甲府城築城(1590)
天正18年、豊臣秀吉は徳川家康の関東移封後、甲斐に甲府城を築城。武田氏の統治思想を否定し、石垣と最新技術で豊臣の権威を誇示。対家康の最前線基地として、天下統一後の政治的緊張を象徴した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
甲府城築城(1590年):戦国終焉の象徴と天下人の対峙
序章:天正十八年、甲斐国における新時代の幕開け
天正十八年(1590年)、甲斐国府中にその槌音を響かせ始めた甲府城の築城は、単に一つの城郭が建設されるという事象に留まらない。それは、戦国大名・武田氏が百年にわたり築き上げた統治の理念と体制に終止符を打ち、天下人・豊臣秀吉による新たな支配秩序をこの地に刻印する、画期的な事変であった。武田氏の滅亡からわずか8年、甲斐の地は、戦国時代の終焉と、それに続く新たな時代の幕開けを、この巨大な石垣の城郭をもって象徴的に示すこととなったのである。
本報告書は、この甲府城築城がなぜ天正十八年という特定の時期に、誰の、そしていかなる戦略的意図のもとで開始されたのかを、当時の緊迫した政治・軍事情勢のダイナミズムの中に正確に位置づけ、その経緯を時系列に沿って徹底的に解き明かすものである。武田信玄が唱えた「人は城、人は石垣、人は堀」という思想から、豊臣政権が誇示した圧倒的な権力と最新技術の結晶としての近世城郭へ。甲斐国の支配構造と統治理念が、この築城事業を通じていかに劇的に刷新されたのかを、城郭という揺るぎない物的な証拠から深く読み解くことを目的とする。
第一章:築城前夜 ― 武田氏滅亡後の甲斐国(天正10年~18年 / 1582-1590)
武田氏の遺産と権力の空白
甲府城築城の背景を理解するためには、時計の針を天正十年(1582年)まで巻き戻さねばならない。この年の3月、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、戦国屈指の強国であった武田氏は滅亡の時を迎えた 1 。甲斐国は信長の支配下に入り、その家臣・川尻秀隆が統治者として着任する。しかし、その支配は長くは続かなかった。同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、甲斐国は再び激動の渦に巻き込まれる。信長という絶対的な権力者を失った甲斐では、武田氏旧臣らによる国人一揆が蜂起し、川尻秀隆は討死。これにより、甲斐は突如として権力の空白地帯と化した 2 。
この千載一遇の好機を逃さなかったのが、隣接する大国、徳川家康と後北条氏であった。両者は武田の旧領を巡って軍事的に激突する。世に言う「天正壬午の乱」である。数か月にわたる攻防の末、徳川家康が最終的に甲斐国をその勢力圏に収めることに成功し、8年間にわたる徳川統治の時代が始まった 2 。
徳川家康による甲斐統治(1582-1590)
甲斐国を掌握した家康の統治は、巧みなものであった。彼は武田氏の旧臣を積極的に登用して人心の掌握に努め、統治の拠点としては、武田信虎、信玄、勝頼の三代が居館とした躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)をそのまま使用した 3 。これは、武田氏以来の統治体制を継承する姿勢を示すことで、領国の安定を早期に図る狙いがあったと考えられる。
そして、この新たな領国の実質的な管理を任されたのが、家康最古参の重臣である平岩親吉であった 4 。親吉は城代として甲府に入り、家康の意を受けて甲斐の統治にあたった 1 。家康の統治下で、甲斐国はひとまずの平穏を取り戻したのである。
新たな城郭への布石
しかし、家康は現状に満足してはいなかった。彼の統治は武田氏の旧体制を巧みに利用するものであったが、戦国を生き抜いてきた稀代の戦略家として、躑躅ヶ崎館が防衛拠点としては極めて脆弱であることを見抜いていた。躑躅ヶ崎館は、あくまで政務を執り行う「館」であり、背後の要害山城に籠城することを前提とした中世的な防衛思想に基づいていた 5 。石垣を多用し、城そのものが巨大な要塞となる近世城郭とは、その概念を根本的に異にする。
この弱点を家康が認識していたことを示す明確な証拠が存在する。天正十七年(1589年)、家康は浄居寺城の大規模な修築を命じているのである 6 。これは、来るべき新たな時代に対応するため、甲府盆地における防衛体制の近代化、すなわち近世的な城郭の必要性を家康自身が具体的に構想し、すでに行動に移していたことを示唆している。この事実を踏まえると、甲府に近世城郭を築くという発想そのものは、豊臣秀吉が最初ではなく、統治者であった徳川家康が先んじていた可能性が高い。後に秀吉が命じる甲府城築城は、この家康による布石の上に、全く異なる戦略的意図と、比較にならないほどの壮大な規模をもって開始されることになるのである。
第二章:激動の天正十八年 ― 小田原征伐と徳川家康の関東移封
天正十八年(1590年)は、日本の歴史が大きく動いた年であった。この年の出来事が、甲府城築城の直接的な引き金となる。
天下統一の最終章
この年、関白・豊臣秀吉は、天下統一事業の総仕上げとして、関東に覇を唱える後北条氏の討伐を決定する。いわゆる小田原征伐である 7 。秀吉は総勢20万とも22万ともいわれる空前の大軍を動員し、北条氏の本拠・小田原城を包囲した 8 。
この一大決戦において、徳川家康は豊臣軍の中核を担う存在であった。彼は3万の軍勢を率いて東海道の先鋒を務め、箱根の天険に築かれた北条方の重要拠点・山中城をわずか一日で攻略するなど、その軍事的能力を遺憾なく発揮した 10 。家康の活躍は、豊臣連合軍の士気を大いに高め、小田原城の包囲網を一層強固なものにした。
水面下の策謀 ― 関東移封の内示と決定
しかし、この戦役の裏では、日本の勢力図を根底から塗り替える巨大な政治的策謀が進行していた。小田原城の包囲が続く5月27日、秀吉は家康に対し、驚くべき内示を伝える。それは、戦後、北条氏が支配してきた関八州(関東一円)を与え、その代わりに現在領有する東海五カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)を手放すようにという、大規模な領地替え(国替え)の命令であった 9 。
これは、表向きには家康の戦功に対する破格の恩賞であった。しかし、その真意は、家康を先祖代々の地盤から引き離し、旧北条領という統治の難しい土地に封じ込めることで、その強大すぎる力を削ぎ、豊臣政権の安定を図るという秀吉の深謀遠慮にあった 8 。この国替えの噂は、公式発表の前からすでに陣中に広まりつつあった。家康の家臣・松平家忠が記した日記『家忠日記』の6月20日の条には、「国替わり近日の由」との記述が見られ、徳川家中が固唾をのんで事の推移を見守っていた緊迫した状況がうかがえる 12 。
そして天正十八年(1590年)7月5日、約3か月の籠城の末に北条氏は降伏 9 。同月13日、秀吉は陥落した小田原城内において、家康の関東への移封を公式に発表した 12 。この決定により、家康が8年間にわたり統治してきた甲斐国は豊臣政権の直轄管理下に置かれることとなり、甲府城築城の舞台は完全に整ったのである。
表1:甲府城築城を巡る関連年表(天正10年~慶長6年 / 1582-1601)
年/月 |
甲斐国の動向 |
中央の動向 |
甲府城の状況 |
1582/3 |
武田氏滅亡 |
- |
築城前(武田氏館) |
1582/6 |
天正壬午の乱、徳川家康が掌握 |
本能寺の変 |
築城前(徳川統治) |
1590/2-7 |
徳川統治の終焉 |
小田原征伐 |
築城前夜 |
1590/7 |
豊臣政権下へ、羽柴秀勝入封 |
秀吉天下統一、家康関東移封 |
築城開始 |
1591/- |
加藤光泰入封 |
- |
築城本格化 |
1592/- |
- |
文禄の役 |
普請継続 |
1593/- |
浅野長政・幸長入封 |
- |
普請継続 |
1600/9 |
- |
関ヶ原の戦い |
豊臣系大名による統治 |
1601/- |
徳川方・平岩親吉が再入部 |
徳川家康が天下人へ |
徳川方の手に渡る |
第三章:戦略拠点としての甲府城 ― 築城の目的と豊臣秀吉の対家康戦略
徳川家康の関東移封に伴い、甲斐国は豊臣政権の新たな支配地となった。そして秀吉は、間髪を入れずにこの地で壮大な築城事業を開始する。その背後には、天下人としての冷徹な戦略的計算があった。
「対家康」の最前線基地
関東に移った家康は、石高250万石ともいわれる広大な領地を支配する、名実ともに秀吉に次ぐNo.2の大名となった。秀吉にとって家康は、最も信頼できる同盟者であると同時に、ひとたび敵対すれば政権を揺るがしかねない最大の潜在的脅威でもあった。
甲斐国は、その家康の新たな本拠地である江戸、そして広大な関東平野の西の玄関口に位置する。地理的に見て、関東を抑えるための、あるいは関東から西国へ進出するための、極めて重要な戦略的要衝であった 14 。甲府城築城の最大の、そして最も直接的な目的は、この「関東の徳川家康」を常に監視し、その動向に睨みを利かせ、有事の際にはその動きを封じ込めるための、豊臣方の強力な軍事拠点・最前線基地を構築することにあったのである 13 。
統治理念の転換と権威の象徴
甲府城の建設は、単なる軍事施設の設置という実利的な目的だけに留まらなかった。それは、甲斐国の統治理念そのものを根本から覆し、豊臣政権の絶対的な権威を誇示するための、極めて象徴的な事業でもあった。
かつて甲斐を支配した武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という有名な言葉を残している 5 。これは、国家の強さは堅固な城郭ではなく、そこに住む人々の結束力と忠誠心にあるという思想の表明である。この思想を体現するかのように、武田氏の本拠地であった躑躅ヶ崎館は、広大な堀と土塁を持つものの、あくまで政庁としての機能が主であり、防御機能の多くを背後の山城に依存する中世的な「館」であった 17 。
これに対し、秀吉が建設を命じた甲府城は、全く異なる思想の産物であった。独立丘陵を削り、巨大な石垣を幾重にも巡らせ、複雑な虎口(城門)を備えた、城そのものが一個の巨大な要塞となる「近世城郭」である 19 。これは、人の力ではなく、圧倒的な権力と富、そして最新の築城技術という「物」の力によって領地を支配するという、織田・豊臣政権の統治哲学そのものであった。
この二つの城郭の思想と形態の対比は、あまりにも鮮やかである。秀吉は、甲府城という巨大な近世城郭を建設することで、武田氏の遺産を物理的にも思想的にも過去のものとして葬り去り、豊臣政権の絶対的な権威を甲斐の民衆や旧武田家臣団に有無を言わさず見せつけようとしたのである。それは、甲斐国の意図的な「脱・武田化」であり、強制的な「豊臣化」の断行であった。
豊臣恩顧大名の配置
この対家康戦略の最重要拠点には、秀吉が最も信頼を置く人物が配置された。築城開始時の城主には、秀吉の甥であり養子でもあった羽柴秀勝が就任 1 。その後も、歴戦の譜代家臣である加藤光泰、そして政権中枢を担う五奉行の一人、浅野長政・幸長親子といった、豊臣恩顧の大名が相次いで城主を務めた 19 。これは、甲斐国を確実に豊臣政権の掌中に収め、対家康の睨みを効かせるための、盤石な人事戦略に他ならなかった。
第四章:普請の槌音 ― 豊臣大名による築城事業の継承と展開(天正18年~慶長5年 / 1590-1600)
甲府城の築城は、一人の城主によって成し遂げられたものではなく、秀吉の巧みな人事戦略のもと、複数の豊臣系大名によるリレー形式で推進された巨大国家プロジェクトであった。
表2:豊臣政権下における甲府城主の変遷と役割
城主 |
在任期間 |
出自・秀吉との関係 |
主な役割 |
羽柴秀勝 |
1590-1591 |
甥(養子) |
①要地の親族による確保と築城着手 |
加藤光泰 |
1591-1593 |
歴戦の譜代家臣(美濃衆) |
②本格的な普請と領国経営の基盤構築 |
浅野長政・幸長 |
1593-1600 |
側近・五奉行 |
③大規模普請の継続と城郭の完成 |
築城のリレー
上記の表が示す城主の変遷は、単なる偶然や場当たり的な人事の結果ではない。それは、築城という巨大プロジェクトを確実に推進するための、秀吉の計算され尽くした戦略的人事であったと分析できる。
まず、プロジェクトの初期段階では、秀吉の甥である羽柴秀勝を配置することで、家康退去後の甲斐国を政治的に確実に掌握し、築城事業を滞りなく始動させた。次に、築城が本格化する段階では、賤ヶ岳の戦いなどで数々の武功を挙げた歴戦の武将・加藤光泰を投入。彼の持つ実務能力と軍事的な知見を活かし、普請を軌道に乗せると同時に、領国経営の基盤固めも進めさせた。そして、光泰の急死という不測の事態を受けては、政権の中枢で行政手腕を振るっていた五奉行・浅野長政を送り込み、プロジェクトの総仕上げと完成を託した。
このように、①親族による要地の確保、②実務能力の高い武将による基盤構築、③政権中枢の腹心による総仕上げという流れは、プロジェクトの各フェーズで求められる能力と、投入された人材の特性が見事に合致している。情勢の変化に柔軟に対応しながら、巨大国家事業を着実に推進した秀吉の卓越したプロジェクトマネジメント能力が、この築城のリレーから浮き彫りになる。
各時代の詳細
-
羽柴秀勝期(1590-1591年)
天正十八年(1590年)7月、家康の関東移封に伴い、最初の甲府城主として入封したのは羽柴秀勝であった 1。彼は織田信長の四男であったが、秀吉の養子となっていた人物である 20。秀吉は、この対家康の最重要拠点を、まずは信頼できる親族に任せることで、確実な支配の第一歩とした。秀勝の時代に、甲府城の縄張りが決定され、普請が開始されたと考えられる。しかし、翌天正十九年(1591年)には美濃国岐阜へ移封となり、その在任期間は短いものとなった 1。 -
加藤光泰期(1591-1593年)
秀勝に代わって甲斐24万石の領主となったのが、加藤光泰である 21。光泰は斎藤氏の家臣から秀吉に仕え、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いなどで功を挙げた、叩き上げの歴戦の武将であった 23。彼の時代に甲府城の築城は本格化し、石垣普請などが大きく進展したとみられる 19。また、光泰は領内の検地を実施するなど、甲斐国の領国経営の基盤固めにも着手しており、秀吉の期待に応える働きを見せた 14。しかし、文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると朝鮮へ渡海。翌文禄二年(1593年)、陣中にて病に倒れ、その生涯を閉じた 1。 -
浅野長政・幸長期(1593-1600年)
光泰の死後、甲斐国と甲府城築城の事業を引き継いだのが、豊臣政権の五奉行の一人として権勢を誇った浅野長政と、その子・幸長であった 15。政権の中枢を担う浅野氏が投入されたことで、甲府城の普請は国家的な支援のもとでさらに大規模に進められ、この時代に城の主要な部分が完成したと考えられている 13。特に、文禄・慶長の役から帰国した幸長が、朝鮮半島で見聞した築城技術、例えば滴水瓦(てきすいがわら)などを甲府城に取り入れた可能性も指摘されており、興味深い 25。浅野氏による支配は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いまで続くことになる。
第五章:新時代の要塞 ― 甲府城の構造と先進技術
豊臣大名たちの手によって築かれた甲府城は、当時の日本の築城技術の粋を集めた、まさに新時代の要塞であった。その構造と技術には、豊臣政権の権力と先進性が如実に表れている。
縄張 ― 織豊系城郭の粋
甲府城は、甲府盆地北部に位置する独立丘陵「一条小山」の地形を巧みに利用して設計された「平山城」である 19 。城の最高所に天守台と本丸を置き、そこから人質曲輪、二の丸、稲荷曲輪、鍛冶曲輪などを階層的に、かつ複雑に配置している 26 。このような、地形に沿って複数の曲輪(区画)を立体的に組み合わせることで防御力を高める縄張(設計)は、織田信長の安土城以降に発展した「織豊系城郭」の典型的な特徴であり、甲府城が当時の最先端の設計思想に基づいて築かれたことを示している 4 。
石垣 ― 西国からもたらされたテクノロジー
甲府城の最大の特徴であり、その権威を最も雄弁に物語るのが、城全体を鎧のように覆う壮大な石垣である。この石垣は、単なる防御壁ではない。それは、豊臣政権の権力が及んだ範囲と、それに伴う最先端技術の移転を物語る、動かぬ物証なのである。
甲府城の石垣には、自然石をほとんど加工せずに巧みに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という技法が全面的に採用されている 28 。この技法は、近江(現在の滋賀県)の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が得意としたことから「穴太積み」とも呼ばれ、織田・豊臣政権下で西国を中心に急速に発展した最新技術であった 30 。それ以前の甲斐国、すなわち武田氏時代の城郭には、このような大規模な総石垣の城は存在しない。この事実は、甲府城の築城が、中央政権の直接的な管理のもと、西国から動員された高度な技術者集団によって行われたことを明確に示している。豊臣政権の軍事力や政治力だけでなく、その技術力が東国にまで及んだ具体的な証拠が、この石垣なのである。
石材は、城内の鍛冶曲輪に残る石切場跡や 31 、城の北東に位置する愛宕山から産出された安山岩が主に使用された 29 。石垣の随所には、巨石を割るために楔を打ち込んだ痕跡である「矢穴(やあな)」や、一つの石を二つに割って隣り合わせに積んだ「兄弟石」が数多く確認できる 31 。これは、豊富な石材が城の近傍で効率的に調達・加工され、普請が進められたことを示している。
その規模も圧巻であり、最も高い部分では約17メートルにも達する高石垣は、築城当時の東日本では最大級のものであった 27 。また、構造的に弱点となりやすい石垣の隅角部には、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む「算木積み(さんぎづみ)」という技法が用いられ、強度を飛躍的に高めている 31 。
防御施設 ― 侵入者を阻む巧妙な仕掛け
甲府城には、敵の侵入を阻み、これを撃滅するための巧妙な防御施設が随所に設けられていた。
その代表格が、城の主要な出入り口である山手御門などに採用された「枡形虎口(ますがたこぐち)」である 35 。これは、第一の門(高麗門)と第二の門(櫓門)を直角に配置し、その間を石垣で囲んで四角い空間(枡)を造り出す構造を持つ 26 。攻め寄せた敵兵をこの枡形空間に誘い込み、三方向の石垣や櫓の上から鉄砲や弓矢による集中砲火を浴びせて殲滅するための、極めて殺傷能力の高い防御施設であった 38 。
さらに、城の中枢部である内城(うちじろ)は内堀で、その外側の武家地は二ノ堀で、さらに外側の町人地は三ノ堀で囲まれるという、三重の堀によって守られていた 13 。この鉄壁の防御網は、敵が容易に城の中枢へ到達することを許さなかった。
天守の謎 ― 存在したか、しなかったか
本丸の東側には、今なお壮大な天守台がその姿を残している。しかし、この天守台の上に、城の象徴である天守が実際に建てられたかどうかについては、確たる史料がなく、専門家の間でも意見が分かれている 6 。
天守が「存在した」とする説の最大の根拠は、城跡からの出土品である。発掘調査では、豊臣系の城郭、例えば大坂城や伏見城、駿府城などで見られる金箔を施した巨大な鯱瓦が複数発見されている 25 。鯱瓦は天守や重要な櫓の屋根を飾るものであり、特に金箔瓦は豊臣政権の権威を象徴するものであった。このような壮麗な瓦の存在は、甲府城にも天守のような権威的で壮大な建物が存在したことを強く示唆している。
一方で、天守の姿を描いた信頼できる絵図などの文献史料が確認されていないことから、「存在しなかった」とする説や、城内にあった月見櫓などが実質的な天守の役割を代用していたのではないか、という説もある 40 。甲府城の天守の有無は、今なお残る最大の謎の一つである。
結論:1590年築城の歴史的意義と遺産
天正十八年(1590年)に始まった甲府城の築城は、甲斐国の歴史、ひいては日本の戦国史における一つの転換点を象徴する出来事であった。
第一に、それは甲斐国における統治思想の完全なパラダイムシフトを意味した。武田氏が百年にわたり培ってきた、「人」の結束と忠誠心に依存する中世的な統治・防衛思想は、この築城によって完全に過去のものとされた。それに代わって甲斐の地を支配したのは、石垣と堀という圧倒的な「物」の力、すなわち軍事力と経済力、そして最新技術に裏打ちされた、豊臣政権による近世的な統治・防衛思想であった。甲府城は、その思想の転換を体現する巨大なモニュメントなのである。
第二に、この城の存在そのものが、天下統一後の豊臣政権が内包していた深刻な政治的緊張を物語っている。天下統一が成り、表面的には平和が訪れたはずの時代に、これほど巨大で堅固な城郭が、対家康という明確な軍事目的を持って築かれたという事実。これは、天下人・秀吉の、最大の実力者である家康に対する根深い不信感と警戒心が、政権の安定期にあっても常に渦巻いていたことを示す、石垣でできた動かぬ証拠である。秀吉は、家康を関東に封じ込めただけでは安心できず、その喉元に甲府城という刃を突きつける必要があったのだ。この城の存在そのものが、秀吉死後の天下の動乱、そして豊臣と徳川の最終決戦である関ヶ原の戦いへと続く、歴史の巨大な伏線となっていたと言っても過言ではない。
豊臣の城として生を受けた甲府城は、関ヶ原の戦いの後、徳川の手に渡る。江戸時代には、将軍家の親藩や譜代大名が城主を務め、江戸の西側を守る幕府の重要拠点として、また万一の際の将軍の避難場所としての役割も担うなど、その戦略的重要性は保たれ続けた 41 。明治維新を経て廃城となり、多くの建物は失われたが 1 、その壮大な石垣は奇跡的に残り、今日に至っている。
現在、甲府駅の南側に広がる舞鶴城公園として親しまれるこの城跡。電車の車窓からも望むことができるその威容は、戦国末期の激動の時代、天下の覇権を巡る武将たちの冷徹な戦略、そして日本史の一大転換点を、400年以上の時を超えて我々に力強く語りかけているのである。
引用文献
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- 徳川家康の「小田原合戦」|家康が関東転封になった秀吉の北条征伐【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1131745
- 【どうする家康】秀吉に「関東左遷」された家康が大喜びした理由とは? - ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/329581
- 秀吉の策略か? 家康の慧眼か?―徳川が江戸を本拠とした理由 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12009/
- なぜ豊臣秀吉は徳川家康を関東に移したのか⁉そしてなぜ家康は江戸を本拠にしたのか? https://www.rekishijin.com/31754
- どうする家康37話 小田原合戦と関東移封/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/111376/
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 桜の名所、甲府城〜武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康。甲斐の国と城は名将と共に - 週末はじめました。 https://www.ritocamp.com/entry/31
- 武家家伝-加藤光泰家 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katou_m.html
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- 甲府城の歴史~徳川家康に対抗するために築城された! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/18415/
- 【これを読めばあなたも行きたくなる!甲府城連載企画 vol.1】甲府城をつくったのは誰? - 山梨 https://www.yamanashi-kankou.jp/special/history/kofujo_01.html
- 第2章 甲府城跡の概要 - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/95986/kofujyo_2-1.pdf
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- 加藤清正の恩人、加藤光泰の生涯と魅力 - 大河ドラマや信長の野望で知る戦国武将 - ツクモガタリ https://tsukumogatari.hatenablog.com/entry/2019/09/20/223000
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- 甲府城(舞鶴城) - 山梨県 https://yamanashi.mytabi.net/kofu-castle-maizuru-castle.php
- 甲府城 ー 高さは東日本最大級を誇る約400年前の野面積みの石垣に圧倒される - HKPツアーズ https://hkpt.net/event/kofu-castle/
- 甲府城跡の石垣にみられる矢穴 - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/ko-fu_zyou/jonai_tanken/jonaitanken_yaana.html
- 【甲府城連載企画 vol.5】甲府城の石垣の石は、どこから来たのか? - 山梨 https://www.yamanashi-kankou.jp/special/history/kofujo_05.html
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- 甲府城|日本百名城 - 城Trip(しろトリップ) https://shiro-trip.com/shiro/kofu/
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- 県史跡 甲府城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/koufujyo.htm