最終更新日 2025-10-01

弘前城築城(1603)

津軽為信は関ヶ原の深謀遠慮を経て、慶長八年、新都創造を決断。息子信枚が遺志を継ぎ、幕府の後ろ盾を得て弘前城を築城した。これは津軽氏の独立と永続的な支配を象徴する壮大な事業であった。
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北方の巨城、弘前築城のリアルタイム・ドキュメント ― 津軽為信・信枚、激動の時代における国家創造の軌跡 ―

序章:新時代の黎明と津軽の動乱

弘前城の築城は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、戦国の動乱を己の才覚一つで駆け上がり、北方の地に独立王国を築き上げようとした一人の武将、津軽為信の生涯をかけた野望の集大成であり、その遺志を継いだ息子・信枚による国家創造の物語である。慶長8年(1603年)に計画が始動したこの事業の背景を理解するためには、まず、為信がいかにして津軽の地を手中に収め、激動する中央政局の荒波を乗り越えてきたのか、その軌跡を辿らねばならない。

津軽為信の出自は、陸奥の名族・南部氏の支族に連なるとされるが、その詳細は諸説あり、謎に包まれている 1 。確かなことは、彼が大浦氏に養子として入り、その家督を継いだことである 1 。当時、津軽地方は南部氏の支配下にあり、大浦氏はその被官に過ぎなかった 1 。しかし、為信は現状に甘んじる器ではなかった。彼は密かに力を蓄え、浪人や素性の知れぬ者たちの中から有能な人材を見出しては強力な武士団を組織し、下剋上の牙を研いでいた 2

その野望が形となったのが、元亀2年(1571年)とされる石川城(現在の青森県弘前市)への奇襲である。これを皮切りに、為信は南部氏の支配拠点を次々と攻略し、津軽の地を切り取っていく。その戦いぶりは苛烈を極め、敵味方双方に多くの犠牲者を出した 1 。約20年にわたる戦いの末、天正18年(1590年)までに、為信は津軽地方のほぼ全域を統一するに至る 2

しかし、軍事的な成功は、必ずしも政治的な正統性を保証するものではない。南部氏から見れば、為信は主家を裏切った反逆に他ならなかった。この根本的な脆弱性を、為信は痛いほど理解していた。在地での論理が通用しないのであれば、より上位の権威に頼るほかない。彼の慧眼は、遥か上方に君臨する天下人、豊臣秀吉へと向けられていた。為信は、秀吉が小田原の北条氏を攻める以前から、巧みに中央政権へと接近を図り、津軽領有の正当性を認めてくれるよう働きかけていたのである 1 。この先見の明が功を奏し、為信は南部氏よりも先に秀吉から津軽三郡4万5千石の領有を公認され、「大浦」の姓を「津軽」へと改めた 2 。ここに、独立大名・津軽氏が誕生した。

中央との繋がりを確保した為信は、豊臣政権の中枢、特に石田三成との関係を深めていく。その結びつきは、嫡男・信建が三成を烏帽子親とするほど強固なものであった 5 。この三成との個人的な信頼関係は、単なる政治的なパイプを超えたものであり、後の関ヶ原の戦いにおいて、津軽家の運命を左右する重要な伏線となる 6

為信の生涯は、自らの手で掴み取った「独立」という地位を、いかにして盤石なものにするかという、終わりなき闘争であった。秀吉という絶対的な権威が存在する間は安泰であったが、その死によって再び天下は流動化する。新たな時代の覇者が誰になるのか、その趨勢を見極め、自らの存続を確かなものにしなければならない。彼の視線の先には、物理的かつ象徴的に津軽氏の支配を不動のものとするための壮大な装置、すなわち新時代の拠点となるべき新城の構想が、すでに芽生えていたのである。弘前城築城とは、為信が生涯をかけて追い求めた独立と安定の、最終章を飾るための壮大な序曲であった。

第一章:関ヶ原の深謀遠慮 ― 津軽為信、天下分け目の賭け(1600年)

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。全国の大名が東軍か西軍かの選択を迫られる中、本州最北端の小大名である津軽為信もまた、家の存亡をかけた重大な決断を迫られていた。この国家的な動乱に対し、為信が展開した戦略は、単なる勝ち馬乗りや日和見主義とは一線を画す、深謀遠慮に満ちたものであった。

為信が下した決断は、一族を二つに分けるという、まさに苦渋の選択であった。彼自身は三男・信枚(後の二代藩主・信枚)と共に2千余りの兵を率いて上洛し、徳川家康率いる東軍に与した 3 。そして、関ヶ原の本戦が行われた美濃国に赴き、西軍の拠点であった大垣城の攻略に参加するなど、東軍の一員として明確な戦功を挙げている 8 。これは、新たな時代の覇者と目される家康に対し、津軽家が絶対的な恭順の意を示すための、極めて現実的な行動であった。

一方で、為信はもう一つの布石を打っていた。嫡男であり、正式な後継者と目されていた津軽信建を、豊臣秀頼の小姓として大坂城に留め置いたのである 6 。これは、形式上、信建が西軍に属することを意味した。この配置には二重の意味が込められていた。一つは、万が一西軍が勝利した場合に備えた保険である。そしてもう一つは、豊臣家、そしてかつて深い恩義を受けた石田三成に対する「義」を貫くという、為信の武将としての矜持であった。

戦いの趨勢は、周知の通り東軍の圧勝に終わる 10 。西軍は壊滅し、首謀者である石田三成は捕らえられ、処刑された。この時、大坂城にいた信建は、驚くべき行動に出る。彼は、烏帽子親であった三成への恩義に報いるため、その次男・重成と三女・辰姫を自らの手で保護し、追っ手から匿いながら津軽の領国まで無事に逃がしたのである 5 。これは、勝者である徳川家への反逆と見なされかねない、極めて危険な賭けであった。

しかし、この津軽家の「両属」戦略は、驚くべき成果をもたらす。為信は東軍における大垣城攻めの功績を家康に認められ、津軽領4万5千石の所領を安堵されるばかりか、さらに2千石の加増まで勝ち取ったのである 3 。信建による三成遺児の保護という、一歩間違えば改易に繋がりかねない行動は、不問に付された。

なぜ家康はこれを見逃したのか。そこには、いくつかの理由が考えられる。第一に、為信が東軍として明確な戦功を挙げていたこと。第二に、本州最北の僻遠の地である津軽で起きたことを、幕府が正確に把握していなかった、あるいは敢えて黙認した可能性。そして最も重要なのは、家康が津軽という土地の持つ戦略的価値を高く評価していたことである。北に睨みを利かせ、隣接する大大名・南部氏への牽制役として、津軽氏を安定的に存続させることは、徳川政権にとって大きな利益があった。

為信は、新時代への忠誠という現実的な「利」を追求しつつも、旧恩に対する「義」を捨てることはなかった。この絶妙なバランス感覚と、危険を顧みず信義を貫く姿勢は、結果として徳川家康に「信頼に足る人物」との印象を与えたのかもしれない。関ヶ原の戦いを乗り切った津軽家は、その地位を確固たるものにした。そして、この天下分け目の戦いにおける「忠誠」と「実力」の証明こそが、後に前代未聞の規模となる弘前城築城の許可を幕府から引き出すための、最も重要な政治的資本となったのである。それは、戦乱の世を生き抜いた者への、新時代の覇者からの事実上の論功行賞であったと言えよう。

第二章:慶長八年(1603年)、新都創造の決断

関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。ここに、250年以上にわたる泰平の世、江戸時代が幕を開ける 10 。この歴史的な転換点において、津軽為信は徳川幕府から外様大名として正式に津軽領の領有を承認された 3 。豊臣政権下で得た地位が、新政権下でも追認されたこの瞬間、為信の長年の悲願であった独立は、ついに恒久的なものとなった。政治的な基盤が磐石となった今、為信は次なる一手、すなわち津軽氏の永続的な支配を象徴し、実現するための新都創造計画へと、満を持して舵を切ったのである。

この一大事業への決断は、単なる為信の野心から生まれたものではない。それは、津軽氏が抱える軍事的、政治的課題を解決するための、戦略的な必然性に基づいていた。為信がそれまで拠点としてきた城郭には、新時代の統治拠点として看過できない限界があった。

津軽統一の出発点であった大浦城は、領国の西端に位置しており、広大な津軽平野全体を統治するには地理的にあまりにも不便であった 13 。そこで為信は、津軽統一後の天正18年(1590年)頃から、より中央に位置する堀越城を新たな本拠としていた 2 。しかし、この堀越城にも深刻な欠陥が存在した。周囲を沼沢地に囲まれてはいたものの、基本的には平城であり、防御力に著しい不安を抱えていたのである 13 。その脆弱性は、家臣の反乱によって城が一時占拠されるという事件によって、白日の下に晒されていた 15 。近世的な城郭に見られるような複雑な虎口(出入り口)や技巧的な防御施設も乏しく、領主の居城としてはあまりにも心許ない状態であった 13

戦国の世であれば、軍事的な拠点としての機能が最優先されたかもしれない。しかし、徳川の世が到来し、大規模な合戦が過去のものとなりつつある新時代において、大名の居城に求められる役割は、より複合的なものへと変化していた。それは、単なる要塞ではなく、藩の行政を司る「藩庁」としての機能、領国の経済を牽引する「経済的中心」としての機能、そして何よりも、藩主の権威を内外に示し、家臣団と領民の心を一つに束ねる「象徴」としての機能であった 16 。堀越城は、これらの新たな時代の要請に応えるには、あまりにも旧態依然としていた。

為信が下した決断は、既存の城の改修という弥縫策ではなく、全く新しい理想の都市をゼロから建設するという、壮大なものであった。それは、津軽氏の統治思想そのものが、戦国時代の「軍事力による制圧」から、江戸時代の「恒久的な領国経営」へと、質的に大きく転換したことを示す画期的な出来事であった。新城の建設は、津軽という国家の未来をデザインする、まさに国家創造事業だったのである。


表1:堀越城と弘前城(計画)の比較分析

項目

堀越城(旧拠点)

弘前城(新計画)

立地

津軽平野のほぼ中央に位置するが、低湿地。

津軽平野南部の台地北端。四神相応の思想に基づく選地 3

城郭形態

平城。周囲の沼沢地を天然の堀として利用 13

平山城。台地と平地の高低差を活かした防御構造 3

防御思想

自然地形への依存度が高い。虎口は単純で、防御力に脆弱性があった 13

梯郭式の縄張り、馬出し、枡形門など、近世城郭の技術を導入 1 。城下町全体を防衛線とする「惣構え」思想 12

規模・象徴性

領主の居城としては小規模で、権威を示すには不十分。

4万7千石の藩としては破格の規模。五層の天守を計画し、津軽氏の威光を内外に示す象徴とする 12

機能性

軍事機能が主。家臣の反乱で占拠されるなど、統治拠点としての安定性に欠ける 15

軍事、政治(藩庁)、経済(城下町)、象徴性の各機能を統合した複合的都市。家臣団の集住による支配体制の強化を図る 14

拡張性

周囲が湿地であり、計画的な城下町の拡大には不向き。

広大な台地を基盤とし、計画的な城下町の整備と将来的な発展を見据えた設計。


この比較からも明らかなように、弘前城への移転は、単なる拠点の変更に留まらない。それは、津軽氏が戦国の論理と決別し、近世大名として新たな統治体制を構築するための、明確な意志表明であった。為信の描いた青写真は、新しい時代の統治者にふさわしい、すべての機能を備えた理想の首都だったのである。

第三章:高岡の選定と城郭設計 ― 思想と戦略の融合(1603年〜1607年)

慶長8年(1603年)、徳川幕府からの正式な領有承認を得た津軽為信は、かねてからの構想であった新城建設プロジェクトを本格的に始動させた。その第一歩は、津軽百万石の礎となるべき新都の地を選定することであった。為信はこの重要な任務を、最も信頼を寄せる軍師、沼田面松斎(ぬまた めんしょうさい)に一任した 3

沼田面松斎、本名を祐光(すけみつ)というこの人物は、単なる戦術家ではなかった。彼は上野国(現在の群馬県)の沼田氏の末裔とされ、当代随一の文化人であった細川幽斎にも仕えた経験を持つ、深い教養の持ち主であった 20 。為信は、面松斎が持つ兵法や築城術の知識だけでなく、彼が深く通じていた易学、風水、陰陽五行といった思想にも大きな期待を寄せていた。新城は、単に堅固であるだけでは足りない。天地の理にかない、永続的に繁栄する地でなければならない、と為信は考えていたのである。

面松斎は為信の命を受けると、津軽平野の各地を巡り、地形、水系、方位などを綿密に調査した。そして彼が最終的に選び出したのが、「高岡」と呼ばれる、岩木川と土淵川に挟まれた広大な台地であった 3 。面松斎はこの地を、北に玄武(岩木山)、東に青龍(土淵川)、南に朱雀(南溜池)、西に白虎(岩木川)が配される、理想的な「四神相応の地」であると結論づけた 3 。このような思想的裏付けは、築城という一大事業を神聖化し、家臣や領民の心を一つにする上で、極めて重要な役割を果たした。

築城地が定まると、次に城の具体的な設計、すなわち「縄張り」が進められた。この実務的な任務を担ったのは、為信が抱えていたもう一人の専門家、兵法家の東海吉兵衛(とうかい きちべえ)であった 18 。吉兵衛は、関ヶ原合戦の頃に為信に仕官したとされる人物で、戦国時代屈指の築城術を誇った後北条氏の軍学「北条流」に精通していたと伝わる 25

吉兵衛の設計は、実践的な防御思想に貫かれていた。彼は高岡の台地を巧みに活かし、本丸を中心に二の丸、三の丸を同心円状に配置する「梯郭式」の縄張りを採用した 1 。城門には敵の直進を阻む「枡形」を設け、曲輪の一部を突出させた「馬出し」を配置するなど、敵の攻撃を多角的に迎え撃つための工夫が随所に凝らされた。さらに、その構想は城郭内にとどまらず、城下町全体を堀や土塁で囲い、寺社群を防衛拠点として配置する壮大な「惣構え」にまで及んでいた 12 。これは、城と町が一体となって敵を防ぐという、戦国の実戦から生まれた高度な防衛思想の表れであった。

計画された城郭の中心には、為信の権威を象徴する壮大な五層の天守がそびえ立つはずであった 1 。当時の津軽藩の石高は4万7千石であり、その規模からすれば明らかに分不相応な巨大建築である 27 。しかし、これこそが下剋上から成り上がった為信の、誰にも侮らせないという強い意志の表れであった。一方で、城郭の基本構造は、本丸のみを石垣で固め、二の丸や三の丸は土塁を主とする、東日本によく見られる堅実なものであった 12 。これは、地域の伝統的な築城術と、最新の近世城郭技術を巧みに融合させた設計と言える。

このように弘前城の計画は、二人の専門家の知見が見事に融合した産物であった。沼田面松斎が追求した、人々の心を掴み、永続的な繁栄を願う「思想的・象徴的価値」。そして、東海吉兵衛が追求した、いかなる攻撃にも耐えうる「軍事的・合理的価値」。この「見せる城」と「戦う城」という二つの側面を両立させた設計は、異なる分野の専門家を的確に用い、壮大なプロジェクトを推進した為信の、卓越したプロデューサーとしての能力を何よりも雄弁に物語っている。

第四章:為信の死と事業の継承 ― 二代藩主・信枚の試練(1607年〜1609年)

高岡の地に新城を築くという壮大な計画は、為信の強力なリーダーシップの下、着実に進行しているかに見えた。しかし、運命は非情であった。慶長12年(1607年)、為信は政治工作のために滞在していた京都で病に倒れ、城の完成を見ることなく58年の生涯を閉じたのである 3 。奇しくもその数ヶ月前には、嫡男の信建も病没していた 3

絶対的な指導者であった藩祖の死は、津軽家に大きな動揺をもたらした。為信という強力な推進力を失った築城計画は、ただちに中断を余儀なくされた 1 。そればかりか、津軽家は深刻な後継者問題を巡る内紛に突入する。家臣団の一部は、亡き信建の遺児である大熊を擁立し、為信の三男・信枚(のぶひら)の家督相続に真っ向から異を唱えたのである 29 。このお家騒動により、若き信枚の藩主としての権力基盤は、発足当初から極めて脆弱なものとなった。父が遺した巨大な夢と、それを実現するための困難な課題を前に、信枚は絶体絶命の窮地に立たされた。

この危機を乗り越えるため、信枚は父・為信と同様、中央の権威、すなわち江戸幕府の力を頼った。家督を巡る争いは、最終的に幕府の裁定に委ねられることとなる。そして慶長14年(1609年)、幕府は信枚の家督相続を正式に認める裁決を下し、対立派閥は粛清された 29 。この裁定は、信枚の藩主としての地位を法的に保証するものであったが、同時に、彼の権力が自立したものではなく、幕府の後ろ盾に依存していることを示すものでもあった。

内紛を収拾し、藩主としての地位を確立した信枚が、次に取り組むべき最重要課題は、自らのリーダーシップを内外に示し、揺らいだ家臣団の結束を取り戻すことであった。そのための最も効果的で象徴的な手段こそ、父が遺した弘前城築城という一大事業を完成させることに他ならなかった。それは単に父の遺志を継ぐという感傷的な行為ではない。父の正統な後継者であることを証明し、反対派を沈黙させる権威を確立し、そして家臣団を物理的に新城下に集住させて完全に掌握するという、一石三鳥の狙いを持つ、極めて高度な政治的プロジェクトであった。

信枚はすぐに行動を開始した。家督相続が認められたのと同じ慶長14年(1609年)、彼は江戸幕府に対し、中断していた築城の再開許可を申請し、これを取り付けることに成功する 3 。幕府がこの申請を認可した背景には、信枚を支援することで津軽藩の内紛を完全に終結させ、本州北端の安定を確保したいという徳川家の戦略的な意図があったと考えられる。

さらに信枚は、幕府との関係を決定的なものにするため、決定的な一手を打つ。慶長16年(1611年)、徳川家康の養女であり、重臣・松平康元の娘である満天姫(まてひめ)を正室として迎えたのである 2 。この婚姻は、津軽家が徳川将軍家の親族となることを意味し、藩政に絶大な安定をもたらした。興味深いことに、信枚にはすでに石田三成の娘・辰子という妻がいたが、幕府との絆を優先し、満天姫を正室とし、辰子を側室とした 3 。これは、父・為信が貫いた旧恩への「義」と、新時代を生き抜くための「利」を両立させようとする、津軽家ならではの処世術の継承とも言えるだろう。

内紛を乗り越え、幕府という強力な後ろ盾を得た信枚の前に、もはや障害はなかった。父の死から2年、ついに北の大地に、再び築城の槌音が響き渡る時が来たのである。

五章:天下普請の槌音 ― 弘前城、築城の実相(1610年〜1611年)

慶長15年(1610年)、二代藩主・津軽信枚の号令一下、高岡の地で弘前城の築城工事が本格的に再開された 3 。その規模と速度は、まさに圧巻の一言であった。藩の総力を挙げたこの一大事業は、わずか1年余りという驚異的なスピードで進められ、翌慶長16年(1611年)5月には、五層の天守閣を含む城郭の主要部分がほぼ完成したのである 1 。4万7千石の小藩が成し遂げたこの偉業は、津軽藩草創期の熱気と、それを支えた卓越したプロジェクト管理能力を如実に示している。

この驚異的な工期を実現した背景には、周到に計画された資材調達のダイナミズムがあった。

まず、膨大な量の木材は、領南の碇ヶ関の山中から伐採された 19 。切り出された材木は、平川の流れを利用した「川流し」という方法で、高岡の普請現場まで効率的に運搬された。その規模は凄まじく、後年の記録には、蔵館山や石川近辺の山々が伐採され尽くして禿山になったと記されるほどであった 19

次に、城の土台を固める石垣の石材である。これらは、長勝寺の南西にあったとされる「石森」や、如来瀬、兼平といった領内の石切丁場(いしきりちょうば)から採取された 24 。石工たちは、石の目に沿って「矢穴」と呼ばれる楔形の穴をいくつも穿ち、そこに楔を打ち込むことで巨大な岩石を巧みに切り出した 32 。切り出された石材の運搬には、牛車などに加え、津軽の厳しい冬の気候を逆手に取った「雪船(そり)」が活用された 32 。雪で覆われた大地を滑らせることで、重量のある石材を効率的に運ぶという、雪国ならではの知恵であった。

天守や櫓の構造を補強するために不可欠な鉄は、外部からの購入に頼るのではなく、外ヶ浜の蟹田といった場所で、南部領から招聘した専門の職人たちの手によって自家製鉄された 24 。これにより、コストを抑えつつ、安定的な供給を確保した。

さらに、工期の短縮とコスト削減に大きく貢献したのが、旧城の資材の徹底的な再利用であった。信枚は、父・為信が拠点とした大浦城や堀越城を解体し、そこから得られた古材を新城の建材として積極的に転用したのである 30 。これは、単なる節約に留まらず、津軽氏の歴史そのものを新しい城に埋め込むという、象徴的な意味合いも持っていた。

これらの資材を加工し、組み上げるためには、膨大な労働力と高度な技術が必要であった。記録によれば、領内から1万人もの人夫が動員されたとされ、まさに領民総出の事業であったことが窺える 24 。そして、普請の中核を担ったのは、専門技術を持つ職人たちであった。江戸からは数百人もの大工が招聘され、最先端の建築技術が導入された 19 。石垣の構築には、近江国(現在の滋賀県)を拠点とし、全国の城郭建設で活躍した石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」のような専門家の関与があったと考えられている 32

4万7千石の小藩がいかにしてこの巨大事業の費用を捻出したのか、その詳細な記録は残されていない。しかし、これらの普請の実態から、その財政構造を推し量ることができる。それは、貨幣経済が全国に浸透しきる以前の、現物経済を基盤としたものであった。すなわち、①領内の豊富な森林資源などを現物で動員し、②領民には金銭の代わりに労働を提供する賦役を課し、③旧城の資材再利用によって支出を徹底的に圧縮する、といった手法が複合的に用いられたと推測される。

弘前城の短期集中工事は、信枚政権が、父の代から蓄積されてきた国力と情報を最大限に活用し、極めて効率的な建設プロジェクトを遂行した輝かしい成功例であった。この成功体験は、若き藩主・信枚の権威を決定的なものとし、津軽藩の新たな時代の幕開けを領内外に高らかに宣言するものであった。

第六章:高岡城の完成と城下町の誕生(1611年〜)

慶長16年(1611年)、約1年数ヶ月にわたる急ピッチの工事の末、津軽平野を見下ろす高岡の台地に、壮麗な城郭がその威容を現した。藩祖・為信の夢を受け継ぎ、二代藩主・信枚が完成させたこの城は、当初「高岡城」と名付けられた 3

完成した城郭は、津軽氏の権威と実力を示すにふさわしい、壮大かつ堅牢なものであった。本丸の南西隅には、計画通り五層の天守が空高くそびえ立ち、津軽平野のどこからでもその姿を望むことができたという 1 。城の縄張りは、本丸を中心に、二の丸、三の丸、西の郭、北の郭など六つの曲輪が巧みに配置された梯郭式で、幾重にも巡らされた堀と土塁、そして本丸の石垣が鉄壁の守りを固めていた 1

その防御思想は、城郭内部だけに留まらなかった。城下町全体を堀や土塁で囲い込む「惣構え」の構造が採用され、町そのものが巨大な防衛拠点として設計されていたのである 12 。特に注目すべきは、宗教施設の戦略的な配置である。城の鬼門にあたる北東には弘前八幡宮を置き、裏鬼門にあたる南西には、津軽氏代々の菩提寺である長勝寺を中心に、領内から集められた禅宗の寺院三十三ヶ寺を配置して「長勝寺構え」と呼ばれる一大防衛ラインを形成した 1 。これは、平時には信仰の場である寺院を、有事には城を守る出城として機能させるという、極めて軍事的な都市計画であった。

城の完成は、新たな都市の誕生の合図であった。信枚の命により、それまでの拠点であった堀越城から、藩のすべての機能が高岡城へと全面的に移された。これに伴い、家臣団、商工業者、そして寺社群が一斉に新しい城下町へと移住し、あらかじめ計画された区画に配置されていった 1

こうして生まれた新しい城下町は、近世的な身分制社会を空間的に体現したものであった。城の北側には、藩士たちが住む武家屋敷が整然と並ぶ「侍町(仲町)」が形成された 1 。寺院は前述の長勝寺構えや、後に形成される新寺町などに集められ、町人たちは商業の中心となる区画に住居と店を構えた。藩主の居城を頂点として、武士、寺社、町人がそれぞれの区画に住まうという都市構造は、藩主の権力が領内の隅々にまで及んでいることを物理的に示すものであった。

この高岡城と城下町の誕生は、単なる都市開発ではない。それは、津軽藩という新しい「社会秩序」を、目に見える形で大地に刻み込む作業であった。人々がどこに住み、どこで働き、どこで祈るかまでが、藩主のグランドデザインの下に統制される。それは、戦国の混沌とした世界から、秩序と安定を重んじる近世社会への移行を象徴する出来事であった。

藩祖・津軽為信が始めた「独立」への道は、二代藩主・信枚によるこの新都創造事業によって、「統治体制の完成」という形で結実した。高岡城の誕生は、津軽藩が名実ともに近世大名領国として確立した瞬間を告げる、歴史的なマイルストーンだったのである。

終章:弘前城の遺産と津軽藩の礎

慶長16年(1611年)に完成した高岡城は、津軽藩の新たな時代の象徴として輝かしいスタートを切った。しかし、その栄光の象徴であった五層の天守は、あまりにも短命であった。完成からわずか16年後の寛永4年(1627年)、天守は落雷に見舞われ、内部に備蓄されていた火薬が誘爆するという大惨事を引き起こし、壮麗な姿を一夜にして失ってしまったのである 1 。幕府の武家諸法度により城郭の新築や大規模な改修が厳しく制限されていた当時、天守の再建は叶わず、以後、弘前城は約200年もの間、天守を持たない城として存続することになる。

その翌年の寛永5年(1628年)、二代藩主・信枚は、地名を「高岡」から「弘前」へと改めた 1 。この改名は、信枚が深く帰依していた天台宗の高僧・南光坊天海のアドバイスによるものと伝えられており、城もこれ以降「弘前城」として知られるようになる 1

天守という物理的な象徴を失いながらも、弘前城と城下町が津軽藩の中心として揺るぎない地位を保ち続けたという事実は、その価値が単なる建物の威容にあったのではないことを物語っている。弘前城の真の価値は、その築城という行為自体に込められた、津軽氏の独立と未来への強い意志、そしてそれを実現した藩の総合力にあった。城と城下町の完成によって確立された政治・経済・文化のシステムは、その後250年にわたる津軽藩の安定した藩政の礎となった。4代藩主・津軽信政の時代には、新田開発や産業振興が積極的に進められ、弘前藩は全盛期を迎えるが、その輝かしい治世の基盤は、まさしくこの築城事業によって築かれたものであった 2

弘前城築城という一大事業は、戦国の動乱を自らの才覚で生き抜き、北方の地に確固たる地歩を築いた津軽氏が、自らの手で未来を設計し、江戸時代の「平和」という新しい秩序を主体的に選択し、構築した行為であったと結論づけることができる。それは、藩祖・為信の戦国的な野心と、二代・信枚の近世的な統治能力が見事に結実した、父子二代にわたる国家創造の記念碑である。

築城当時に計画された梯郭式の縄張り、城下町全体を包み込む惣構えの思想、そして戦略的に配置された寺社群の町並みは、400年以上の時を経た現代の弘前市にも、その骨格を色濃く残している 12 。弘前城は、もはや単なる歴史的建造物ではない。それは、津軽の人々が拠って立つ郷土の原点であり、その歴史と文化のすべてを体現する、アイデンティティの核そのものなのである。

巻末資料


表2:弘前城築城に至る詳細年表(1590年〜1628年)

西暦(和暦)

日本の主要な政治情勢

津軽家の動向(為信・信枚)

弘前城築城プロジェクトの進捗

1590年(天正18年)

豊臣秀吉、小田原征伐により天下統一。奥州仕置を実施。

為信、津軽統一を達成。秀吉から津軽三郡の領有を公認される 3

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1594年(文禄3年)

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為信、本拠を大浦城から堀越城へ移す 2

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1598年(慶長3年)

豊臣秀吉、死去。五大老・五奉行による政権運営が始まる。

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1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利 10

為信・信枚は東軍として大垣城攻めに参加。嫡男・信建は西軍方の事実上の人質として大坂城に留まる 7

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1601年(慶長6年)

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為信、関ヶ原の戦功により2千石を加増される 3

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1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開府 10

為信、徳川幕府から津軽領有を正式に承認される 3

【計画開始】 為信、新城建設を決断。軍師・沼田面松斎に築城地を選定させ、高岡の地が決定する 3

1604年(慶長9年)

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為信、上洛中に死去(実際は1607年)。工事が中断する 1

【工事中断】 為信の死(実際は1607年)により計画が一時停止する。

1607年(慶長12年)

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嫡男・信建が病没。続いて父・為信も京都で病没 3 。三男・信枚が家督を継ぐが、後継者問題で内紛が勃発 29

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1609年(慶長14年)

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信枚、幕府の裁定により正式に家督を相続 29 。幕府から築城再開の許可を得る 3

【計画再開】 信枚、幕府の許可を得て築城事業を再始動。

1610年(慶長15年)

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【工事着工】 2月より普請に着手。東海吉兵衛が縄張りを行う 24 。領内から資材・労働力を大規模に動員 19

1611年(慶長16年)

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信枚、徳川家康の養女・満天姫を正室に迎える 3

【城郭完成】 5月、五層の天守を含む城郭がほぼ完成。堀越城から藩庁機能、家臣、寺社、町人が移転し、新城下町が誕生する 3

1627年(寛永4年)

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【天守焼失】 落雷により五層天守が火薬の誘爆を伴い焼失する 1

1628年(寛永5年)

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信枚、地名を「高岡」から「弘前」に改称する 1

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引用文献

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  2. 重要文化財7城 弘前城/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/hirosaki-castle/
  3. 弘前公園の歴史 https://www.hirosakipark.jp/history.html
  4. 【青森・弘前】津軽為信 - 弘前市立博物館 - きままブログ https://kimama-labo.com/tsugaru-tamenobu/
  5. 『弘前市のミステリーロマンと徳川家康の実像』(9月 湯川 悟 相談員) https://www.tochigis.johas.go.jp/column/2016/09/13/001488.html
  6. 戦国武将・津軽為信が息子に説いた教え 最北の現存天守「弘前城」 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/370807/3
  7. 津軽の動く城~東北随一の名城と隠れた名将 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/tsugarutamenobu-movingcastle/
  8. 【関ヶ原の戦いと津軽氏】 - ADEAC https://adeac.jp/hirosaki-lib/text-list/d100020/ht020020
  9. 津軽為信(津軽為信と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/70/
  10. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 「津軽為信」出自不明の武将は摂関家の末裔!?弘前藩の藩祖 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/708
  12. 重文七城「弘前城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16942_tour_023/
  13. 浪岡城 堀越城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/ouu/namiokahori.htm
  14. 津軽氏城跡の発達過程を探る基本資料の基礎的考察 https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/1891/files/2006_hasegawa_2.pdf
  15. 堀越城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-142.html
  16. 津軽為信(つがる ためのぶ) 拙者の履歴書 Vol.263~南部から自立、津軽の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n19002500b580
  17. 弘前城について|歴史や概要を詳しく解説 - BesPes https://article.bespes-jt.com/ja/article/hirosaki-castle
  18. 案内人と共に歩く、現存十二天守の城「弘前城」(青森県弘前市)|津軽家十二代の歴史を物語る、総構えの壮大なる名城 | 男の隠れ家デジタル https://otokonokakurega.com/learn/trip/14815/
  19. 弘前城跡と津軽氏 - 日立ソリューションズ東日本 https://www.hitachi-solutions-east.co.jp/company/east-japan/history/hirosaki/
  20. 旅 1178 誓願寺(弘前市新町) - ハッシー27のブログ - Seesaa https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/202104article_2.html
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  22. 弘前城|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=439
  23. 沼田面松斎 - WYC心の旅 http://wyc-cocolonotabi.tea-nifty.com/blog/2011/11/post-b7dd.html
  24. 特 集 - 弘前大学 https://www.hirosaki-u.ac.jp/wordpress_data/annai/kanko/gakuen/168.pdf
  25. 【青森県】弘前城の歴史 度重なる不運に見舞われた城!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2361
  26. 弘前城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/aomori/hirosaki-jo/
  27. 弘前藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E8%97%A9
  28. 弘前城(青森県弘前市) 東北で唯一の天守が残る城 https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2021/11/06/190000
  29. 北方の小藩・弘前藩が日本有数の大城郭・弘前城を造営できた理由 ... https://serai.jp/tour/49625
  30. 東北で唯一の現存天守 弘前城 | 弘前公園総合情報 https://www.hirosakipark.jp/hirosakijo.html
  31. 満天姫 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46536/
  32. 弘前城石垣修理 https://www.city.hirosaki.aomori.jp/ishigaki/rensai2.pdf
  33. 弘前城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E5%9F%8E
  34. 弘前藩〜津軽家が治め続けるをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/281/