琉球在番設置(1611)
慶長十六年、薩摩藩は琉球に在番を設置。1609年の侵攻後、尚寧王は屈辱的な誓約を強いられ、琉球は実質的に日本の支配下へ。対外的には中国との関係を維持しつつ、薩摩による収奪が始まった。
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日本の戦国時代という視点から見た「琉球在番設置(1611)」:その背景、経緯、そして歴史的帰結
序章:琉球在番設置の歴史的意義
慶長16年(1611年)、薩摩藩島津氏によって琉球王国に「在番」と呼ばれる監督官が置かれたことは、単なる一地方大名による支配体制の確立を意味するものではない。この出来事は、100年以上にわたって日本列島を席巻した戦国時代の動乱が、その最終的な帰結として、平和な海洋王国であった琉球の運命を根本から覆した瞬間であった。琉球在番の設置は、一過性の事件ではなく、数十年にわたって醸成された複数の歴史的要因が一点に収斂した必然的な結果であった。
この歴史的転換点を深く理解するためには、三つの大きな潮流を分析する必要がある。第一に、室町時代から琉球の交易利権に野心を燃やし続けてきた島津氏が、関ヶ原の戦いでの敗北という存亡の危機を経て、藩の再建のために琉球支配を焦眉の急としたこと。第二に、豊臣秀吉の対外戦争が残した負の遺産を清算し、新たな対明関係を模索していた徳川幕府が、その国家的戦略の一環として島津氏の琉球侵攻を公認したこと。そして第三に、大陸の巨大帝国である明への朝貢と、統一され軍事力を増強する日本との間で、琉球王国が置かれていた絶妙かつ脆弱な地政学的立場である。
本報告書は、「琉球在番設置」という事象を、戦国時代の終焉という日本史の大きな文脈の中に位置づけ、その背景、具体的な軍事侵攻の過程、そして支配体制の確立が琉球社会と後の東アジア情勢に与えた長期的影響を、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
表1:琉球侵攻と在番設置に至る主要年表(1588年~1628年)
年月 (西暦/和暦) |
場所 |
主要な出来事 |
1588年 (天正16年) |
琉球・薩摩 |
豊臣秀吉、島津氏を通じて琉球に朝鮮出兵のための軍役負担を要求 1 。 |
1591年 (天正19年) |
琉球・薩摩 |
島津氏、秀吉の要求に基づき、琉球に兵糧米7000人・10ヶ月分の供出を命じる 2 。 |
1593年 (文禄2年) |
琉球・薩摩 |
琉球、要求された兵糧米の半量を薩摩に提供。残りは島津氏が「立て替え」る形で決着 2 。 |
1600年 (慶長5年) |
美濃国関ヶ原 |
関ヶ原の戦い。島津義弘率いる島津軍は西軍として参戦し敗北。敵中突破により薩摩へ帰還 4 。 |
1602年 (慶長7年) |
薩摩・江戸 |
島津氏、徳川家康との2年越しの交渉の末、所領安堵を勝ち取る。藩財政は極度に悪化 4 。 |
1602年 (慶長7年) |
江戸・琉球 |
伊達領に漂着した琉球人が家康の命で送還される。家康は琉球を介した対明交渉を期待 7 。 |
1609年 (慶長14年) 3月4日 |
薩摩・山川港 |
樺山久高を総大将とする3000の薩摩軍が琉球へ向け出港 7 。 |
1609年 (慶長14年) 3月7日 |
奄美大島 |
薩摩軍、奄美大島に到着。現地の首脳は抵抗せず協力 9 。 |
1609年 (慶長14年) 3月25日 |
沖縄本島・運天港 |
薩摩軍、沖縄本島北部に上陸 9 。 |
1609年 (慶長14年) 4月5日 |
首里 |
薩摩軍が首里城を包囲し、琉球国王尚寧が降伏 7 。 |
1610年 (慶長15年) 8月 |
駿府 |
捕虜となった尚寧王、駿府城で徳川家康に謁見 10 。 |
1610年 (慶長15年) 9月 |
江戸 |
尚寧王、江戸城で二代将軍徳川秀忠に謁見 10 。 |
1611年 (慶長16年) |
薩摩・琉球 |
尚寧王、薩摩への服従を誓う「掟十五ヶ条」等に署名させられ、2年半ぶりに琉球へ帰国 11 。 |
1628年 (寛永5年) |
那覇 |
薩摩藩の出先機関である「在番奉行所(在番仮屋)」が那覇に設置される 13 。 |
第一章:火種―戦国期における島津氏と琉球王国の関係変容
1. 交易と支配の狭間で:室町期からの交流と島津氏の野心
島津氏と琉球王国の関係は、15世紀、日本の室町時代にまで遡る。当初、その関係は主に交易を中心とするものであった。南九州という地理的優位性を持つ島津氏は、日本本土と琉球、さらにはその先の東南アジアを結ぶ交易路の結節点として、重要な役割を担っていた 9 。文明3年(1471年)には、室町幕府が島津氏に対し、琉球へ渡航する船の警護・取締りを命じるなど、公的な権威を背景とした関与が始まっていた 15 。
しかし、この関係性は徐々に変質していく。島津氏は、単なる交易の管理者から、琉球を自らの勢力圏に組み込もうとする野心を露わにし始める。その根拠とされたのが、室町幕府が琉球を「薩摩の付庸国(事実上の属国)」と認めたとする主張であった 16 。この幕府の許しは、当時の琉球側が認識していた対等な関係とは大きくかけ離れたものであったが、島津氏にとっては支配を正当化するための極めて強力な論理的支柱となった。
この論理を現実の支配力に転換するため、島津氏は具体的な行動を開始する。彼らは「琉球渡海朱印状」という独自の渡航許可証を発行し、これを持たない船の琉球への渡航を禁じ、琉球側にも朱印状なき船の入港を拒否するよう要求した 16 。これは、それまで比較的自由に行われていた日琉間の交易を島津氏の管理下に置き、独占するための画期的な制度であった。このように、島津氏は遠い中央政権(室町幕府)から得た名目上の権威を、具体的な経済的支配権へと巧みに転化させていった。それは、武力侵攻に先立つこと100年以上も前から、琉球の主権を少しずつ侵食していく、緩やかだが着実なプロセスだったのである。
2. 天下統一の奔流:豊臣秀吉の軍役要求と琉球の苦境
16世紀末、豊臣秀吉による天下統一事業は、日琉関係に決定的な転機をもたらした。九州征伐によって島津氏を服属させた秀吉は、その巨大な軍事力を背景に、日本の伝統的な勢力圏を超えた対外政策を展開し始める 16 。その矛先は、朝鮮半島、そして琉球王国にも向けられた。
秀吉は、計画していた朝鮮出兵に際し、琉球を島津氏の「与力(補助戦力)」と位置づけ、服属と軍役の提供を要求した 16 。天正16年(1588年)、島津氏を介して琉球にもたらされたその要求は、琉球王府を震撼させた。具体的には、兵糧米として7000人・10ヶ月分という、当時の琉球の国力では到底負担不可能な莫大な量であった 1 。琉球側にとって、日本との関係はあくまで恩恵を受けるものであり、軍事的な奉仕を求められるなど「前代未聞の要求」であった 1 。
この要求は、琉球を深刻なジレンマに陥れた。秀吉の命令を拒めば、島津氏による侵攻は避けられない。しかし、これを受け入れれば、宗主国である明との朝貢関係が悪化する恐れがあった 1 。激しい議論の末、琉球は要求された兵糧米の半量を差し出すことで、かろうじて危機を回避しようと試みた。不足分は、島津氏が「立て替える」という形で処理されたが、これは事実上、琉球が島津氏に負債を抱えることを意味した 2 。
この一連の出来事の歴史的意義は極めて大きい。それまで島津氏が一方的に主張していた琉球への宗主権は、秀吉という天下人の権威によって初めて公式に追認されたのである。これにより、島津氏は単なる一地方大名から、日本の「中央政府」の代理人として琉球に介入する正当性を手に入れた。琉球が将来、島津氏の要求を拒否することは、もはや薩摩一国への反抗ではなく、日本そのものへの反逆と見なされかねない状況が作り出された。これが、後の琉球侵攻を正当化する上で、決定的な伏線となったのである。
第二章:引き金―関ヶ原の戦いと島津氏の存亡
1. 敗者の戦略:徳川家康との交渉と本領安堵
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、島津氏の運命、ひいては琉球の運命を大きく左右する分水嶺となった。島津義弘率いる軍勢は、石田三成方の西軍として参戦し、西軍が総崩れとなる中で奮戦した 4 。特に、敗走時に敵軍の正面を突破し、徳川方の猛将・井伊直政を負傷させた「捨て奸」と呼ばれる壮絶な退却戦は、島津の武勇を天下に知らしめた 5 。
しかし、戦いは西軍の完敗に終わり、島津氏は征伐の対象となった。徳川家康は島津討伐軍の派遣を九州諸大名に命じるなど、一時は厳しい態度を示した 19 。これに対し、島津氏は国境の守りを固めて徹底抗戦の構えを見せつつも、粘り強い和平交渉を展開するという和戦両様の戦略をとった 4 。この交渉は2年にも及び、最終的に家康は、遠方の強大な島津氏を武力で屈服させることの困難さを考慮し、慶長7年(1602年)、所領を一切削減しない「本領安堵」という破格の条件で和議を認めた 5 。
一見すれば、これは西軍の主要大名としては異例の「勝利」であった。しかし、その代償はあまりにも大きかった。関ヶ原での消耗、そして2年間にわたる臨戦態勢の維持は、ただでさえ疲弊していた藩の財政を破綻寸前にまで追い込んだのである 16 。政治的には生き残ったものの、経済的にはもはや立ち行かない。この絶望的な状況が、島津氏にとって新たな、そして莫大な収入源の確保を至上命題とした。その視線の先にあったのが、 lucrativeな南海貿易の利権を握る琉球王国であった。関ヶ原後の政治的生存闘争の成功が、皮肉にも琉球侵攻を単なる選択肢ではなく、藩の存続を賭けた「必要不可欠な事業」へと変貌させたのである。
2. 幕府の公認:家康の対明戦略と琉球侵攻許可
天下の覇権を握った徳川家康にとって、喫緊の外交課題は、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって断絶した明との国交を回復し、公式な貿易を再開することであった 16 。そのための交渉ルートとして家康が着目したのが、明の冊封国である琉球王国であった 7 。
慶長7年(1602年)、奥州の伊達領に琉球船が漂着した際、家康は乗組員を丁重に扱い、島津氏に護衛させて送還させた 7 。これは琉球に恩を売り、返礼の使節を通じて明との仲介を依頼しようという深慮遠謀であった。しかし、琉球側は明との関係を最優先し、家康が期待したような積極的な仲介役を担うことはなかった 7 。
この琉球の慎重な対応を、島津氏は好機と捉えた。彼らは琉球の「無礼」を口実に、幕府に対して琉球出兵の許可を執拗に願い出た 16 。家康の側から見れば、琉球を介した穏健な外交ルートが機能しない以上、より強硬な手段に切り替えることに合理性があった。島津氏の支配下にある琉球ならば、幕府の意のままに動く、より確実な対明交渉の窓口となりうる。
ここに、島津氏の財政再建という野心と、徳川幕府の対明戦略という国家的利益が、完全に一致した。島津氏は自らの領土的・経済的野心を、幕府の外交問題を解決する手段として巧みに提示したのである。慶長14年(1609年)、家康はついに島津氏の琉球侵攻を正式に許可した 7 。これにより、島津氏の侵攻は、一地方大名の私的な軍事行動から、徳川幕府の権威を背景とした公的な「征伐」へとその性格を変えた。島津が軍事力と口実を提供し、徳川が政治的正統性を与えるという、両者の野心の共生関係が、琉球侵攻の最後の引き金を引いたのである。
第三章:慶長の役―琉球侵攻、そのリアルタイムな時系列
1. 慶長14年3月4日~19日:山川港出港、奄美群島制圧
慶長14年(1609年)3月4日、総大将・樺山権左衛門久高、副将・平田太郎左衛門増宗に率いられた薩摩軍は、兵力3000余、軍船80から100隻以上という陣容で薩摩南端の山川港を出帆した 7 。彼らの最初の目標は、琉球王国の北の玄関口である奄美大島であった。
3月7日、薩摩艦隊は奄美大島に到着する。ここで、侵攻の行方を左右する重要な出来事が起こった。琉球側の防衛拠点であったにもかかわらず、奄美大島では大規模な戦闘は発生しなかったのである 9 。大島の現地首脳(按司)たちは、薩摩軍の圧倒的な軍事力を前に早々に中山王府を見限り、全面的に協力する姿勢を示した。多くの島民は山林に逃げ隠れ、組織的な抵抗は皆無であった 9 。
この奄美大島の早期無血制圧は、薩摩軍にとって計り知れない戦略的価値を持った。戦闘による兵力の消耗を避けることができただけでなく、奄美を侵攻の兵站基地として利用することが可能になったからである。これは、琉球王府の支配力が、その版図の北端までは完全には及んでいなかったという内部の脆弱性を露呈するものであった。薩摩側が事前に諜報活動を行い、現地の有力者との間に何らかの密約を結んでいた可能性も示唆される。いずれにせよ、この最初の成功は、侵攻作戦全体に大きな弾みをつけた。
2. 慶長14年3月20日~28日:徳之島を経て沖縄本島へ
奄美大島を確保した薩摩軍は、次なる目標である沖縄本島へと進軍を続けた。3月16日、先行部隊が徳之島に到着。ここでは一部の島民による抵抗があったものの、薩摩軍はこれを速やかに制圧した 9 。本隊は3月20日に徳之島に合流し、兵を再編成した。
その後、艦隊は奄美と沖縄本島の中間に位置する沖永良部島を経由。3月24日の夜、薩摩軍は夜陰に乗じて一気に沖縄本島を目指して航行した 9 。この夜間航行は、琉球側に奇襲効果をもたらし、防衛体制を整える時間を与えないための計算された作戦であった。
そして3月25日の夕刻過ぎ、薩摩艦隊はついに沖縄本島北部、今帰仁(なきじん)の運天港にその姿を現した 9 。山川港を出てからわずか3週間。島々を次々と制圧しながら進むその驚異的な進軍速度は、琉球王府に組織的な迎撃を許さない、まさに電撃戦(ブリッツクリーグ)と呼ぶにふさわしいものであった。 momentumを維持し、恐怖と混乱を敵に与えるという、戦国時代に培われた実戦的な戦術が遺憾なく発揮されたのである。
3. 慶長14年3月29日~4月5日:今帰仁城陥落から首里城降伏
沖縄本島に上陸した薩摩軍の進撃は、もはや誰にも止められなかった。3月27日、彼らが本島北部の要衝である今帰仁城に到達したとき、城はもぬけの殻であった。守備兵は薩摩軍の接近を知り、戦わずして逃亡していたのである。薩摩軍は無人となった城に火を放ち、王都・首里へと南下を開始した 9 。
この間、狼狽した琉球王府は、かつて島津氏と面識があったという老僧・西来院菊隠を和平交渉の使者として派遣したが、戦線の混乱の中で菊隠は薩摩軍と接触することすらできず、和平の試みは水泡に帰した 9 。
琉球側は本島だけで約4000の兵力を有していたとされるが、その大半は長年の平和に慣れ、実戦経験が皆無の兵であった 17 。一方、薩摩軍は戦国時代を生き抜いた歴戦の兵であり、特に火縄銃の威力は琉球兵の戦意を完全に打ち砕いた。薩摩軍が鉄砲を一斉に放つと、琉球兵は恐慌状態に陥り、競うように逃げ出したと記録されている 17 。
那覇港を制圧し、首里に迫った薩摩軍に対し、もはや組織的な抵抗は不可能であった。4月5日、国王尚寧は万策尽きて降伏を申し入れ、首里城は開城された 7 。奄美大島到着からわずか1ヶ月。琉球王国は、戦国時代の終焉がもたらした圧倒的な軍事力の非対称性の前に、為すすべもなく屈したのである。
第四章:屈服の儀式―尚寧王、江戸への道
1. 捕囚として鹿児島へ、そして駿府・江戸へ
首里城の降伏後、国王尚寧は三人の王子や重臣らと共に捕虜として薩摩へ連行された 17 。これは単なる捕縛ではなく、琉球王国の主権が完全に島津氏の手に落ちたことを象徴する出来事であった。
翌慶長15年(1610年)、尚寧王一行は島津家久(忠恒)に伴われ、日本の中心地へと向かう長い旅に出る。この旅は、屈辱的な捕囚の旅であると同時に、徳川幕府と島津氏が自らの権威を天下に示すための、壮大な政治的パフォーマンスでもあった。尚寧王は道中、金の鳳凰を屋根に飾った豪華な輿に乗ることを許されたが、これは彼の王としての威厳を保つためというよりは、異国の王を従える徳川の威光を沿道の大名や民衆に見せつけるための演出であった 10 。
一行は同年8月、駿府城にて大御所・徳川家康に謁見。続いて9月には江戸城に赴き、二代将軍・徳川秀忠との対面を果たした 10 。この一連の謁見は、琉球が徳川幕府の支配秩序の中に組み込まれたことを内外に宣言する儀式であった。島津氏にとっては、関ヶ原の敗将から一転、幕府の威光を異域にまで及ぼす功労者としての地位を確立する絶好の機会となった 16 。この尚寧王の「江戸上り」は、その後、琉球国王の代替わりや将軍の代替わりの際に、琉球使節が江戸へ赴き将軍に拝謁する「謝恩使・慶賀使」という制度として定着していくことになる 23 。尚寧王の悲痛な旅路は、琉球が日本の幕藩体制下における異国として、その後の250年以上にわたる歴史を歩み始める、屈服の儀式だったのである。
2. 「掟十五ヶ条」の受諾:主権の解体と支配の法的根拠
尚寧王が琉球への帰国を許される前、薩摩において、琉球の未来を決定づける重要な文書への署名が強要された。それが「掟十五ヶ条」と呼ばれる、琉球の主権を根本から制限する一連の誓約書である 11 。
この掟は、琉球支配の基本法典となるものであった。その内容は、琉球の国家主権の根幹を解体するものであった。
- 薩摩の許可なく外国(特に明)と貿易や交渉を行うことの禁止。
- 三司官(宰相)など王府の高官人事に対する薩摩の事実上の監督権。
- 租税の徴収や度量衡を日本の制度に合わせること。
- その他、国内の行政や法制度の細部に至るまで、薩摩の監督下に置くこと。
これらは、琉球の王や政府機構を形式的には存続させつつ、その実権、特に外交権と貿易権という国家の生命線を完全に掌握する、巧妙な間接支配の法的枠組みであった 11 。
この屈辱的な誓約に対し、最後まで署名を拒否し、琉球の独立性を主張したのが、三司官の一人であった謝名親方利山(じゃなうぇーかたりざん)であった。彼はその抵抗の故に薩摩で斬首され、琉球の主権のために殉じた人物として後世に記憶されることになる 12 。他の重臣たちは、国王の身の安全と国家の存続を第一に考え、やむなく署名に応じた。慶長16年(1611年)、これらの誓約を呑んだ尚寧王は、2年半ぶりに故国の土を踏むことを許された 12 。彼の帰国は、独立王国としての琉球の終焉と、薩摩の実質的支配下にある新たな統治体制の始動を意味していた。
第五章:統治の実務化―琉球在番の設置と支配システム
1. 1611年:尚寧王の帰国と新たな統治体制の始動
慶長16年(1611年)は、ユーザーの当初の問いにあるように、琉球の歴史における極めて重要な年である。この年、尚寧王が帰国したことで、「掟十五ヶ条」に定められた新たな支配体制が、名実ともに発効した。この時点をもって、薩摩による琉球の間接統治が実質的に始まったと見なすことができる。
ここで重要なのは、1611年という年が、物理的な施設や役職の設置年というよりも、支配の「システム」すなわち「ソフトウェア」が導入された年であるという点である。王は薩摩への服従を誓約しており、王府の政策は常に薩摩の意向を忖度せざるを得なくなった。この目に見えないが絶対的な権力構造の確立こそが、「在番設置」の本質的な意味であった。
2. 在番奉行所の設置と機能
掟十五ヶ条という「ソフトウェア」を確実に機能させるためには、それを現地で監督・実行する「ハードウェア」が必要であった。その役割を担ったのが、後に那覇に設置される薩摩藩の出先機関、在番奉行所である。
この恒久的な役所、すなわち「在番奉行所(通称:在番仮屋、大仮屋)」が那覇の港に近い地に物理的に建設されたのは、体制発足から少し遅れた寛永5年(1628年)のことである 13 。この奉行所は、以後、明治維新に至るまでの約250年間、薩摩による琉球支配の神経中枢として機能し続けた 14 。
奉行所には、「在番奉行」と呼ばれる責任者を筆頭に、附役などの補佐役を含め、常時20名程度の薩摩藩士が駐在していた 13 。初代の在番奉行には、川上忠通が任命された記録が残っている 25 。彼らの主な職務は、薩摩藩と琉球王府間のあらゆる公務の処理、そして何よりも重要な、琉球が行う全ての貿易の管理・監督であった 13 。
在番奉行は、決して大規模な軍事力を背景とした威圧的な存在ではなかった。むしろ、少人数の行政・諜報機関として機能した。その権力の源泉は駐在する藩士の数ではなく、その背後に控える島津氏、そしてさらにその上に君臨する徳川幕府の絶対的な権威であった。在番奉行は、琉球王府の動向を監視し、掟が遵守されているかを確認し、そして最も重要な、琉球貿易から得られる富が確実に薩摩の金庫に流れ込むように監督する、「薩摩の目」そのものであった。この在番奉行の存在こそが、間接支配という巧妙なシステムを支える要石だったのである。
第六章:その後の琉球―両属と収奪の時代
1. 偽装の外交:日中両属と「薩摩隠し」
薩摩の支配下に入った後も、琉球王国は中国(明、のちの清)との朝貢関係を維持し続けた。これは、琉球にとって最も利益の大きい交易ルートを確保するためであり、薩摩にとってもその利益を吸い上げる上で不可欠であった 26 。この結果、琉球は日本(薩摩)に実質的に支配されながら、中国には形式的に朝貢するという、世界史的にも稀な「日中両属」という特殊な地位に置かれることになった 26 。
この二重の従属関係を維持するため、琉球では巧妙な「偽装工作」が常態化した。中国から国王を任命するための使節団「冊封使」が来琉する際には、徹底した「薩摩隠し」が行われた。在番奉行所の役人たちは一時的に身を隠し、日本風の習慣や文物はすべて撤去され、琉球はあたかも独立した明の忠実な朝貢国であるかのように振る舞ったのである 28 。
この地政学的なパフォーマンスは、関係する三者それぞれにとって実利的な意味を持っていた。薩摩と徳川幕府にとっては、公式には禁じられていた対中貿易の利益を、琉球を代理人とすることで享受できるという利点があった。琉球にとっては、外国による支配という厳しい現実の中で、伝統的な文化的アイデンティティと経済の生命線をかろうじて維持するための、苦渋に満ちた生存戦略であった。この欺瞞に満ちた繊細なバランス感覚こそが、近世琉球の外交を特徴づけるものであり、その後の250年間の国際的地位を規定したのである。
2. 黒糖地獄:薩摩藩財政を支えた経済的収奪構造
琉球侵攻の最大の目的は、その富の収奪にあった。薩摩藩は、琉球の主要産品を藩の専売制下に置き、徹底的な経済的搾取を行った。その象徴が、サトウキビから作られる黒糖の専売制度である 29 。
薩摩藩は、琉球や奄美群島の農民に対し、米などの主食の栽培を犠牲にしてでもサトウキビの作付けを強制した 30 。収穫されたサトウキビから作られた黒糖は、すべて藩が定めた不当に安い価格で強制的に買い上げられ、大坂などの日本の市場で高値で転売された 31 。この差益は莫大なものとなり、破綻寸前であった薩摩藩の財政を劇的に立て直した。特に、幕府から命じられた木曽川治水工事などで膨れ上がった巨額の借財の返済にも、この黒糖による利益が充てられた 31 。
しかし、その富は生産者である島民の過酷な労働と犠牲の上に成り立っていた。重労働と厳しい取り立てにより、島民の生活は極度に困窮し、この状況は後に「黒糖地獄」と呼ばれるようになった 32 。在番奉行所を中心とする支配システムは、この非情な経済収奪を効率的に行うための行政ツールとして機能した。琉球と奄美の農民から搾り取られた富は、島津氏を財政危機から救っただけでなく、幕末には日本で最も裕福で強力な藩の一つへと押し上げ、後の明治維新で主導的な役割を果たす原動力ともなったのである。
3. 近世琉球の形成と琉球処分への道
薩摩の支配という新たな現実に直面した琉球内部では、新しい時代に適応するための政治思想が生まれた。17世紀半ばに摂政として国政改革を担った羽地朝秀(唐名は尚象賢)は、もはや薩摩への抵抗は不可能であると判断し、現実的な協調路線を推進した 34 。
羽地は、薩摩との関係を円滑にし、その支配を琉球内部で正当化するため、巧みなイデオロギーを構築した。彼が編纂を命じられた琉球初の正史『中山世鑑』において、琉球の初代王・舜天は日本の源為朝の子であるとする「日琉同祖論」を前面に押し出したのである 35 。これは、琉球と日本が元来同祖であるという歴史観を提示することで、薩摩による支配を、異民族による征服ではなく、本家による分家の指導という形に読み替えようとする試みであった 35 。
この羽地の現実主義的な政策は、その後の琉球の政治思想の基調となった。そして、この薩摩による250年以上にわたる実質的な支配は、日本が琉球に対して宗主権を持つという強力な歴史的既成事実を築き上げた。19世紀後半、明治政府が近代的な中央集権国家を建設する過程で、琉球王国を完全に日本に併合しようとした際、この長い支配の歴史は、その行動を正当化する最大の根拠となった。1879年の「琉球処分」(沖縄県設置)は、新たな侵略行為というよりは、1609年以来続いてきた支配関係を最終的に公式化する手続きと見なされたのである 38 。1611年に始まった在番による統治体制は、琉球王国の最後の息の根を止める「琉球処分」へと至る、不可逆的な道のりの第一歩だったのである。
結論:戦国の終焉がもたらした琉球王国の運命
慶長16年(1611年)の琉球在番設置は、日本の戦国時代の動乱が、その幕引きとして、隣接する平和な海洋王国にもたらした必然的な帰結であった。日本列島が豊臣、そして徳川という強力な中央集権体制の下で統一されたことは、その巨大なエネルギーを外部へと向かわせる潜在力を生み出した。
その実行者となったのが、戦国時代の過酷な生存競争を勝ち抜いた島津氏であった。彼らは、戦国的な武勇と領土拡大の論理を体現する存在でありながら、関ヶ原の戦いを経て、平和な徳川の世における経済的危機という新たな課題に直面していた。もはや日本国内で領土を拡張することが不可能となった強力な地方勢力が、その軍事的エネルギーを国外に向けたとき、その最初の標的が琉球となったのである。
琉球在番という統治システムは、まさに江戸時代初期という時代の産物であった。それは、武力による征服という戦国的な手法と、現地の統治機構を温存しつつ経済的実利を最大化するという、近世的な間接支配の論理が融合した、洗練された収奪の仕組みであった。これにより、徳川幕府が築いた新たな平和秩序は、前時代の武の遺産を巧みに利用し、琉球の富を享受することができた。
この1611年の体制変革は、琉球王国の運命を決定的に封印した。それは、王国を268年間にわたる日中両属という苦難の道へと導き、最終的には近代日本国家への完全な併合という結末を用意した。現代に至る沖縄の歴史的苦悩の深層には、日本の戦国時代の終焉がもたらした、この琉球侵攻と在番設置という原体験が、今なお重い影を落としているのである。
引用文献
- 秀吉と島津氏と琉球の関係 - 沖縄の歴史 http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch3/shinryaku_1.html
- 庆长琉球之役 - 维基百科 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%85%B6%E9%95%B7%E7%90%89%E7%90%83%E4%B9%8B%E5%BD%B9
- 琉球侵攻と 明關係 - Kyoto University Research Information Repository https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstreams/03f743ec-54f5-4206-8339-89204b13f724/download
- 関ヶ原の戦い - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/sekigahara/index.html
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