盛岡町割整備(1599)
慶長4年、秀吉死後、南部信直は広大化した領国統治のため、不来方(盛岡)へ本拠地移転を決断。浅野長政の助言を得て、水運と防御に優れた地に城下町を整備し、南部氏の近世大名化を図った。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長四年、盛岡の誕生:南部信直のグランドデザインと城下町割のリアルタイム分析
序章:時代の転換点に立つ南部氏
慶長四年(1599年)は、日本の歴史が大きく動いた転換期であった。前年の慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が逝去し、その強大なカリスマによって辛うじて保たれていた天下の均衡は崩れ始めた。五大老筆頭の徳川家康が台頭し、諸大名がその去就を固唾をのんで見守る中、日本全土は再び動乱の予兆に満ちていた。この中央の緊迫した空気は、遠く奥州の地にも確実に伝播しており、各大名家は自らの存亡をかけた次なる一手を模索していた。
このような激動の時代にあって、陸奥国を本拠とする南部氏もまた、大きな内部変革と新たな領国経営の課題に直面していた。その直接的な契機となったのが、慶長四年のわずか8年前に終結した「九戸政実の乱」(天正19年、1591年)である 1 。この乱は、南部一族内での長年にわたる家督争いと権力闘争の最終決戦であったが、南部氏26代当主・南部信直が豊臣秀吉の中央軍を巧みに利用して鎮圧したことで、単なる内紛以上の意味を持つこととなった 3 。これにより、南部氏の当主権力は飛躍的に強化され、戦国大名としての統治体制が確立されたのである。
乱の鎮圧後、信直はその功績によって和賀・稗貫・紫波といった広大な南方の領地を新たに与えられ、南部氏の版図は大きく南進した 1 。しかし、この領土拡大こそが、南部氏にとって新たな戦略的課題を突きつけることになる。従来の拠点であった三戸城(現在の青森県三戸町)は、鎌倉時代以来の名族としての歴史を誇る地であったが、新生南部領においてはあまりに北に偏りすぎていた 5 。南に拡大した広大な領国を効率的に統治し、また伊達政宗など南方の競合大名に対峙するには、三戸は地政学的にあまりにも不便な場所となっていたのである。
したがって、盛岡への本拠地移転とそれに伴う新城下町の建設は、単なるインフラ整備事業ではなかった。それは、九戸政実の乱という大きな戦後処理を経て再定義された「新生南部領」の統治体制を確立するための、極めて高度な政治的・象徴的プロジェクトであった。旧来の勢力や中世的な一族連合体としてのしがらみを断ち切り、信直を絶対的な頂点とする近世的な大名領国へと脱皮する。そのための新たな器として、全く新しい地に、中央集権的な思想に基づく新たな政治・経済の中心地を創造する必要があった。1599年の「盛岡町割整備」は、まさにその壮大なグランドデザインの第一歩だったのである。
第一部:新時代の要請と「不来方」という選択
広大化した領国を統治するための新たな拠点として、なぜ「不来方(こずかた)」と呼ばれた地が選ばれたのか。その背景には、中央政権の重臣による的確な助言と、南部信直自身の未来を見据えた卓越したビジョンが存在した。
中央からの助言:浅野長政の慧眼
不来方への遷都を決定づける上で重要な役割を果たしたのが、豊臣政権の重臣たちの存在であった。特に九戸政実の乱の鎮定後、軍監として奥州に下向していた浅野長政(長吉)や蒲生氏郷は、南部信直に対し、新たな本拠地の必要性を説いた 5 。彼らは中央の視点から、従来の拠点である九戸城(乱後に信直が一時的に居城とした福岡城)や三戸城が、領国の北辺に過ぎ、防衛には有利でも経済的発展には乏しい山間地であることを指摘した 5 。そして、来るべき太平の世においては、軍事拠点としての機能だけでなく、領国全体の経済と交通を掌握できる要衝にこそ、新たな城を築くべきだと強く推奨したのである 9 。
不来方のポテンシャル:水運と防御の要
浅野長政らが着目し、信直が決断した不来方の地は、まさに新時代の要請に応える絶好の立地であった。この地は、東北地方の大動脈である北上川と、支流の中津川が合流する地点に突き出した丘陵地であり、二つの川が天然の堀として機能する、防御性に優れた地形を有していた 7 。
しかし、それ以上に重要だったのが、水運の利便性である。北上川舟運は、領内で産出される米や物資を集積し、石巻などを経由して江戸や大坂といった中央市場へ輸送するための生命線であった 11 。この水運の結節点に新たな政治・経済の中心を置くことは、後の盛岡藩の経済的繁栄を約束する上で不可欠な要素であった 9 。
信直のグランドデザイン:未来への投資
信直は、これらの助言と地の利を総合的に判断し、不来方への本拠地移転という一大事業を決断する。当時、この地は湿地帯が広がる未開の地であり、その開発には莫大な費用と労力、そして時間が必要であった 5 。それでもなおこの地を選んだという事実は、信直が目先の利便性だけでなく、数百年先を見据えた藩の恒久的な中心地を創造するという、壮大な都市計画のビジョンを持っていたことを示している 10 。
この選択は、南部氏が豊臣政権の世界観、すなわち「軍事力と経済力を両輪とする近世的統治」の思想を深く理解し、それを自らの領国経営に導入しようとした証左でもあった。盛岡城の縄張(設計)が、豊臣秀吉の本拠地である大坂城に類似しているという指摘は、その思想的影響を色濃く物語っている 14 。東北の地にありながら、西日本の最先端であった「織豊系城郭」の都市計画思想を導入し、水運を重視した経済戦略を都市構造に組み込む。これは、南部氏が自らの意志で「中央基準」の統治システムへと移行し、豊臣政権下における有力大名としての地位を盤石にしようとする、極めて戦略的な一手であった。盛岡城は、単なる南部氏の城ではなく、豊臣政権の思想が奥州の地に具現化した「出城」としての性格を帯びていたのである。
第二部:慶長四年(1599年)の動静:設計と着手、そして藩祖の死
盛岡という都市の歴史において、慶長四年(1599年)はまさに創世記と呼ぶべき一年であった。この年に本格的に始まった町割整備は、希望に満ちた創造の始まりであると同時に、計画の推進者を失うという大きな悲劇に見舞われた年でもあった。そのリアルタイムな動静を時系列で追うことで、都市誕生の瞬間の熱気と緊張を再構築する。
【表1】盛岡城築城と町割整備に関する時系列年表(1591年~1633年)
西暦(和暦) |
月 |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠・備考 |
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1591年(天正19年) |
9月 |
九戸政実の乱、終結。豊臣軍の支援で南部信直が勝利。 |
南部信直, 九戸政実, 豊臣秀吉, 浅野長政 |
1 |
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1592年(文禄元年) |
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浅野長政、蒲生氏郷ら、信直に不来方への築城を助言。 |
浅野長政, 蒲生氏郷, 南部信直 |
5 |
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1597年(慶長2年) |
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鋤始の儀を行い、盛岡城の築城が公式に開始される。 |
南部信直, 南部利直 |
7 |
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1598年(慶長3年) |
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信直、京都より嫡男・利直に築城を本格的に命じる。普請奉行に内堀伊豆を任命。 |
南部信直, 南部利直, 内堀伊豆 |
5 |
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1599年(慶長4年) |
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本格的な城下町の町割整備が開始される。 |
南部利直 |
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16 |
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1599年(慶長4年) |
10月 |
藩祖・南部信直、死去。 |
南部信直 |
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9 |
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1600年(慶長5年) |
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関ヶ原の戦い。南部利直は東軍に属し、所領を安堵される。 |
南部利直, 徳川家康 |
18 |
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1609年(慶長14年) |
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中津川に「上の橋」が架けられ、三戸から移した擬宝珠が設置される。 |
南部利直 |
5 |
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1615年(元和元年) |
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この頃までに、総石垣の城としてほぼ完成。地名を「盛岡」と改める。 |
南部利直 |
5 |
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1633年(寛永10年) |
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築城開始から約36年を経て、盛岡城が公式に竣工。三代藩主・重直が入城。 |
南部重直 |
6 |
慶長二年~三年(1597-1598):計画の始動
不来方への築城という壮大な計画は、慶長二年(1597年)の「鋤始の儀」(くわいれしき)をもって公式に開始された 7 。翌慶長三年(1598年)、当時京都に滞在していた信直は、嫡男である南部利直を総奉行(総大将)に任命し、現場の全権を委ねる 5 。普請奉行には、前田家との繋がりで召し抱えられた兵学者・内堀伊豆らが任命され、縄張(設計)や地割(区画整理)といった専門的な作業が進められた 5 。この時期は、まさに未来都市の青写真が描かれた、計画策定のフェーズであった。
慶長四年(1599年)前半:町割の本格化
年が明けて慶長四年、計画は実行段階へと移る。この年、城郭本体の基礎工事と並行して、「本格的な城下町整備」が開始された 16 。これが、本報告書の主題である「盛岡町割整備」の核心である。
当時の不来方の現場は、新たな都市が生まれる熱気に満ちていたであろう。測量が行われ、城を中心とした環状市街地の骨格が定められていく。広大な湿地帯では、排水路の掘削や埋め立てといった大規模な土木工事が、多くの人夫を動員して昼夜を問わず進められた 5 。後述する「五の字」の街路計画に基づき、武家地、町人地、寺社地といった大まかな区画が決定され、土地の造成が進められていた。まさに、混沌の中から秩序ある都市空間が生まれようとする、創造の瞬間であった。
慶長四年(1599年)十月五日:巨星墜つ
しかし、プロジェクトがようやく軌道に乗り始めた矢先、事態は急変する。同年十月、この壮大な計画の創始者であり、南部家の精神的支柱であった藩祖・南部信直が、病のため五十四歳でその生涯を閉じたのである 9 。
この突然の訃報は、築城と町割の現場に大きな衝撃と動揺をもたらしたに違いない。計画の最高責任者を失ったことで、事業の存続自体が危ぶまれるほどの危機であった。しかし、この危機こそが、南部家の新たな時代を切り拓く契機となる。家督を継いだ若き当主・利直は、父の死という悲しみを乗り越え、この巨大プロジェクトを断固として続行する決意を固める 9 。
信直の死は、盛岡町割整備を単なる土木工事から、新藩主・利直の権威と統治能力を内外に示すための試金石へと昇華させた。父の事業を継承し、それをさらに発展させることこそが、自らの指導者としての正統性と力量を家臣団や領民に示す最良の手段であった。後に利直が、この地の名を「不来方」から「盛り上がり栄える岡」という願いを込めて「盛岡」と改名したことは 5 、父の遺志を継承しつつも、自らが新たな時代の担い手であることを力強く宣言する象徴的な行為であった。慶長四年という年は、都市の物理的な誕生の年であると同時に、南部家のリーダーシップが父から子へと継承され、新たな統治体制が確立された、二重の意味での「創世記」だったのである。
第三部:町割の具現化:階層社会と防御思想の刻印
慶長四年(1599年)に策定され、本格的に着手された町割計画は、単なる区画整理ではなかった。それは、来るべき江戸時代の身分制社会の秩序と、戦国の遺風を色濃く残す実戦的な軍事思想を、都市空間という三次元のキャンバスに描き出した「社会の設計図」そのものであった。
【表2】盛岡城下町の身分階層別居住区画と現代の地名対照
階層/区域 |
主な居住者 |
江戸時代の配置場所 |
現代の主な地名・区域 |
機能と特徴 |
典拠 |
武家地(上級) |
500石以上の重臣、南部一族 |
城郭周辺の内曲輪・外曲輪 |
内丸、大沢川原 |
藩政の中枢。広大な敷地を持つ屋敷群。 |
6 |
武家地(中・下級) |
500石未満の一般武士 |
城下町の外周部 |
加賀野、長田町、馬場町など |
城下町の防衛線を兼ねる。比較的密集した屋敷地。 |
6 |
足軽(同心) |
足軽(同心) |
街道沿いの出入口 |
上田組町、仙北組町 |
城下への出入りを監視・警備する軍事集落。 |
6 |
町人地 |
商人、職人 |
中津川対岸 |
紺屋町, 呉服町, 肴町, 鉈屋町 |
商業・手工業の中心地。経済活動の拠点。 |
6 |
寺社地 |
僧侶、神職 |
城下の北東部山麓など |
名須川町、北山 |
鬼門封じ。有事の際の防御拠点。 |
6 |
「五の字」の都市計画:機能性と防御性の融合
盛岡の町割を特徴づける最も有名な概念が、「五の字」型の街路計画である 10 。これは、盛岡城を起点として、漢字の「五」の字を描くように主要な街路を配置する設計思想であった。この複雑な街路は、城下へ侵入した敵の進軍を妨げ、見通しを悪くすることで方向感覚を失わせるという、極めて高い軍事的な防御機能を持っていた 10 。同時に、城を中心に商業地区や武家屋敷を機能的に配置し、交通を制御する役割も果たしていた 10 。
興味深いことに、古文書にはこの「五の字」計画が採用された理由として、盛岡が諸国の往還(街道)の通過点ではなく、終着点(袋のごとし)であるという地理的特性が挙げられている 23 。つまり、外部とのスムーズな交通よりも、城下町内部の結束と防衛を優先するという、内向きで堅固な都市思想が根底にあったことがうかがえる。
身分秩序の可視化:ゾーニングの徹底
盛岡の町割は、近世的な身分秩序を空間的に可視化する装置でもあった。城からの距離が、そのまま社会的地位を反映するように、居住区は厳格に区分け(ゾーニング)されていた 6 。
城郭に最も近い「内曲輪」「外曲輪」と呼ばれるエリアには、南部一族や500石以上の家老・重臣たちの広大な屋敷が配置され、藩政の中枢を形成した 6 。城下町の外縁部や街道の出入り口には、500石未満の一般武士や足軽(同心)の屋敷が集められ、城下町全体を取り囲む防衛ラインの役割を担った 6 。一方、商人や職人が住む町人地は、中津川を挟んだ対岸に計画的に集められた 6 。これは、経済活動の重要性を認めつつも、それを武士の支配下に明確に置くという、江戸時代の基本的な統治思想を反映したものであった。このように、人々は自らが住む場所によって、日々、封建社会の秩序を意識させられる構造になっていたのである。
経済発展の布石:近江商人の誘致
町割計画は、当初から城下町の経済的発展を強く意識していた。特に注目すべきは、当時最高の商才とネットワークを誇った近江商人を積極的に誘致したことである 11 。慶長18年(1613年)に近江高島郡出身の村井新兵衛が招かれたのを皮切りに、多くの同郷者が彼を頼って盛岡に移住した 20 。彼らは酒造、呉服、金融業などを営み、一大商業勢力を形成 26 。後の盛岡藩の財政を支え、商業都市・盛岡の礎を築く原動力となったのである 28 。
寺社の戦略的配置:宗教と防衛の二重機能
城下町の防御を固めるもう一つの要素が、寺社の戦略的な配置であった。城の北東、すなわち鬼門とされる方角の山麓には、領内から多くの寺社が集められ、一大寺町が形成された 6 。これは、城の安寧を祈願するという宗教的な意味合いを持つと同時に、有事の際にはその堅牢な建物や高い塀が防御拠点として機能するという、極めて実戦的な軍事目的を兼ね備えていた 21 。足軽組町や寺町を城下の外縁部に配置する手法は、城だけでなく城下町全体を防衛対象とする「惣構(そうがまえ)」の思想に通じるものであり、戦国末期の最新の軍事思想が取り入れられていたことがわかる。
第四部:石垣とインフラ:盛岡の骨格を築く
1599年に描かれた壮大な都市計画の青写真を現実のものとするためには、高度な建設技術と大規模なインフラ整備が不可欠であった。特に、土塁の城が主流であった東北地方において、総石垣の城を築いたことは、南部氏の技術力と権威を内外に示す象徴的な事業であった。
東北随一の石垣普請:権威の象徴
盛岡城は、白い花崗岩で築かれた壮麗な総石垣造りの城として知られ、会津若松城、白河城と共に「東北三名城」の一つに数えられる 29 。これは、土塁の城が多い東北地方においては異例のことであり、豊臣政権下で西日本を中心に発展した先進的な築城技術を導入したことを示している 9 。この壮大な石垣は、単なる防御施設ではなく、南部氏の財力と、中央政権と結びついた新たな権威を領内外に誇示するためのモニュメントでもあった。幸いにも、石材には城が築かれた丘陵そのものから産出される良質な花崗岩が豊富に存在し、資材調達の面で大きな利点となった 1 。
技術の導入と独自性の発揮
これほど大規模な石垣を築くにあたり、南部氏は外部から積極的に専門技術を導入した。江戸から石工棟梁を招いたり、あるいは技術を学ばせるために家臣の庭師を江戸へ派遣したといった記録が残っている 31 。これは、最新技術の獲得に対する貪欲な姿勢の表れである。
しかし、盛岡城の石垣は単なる西国技術の模倣に留まらなかった。細部を観察すると、石の加工や積み方などに南部氏独自の工夫が見られ、その技術はオリジナル性が高いと評価されている 31 。これは、外来の先進技術を鵜呑みにするのではなく、現地の石材の性質や地形に合わせて消化・応用する、高い技術的適応能力が当時の南部氏の職人集団にあったことを示唆している。
都市インフラの整備:橋と水路
城下町の動脈として、武家地と町人地を隔てる中津川には、城に近い方から「上の橋」「中の橋」「下の橋」という三つの重要な橋が架けられた 5 。これらの橋は、城下町の物理的な連結だけでなく、政治・軍事と経済を結ぶ象徴的な役割も担っていた。
特に、城下町建設を記念して、慶長14年(1609年)には「上の橋」に、慶長16年(1611年)には「中ノ橋」に、青銅製の擬宝珠(ぎぼうし)が取り付けられた 5 。特筆すべきは、これらの擬宝珠が、南部氏の旧来の拠点であった三戸から移設されたものであったことである 5 。これは、南部氏の正統な中心地が、三戸から盛岡へと名実ともに移ったことを内外に宣言する、極めて象徴的な出来事であった。
結論:盛岡町割整備の歴史的意義と現代への継承
慶長四年(1599年)に本格的に始まった盛岡の築城と町割整備は、単一の土木事業に留まらず、その後の南部氏の歴史、そして現代に至る盛岡という都市のあり方を決定づけた、画期的な出来事であった。
近世大名・南部氏の確立
盛岡という新たな政治・経済の中心地の建設は、南部氏が中世以来の豪族連合体から脱皮し、安定した領国経営を行う近世大名へと変貌を遂げる上で、決定的な役割を果たした。強固な城郭と計画的な城下町は、当主の権威を盤石なものとし、中央集権的な統治を可能にした。関ヶ原の戦いを乗り越え、江戸時代を通じて約270年間にわたり存続した盛岡藩の平和と繁栄の礎は、まさしくこの時に築かれたのである 9 。
400年続く都市の骨格
最も驚くべきことは、1599年に計画された都市の骨格が、400年以上の時を経た現代の盛岡市中心市街地に、今なお色濃く受け継がれているという事実である 10 。城跡を中心とした環状の道路網、かつて上級武士の屋敷が並んだ内丸地区の官公庁街、中津川の対岸に広がる紺屋町や肴町といった商業地区の賑わい。これらの都市構造は、南部信直と利直が描いたグランドデザインが、いかに長期的視点に立った、優れたものであったかを雄弁に物語っている 32 。
歴史的遺産としての価値
南部信直の先見性と、その遺志を継いだ利直をはじめとする後継者たちの不断の努力によって生み出された盛岡の城と町並みは、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国から江戸へと移行する激動の時代を乗り越え、未来への確固たるビジョンを持って都市を創造した人々の営みの結晶である。城跡の壮麗な石垣、歴史的な建造物が点在する街角、そして城下町の面影を残す地名の一つひとつが、現代に生きる私たちにその歴史の重みを伝え、郷土への誇り(シビックプライド)を育む、かけがえのない歴史文化遺産であると言えるだろう 19 。慶長四年の町割は、盛岡という都市のアイデンティティそのものを形作った、永遠の原点なのである。
引用文献
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- 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
- 盛岡藩の基礎を作った南部信直の「堅実」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41353/2
- 「南部信直」南部家中興の祖は、先代殺しの謀反人!? 庶流ながら宗家を継いだ名君 https://sengoku-his.com/470
- 盛岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E5%9F%8E
- 新都市・盛岡の誕生 - いわての文化情報大事典 - 岩手県 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/bp22
- 盛岡城~岩手県盛岡市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro152.html
- 盛岡城跡の石垣と長岡の石切丁場 - 紫波歴史研究会ネット http://gorounuma.jp/p-moriokajho.pdf
- 盛岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/moriokajo/
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- みちのくの風情ある都市 盛岡の町並み その① | 旅のひろば - ワールド航空サービス https://www.wastours.jp/contents/cityscape/24398/
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- 超入門! お城セミナー 第88回【歴史】城下町はどうやって敵から守られていたの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1056
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- 商家 | いわての文化情報大事典 - 岩手県 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/home3
- 近江商人来盛四百年 - 高島市 https://www.city.takashima.lg.jp/material/files/group/11/0203_91616459.pdf
- 近世こもんじょ館-【とぴっくす館】 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/topics/topics_view.cgi?mode=details&code_no=222&start=
- ワンダフルいわてライフ情報紙「flamme」はドイツ語で「ほのお」を表します。 盛岡ガス株式会社 ホームページhttp://www.morioka-gas.co.jp - 第 https://www.morioka-gas.co.jp/cms/wp-content/uploads/2013/11/flam23.pdf
- 人富めば則おごる盛岡・近江商人400年の系譜 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/topics/topics_view.cgi?mode=details&code_no=297&start=
- エリア別 中津川・盛岡城跡 - 盛岡観光情報 https://www.odette.or.jp/?page_id=59
- ブログ2021年12月18日:盛岡城 - その歴史と現状(その1) - エム・システム https://msystm.co.jp/blog/20211218.html
- 北の名城「盛岡城」に東北屈指の壮大な石垣が築かれた理由とは https://serai.jp/hobby/197197
- 盛岡市の歴史 https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009334.html
- 盛岡市の維持向上すべき歴史的風致 https://www.mlit.go.jp/common/001261306.pdf
- 盛岡ブランドの「物語」 https://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/machizukuri/brand/1009716.html