最終更新日 2025-09-29

近江国総検地(1591)

天正19年、豊臣秀吉は近江国総検地を断行。中世の土地制度を解体し、石高制と一地一作人の原則を確立。強固な財政基盤を築き、朝鮮出兵の準備を整え、近世社会の礎を築いた。
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天正十九年 近江国総検地 ―天下統一事業の総仕上げと近世への扉―

序章:問いの提示 ―なぜ近江国の検地が画期だったのか―

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命により実行された近江国総検地は、歴史上、単なる一地方における土地調査として記録されるべき事象ではない。それは、前年に達成された天下統一事業を実質的に完成させ、日本の社会構造を中世から近世へと不可逆的に移行させる、象徴的かつ決定的な一里塚であった。利用者が持つ「検地徹底で石高確定、年貢と支配を安定」という的確な理解は、この事業の核心を捉えている 1 。しかし、その簡潔な要約の背後には、数世紀にわたり複雑に絡み合った利権構造、天下人の壮大な国家構想、そして現場で繰り広げられた緻密な実務作業という、重層的な物語が存在する。

本報告書は、この天正19年の近江国総検地を、戦国時代という大きな文脈の中に正確に位置づけることを目的とする。なぜ秀吉は天下統一の直後、この近江国を最初の総仕上げの地として選んだのか。その背景にある複雑な歴史的経緯、検地発令から完了に至るまでのリアルタイムな動態、そしてこの事業が社会全体に及ぼした構造変革の深層を、あらゆる角度から徹底的に解き明かしていく。これは、中世の混沌が終わりを告げ、新たな秩序が生まれる瞬間の詳細な記録である。


第一部:前夜 ―検地へと至る道―

1591年に近江国で大規模な検地が断行された背景には、この地が持つ特異な歴史的・地理的・政治的条件があった。それは一朝一夕に生まれたものではなく、数世紀にわたる権力闘争と複雑な社会構造の積み重ねの結果であった。この必然性を理解することなくして、近江国総検地の真の意義を把握することはできない。

第一章:戦国争乱の坩堝、近江

1.1. 地政学的要衝としての近江:京の喉元と琵琶湖水運

近江国は、古くは「近つ淡海(ちかつあふみ)」、すなわち都に近い淡水の海(琵琶湖)を意味する名で呼ばれ、その名の通り、古代より日本の政治・経済の中心地である京に隣接する大国として極めて重要な位置を占めてきた 3 。国土の中央に横たわる日本最大の湖、琵琶湖は、北陸地方からの物資を大津へ、そして京へと運ぶ巨大な水上交通路、いわば「内なる海」として機能した。さらに陸路においても、東国と京を結ぶ東山道、北陸と京を結ぶ北国街道がこの地で交差し、人・モノ・情報が絶えず行き交う交通の結節点であった 3

「近江を制する者は天下を制す」という言葉が示すように、この地理的重要性は、近江を軍事上の最重要拠点たらしめた。京に攻め上るにも、京を防衛するにも、近江の確保は絶対条件であった。しかし、この重要性は裏を返せば、近江が常に権力者たちの争奪の的となり、絶え間ない争乱の舞台となる宿命を負っていたことを意味する。

1.2. 権力のモザイク:六角・浅井の興亡と織田信長の支配

室町時代、近江国は守護大名である佐々木氏が支配していたが、やがて一族は湖南の六角氏と江北の京極氏に分裂し、国内は恒常的な対立状態に陥った 5 。戦国時代に入ると、京極氏の家臣であった浅井氏が北近江で台頭し、主家を凌駕する勢力となる。浅井長政の代には、六角氏の内紛に乗じて勢力を拡大し、織田信長と同盟を結ぶことで、近江の大半を影響下に置いた 3

この状況を一変させたのが、織田信長の上洛である。当初は信長の同盟者であった浅井氏が、越前の朝倉氏との旧来の関係を重んじて信長に反旗を翻すと、近江は「元亀争乱」と呼ばれる激しい戦乱の舞台と化した 3 。信長は数年にわたる激闘の末、1573年に浅井・朝倉連合軍を滅ぼし、近江を武力で平定した。その後、琵琶湖の東岸に壮大な安土城を築城し、天下統一事業の拠点としたのである 3

しかし、信長の支配は、近江の旧来の社会構造を完全に刷新するものではなかった。信長は自身の支配体制を確立するため、在地領主の権益を部分的に温存し、既存の秩序を取り込む形で支配を構築した側面があった 9 。これにより、土地の所有関係や徴税権は依然として複雑なままであり、真の「一元支配」には至っていなかった。本能寺の変による信長の死は、この未完の改革を宙吊りにし、後の豊臣秀吉に大きな課題として残すことになった。

1.3. 「聖域」という名の支配者:比叡山延暦寺と巨大寺社領の実態

戦国時代の近江における支配構造の複雑さを象徴するのが、比叡山延暦寺をはじめとする巨大寺社勢力の存在である。信長による焼き討ち以前、延暦寺は単なる宗教権威に留まらず、近江国、ひいては日本全国に絶大な影響力を持つ一大政治・経済勢力であった。その権力基盤は、全国に点在する広大な荘園(寺領)からの収入にあった。さらに、当時の金融業であった「土倉(どそう)」の多くを支配下に置き、高利貸しとして莫大な富を蓄積した 10 。物流面では、琵琶湖に「湖上関」と呼ばれる関所をいくつも設け、通行する船から通行料を徴収するなど、交通の要衝を抑えることで利益を上げていた 4

近江国内には延暦寺以外にも、園城寺(三井寺)や日吉大社など、数多くの有力寺社が存在し、それぞれが広大な荘園を保有していた 8 。これらの寺社領は、世俗の権力者の支配が及びにくい「聖域」として、守護大名や戦国大名といえども容易に手出しができない存在であった。

このように、1591年以前の近江国は、単に戦国大名が領土を争うだけの場所ではなかった。そこには、①六角・浅井といった世俗の武家権力、②延暦寺に代表される古来の宗教権威、そして③都の公家や門跡が権利を持つ荘園という、性質の全く異なる複数の支配構造が、まるでモザイクのように複雑に重なり合っていた。一つの土地に対して、年貢を徴収する権利を持つ者、土地を所有する権利を持つ者、そして実際に土地を耕す者とがそれぞれ異なり、権利関係が幾重にも交錯する「多重支配構造」こそが、中世末期の近江国の実態であった。一人の戦国大名が他の大名を武力で打倒したとしても、それだけではこの地の真の支配者とはなり得ない。この根本的な問題の解決こそ、豊臣秀吉が「総検地」という抜本的な外科手術に踏み切らなければならなかった最大の理由なのである。


表1:近江国総検地 主要関連年表

年号(西暦)

主要な出来事(全国)

主要な出来事(近江国)

関連人物

元亀元年 (1570)

-

姉川の戦い。織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利。

織田信長、浅井長政

元亀二年 (1571)

-

織田信長による比叡山焼き討ち。

織田信長

天正元年 (1573)

織田信長、室町幕府を滅ぼす。

小谷城の戦い。浅井氏が滅亡。

織田信長、浅井長政

天正四年 (1576)

-

織田信長、安土城の築城を開始。

織田信長

天正十年 (1582)

本能寺の変、山崎の戦い。

-

織田信長、明智光秀、豊臣秀吉

天正十一年 (1583)

-

賤ヶ岳の戦い。秀吉が柴田勝家を破る。

豊臣秀吉、柴田勝家

天正十六年 (1588)

刀狩令発布。

-

豊臣秀吉

天正十八年 (1590)

小田原征伐、奥州仕置。秀吉が天下を統一。

-

豊臣秀吉、北条氏政

天正十九年 (1591)

身分統制令発布。

閏正月、近江国総検地が発令される。

豊臣秀吉、石田三成、増田長盛

文禄元年 (1592)

文禄の役(朝鮮出兵)開始。

-

豊臣秀吉

慶長三年 (1598)

豊臣秀吉死去。

近江国の総石高が77万5379石と記録される。

豊臣秀吉


第二章:天下人・秀吉の国家構想

2.1. 1590年、天下統一の完成と新たな課題

天正18年(1590年)、関東の雄・北条氏を小田原城に屈服させ、さらに東北地方の大名たちを従わせる奥州仕置を完了させたことで、豊臣秀吉は織田信長も成し得なかった日本全土の統一を名実ともに完成させた 12 。これにより、長きにわたった戦国乱世は終焉を迎え、秀吉は日本国の唯一絶対の支配者、すなわち「天下人」となった。

しかし、武力による征服の完了は、新たな統治の時代の始まりを意味した。秀吉の課題は、もはや敵対勢力を滅ぼすことではなく、服属させた全国の大名を統制し、日本全土を一つの国家として機能させる恒久的な支配体制をいかにして構築するか、という点に移行した。彼の構想は、日本全土を一つの巨大な経済圏・軍事圏と捉え、その頂点に立つ自身が意のままに動かすことができる、強力な中央集権国家の建設にあった。

2.2. 支配の物差し「太閤検地」:その理念と全国への展開

この壮大な国家構想を実現するための根幹をなす政策が「太閤検地」であった。太閤検地は、単に年貢収入を増やすための税務調査ではない。それは、中世以来の荘園制に代表される、複雑怪奇な土地所有関係を根本から破壊し、天下人による一元的な支配秩序を農村の末端にまで浸透させるための、国家改造プロジェクトであった 2 。秀吉は1582年の山崎の戦い直後から、征服した地域で次々と検地を実施しており、その手法と思想は近江総検地の時点ですでに確立されていた 16

その革新性は、以下の三点に集約される。

第一に、 全国統一基準の導入 である。秀吉は、土地を測る竿の長さ(1間 = 6尺3寸)、面積の単位(300歩 = 1反)、そして年貢米を計量する枡の容量(京枡)を全国で統一した 16 。これにより、それまで地域ごとに異なっていた曖昧な基準は一掃され、全国の土地を同一の「物差し」で正確に測り、比較することが可能となった。これは、現代における度量衡の統一に匹敵する画期的な事業であった。

第二に、 石高制への全面的転換 である。それまで、特に東国では土地の価値を貨幣価値(銭)で示す「貫高制」が用いられていたが、秀吉はこれを、土地の潜在的な米の生産量で示す「石高制」に切り替えた 2 。検地役人が土地の肥沃度などから等級(上・中・下・下々)を定め、面積と掛け合わせることで、その土地の生産力、すなわち「石高」を算出する。これにより、土地の生産性が初めて客観的な数値として可視化された。この石高は、農民が納める年貢の基準となるだけでなく、大名が持つ領地の規模、家臣に与えられる知行(給与)、そして負担すべき軍役の規模を決定する、社会全体の価値基準となった。

第三に、 一地一作人の原則 の確立である。中世の荘園制下では、一つの土地に荘園領主、地頭、名主、作人など、複数の権利者が重層的に存在し、誰が真の責任者か曖昧であった。秀吉はこれを完全に否定し、検地帳にその土地を実際に耕作している農民一人の名前を登録させ、その者を年貢納入の直接の責任者(名請人)とした 2 。これにより、中間搾取は排除され、領主と農民が直接結びつく、単純明快な支配関係が構築されたのである。

2.3. なぜ「近江」が最重要ターゲットだったのか

天下統一が完了した翌年の1591年というタイミングで、秀吉がこの太閤検地の総仕上げの場として近江国を選んだのには、明確な戦略的意図があった。

第一に、近江は畿内に隣接する最重要地域でありながら、第一章で述べたように、中世以来の荘園や寺社領といった複雑な権益が最も色濃く残存する地域であった 22 。この「中世の心臓部」ともいえる近江に検地のメスを入れ、旧来の秩序を一掃することは、秀吉の新たな支配体制が日本全土に及んだことを内外に誇示する、絶好の政治的デモンストレーションとなった。

第二に、より実利的な側面として、秀吉の次なる野望が関係していた。国内統一を成し遂げた秀吉の視線は、すでに海を越え、明(当時の中国)の征服へと向かっていた 19 。その前段階として計画されていたのが、大規模な朝鮮出兵である。この未曾有の対外戦争を遂行するためには、全国からどれだけの兵員を動員でき、どれだけの兵糧米を徴収できるのかを、一石単位で正確に把握する必要があった。石高制は、まさにそのための国家総動員システムであった。各大名の領地の石高を確定させることで、動員すべき軍役の規模(例えば「百石につき五人」といった基準)と、徴収すべき兵糧の量を算出できるのである。経済力と交通の要衝である近江は、この壮大な兵站計画において最重要拠点の一つであった。この地を完全に掌握し、その生産力を数値化することは、来るべき大戦の準備として絶対不可欠な作業だったのである 16

したがって、1591年の近江国総検地は、単なる国内統治の仕上げではなかった。それは、秀吉の次なる野望である対外戦争へと国家の全ての資源を動員するための、最初の号砲でもあったのだ。


第二部:執行 ―天正十九年のリアルタイム―

秀吉の号令一下、近江国総検地という巨大プロジェクトは、豊臣政権の行政能力の粋を集めて実行に移された。それは、周到な計画、専門知識を持つ官僚組織、そして現場での緻密な作業が一体となった、近世的な行政事業の幕開けであった。

第三章:号令一下、奉行たちの始動

3.1. 閏正月十三日、検地令発令

天正19年(1591年)閏正月13日、豊臣秀吉は近江一国を対象とする総検地の実施を正式に命令した 23 。この時期は、前年の奥州仕置によって国内の軍事行動が一段落し、秀吉が内政の総仕上げに集中できる絶好のタイミングであった。発令された命令は、大坂城の政権中枢から、検地の実務を担う奉行たちへと迅速に伝えられた。

3.2. 豊臣政権の頭脳:実務を担った奉行衆

この国家的大事業の実行部隊として任命されたのは、戦場で武功を立てた猛将たちではなく、算術や法実務に長けた、いわばテクノクラート(吏僚)集団であった。彼らこそ、豊臣政権の強大な権力を支える「頭脳」であり、その実務能力なくして検地の成功はあり得なかった。


表2:近江国総検地 担当奉行一覧

奉行名

官職・通称

主な経歴と専門分野

近江検地における推定される役割

増田 長盛 (ました ながもり)

右衛門尉

秀吉の古参の臣。各地の検地奉行を歴任し、実務経験が豊富。当時、近江水口城主であった 24

奉行団の筆頭格として、検地の全体指揮および甲賀郡など地元での実務を担当。

長束 正家 (なつか まさいえ)

大蔵大輔

卓越した算術能力で知られ、豊臣家の財政を一手に担う蔵入地の代官。財政の専門家 23

石高の算出、検地帳の集計・監査など、検地の根幹である数値管理全般を統括。

小野木 重次 (おのぎ しげつぐ)

縫殿助

-

現場における検地実務の指揮・監督。

早川 長政 (はやかわ ながまさ)

主水正

-

現場における検地実務の指揮・監督。

牧村 利貞 (まきむら としさだ)

長兵衛

-

現場における検地実務の指揮・監督。

宮木 豊盛 (みやぎ とよもり)

長次郎

-

現場における検地実務の指揮・監督。

糟屋 武則 (かすや たけのり)

内膳正

賤ヶ岳の七本槍の一人だが、行政手腕も評価されていた。

武功派としての権威を背景に、在地勢力との交渉や抵抗の抑止を担当した可能性。

出典: 23 および各人物の経歴に関する資料 23 を基に作成。


3.3. 総監督としての石田三成

この奉行団の上に立ち、近江国総検地全体を実質的に監督していたのが、五奉行の一人、石田三成であった。三成自身が近江国坂田郡石田村の出身であり、この地の地理や人間関係、利権構造に誰よりも精通していたことは、彼がこの役を担う上で大きな強みとなった 27

三成は、特定の郡を担当する一奉行という立場に留まらず、太閤検地という政策全体のフォーマットを設計し、その公正かつ厳密な実施を担保する役割を担っていた。例えば、他の地域の検地において、彼は検地奉行に対し「七ヶ条の誓い」といった詳細な服務規程を定めさせ、役人の不正や農民への横暴を厳しく戒めている 28 。検地尺の目盛りに自身の花押を記してその正確性を保証するなど、細部にまで彼の監督は及んだ 29 。近江国総検地においても、三成が奉行団を統括し、秀吉の意向を現場に徹底させる総責任者として、その辣腕を振るったことは想像に難くない 30

第四章:竿入れの現場から

4.1. 村への通達と準備

検地令を受け、増田長盛や長束正家らの奉行は、配下の手代(下級役人)や案内人を引き連れて担当する郡へと入った。彼らがまず行ったのは、村の代表者である長百姓(おとなびゃくしょう)や惣代を呼び出し、検地実施の目的と手順を公式に通達することであった。

村々では、この通達は大きな衝撃をもって受け止められた。長年にわたり申告を免れてきた隠田(おんでん)が露見することへの恐怖、年貢が増加することへの不安が渦巻く一方で、これを機に自らの耕作権が天下人によって公的に認められるという期待もあった。村内では、検地役人をどのように迎え、どのように対応するか、利害が対立する者たちの間で激しい議論が交わされたであろう。史料には、検地役人への賄賂を禁じ、村全体で公正な検地に臨むことを誓い合った起請文も残されており、村人たちがこの検地をいかに重大事と捉えていたかがうかがえる 32

4.2. 検地の実務プロセス

準備が整うと、いよいよ検地役人が村に入り、実際の測量作業、すなわち「竿入れ」が開始された。そのプロセスは、極めて体系的かつ緻密なものであった。

  1. 一筆ごとの測量: 役人たちは、村内の田、畑、屋敷地の一区画(一筆)ごとに、長さ6尺3寸(約1.91メートル)に統一された検地竿を用いて、縦横の長さを実測し、正確な面積(歩数)を算出した 16
  2. 等級の決定(石盛): 次に、土地の質を評価する作業が行われた。土地の肥沃度、水利の便、日当たり、水害や干ばつのリスクなどを総合的に勘案し、その土地を「上田」「中田」「下田」「下々田」といった四段階の等級に格付けした 16 。この等級に応じて、一反あたりの標準収穫量である「石盛(こくもり)」が決定された。例えば、上田であれば一反あたり1石5斗、中田であれば1石3斗といった具合である 17
  3. 名請人の確定: 最後に、その土地を実際に耕作している農民(作人)の名前を特定し、検地帳に記載した。この記載された農民が、その土地の年貢納入責任者、すなわち「名請人(なうけにん)」として公式に確定された 33

この一連の作業を一筆ごとに行い、村全体の土地を網羅したものが「検地帳」として一冊にまとめられた。

4.3. 抵抗と受容:在地領主・寺社・農民たちの反応

この徹底した検地は、旧来の支配者層にとっては自らの権益を根こそぎ奪われるに等しい行為であった。地域の土豪や長百姓が持っていた中間搾取の権利(作合)は否定され、寺社が長年非課税特権を享受してきた荘園も例外なく竿入れの対象となった 14

そのため、現場では様々な形での抵抗や妨害が行われたと推測される。役人を欺こうとする隠田の画策、意図的な非協力、あるいは小規模な実力行使もあったかもしれない。豊臣政権が検地役人に対して、農民からの贈答や賄賂の受け取り、乱暴狼藉を厳しく禁じる掟を繰り返し発していること自体が、現場にそうした不正や抵抗を生む土壌があったことを物語っている 29 。しかし、天下人・秀吉の絶対的な権力を背景にした検地に対して、近江国で大規模な「検地反対一揆」が起こったという記録は顕著ではない。多くの在地勢力や農民は、抵抗の無益さを悟り、新たな支配体制を受け入れざるを得なかったのである。

4.4. 「御前帳」へ:膨大なデータの集計

村ごとに作成された膨大な検地帳は、郡の奉行所に集められ、集計作業が行われた。各村の石高(村高)が算出され、それらを合算することで郡全体の石高(郡高)が確定する。最終的に、これらのデータは国単位で一冊の台帳にまとめられ、秀吉の朱印が押されて公式な記録となる「御前帳(ごぜんちょう)」が作成された 35

同時に、秀吉は各大名に対し、検地の結果を反映した国の地図「国絵図」の作成と提出も命じている 35 。こうして、近江国の隅々に至るまでの土地と人民に関する詳細なデータが、数値(御前帳)と地図(国絵図)という形で、大坂城の豊臣政権中枢へと一元的に集約されていった。

このプロセスは、単なる物理的な測量事業に留まるものではなかった。それまで各荘園領主、寺社、土豪が個別に、しかも不正確な自己申告ベースでバラバラに保持していた土地情報を、豊臣政権という単一の主体が、統一されたフォーマットを用いて実測ベースで収集・独占するプロセスであった。これにより秀吉は、日本全土の土地と人民に関する、最も正確かつ網羅的なデータベースを史上初めて手中に収めたのである。これは、武力による支配から、情報を基盤としたより高度な支配への質的転換を示すものであり、まさしく戦国時代の「情報革命」であった。


第三部:新秩序 ―検地がもたらしたもの―

近江国総検地の完了は、この地の社会経済構造に根本的な、そして後戻りのできない変革をもたらした。それは、数世紀にわたって続いた中世的秩序の終焉であり、江戸時代へと続く近世社会の枠組みが形成された瞬間でもあった。

第五章:数字が語る支配の実態

5.1. 「近江国七十七万五千三百七十九石」の確定

検地によってもたらされた最も具体的かつ重要な成果は、近江国の総生産力が「77万5379石」という客観的な数値として確定されたことである。この数字は、慶長3年(1598年)に作成された全国石高目録に記載されており、天正19年の総検地によって豊臣政権が把握した近江国の国力そのものを表している 3 。もはや、曖昧な自己申告や慣習に基づくのではなく、この石高が近江国における全ての経済活動と軍事力の基準となった。

さらに注目すべきは、この総石高のうち、約23万石、すなわち全体の約3割が豊臣家の直轄領(蔵入地)として確保されていたことである 3 。これは、秀吉が近江国の最も豊かで重要な地域を直接支配下に置いたことを意味し、豊臣政権の強固な財政基盤を形成する上で決定的な役割を果たした。

5.2. 貫高制から石高制へ:経済基盤の転換

近江国総検地は、この地における価値基準を、銭を基準とする「貫高制」から、米の生産量を基準とする「石高制」へと完全に移行させた 36 。これは単なる単位の変更ではない。貨幣の流通量や相場によって価値が変動する不安定な経済システムから、国家の基盤である農業生産力、すなわち「米」という物量を絶対的な基準とする、安定的で強固な経済システムへの転換であった 20

この石高制の確立により、社会のあらゆる序列が「石」という単一の物差しで測られるようになった。大名の格式と動員すべき軍役数はその領地の総石高によって決まり、家臣である武士の給与も「知行〇〇石」という形で与えられた。そして、農民が納める年貢も、自らが耕す土地の石高に基づいて算出された。石高制は、戦国乱世の多様で流動的な価値観を統一し、近世封建社会の隅々にまで浸透する新たな秩序の背骨となったのである。

第六章:中世の終焉、近世の萌芽

6.1. 荘園制の完全なる解体と寺社勢力の変質

「一地一作人」の原則が徹底された結果、平安時代から800年近くにわたって日本の土地制度の根幹であった荘園制は、ここ近江国においても完全に息の根を止められた 2 。一つの土地に複数の権利者が存在する重層的な支配構造は解体され、全ての土地は、検地帳に記載された一人の耕作者(名請人)と、その土地の領主(大名や旗本)という、一対一の直接的な関係に再編された 39

この変革は、土地所有の概念そのものを覆すものであった。名目上、日本全土の土地の究極的な所有権は天下人である秀吉に帰属することになった。大名や寺社は、もはや土地の私的所有者ではなく、秀吉からその土地の支配(知行)を一時的に預けられ、管理することを認められた「地方長官」のような存在へと位置づけが変わったのである 15 。これにより、大名を別の領地へ移す「国替え(領地替え)」も、土地そのものではなく石高という「価値」の移転として、はるかに容易に行えるようになった 19

かつて広大な荘園を持ち、独立した領主として振る舞っていた比叡山延暦寺などの寺社勢力も、この変革と無縁ではいられなかった。彼らは検地の結果に基づき、秀吉から朱印状によって一定の寺領(石高)の保持を認められることで存続を許された 9 。しかし、それはもはや不可侵の「聖域」ではなく、豊臣政権の支配体制に組み込まれた一つの宗教法人としての安堵に過ぎなかった。

6.2. 「一地一作人」の原則:村と農民の変容

検地は、社会の最末端である村と農民のあり方にも決定的な影響を与えた。検地帳に名請人として登録された農民は、自らが耕す土地の耕作権を、天下人の権威によって公的に保障されることになった 34 。それまで地主や荘園領主の意向に左右される不安定な立場にあった小農民にとって、これは生活の安定に繋がる大きな利点であった。近世を通じて日本の農村社会の主役となる、自立した小農経営の基礎は、ここに築かれたのである。

しかし、この「権利の保障」には、重い「義務と束縛」が伴っていた。農民は検地帳に登録された土地に固く縛り付けられ、領主の許可なく土地を離れたり、商人や職人になるなど職業を変えたりする自由を失った 14 。これは、秀吉が検地と並行して発令した「刀狩令」(1588年)や「身分統制令」(1591年)と一体となった政策であり、武器を持つ武士と、土地を耕す農民とを明確に分離する「兵農分離」を完成させるものであった 1 。農民は、豊作・凶作にかかわらず石高に基づいた年貢を納める義務を負わされ、安定した税収を国家にもたらす存在として、社会システムの中に固定化された。それは、ある意味で「おとなしく年貢米を納める道具」 41 となることであったが、同時に、近世を通じて続く「家」と「土地」を基盤とする、安定した村落社会の原型がここに形成されたこともまた事実であった。


表3:土地支配制度の変革(太閤検地以前と以後)

比較項目

中世的支配(検地以前)

近世的支配(検地以後)

変革の意義

土地所有の概念

荘園制。一つの土地に複数の権利者(本家、領家、地頭、名主等)が存在する重層的所有(職の体系)。

天下人による一元的支配。土地の究極的所有権は秀吉にあり、大名は知行として預かる存在。

土地の私有から公有(擬制)への転換。中央集権体制の確立 15

支配の構造

領主と農民の間に地侍や名主などの中間層が介在し、支配関係が複雑。

一地一作人の原則。領主(大名)と耕作農民(名請人)が直接結びつく一元的な支配関係 39

中間搾取の排除と、領主による農民の直接把握。支配の効率化と徹底 14

価値基準

貫高制。土地の価値を貨幣(銭)で表示。基準が不統一で、相場により変動。

石高制。土地の価値を米の標準生産量で表示。全国統一基準で安定的 20

経済基盤を物量(米)に統一。大名の序列、軍役、知行など社会全体の価値基準となる。

農民の地位

不安定な小作人が多数。土地からの移動や身分変更が比較的自由。兵農未分離。

検地帳登録により耕作権が保障される一方、土地に束縛され移動・転職の自由を失う。兵農分離の徹底 2

自立的(かつ固定的)な小農民層の創出。安定した納税者の確保。

徴税システム

指出検地(自己申告制)が主。隠田が多く、徴税は不正確かつ非効率。

竿入れによる実測検地。村単位で年貢を納める村請制へ移行。正確かつ効率的な徴税が可能に 2

国家財政基盤の確立。年貢徴収の安定化と最大化。


6.3. 磐石な財政基盤と次なる段階へ

近江国総検地をはじめとする全国規模の検地によって確立された石高制は、豊臣政権に、それ以前の為政者とは比較にならないほど巨大かつ安定した財政収入をもたらした。全国の生産力を正確に把握し、そこから確実に年貢を徴収するシステムは、秀吉がその権力を維持し、さらには壮大なプロジェクトを実行するための経済的基盤となった。

そして、この磐石な経済的・軍事的基盤の上に、秀吉は次なる野望、すなわち朝鮮出兵へと突き進んでいく。近江国総検地は、そのための最後の、そして最も重要な国内準備であった。中世の残滓を清算し、国中の資源を天下人の下に一元化するこの事業なくして、数十万の軍勢を海の外へ送るという空前絶後の国家事業はあり得なかったであろう。

終章:歴史的意義の再確認

天正19年(1591年)の近江国総検地は、単に一地域の行政措置として語られるべきではない。それは、100年以上にわたって続いた戦国乱世という「混沌」から、その後250年以上続く江戸幕藩体制という「秩序」を生み出すための、決定的かつ象徴的な事業であった。

この検地は、中世社会を特徴づけていた荘園制という多元的な権力構造を、天下人による一元的な支配構造へと暴力的に再編する、一種の社会革命であった。土地を測る一本の竿と、米を計る一つの枡が、古い時代の複雑な権利関係を断ち切り、全ての土地と人民を石高という新たな物差しの上に整然と並べ替えたのである。この事業によって引かれた線こそが、その後の日本の社会構造の基礎を決定づけた。近江国総検地は、まさに中世が終わり、近世が始まる、その境界線上にそびえ立つ巨大な記念碑なのである。

引用文献

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