彦根城完成(1607)
慶長12年、徳川家康は天下統一のため彦根城を完成。井伊直政の遺志を継ぎ、佐和山城資材を転用。対豊臣の最前線基地として築城し、徳川の武威と井伊家の基盤を確立。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長十二年の城 ― 関ヶ原の終焉と徳川の布石、彦根城完成の真相
序章:関ヶ原の残響 ― 新たな城郭の必要性
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。しかし、この一日で戦国の世が完全に終焉したわけではなかった。むしろ、この勝利は新たな緊張の始まりであり、徳川による天下泰平への道筋は、未だ多くの潜在的な脅威に満ちていた。この関ヶ原の残響が色濃く残る近江の地に、新たな時代の到来を告げる巨大な城郭、彦根城がその姿を現すことになる。その築城は、単なる軍事拠点の建設に留まらず、徳川政権による新たな秩序構築の象徴であり、周到に計算された政治的・心理的事業であった。
関ヶ原直後の近江国
近江国は、古来より京都と東国を結ぶ交通の要衝であり、「近江を制する者は天下を制す」と謳われる戦略上の最重要拠点であった 1 。関ヶ原の戦いにおいて西軍を組織した首魁、石田三成がその本拠地としていたのが、近江国北東部に位置する佐和山城であった。戦後、佐和山城は東軍の猛攻を受けて落城し、城内にいた石田一族は滅亡の悲運を辿る 2 。
戦後の論功行賞において、徳川家康がこの因縁の地を託したのは、徳川四天王の一人であり、関ヶ原での武功も随一であった井伊直政であった 4 。慶長6年(1601)正月、直政は上野国高崎から18万石の領主として佐和山城に入城する 4 。家康が最も信頼する猛将を、西軍の中心地であった近江に配置したこと自体が、豊臣恩顧の大名が多く残る西国への強い警戒心と、この地を徳川支配の楔として打ち込むという断固たる意志の表れであった。
佐和山城という「負の遺産」
しかし、新たな領主となった井伊直政にとって、佐和山城は輝かしい戦利品であると同時に、統治上極めて扱いにくい「負の遺産」であった。石田三成は、領内において善政を敷いたとされ、領民からの思慕が非常に厚かったと伝えられている 3 。その三成の居城にそのまま居座ることは、領民に対して三成の遺構を継承するかのような錯覚を与えかねず、新たな支配体制を確立する上で大きな障害となり得た 6 。
直政は、この豊臣色の濃い城を一掃し、徳川の威光を明確に示す新たな城の必要性を痛感していた 3 。これは単なる感情的な問題や、前任者への嫌悪感に起因するものではない。戦国時代から近世へと移行する時代の領主交代において、前任者の権威と記憶を物理的・象徴的に払拭し、新たな支配者の到来を領民に視覚的に理解させることは、統治を円滑に進めるための高度な政治技術であった。佐和山城に留まり続けることは、常に石田三成の「亡霊」を背負い続けることを意味し、井伊家による新たな支配の正統性を確立する上で、決して得策ではなかったのである。
この心理的な側面に加え、佐和山城は物理的にも時代遅れの城郭となりつつあった。
戦術思想の転換:なぜ佐和山城ではならなかったのか
佐和山城は、標高232.5メートルの山頂に本丸を構える典型的な中世の「山城」であった 1 。籠城戦を主眼とし、険しい地形を利用した防御思想は、戦国中期までは有効であった。しかし、鉄砲の普及と集団戦法の進化は、城郭のあり方を大きく変えた。大規模な軍勢の展開や兵站の維持、そして城下町を含めた領国経済の中心地としての機能を考えると、山城はあまりにも不便であった 7 。
戦国末期から近世にかけての城郭は、防御拠点としての機能に加え、政治・経済の中心地としての役割を兼ね備えた「平山城」や「平城」が主流となっていた。井伊家が計画した新城は、佐和山よりも琵琶湖に近い平山城である彦根山(金亀山)に築かれることとなる 8 。佐和山城の放棄と彦根城の建設は、単なる場所の移動ではなく、旧時代の戦術思想との決別であり、新たな時代の城郭理念への移行を象徴する出来事であった。
すなわち、彦根城の築城計画は、物理的な拠点構築であると同時に、石田三成の記憶を民衆から消し去り、徳川の支配を絶対的なものとして刷り込むための高度な心理戦であったと言える。旧城である佐和山城を見下ろすことができる場所に、より壮大で機能的な新城を築くこと自体が、前時代の権威を否定し、新時代の到来を宣言する強力なプロパガンダとなる。彦根城の存在そのものが、三成の佐和山城に対する「勝利宣言」であり、徳川体制の永続性を領民に示すための視覚的なモニュメントであった。この事業は、単なる軍事拠点以上の、イデオロギー的かつ象徴的な意味合いを帯びていたのである。
第一章:井伊直政の遺志と徳川家康の天下構想
彦根城の誕生は、井伊直政という一人の武将の構想から始まった。しかし、その遺志は彼の早すぎる死によって、徳川家康という天下人のより壮大な戦略の中に組み込まれていく。直政個人の統治上の必要性と、家康の国家戦略が交差した点に、彦根城という類稀なる城郭が生まれる必然性があった。
井伊直政の入封と早すぎる死
慶長6年(1601)に佐和山城主となった井伊直政であったが、その治世はあまりにも短かった 4 。関ヶ原の戦いにおいて、退却する島津軍を猛追した際に受けた鉄砲傷が癒えることはなく、むしろ悪化の一途を辿った 4 。新城の築城計画を進める中、翌慶長7年(1602)2月1日、直政は志半ばで佐和山城内にてこの世を去る。享年42であった 4 。
「徳川四天王」「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将の死は、井伊家にとって計り知れない打撃であった。しかし同時に、この出来事は彦根城プロジェクトの性格を大きく変える転機となる。もし直政が存命であれば、築城はあくまで井伊家の事業として、彼の意向が強く反映された形で進められたであろう。だが、彼の死によって生じた権力の空白は、徳川家康がこの計画に深く、そして直接的に介入する絶好の機会を与えることになった。
徳川家康のグランドデザイン:「大坂包囲網」の形成
関ヶ原の戦いが終わっても、家康の眼前には最大の脅威が依然として存在していた。大坂城に拠点を置き、莫大な財力と潜在的な影響力を持つ豊臣秀頼である。家康は、豊臣家とその恩顧の大名たちを監視し、その力を削ぎ、最終的には完全に無力化するための壮大な戦略構想を描いていた。彦根城は、この「大坂包囲網」とも言うべき戦略的ネットワークを形成する上で、最も重要な拠点の一つとして位置づけられた 7 。
この包囲網は、彦根城だけではない。琵琶湖の南岸には膳所城、京都には二条城、そして丹波口には亀山城や篠山城が、幕府の威信をかけた「天下普請」によって次々と築城、あるいは改修されていった 12 。これらの城は、大坂城を幾重にも取り囲むように配置されており、有事の際には相互に連携して豊臣方を封じ込めるための軍事拠点であった。彦根城は、その中でも東国と西国を結ぶ結節点に位置し、対豊臣戦略の最前線基地としての役割を期待されていたのである 6 。
築城地の選定:金亀山(こんきやま)への決定
新城の建設地については、当初、琵琶湖畔の磯山なども候補に挙がっていた 14 。しかし、最終的に選ばれたのは、佐和山の南西に位置する彦根山、別名「金亀山(こんきやま)」であった 9 。この決定には、徳川家康自身の強い勧めがあったと伝えられている 8 。
家康が金亀山を推した理由は、その卓越した地政学的優位性にあった。佐和山城が内陸の山城であるのに対し、金亀山はより琵琶湖に近く、その広大な水面を天然の堀として、また高速の輸送路として活用できるという絶大な利点があった 8 。物資の大量輸送はもちろんのこと、万が一京都で変事が発生した際には、琵琶湖の水運を利用して大軍を迅速に上洛させることが可能となる 8 。家康は、彦根城に単なる西国監視の拠点という役割だけでなく、朝廷や京の都を護る「京都守護」という、より高度な戦略的任務をも見据えていたのである。
井伊直政の死は、家康にとって一つの好機であった。直政の当初の計画は、あくまで石田三成の旧領を円滑に統治するための、いわばローカルな視点から始まっていた。しかし、若年の嫡子・直継が跡を継いだことで、家康はこのプロジェクトに深く介入し、その主導権を事実上掌握した。そして、井伊家の事業であった築城計画を、幕府が諸大名を動員して行う国家事業「天下普請」へと昇華させ、その戦略的意義を「対豊臣の最前線基地」として再定義したのである。これは、家康が一人の家臣の死という偶然の出来事さえも自らの天下統一戦略の中に巧みに組み込んでしまう、老獪な政治手腕の現れであった。彦根城は、この瞬間から、井伊家のためだけの城ではなく、徳川の、徳川による、徳川のための城として、その建設が開始されることとなった。
第二章:天下普請の始動 ― 彦根城築城のリアルタイム・クロニクル(慶長8年~11年)
井伊直政の死後、彦根城築城は徳川幕府の最重要プロジェクトの一つとして、驚異的な速度で推進されることとなる。幕府が開かれた慶長8年から、城の象徴である天守が完成する慶長11年までの第一期工事は、関ヶ原直後の未だ不安定な天下の情勢を背景に、極度の緊張感の中で行われた。
慶長8年(1603):幕府開府と普請の号令
この年、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに天下人として江戸に幕府を開いた。そして、この新しい時代の幕開けと時を同じくして、彦根城の築城が正式に開始される 12 。幕府はこの一大事業を直接管理するため、公儀奉行として佐久間政実、山城忠久、犬塚平右衛門らを現地に派遣した 17 。幕府の成立と同時に普請が開始されたという事実は、この城が新政権の威信をかけた国家的事業であったことを何よりも雄弁に物語っている。直政の跡を継いだ嫡男・井伊直継(後の直勝)が築城主として名を連ねるが、実質的なプロジェクトの主導権は幕府が握っていた 16 。
慶長9年(1604):天下普請の本格化と「リサイクル戦略」
築城は「天下普請」として、周辺大名にその分担が命じられた。いわゆる「助役大名」であり、『井伊年譜』によれば、近江をはじめとする7か国12家の大名が動員されたと記録されている 1 。この大規模な動員の目的はただ一つ、対大坂の拠点を一日も早く完成させることであった 6 。
「工期短縮とコスト節約」という至上命題を達成するため、幕府は徹底した「リサイクル戦略」を採った 8 。これは、新たな資材を山から切り出す時間と手間を省くため、周辺に存在する廃城の部材を徹底的に再利用するものであった。石垣の石材は、解体された旧主の居城・佐和山城はもちろんのこと、織田信長の安土城、豊臣秀吉の長浜城からも船で運び込まれた 18 。主要な建物も同様で、天守は関ヶ原の前哨戦の舞台となった大津城から、本丸防衛の要となる天秤櫓は長浜城の大手門を移築したと伝えられている 14 。彦根城が「リサイクルの城」 8 と呼ばれる所以である。この戦略は、単なる効率化に留まらず、信長、秀吉、三成といった旧時代の権力者たちの遺産を解体し、徳川の新たな城の礎とすることで、時代の支配者が完全に交代したことを天下に示すという、象徴的な意味合いも持っていた。
慶長10年(1605):主要曲輪の完成
助役大名たちの尽力により、工事は急ピッチで進められた。この年には、本丸の南側を守る重要な曲輪である鐘の丸が完成したと記録されている 17 。石垣普請も着々と進み、金亀山の地形を巧みに利用した城の中核部分の縄張りが、徐々にその全貌を現し始めた。城の防御機能の確立が最優先課題とされ、戦闘を想定した区画から優先的に工事が進められていたことがうかがえる。
慶長11年(1606):天守完成と城主の移転
築城開始からわずか3年余り、慶長11年には、彦根城の象徴となる天守が完成した 4 。大津城から移された部材を用いて再構築されたこの天守は、新たな時代の幕開けを告げるにふさわしい壮麗な姿を誇っていた。また、本丸には藩主の公邸であり政務の場となる「御広間」も同時に造営された 17 。
この城の中核部分の完成をもって、城主である井伊直継は、父・直政が没した佐和山城から、ついに新たな居城である彦根城へと正式に移徙(いし)した 4 。これをもって、石田三成の居城であった佐和山城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となったのである 2 。彦根の地における支配者の交代が、名実ともに完了した瞬間であった。
表1:彦根城築城 主要年表(慶長8年~元和8年)
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
慶長8年 |
1603年 |
徳川家康、征夷大将軍に就任。彦根城築城(第一期工事)開始。 |
井伊直継 |
慶長9年 |
1604年 |
天下普請が本格化。周辺の古城から資材を転用。 |
井伊直継 |
慶長10年 |
1605年 |
鐘の丸が完成。 |
井伊直継 |
慶長11年 |
1606年 |
天守、本丸御広間が完成。井伊直継が佐和山城から彦根城へ移る。佐和山城廃城。 |
井伊直継 |
慶長12年 |
1607年 |
天守をはじめとする城郭主要部が完成。 |
井伊直継 |
慶長19年 |
1614年 |
大坂冬の陣。築城工事が一時中断。 |
井伊直孝 |
慶長20年 |
1615年 |
大坂夏の陣。井伊直孝が家督を相続し、2代藩主となる。 |
井伊直孝 |
元和元年 |
1615年 |
井伊直孝のもと、彦根藩単独による築城(第二期工事)が再開。 |
井伊直孝 |
元和2年 |
1616年 |
山麓の表御殿の造営が開始される。 |
井伊直孝 |
元和8年 |
1622年 |
表御殿、城郭全体が完成し、竣工。 |
井伊直孝 |
表2:彦根城天下普請(第一期工事)の体制
役職 |
判明している人物・規模 |
備考 |
築城主 |
井伊直継(直勝) |
井伊直政の嫡男。 |
総責任者 |
徳川家康 |
幕府の戦略に基づき、天下普請として命令。 |
公儀奉行 |
佐久間政実、山城忠久、犬塚平右衛門ら3名(または6名説あり) |
幕府から派遣され、工事全体を監督 17 。 |
助役大名 |
7か国12大名(伊賀上野藩、美濃大垣藩など) |
普請を分担。具体的な大名名や丁場割の詳細は史料に乏しい 1 。 |
特筆すべきは、彦根城がこれほど大規模な天下普請でありながら、他の同時代の城、例えば江戸城や名古屋城の石垣に見られるような、担当大名の名を示す「刻印」がほとんど発見されていない点である 17 。通常の天下普請では、普請に参加し、自家の刻印を残すことは大名にとって名誉であり、徳川への忠誠を示す行為でもあった。しかし彦根城においては、その痕跡が極めて少ない。
これは、幕府が各大名に個別の石切り場を割り当て、新たに石を切り出させるといった時間のかかるプロセスを意図的に避けた結果と考えられる。むしろ、佐和山城などから解体済みの石材を効率的に再配置することに主眼が置かれた 17 。この「記録の意図的な欠如」は、彦根城の天下普請が、大名間の競争や名誉といった政治的パフォーマンスの要素を極力排し、「スピード」と「機能」という軍事合理性を何よりも最優先した、極めて実務的なプロジェクトであったことを物語っている。それは、いつ豊臣家との最終決戦が起きてもおかしくないという、関ヶ原直後の切迫した時代の空気を色濃く反映しているのである。
第三章:慶長十二年(1607年)の到達点 ― 天守完成と城郭の姿
一般に「彦根城完成」として記録される慶長12年(1607年)。この時点での城は、20年に及ぶ全工程から見れば道半ばであったが、対豊臣の軍事拠点としては、すでに完成の域に達していた。その姿は、戦国時代に培われた築城術の粋を集めると同時に、新たな時代の美意識と政治的メッセージを内包する、画期的なものであった。
慶長12年時点での「完成」の定義
慶長12年時点での「完成」とは、城郭全体が竣工したことを意味するのではない。この段階で完成していたのは、天守、本丸、二の丸、西の丸、鐘の丸といった城の中核部分であり、軍事拠点として最低限の機能が整った状態を指すものであった 17 。藩の政庁となる壮大な表御殿や、城下町を囲む外堀の整備といった、平時の統治に必要な施設の多くは、大坂の陣を経た後の第二期工事(元和期)に持ち越されることになる 18 。
このような段階的な築城は、当時の切迫した政治情勢を反映している。豊臣家が依然として大坂城に健在である以上、徳川幕府にとって最優先すべきは、即応可能な戦闘要塞を一日も早く構築することであった 18 。慶長12年の「完成」は、まさしくその軍事的要請に応えた一つの到達点だったのである。
国宝天守の構造分析:移築と創造のハイブリッド
彦根城の象徴である天守は、その構造と意匠において、移築と創造が巧みに融合した傑作である。
移築の痕跡
この天守は、関ヶ原の前哨戦で西軍の猛攻に耐えた京極高次の大津城天守を移築したものと、古くから伝えられてきた 14。その伝承は、昭和32年(1957年)から始まった解体修理によって、科学的な裏付けを得ることとなる。修理中に発見された部材には「慶長十一年」の墨書が見つかり、これが『井伊年譜』などの記録の信憑性を高めた 24。調査の結果、元々は四重五階、あるいは五重の天守であったものを、部材を転用しつつ三重三階の規模に縮小して再構築した可能性が高いと結論づけられている 8。
独創的な意匠
しかし、彦根城天守は単なるリサイクル建築ではない。その外観は、極めて独創的で装飾性に富んでいる。
- 構造形式: 全体としては、一階または二階建ての入母屋造りの大櫓の上に、上層の望楼を載せた「望楼型」と呼ばれる古い形式を踏襲している 23 。これは、天守建築が発展する過渡期の様相を示している。
- 多彩な破風: 屋根には、切妻破風、入母屋破風、そして優美な曲線を描く唐破風が、見る角度によって様々に表情を変えるよう、絶妙なバランスで配置されている 14 。これほど多様な破風を組み合わせた天守は他に類例がなく、静的な建築物に動的な美しさを与えている。
- 華頭窓の多用: この天守を最も特徴づけているのが、「華頭窓(かとうまど)」の存在である 31 。火炎や花の蕾を思わせるこの窓は、元来、禅宗寺院の建築様式であり、格式の高さを示す意匠であった 32 。通常、天守に用いられる場合でも最上階に限定されることが多いが、彦根城では最上階だけでなく二階にも、合計18個という異例の数が採用されている 23 。
大津城の古材を用いながらも、全く新しいデザインの天守を創造した背景には、明確な意図があった。それは、この城が単なる軍事施設ではなく、見る者を圧倒し、徳川の威光を天下に示すための政治的シンボルとしての役割を強く意識されていたことの証左である。
この天守の意匠は、二重の政治的メッセージを発信する装置として機能したと考えられる。参勤交代で中山道を通る豊臣恩顧の西国大名に対しては、多彩な破風が織りなす複雑で威圧的な外観が、徳川の圧倒的な財力と技術力を見せつけ、逆らうことの無意味さを知らしめる「武」の象徴であった。一方で、京の都にいる公家や朝廷に対しては、寺社建築由来の格式高い華頭窓を多用することで、武家である徳川が旧来の権威である朝廷の文化を深く理解し、尊重する「文」の保護者でもあるという姿勢を示した。慶長12年という、徳川の支配がまだ盤石とは言えない微妙な時期において、彦根城天守は、見る相手によって異なる意味を読み取らせる、非常に高度な政治的計算のもとに設計されたシンボルであった。
防御機構の徹底解説:戦国仕込みの実戦思想
華麗な天守とは対照的に、城全体の防御機構は、戦国時代の過酷な実戦を経て培われた、極めて質実剛健な思想で貫かれている。
- 石垣: 天守台などを支える石垣は、自然の石を巧みに組み合わせた「野面積み」の一種で、特に細長い石を奥深く差し込む「牛蒡積み」と呼ばれる技法が用いられている 35 。外見は粗雑に見えるが、石同士が噛み合うことで高い強度を誇り、排水性にも優れるため崩れにくいとされる。
- 登り石垣: 山の斜面を縦に登るように築かれた石垣は、彦根城の防御思想を象徴する遺構である 16 。これは、敵兵が山腹を横移動するのを防ぎ、各曲輪の連携を保つためのもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた倭城に見られる先進的な技術であった 38 。
- 縄張り: 城の設計は、本丸を中心に複数の曲輪が連なる「連郭式」を基本とし、本丸の前後には尾根を断ち切る巨大な空堀「大堀切」を設けている 19 。これにより、大手筋からだけでなく、搦手(裏手)からの攻撃にも万全の備えを固めている。
- 隠し狭間: 天守や櫓の壁面には、外からは見えないように漆喰で塗り固められた鉄砲狭間「隠し狭間」が多数設けられている 40 。平時には城の美観を損なわず、有事の際には内側から漆喰を突き破って敵を狙撃するという、実用性と美意識を両立させた ingenious な工夫である。
これらの防御施設は、戦国時代に完成された実戦的築城術の集大成と言える。特に、平時にはその存在を隠す「隠し狭間」は、戦乱の世が終わり、泰平の時代へと向かう過渡期ならではの思想を色濃く反映している。彦根城は、戦うための機能を極限まで高めつつも、来るべき平和な時代の到来を見据えた、まさに「戦国の終わり」と「近世の始まり」を体現した城郭であった。
第四章:城主交代と大坂の陣 ― 彦根城、試練の時
慶長12年(1607年)に城郭の主要部が完成した後も、彦根城とそれを取り巻く情勢は決して平穏ではなかった。井伊家の内部で起こった城主交代劇、そして徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣は、築城途上にあった彦根城に大きな試練を与え、その真価を問うこととなる。
井伊直継から直孝へ:宿命の兄弟
初代藩主・井伊直政の跡を継ぎ、彦根城の初代城主となったのは、嫡男の井伊直継(後に直勝と改名)であった。しかし、彼の藩主としての時代は長くは続かなかった。慶長19年(1614年)、豊臣家との関係が決定的に悪化し、大坂冬の陣が勃発すると、徳川政権は譜代筆頭である井伊家に先鋒としての出陣を命じる。この国家の存亡をかけた一戦において、城主である直継は「病弱」を理由に出陣せず、代わって弟の直孝が井伊家の軍勢「赤備え」を率いることとなった 41 。
この采配の背景には、兄弟の資質の違いがあった。兄・直継は、戦場での実績に乏しく、その性格は乱世の武将には向いていなかったと示唆されている 43 。一方、弟の直孝は、庶子であったが故に幼少期は江戸で徳川秀忠の近習として仕え、武勇に優れるだけでなく、幕府中枢との太いパイプを築いていた 45 。
大坂冬の陣で、直孝は真田信繁(幸村)が守る難攻不落の出城「真田丸」の攻略戦で奮戦し、家康から賞賛される 42 。この戦功が決定打となり、戦後の慶長20年(1615年)、徳川家康の直接の命令によって、直孝が井伊家の家督を正式に相続することが決まった。直孝は彦根藩15万石の二代藩主となり、兄の直継は上野国安中藩3万石を与えられて分家を立てることとなった 11 。
この一連の家督相続は、単なる井伊家の内紛や兄弟間の問題として捉えるべきではない。それは、目前に迫った豊臣家との最終決戦において、「彦根城」という最新鋭の巨大な軍事資産と、「井伊の赤備え」という最強の戦闘部隊を、最も有効に活用できる指揮官に委ねるための、徳川家康による極めて冷徹な戦略的人事であった。個人的な情実や伝統的な相続順位よりも、軍事的な合理性と勝利の確実性を優先するという、家康の徹底したリアリズムがこの決定の根底にはあった。彦根城主の座は、もはや単なる領地の支配者ではなく、徳川の天下を盤石にするための戦場で結果を出すことが求められる、重い責務を伴うものへと変質したのである。
大坂の陣と彦根城の役割
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣の勃発により、まだ途上にあった彦根城の築城工事は一時的な中断を余儀なくされた 15 。しかし、この戦いにおいて彦根城は、その戦略的価値を遺憾なく発揮することになる。
彦根は、江戸から大坂へ向かう東海道と中山道が合流する地点にあり、兵站線上の最重要拠点であった。徳川方は、この彦根城に最大の兵糧米を備蓄し、大坂へ向かう大軍の後方支援基地として最大限に活用した 13 。彦根城が直接戦火に晒されることはなかったが、この城の存在なくして、徳川軍の円滑な軍事行動はあり得なかったであろう。築城を急がせた家康の狙いは、この戦いにおいて見事に証明されたのである。
井伊直孝の武功と井伊家の飛躍
家督を継いだ井伊直孝は、大坂夏の陣において、その期待に応える目覚ましい活躍を見せる。天王寺・岡山の最終決戦では、豊臣方の勇将・長宗我部盛親の部隊を撃破。大坂城落城の際には、将軍秀忠の命を受けて城内に突入し、豊臣秀頼・淀殿母子が籠もる山里曲輪に鉄砲を撃ちかけ、彼らを自害へと追い込んだ 42 。この非情ともいえる徹底した攻撃は、「後世に禍根を残さぬため」という直孝の強い意志の表れであった 42 。
この大功により、直孝は「井伊の赤牛」と称賛され、井伊家はさらに5万石を加増される 46 。直孝の武功は、井伊家が徳川譜代筆頭としての地位を不動のものとする決定的な要因となった。以後、直孝は三代将軍・家光の後見役を務めるなど幕政の中枢で重きをなし、井伊家は加増を重ねて最終的に30万石の大大名へと飛躍していく 19 。彦根城は、まさにこの「井伊の赤牛」と呼ばれた名将にふさわしい、譜代筆頭の居城として、その威容を天下に示すこととなったのである。
終章:近世城郭の完成と譜代筆頭の拠点 ― 彦根城が持つ歴史的意義
大坂の陣が終結し、豊臣家が滅亡したことで、日本は「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる真の泰平の世を迎えた。戦乱の時代が終わりを告げたことで、彦根城の役割もまた、大きな変容を遂げていく。軍事拠点として生まれ、時代の試練を乗り越えたこの城は、近世を通じて徳川幕府を支える譜代筆頭の拠点として、新たな歴史を歩み始める。
元和8年(1622年)の全体完成:軍事拠点から政庁へ
大坂の陣が終わると、中断されていた彦根城の普請は、二代藩主・井伊直孝のもとで再開された。注目すべきは、この第二期工事が、もはや幕府主導の「天下普請」ではなく、彦根藩単独の「自普請」として行われたことである 1 。これは、豊臣家という最大の脅威が消滅し、城の建設が緊急の国家的事業から、一藩の統治基盤整備へと性格を変えたことを示している。
この時期の最大の事業は、山麓に藩の政庁であり藩主の居館でもある「表御殿」を新たに造営することであった 18 。戦を想定して山上に構えられていた本丸御殿から、広大で壮麗な表御殿へと政治の中心が移されたことは、城の機能が軍事一辺倒から、平時の藩政を司る行政機能へと大きくシフトしたことを象徴している 18 。そして、この表御殿の完成を含む城郭全体の工事が完了した元和8年(1622年)、着工から約20年の歳月を経て、彦根城はついにその全容を現したのである 20 。
城の「顔」の変化:対大坂から対江戸へ
時代の変化は、城の物理的な構造にも影響を与えた。築城当初、彦根城の公式な正面玄関である大手門は、対大坂を想定して城の南側に構えられていた 18 。京や大坂方面からの敵襲に備えるための、純粋に軍事的な配置であった。
しかし、平和な時代が到来し、諸大名が江戸と国元を定期的に往復する参勤交代が制度化されると、城の「顔」は大きく変化する。彦根藩主が江戸へ向かう際に利用する中山道に面した、城の北東側に位置する「佐和口」が、事実上のメインゲートとしての役割を担うようになったのである 18 。城の正面が、かつての敵であった大坂側から、主君のいる江戸側へと、ほぼ180度転換したこの事実は、彦根城の役割が「西国への睨み」から「江戸への奉公」へと変わったことを、何よりも明確に示している。城の構造そのものが、時代の変遷を雄弁に物語る歴史の証人となった。
譜代筆頭・井伊家の拠点として
井伊直孝の代に30万石の大大名へと成長した井伊家は、徳川譜代大名の筆頭としての家格を誇り、幕政の中枢で重責を担い続けた 13 。歴代藩主の中からは、幕末の井伊直弼をはじめとして、幕府の最高職である大老を数多く輩出した 47 。その間、井伊家は一度の国替え(領地替え)もなく、明治維新に至るまで250年以上にわたって彦根の地を治め続けた 13 。
彦根城は、単なる一地方大名の居城ではなかった。それは、徳川の天下を盤石にするという国家的使命を帯びて生まれ、江戸幕府の屋台骨を支える最重要拠点として、近世を通じて機能し続けたのである。
結論:彦根城完成が日本史に与えた影響
慶長12年(1607年)の彦根城天守の完成、そして元和8年(1622年)の全体竣工は、日本史において以下の重要な意義を持つ。
第一に、彦根城は戦国時代に頂点を迎えた日本の築城技術の集大成であると同時に、その後の泰平の世における近世城郭のあり方を示した幕開けの城であった。戦うための機能性と、統治の象徴としての美しさを、かつてない高いレベルで両立させたのである。
第二に、その誕生の経緯は、関ヶ原の戦後処理から大坂の陣に至る、徳川による天下統一事業の縮図であった。豊臣の威光を払拭し、西国を牽制し、徳川の新たな秩序を盤石にするための、計算され尽くした戦略的布石、それが彦根城であった。
そして最後に、戦国の動乱を乗り越え、2世紀半にわたる平和な時代を築き上げた徳川政権の権威と威光を、400年以上の時を超えて今日にまで伝える「歴史の証人」として、その比類なき姿を今なおとどめている。彦根城は、戦国の終焉と近世の黎明が交差した、時代の転換点を象徴する不滅のモニュメントなのである。
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