政面から支えた行政官僚であった 43

史料上、貞勝が岐阜の町政に直接関与したことを示す具体的な記述は限定的だが、彼の経歴を追うと、その役割は明らかである。信長が家督を継いだ当初から内政を担当し、清洲城下の整備に手腕を発揮した貞勝は、信長の拠点移転に伴い、岐阜城下の町づくりにも深く関与したと推測される 43 。市場の区画整理、商業振興策の立案、インフラ整備といった彼の任務は、まさしく後世の町奉行が担う市政全般に及んでいた。

貞勝の能力は、信長の上洛後にさらに大きく開花する。彼は京都の行政責任者である「京都所司代」に任じられ、首都の治安維持、朝廷や有力寺社との複雑な交渉、将軍御所や禁裏の造営などを一手に引き受けた 44 。岐阜という一地方都市の統治で培われた経験と手腕が、天下の都・京都の支配という、より大規模で複雑な任務へと繋がっていったことは想像に難くない。

しかし、信長の都市統治は貞勝一人の手によるものではなかった。信長は、武井夕庵、明智光秀、塙直政、松井友閑といった、それぞれが専門性を持つ吏僚たちを側近として重用し、彼らを一つの「チーム」として機能させた 45 。彼らは信長の意図を汲み、相互に連携しながら、外交、司法、財政といった各分野の政策を遂行した。

ここに、信長の統治システムの革新性が見て取れる。それは、伝統的な官職に固定的な権限を与えるのではなく、 達成すべき目標(プロジェクト)ごとに最適な人材を抜擢し、大きな裁量権を与える という、極めて近代的・機能的なアプローチであった。村井貞勝は「岐阜町奉行」という役職に任命されたのではなく、「岐阜城下町の整備と運営」という一大プロジェクトの責任者に任じられたと考えるべきである。この柔軟かつ実力主義的な人材登用こそが、旧来の権威を次々と打ち破っていった信長政権の強さの源泉であった。信長の統治を江戸時代の「町奉行」という固定化された枠組みで理解しようとすることは、彼の統治の本質を見誤ることに繋がる。彼は、制度ではなく、人を用いて事を成したのである。

第六章:法と秩序 — 岐阜城下町の掟と自治

信長が岐阜で確立した都市統治のもう一つの柱は、「法」による秩序の創出であった。その根幹をなしたのが、第一部で詳述した楽市楽座令である。この法令は、単なる経済振興策ではなく、岐阜城下町における**基本法(憲章)**としての性格を色濃く帯びていた。

特に「押買狼藉」「喧嘩口論」を厳しく禁じた条項は、町奉行の警察権・司法権の根幹をなすものであり、信長が領主として町内の秩序維持に直接的な責任を負うという強い意志を示している 25 。これは、戦国大名が領国経営のために定めた独自の法典「分国法」の理念を、特に「都市」という空間に特化させて適用したものであった 49 。また、城下町全体を堀や土塁で囲む「惣構(そうがまえ)」の思想も岐阜城下町の設計に取り入れられており、都市の物理的な防御と行政的な支配が一体であったことを示している 15

信長の統治は、強力なトップダウンの統制と、ボトムアップの活力を巧みに両立させるものであった。彼は、法令の絶対性と軍事力を背景に秩序を維持する一方で、商工業者たちには最大限の経済的自由を与えた。これにより、町衆による一定の自治機能を許容しつつも、それが領主の権威を脅かすことのないよう、巧みにコントロールしていたのである。

この関係性は、領主と町人の間に 新たな社会契約 を提示したと評価できる。すなわち、「領主(信長)は、安全と経済活動の自由を保障する。その代わり、町人(民衆)は領主の定めた法に従い、その経済活動を通じて領国を富ませることに貢献せよ」という契約である。これは、旧来の身分や慣習に縛られた封建的な主従関係とは一線を画す、より近世的な権力と社会の関係性への移行を示唆している。フロイスが記録したような城下町の爆発的な繁栄は、この新しい契約が、町人たちにとって大きな魅力と利益をもたらしたことの何よりの証左であった 19 。彼らは、信長の統治下にいることが自らの利益になると判断したからこそ、危険を冒してでも新興都市・岐阜に集まってきたのである。この「統治者への期待」と「民衆の活力の利用」という絶妙な組み合わせこそ、信長の政治家としての卓越性を示すものであり、単なる軍事力による支配とは異なる、彼の統治の本質に迫るものである。

結論:1570年「岐阜町奉行設置」説の再評価と歴史的意義

本報告書で展開した多角的な分析を通じて、「元亀元年(1570年)に織田信長が岐阜町奉行を設置した」という命題は、江戸時代の制度を戦国時代に投影した時代錯誤(アナクロニズム)であり、史実として直接的に裏付けることはできないと結論付ける。明確な制度としての「岐阜町奉行所」は、約125年後の1695年に尾張藩によって設置されたものである。

しかし、この命題が歴史的イメージとして流布する背景には、織田信長が岐阜で実践した都市統治の画期的な実態が存在する。1570年という年は、信長が楽市楽座令などの革新的な政策によって築き上げた新しい都市システムが、「信長包囲網」という最大の軍事的危機によって試され、その有効性が証明された、極めて象徴的な年であった。

信長は「町奉行」という名の役職を置かなかった。しかし彼は、村井貞勝をはじめとする有能な行政官僚を駆使し、楽市楽座令という明確な「法」に基づいて、都市の経済振興(市政)と秩序維持(警察・司法)を一体的に管理した。この 機能主義的かつ実力主義的な統治システム は、旧来の荘園制や座といった中世的支配構造を打破し、領主の権力下に一元化された近世的都市行政の先駆的形態であった。

信長が岐阜で創始し、安土で完成させたこの統治モデルは、後の豊臣政権による全国的な都市支配、さらには江戸幕府の町奉行制度へと繋がる、大きな歴史的潮流の源流に位置づけられる。

したがって、「岐阜町奉行設置(1570年)」という事変は、史実そのものではなく、 織田信長が岐阜で開始した近世的都市統治の「実質的な始まり」を象徴する出来事 として、歴史的に再評価されるべきである。それは、役職の設置という単一の事象ではなく、戦国の世に現出した、新しい都市と国家の形をめぐる、壮大な社会実験の幕開けを告げるものであった。

引用文献

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  46. 村井貞勝とは 信長側近、元祖京都所司代 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/muraisadakatu.html
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  49. 室町時代から戦国時代・安土桃山時代/ホームメイト - 中学校検索 https://www.homemate-research-junior-high-school.com/useful/20100_junio_study/1_history/muromachi/
  50. 戦国大名の登場と城下町(分国法) https://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/2-2-5-020.pdf
  51. 超入門! お城セミナー 第88回【歴史】城下町はどうやって敵から守られていたの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1056