最終更新日 2025-10-02

米沢城下整備(1601)

慶長6年、関ヶ原敗戦で米沢30万石に減封された上杉家。直江兼続は治水、殖産興業、秘密兵器開発、学問奨励で城下を整備し、上杉家の再生と武士の再定義を図った。
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慶長六年の黎明:直江兼続による米沢城下整備と上杉家の再生

序章:存亡の淵 - 会津百二十万石から米沢三十万石へ

関ヶ原に至る道

慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津百二十万石へと加増移封された 1 。これは、奥羽諸大名を監視し、豊臣政権の東国における磐石の基盤を築くための戦略的配置であり、景勝は徳川家康らと並ぶ五大老の一角を占めるに至った 1 。しかし、同年八月に秀吉が逝去すると、政権内部の均衡は急速に崩壊し、家康の天下への野心が顕在化する。これに対し、景勝と、その執政として絶大な権勢を誇った直江兼続は、石田三成らと連携し、家康への対抗姿勢を鮮明にした。家康が景勝に上洛を命じた際、兼続が返したとされる「直江状」は、上杉家の誇りと独立性を賭けた宣戦布告にも等しいものであった 3 。この対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと繋がる直接的な導火線の一つとなる。

慶長出羽合戦と敗戦の代償

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原で東西両軍が激突したまさにその時、上杉軍は会津の地で、東軍に与した伊達政宗、そして最上義光の軍勢と死闘を繰り広げていた 4 。兼続は自ら総大将として最上領に侵攻し、長谷堂城を巡る攻防戦では熾烈を極めた 5 。しかし、関ヶ原における西軍敗北の報が戦陣に届くと、状況は一変する。上杉軍は敵地深くで孤立し、背後からは伊達軍が迫るという絶体絶命の窮地に陥った。この危機的状況下で、兼続は冷静かつ大胆な指揮により、追撃する最上軍を打ち破りながら整然と撤退を成功させるという、驚異的な手腕を見せつけた。この撤退戦は、敵将である最上義光や伊達政宗をして感嘆せしめたと伝えられ、上杉軍の武威が未だ健在であることを天下に示した。しかし、この軍事的な奮戦も、関ヶ原における政治的敗北を覆すことはできなかった。

減封という名の断崖

戦後、上杉家は西軍の首魁の一人として、徳川家康による厳しい処分に直面した。改易、すなわち領地没収による大名家の取り潰しという最悪の事態も十分にあり得た状況下で、兼続は主君・景勝と共に上洛し、家康に謝罪の意を表した 4 。兼続は西軍に与した全責任が自らにあると訴え、必死の交渉を行った 6 。家康の側近である本多正信らを相手取った交渉と、長谷堂城からの撤退戦の際に追撃しなかった景勝の「義」の判断が評価されたこともあり、上杉家は存続を許された 4 。しかし、その代償はあまりにも大きかった。慶長六年(1601年)、上杉家は会津百二十万石から、そのわずか四分の一である出羽米沢三十万石への大減封を命じられたのである 2 。これは、石高にして実に九十万石、75%の削減であり、一個の「国家」がその存亡の淵に立たされたに等しい、未曾有の国難であった。

米沢入封 - 混沌の坩堝

慶長六年九月、上杉景勝は新たな本拠地となる米沢城に入った 4 。この地は、かつて伊達氏の本拠地であり、会津時代には兼続自身が領していた土地でもあった 9 。しかし、当時の米沢は、蒲生氏時代に築かれた侍町数百、町人町わずか八町六小路という小規模な城下町に過ぎなかった 9 。この小さな町に、会津から移住してきた家臣とその家族、実に数万人もの人々が一度に殺到したのである 4

最大の問題は、石高が四分の一に激減したにもかかわらず、上杉家が会津時代の家臣をほとんど召し放たなかった(解雇しなかった)点にあった 5 。この決断は、上杉家の財政を破滅的な状況に追い込んだが、それは単なる温情主義によるものではなかった。関ヶ原直後の天下は未だ流動的であり、大坂には豊臣秀頼が健在であった。いつ再度の動乱が起こるとも知れぬ状況下で、歴戦の家臣団を手放すことは、自らの軍事力を放棄し、戦国大名としての存続を危うくする行為に他ならなかった。兼続が座右の銘とした「人の和」 11 とは、単なる精神論ではなく、「人材こそが国家存立の根幹である」という極めて現実的な経営思想であった。短期的な経済的困窮を甘受してでも、長期的な軍事力と組織の結束を維持するという、この高度な政治判断こそが、上杉家の存続を可能にし、そして、これから始まる米沢城下整備という巨大プロジェクトを不可避なものにしたのである。

しかし、その直接的な結果として、米沢の町は飽和状態をはるかに超えた大混乱に陥った。住居は絶望的に不足し、上・中級家臣はともかく、下級家臣に至っては一つの家に二、三世帯が雑居し、それでも住む場所のない者は掘っ立て小屋を建てて雨露をしのぐという有様であった 6 。食糧、物資、その全てが欠乏し、城下はまさに混沌の坩堝と化していた。この絶望的な状況こそが、米沢城下整備の出発点であった。

第一章:再生の設計者、直江兼続 - 絶望の中から描かれた未来図

兼続の理念と覚悟

国家存亡の危機に際し、その再建の全責任を双肩に担ったのが、執政・直江兼続であった。彼の行動哲学の根幹には、孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という言葉があった 11 。関ヶ原での敗戦は、まさに「天の時」を失った状態であった。しかし、兼続はこの言葉を逆説的に捉えた。天の時を失った今だからこそ、残された「地の利」を最大限に活かし、崩壊しかけた「人の和」を再構築することさえできれば、国家は必ず再生できる。この強靭な意志が、彼の全ての計画の原動力となった。彼は自身の禄高六万石のうち、わずか五千石のみを自らのものとし、残りを主君景勝に返上して藩財政の立て直しに充てたという逸話は、その覚悟のほどを物語っている 6

現地踏査とグランドデザインの策定

兼続は、机上の空論で都市を設計するような為政者ではなかった。彼はまず、米沢という土地の「地の利」を徹底的に読み解くことから始めた。伝承によれば、兼続は自ら赤崩山に登り、米沢盆地を貫流する松川の奔放な流路と周囲の地形を俯瞰し、壮大な治水計画の構想を練ったとされる 7 。また、城下の南北を貫く主要な幹線道路を定めるにあたっては、遠方に望む兜山を基軸(目印)とした 13 。これは、単なる測量技術の問題ではなく、都市の骨格を現地の自然地形と調和させ、その力を利用し、あるいは制御しようとする、深い洞察に基づいた計画であった。こうして、混沌の中から、新たな都市のグランドデザインが描き出されていったのである。

設計思想の核心 - 複合的都市計画

兼続が描いた未来図は、単に数万の家臣団を収容するための住宅建設計画ではなかった。それは、複数の目的を有機的に統合した、極めて複合的かつ戦略的な都市計画であった。

  1. 軍事防衛都市として: 徳川の天下が盤石とは言え、いつ再燃するとも知れぬ戦乱に備え、城下町全体が一個の巨大な要塞として機能するよう設計された 14 。これは、平和な時代の町づくりではなく、あくまで「次の戦」を想定した、戦国武将としての思考様式が貫かれていることを示している。
  2. 治水・利水都市として: 住民の生活を脅かす「暴れ川」を制御し、その豊かな水を城下の生活用水や新たな水田開発のための灌漑用水として活用する、大規模な社会基盤(インフラ)整備 4
  3. 経済自立都市として: 大幅に削減された石高を補い、膨大な家臣団を養うため、米作依存から脱却し、新たな産業を興すための経済基盤の構築 4

これら三つの要素は、互いに密接に連携していた。例えば、治水事業は民の生活を安定させると同時に、新たな農地を生み出し経済基盤を強化する。軍事防衛を意図した町割りは、家臣団の結束を高め、統治体制を確立する上でも機能した。

この計画の根底には、敗戦のトラウマと、徳川幕府への潜在的な不信感が色濃く反映されていた。表向きは恭順の意を示しつつも(兼続は慶長十三年に名を「重光」と改めている 15 )、再び徳川の刃が向けられる可能性を完全に払拭することはできなかった。城下町を「鶴翼の陣」という防御陣形に擬して設計したこと 14 や、人里離れた白布の山中で秘密裏に鉄砲を大量生産したこと 13 は、その明確な証左である。米沢城下整備とは、徳川体制下で生き残るための「ソフトなインフラ(恭順の姿勢)」と、いざという時に備える「ハードなインフラ(軍事都市・兵器生産)」を同時に構築する、二重構造の国家戦略だったのである。それはまさに、絶望の淵から再生を目指す上杉家の、静かなる再起への狼煙であった。

第二章:リアルタイム・ドキュメント:米沢城下整備の時系列展開

慶長六年(1601年)の米沢入封直後から、直江兼続の指揮のもと、複数の巨大プロジェクトが同時並行で、かつ驚異的な速度で進められていった。それは、国家の存亡を賭けた、時間との戦いであった。

第一節:生命線を確保せよ - 松川との闘い(治水事業)

現状分析(慶長6年)

米沢城の東方を流れる松川(最上川の上流域)は、古来より頻繁に氾濫を繰り返し、流域に甚大な被害をもたらしてきた「暴れ川」であった 4 。この川の脅威を放置したままでは、安定した城下町の建設は不可能であり、民の生活も成り立たない。治水は、全ての計画の前提となる最優先課題であった。

計画策定と着工

赤崩山からの現地踏査を終えた兼続は、松川の流路を固定し、洪水を防ぐための大規模な堤防の建設を決断する 7 。それは、単に土を盛り上げただけの脆弱な堤防ではなかった。川の流れが激しい箇所には、巨石を組み上げて築く堅固な「石堤」を計画した。この壮大な構想は、自然の猛威に人の力で対抗しようとする、兼続の強い意志の表れであった。

実行(慶長6年〜)

「谷地河原堤防」、後に「直江堤」と呼ばれることになるこの一大工事は、慶長六年の入封直後から開始された。この事業には、扶持(給与)もままならない下級武士たちが大規模に動員された。伝承では、兼続自らが鍬を手に取り、先頭に立って指揮を執ったとされている 7 。総延長は約10キロメートルにも及んだ 4 。この過酷な共同作業は、単なる土木工事に留まらなかった。主君を失い、生活の糧を失いかけていた武士たちにとって、それは藩の再建に直接貢献できるという新たな役割であり、共通の目標に向かって汗を流すことで、失われかけた一体感と誇りを取り戻すための、重要な社会事業としての側面も持っていた。現在も約1.2キロメートルにわたって残る石堤は、米沢市の史跡に指定され、その偉業を今に伝えている 7

精神的支柱の建立

兼続は、人事を尽くすだけでなく、天命にも心を配った。治水事業と並行して、松川から取水する猿尾堰の取水口付近に、「龍師火帝の碑」を建立した 5 。これは、水害を司る水神(龍師)と、火災を司る火神(火帝)を祀り、水害と干ばつ、そして火災からの守護を祈願するものである。自然の力を制御しようとする一方で、その力への畏敬の念を形にすることで、人々の精神的な拠り所を築こうとしたのである。

第二節:都市の血脈を引く - 用水網の構築(利水事業)

課題認識

治水によって洪水の脅威を取り除くと同時に、城下に密集する数万人の生活用水と、新たな田畑を開墾するための農業用水を安定的に確保することは、都市の生命線を確立する上で不可欠であった。

主要な堰の開削(慶長15年頃まで)

兼続は、複数の河川から効率的に取水するための堰(せき)の建設に着手した。特に重要なのが、鬼面川から取水する「帯刀堰(たてわきぜき)」と、松川から取水する「猿尾堰(さるおぜき)」である 4 。帯刀堰は、慶長十五年(1610年)、兼続が家臣の松本助兵衛高次に命じて造らせたとされる 13 。当初は西川堰と呼ばれたが、武士(士族)が労役に従事したことから、後に帯刀堰と称されるようになったという 18

水路ネットワークの整備

これらの堰から取り入れられた水は、新たに開削された「掘立川」「木場川」「御入水川」といった用水路を通じて、城下全体に張り巡らされた 4 。この緻密な水路ネットワークは、城下の各屋敷に生活用水を供給し、周辺の農地に灌漑用水をもたらし、さらには米沢城の堀を満たす役割も果たした。特に木場川は、山から切り出した薪を水運によって城下へ運搬するためにも利用され、都市のエネルギー供給路としても機能した 18 。こうして、制御された水は、米沢の町を潤す「血脈」となり、その後の発展の礎を築いたのである。

第三節:戦うための町を創る - 縄張と町割

米沢城の大改修

新たな藩庁となる米沢城は、兼続の指揮のもとで大規模な改修が施された。しかし、それは華美を誇るものではなかった。徳川幕府を刺激することを避け、また厳しい財政状況を鑑み、権威の象徴である天守はあえて設けられなかった。その代わりとして、本丸の北東隅と北西隅に二基の三階櫓を建て、「御三階」と称して天守の代用とした 19 。また、石垣の使用は最小限に抑え、防御の主体は土を突き固めた土塁とされた 19 。これは、経済的な制約と、実戦における防御効果(石垣は崩されると修復が困難だが、土塁は比較的修復が容易)を両立させるための、極めて合理的な選択であった。城の縄張り(設計)は、本丸を中心に二の丸、三の丸が同心円状に広がる「輪郭式」が採用された 19

軍事思想の都市への投影 - 「鶴翼の陣」

城下町の設計思想は、徹頭徹尾、軍事的であった。兼続は、敵が侵攻してくる可能性が最も高い城下東方の八幡原方面を町の「正面」と定めた 14 。そして、米沢城を総大将が位置する本陣に見立て、その両翼を守るように家臣団の屋敷群を配置したのである。これは、守備に優れた陣形として知られる「鶴翼の陣」を都市計画に応用したものであった 14 。町全体が一個の戦闘単位として構想され、有事の際には、街路そのものが防御線となり、屋敷が拠点となる、まさに「戦うための町」であった。

身分と役割に応じた屋敷割

膨大な家臣団は、その出自や役割に応じて、この軍事思想に基づき戦略的に配置された。江戸中期の絵図などから、その巧みな配置を窺い知ることができる 20

  • 上級家臣団: 越後以来の国人衆である「侍組」など、藩政の中枢を担う上級家臣は、城の東側をはじめとする枢要部に広大な屋敷を与えられた 20 。彼らは平時においては藩政を動かし、有事においては「鶴翼の陣」の主翼を形成する主力部隊となる。
  • 藩主親衛隊: 上杉謙信以来の旗本である「馬廻組」や、景勝直属の親衛隊である「五十騎組」は、城のすぐ近くに集住させられた 20 。彼らは藩主を直接護衛する最後の砦であった。
  • 兼続配下: 兼続自身の元家臣団である「与板組」も一つの集団としてまとまって配置され、執政である兼続の政策を支える実働部隊となった 20
  • 町人・職人: 商工業を担う町人や職人たちは、城下の中心部を行き交う街道沿いに、間口が狭く奥行きが深い「短冊状」の区画に集められ、城下の経済活動を担った 23
  • 下級武士(原方): 城下に入りきれなかった大多数の下級武士たちは、「原方(はらかた)」と呼ばれる城下外縁部の未開墾地に、一戸あたり約150坪の土地を与えられた 6 。彼らはそこで自ら土地を耕し、柿や栗を育て、牛馬を飼育するなど、農業に従事しながら武士としての身分を維持する「半農半士」の生活を送った 6 。これは、彼らの生活を支えるとともに、城下の外周部を防衛する予備兵力としての役割も期待されていた。

防御拠点としての寺町

さらに、城下の防衛ラインとして特に重要視された北と東のエリアには、寺社が集中的に配置された 20 。これは、戦国時代以来の城下町設計の定石であり、有事の際には、寺社の堅固な塀や大規模な建築物を、敵の侵攻を食い止める防御拠点として利用することを想定した、巧みな配置であった。

これらの緻密な配置計画を一覧にすることで、兼続の戦略的意図はより明確になる。

表1:米沢城下における主要家臣団の配置と役割

家臣団グループ

出自・背景

城下での主な居住区画(推定)

想定される軍事的・政治的役割

典拠

侍組

越後以来の国人衆・在地領主層。譜代の上級家臣。

城の東側など枢要部。

藩政の中枢を担うと共に、「鶴翼の陣」の主翼を形成する主力部隊。

20

馬廻組

上杉謙信時代からの旗本衆。歴戦の古参兵。

城の近接地。

藩主の側近警護。機動的な予備兵力。

20

五十騎組

上杉景勝の直属旗本衆。藩主への忠誠心が最も高い。

五十騎町など、城に近い重要区画。

藩主の親衛隊。城の中核部の最終防衛ライン。

20

与板組

直江兼続の元家臣団。兼続の私兵的存在。

城下の特定区画。

執政である兼続の政策を実働部隊として支え、軍事的には兼続直属の遊撃部隊。

20

この表が示すように、米沢の町割りは単なる区画整理ではなく、上杉家の歴史と組織構造、そして未来の戦いへの備えを空間的に表現した、壮大な軍事戦略図そのものであった。

第三章:未来への布石 - 生存を超えた藩政改革

城下町という物理的な器の建設と並行して、兼続は藩の「魂」とも言うべきソフト面の再建にも精力的に取り組んだ。それは、単なる当座の生存戦略を超え、米沢藩の永続的な発展を見据えた、未来への布石であった。

経済基盤の再構築(殖産興業)

課題

米沢藩が抱える最大の課題は、三十万石という石高では、会津時代から抱える膨大な家臣団を養うことが構造的に不可能であるという点にあった。米だけに依存する経済体制では、藩の財政は早晩破綻する。米以外の新たな収入源を確保することが、絶対的な至上命令であった。

施策

兼続は、米沢の気候風土に適した換金作物の栽培を強力に推進した。衣類の原料となる青苧(あおそ、からむし)、紅色の染料として高値で取引された紅花、そして漆器の原料となる漆といった作物の栽培を領内に広く奨励した 4 。さらに、貴重なたんぱく源として鯉の養殖を、また、救荒作物としてソバや、食用になる山菜であるウコギの栽培なども奨励し、食糧の多様化と自給率の向上を図った 4 。これらの政策は、農民の生活向上にも目を向けたものであり、兼続が著したとされる「四季農戒書」では、農民が月ごとにどのような心構えで働くべきかが示され、日常生活の隅々にまで配慮した指導が行われた 4

成果

これらの殖産興業政策が実を結ぶまでには時間を要したが、米沢藩の経済基盤を多角化し、その後の発展の礎となった。特に、これらの産業は後の時代、藩政改革で名高い上杉鷹山に引き継がれ、米沢の特産品として確立されていく 4 。兼続による改革が一段落した慶長十六年(1611年)頃には、米沢藩は表向きの石高は三十万石ながら、実質的な収入(実収)は五十万石に達したとも言われている 6

徳川体制下での再軍備(秘密裏の兵器開発)

動機

徳川家への恭順は、上杉家が生き残るための絶対条件であった。しかし、戦国の気風が色濃く残る時代、武備を完全に放棄することはできなかった。万が一の事態に備え、自衛のための軍事力を維持することは、大名としての責務であった。中でも、当時の戦局を左右する最強兵器であった鉄砲の自給体制を確立することは、軍事戦略上の最重要課題であった。

実行(慶長9年〜)

兼続は、この極秘プロジェクトの実行場所として、人目を忍ぶことができる奥羽山中の白布高湯(現在の白布温泉)を選定した 13 。慶長九年(1604年)、鉄砲生産の先進地であった江州国友村から鉄砲師・吉川惣兵衛を、和泉堺から泉谷松右衛門といった、当代最高の技術者たちを高給で招聘した 16 。白布が選ばれた理由は、その地理的な隔絶性に加え、火薬の原料となる硫黄が産出され、鍛冶に必要な木炭が豊富に得られたためと考えられている 17

成果

この秘密工場で製造された高品質な火縄銃は、一説には1,000挺にも及んだとされ、弾丸の重さが10匁(約37.5グラム)から30匁まで、多様な口径のものが揃えられていた 17 。さらに兼続は、射撃の心構えや技術を記した「鉄砲稽古定」を発布し、藩士たちの射撃訓練を奨励した 16 。この周到な準備の成果は、慶長十九年(1614年)に勃発した大坂冬の陣で遺憾なく発揮される。徳川方として参陣した上杉軍の鉄砲隊は、鴫野の戦いにおいて目覚ましい活躍を見せ、徳川秀忠から感状を授かるという栄誉に浴した 13 。これは、徳川家への警戒心から始まった再軍備が、結果的に徳川家への忠誠の証として結実したという、歴史の皮肉を示す象徴的な出来事であった。

精神的支柱の確立(学問の奨励)

兼続は、武力のみが藩を支えるのではないと深く理解していた。藩士たちの精神を涵養し、為政者としての識見を高める学問と教養こそが、藩の長期的な安定と発展に不可欠であると考えていた。

実行(元和4年)

元和四年(1618年)、兼続はかつて自らが足利学校で学ばせた高僧・九山和尚を米沢に招聘し、臨済宗の寺院である禅林寺(現在の法泉寺)を創建した 4 。そして、その寺の一角に学問所を設け、自身が生涯をかけて収集した貴重な書籍群を収蔵し、「禅林文庫」と名付けた 2 。これには、現在国宝に指定されている「宋版史記」や「漢書」なども含まれていた 4 。この禅林文庫は、米沢藩士の子弟が学ぶ教育機関となり、後に上杉鷹山が創設する藩校「興譲館」の礎となった 4

これら一連の改革は、それぞれが独立した政策ではなく、「武士のアイデンティティの再定義」という、一つの大きな目的に向かって連動していた。米沢移封により、上杉家の武士たちは「戦場で戦う」という従来の存在意義を失いかけ、特に半農半士の生活を強いられた下級武士たちの誇りは大きく揺らいでいた。殖産興業は、彼らに藩の経営を支えるという新たな役割を与えた。秘密裏の鉄砲製造と訓練は、失われかけた戦闘技術と武士としての気概を維持するための重要な手段であった。そして学問奨励は、武士の価値基準を単なる「武勇」から、統治者としての教養を兼ね備えた「知勇兼備」へと転換させることを意図していた。これらの政策は、平和な時代に適応しつつも、戦国武士団としての矜持を失わない、新しい「米沢武士」の理想像を創造するための、総合的な人材育成プログラムだったのである。

終章:百年の計 - 兼続の遺産と米沢藩の形成

兼続の町の永続性

直江兼続が心血を注いで設計した米沢の城下町は、その後の時代の変遷を見事に乗り越えた。驚くべきことに、彼が定めた街路、すなわち町の骨格である「縄張り」は、幾度かの大火に見舞われながらも、その95%以上が現代に至るまでほぼそのままの形で受け継がれている 14 。これは、兼続の都市計画がいかに合理的で、後世の発展にも耐えうる強固な思想と構造を持っていたかを雄弁に物語っている。米沢に住む人々は、400年の時を超えて、今なお直江兼続が創った町の上で生活しているのである。

同時代との比較考察 - 伊達政宗の仙台城下整備

米沢城下整備の歴史的特質をより深く理解するためには、同時代に、隣国で、そして最大のライバルであった伊達政宗によって進められた仙台城下整備と比較することが極めて有効である。

  • 共通点: 奇しくも、政宗が仙台城の築城と城下町の建設に着手したのも、米沢への移封と同じ慶長六年(1601年)であった 24 。両者ともに、新たな時代の拠点都市をゼロから創造するという壮大な事業であった点では共通している。
  • 相違点: しかし、その背景と設計思想には決定的な違いがあった。
  • 背景の違い: 政宗は関ヶ原の戦いで勝利者側に立ち、徳川家康からその功績を認められ、六十二万石という大大名としての地位を確立した上での、いわば「攻め」の町づくりであった 2 。一方、兼続は敗戦による三十万石への大減封という、存亡の危機の中から、生き残りを賭けた「守り」の町づくりを余儀なくされた。
  • 設計思想の違い: この背景の違いは、都市の性格に明確に表れている。政宗が築いた仙台は、経済の発展を重視した合理的な「碁盤目状」の街路を持ち 25 、城には金箔瓦を用いるなど 26 、豪華絢爛な桃山文化を反映した壮麗な都市を目指した 27 。それに対し、兼続の米沢は、あくまで軍事防衛を最優先した「鶴翼の陣」という有機的な構造を持ち、華美を排した質実剛健を旨とする、実利的な都市であった。仙台城が権威の象徴として高くそびえる石垣を誇ったのに対し 28 、米沢城が土塁を多用したのも、この思想の違いを象徴している 19

この対比は、米沢城下整備が置かれた過酷な状況と、そこから生まれた現実的で切実な思想を、より一層鮮明に浮かび上がらせる。それは、栄光の勝者が築いた都市と、不屈の敗者が再起を賭けて築いた都市との、鮮やかなコントラストである。

総括:兼続が遺したもの

元和五年(1619年)十二月十九日、直江兼続は江戸の屋敷でその六十年の生涯を閉じた 4 。主君・上杉景勝はその死を深く悼んだと伝えられる。兼続が米沢の地で過ごした時間は、わずか18年余りであった。しかし、その間に彼が成し遂げた事業は、単なる都市開発の域を遥かに超えるものであった。

米沢城下整備とは、敗戦の絶望の中から国家を再興し、崩壊しかけた家臣団という「人の和」を再結束させ、上杉家の新たなアイデンティティを確立し、そしてその後の米沢藩二百七十年の歴史の礎を築いた、壮大な「建国」事業であった。兼続が蒔いた種は、治水・利水のインフラとして、殖産興業の伝統として、そして文武を尊ぶ学問の精神として米沢の地に深く根を下ろし、後の名君・上杉鷹山による藩政改革の時代に、見事な花を咲かせることになるのである。慶長六年に始まったこの事業は、戦国時代の終焉と近世の黎明期という時代の狭間で、一個の藩がいかにして危機を乗り越え、未来を創造したかを示す、不朽の記念碑と言えよう。

引用文献

  1. 上杉景勝(うえすぎかげかつ) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/uesugi-kagekatsu/
  2. 『羽前米沢 秀吉期には120万石を領する五大老で関ヶ原合戦後 ... https://4travel.jp/travelogue/10925273
  3. 直江兼続の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64089/
  4. 直江兼続(なおえかねつぐ) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/naoe-kanetsugu/
  5. 直江兼続の一生|米沢・戦国 武士[もののふ]の時代 http://www.yonezawa-naoe.com/life.html
  6. 直江兼続 みずからの収入を減らしてまで、藩の財政逼迫を立て直した贖罪 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5448
  7. 直江石堤 ~歴史ある治水事業を今に伝える~ - 米沢平野土地改良区 https://www.yonezawa-heiya.or.jp/pages/37/detail=1/b_id=156/r_id=6/
  8. 上杉氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F
  9. 米沢藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E8%97%A9
  10. 直江兼続の生涯 - 長岡市 https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/kanetsugu/syougai.html
  11. 名補佐役、直江兼続が何より大切にした"人の和"|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-025.html
  12. 直江兼続の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34217/
  13. 直江兼続関連の史跡|米沢観光NAVI - 米沢観光ナビ https://www.yonezawa-kankou-navi.com/person/naoe_02.html
  14. 直江兼続 ~米沢の土台を築いた智将~ - 置賜文化フォーラム http://okibun.jp/naoekanetugu/
  15. 直江兼続 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A
  16. 「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑|直江兼続・米沢.com http://www.naoe-kanetugu.com/trip_yonezawa/sirabu_teppou.html
  17. 直江兼続の鉄砲鍛造遺跡 - 米沢市 https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/soshiki/10/1034/5/5/287.html
  18. 川べりの史跡 - 国土交通省 東北地方整備局 https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/syucho/nanyou/history/janru/janru01.html
  19. 米沢城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B2%A2%E5%9F%8E
  20. 「明和六年 米沢城下絵図」デジタルマップ https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/digital-map/index.html
  21. おうちで楽しむ 城下絵図デジタルマップ 1 - 米沢観光コンベンション協会 https://yonezawa.info/log/?l=483825
  22. 第2節 米沢城下の主な町|文夫の窓 - note https://note.com/fumionomado/n/ncdc359bceba2
  23. 第5章 左沢の街並み - 大江町 https://www.town.oe.yamagata.jp/files/original/2021060709502340437e40663.pdf
  24. 伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44021/
  25. 独眼竜・伊達政宗を歩く 第2回〜仙台の街に残る都市伝説 - note https://note.com/rootsofjapan/n/ndf9a096f15df
  26. 仙台 政宗の夢 - ―城とまちづくりを探る https://www.city.sendai.jp/bunkazai-kanri/documents/pan46.pdf
  27. 政宗が育んだ“伊達”な文化|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story019/
  28. 仙台城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/sendaijo/